1900年1月17日、凸版印刷合資会社は東京市下谷区二長町で設立された。出資4万円のうち2万円は十五銀行の副支配人を辞していた河合辰太郎、1万7,000円は銀行家の三輪信次郎が出し、大蔵省印刷局を辞した木村延吉・伊藤貴志・降矢銀次郎は各1,000円で、降矢の分は彫刻機械4点の現物出資だった。資本主と技術者の結束を明確にするため、個人的企業ではなく初めから合資会社の組織を採っている。狙いは、有価証券や商品の偽造を防ぐ銅凸版印刷を民間で初めて行うことにあった。核となったのは印刷局が門外不出としていたエルヘート凸版法で、木村と降矢は同法を日本へ伝えたお雇い外国人エドアルド・キヨソネの門下生である。
そのエルヘート凸版法は、1874年に大蔵省紙幣寮がドイツ・フランクフルトのドンドルフ・ナウマン社から導入した製版法で、社名はこの技術を経営の中心に据えたことに由来する。もっとも、会社を実際に動かしたのは有価証券ではなく煙草だった。岩谷商会から天狗煙草の包装紙を大量に受注する確約を得たことが河合と三輪の出資を決め、1900年7月に納めた同社の包紙が最初の製品になっている。1904年3月29日に煙草専売法が成立すると営業の大部分を失う恐れが生じ、社内では工場を政府に買い上げてもらって解散する案まで出た。会社は存続を先に決め、法案成立の当日に専売局長へ随意契約による受注継続を請願して、これを容れられている。
念願だった有価証券印刷が社内で形になったのは1902年ごろの東京電気鉄道の株券からで、1905年には関西鉄道がロンドンで発行した英貨建外債1,000万円の債券を手がけ、その精技は現地でも推賞された。株券・社債券に加えて勧業債券や政府発行の諸債券の受注が増えるにつれ、設備と技術はともに進歩している。1906年の"営業案内"は資本金20万円、従業者500余名で夜を日に継いでも足りない状況だと記した。1908年6月には資本金40万円の株式会社へ改組する。偽造防止という参入障壁の高い分野を、官の技術者と民の資本を組み合わせて民間に開いたのが創業期の実像であり、この彫刻と腐食の技術が半世紀後に精密加工へ転用される。
1908年10月、経営不振の内外印刷を合併して本所分工場とし、資本金は50万円になった。社史は、不況下に資本を倍にして株式会社へ改めた理由を将来への積極策だと説くのは表向きの解釈であり、本質は内外印刷の合併を前提にした組織変更だったと裁定している。設立の6日後に合併の仮契約を締結し、役員が報酬を辞退して臨んだ合併だったが、その後は無配が続き、従業員は合併直後の816名から翌年末には277名まで減った。井上源之丞が社内の反対を押して社外に設けたオフセット印刷合名会社は、1918年1月に買収されて神田分工場となる。オフセットの将来性を見抜いた井上が、社内で通らない計画を社外の別会社で実証してから本体へ戻すという迂回路を採ったことが、のちに業界標準となる印刷方式を同社に引き寄せた。
資本金を一度に3倍へ増やして300万円としたのは1920年12月で、これを機に東京株式市場で初めて株式が上場された。大戦景気のもとで普通配当は18%が続いていた。そこへ1923年9月1日の関東大震災が襲い、本所分工場は焼け落ちた。本所区内に住む工員のうち18名が命を落とし、工場長夫妻の行方もわからなくなった。解散か、立て直しか。社長の井上と相談役の三輪信次郎がこれを話し合ったのは9月2日の夜更けから翌3日にかけてで、出た結論は総力を挙げた復興だった。生産は、提携先の東京紙器と、大阪の精版印刷・中田印刷所に出張所を設けて急場をしのぐ形に組み直し、10月から12月にかけて震災切手9種14億枚を納入した。竣工して5か月しかたっていない新工場を失いながらも、印刷局が罹災して行き先のなくなった公的印刷物の需要を取り込みにいくという判断が、再起の道筋を定めた。
震災損失金は106万6,919円に達し、積立金をすべて取り崩して2期を無配としたが、1924年11月期には年12%配当へ復した。帳簿を焼失したため買掛金は業者の請求どおり利子を付けて全額支払い、それが信用になったと井上は後年述べている。1926年4月には東京紙器を合併して小石川紙器工場とし、紙製容器の製造を加えた。1927年1月の大阪分工場は10年近く赤字が続き、井上が「どうせつぶれる工場なら始末してこい」と山田三郎太を送り込んでようやく黒字に転じている。関西に拠点を築くという所信を、10年の赤字を抱えたまま曲げなかったことが後の全国体制の土台になった。震災と不況を続けて浴びながら、同社は東西二つの生産拠点を手放さなかった。
1936年、井上は欧米133か所の工場を回って機械を仮発注し、翌年の増資では王子製紙の藤原銀次郎と講談社の野間清治が各1万株を引き受けた。こうして1938年5月に板橋工場が操業に入る。1943年の富士工場は新設ではなく、大昭和製紙の富士工場を下谷工場の疎開先として継承したもので、始業式は同年8月1日だった。1944年7月には、資材と労働力の途絶で経営が極端に悪化していた精版印刷を合併して大阪支社を開設し、資本金を2,250万円とした。井上が大正期から温めた構想が、統制下の窮境を機に実現した合併であった。戦時統制下の拡張は自前の新設ではなく他社の設備と人員を引き取る形をとらざるを得ず、結果として東京の偽造防止印刷と関西の出版系印刷という性格の異なる二つの基盤を併せ持つことになった。
1945年3月10日の空襲で本社と下谷・本所の両工場を焼き、家庭で罹災死した社員工員は50名、住宅を焼かれた者は1,146名を数えた。大牟田の兵器部品工場は熊本県玉名へ移る途中で終戦を迎え、九州工場と名を変えて1946年6月に印刷工場としての操業を開始する。1949年には民間会社の紙幣印刷が全面的に廃止され、営業収入の36%を占めていた仕事が消えた。前年には過度経済力集中排除法による3分割の指令も受けたが、山田三郎太専務が総合印刷工場の必要を説いて同年12月に解除させている。同じ1949年5月、東京証券取引所へ株式を上場した。紙幣という最大の収益源を制度によって失い、集中排除法で分割されかけたところから、印刷の総合性そのものを存立の根拠として説き直した時期である。
1951年に山田が渡米して結んだミルプリント社との技術提携が、アニリン印刷やポリエチレン印刷の入口となった。1960年3月、山田社長は5年で規模を倍にすると新聞で語り、政府の所得倍増計画に半年先んじる。計画は1961年12月の事業部制導入で組織に落とし込まれた。海外では1963年に香港で折半出資の合弁を興し、1965年にはアジア・ビジネスフォームの商号を変更してムーア社の資本を受け入れて出資比率55対45の合弁とする。精密加工は1959年、製糖会社に頼まれたメタルプレートフィルターを株券の彩紋製版の技術で作ったのが最初で、同年7月に富士通信機製造がトランジスタ用マスクの試作を依頼した。1973年12月には朝霞精密工場を新設している。
印刷会社の収入は、得意先が広告や出版の計画を決めた後にしか立たない商売である。凸版印刷の1975年からの四半世紀は、その順番のほうを動かそうとした期間だった。1970年から1974年まで年平均22.3%で伸びた売上高は、1975年からの5年間で12.1%まで低下している。需要が自然に膨らむ前提が消えたとき、澤村嘉一が打ったのは値上げでも一律の人減らしでもなく、製品ごとの原価を掴んで見合う価格を作る仕組みの整備であり、労働集約的な工程を子会社へ移して本体を軽くする作業だった。従業員は6年で1万323名から8,357名へ減り、借入金は263億円から67億円余まで減った。
そこから先に起きたのは、事業の中身より先に自己規定を書き換える動きである。鈴木和夫は1982年の年頭に業際人という言葉を掲げ、専門化して縦に深くなった各業種の横をつなぐ位置に自社を置いた。藤田弘道は1991年に超印刷を掲げ、印刷を隣接分野へ広げる拡印刷から、印刷そのものを質的に変える方向へ言い直した。どちらも、印刷会社同士の比較では説明できない場所へ出ようとする言葉である。ただし1991年の電子メディアの売上は総売上の1%弱にあたる60億円から80億円にすぎず、年間120億円の研究開発投資の2割から3割を吸い込む段階にとどまった。1992年3月期の1兆1,749億円から1999年3月期の1兆2,234億円まで、連結売上高はほぼ横ばいだった。
1975年10月、取締役会は営業・生産・技術・研究開発を軸とする重点施策5項目を決め、各事業部へ通達した。1970年から1974年までの5年間で年平均22.3%だった売上高の伸びは、1975年からの5年間で12.1%へ後退し、1976年5月期にいたっては8.3%にとどまる。5項目の第3に置かれたのが新しい価格体系の確立で、原材料費と諸経費の高騰が続く前提に立ち、製品個別の原価を把握して見合う価格を設定する仕組みを求めた。残る4項目は営業活動と生産効率、新製品開発、省資源、公害・廃棄物対策で、いずれも澤村嘉一社長がかねて示してきた方針を総括したものだった。1977年12月には包装関係の各事業部を統合し、東京と関西に包材事業部を置いている。売上高は1975年5月期の2,094億円から翌期の2,268億円となった。
各事業部は作業工程の一部を切り出し、独立した子会社へ移した。1976年10月の凸版佐賀容器、1980年12月の凸版グラビア製版がそれで、紙カップの成形やグラビアシリンダーの製版といった労働集約的な工程が本体を離れた。1974年5月に1万323名だった従業員は、1980年5月には8,357名まで減っている。資金の側では、多くの企業が設備投資を控えて借入金の返済へ走った局面で、凸版印刷は投資を続けながら間接金融を抑える組み方を選ぶ。1975年12月と1980年6月に公募増資を行い、1978年12月には転換社債70億円を発行した。借入金は263億円から67億円余へ減り、自己資本比率は36.1%から43.8%へ上がった。投資そのものは止めず、1975年には特殊印刷とチューブ・カップの福崎工場を建てている。
1981年2月20日午後1時37分、澤村嘉一社長が心筋梗塞で急逝した。会社はその晩のうちに緊急取締役会を招集し、鈴木和夫副社長の社長就任を満場一致で決議している。澤村は1967年9月の就任から13年余で売上高を8倍にした経営者で、葬儀はグループ8社の合同葬となった。引き継いだ鈴木の自己規定は権限委譲型で、社長の椅子も委託を受けた職務として扱った。同時に、社是に掲げる誠意・熱意・創意のうち創意は落第点だと自省し、注文を待つ受注産業から、得意先との共同作業で需要そのものを掘り起こす業態へ移ることを掲げている。外国部長としてシンガポールで受注した際、見積書の計算違いに自ら気づいて申し出ながら、約束したロットは誤った値段のまま引き受けて取引を続けた経験を、後年みずから語った。
凸版印刷が店頭広告物のPOPへ本格的に出たのは1970年代後半である。扱う素材は紙にとどまらず木材・プラスチック・金属へ広がり、ホログラフィを使った広告板や、ICと液晶で動く店頭広告まで作った。1979年度までの5年間でこの部門の売上は3倍近くに伸び、100億円に迫っている。支えたのは設備ではなく人で、取締役アイデアセンター本部長の渡辺廣はPOPのデザイナー30人を自社で育て、米国の提携先の工房へも送り出した。もっとも1980年5月期の売上高は3,634億円で、100億円の部門はその3%に満たない。印刷の注文は得意先の広告計画が固まった後に来るが、店頭で何を置くかの設計から入れば、注文の前段へ回り込める。
業際とは、専門分化で縦方向に深まった業種どうしを横につなぐ立ち位置のことで、異業種の企業が抱える課題を解いてみせる仲人の役を自社が引き受けるという意味を込めた言葉だった。鈴木和夫社長は1982年1月の年頭挨拶で、この業際人であることを貫くよう求めた。同年11月の対談で鈴木が業際的な活動として挙げたのは、あらゆる業種の得意先から寄せられるソフトウェアを自社の技術と組み合わせることである。競争の主戦場はこれから同業どうしから異業種どうしへ移る、と鈴木は見ていた。1982年5月には印刷業界で初めて欧州預託証券による海外公募増資を実施し、資本金は205億7,436万円余となった。1982年5月期の売上高は4,476億円で、1975年5月期の2,094億円から7年で2.1倍になっている。業際という言葉は、同業他社との比較では説明のつかない事業をこれから作るという宣言でもあった。
新しい情報市場へ入るための戦略部門として位置づけられたのが、1983年6月1日に本社で発足した情報システム開発本部で、拡印刷や総合印刷企業という従来の路線を越える一歩とされた。研究の体制は1986年7月に改まり、それまで事業所ごとに散らばっていた研究の機能と人材が埼玉県杉戸の総合研究所に集められ、同研究所は3つの命題を掲げた。印刷技術をいっそう深く掘り下げること、印刷の原理を中核に据えて隣の分野へ広げる拡印刷、次に来る需要の波に応える先端技術の開発である。工場の新設も紙から離れていき、1984年の新潟工場はプリント配線板、1988年の滝野工場は液体用紙容器、1990年の幸手工場は機能性材料を作るために建てられている。印刷機を増やす投資から、印刷の技術を別の製品へ移し替える投資へ、資金の投入先が入れ替わった時期である。
1990年9月、企画・販売促進・研究開発・システム開発の4部門にスーパー・フレックスタイム制が入った。1日1時間の勤務で出勤とみなす仕組みで、対象は560人、全社員約1万人の5%ほどにすぎない。それでも踏み切ったのは、労働時間の長さが人材の確保に響き始めていたからである。導入前の営業部門は月の残業が50時間から65時間、年間総労働時間は2,500時間を超え、出版や商業印刷を担当する社員では残業が月100時間に達した。印刷の現場に付きまとう3Kの印象への危機感は強く、鈴木和夫社長は日本印刷産業連合会の会長として業界全体のイメージ改善を掲げている。労働時間に手を付けたのは初めてではなく、1974年1月には隔週週休2日制を実施していた。
1991年6月、藤田弘道が社長に就任した。1953年入社、1980年に取締役、1989年に副社長を経ての就任で、電子メディアへ事業を広げる前の最大の課題は人材育成に置かれた。藤田が新たに掲げたのは超印刷だった。隣接する分野へ事業の範囲を広げる拡印刷に対し、超印刷は印刷そのものを質的に変えるという意味で、その担い手には電子メディアを据えている。もっとも拡印刷という語は自社の造語ではなく、1972年に凸版印刷を論評した新聞記事のなかで担当記者が用いた表現だった。路線の裏には、印刷に最も近い複写機の市場をゼロックスなどに奪われた経験を繰り返すまいという強い警戒があった。
超印刷を担う人材は社内で育てられた。メディア塾と名づけた教育組織は1期3か月・40人規模で回り、7期で300人が修了している。1990年の国際花と緑の博覧会では、ハイビジョン番組の映像から写真新聞を仕立てて183日間毎日1万部を発行した。費用は約5億円に上り、小手先の対応ならやめよ、ノウハウの蓄積が目的ならやれというトップの判断で150人態勢が組まれている。それでも1991年時点の電子メディアの売上は総売上の1%弱にあたる60億円から80億円で、年間120億円の研究開発投資の20%から30%を吸い込む段階にとどまった。連結売上高は1992年3月期の1兆1,749億円から1999年3月期の1兆2,234億円まで、7年でほぼ動いていない。超印刷は1990年代のうちに収益源へは育たず、次の時代へ渡す種として残った。
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|---|---|---|---|---|
| 1900〜1974年技術型ベンチャーから全国最大手への成長と拠点網整備 | 凸版印刷を設立 | ★ | ||
| 株式会社に改組 | ★ | |||
| 内外印刷の合併と本所分工場の開設 | ★★ | |||
| 資本金300万円への増資を機に東京株式市場へ株式を初上場 | ★★ | |||
| 関東大震災で本所分工場が全焼、本社工場も類焼 | ★★★ | |||
| 東京紙器の合併と小石川紙器工場の開設 | ★★ | |||
| 大阪分工場を新設 | ★ | |||
| 精版印刷を合併 | ★★ | |||
| 空襲で本社と下谷・本所の両工場を焼失 | ★★★ | |||
| 山田三郎太 | 東京証券取引所に株式上場 | ★ | ||
| 山田三郎太 | 民間会社の紙幣印刷が全面廃止となり営業収入の36%を喪失 | ★★ | ||
| 山田三郎太 | 事業部制を導入 | ★ | ||
| 山田三郎太 | Moore社との合弁でトッパン・ムーア・ビジネスフォームを設立 | ★★ | ||
| 沢村嘉一 | 朝霞精密工場を新設 | ★ | ||
| 1975〜1999年受注産業からの脱却 | 沢村嘉一 | 福崎工場を新設 | ★ | |
| 鈴木和夫 | 澤村嘉一氏の急逝により鈴木和夫氏が社長に就任 | ★★ | ||
| 鈴木和夫 | 新潟工場を新設 | ★ | ||
| 鈴木和夫 | 幸手工場を新設 | ★ | ||
| 藤田弘道 | 藤田弘道氏が社長に就任 | ★ | ||
| 藤田弘道 | 嵐山工場を新設 | ★ | ||
| 藤田弘道 | トッパン・フォームズが東京証券取引所一部に上場 | ★ | ||
| 2000〜2018年足立直樹の図書印刷・SNP買収と初の純損失、製造部門の分社化と米国工場 | 足立直樹 | 足立直樹氏が社長に就任 | ★ | |
| 足立直樹 | 図書印刷を第三者割当増資で子会社化 | ★★ | ||
| 足立直樹 | シンガポールSNP Corporationを買収 | ★★ | ||
| 足立直樹 | 初の純損失▲77億円を計上 | ★★ | ||
| 足立直樹 | 製造部門を分社化 | ★ | ||
| 金子眞吾 | 金子眞吾氏が社長に就任 | ★ | ||
| 金子眞吾 | 群馬センター工場を新設 | ★ | ||
| 金子眞吾 | Toppan USA, Inc.ジョージア工場を新設 | ★ | ||
| 金子眞吾 | 執行役員制度を導入 | ★ | ||
| 2019〜2026年麿秀晴の図書印刷完全子会社化とTOPPANHDへの移行、ソノコ軟包装事業の取得 | 麿秀晴 | 麿秀晴氏が社長に就任 | ★ | |
| 麿秀晴 | 図書印刷を完全子会社化 | ★★ | ||
| 麿秀晴 | INTERPRINT GmbHを買収 | ★★ | ||
| 麿秀晴 | 創業123年で掲げてきた「凸版印刷」の看板を外す持株会社化 2023年10月1日、凸版印刷が吸収分割で持株会社体制へ移行し、商号をTOPPANホールディングス株式会社へ変更した経営判断。2023年3月9日の取締役会で移行を決議し、4月27日に分割準備会社2社との吸収分割契約を締結、6月29日の第177回定時株主総会で承認を得た。 持株会社の傘下には、主要部門を母体とするTOPPAN株式会社、DX事業を牽引するTOPPANデジタル株式会社、同年4月にセキュア事業を統合したTOPPANエッジ株式会社の3社が並んだ。創業123年で社名から"印刷"の二字が外れている。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 麿秀晴 | 軟包装・熱成形容器事業に1,826百万米ドルを投じた北米軟包装の面化 TOPPANは2024年12月18日(米国時間)、米SONOCO社の軟包装事業および熱成形容器事業(TFP事業)を取得する契約を締結し、2025年4月1日付で取得を完了した。取得原価は価格調整を反映して1,826百万米ドル、計上したのれんは770億円にのぼる。従業員約4,500名・22の製造工場を擁する事業を取り込み、2008年のSNP、2016年の米ジョージア工場、2021年のInterFlexと10年以上かけて点で押さえてきた北米の供給網を、一挙に面へまとめる買収であった。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 麿秀晴 | 半導体フォトマスク事業の分社化と、プライム市場への切り出し上場 2025年10月16日、TOPPANホールディングスの連結子会社テクセンドフォトマスクが東京証券取引所プライム市場に上場した。1961年にシリコントランジスタ用フォトマスクの試作に成功し、1968年に量産へ移した事業は、半導体向け外販フォトマスク市場でシェア38.9%(2024年)の世界首位に育っている。2022年4月に株式の49.9%を独立系ファンドのインテグラルへ譲渡して合弁とし、上場でTOPPANの議決権割合は46.57%へ下がって、連結子会社から持分法適用関連会社へ移った。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 大矢諭 | 麿秀晴が代表取締役会長CEOに退き、大矢諭が代表取締役社長COOに就任 | ★ |
免責事項およびポリシー
事実根拠:出所(TOPPAN(凸版印刷))