| 期 | 区分 | 売上高 | 利益※ | 利益率 |
|---|---|---|---|---|
| 1983/2 | 売上高 / 当期純利益 | 121億円 | - | - |
| 1984/2 | 売上高 / 当期純利益 | 160億円 | - | - |
| 1985/2 | 売上高 / 当期純利益 | 270億円 | - | - |
| 1986/2 | 売上高 / 当期純利益 | 440億円 | - | - |
| 1987/2 | 売上高 / 当期純利益 | 650億円 | - | - |
| 1988/2 | 売上高 / 当期純利益 | 820億円 | - | - |
| 1989/2 | 売上高 / 当期純利益 | 767億円 | 8億円 | 1.1% |
| 1990/2 | 売上高 / 当期純利益 | 889億円 | 11億円 | 1.3% |
| 1991/2 | 売上高 / 当期純利益 | 1,064億円 | 12億円 | 1.1% |
| 1992/2 | 売上高 / 当期純利益 | 1,300億円 | 20億円 | 1.5% |
| 1993/2 | 売上高 / 当期純利益 | 1,547億円 | 28億円 | 1.8% |
| 1994/2 | 売上高 / 当期純利益 | 1,703億円 | 9億円 | 0.5% |
| 1995/2 | 売上高 / 当期純利益 | 1,680億円 | 3億円 | 0.1% |
| 1996/2 | 売上高 / 当期純利益 | 1,717億円 | 4億円 | 0.2% |
| 1997/2 | 売上高 / 当期純利益 | 1,702億円 | 1億円 | 0.0% |
| 1998/2 | 売上高 / 当期純利益 | 1,561億円 | -5億円 | -0.4% |
| 1999/2 | 売上高 / 当期純利益 | 1,380億円 | -29億円 | -2.2% |
| 2000/2 | 売上高 / 当期純利益 | 1,211億円 | -87億円 | -7.3% |
靴のマルトミの成長モデルを理解するには、大店法(大規模小売店舗法)という規制環境を前提に置く必要がある。1974年に施行された大店法は、大型商業施設の出店を規制し、中小小売業の保護を目的としていた。この規制下では、郊外に大型ショッピングセンターを自由に建てることはできず、消費者はロードサイドに点在する専門店で買い物をするしかなかった。マルトミの「靴流通センター」は、まさにこの環境に最適化されたモデルだった。大店法の規制対象にならない小型店舗を郊外ロードサイドに大量出店し、駐車場を備えて車利用客を取り込む。規制が大型店の参入を阻んでいる限り、小型専門店には安定した集客が見込めた。
このモデルの強みは、単店あたりの投資額が小さく、出店速度を維持しやすい点にあった。1987年に導入されたオーナーシステムは、社員に店舗経営の裁量を委ね、独立採算に近い形で運営する仕組みであり、964店中615店がこの制度で運営された。本社は売上総利益の一定割合を受け取り、残余は店舗側が裁量で活用できる。現場の活力を引き出す仕組みとして機能し、出店拡大の速度をさらに押し上げた。1993年には1700店舗を突破し、経常利益57億円を記録した。しかし、この成長の前提条件は「大店法が大型店の出店を抑制している」という規制環境そのものにあった。
1990年代に入り、大店法の運用が段階的に緩和され、2000年には大店立地法へ移行した。郊外型ショッピングセンターが次々と開業し、靴売場を含む総合的な商業施設が消費者の選択肢に加わった。単独立地の小型靴専門店は、品揃え・集客力・利便性のすべてでSCに劣後した。マルトミは1994年に180店舗を一斉閉鎖し、1999年には380店舗の閉鎖計画を発表して初年度に311店を閉じたが、閉店のたびに売上が急減し、信用不安が連鎖する悪循環に陥った。店舗を閉じても業績は回復せず、2000年12月に民事再生法を申請。負債総額は約761億円に達した。
マルトミの破綻が示しているのは、規制環境に最適化されたビジネスモデルの脆弱性である。大店法という傘の下で、小型郊外店は競争から守られていた。しかし規制はいずれ変わる。傘が外れた瞬間、そのモデルは環境に適応する手段ではなく、環境変化に対する負債となった。1700店舗という規模は、規制下では競争優位だったが、規制緩和後には1700店分の固定費と撤退コストを意味した。規制に乗って成長すること自体は合理的だが、規制が変わったときの撤退設計を持たなかったことが、致命的だった。規制は事業の前提条件であって、競争力そのものではない。その区別を見誤ったとき、規模はリスクの増幅装置に変わる。
当時、注文靴が主流であった靴市場において、冨永光行は既製靴という発想を持ち込み、価格構造そのものを組み替えた。流れ作業による製造を前提に1足600円で仕入れ、1000円で販売するモデルは、靴を高級耐久財から日常消耗品へと位置づけ直す試みであった。この価格破壊によって潜在需要が一気に顕在化し、小規模経営でありながら高い収益を確保する起点となった。
1950年、冨永光行(靴のマルトミ創業者)は名古屋市内に「丸富靴店」を開業し、靴の販売事業に参入した。当時の日本では日常履きの主流は下駄であり、靴は一部の都市部サラリーマンが用いる高級品であった。このため、靴は職人が一人ひとりの足を測って仕立てる高価格な注文品が中心で、価格は大卒初任給に匹敵する水準にあり、一般庶民が気軽に購入できる商品ではなかった。
冨永はこの状況を、市場が未成熟である一方、価格と供給方法を変えれば需要が顕在化する余地があると捉えた。靴が高価なのは品質ではなく生産方式に起因していると考え、従来の注文靴とは異なる提供方法を模索していた。
冨永は靴工場を回り、流れ作業による既製靴の製造を提案した。当時は靴を既製品として大量生産する発想自体が珍しく、工場側からは否定的な反応も多かったが、1足600円での製造を実現した。丸富靴店ではこれを1000円で販売し、従来の注文靴に比べて大幅に低い価格帯を打ち出した。
この価格設定は、靴を特別な耐久財ではなく日常消耗品として位置づけ直すものであった。夫婦2人による小規模経営ながら、仕入れと販売に集中した結果、既製靴は飛ぶように売れ、短期間で大きな利益を生み出した。丸富靴店の創業は、後の多店舗展開において、低価格商品の大量販売というチェーン店方式の原型となった。
靴屋をやろうと思い立ち、商売を始めたのです。当時はゲタから靴へようやく主役が交代したばかりで、靴といえば完全な注文品でした。靴屋が一人ひとり顧客の足を測ってつくる訳です。大卒の給料が3000円の時代に、革靴は1足3000円もしていました。完全な消耗品なのに、これではなかなか庶民が気安くはけるようにはなりません。そこで、私は靴の工場を回り、1足600円で作ってくれるように頼みました。「お前はバカか」。どこへ行ってもそう言われましたが、「あなた方のような作り方をしているから高くなるんだ。流れ作業で作るんですよ」と提案したんです。注文品ではなく、既製品にすることでコストダウンしたわけです。600円で作った靴を1000で売ったら、飛ぶように売れました。手元にはみるみるおカネがたまっていった。今のおカネに換算して3億円近くを女房と2人だけでもうけました。
靴のマルトミは名古屋市内を中心に靴のチェーン展開を開始。名古屋駅の地下街を始め、栄などの主要繁華街に4店舗を新設した。
靴のマルトミでは4店舗で従業員の不正が発覚。創業者の冨永光行は不正を働いた従業員を全員解雇し、穴埋めのために新規採用を実施。新規採用した社員については、創業者の冨永光行が社員と寝食を共にすることで「冨永イズム」という商売の精神を叩き込んだという。
業容を拡大するために法人組織に改組。名古屋市内を中心に店舗網を拡大
靴のマルトミは名古屋市内の商店街や地下街を中心に100店舗を展開していたが、都心部における路面電車の廃止による繁華街の衰退や、ロードサイドの発展による郊外商圏の拡大を受けて、全100店のうち60店を閉店し、郊外店を主軸に置く方針を決めた。
1970年代後半から1980年代にかけて、日本では自家用車の普及とともに郊外ロードサイド商業が急速に発展した。幹線道路沿いには駐車場を備えた専門店が立地し、日用品や耐久消費財をまとめて購入する消費行動が定着しつつあった。靴についても、百貨店や都心専門店で買う高級品から、郊外で選んで買う日常商品へと位置づけが変化していた。
靴のマルトミは、既製靴による低価格販売で成長してきたが、都市部中心の店舗展開だけでは需要拡大に限界があると認識していた。大店法施行後は大型店舗の出店が制約される一方で、一定規模以下の郊外専門店には出店余地が残されており、ロードサイド立地は成長機会として映っていた。
1980年前後、マルトミは郊外靴専門店「靴流通センター」を全国展開する方針を打ち出した。出店地域の地名を冠した店舗名とし、地域密着型の量販靴専門店として認知を高める戦略を採用した。店舗はロードサイドに立地し、駐車場を備えることで家族連れや車利用客を取り込んだ。
当時は大店法の制約により、郊外店舗の売場面積には上限が設けられていたが、マルトミは小型店舗を多数出店することで規模の制約を補った。単店あたりの投資額を抑え、短期間で店舗網を拡大することで、全国的な認知と仕入規模の拡大を同時に狙った。
「靴流通センター」はロードサイド立地と低価格訴求が奏功し、1980年代を通じて急速に店舗数を増やした。郊外型消費と相性の良い業態として定着し、マルトミの主力ブランドへと成長した。この業態を軸に、同社は全国規模の靴小売チェーンとしての地位を確立していった。
一方で、この成功は郊外ロードサイドと規制環境を前提とした出店モデルへの依存を強める結果ともなった。後年、商業施設型出店が主流となると、このモデルは競争劣位に転じることになるが、1980年代においてはマルトミの成長を最も力強く牽引した戦略であった。
靴のマルトミは、靴事業で蓄積してきたロードサイド立地の選定、駐車場を前提とした店舗設計、家族客を想定した導線設計といった出店ノウハウを、そのままおもちゃ事業に移転した。都心型ではなく郊外型を前提としたことで、広い売場面積と商品量を確保でき、週末需要やまとめ買いに対応する運営が可能となった。既存事業で確立した出店判断の基準を流用した点が、新業態立ち上げ時の不確実性を抑える役割を果たしていた。
靴のマルトミは、靴小売を中核とした多店舗展開によって事業規模を拡大してきたが、店舗数の増加に伴い、単一業態への依存が事業構造上の論点として浮上していた。靴市場は生活必需性が高い一方で、需要変動が緩やかであり、新規出店による成長余地には限界が見え始めていた。
こうした状況の中で、同社は靴に次ぐ事業領域として、郊外型立地と相性の良い小売業態を検討していた。家族客を主な来店層とし、回転率と客単価の両立が可能な商材として、おもちゃが候補に挙がった。靴店舗で培ったロードサイド出店や多店舗運営の知見を転用できる点も、検討を後押ししていた。
1985年、靴のマルトミはおもちゃ専門店「BANBAN」の展開を開始した。店舗は郊外型立地を基本とし、駐車場を備えたロードサイド型店舗を中心に出店された。取り扱い商品は玩具を主軸とし、年齢層や性別を限定しない構成とすることで、家族単位での来店を想定した。
業態設計にあたっては、同業他社が先行して展開していた郊外型おもちゃ専門店の事例を参照しつつ、靴事業で確立していた多店舗管理や仕入れの枠組みを適用した。靴とは異なる商品回転や季節性を持つ商材であったが、独立した事業として位置付け、出店判断と運営体制を分けて進める方針が取られた。
BANBANは郊外型立地と家族客を軸とした店舗構成により出店を重ね、靴事業とは異なる顧客接点を形成した。玩具という非日常性の高い商材を扱うことで、来店頻度や購買動機は靴とは異なる特性を示し、事業ポートフォリオの幅が広がった。
この取り組みにより、靴のマルトミは靴小売に依存しない収益源を持つ体制へと移行した。おもちゃ事業は単独での拡大を前提とした業態として位置付けられ、その後の多業態展開における一つの基盤となった。靴事業で蓄積した出店と運営のノウハウを、異業種小売へ転用した事例となった。
靴販売金額で国内シェア1位(4.47%)を確保。2位のチヨダ(シェア4.25%)と接戦
靴のマルトミは名古屋を中心に店舗網を拡大し、路面店を軸としたロードサイドへの出店を進めていた。1980年代を通じた店舗数の増加により売場は拡大したが、運営は本社主導で統一され、仕入れや価格設定、人員配置などの判断は中央に集約されていた。
この体制では、立地条件や顧客層の違いが十分に反映されにくく、現場での工夫や改善が収益に直結しにくい構造が生じていた。販売現場には経験や能力を持つ社員が存在していたものの、それを引き出す仕組みは限定的であった。
こうした課題に対し、1987年に靴のマルトミは店舗運営の単位を本社から店舗へと移し、社員が実質的に経営責任を負うオーナーシステムを導入した。店舗責任者は仕入れや販売方針を自ら決定し、収益管理も店舗単位で行う仕組みとされた。
本社は売上総利益の一定割合を受け取る一方、残余の利益は店舗側の裁量で活用できる設計とし、独立採算に近い関係を構築した。制度開始時には多数の社員が応募し、全店舗の大半でこの仕組みが採用され、1990年時点で全店舗(964店)のうち615店がオーナー制度の店舗として運営された。
1993年に靴のマルトミは1700店舗を突破し、過去最高となる経常利益57億円を達成した。
中国において靴のチェーン展開を決定。現地企業との合弁で現地法人を設立して、1994年に一号店を北京に出店。
大店法運用の緩和を背景に郊外型ショッピングセンターが急増し、複数の靴専門店が同一施設内で競合する市場構造が形成された。この変化により、単独立地の小型店は集客力、価格訴求力、商品回転のいずれにおいても劣後する立場に置かれた。マルトミの成長を支えてきた郊外小型店モデルは、制度と立地条件に依存しており、規制環境の変化によって競争優位を失った。その結果として、不採算店舗を抱え続けることが全社収益を圧迫し、1994年の大量閉店という急激な構造調整を余儀なくされた。
靴のマルトミは1970年代後半以降、郊外ロードサイドを中心に小型専門店を多店舗展開することで成長してきた。大店法の下では大型商業施設の出店が抑制されており、生活動線上に立地する単独店舗でも一定の集客が見込めた。1980年代後半にはチェーン展開を加速させ、店舗数の拡大によって売上規模を押し上げていった。
しかし1990年代に入ると前提条件が変化した。大店法の運用緩和を背景に郊外型ショッピングセンターが増加し、靴専門店が同一施設内で競合する構造が生まれた。単独立地の小型店は集客力で劣後し、価格訴求や商品回転率でも不利な立場に置かれるようになった。従来の成長モデルは制度と立地に強く依存しており、その前提が崩れ始めていた。
1994年、マルトミは不採算化した店舗を中心に約180店を一気に閉鎖する決断を下した。これは段階的な縮小ではなく、短期間での大規模な整理であった。売上減少が進む小型店を温存すれば、固定費負担が連鎖的に全社収益を圧迫すると判断されたためである。
閉鎖対象となったのは、郊外ロードサイドの小規模店舗や集客力が低下した立地が中心であった。店舗網拡大による成長戦略を明確に断ち切り、収益性と事業構造の立て直しを優先する判断であった。この時点で、量的拡大よりも採算性を重視する方針へと転換した。
約180店の大量閉店は、短期的には売上規模の縮小を伴ったが、固定費圧縮という効果をもたらした。一方で、急激な店舗整理は成長企業としての勢いを失わせ、市場や取引先に対して事業の不安定さを印象づける結果ともなった。
この大量閉店は、郊外小型店モデルが構造的に限界を迎えていたことを明確に示した出来事であった。マルトミは以後、出店拡大を前提とした経営からの転換を迫られ、事業モデルそのものの再構築に向き合うことになる。1994年の大量閉店は、同社にとって不可逆的な転換点となった。
郊外型ショッピングセンターを主戦場とするABCマートなどの新興靴チェーンは、集客力の高い立地と効率的な商品供給によって競争力を高めていった。一方、マルトミはロードサイド小型店を前提とした出店モデルから転換できず、価格・品揃え・立地のいずれにおいても対応が遅れた。競争環境の変化に適応できなかったことが、業績悪化と法的整理に直結した。
靴のマルトミは1990年に名古屋証券取引所第2部へ上場し、「靴流通センター」を主力に全国展開を進めた。靴を中心に玩具、アパレル、バッグへと業態を広げ、1990年代半ばには1700店超の店舗網を構築し、1996年2月期には売上高約1717億円とピークを迎えた。成長を支えたのは、1987年導入のオーナーシステムによる出店拡大であった。
しかし1990年代に入ると、個人消費の低迷とディスカウントストアとの競争激化により収益性は低下した。大店法改正後は郊外型ショッピングセンターが台頭し、ロードサイド小型店を前提としたモデルは競争劣位に転じた。店舗数拡大を前提とした構造そのものが、環境変化に耐えられなくなっていた。
マルトミは1990年代前半から不採算店舗の整理を進め、1994年から1995年にかけて180店を閉鎖した。1999年には経営改善計画を発表し、3年間で380店閉鎖による黒字化を目指したが、初年度に311店を閉鎖しても業績は改善せず、損失は拡大した。計画は度重ねて修正され、メーンバンクからの役員派遣や業態転換も試みられた。
しかし売上は急減し、信用不安が顕在化した。2000年12月、手形決済資金の確保が困難となり、自力再建を断念。民事再生手続開始を申請し、負債総額約761億円を抱えて事実上の倒産に至った。
1950年、冨永光行が名古屋に開業した丸富靴店の出発点には、明確な市場認識があった。当時の日本では日常履きの主流は下駄であり、靴は職人が足を測って仕立てる注文品で、価格は大卒初任給に匹敵する水準だった。冨永はこの構造を「品質ではなく生産方式が価格を決めている」と読み解いた。靴工場を回り、流れ作業による既製靴の製造を提案し、1足600円での量産を実現。これを1000円で販売した。靴を特別な耐久財から日常消費財へと再定義したこの判断が、後の1700店舗チェーンの原型となった。
冨永の発想は単なる低価格戦略ではなく、「靴の買い方」そのものを変える市場創造だった。既製靴による低価格販売は飛ぶように売れ、マルトミは名古屋市内の繁華街や地下街に店舗を拡大していく。1975年には都心部100店のうち60店を閉じて郊外にシフトし、1980年前後から「靴流通センター」としてロードサイドへの全国展開を開始した。駐車場を備えた小型店舗を大量に出店し、大店法の規制下で大型店が出せない環境を逆手に取った。1986年には靴販売金額で国内シェア1位(4.47%)を獲得、1993年には1700店舗を突破しグループ経常利益57億円のピークを記録した。
しかし、「安い靴を大量に売る」というモデルは、参入障壁の低さと表裏一体だった。靴小売は極度に分散した市場であり、シェア1位でも4.47%にすぎない。2位チヨダの4.25%と僅差であり、規模の経済が効きにくい構造だった。1990年代に入るとディスカウントストアやホームセンターが靴を扱い始め、価格優位は相対化された。さらにマルトミは靴だけでは成長に限界があると判断し、1985年から郊外おもちゃ専門店「BANBAN」を展開して268店まで拡大したが、トイザらスの日本上陸など競争環境の激変に直面した。低価格×多店舗という成功方程式を別市場に横展開しても、競争構造が異なれば通用しなかった。
冨永光行が発明したのは、靴を大衆消費財に変えるという市場創造そのものだった。下駄から靴へ、注文品から既製品へ、都心から郊外へ。その転換の各段階で時代の流れを捉え、1700店舗という巨大チェーンを築いた。しかし、市場を創った企業は、やがてその市場に無数の競合を呼び込むことになる。低価格靴という市場が成熟し、誰でも参入できる領域になった瞬間、マルトミの競争優位は「先にやっていた」という以外に残らなかった。市場を創造した者が、創造した市場の中で埋没していく。そのジレンマは、冨永が靴を600円で作らせた瞬間から、構造的に埋め込まれていたのかもしれない。