TOPPAN(凸版印刷) の歴史

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創業 1900年
創業者 木村延吉・降矢銀次郎
創業地 東京
創業 1900年1月、大蔵省印刷局を辞した木村延吉氏・降矢銀次郎氏らが、印刷局が門外不
1900年1月、大蔵省印刷局を辞した木村延吉氏・降矢銀次郎氏らが、印刷局が門外不出としていたエルヘート凸版法を民間へ持ち出し、十五銀行の副支配人だった河合辰太郎氏らの出資を得て、東京市下谷区二長町に凸版印刷合資会社を設立した。狙いは有価証券の偽造防止印刷だったが、会社を実際に動かしたのは岩谷商会から確約された天狗煙草の包装紙の大量受注で、株券の受注が形になるのは1902年ごろの東京電気鉄道からである。1908年6月に資本金40万円の株式会社へ改組し、1949年5月に東京証券取引所へ上場した。彫刻と腐食で像を精密に再現する技術は、半世紀後の精密加工へ引き継がれていく。
決断 印刷の技術を紙以外の素材へ載せ替えることで、事業領域を広げてきた。網点を制御して
印刷の技術を紙以外の素材へ載せ替えることで、事業領域を広げてきた。網点を制御して像を高精細に再現する製版技術は、ガラスや金属の上にも同じ精度で像を置ける。1965年5月にカナダのMoore社との合弁で情報処理向けビジネスフォームへ参入し、1973年12月には朝霞精密工場で半導体フォトマスクとカラーCRT用シャドウマスクの生産を開始した。2004年1月には三重工場で液晶カラーフィルタの生産を開始している。紙媒体の縮小で本業が停滞すると、2023年10月に持株会社体制へ移行して社名から"印刷"を外し、吸収分割で各事業を子会社へ承継した。2022年4月に分社したフォトマスク事業は2025年10月にテクセンドフォトマスクとして東証プライムへ上場し、持分を46.57%まで下げて持分法適用関連会社へ移した。
現況 売上の半分を占める情報コミュニケーションではなく、1割のエレクトロニクスが利益率
売上の半分を占める情報コミュニケーションではなく、1割のエレクトロニクスが利益率を支えている。2026年3月期の連結売上高は1兆8,050億円、営業利益は671億円だった。情報コミュニケーションは売上9,039億円で全体の半分を占めるが、利益は450億円にとどまる。エレクトロニクスは売上1,859億円と1割にすぎないのに利益337億円を計上し、利益率は18%に達した。生活・産業は米Sonocoの軟包装事業の取得で北米の軟包装が加わり、売上が前期の5,400億円から7,152億円へ増えている。売上の構成と利益の構成が一致しないこの状態が、印刷を主語にした社名を組織ごと外す判断を押し上げた。
競合 競争の焦点は印刷の受注量ではなく、半導体部材と軟包装への設備投資へ移った。国内で
競争の焦点は印刷の受注量ではなく、半導体部材と軟包装への設備投資へ移った。国内では長く大日本印刷と首位を争い、2007年3月期には情報・ネットワーク系8,601億円、生活環境系3,662億円、エレクトロニクス系3,314億円の3本柱で並んでいた。当時のエレクトロニクス系は利益143億円・利益率4.3%で、情報系の6.7%を下回っており、利益率が逆転して印刷会社らしくない収益構造が現れるのは後年である。2025年3月期のエレクトロニクスは売上2,796億円に対して設備投資585億円を投じており、受注してから刷る印刷とは資本の使い方が違う。印刷は注文を取ってから設備を動かすが、フォトマスクと軟包装は需要より先に設備を建てる。この違いが、社名から"印刷"を外したあとの投資判断の速さを決めている。
長期業績の推移 1949〜2026年
TOPPAN(凸版印刷):長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円)純利益率(%)
1997年3月期〜2026年3月期

第1章 1900年〜 技術型ベンチャーから全国最大手への成長と拠点網整備

1900年〜印刷局の技術者と銀行家が組んだ創業

1900年1月17日、凸版印刷合資会社は東京市下谷区二長町で設立された。出資4万円のうち2万円は十五銀行の副支配人を辞していた河合辰太郎、1万7,000円は銀行家の三輪信次郎が出し、大蔵省印刷局を辞した木村延吉・伊藤貴志・降矢銀次郎は各1,000円で、降矢の分は彫刻機械4点の現物出資だった。資本主と技術者の結束を明確にするため、個人的企業ではなく初めから合資会社の組織を採っている。狙いは、有価証券や商品の偽造を防ぐ銅凸版印刷を民間で初めて行うことにあった。核となったのは印刷局が門外不出としていたエルヘート凸版法で、木村と降矢は同法を日本へ伝えたお雇い外国人エドアルド・キヨソネの門下生である。

  • 有価証券報告書
    • [1]1900年1月 凸版印刷合資会社を東京市下谷区二長町で設立
  • 『凸版印刷株式会社史』(凸版印刷株式会社, 1985年)
    • [2]出資4万円の内訳は河合辰太郎2万円・三輪信次郎1万7,000円・木村延吉/伊藤貴志/降矢銀次郎各1,000円(降矢分は彫刻機械4点の現物出資)。資本主と技術者の結束を明確にするため合資会社の組織を選んだ
    • [3]出資4万円の内訳は河合辰太郎2万円・三輪信次郎1万7,000円・木村延吉/伊藤貴志/降矢銀次郎各1,000円(降矢分は彫刻機械4点の現物出資)。資本主と技術者の結束を明確にするため合資会社の組織を選んだ
    • [4]設立趣意書は有価証券や商品の偽造防止のため民間初の銅凸版印刷を行うと記す。エルヘート凸版法は印刷局門外不出の技術で、木村・降矢はキヨソネ門下生
    • [5]設立趣意書は有価証券や商品の偽造防止のため民間初の銅凸版印刷を行うと記す。エルヘート凸版法は印刷局門外不出の技術で、木村・降矢はキヨソネ門下生

そのエルヘート凸版法は、1874年に大蔵省紙幣寮がドイツ・フランクフルトのドンドルフ・ナウマン社から導入した製版法で、社名はこの技術を経営の中心に据えたことに由来する。もっとも、会社を実際に動かしたのは有価証券ではなく煙草だった。岩谷商会から天狗煙草の包装紙を大量に受注する確約を得たことが河合と三輪の出資を決め、1900年7月に納めた同社の包紙が最初の製品になっている。1904年3月29日に煙草専売法が成立すると営業の大部分を失う恐れが生じ、社内では工場を政府に買い上げてもらって解散する案まで出た。会社は存続を先に決め、法案成立の当日に専売局長へ随意契約による受注継続を請願して、これを容れられている。

  • 『凸版印刷株式会社史』(凸版印刷株式会社, 1985年)
    • [6]エルヘート凸版法は1874年に大蔵省紙幣寮がドイツのドンドルフ・ナウマン社から導入した製版法で、社名はこの技術に由来する
    • [7]岩谷商会からの天狗煙草包紙の大量受注の確約が河合・三輪の出資を決め、1900年7月納入の天狗煙草包紙が最初の製品
    • [8]1904年3月29日の煙草専売法成立当日に専売局長へ随意契約による継続受注を請願し容れられた。事前に会社の存続を決定していた
    • [9]1904年3月29日の煙草専売法成立当日に専売局長へ随意契約による継続受注を請願し容れられた。事前に会社の存続を決定していた

念願だった有価証券印刷が社内で形になったのは1902年ごろの東京電気鉄道の株券からで、1905年には関西鉄道がロンドンで発行した英貨建外債1,000万円の債券を手がけ、その精技は現地でも推賞された。株券・社債券に加えて勧業債券や政府発行の諸債券の受注が増えるにつれ、設備と技術はともに進歩している。1906年の"営業案内"は資本金20万円、従業者500余名で夜を日に継いでも足りない状況だと記した。1908年6月には資本金40万円の株式会社へ改組する。偽造防止という参入障壁の高い分野を、官の技術者と民の資本を組み合わせて民間に開いたのが創業期の実像であり、この彫刻と腐食の技術が半世紀後に精密加工へ転用される。

  • 『凸版印刷株式会社史』(凸版印刷株式会社, 1985年)
    • [10]有価証券印刷の最初は1902年ごろの東京電気鉄道株券。1905年に関西鉄道の英貨建外債1,000万円の債券を印刷しロンドンで推賞された。1906年『営業案内』は資本金20万円・従業者500余名と記す
    • [12]有価証券印刷の最初は1902年ごろの東京電気鉄道株券。1905年に関西鉄道の英貨建外債1,000万円の債券を印刷しロンドンで推賞された。1906年『営業案内』は資本金20万円・従業者500余名と記す
    • [14]有価証券印刷の最初は1902年ごろの東京電気鉄道株券。1905年に関西鉄道の英貨建外債1,000万円の債券を印刷しロンドンで推賞された。1906年『営業案内』は資本金20万円・従業者500余名と記す
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社・1955年)
    • [11]株券・社債券・勧業債券・政府発行の諸債券の需要拡大で設備と技術が進歩(社史)
  • 有価証券報告書
    • [13]1908年6月 資本金40万円の株式会社へ改組
参考文献[1]-[14]
  • 有価証券報告書
    • [1]1900年1月 凸版印刷合資会社を東京市下谷区二長町で設立
    • [13]1908年6月 資本金40万円の株式会社へ改組
  • 『凸版印刷株式会社史』(凸版印刷株式会社, 1985年)
    • [2]出資4万円の内訳は河合辰太郎2万円・三輪信次郎1万7,000円・木村延吉/伊藤貴志/降矢銀次郎各1,000円(降矢分は彫刻機械4点の現物出資)。資本主と技術者の結束を明確にするため合資会社の組織を選んだ
    • [3]出資4万円の内訳は河合辰太郎2万円・三輪信次郎1万7,000円・木村延吉/伊藤貴志/降矢銀次郎各1,000円(降矢分は彫刻機械4点の現物出資)。資本主と技術者の結束を明確にするため合資会社の組織を選んだ
    • [4]設立趣意書は有価証券や商品の偽造防止のため民間初の銅凸版印刷を行うと記す。エルヘート凸版法は印刷局門外不出の技術で、木村・降矢はキヨソネ門下生
    • [5]設立趣意書は有価証券や商品の偽造防止のため民間初の銅凸版印刷を行うと記す。エルヘート凸版法は印刷局門外不出の技術で、木村・降矢はキヨソネ門下生
    • [6]エルヘート凸版法は1874年に大蔵省紙幣寮がドイツのドンドルフ・ナウマン社から導入した製版法で、社名はこの技術に由来する
    • [7]岩谷商会からの天狗煙草包紙の大量受注の確約が河合・三輪の出資を決め、1900年7月納入の天狗煙草包紙が最初の製品
    • [8]1904年3月29日の煙草専売法成立当日に専売局長へ随意契約による継続受注を請願し容れられた。事前に会社の存続を決定していた
    • [9]1904年3月29日の煙草専売法成立当日に専売局長へ随意契約による継続受注を請願し容れられた。事前に会社の存続を決定していた
    • [10]有価証券印刷の最初は1902年ごろの東京電気鉄道株券。1905年に関西鉄道の英貨建外債1,000万円の債券を印刷しロンドンで推賞された。1906年『営業案内』は資本金20万円・従業者500余名と記す
    • [12]有価証券印刷の最初は1902年ごろの東京電気鉄道株券。1905年に関西鉄道の英貨建外債1,000万円の債券を印刷しロンドンで推賞された。1906年『営業案内』は資本金20万円・従業者500余名と記す
    • [14]有価証券印刷の最初は1902年ごろの東京電気鉄道株券。1905年に関西鉄道の英貨建外債1,000万円の債券を印刷しロンドンで推賞された。1906年『営業案内』は資本金20万円・従業者500余名と記す
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社・1955年)
    • [11]株券・社債券・勧業債券・政府発行の諸債券の需要拡大で設備と技術が進歩(社史)

1908年〜内外印刷の合併と関東大震災を越えた工場網

1908年10月、経営不振の内外印刷を合併して本所分工場とし、資本金は50万円になった。社史は、不況下に資本を倍にして株式会社へ改めた理由を将来への積極策だと説くのは表向きの解釈であり、本質は内外印刷の合併を前提にした組織変更だったと裁定している。設立の6日後に合併の仮契約を締結し、役員が報酬を辞退して臨んだ合併だったが、その後は無配が続き、従業員は合併直後の816名から翌年末には277名まで減った。井上源之丞が社内の反対を押して社外に設けたオフセット印刷合名会社は、1918年1月に買収されて神田分工場となる。オフセットの将来性を見抜いた井上が、社内で通らない計画を社外の別会社で実証してから本体へ戻すという迂回路を採ったことが、のちに業界標準となる印刷方式を同社に引き寄せた。

  • 『凸版印刷株式会社史』(凸版印刷株式会社, 1985年)
    • [15]1908年 内外印刷を合併して本所分工場とし資本金50万円に。株式会社化の本質は合併を前提とした組織変更だったと社史が裁定
    • [16]1908年 内外印刷を合併して本所分工場とし資本金50万円に。株式会社化の本質は合併を前提とした組織変更だったと社史が裁定
    • [17]合併後は無配が続き役員は報酬を辞退。従業員は1908年12月の816名から翌年12月には277名へ減少
    • [18]井上源之丞が社外に設立したオフセット印刷合名会社を1918年1月4日に買収し神田分工場とした(清算結了は2月7日)

資本金を一度に3倍へ増やして300万円としたのは1920年12月で、これを機に東京株式市場で初めて株式が上場された。大戦景気のもとで普通配当は18%が続いていた。そこへ1923年9月1日の関東大震災が襲い、本所分工場は焼け落ちた。本所区内に住む工員のうち18名が命を落とし、工場長夫妻の行方もわからなくなった。解散か、立て直しか。社長の井上と相談役の三輪信次郎がこれを話し合ったのは9月2日の夜更けから翌3日にかけてで、出た結論は総力を挙げた復興だった。生産は、提携先の東京紙器と、大阪の精版印刷・中田印刷所に出張所を設けて急場をしのぐ形に組み直し、10月から12月にかけて震災切手9種14億枚を納入した。竣工して5か月しかたっていない新工場を失いながらも、印刷局が罹災して行き先のなくなった公的印刷物の需要を取り込みにいくという判断が、再起の道筋を定めた。

  • 『凸版印刷株式会社史』(凸版印刷株式会社, 1985年)
    • [19]1920年12月22日の株主総会で資本金を300万円とする決議を行い、これを機に東京株式市場へ株式を初上場
    • [20]1923年9月1日の関東大震災で本所分工場が全焼、本所区内在住の工員18名が焼死、工場長岩田常三郎夫妻が行方不明
    • [21]井上源之丞社長は9月2日夜半から3日にかけて相談役三輪信次郎と解散か再起かを論じ全力復興を決定
    • [22]東京紙器・精版印刷・中田印刷所に出張所を開いて臨機の生産体制を組み、震災切手9種14億枚を1923年10月から12月に納入

震災損失金は106万6,919円に達し、積立金をすべて取り崩して2期を無配としたが、1924年11月期には年12%配当へ復した。帳簿を焼失したため買掛金は業者の請求どおり利子を付けて全額支払い、それが信用になったと井上は後年述べている。1926年4月には東京紙器を合併して小石川紙器工場とし、紙製容器の製造を加えた。1927年1月の大阪分工場は10年近く赤字が続き、井上が「どうせつぶれる工場なら始末してこい」と山田三郎太を送り込んでようやく黒字に転じている。関西に拠点を築くという所信を、10年の赤字を抱えたまま曲げなかったことが後の全国体制の土台になった。震災と不況を続けて浴びながら、同社は東西二つの生産拠点を手放さなかった。

  • 『凸版印刷株式会社史』(凸版印刷株式会社, 1985年)
    • [23]震災損失金106万6,919円。積立金を全額取り崩して2期無配としたのち1924年11月期に年12%配当へ復帰。帳簿焼失のため買掛金は請求どおり利子を付けて全額支払った
    • [24]震災損失金106万6,919円。積立金を全額取り崩して2期無配としたのち1924年11月期に年12%配当へ復帰。帳簿焼失のため買掛金は請求どおり利子を付けて全額支払った
    • [26]1927年1月 大阪分工場を新設(後の大淀工場)。受注競争と単価低落で長く赤字が続き、井上は山田三郎太に「どうせつぶれる工場なら、お前行って始末してこい」と告げて送った。黒字化まで約10年
    • [27]1927年1月 大阪分工場を新設(後の大淀工場)。受注競争と単価低落で長く赤字が続き、井上は山田三郎太に「どうせつぶれる工場なら、お前行って始末してこい」と告げて送った。黒字化まで約10年
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社・1955年)
    • [25]1926年4月8日 東京紙器を合併して小石川紙器工場とし紙製容器の製造を加えた(合併後の払込済資本金275万円)
参考文献[15]-[27]
  • 『凸版印刷株式会社史』(凸版印刷株式会社, 1985年)
    • [15]1908年 内外印刷を合併して本所分工場とし資本金50万円に。株式会社化の本質は合併を前提とした組織変更だったと社史が裁定
    • [16]1908年 内外印刷を合併して本所分工場とし資本金50万円に。株式会社化の本質は合併を前提とした組織変更だったと社史が裁定
    • [17]合併後は無配が続き役員は報酬を辞退。従業員は1908年12月の816名から翌年12月には277名へ減少
    • [18]井上源之丞が社外に設立したオフセット印刷合名会社を1918年1月4日に買収し神田分工場とした(清算結了は2月7日)
    • [19]1920年12月22日の株主総会で資本金を300万円とする決議を行い、これを機に東京株式市場へ株式を初上場
    • [20]1923年9月1日の関東大震災で本所分工場が全焼、本所区内在住の工員18名が焼死、工場長岩田常三郎夫妻が行方不明
    • [21]井上源之丞社長は9月2日夜半から3日にかけて相談役三輪信次郎と解散か再起かを論じ全力復興を決定
    • [22]東京紙器・精版印刷・中田印刷所に出張所を開いて臨機の生産体制を組み、震災切手9種14億枚を1923年10月から12月に納入
    • [23]震災損失金106万6,919円。積立金を全額取り崩して2期無配としたのち1924年11月期に年12%配当へ復帰。帳簿焼失のため買掛金は請求どおり利子を付けて全額支払った
    • [24]震災損失金106万6,919円。積立金を全額取り崩して2期無配としたのち1924年11月期に年12%配当へ復帰。帳簿焼失のため買掛金は請求どおり利子を付けて全額支払った
    • [26]1927年1月 大阪分工場を新設(後の大淀工場)。受注競争と単価低落で長く赤字が続き、井上は山田三郎太に「どうせつぶれる工場なら、お前行って始末してこい」と告げて送った。黒字化まで約10年
    • [27]1927年1月 大阪分工場を新設(後の大淀工場)。受注競争と単価低落で長く赤字が続き、井上は山田三郎太に「どうせつぶれる工場なら、お前行って始末してこい」と告げて送った。黒字化まで約10年
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社・1955年)
    • [25]1926年4月8日 東京紙器を合併して小石川紙器工場とし紙製容器の製造を加えた(合併後の払込済資本金275万円)

1936年〜戦時下の合併から戦後復興・事業部制・精密印刷へ

1936年、井上は欧米133か所の工場を回って機械を仮発注し、翌年の増資では王子製紙の藤原銀次郎と講談社の野間清治が各1万株を引き受けた。こうして1938年5月に板橋工場が操業に入る。1943年の富士工場は新設ではなく、大昭和製紙の富士工場を下谷工場の疎開先として継承したもので、始業式は同年8月1日だった。1944年7月には、資材と労働力の途絶で経営が極端に悪化していた精版印刷を合併して大阪支社を開設し、資本金を2,250万円とした。井上が大正期から温めた構想が、統制下の窮境を機に実現した合併であった。戦時統制下の拡張は自前の新設ではなく他社の設備と人員を引き取る形をとらざるを得ず、結果として東京の偽造防止印刷と関西の出版系印刷という性格の異なる二つの基盤を併せ持つことになった。

  • 『凸版印刷株式会社史』(凸版印刷株式会社, 1985年)
    • [28]1936年の井上源之丞の欧米視察(133か所歴訪と機械の仮発注)と1937年3月の増資(王子製紙・藤原銀次郎と講談社・野間清治が各1万株引受)。1943年の富士工場は大昭和製紙富士工場の継承で始業式は8月1日。精版印刷の合併は井上が大正期から温めた構想の実現
    • [30]1936年の井上源之丞の欧米視察(133か所歴訪と機械の仮発注)と1937年3月の増資(王子製紙・藤原銀次郎と講談社・野間清治が各1万株引受)。1943年の富士工場は大昭和製紙富士工場の継承で始業式は8月1日。精版印刷の合併は井上が大正期から温めた構想の実現
    • [32]1936年の井上源之丞の欧米視察(133か所歴訪と機械の仮発注)と1937年3月の増資(王子製紙・藤原銀次郎と講談社・野間清治が各1万株引受)。1943年の富士工場は大昭和製紙富士工場の継承で始業式は8月1日。精版印刷の合併は井上が大正期から温めた構想の実現
  • 有価証券報告書
    • [29]1938年5月 板橋工場を新設
    • [31]1944年7月 精版印刷を合併し大阪支社工場として稼働、資本金を2,250万円に増額

1945年3月10日の空襲で本社と下谷・本所の両工場を焼き、家庭で罹災死した社員工員は50名、住宅を焼かれた者は1,146名を数えた。大牟田の兵器部品工場は熊本県玉名へ移る途中で終戦を迎え、九州工場と名を変えて1946年6月に印刷工場としての操業を開始する。1949年には民間会社の紙幣印刷が全面的に廃止され、営業収入の36%を占めていた仕事が消えた。前年には過度経済力集中排除法による3分割の指令も受けたが、山田三郎太専務が総合印刷工場の必要を説いて同年12月に解除させている。同じ1949年5月、東京証券取引所へ株式を上場した。紙幣という最大の収益源を制度によって失い、集中排除法で分割されかけたところから、印刷の総合性そのものを存立の根拠として説き直した時期である。

  • 『凸版印刷株式会社史』(凸版印刷株式会社, 1985年)
    • [33]1945年3月10日の空襲で本社・下谷工場・本所工場が罹災。家庭で罹災死した社員工員50名、住宅罹災者1,146名
    • [34]大牟田兵器部品製造工場が熊本県玉名へ移転準備中に終戦を迎え九州工場に転換、1946年6月17日に印刷工場としての事業許可を得て操業開始
    • [35]1949年に民間会社の紙幣印刷が全面廃止され、営業収入の36%を占めていた紙幣印刷を失った
    • [36]1948年に過度経済力集中排除法の3分割指令を受けたが、山田三郎太専務の折衝により同年12月17日に指定解除
  • 有価証券報告書
    • [37]1949年5月 東京証券取引所に株式を上場

1951年に山田が渡米して結んだミルプリント社との技術提携が、アニリン印刷やポリエチレン印刷の入口となった。1960年3月、山田社長は5年で規模を倍にすると新聞で語り、政府の所得倍増計画に半年先んじる。計画は1961年12月の事業部制導入で組織に落とし込まれた。海外では1963年に香港で折半出資の合弁を興し、1965年にはアジア・ビジネスフォームの商号を変更してムーア社の資本を受け入れて出資比率55対45の合弁とする。精密加工は1959年、製糖会社に頼まれたメタルプレートフィルターを株券の彩紋製版の技術で作ったのが最初で、同年7月に富士通信機製造がトランジスタ用マスクの試作を依頼した。1973年12月には朝霞精密工場を新設している。

  • 『凸版印刷株式会社史』(凸版印刷株式会社, 1985年)
    • [38]1951年9月の山田三郎太社長の渡米を経て1952年4月16日にミルプリント社と技術提携契約を締結、アニリン印刷・ポリエチレン印刷などの技術を導入
    • [39]1960年3月14日の社長談話で5年間の規模倍増を表明。政府の国民所得倍増計画決定に6か月先立つ
    • [42]トッパン・ムーアはアジア・ビジネスフォームの商号を1965年5月31日に変更しムーア社が資本参加したもので、出資比率は当社55%・ムーア社45%。1968年のシンガポール現地法人も出資35%の合弁
    • [43]1959年 製糖会社向けメタルプレートフィルターの国産化が精密部品製造の起点。同年7月に富士通信機製造からメサ型トランジスタマスクの試作依頼
  • 有価証券報告書
    • [40]1961年12月 事業部制を導入(本社・板橋・下谷・小石川・関西・西日本)
    • [44]1973年12月 朝霞精密工場を新設(フォトマスク、シャドウマスク)
  • 企業の歴史 明治百年(経済春秋社・1968年)
    • [41]1963年5月 香港で合弁会社設立、1964年6月 ニューヨーク駐在員事務所開設、1968年10月時点で資本金60億円・六事業所・九工場・十二営業所(社史)
参考文献[28]-[44]
  • 『凸版印刷株式会社史』(凸版印刷株式会社, 1985年)
    • [28]1936年の井上源之丞の欧米視察(133か所歴訪と機械の仮発注)と1937年3月の増資(王子製紙・藤原銀次郎と講談社・野間清治が各1万株引受)。1943年の富士工場は大昭和製紙富士工場の継承で始業式は8月1日。精版印刷の合併は井上が大正期から温めた構想の実現
    • [30]1936年の井上源之丞の欧米視察(133か所歴訪と機械の仮発注)と1937年3月の増資(王子製紙・藤原銀次郎と講談社・野間清治が各1万株引受)。1943年の富士工場は大昭和製紙富士工場の継承で始業式は8月1日。精版印刷の合併は井上が大正期から温めた構想の実現
    • [32]1936年の井上源之丞の欧米視察(133か所歴訪と機械の仮発注)と1937年3月の増資(王子製紙・藤原銀次郎と講談社・野間清治が各1万株引受)。1943年の富士工場は大昭和製紙富士工場の継承で始業式は8月1日。精版印刷の合併は井上が大正期から温めた構想の実現
    • [33]1945年3月10日の空襲で本社・下谷工場・本所工場が罹災。家庭で罹災死した社員工員50名、住宅罹災者1,146名
    • [34]大牟田兵器部品製造工場が熊本県玉名へ移転準備中に終戦を迎え九州工場に転換、1946年6月17日に印刷工場としての事業許可を得て操業開始
    • [35]1949年に民間会社の紙幣印刷が全面廃止され、営業収入の36%を占めていた紙幣印刷を失った
    • [36]1948年に過度経済力集中排除法の3分割指令を受けたが、山田三郎太専務の折衝により同年12月17日に指定解除
    • [38]1951年9月の山田三郎太社長の渡米を経て1952年4月16日にミルプリント社と技術提携契約を締結、アニリン印刷・ポリエチレン印刷などの技術を導入
    • [39]1960年3月14日の社長談話で5年間の規模倍増を表明。政府の国民所得倍増計画決定に6か月先立つ
    • [42]トッパン・ムーアはアジア・ビジネスフォームの商号を1965年5月31日に変更しムーア社が資本参加したもので、出資比率は当社55%・ムーア社45%。1968年のシンガポール現地法人も出資35%の合弁
    • [43]1959年 製糖会社向けメタルプレートフィルターの国産化が精密部品製造の起点。同年7月に富士通信機製造からメサ型トランジスタマスクの試作依頼
  • 有価証券報告書
    • [29]1938年5月 板橋工場を新設
    • [31]1944年7月 精版印刷を合併し大阪支社工場として稼働、資本金を2,250万円に増額
    • [37]1949年5月 東京証券取引所に株式を上場
    • [40]1961年12月 事業部制を導入(本社・板橋・下谷・小石川・関西・西日本)
    • [44]1973年12月 朝霞精密工場を新設(フォトマスク、シャドウマスク)
  • 企業の歴史 明治百年(経済春秋社・1968年)
    • [41]1963年5月 香港で合弁会社設立、1964年6月 ニューヨーク駐在員事務所開設、1968年10月時点で資本金60億円・六事業所・九工場・十二営業所(社史)

第2章 1975年〜 受注産業からの脱却澤村嘉一の重点施策5項目から藤田弘道の超印刷へ

筆者考察y.sugiura, author

印刷会社の収入は、得意先が広告や出版の計画を決めた後にしか立たない商売である。凸版印刷の1975年からの四半世紀は、その順番のほうを動かそうとした期間だった。1970年から1974年まで年平均22.3%で伸びた売上高は、1975年からの5年間で12.1%まで低下している。需要が自然に膨らむ前提が消えたとき、澤村嘉一が打ったのは値上げでも一律の人減らしでもなく、製品ごとの原価を掴んで見合う価格を作る仕組みの整備であり、労働集約的な工程を子会社へ移して本体を軽くする作業だった。従業員は6年で1万323名から8,357名へ減り、借入金は263億円から67億円余まで減った。

そこから先に起きたのは、事業の中身より先に自己規定を書き換える動きである。鈴木和夫は1982年の年頭に業際人という言葉を掲げ、専門化して縦に深くなった各業種の横をつなぐ位置に自社を置いた。藤田弘道は1991年に超印刷を掲げ、印刷を隣接分野へ広げる拡印刷から、印刷そのものを質的に変える方向へ言い直した。どちらも、印刷会社同士の比較では説明できない場所へ出ようとする言葉である。ただし1991年の電子メディアの売上は総売上の1%弱にあたる60億円から80億円にすぎず、年間120億円の研究開発投資の2割から3割を吸い込む段階にとどまった。1992年3月期の1兆1,749億円から1999年3月期の1兆2,234億円まで、連結売上高はほぼ横ばいだった。

売上高(単体) 1975年5月期〜1984年5月期(億円)

2,094 75.5 2,268 76.5 2,504 77.5 2,768 78.5 3,101 79.5 3,634 80.5 4,121 81.5 4,476 82.5 4,876 83.5 5,310 84.5
  • 棒はすべて単体。出所は会社年鑑。
  • 1985年5月期以降の単体売上高は手元に無い。

1975年〜重点施策5項目と関係会社分離による収益構造の組み替え

1975年10月、取締役会は営業・生産・技術・研究開発を軸とする重点施策5項目を決め、各事業部へ通達した。1970年から1974年までの5年間で年平均22.3%だった売上高の伸びは、1975年からの5年間で12.1%へ後退し、1976年5月期にいたっては8.3%にとどまる。5項目の第3に置かれたのが新しい価格体系の確立で、原材料費と諸経費の高騰が続く前提に立ち、製品個別の原価を把握して見合う価格を設定する仕組みを求めた。残る4項目は営業活動と生産効率、新製品開発、省資源、公害・廃棄物対策で、いずれも澤村嘉一社長がかねて示してきた方針を総括したものだった。1977年12月には包装関係の各事業部を統合し、東京と関西に包材事業部を置いている。売上高は1975年5月期の2,094億円から翌期の2,268億円となった。

  • 『凸版印刷株式会社史』(凸版印刷株式会社, 1985年)
    • [45]1975年10月 取締役会で重点施策5項目(営業活動と生産効率/新製品開発/新しい価格体系の確立/省資源/公害対策・廃棄物処理)を決定し各事業部へ通達
    • [46]売上高の単純平均伸び率は1970〜74年の22.3%から1975〜79年の12.1%へ後退。1976年5月期の伸び率は8.3%
    • [47]1975年10月 取締役会で重点施策5項目(営業活動と生産効率/新製品開発/新しい価格体系の確立/省資源/公害対策・廃棄物処理)を決定し各事業部へ通達
    • [48]重点施策5項目は澤村嘉一社長がかねて指示してきた基本方針を総括したもので、営業・生産・技術・研究開発部門を中心に推進することが要望された
    • [49]1977年12月1日 第2本社事業部を精密機器事業部とし、包装関係の各事業部を統合して東京と関西支社に包材事業部を新設
  • 会社年鑑
    • [50]単体売上高は1975年5月期2,094億円、1976年5月期2,268億円

各事業部は作業工程の一部を切り出し、独立した子会社へ移した。1976年10月の凸版佐賀容器、1980年12月の凸版グラビア製版がそれで、紙カップの成形やグラビアシリンダーの製版といった労働集約的な工程が本体を離れた。1974年5月に1万323名だった従業員は、1980年5月には8,357名まで減っている。資金の側では、多くの企業が設備投資を控えて借入金の返済へ走った局面で、凸版印刷は投資を続けながら間接金融を抑える組み方を選ぶ。1975年12月と1980年6月に公募増資を行い、1978年12月には転換社債70億円を発行した。借入金は263億円から67億円余へ減り、自己資本比率は36.1%から43.8%へ上がった。投資そのものは止めず、1975年には特殊印刷とチューブ・カップの福崎工場を建てている。

  • 『凸版印刷株式会社史』(凸版印刷株式会社, 1985年)
    • [51]各事業部で作業工程の一部を分離して子会社化。1976年10月 凸版佐賀容器、1979年6月 熊本凸版、1979年12月 三ケ日凸版印刷、1980年12月 凸版グラビア製版を設立
    • [52]各事業部で作業工程の一部を分離して子会社化。1976年10月 凸版佐賀容器、1979年6月 熊本凸版、1979年12月 三ケ日凸版印刷、1980年12月 凸版グラビア製版を設立
    • [53]従業員数は1974年5月の1万323名から1980年5月の8,357名へ減少
    • [54]減量経営の局面で間接金融を極力抑え内部留保・増資・社債で資金を賄う方針を採る。借入金は1975年5月の263億円から1980年5月の67億円余へ、自己資本比率は36.1%から43.8%へ
    • [55]1975年12月に2,200万株、1980年6月に2,500万株の公募増資。1978年12月に満期割増償還金付無担保転換社債70億円を発行。資本金は1974年12月の143億円から1980年6月の181億円へ
    • [56]減量経営の局面で間接金融を極力抑え内部留保・増資・社債で資金を賄う方針を採る。借入金は1975年5月の263億円から1980年5月の67億円余へ、自己資本比率は36.1%から43.8%へ
  • 有価証券報告書
    • [57]1975年 福崎工場(特殊印刷・チューブ・カップ・プラスチック)新設

1981年2月20日午後1時37分、澤村嘉一社長が心筋梗塞で急逝した。会社はその晩のうちに緊急取締役会を招集し、鈴木和夫副社長の社長就任を満場一致で決議している。澤村は1967年9月の就任から13年余で売上高を8倍にした経営者で、葬儀はグループ8社の合同葬となった。引き継いだ鈴木の自己規定は権限委譲型で、社長の椅子も委託を受けた職務として扱った。同時に、社是に掲げる誠意・熱意・創意のうち創意は落第点だと自省し、注文を待つ受注産業から、得意先との共同作業で需要そのものを掘り起こす業態へ移ることを掲げている。外国部長としてシンガポールで受注した際、見積書の計算違いに自ら気づいて申し出ながら、約束したロットは誤った値段のまま引き受けて取引を続けた経験を、後年みずから語った。

  • 『凸版印刷株式会社史』(凸版印刷株式会社, 1985年)
    • [58]1981年2月20日午後1時37分に澤村嘉一社長が心筋梗塞で急逝し、その日の晩の緊急取締役会で鈴木和夫副社長の社長就任が満場一致で決議された
    • [59]1981年2月20日午後1時37分に澤村嘉一社長が心筋梗塞で急逝し、その日の晩の緊急取締役会で鈴木和夫副社長の社長就任が満場一致で決議された
    • [60]澤村嘉一は1967年9月社長就任、在任13年余で売上高8倍。逝去にあたりグループ8社の合同葬
  • 日経ビジネス 1981年10月5日号
    • [61]鈴木和夫は自らを権限委譲型と規定し、社長は委託を受けた職務にすぎないと述べた。社是の誠意・熱意・創意のうち創意は落第点と自省し、受注産業から得意先との共同作業による需要発掘へ
    • [62]鈴木和夫は自らを権限委譲型と規定し、社長は委託を受けた職務にすぎないと述べた。社是の誠意・熱意・創意のうち創意は落第点と自省し、受注産業から得意先との共同作業による需要発掘へ
  • 日経ビジネス 1992年2月17日号
    • [63]シンガポールでの受注時、見積書の計算違いを自ら申し出て、約束したロットは誤った値段のまま引き受け取引を継続した(外国部長時代の鈴木和夫の回想)
参考文献[45]-[63]
  • 『凸版印刷株式会社史』(凸版印刷株式会社, 1985年)
    • [45]1975年10月 取締役会で重点施策5項目(営業活動と生産効率/新製品開発/新しい価格体系の確立/省資源/公害対策・廃棄物処理)を決定し各事業部へ通達
    • [46]売上高の単純平均伸び率は1970〜74年の22.3%から1975〜79年の12.1%へ後退。1976年5月期の伸び率は8.3%
    • [47]1975年10月 取締役会で重点施策5項目(営業活動と生産効率/新製品開発/新しい価格体系の確立/省資源/公害対策・廃棄物処理)を決定し各事業部へ通達
    • [48]重点施策5項目は澤村嘉一社長がかねて指示してきた基本方針を総括したもので、営業・生産・技術・研究開発部門を中心に推進することが要望された
    • [49]1977年12月1日 第2本社事業部を精密機器事業部とし、包装関係の各事業部を統合して東京と関西支社に包材事業部を新設
    • [51]各事業部で作業工程の一部を分離して子会社化。1976年10月 凸版佐賀容器、1979年6月 熊本凸版、1979年12月 三ケ日凸版印刷、1980年12月 凸版グラビア製版を設立
    • [52]各事業部で作業工程の一部を分離して子会社化。1976年10月 凸版佐賀容器、1979年6月 熊本凸版、1979年12月 三ケ日凸版印刷、1980年12月 凸版グラビア製版を設立
    • [53]従業員数は1974年5月の1万323名から1980年5月の8,357名へ減少
    • [54]減量経営の局面で間接金融を極力抑え内部留保・増資・社債で資金を賄う方針を採る。借入金は1975年5月の263億円から1980年5月の67億円余へ、自己資本比率は36.1%から43.8%へ
    • [55]1975年12月に2,200万株、1980年6月に2,500万株の公募増資。1978年12月に満期割増償還金付無担保転換社債70億円を発行。資本金は1974年12月の143億円から1980年6月の181億円へ
    • [56]減量経営の局面で間接金融を極力抑え内部留保・増資・社債で資金を賄う方針を採る。借入金は1975年5月の263億円から1980年5月の67億円余へ、自己資本比率は36.1%から43.8%へ
    • [58]1981年2月20日午後1時37分に澤村嘉一社長が心筋梗塞で急逝し、その日の晩の緊急取締役会で鈴木和夫副社長の社長就任が満場一致で決議された
    • [59]1981年2月20日午後1時37分に澤村嘉一社長が心筋梗塞で急逝し、その日の晩の緊急取締役会で鈴木和夫副社長の社長就任が満場一致で決議された
    • [60]澤村嘉一は1967年9月社長就任、在任13年余で売上高8倍。逝去にあたりグループ8社の合同葬
  • 会社年鑑
    • [50]単体売上高は1975年5月期2,094億円、1976年5月期2,268億円
  • 有価証券報告書
    • [57]1975年 福崎工場(特殊印刷・チューブ・カップ・プラスチック)新設
  • 日経ビジネス 1981年10月5日号
    • [61]鈴木和夫は自らを権限委譲型と規定し、社長は委託を受けた職務にすぎないと述べた。社是の誠意・熱意・創意のうち創意は落第点と自省し、受注産業から得意先との共同作業による需要発掘へ
    • [62]鈴木和夫は自らを権限委譲型と規定し、社長は委託を受けた職務にすぎないと述べた。社是の誠意・熱意・創意のうち創意は落第点と自省し、受注産業から得意先との共同作業による需要発掘へ
  • 日経ビジネス 1992年2月17日号
    • [63]シンガポールでの受注時、見積書の計算違いを自ら申し出て、約束したロットは誤った値段のまま引き受け取引を継続した(外国部長時代の鈴木和夫の回想)

1980年〜業際企業という自己規定とPOP・情報システムへの拡張

凸版印刷が店頭広告物のPOPへ本格的に出たのは1970年代後半である。扱う素材は紙にとどまらず木材・プラスチック・金属へ広がり、ホログラフィを使った広告板や、ICと液晶で動く店頭広告まで作った。1979年度までの5年間でこの部門の売上は3倍近くに伸び、100億円に迫っている。支えたのは設備ではなく人で、取締役アイデアセンター本部長の渡辺廣はPOPのデザイナー30人を自社で育て、米国の提携先の工房へも送り出した。もっとも1980年5月期の売上高は3,634億円で、100億円の部門はその3%に満たない。印刷の注文は得意先の広告計画が固まった後に来るが、店頭で何を置くかの設計から入れば、注文の前段へ回り込める。

  • 日経ビジネス 1980年10月6日号
    • [64]POP分野へ多角化。素材は木材・プラスチック・金属と多様で、ホログラフィ広告板やIC・液晶応用の動く店頭広告を開発
    • [65]POP分野へ多角化。素材は木材・プラスチック・金属と多様で、ホログラフィ広告板やIC・液晶応用の動く店頭広告を開発
    • [66]1979年度までの5年間でPOP部門の売上が3倍近く伸び100億円近くに成長
    • [67]取締役アイデアセンター本部長の渡辺廣はPOPデザイナー30人を自社で育成、米国の提携先工房へも派遣
  • 会社年鑑
    • [68]単体売上高は1980年5月期3,634億円

業際とは、専門分化で縦方向に深まった業種どうしを横につなぐ立ち位置のことで、異業種の企業が抱える課題を解いてみせる仲人の役を自社が引き受けるという意味を込めた言葉だった。鈴木和夫社長は1982年1月の年頭挨拶で、この業際人であることを貫くよう求めた。同年11月の対談で鈴木が業際的な活動として挙げたのは、あらゆる業種の得意先から寄せられるソフトウェアを自社の技術と組み合わせることである。競争の主戦場はこれから同業どうしから異業種どうしへ移る、と鈴木は見ていた。1982年5月には印刷業界で初めて欧州預託証券による海外公募増資を実施し、資本金は205億7,436万円余となった。1982年5月期の売上高は4,476億円で、1975年5月期の2,094億円から7年で2.1倍になっている。業際という言葉は、同業他社との比較では説明のつかない事業をこれから作るという宣言でもあった。

  • 『凸版印刷株式会社史』(凸版印刷株式会社, 1985年)
    • [69]1982年1月の年頭挨拶で「業際人に徹しよう」を掲げ、異業種企業の問題を解決する仲人役、縦に深くなる専門化の横をつなぐ位置と説明
    • [70]1982年1月の年頭挨拶で「業際人に徹しよう」を掲げ、異業種企業の問題を解決する仲人役、縦に深くなる専門化の横をつなぐ位置と説明
    • [71]1982年11月の対談で、全業種の得意先から集まるソフトウェアと自社技術の複合を「業際的な活動」と定義し、今後は同業種間より異業種間の競争が起きると述べた
    • [72]1982年5月 印刷業界で初めて欧州預託証券(EDR)による海外公募増資を実施し資本金205億7,436万円余に
  • 会社年鑑
    • [73]単体売上高は1975年5月期2,094億円、1982年5月期4,476億円

新しい情報市場へ入るための戦略部門として位置づけられたのが、1983年6月1日に本社で発足した情報システム開発本部で、拡印刷や総合印刷企業という従来の路線を越える一歩とされた。研究の体制は1986年7月に改まり、それまで事業所ごとに散らばっていた研究の機能と人材が埼玉県杉戸の総合研究所に集められ、同研究所は3つの命題を掲げた。印刷技術をいっそう深く掘り下げること、印刷の原理を中核に据えて隣の分野へ広げる拡印刷、次に来る需要の波に応える先端技術の開発である。工場の新設も紙から離れていき、1984年の新潟工場はプリント配線板、1988年の滝野工場は液体用紙容器、1990年の幸手工場は機能性材料を作るために建てられている。印刷機を増やす投資から、印刷の技術を別の製品へ移し替える投資へ、資金の投入先が入れ替わった時期である。

  • 『凸版印刷株式会社史』(凸版印刷株式会社, 1985年)
    • [74]1983年6月1日 本社に情報システム開発本部を新設。これまでの拡印刷・総合印刷企業路線からさらに一歩踏み出し新しい情報市場へ参入する戦略部門と位置づけた
    • [75]1983年6月1日 本社に情報システム開発本部を新設。これまでの拡印刷・総合印刷企業路線からさらに一歩踏み出し新しい情報市場へ参入する戦略部門と位置づけた
  • ポケット社史 文化に根ざした情報・生活産業(凸版印刷, 1990年)
    • [76]1986年7月 埼玉県杉戸に総合研究所を開設し、各事業所に分散していた研究機能と人材を集約。従来印刷技術の深化・拡印刷の追求・未来志向の先端技術開発の3命題を掲げた
    • [77]1986年7月 埼玉県杉戸に総合研究所を開設し、各事業所に分散していた研究機能と人材を集約。従来印刷技術の深化・拡印刷の追求・未来志向の先端技術開発の3命題を掲げた
  • 有価証券報告書
    • [78]1984年 新潟工場(プリント配線板)、1988年 滝野工場(液体用紙容器)、1990年 幸手工場(機能性材料)新設
参考文献[64]-[78]
  • 日経ビジネス 1980年10月6日号
    • [64]POP分野へ多角化。素材は木材・プラスチック・金属と多様で、ホログラフィ広告板やIC・液晶応用の動く店頭広告を開発
    • [65]POP分野へ多角化。素材は木材・プラスチック・金属と多様で、ホログラフィ広告板やIC・液晶応用の動く店頭広告を開発
    • [66]1979年度までの5年間でPOP部門の売上が3倍近く伸び100億円近くに成長
    • [67]取締役アイデアセンター本部長の渡辺廣はPOPデザイナー30人を自社で育成、米国の提携先工房へも派遣
  • 会社年鑑
    • [68]単体売上高は1980年5月期3,634億円
    • [73]単体売上高は1975年5月期2,094億円、1982年5月期4,476億円
  • 『凸版印刷株式会社史』(凸版印刷株式会社, 1985年)
    • [69]1982年1月の年頭挨拶で「業際人に徹しよう」を掲げ、異業種企業の問題を解決する仲人役、縦に深くなる専門化の横をつなぐ位置と説明
    • [70]1982年1月の年頭挨拶で「業際人に徹しよう」を掲げ、異業種企業の問題を解決する仲人役、縦に深くなる専門化の横をつなぐ位置と説明
    • [71]1982年11月の対談で、全業種の得意先から集まるソフトウェアと自社技術の複合を「業際的な活動」と定義し、今後は同業種間より異業種間の競争が起きると述べた
    • [72]1982年5月 印刷業界で初めて欧州預託証券(EDR)による海外公募増資を実施し資本金205億7,436万円余に
    • [74]1983年6月1日 本社に情報システム開発本部を新設。これまでの拡印刷・総合印刷企業路線からさらに一歩踏み出し新しい情報市場へ参入する戦略部門と位置づけた
    • [75]1983年6月1日 本社に情報システム開発本部を新設。これまでの拡印刷・総合印刷企業路線からさらに一歩踏み出し新しい情報市場へ参入する戦略部門と位置づけた
  • ポケット社史 文化に根ざした情報・生活産業(凸版印刷, 1990年)
    • [76]1986年7月 埼玉県杉戸に総合研究所を開設し、各事業所に分散していた研究機能と人材を集約。従来印刷技術の深化・拡印刷の追求・未来志向の先端技術開発の3命題を掲げた
    • [77]1986年7月 埼玉県杉戸に総合研究所を開設し、各事業所に分散していた研究機能と人材を集約。従来印刷技術の深化・拡印刷の追求・未来志向の先端技術開発の3命題を掲げた
  • 有価証券報告書
    • [78]1984年 新潟工場(プリント配線板)、1988年 滝野工場(液体用紙容器)、1990年 幸手工場(機能性材料)新設

1990年〜拡印刷から超印刷への路線転換と電子メディア

1990年9月、企画・販売促進・研究開発・システム開発の4部門にスーパー・フレックスタイム制が入った。1日1時間の勤務で出勤とみなす仕組みで、対象は560人、全社員約1万人の5%ほどにすぎない。それでも踏み切ったのは、労働時間の長さが人材の確保に響き始めていたからである。導入前の営業部門は月の残業が50時間から65時間、年間総労働時間は2,500時間を超え、出版や商業印刷を担当する社員では残業が月100時間に達した。印刷の現場に付きまとう3Kの印象への危機感は強く、鈴木和夫社長は日本印刷産業連合会の会長として業界全体のイメージ改善を掲げている。労働時間に手を付けたのは初めてではなく、1974年1月には隔週週休2日制を実施していた。

  • 日経ビジネス 1990年12月31日号
    • [79]1990年9月 企画・販売促進・研究開発・システム開発の4部門にスーパー・フレックスタイム制を導入(560人・全社員約1万人の約5%、1日1時間の勤務で出勤とみなす)
    • [80]1990年9月 企画・販売促進・研究開発・システム開発の4部門にスーパー・フレックスタイム制を導入(560人・全社員約1万人の約5%、1日1時間の勤務で出勤とみなす)
    • [81]フレックス制導入前の営業部門は月間残業50〜65時間・年間総労働時間2,500時間超、出版や商業印刷担当は月100時間
    • [82]3Kの印象が人材確保に響く危機感。鈴木和夫社長は日本印刷産業連合会会長として業界のイメージ改善を掲げていた
  • 『凸版印刷株式会社史』(凸版印刷株式会社, 1985年)
    • [83]1974年1月の年頭挨拶で5項目(石油電力の節減/原材料の節約/収率向上と資材の有効活用/技術の開発と刷新/一致団結)を提唱し、同月から隔週週休2日制を実施

1991年6月、藤田弘道が社長に就任した。1953年入社、1980年に取締役、1989年に副社長を経ての就任で、電子メディアへ事業を広げる前の最大の課題は人材育成に置かれた。藤田が新たに掲げたのは超印刷だった。隣接する分野へ事業の範囲を広げる拡印刷に対し、超印刷は印刷そのものを質的に変えるという意味で、その担い手には電子メディアを据えている。もっとも拡印刷という語は自社の造語ではなく、1972年に凸版印刷を論評した新聞記事のなかで担当記者が用いた表現だった。路線の裏には、印刷に最も近い複写機の市場をゼロックスなどに奪われた経験を繰り返すまいという強い警戒があった。

  • 日経ビジネス 1991年10月7日号
    • [84]1991年6月 藤田弘道が社長就任(1953年入社、1980年取締役、1989年副社長)。電子メディアへの拡大を前に最大の課題は人材育成と語った
    • [85]1991年6月 藤田弘道が社長就任(1953年入社、1980年取締役、1989年副社長)。電子メディアへの拡大を前に最大の課題は人材育成と語った
  • 日経ビジネス 1991年10月21日号
    • [86]隣接分野へ広げる拡印刷から、質的に変える超印刷へ転換し電子メディアをその担い手に据えた。印刷に最も近い複写機市場をゼロックスなどに奪われた経験を繰り返さないという警戒
    • [87]隣接分野へ広げる拡印刷から、質的に変える超印刷へ転換し電子メディアをその担い手に据えた。印刷に最も近い複写機市場をゼロックスなどに奪われた経験を繰り返さないという警戒
    • [89]隣接分野へ広げる拡印刷から、質的に変える超印刷へ転換し電子メディアをその担い手に据えた。印刷に最も近い複写機市場をゼロックスなどに奪われた経験を繰り返さないという警戒
  • 『凸版印刷株式会社史』(凸版印刷株式会社, 1985年)
    • [88]「拡印刷路線」は1972年7月9日の日本経済新聞が当社を論評した記事で担当記者が用いた新しい表現だった

超印刷を担う人材は社内で育てられた。メディア塾と名づけた教育組織は1期3か月・40人規模で回り、7期で300人が修了している。1990年の国際花と緑の博覧会では、ハイビジョン番組の映像から写真新聞を仕立てて183日間毎日1万部を発行した。費用は約5億円に上り、小手先の対応ならやめよ、ノウハウの蓄積が目的ならやれというトップの判断で150人態勢が組まれている。それでも1991年時点の電子メディアの売上は総売上の1%弱にあたる60億円から80億円で、年間120億円の研究開発投資の20%から30%を吸い込む段階にとどまった。連結売上高は1992年3月期の1兆1,749億円から1999年3月期の1兆2,234億円まで、7年でほぼ動いていない。超印刷は1990年代のうちに収益源へは育たず、次の時代へ渡す種として残った。

  • 日経ビジネス 1991年10月21日号
    • [90]社内教育組織メディア塾は1期3か月・40人規模で7期300人が修了
    • [91]1990年 国際花と緑の博覧会でハイビジョン番組から写真新聞を仕立て183日間毎日1万部を発行。費用は約5億円で、小手先の対応ならやめよ・ノウハウ蓄積が目的ならやれというトップ判断により150人態勢とした
    • [92]1990年 国際花と緑の博覧会でハイビジョン番組から写真新聞を仕立て183日間毎日1万部を発行。費用は約5億円で、小手先の対応ならやめよ・ノウハウ蓄積が目的ならやれというトップ判断により150人態勢とした
    • [93]電子メディアの売上は総売上の1%弱(60〜80億円)だが年間120億円の研究開発投資の20〜30%を占めた。1991年時点で出版印刷は売上の20%、シャドーマスクや液晶カラーフィルターなど精密部品が10%
  • 会社年鑑
    • [94]連結売上高は1992年3月期1兆1,749億円、1999年3月期1兆2,234億円
参考文献[79]-[94]
  • 日経ビジネス 1990年12月31日号
    • [79]1990年9月 企画・販売促進・研究開発・システム開発の4部門にスーパー・フレックスタイム制を導入(560人・全社員約1万人の約5%、1日1時間の勤務で出勤とみなす)
    • [80]1990年9月 企画・販売促進・研究開発・システム開発の4部門にスーパー・フレックスタイム制を導入(560人・全社員約1万人の約5%、1日1時間の勤務で出勤とみなす)
    • [81]フレックス制導入前の営業部門は月間残業50〜65時間・年間総労働時間2,500時間超、出版や商業印刷担当は月100時間
    • [82]3Kの印象が人材確保に響く危機感。鈴木和夫社長は日本印刷産業連合会会長として業界のイメージ改善を掲げていた
  • 『凸版印刷株式会社史』(凸版印刷株式会社, 1985年)
    • [83]1974年1月の年頭挨拶で5項目(石油電力の節減/原材料の節約/収率向上と資材の有効活用/技術の開発と刷新/一致団結)を提唱し、同月から隔週週休2日制を実施
    • [88]「拡印刷路線」は1972年7月9日の日本経済新聞が当社を論評した記事で担当記者が用いた新しい表現だった
  • 日経ビジネス 1991年10月7日号
    • [84]1991年6月 藤田弘道が社長就任(1953年入社、1980年取締役、1989年副社長)。電子メディアへの拡大を前に最大の課題は人材育成と語った
    • [85]1991年6月 藤田弘道が社長就任(1953年入社、1980年取締役、1989年副社長)。電子メディアへの拡大を前に最大の課題は人材育成と語った
  • 日経ビジネス 1991年10月21日号
    • [86]隣接分野へ広げる拡印刷から、質的に変える超印刷へ転換し電子メディアをその担い手に据えた。印刷に最も近い複写機市場をゼロックスなどに奪われた経験を繰り返さないという警戒
    • [87]隣接分野へ広げる拡印刷から、質的に変える超印刷へ転換し電子メディアをその担い手に据えた。印刷に最も近い複写機市場をゼロックスなどに奪われた経験を繰り返さないという警戒
    • [89]隣接分野へ広げる拡印刷から、質的に変える超印刷へ転換し電子メディアをその担い手に据えた。印刷に最も近い複写機市場をゼロックスなどに奪われた経験を繰り返さないという警戒
    • [90]社内教育組織メディア塾は1期3か月・40人規模で7期300人が修了
    • [91]1990年 国際花と緑の博覧会でハイビジョン番組から写真新聞を仕立て183日間毎日1万部を発行。費用は約5億円で、小手先の対応ならやめよ・ノウハウ蓄積が目的ならやれというトップ判断により150人態勢とした
    • [92]1990年 国際花と緑の博覧会でハイビジョン番組から写真新聞を仕立て183日間毎日1万部を発行。費用は約5億円で、小手先の対応ならやめよ・ノウハウ蓄積が目的ならやれというトップ判断により150人態勢とした
    • [93]電子メディアの売上は総売上の1%弱(60〜80億円)だが年間120億円の研究開発投資の20〜30%を占めた。1991年時点で出版印刷は売上の20%、シャドーマスクや液晶カラーフィルターなど精密部品が10%
  • 会社年鑑
    • [94]連結売上高は1992年3月期1兆1,749億円、1999年3月期1兆2,234億円

第3章 2000-2018 (気が向いたら執筆します!) 足立直樹の図書印刷・SNP買収と初の純損失、製造部門の分社化と米国工場

第4章 2019-2026 (気が向いたら執筆します!) 麿秀晴の図書印刷完全子会社化とTOPPANHDへの移行、ソノコ軟包装事業の取得

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歴史年表 1900〜2026年

TOPPAN(凸版印刷)の沿革1900〜2026年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1900〜1974年技術型ベンチャーから全国最大手への成長と拠点網整備凸版印刷を設立★
株式会社に改組★
内外印刷の合併と本所分工場の開設★★
資本金300万円への増資を機に東京株式市場へ株式を初上場★★
関東大震災で本所分工場が全焼、本社工場も類焼★★★
東京紙器の合併と小石川紙器工場の開設★★
大阪分工場を新設★
精版印刷を合併★★
空襲で本社と下谷・本所の両工場を焼失★★★
山田三郎太東京証券取引所に株式上場★
山田三郎太民間会社の紙幣印刷が全面廃止となり営業収入の36%を喪失★★
山田三郎太事業部制を導入★
山田三郎太Moore社との合弁でトッパン・ムーア・ビジネスフォームを設立★★
沢村嘉一朝霞精密工場を新設★
1975〜1999年受注産業からの脱却沢村嘉一福崎工場を新設★
鈴木和夫澤村嘉一氏の急逝により鈴木和夫氏が社長に就任★★
鈴木和夫新潟工場を新設★
鈴木和夫幸手工場を新設★
藤田弘道藤田弘道氏が社長に就任★
藤田弘道嵐山工場を新設★
藤田弘道トッパン・フォームズが東京証券取引所一部に上場★
2000〜2018年足立直樹の図書印刷・SNP買収と初の純損失、製造部門の分社化と米国工場足立直樹足立直樹氏が社長に就任★
足立直樹図書印刷を第三者割当増資で子会社化★★
足立直樹シンガポールSNP Corporationを買収★★
足立直樹初の純損失▲77億円を計上★★
足立直樹製造部門を分社化★
金子眞吾金子眞吾氏が社長に就任★
金子眞吾群馬センター工場を新設★
金子眞吾Toppan USA, Inc.ジョージア工場を新設★
金子眞吾執行役員制度を導入★
2019〜2026年麿秀晴の図書印刷完全子会社化とTOPPANHDへの移行、ソノコ軟包装事業の取得麿秀晴麿秀晴氏が社長に就任★
麿秀晴図書印刷を完全子会社化★★
麿秀晴INTERPRINT GmbHを買収★★
麿秀晴創業123年で掲げてきた「凸版印刷」の看板を外す持株会社化

2023年10月1日、凸版印刷が吸収分割で持株会社体制へ移行し、商号をTOPPANホールディングス株式会社へ変更した経営判断。2023年3月9日の取締役会で移行を決議し、4月27日に分割準備会社2社との吸収分割契約を締結、6月29日の第177回定時株主総会で承認を得た。 持株会社の傘下には、主要部門を母体とするTOPPAN株式会社、DX事業を牽引するTOPPANデジタル株式会社、同年4月にセキュア事業を統合したTOPPANエッジ株式会社の3社が並んだ。創業123年で社名から"印刷"の二字が外れている。

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★★★
麿秀晴軟包装・熱成形容器事業に1,826百万米ドルを投じた北米軟包装の面化

TOPPANは2024年12月18日(米国時間)、米SONOCO社の軟包装事業および熱成形容器事業(TFP事業)を取得する契約を締結し、2025年4月1日付で取得を完了した。取得原価は価格調整を反映して1,826百万米ドル、計上したのれんは770億円にのぼる。従業員約4,500名・22の製造工場を擁する事業を取り込み、2008年のSNP、2016年の米ジョージア工場、2021年のInterFlexと10年以上かけて点で押さえてきた北米の供給網を、一挙に面へまとめる買収であった。

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★★★
麿秀晴半導体フォトマスク事業の分社化と、プライム市場への切り出し上場

2025年10月16日、TOPPANホールディングスの連結子会社テクセンドフォトマスクが東京証券取引所プライム市場に上場した。1961年にシリコントランジスタ用フォトマスクの試作に成功し、1968年に量産へ移した事業は、半導体向け外販フォトマスク市場でシェア38.9%(2024年)の世界首位に育っている。2022年4月に株式の49.9%を独立系ファンドのインテグラルへ譲渡して合弁とし、上場でTOPPANの議決権割合は46.57%へ下がって、連結子会社から持分法適用関連会社へ移った。

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★★★
大矢諭麿秀晴が代表取締役会長CEOに退き、大矢諭が代表取締役社長COOに就任★
出典・参考 12件
出典・参考
  • 有価証券報告書
  • 『凸版印刷株式会社史』(凸版印刷株式会社, 1985年)
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社・1955年)
  • 企業の歴史 明治百年(経済春秋社・1968年)
  • ポケット社史 文化に根ざした情報・生活産業(凸版印刷, 1990年)
  • 会社年鑑
  • 日経ビジネス 1980年10月6日号
  • 日経ビジネス 1981年10月5日号
  • 日経ビジネス 1990年12月31日号
  • 日経ビジネス 1991年10月7日号
  • 日経ビジネス 1991年10月21日号
  • 日経ビジネス 1992年2月17日号

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