CF | 2001/11 | 2002/11 | 2003/11 | 2004/11 | 2005/11 | 2006/11 | 2007/11 | 2008/11 | 2009/11 | 2010/11 | 2011/11 | 2012/11 | 2013/11 | 2014/11 | 2015/11 | 2016/11 | 2017/11 | 2018/11 | 2019/11 | 2020/11 | 2021/11 | 2022/11 | 2023/11 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
営業CF | 74.4 | 63.6 | 84.2 | 70.9 | 64.6 | 21 | 32.5 | 72.7 | 104 | 91.9 | 42.9 | 53.9 | 61.8 | 121 | 68.4 | 95.1 | 92 | 58.1 | 136 | 113 | 124 | 94.4 | 89.9 |
投資CF | -23.7 | -27.3 | -29.1 | -37.3 | -51.8 | 3.6 | -0.8 | -37.3 | -56.9 | -10.9 | -21.8 | -37.4 | -101 | -40.6 | -23.2 | -65.9 | -66.9 | -29.3 | -31.4 | -62.2 | -20.9 | -68.7 | 9.9 |
財務CF | -28.5 | -61.8 | -55.2 | -26.3 | -14.4 | -58.4 | -43.4 | -39.3 | -34.4 | -69.3 | -50.2 | 15 | 21.5 | -53.3 | -49 | -33.6 | -7.4 | -14.8 | -29.2 | -3.5 | -14.8 | -94.9 | -97.6 |
明治時代を通じて神戸は港町として、海外から輸入さえれる毛織物の取引港の一つとして知られていた。ここで取引される軍需向けの毛織物に着眼し、家業として石炭石油問屋「座古清」を経営していた川西清兵衛氏(当時32歳)は毛織物製造の国産化を決めた。「座古清」はそれなりに収益を出しており、すでに軌道に乗っているビジネスを運営していることが、毛織物製造の参入時の出資者の募集における信用となった。
1896年に川西清兵衛氏を中心とした27名の出資により日本毛織が神戸市内にて設立された。創業時に過半数の株式を保有する株主はいなかったが、日本毛織は川西清兵衛氏の強い要望によって設立された経緯から、川西財閥の中核企業として経営された。
設立時の資本金は50万円であり、その用途は「機械13万円」「土地建物6万円」「予備資金25万円」と設定された。
1899年に兵庫県加古川市内に加古川工場を新設。設立時から150名の社員を採用し、大量生産に備えた。
以後、日本毛織は加古川工場を主力工場として位置付けて、1899年から1923年までの24年間にかけて第1工場から第6工場を新設。創業直後は加古川工場のみ1拠点で設備投資を集中させた。
ただし加古川第1工場の竣工直後は品質改善に苦戦。当初は「赤毛布」の製造からスタートしたが、欧米産と比べて完成品の手触りの感触が悪く、結果として品質が劣悪な状態であった。このため、輸出が軌道に乗らず、加古川工場の直後から販売に苦戦。日本毛織は工場稼働から4年連続の赤字に転落した。
日本毛織は創業から数年間は販売が安定せずに経営難の状態であったが、1905年に勃発した日露戦争により業績が好転。主に軍事向けの毛織物販売が軌道に乗り、1割5分の高配当を実施した。
第一次世界大戦による後継機により、毛織物の輸出販売が拡大。日本毛織は旺盛な需要に対応するために日本毛糸紡績会社を合併。同社の姫路工場および岐阜工場を取得
加古川市内に2つ目の拠点となる「印南工場」を新設
第一次世界大戦時の好景気による工場の拡充により、大正11年に従業員数が10,138名(工員を含む)となり1万名を突破。兵庫県内で4工場(加古川・印南・姫路・明石)、岐阜県内で1工場(岐阜)の稼働により、創業から30年弱で日本毛織は日本を代表する大企業に発展
愛知県名古屋市中区岩塚にて、名古屋工場を新設。毛糸とトップの製造に特化して生産性の向上を図った。しかし戦時中の軍需転換のため、1943年に三菱重工に売却が決定
合成繊維に進出するために、名古屋工場内に「人絹工場」を新設。レーヨンの製造を開始
戦時中に共立モスリンを買収し、中山工場(千葉県市川)および館林工場(群馬県館林)を取得
戦時中に昭和毛糸紡績を買し、弥富工場(愛知県弥富)および一宮工場(愛知県一宮)を取得
戦時中の軍需転換を受けて、姫路工場(姫路市天神町49)を川西航空機に賃貸
戦時中の軍需転換を受けて、岐阜工場(岐阜市鶴田町)を川西機械製作所に売却
戦時中の軍需転換を受けて、館林工場(群馬県館林町)を中島航空機に貸与
83歳にて逝去
1950年ごろに梳毛紡績(毛糸生産)で国内シェア1位(27%)保持し、国内トップの毛織メーカーとなった。主力4工場(加古川・印南・中山・弥富)においては、1951年度の時点で1800名〜2900名が業務に従事した。
FY | 加古川工場 | 印南工場 | 中山工場 | 弥富工場 |
FY1951 | 2926名 | 2740名 | 2117名 | 1839名 |
合成繊維に対抗するために、天然遷移と合成繊維の混紡糸の量産を開始。学生服の市場を確保へ
1950年代を通じて帝人と東レの2社がデュポン社から合成繊維の技術を導入。この結果、日本国内にも急速に合成背にが普及し、従来の繊維の主力であった生糸(絹織物)、毛糸(毛織物)、綿といった天然繊維の大半が合成繊維に代替される情勢となった。このため、1950年代を通じて繊維業界では、合成繊維メーカーによる天然繊維メーカーの下克上が頻発した。
合成繊維の台頭に対処するために、日本毛織は岐阜工場を新設して合成繊維と天然繊維の混紡糸の生産を開始した。主にスクールユニフォーム(学生服)に採用され、日本毛織がユニフォーム市場で優位に立つための布石となった。
合成繊維の普及により、毛織物専業の日本毛織の利益率が低下。混紡糸への参入も、合成繊維の普及を前に有効打にならず。ただし、学生服向けのシェアの確保により、ニッチな領域で日本毛織が収益を確保することにつながった。
円高ドル安の進行により日本毛織の繊維事業は競争力を失い、1974年11期に33億円、1975年11期に52億円の経常赤字に転落。このうち1974年11月期に14億円の最終赤字に転落した。
以後、日本毛織は人員削減と工場の統廃合を本格化させた。
。FY2007における同社の売上高166億円(当期純利益2.6億円)が日本毛織の連結決算に計上され、買収による増収へ。この結果、FY2007に日本毛織の売上高は1000億円を突破
繊維・非繊維を共に本業と位置づけ、全方位の事業に注力する方針を策定
創立120周年(2016年度)の節目に向けた羅針盤として、2009年度よりスタートした「ニッケグループ中長期ビジョン(NN120ビジョン)」では、ニッケグループの目指す方向性とあるべき企業像を明確化いたしました。「繊維」「非繊維」の意識をなくし、全ての事業を「本業」と位置付けて成長発展を目指してまいりました。この結果、NN120ビジョン策定時点では1,000億円を超えていた連結売上高は一旦800億円台に落ち込んだものの、「前の年より少しでも成長を」との地道な積み重ねから6期連続で増収増益を達成し、再び1,000億円を回復いたしました。
設備投資の面では、人みらい事業(ショッピングセンター運営など)に対する積極投資を実施。老朽化したニッケパークタウンの大規模リニューアルなどを実施
人とみらい開発事業は、単なる不動産賃貸ではなく、開発した不動産で自らテナントとしても事業を行い資産効率を高められるのが当社の強みです。市川市のニッケコルトンプラザ南側隣接地や一宮市、加古川市など、所有不動産の再開発プロジェクトはまだまだありますが、さらなる成長には、外部不動産を賃借あるいは購入して、同様の収益力を上げることが課題です。
売上高および営業利益の両面で、人みらい事業(ショッピングセンター運営)が日本毛織の中心事業となった。土地賃貸コストがないため、高収益を確保。祖業の繊維事業は高収益だが売上高では劣る状況にあり、繊維事業からショッピングセンター事業への転換を成し遂げた。