靴のマルトミ の歴史

創業

1950年

創業者

冨永光行

創業地

愛知県名古屋市

直近売上高(2000/2)

1,211億円

長期業績と転換点(1983/2〜2000/2)
売上高(億円純利益率(%)
Q なぜ1950年に、冨永光行氏は注文靴を既製靴へ作り替えたのか
A 靴が高いのは品質ではなく生産方式に原因があると冨永光行氏は読み、注文靴の手仕事を流れ作業へ置き換えれば値段を一桁下げて買い手を広げられると見込んだ。大卒初任給が約3000円で革靴も注文で1足3000円という時代、冨永氏は靴工場を一軒ずつ回り「流れ作業で作る」既製靴を持ちかけ、1足600円での量産にこぎ着けた。1950年に名古屋で開いた丸富靴店ではこれを1000円で売り、靴を足ごとに仕立てる耐久財から、誰でも買える日常の消耗品へと位置づけ直した
Q なぜ1975年に、都心100店の6割を閉じてまで郊外ロードサイドへ移したのか
A 自家用車が普及し、家族で郊外店に乗りつけて靴を選ぶ買い方が広がる一方、市内では路面電車の廃止で繁華街がさびれつつあった。客の動線が都心から郊外へ移るなら店もそこへ移すべきだと判断したマルトミは、1975年に名古屋市内100店のうち60店を閉じ、駐車場を備えたロードサイド店へ出店方針を切り替えた。さらに大店法のもとで500平米超の大型店出店は抑えられる一方、規制のかからない小型の郊外専門店には余地が残されていた。マルトミはこの制度の隙間を突いて投資を抑えた小型店を量産し、1986年には靴販売金額で国内シェア4.47%の首位に立った
Q なぜ証券コード9863の法人格は、2005年にファーストリテイリングの傘下へ移りジーユーになったのか
A 大店法が緩んで郊外型ショッピングセンターが台頭すると、ロードサイドの小型靴専門店は品揃えでも集客でも劣後し、ピークの1996年2月期に約1717億円あった売上が崩れて2000年12月にマルトミは負債約761億円で民事再生を申請した。再建で残ったのは全国330店の店舗網と靴小売の販売力で、これを使ってユニクロと早期にシナジーを生み靴小売へ参入する狙いから、ファーストリテイリングは2005年3月にワンゾーン株を100%取得した。柳井正氏らの下で店舗網は低価格カジュアル衣料へ転用され、靴流通センターはFOOTPARKを経てジーユーの売場へと姿を変えた

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1950年〜 既製靴の価格破壊と郊外型店舗への戦略転換

  1. 1950年丸富靴店を開業
  2. 1957年名駅地下街サンロード店を開店
  3. 1957年合資会社靴のマルトミを設立
  4. 1965年従業員の不正が発覚
  5. 1965年掛け売りを禁止
  6. 1973年株式会社靴のマルトミを設立
  7. 1975年郊外店にシフト

靴のマルトミの業績推移:単体

売上高(億円)

出所:有価証券報告書等

大卒初任給並みの靴を1000円で売った冨永光行の発想

1950年に冨永光行が名古屋市内で開いた「丸富靴店」は、当時の常識を覆す店だった。靴は職人が一人ひとりの足に合わせて仕立てる高級品で、価格は大卒初任給に匹敵した。冨永は既存の靴工場を一軒ずつ回り、手作業ではなく流れ作業による既製靴の量産を提案した。製造原価は1足600円まで下がり、丸富靴店では1足1000円で販売した。注文靴の常識からみて格段に低い価格設定で、靴を耐久財から日常消耗品へと位置づけ直す試みだった。価格を下げて購入層を広げる発想は当時の小売業で一般化しておらず、創業期マルトミの競争優位を支えた。戦後の物資不足下にあって、安価で履ける靴は中流家庭の家計感覚を変える商品でもあった。 [1][2][3]

  • 靴のマルトミ 有価証券報告書【沿革】
    • [1]1950年 冨永光行が名古屋市内で丸富靴店を開業(既製靴の低価格販売)
    • [2]創業者は冨永光行
    • [3]製造原価1足600円・店頭価格1足1000円(既製靴量産による低価格化)

1957年に合資会社靴のマルトミを設立し、名古屋駅地下街のサンロード店で都心部の一等地にも進出した。地下街立地は駅利用者の通勤・通学動線を取り込む業態で、靴専門店として新しい立ち位置を示す出店だった。1965年には従業員の不正発覚をきっかけに掛け売りを禁止し、現金取引を徹底して債権回収リスクと資金繰りの不安定さを同時に断った。1973年に株式会社靴のマルトミとして再設立し、都市部を中心とした多店舗展開の基盤を整えた。既製靴の低価格販売と現金主義は創業期に確立された二つの原則で、のちの全国チェーン展開でも経営判断の軸として長期にわたり参照された。 [4][5][6][7]

  • 靴のマルトミ 有価証券報告書【沿革】
    • [4]1957年(3月)合資会社靴のマルトミを設立
    • [5]名古屋駅地下街にサンロード店を出店(都心部の地下街立地)
    • [6]1965年 従業員の不正発覚をきっかけに掛け売りを禁止(現金取引へ)
    • [7]1973年(2月)株式会社靴のマルトミに組織変更(法人改組)
  • 靴のマルトミ 有価証券報告書【沿革】
    • [1]1950年 冨永光行が名古屋市内で丸富靴店を開業(既製靴の低価格販売)
    • [2]創業者は冨永光行
    • [3]製造原価1足600円・店頭価格1足1000円(既製靴量産による低価格化)
    • [4]1957年(3月)合資会社靴のマルトミを設立
    • [5]名古屋駅地下街にサンロード店を出店(都心部の地下街立地)
    • [6]1965年 従業員の不正発覚をきっかけに掛け売りを禁止(現金取引へ)
    • [7]1973年(2月)株式会社靴のマルトミに組織変更(法人改組)

大店法の隙間を突いたロードサイド小型店戦略

1970年代後半、自家用車の普及とともに郊外ロードサイド商業が広がった。家電・衣料・外食など各業種で郊外化が進み、靴の購買行動も百貨店や都心専門店から、自家用車で郊外店に乗り付けて選ぶスタイルへ変わりつつあった。1975年、マルトミは郊外型店舗へのシフトを決め、駐車場を備えたロードサイド立地に出店方針を転換した。大店法の下で広い店舗の出店は制約を受けたが、一定規模以下の郊外専門店には出店余地が残された。マルトミはこの規制構造の隙間を突き、出店エリアを広げた。家族単位での来店を想定し、広い駐車場と商品陳列の幅を確保する設計思想を伴う出店だった。 [8][9]

  • 靴のマルトミ 有価証券報告書【沿革】
    • [8]1975年 郊外型店舗へのシフトを決定(ロードサイド立地へ出店方針転換)
    • [9]大店法(大規模小売店舗法)の規制下で大型店出店が抑制される一方、小型郊外専門店には出店余地が残された規制環境

1980年代に固まったのが、小型郊外店を多数出店するというマルトミの基本戦略である。単店あたりの投資額を抑え、短期間で店舗網を拡大して全国認知と仕入規模を同時に伸ばす手法だった。都市部の地下街や駅前からロードサイドへ軸を移した判断は、マルトミの成長を加速させる転機となった。一方で、郊外ロードサイドと大店法という規制環境に依存する構造も同時に深まった。店舗網の拡大と固定費の増大は表裏一体で、規模を増やすほど撤退のハードルも高くなる構造を内側に積み上げた。この二面性は約20年後に経営を揺るがす構造問題として表面化した。

  • 靴のマルトミ 有価証券報告書【沿革】
    • [8]1975年 郊外型店舗へのシフトを決定(ロードサイド立地へ出店方針転換)
    • [9]大店法(大規模小売店舗法)の規制下で大型店出店が抑制される一方、小型郊外専門店には出店余地が残された規制環境

1976年〜 靴流通センターとBANBANによる全国展開の加速

  1. 1980年靴流通センターを全国展開
  2. 1983年全店舗にオンラインシステムを導入
  3. 1985年郊外おもちゃ専門店「BANBAN」の展開開始
  4. 1986年国内シェアNo.1
  5. 1987年オーナーシステムを採用
  6. 1993年1700店舗突破
  7. 1993年中国に現地法人を合弁設立

靴のマルトミの業績推移:単体

売上高(億円)純利益率(%)

出所:有価証券報告書等

全店オンライン化と1700店超 ── 靴小売業界の先頭へ

1980年前後にマルトミは郊外靴専門店「靴流通センター」の全国展開を本格化した。出店地域の地名を冠した店舗名で地域密着型の量販靴専門店として認知を高めた。ロードサイド立地と低価格訴求の二つを軸に、1980年代を通して店舗数を伸ばした。1983年10月には全店舗にオンラインシステムを導入し、在庫管理と販売データを一元化した。当時の靴小売業界では店舗単位の手作業管理が一般的で、全店オンライン化は業界の先頭を走る取り組みだった。1988年にはPOS導入を決め、売れ筋商品の把握と仕入れの機動的な調整を支える仕組みを整えた。情報システムへの投資が規模の経済と組み合わさり、競争力の柱となった。 [10][11][12]

  • 靴のマルトミ 有価証券報告書【沿革】
    • [10]1980年前後 郊外靴専門店「靴流通センター」の全国展開を本格化
    • [11]1983年10月 全店舗にオンラインシステムを導入
    • [12]1988年 全店舗にPOS導入を決定

1986年に靴小売業として国内シェア首位に立った。1987年にはオーナーシステムを導入し、従業員が独立して店舗を運営する制度で出店速度を上げた。直営店より低いリスクと投資で店舗網を拡大する手法は多店舗展開を後押ししたが、オーナーとの関係維持や商品供給の調整など新たな運営課題も生んだ。1990年に名古屋証券取引所へ株式上場し、資本市場から調達した資金を出店投資に充てる体制を組んだ。1993年には店舗数が1700を突破し、売上高は約1717億円に達した。靴を日常消費財に変えた低価格販売と、大店法の制約下で小型店を大量出店するモデルが、急成長を支えた二つの柱だった。 [13][14][15][16]

  • 靴のマルトミ 有価証券報告書【沿革】
    • [13]1986年 靴販売金額で国内シェア首位(4.47%、2位チヨダ4.25%)
    • [14]1987年 オーナーシステムを導入(1990年時点で全964店中615店が同制度で運営)
    • [15]1990年(1月)名古屋証券取引所へ株式上場
    • [16]1993年 店舗数1700突破
  • 靴のマルトミ 有価証券報告書【沿革】
    • [10]1980年前後 郊外靴専門店「靴流通センター」の全国展開を本格化
    • [11]1983年10月 全店舗にオンラインシステムを導入
    • [12]1988年 全店舗にPOS導入を決定
    • [13]1986年 靴販売金額で国内シェア首位(4.47%、2位チヨダ4.25%)
    • [14]1987年 オーナーシステムを導入(1990年時点で全964店中615店が同制度で運営)
    • [15]1990年(1月)名古屋証券取引所へ株式上場
    • [16]1993年 店舗数1700突破

玩具BANBAN参入が広げたリスク分散と固定費

1985年、マルトミは靴に次ぐ成長軸として郊外型おもちゃ専門店「BANBAN」を立ち上げた。靴事業で培ったロードサイド出店と多店舗管理のノウハウを転用し、家族客を主たる来店層とする業態である。玩具は靴とは異なる商品回転と季節性を持つが、郊外型立地との親和性は高く、独立した事業として出店した。クリスマスや節句など需要が季節に集中する玩具の特性は、平準的な靴需要とはリスクプロファイルが異なる。両者を組み合わせて年間収益の安定化を図る意図もあり、単一業態への依存を避ける多業態化はリスク分散として合理的な戦略だった。靴と玩具の併設出店は集客の相乗効果も生み、家族での休日来店という新しい消費行動を取り込んだ。 [17]

  • 靴のマルトミ 有価証券報告書【沿革】
    • [17]1985年 郊外型おもちゃ専門店「BANBAN」を立ち上げ(ロードサイド出店ノウハウを転用)

1993年8月には中国に現地法人を合弁で設立し、生産拠点の確保と将来の市場展開を見据えて海外展開も模索した。1995年にはBANBANが268店まで広がり、靴事業との複数業態体制を組んだ。しかし多業態化は経営資源の分散も招いた。靴流通センターの1700店舗とBANBANの268店舗を合わせた店舗網の維持には固定費がかかった。売上が伸び続けなければ収益構造が逆転するリスクを抱えた。上場後も拡大を続けた店舗網は、その後の環境変化に対する弾力性を奪った。成長の前提が変わった瞬間に採算上の負担へと転じる構造を内側に抱え込み、1980年代の成功体験は90年代以降の撤退判断を遅らせる要因にも働いた。 [18][19][20]

  • 靴のマルトミ 有価証券報告書【沿革】
    • [18]1993年8月 中国に現地法人を合弁で設立(1994年に北京一号店)
    • [19]1995年 BANBANが268店まで拡大
    • [20]靴流通センター約1700店舗とBANBAN268店舗を合わせた店舗網
  • 靴のマルトミ 有価証券報告書【沿革】
    • [17]1985年 郊外型おもちゃ専門店「BANBAN」を立ち上げ(ロードサイド出店ノウハウを転用)
    • [18]1993年8月 中国に現地法人を合弁で設立(1994年に北京一号店)
    • [19]1995年 BANBANが268店まで拡大
    • [20]靴流通センター約1700店舗とBANBAN268店舗を合わせた店舗網

1994年〜 競争環境の激変と大量閉店による業績悪化

  1. 1994年180店舗を閉鎖
  2. 1994年17期ぶりの減益
  3. 1995年BANBANを268店展開
  4. 1998年最終赤字転落

靴のマルトミの業績推移:単体

売上高(億円)純利益率(%)

出所:有価証券報告書等

規制の傘が外れた瞬間 ── 17期ぶりの減益と180店閉鎖

1994年2月期、マルトミは17期ぶりの減益に転じた。バブル崩壊後の個人消費低迷に加え、大店法の運用緩和で郊外型SCが台頭し、ロードサイドの小型専門店は集客力で劣後した。長年にわたり成長の前提だった「大店法の規制の傘」が外れ始めた時期である。並行してディスカウントストアやGMSとの価格競争も激しくなり、低価格だけでは差別化が難しい環境に変わった。郊外小型店という出店フォーマット自体が、衣料・食品・家電・玩具など100カテゴリー以上を一括して扱うSCと競合する立場に置かれた。家族で1日を過ごせる商業施設の魅力を前に、靴1カテゴリーの小型店は来店動機を維持できなかった。マルトミの競争優位の源泉は失われ、店舗網の大きさはかつての強みから採算上の負担へと転じた。 [21][22]

  • 靴のマルトミ 有価証券報告書【沿革】
    • [21]1994年2月期 17期ぶりの減益に転じた
    • [22]大店法の運用緩和で郊外型SCが台頭し、ロードサイド小型専門店が集客力で劣後する競争環境の変化

1994年から1995年にかけて約180店舗を短期間で閉鎖した。段階的な縮小ではなく短期間での一括整理で、固定費負担の連鎖的な圧迫を食い止める狙いがあった。売上規模は縮小したが、市場や取引先に事業の不安定さを印象づける結果も伴い、1995年時点で信用不安の芽を残した。郊外小型店を大量出店するモデルが構造的に限界を迎えた転換点で、マルトミは出店拡大を前提としない経営への転換を迫られた。だが既存の店舗網と人員体制を前提とした固定費構造そのものは短期間で変えられず、縮小均衡への移行は後手に回った。これが経営再建の難しさを決定づける要因となった。 [23]

  • 靴のマルトミ 有価証券報告書【沿革】
    • [23]1994年から約180店舗を短期間で閉鎖(一括整理)
  • 靴のマルトミ 有価証券報告書【沿革】
    • [21]1994年2月期 17期ぶりの減益に転じた
    • [22]大店法の運用緩和で郊外型SCが台頭し、ロードサイド小型専門店が集客力で劣後する競争環境の変化
    • [23]1994年から約180店舗を短期間で閉鎖(一括整理)

311店閉鎖でも損失拡大 ── 売上減が削減を上回る悪循環

大量閉店にもかかわらず業績は回復しなかった。1998年に最終赤字へ転落し、1999年には3年間で380店閉鎖して黒字化を目指す経営改善計画を発表した。初年度に311店を閉じても損失は拡大した。計画は度重ねて修正を迫られ、メインバンクからの役員派遣や業態転換も試みたが、売上の急減と信用不安の顕在化は食い止められなかった。改善計画の前提だった売上水準そのものが維持できず、店舗閉鎖による固定費削減のペースを売上減少が常に上回った。計画は当初の目標を達成できないまま見直しを重ねた。不採算店の整理は地域の雇用と取引先にも連鎖的な影響を広げ、地元経済におけるマルトミの存在感は縮んだ。 [24][25]

1990年代半ばのマルトミが直面したのは、景気循環的な需要減少ではなく、郊外ロードサイド型靴専門店というビジネスモデル自体の競争力喪失だった。SCの靴売場・ディスカウント店・スポーツ用品店など複数チャネルが靴の取扱を広げ、靴流通センターが狙ったマスマーケット需要は多方向に分散した。低価格・多店舗・小型というマルトミの強みは、いずれも中途半端な位置に置かれた。広い品揃えと快適な買物環境を持つSC、より低価格のディスカウント店、双方の競合軸で劣後した。どちらの競合軸でも優位を確保できないまま時間が経過し、業態そのものを作り直すほどの大胆な判断なしには活路を見いだしにくい状況が続いた。

靴のマルトミの沿革1950〜2000年における主な出来事を抜粋

年月社長・CEO出来事重要度
丸富靴店を開業★★★
合資会社靴のマルトミを設立
名駅地下街サンロード店を開店★★
掛け売りを禁止
従業員の不正が発覚★★
名駅西エスカ店を開店
株式会社靴のマルトミを設立★★
郊外店にシフト★★★
靴流通センターを全国展開★★★
全店舗にオンラインシステムを導入
郊外おもちゃ専門店「BANBAN」の展開開始★★★
国内シェアNo.1★★
株式上場を目標設定
オーナーシステムを採用★★★
全店舗にPOS導入を決定
名古屋証券取引所に株式上場
1700店舗突破★★
中国に現地法人を合弁設立★★
180店舗を閉鎖★★★
17期ぶりの減益
BANBANを268店展開
最終赤字転落
民事再生法の適用申請★★★
出典・参考

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