明治33年(1900年)に凸版印刷合資会社を東京都台東区(下谷)にて設立。当時の最先端技術であったエルヘート凸版法による印刷を実現することを目的とし、大蔵省印刷局に勤務していた技術者が中心となって会社を設立した。会社設立時点で合資会社とし、資本金4万円で共同出資による形態を選択した。
工場用地として東京市下谷区(東京都台東区1-5)を選定。印刷物のニーズが大きい東京都心部で工場を新設した。なお、2024年時点でも創業の地は「持株会社の傘下であるTOPPAN(株)本社」として活用されている。
戦前における印刷業界では、凸版印刷・大日本印刷・共同印刷の3社が業界大手として認知された。いずれも東京都内に印刷工場を擁して事業を展開した。
創業年 | 会社名 | 主な工場 |
1876年 | 大日本印刷 | 市谷工場(東京都新宿区) |
1897年 | 共同印刷 | 本社工場(東京都文京区小石川) |
1900年 | 凸版印刷 | 本社工場(東京都台東区台東) |
1923年9月の関東大震災により本社工場を被災。生産開始のために、提携会社であった東京紙器(小石川)の生産設備を借り受けた。
その後、東京紙器の小石川の印刷工場において火災が発生。同社の経営者が経営に対する意欲を失ったことを受けて、1926年に凸版印刷は東京紙器の吸収合併を実施。同社の工場を取得し、凸版印刷小石川工場として発足した。
戦前の日本国内において、印刷業は労働集約かつ男性が勤務する職場であり、化学薬品や重量物を扱う過酷な労働環境であったことから、労働者が労働組合を通じて影響力を持った。印刷会社は都市圏に工場を擁しこたことや、過当競争により中小の印刷会社は淘汰されて従業員が職を失うことも多かった。この結果として先鋭化した思想の影響を受け、組合員がテロ行為など過激な活動に走りやすい性質もあったという。
印刷業界においては、共同印刷における労働争議がエポックとなった。戦前の1926年に、当時従業員約2,300名を抱える共同印刷が、約1700名のリストラを決定したところ、本社工場のある東京小石川において大規模な労働争議が発生。深刻な労働問題(共同印刷争議)に発展し、印刷業における労働問題を象徴する社会的な事例となった。この争議をモデルにした「太陽のない街」といったプロレタリア文学も誕生した。
印刷業界における労働争議がピークを迎えたのが、1945年の終戦直後であった。左傾化した労働組合の活動が先鋭化し、印刷業界は再び労働問題に直面した。当時、日本国内では印刷会社の大手3社であった大日本印刷・凸版印刷・共同印刷の各社は、破壊活動を厭わない先鋭化した労働組合に対処する必要が生じた。
1948年に凸版印刷の社長として山田三郎太氏が就任。凸版印刷でも1945年12月から各工場(板橋工場・小石川工場・富士工場など)で労働組合が結成され、1948年には労働争議が先鋭化する直前に状態であったという。
山田氏は東京大学法学部を卒業して、凸版印刷に新卒入社した人物であり、学生時代から労働争議(ストライキ)に関して興味を持つ人物であった。このため、労働争議に対処するために、山田氏が社長に就任した。
山田三郎太氏は社長就任後、左傾的な労働組合に対して迎合しない方針で経営。先鋭化した人物については名指しで工場への立ち入りを禁止し、1950年10月に板橋工場では18名、小石川工場では32名を解雇対象者とした。暴動を阻止するために、禁止対象者の発表と同時に、工場の入り口に武装警官・特別警備員などを配置し、暴動の発生を抑止した。
この結果、凸版印刷は1950年10月まで先鋭化した組合員の解雇(レッドパージ)を完了。工場の稼働を正常化した。
私は大学時代から労働争議に興味があった。ここににゅしゃしたというのも、その同期の有力な一つはそれです。昔の印刷労働組合というのは、もちろん法的なものでもなかったし、どちらかといえばアナーキズム的なテロ的な労働運動が多かったのです。例えば昭和の初めの濱口内閣の緊縮財政時代には、世をあげてデフレとなり、放漫企業では倒産が続出したものです。印刷業界でも倒産、閉鎖が続出して、その仕事を代わって引き受けると、そこの労働組合がこちらを襲撃しに来たものです。しかしたそうした半面、今のような政治闘争的なものはなく、首切り反対の純然たる経済闘争一本ヤリでしたね。(略)
私は第二次世界大戦の勃発の時に考えたんですよ。勝てば・・・軍人の全盛時代、負ければ・・・共産党的な行き方にやなまされる・・・だろうと。いずれにしても右か左の悩みは必至と見たのですが、結果は負けて、左の悩みとして現れてきたわけですよ。戦後の経営者は労働対策には真剣ですよ。私の考え方は、あまりに左傾的なものは労働組合の中から排除していかねばならないと思っています。
ハムソーセージ向けの包装をめぐって、1963年に大日本印刷と凸版印刷が特許に関して係争。大日本印刷は米ティーパック社、凸版印刷は米ミルプリント社から食品包装に関する技術を導入しており、日本国内における特許の有効性が問われた。
液晶向け材料であるカラーフィルタを増産するため、2004年に三重工場を新設。取引先であるシャープの亀山工場に納入するために、凸版印刷はシャープの生産拠点に隣接する形で工場を新設した
2007年に凸版印刷は、図書印刷(東証上場)の連結子会社化を決定。図書印刷の第三者割当増資を引き受け、株式の追加取得によって51%を保有した。追加分の株式取得価額は、約40億円であった。
2019年に凸版印刷は子会社の図書印刷について、完全子会社化を決定。株式約49%の追加取得を実施し、株式100%を保有することで図書印刷を完全子会社化した。株式の取得原価は296億円。
シンガポールの大手印刷会社(書籍・雑誌・パッケージ・有価証券の印刷に従事)であるSNP社を買収。SNPはグローバルに販路(顧客)を抱えており、凸版印刷としてはグローバル展開を加速させるために買収を決定。買収価格は約170億円
軟包装材のマザー工場として群馬センター工場を新設
エレクトロニクス事業において、FC-BGA基板(高密度半導体パッケージ基板)の増産投資を決定。2014年に新潟工場において量産投資を実施し、2022年までにライン増設などで増産対応を実施
中型液晶パネルメーカーのGiantplusを買収
グローバル展開のために、2010年代を通じて海外企業の買収を積極化。軟包装における垂直統合(レジン〜フィルム製造〜印刷〜パッケージ加工まで)を軸として、現地企業を買収
子会社のトッパンフォームズ(上場企業)について、完全子会社化を決定。株式約40%を追加取得することで、トッパン・フォームズを完全子会社化し、同社は上場を廃止した。買収価格(取得原価)は675億円。
資産効率(PBER1倍割れ)の改善のため、株主還元の強化を発表。還元の施策としては、自社株買いと政策保有株式の売却を決定した。
自社株買いの買付規模は最大400億円。また、政策保有株式では売却益を株主に還元する方針を打ち出した。これらの資産効率の改善により、3年間で1400億円の株主還元の実施を予定。
事業ポートフォリオが複雑化したことを受けて、2021年11月に持株会社への移行を決定。約2年間の準備か期間を経て、2023年10月に「凸版印刷」から「TOPPANホールディングス」に商号を変更し、傘下3社(TOPPAN・TOPPANエッジ・TOPPANデジタル)から構成される持株会社の組織へ移行した。
企業名 | 凸版印刷の継承部門 | その他の継承部門 |
TOPPAN(株) | 主要部門 | なし |
TOPPANエッジ(株) | セキュア事業部 | トッパンフォームズ |
TOPPANデジタル(株) | DXデザイン事業部 | なし |