1900年〜 技術型ベンチャーから全国最大手への成長と拠点網整備
TOPPAN(凸版印刷)の業績推移:単体
- 1900年 凸版印刷を設立
- 1908年 株式会社に改組
- 1927年 大阪分工場を新設
- 1944年 精版印刷を合併
- 1949年 東京証券取引所に株式上場
- 1961年 事業部制を導入
- 1965年 Moore社との合弁でトッパン・ムーア・ビジネスフォームを設立
エルヘート凸版法の輸入と有価証券印刷での創業
1900年1月、凸版印刷合資会社は東京市下谷区二長町で設立された。創業を主導したのは内閣印刷局の出身者たちで、彫刻を主体とする高級凸版印刷術を応用し、偽造変造を防ぎうる株券・社債券などの有価証券を製造することを設立の目的に据えた。最大の特徴は、当時ヨーロッパで最先端だった製版技術「エルヘート凸版法」を輸入した点にある。網点を使って写真や絵画を印刷するこの技術は、活版・石版では届かなかった高精細表現を商業印刷へ持ち込み、有価証券・紙幣類の偽造防止印刷で早くから官公庁・金融機関の信頼を得た。当時は民間で有価証券専門の工場を成り立たせるのが難しく、煙草包装紙やポスター、ラベルなど一般印刷も併せ営んでいる。 [1][2][3][4]
- 有価証券報告書
- [1]1900年1月 凸版印刷合資会社を東京市下谷区二長町で設立
- [3]創業時に欧州の製版技術エルヘート凸版法を導入した技術型ベンチャー
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社・1955年)
- [2]内閣印刷局出身者が相寄り、偽造変造を防ぎうる有価証券製造を設立目的とした(社史)
- [4]当初は煙草包装紙・ポスター・ラベル等の一般印刷も併営(社史)
有価証券の需要が広がるにつれ、株券・社債券に加えて勧業債券や政府発行の各種債券の受注が増え、設備と技術はともに進歩した。国内で流通する紙幣を民間会社として最初に印刷したのも同社である。事業基盤の広がりを受けて、1908年6月には資本金40万円の株式会社へ改組し、高精細な製版技術を核とする事業体としての性格を固めた。内閣印刷局の技術者が創業時に持ち込んだ偽造防止印刷の蓄積は、参入障壁の高い有価証券分野で同社を早くから押し上げ、官公庁と民間金融の双方を取り込む足場を築いた。彫刻を主体とする凸版印刷術は当時の民間ではほかに代えがたく、株券や紙幣といった信用を支える印刷で独自の位置を占めた。 [5][6][7]
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社・1955年)
- [5]有価証券需要の拡大(勧業債券・政府債券等)で設備・技術が進歩(社史)
- [6]国内で流通する紙幣を民間会社として最初に印刷(社史)
- 有価証券報告書
- [7]1908年6月 資本金40万円の株式会社へ改組
2022年に就任した麿秀晴社長は、同社を120年以上前に欧州の最先端製版技術を導入して出発した技術型ベンチャーと位置づけ、自社の出自を要約している。創業初期に固めた、自前で長く育てるより海外から最新技術を取り込んで素早く市場を押さえるという流儀は、後のエレクトロニクス進出へとつながった。高精細な製版技術の蓄積は、70年以上のちの半導体フォトマスク事業やディスプレイ関連事業を支える足場となる。印刷会社でありながら精密加工へ踏み出せた背景には、明治末期に積み上げた網点制御と版面精度のノウハウがある。 [8][9]
- 有価証券報告書
- [8]麿秀晴は2022年6月に社長就任
- [9]後の半導体フォトマスク・ディスプレイ事業へ連なる技術型ベンチャーの出自(麿社長の要約と整合)
- 有価証券報告書
- [1]1900年1月 凸版印刷合資会社を東京市下谷区二長町で設立
- [3]創業時に欧州の製版技術エルヘート凸版法を導入した技術型ベンチャー
- [7]1908年6月 資本金40万円の株式会社へ改組
- [8]麿秀晴は2022年6月に社長就任
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社・1955年)
- [2]内閣印刷局出身者が相寄り、偽造変造を防ぎうる有価証券製造を設立目的とした(社史)
- [4]当初は煙草包装紙・ポスター・ラベル等の一般印刷も併営(社史)
- [5]有価証券需要の拡大(勧業債券・政府債券等)で設備・技術が進歩(社史)
- [6]国内で流通する紙幣を民間会社として最初に印刷(社史)
- [9]後の半導体フォトマスク・ディスプレイ事業へ連なる技術型ベンチャーの出自(麿社長の要約と整合)
合併による工場網拡大・戦災復興と化学印刷への多角化
創業後の同社は、合併と工場新設を重ねて生産網を広げた。1908年10月に内外印刷を合併して本所工場とし、1918年2月にはオフセット印刷を買収、1926年4月には東京紙器を合併して小石川工場とし、紙製容器の製造を事業に加えた。1927年1月の大阪分工場(後の大淀工場)、1938年5月の板橋工場、1943年5月の富士工場と拠点を増やし、1944年7月には精版印刷を合併して大阪支社工場とするとともに、資本金を2,250万円へ増額した。戦時下の業界再編のなかで関西の主要印刷会社を取り込み、東京の偽造防止印刷と関西の出版系印刷という性格の異なる二つの基盤を早期に併せ持った点が、戦後の多角化の素地となる。 [10][11][12]
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社・1955年)
- [10]1908年10月 内外印刷を合併し本所工場、1918年2月 オフセット印刷買収、1926年4月 東京紙器を合併し小石川工場(紙製容器)(社史)
- [12]1938年5月 板橋工場・1943年5月 富士工場を新設(社史)
- 有価証券報告書
- [11]1927年1月 大阪分工場を新設(後の大淀工場)
1945年、二度にわたる空襲で本社・本社工場および本所・大淀・小石川の各工場を焼失したが、同年7月には熊本県に九州工場を新設して生産を継いだ。戦後は復旧が順次進み、1946年8月に大淀、1948年4月に本社の両工場を再建し、1949年には仙台工場を開設、1951年6月に本所工場を復旧した。1953年3月には地理的な事情から富士工場を閉鎖し、八工場体制へと整理した。資本調達の面でも再出発が進み、1949年5月に東京証券取引所へ株式を上場した。焼失と復興を短い期間で繰り返しながら、戦前に広げた拠点網をほぼ取り戻した時期である。 [13][14][15][16]
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社・1955年)
- [13]1945年 空襲で本社・本所・大淀・小石川の各工場を焼失、同年7月 熊本に九州工場を新設(社史)
- [14]戦後復旧(1946年8月大淀・1948年4月本社・1949年仙台・1951年6月本所)(社史)
- [15]1953年3月 富士工場を閉鎖し八工場体制(社史)
- 有価証券報告書
- [16]1949年5月 東京証券取引所に株式上場
戦後の同社は、海外技術の導入と自社研究を組み合わせて新しい印刷分野を相次いで開いた。ビニール印刷は1949年に印刷加工を始め、1951年には独自考案の三色印刷機を備え、1952年にはポリエチレン印刷・アニリン印刷・チューブ成型印刷の操業に入った。証券印刷では偽造防止のM・C・F機と製版法の工夫を組み合わせ、繊細で鮮明な印刷の迅速化を進めている。紙器製造も戦後に活発化し、日本専売公社の巻煙草用外函や化粧品・薬品・食料品の包装用紙函へ力を注いだ。総合印刷企業としての設備拡充と新分野の開拓が実を結び、1955年5月期には営業収入21億円を計上し、資本金も1954年12月に3億円へ達している。 [17][18][19][20]
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社・1955年)
- [17]ビニール印刷1949年加工開始、三色印刷機1951年、ポリエチレン・アニリン・チューブ成型印刷1952年操業(社史)
- [18]証券印刷で偽造防止のM・C・F機を使用(社史)
- [19]紙器製造で専売公社の巻煙草用外函・化粧品/薬品/食料品包装に注力(社史)
- [20]1955年5月期 営業収入21億円、資本金1954年12月 3億円(社史)
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社・1955年)
- [10]1908年10月 内外印刷を合併し本所工場、1918年2月 オフセット印刷買収、1926年4月 東京紙器を合併し小石川工場(紙製容器)(社史)
- [12]1938年5月 板橋工場・1943年5月 富士工場を新設(社史)
- [13]1945年 空襲で本社・本所・大淀・小石川の各工場を焼失、同年7月 熊本に九州工場を新設(社史)
- [14]戦後復旧(1946年8月大淀・1948年4月本社・1949年仙台・1951年6月本所)(社史)
- [15]1953年3月 富士工場を閉鎖し八工場体制(社史)
- [17]ビニール印刷1949年加工開始、三色印刷機1951年、ポリエチレン・アニリン・チューブ成型印刷1952年操業(社史)
- [18]証券印刷で偽造防止のM・C・F機を使用(社史)
- [19]紙器製造で専売公社の巻煙草用外函・化粧品/薬品/食料品包装に注力(社史)
- [20]1955年5月期 営業収入21億円、資本金1954年12月 3億円(社史)
- 有価証券報告書
- [11]1927年1月 大阪分工場を新設(後の大淀工場)
- [16]1949年5月 東京証券取引所に株式上場
事業部制への移行と海外提携・精密印刷への飛躍
高度成長期に入ると、同社は組織と拠点の両面で全国体制を整えた。1961年12月に事業部制を導入し、本社・板橋・下谷・小石川・関西・西日本の各事業部が発足した。拠点の再配置も進み、1962年8月に朝霞工場を開設して本社工場を移し、1964年8月には伊丹工場を開いて大淀工場を移転、1968年5月には旧本社ビル「トッパンビルディング」が竣工した。1971年12月には愛知特殊印刷と興文舎印刷を合併して名古屋・札幌の体制も整えている。1968年10月の時点で資本金は60億円、全国に六事業所・九工場・十二営業所を構える規模へ広がり、出版・商業・包装を扱う総合印刷企業の姿が固まった。 [21][22][23][24]
- 有価証券報告書
- [21]1961年12月 事業部制を導入(本社・板橋・下谷・小石川・関西・西日本)
- [23]1971年12月 愛知特殊印刷・興文舎印刷を合併(名古屋・札幌体制)
- 企業の歴史 明治百年(経済春秋社・1968年)
- [22]1962年8月 朝霞工場開設・本社工場移転、1964年8月 伊丹工場開設・大淀工場移転、1968年5月 トッパンビルディング竣工(社史)
- [24]1968年10月時点 資本金60億円・六事業所・九工場・十二営業所(社史)
海外への展開も1960年代に始まった。1963年5月に香港で合弁会社を設立し、1964年6月にはニューヨークへ駐在員事務所を開いたほか、米国のミルプリント、英国のレトラセット、米国のトランスワールド・ディスプレイと技術提携を結んでいる。そして1965年5月、カナダのMoore社との合弁でトッパン・ムーア・ビジネスフォーム株式会社を設立した(1971年にトッパン・ムーアと改称)。これは印刷請負から、企業の情報処理に使うビジネスフォームという成長市場への参入であり、コンピュータ普及期の帳票需要を取り込んで、長く凸版グループの情報系事業の中核を担う存在となる。海外の相手と組んで成長市場へ入るやり方は、1900年のエルヘート凸版法導入と同じ型の判断で、技術輸入型ベンチャーの遺伝子が戦後にも引き継がれている。 [25][26][27]
- 企業の歴史 明治百年(経済春秋社・1968年)
- [25]1963年5月 香港で合弁会社設立、1964年6月 ニューヨーク駐在員事務所開設(社史)
- [26]ミルプリント(米)・レトラセット(英)・トランスワールド・ディスプレイ(米)と技術提携(社史)
- 有価証券報告書
- [27]1965年5月 カナダMoore社との合弁でトッパン・ムーア・ビジネスフォームを設立(1971年トッパン・ムーアへ改称)
1973年12月、朝霞精密工場を新設し、フォトマスクとシャドウマスクの生産を始めた。フォトマスクは半導体製造で回路パターンを転写する原版、シャドウマスクはカラーCRT(ブラウン管)の色純度を保つ金属板である。紙ではなくガラスや金属へ網点の精度で像を載せるこの事業は、印刷業の枠を越えた精密加工への進出であり、後のエレクトロニクス事業の出発点となった。高精細な製版技術が半導体・ディスプレイ産業の要求と重なり、印刷技術の応用範囲が一段広がった時期である。創業時から連なる技術型ベンチャーの発想がここで再び前面に現れ、後年の液晶カラーフィルタや半導体フォトマスクへ直結した。 [28]
- 有価証券報告書
- [28]1973年12月 朝霞精密工場を新設しフォトマスク・シャドウマスク生産を開始
- 有価証券報告書
- [21]1961年12月 事業部制を導入(本社・板橋・下谷・小石川・関西・西日本)
- [23]1971年12月 愛知特殊印刷・興文舎印刷を合併(名古屋・札幌体制)
- [27]1965年5月 カナダMoore社との合弁でトッパン・ムーア・ビジネスフォームを設立(1971年トッパン・ムーアへ改称)
- [28]1973年12月 朝霞精密工場を新設しフォトマスク・シャドウマスク生産を開始
- 企業の歴史 明治百年(経済春秋社・1968年)
- [22]1962年8月 朝霞工場開設・本社工場移転、1964年8月 伊丹工場開設・大淀工場移転、1968年5月 トッパンビルディング竣工(社史)
- [24]1968年10月時点 資本金60億円・六事業所・九工場・十二営業所(社史)
- [25]1963年5月 香港で合弁会社設立、1964年6月 ニューヨーク駐在員事務所開設(社史)
- [26]ミルプリント(米)・レトラセット(英)・トランスワールド・ディスプレイ(米)と技術提携(社史)