創業1958年5月、森村国夫が横浜で荏原食品を創業した。兄弟が営むキンケイ食品で営業所長を務めた縁を頼り、業務用のソースやケチャップ、即席ラーメン向けスープを外食店や食品メーカーへ納める下請けとして出発した。だが業務用ソースの市場はブルドックソースやカゴメが押さえ、銘柄商品に押された荏原は食堂向けの中身しか出せない。創業から十年近く、先発大手との競合を覆す手立ては見えなかった。
決断国夫が選んだのは既存カテゴリーの正面突破ではなく、まだ商品として確立していない領域だった。1967年発売の「焼肉のたれ」を、大手が棚を握るスーパーではなく精肉店の肉売場へ、試食を繰り返す「モグラ作戦」で潜り込ませる。本業のケチャップに専念しCM対抗を取らないカゴメの隙を突き、社運をかけたTVCMで家庭の認知を押し上げた。後発でありながら先発の知名度を奪い、焼肉のたれシェア60%を占めた。
- 歴史詳細 3章・8,870字
メインコンテンツ。一次資料をベースに歴史を紐解く
- 沿革年表 48件
主要な出来事を重要度別に時系列で整理
- 長期業績 1968〜2026年(59カ年)
有価証券報告書などの公開データに基づく長期データ
- 直近の業績
業績推移と経営体制
- セグメント情報 2004〜2025年(22カ年)
各事業の売上・営業利益・利益率の推移
- 歴代社長 4名
代表取締役社長・CEO の在任期間・経歴・在任中の施策
- 取締役一覧 2024〜2025年(2カ年)
取締役の構成バランスと社外独立性
- 大株主・株主構成 2015〜2024年(10カ年)
上位10名の入れ替わりと所有者区分7区分の推移
- 組織と給料 2020〜2025年(6カ年)
連結/単体の年次変化と業界他社の平均給与比較
決断の理由 — クリティカルな歴史の転換点を読み解く
- Q なぜ1967年に焼肉のたれを精肉店ルートで売り出したのか
- A 国夫がブルドックソースやカゴメの先行する業務用ソースで正面から戦わなかったのは、横浜の町工場が価格と規模で大手に勝てないと見切ったからである。1967年発売の「焼肉のたれ」を、大手が棚を握るスーパーではなく精肉店の肉売場へ、目立たぬ試食販売を重ねる「モグラ作戦」で潜り込ませた。自社の中華スープと販路が衝突せず、肉を買う客にその場でたれを勧められる。後発でありながら先発が手薄なカテゴリーで認知を先取りし、家庭の焼肉文化とともに事業を伸ばした。
- Q なぜ1978年に黄金の味を高価格の新味として投入したのか
- A 1978年に黄金の味へ高価格の新味を投じたのは、醤油ベースの安売り競争を避け、味そのもので価格を正当化する商品で関西市場と上位シェアを取りに行く判断だった。りんご・桃・梅をベースにマイルドな甘みとトロ味を実現し、TVCMの全国同時投下と連動させた。1979年の焼肉のたれシェアはエバラ50%・桃屋20%と上位を固め、1981年には全国シェア60%、売上高171億円へ達した。下位各社は1980年代に焼肉のたれ事業から撤退した。
- Q なぜ2022年のスタンダード市場移行後に総還元性向50%以上を経営目標に掲げたのか
- A 2022年4月に東証1部からスタンダード市場へ移ったエバラ食品工業が、2024年策定の中期経営計画「Ebara Reboot 2026」で総還元性向50%以上を経営目標の正面に掲げたのは、焼肉のたれで国内シェア60%を握る成熟メーカーが国内人口減で成長余地を細らせたからである。新たな成長軸が家庭用ポーション調味料と東南アジア展開に定まりきらないなか、2026年度のEBITDA40億円・海外売上高比率5%以上と並べ、稼いだ現金を配当と自己株買いで株主へ返す約束を据えた。
歴史詳細 - 3つの時代区分で読み解く
1958年〜1969年 業務用ソース下請けから「焼肉のたれ」発売・モグラ作戦による精肉店ルート開拓まで
横浜の業務用ソース下請けとして発足した中小食品工業
1958年5月、創業者の森村国夫氏(当時39歳)[2]は横浜市神奈川区松見町で荏原食品株式会社を設立した[1]。国夫氏は兄弟が経営するキンケイ食品(フルーツソースやケチャップを製造する大阪の食品メーカー)の大阪営業所長を務めた経験があり、同じ調味料業界での独立を選んだ。設立当初の事業は「キンケイ」ブランドの業務用ソース・ケチャップ製造[3]と、即席ラーメン向けスープ調味料の受託製造であり、外食店や食品メーカーへの納入を主力とする業務用調味料の下請けに近い位置取りだった。
業務用ソースの市場はブルドックソースやカゴメといった先発の大手が押さえており、横浜の中小食品メーカーが価格と納入規模で対抗するのは容易ではなかった。1965年9月に国夫氏が荏原食品の経営に専念し始めた時点では、会社は田中忠一郎氏の家屋敷を間借りした従業員10人足らずの町工場で、月商は100万円以下、銀行から見離されて個人から月利5%という高利で400万円の借金を抱えていた。ソース・ケチャップ製造は銘柄商品に押されて食堂向けの中身しか出荷できず、先細りが見えていた。1968年度時点の荏原食品の売上高は1.5億円にとどまり[4]、創業から10年近く経っても、ソース・ケチャップという既存カテゴリーで先発大手との競合構造を覆す手立ては見出せていなかった。
国夫氏が選んだ次の一手は、既存カテゴリーでの正面突破ではなく、まだ商品ジャンルとして確立していない調味料領域への参入だった。先に投入したみそラーメンのスープが中華料理店向けに伸び始めた時期、街頭で焼肉店が次々と開店し若い客層が押し寄せる光景を国夫氏は見ていた。みそラーメンのスープが中華料理店・ラーメン屋を販路としたのに対し、焼肉のたれは精肉店を販路に取れるため、自社既存品と販路が衝突しない。1962年にカゴメが「カゴメバーベキューソース」を発売しており、肉用たれという市場の存在は確認されたものの、家庭料理として焼肉が定着していない日本でこの商品は普及していなかった。国夫氏は焼肉店を数十店試食して回った末に、家庭で焼肉を作る場合の味付けの困難さと「たれ」が果たす役割の重要性を見出した。
当時は小さな町工場といったところで、従業員は十人足らず、月商も百万円以下であった。経営状態はほとんど末期症状に陥っていて、しかも、銀行から見離され、個人から月五パーセントという高利で四百万円もの借金があった。
「焼肉のたれ」発売とモグラ作戦による精肉店ルートの開拓
1967年、エバラ食品は「焼肉のたれ」を発売した。当時の日本では家庭での焼肉という食習慣は確立していなかったが、スーパーマーケットの普及と家庭用冷蔵庫の保有率上昇によって、安価な生肉を購入して家で焼く食生活が広がる兆しはあった。1962年にカゴメが先発して「カゴメバーベキューソース」を投入していたが、カゴメ自体は本業のケチャップへの投資に注力したため焼肉のたれカテゴリーへの販売促進は限定的にとどまった。荏原食品は後発参入でありながら、競合が積極投資しないカテゴリーで先発の知名度を獲得する好機を得た。
1968年4月、キンケイブランドからエバラブランドへの切り替えを実施し[5]、同年7月には商号を「エバラ食品工業株式会社」へ変更した[6]。焼肉のたれの商品ブランドと社名を統一する経営判断だった。家庭用市場への販路を切り拓くため、関東地区から営業拠点を順次設置し、1980年代までに全国を11ブロックに分割する販売網を作り上げた。1ブロックあたり1〜2社の食品問屋と特約店契約を結び、特約店から二次問屋・小売店・消費者へ商品を流す多段階流通の体制を整えた。
販売戦略の特徴は、当時の主流だったスーパー販売よりも、精肉店ルートへの集中投資にあった。馴染みのない調味料を消費者に試してもらうため、精肉店での試食販売を繰り返し、肉売場のレジ脇に「焼肉のたれ」を置いてもらう棚を獲得する地道な作業に時間を割いた。社内では大手食品メーカーに動きを察知されないよう目立たない営業を心がけたことから「モグラ作戦」と命名され、ブルドックソースやカゴメといった大手が反応する前に肉売場での定番化を進める戦術だった。1970年時点のエバラ食品工業は売上高2.5億円・従業員数34名の中小企業であり、メインバンクは横浜銀行妙蓮寺支店という地方銀行だった。
後発参入で先発知名度を奪う非対称戦略
エバラ食品工業が「焼肉のたれ」で採用した経営判断は、後発参入でありながら先発の知名度を奪うという非対称戦略の典型例だった。先発のカゴメは1962年に「カゴメバーベキューソース」を発売したが、本業のケチャップ事業への投資を優先したため、焼肉のたれカテゴリーへの販売促進投資は限定的だった。エバラ食品工業はこの先発の手薄を見抜き、先発企業が積極投資しないカテゴリーに後発で参入して認知獲得競争で先んじる戦略を取った。
販売チャネルの選択も非対称だった。家庭用調味料の主戦場はスーパーマーケットの食品売場であり、ここでは先発のブルドックソース・カゴメが棚を押さえていた。エバラ食品工業はあえて精肉店という肉売場の現場へ営業を集中させ、消費者が肉を購入する瞬間に「焼肉のたれ」を選択肢として提示する位置取りを確保した。精肉店は食品スーパーよりも商品回転が早く、生肉購入と同時に調味料を勧められる消費者接点だった。この販売動線の選び方が、先発大手の流通網との直接対決を避けつつ、家庭の肉料理での焼肉のたれ使用習慣を消費者に定着させた。
「モグラ作戦」と呼ばれたステルス営業は、競合の先手反応を遅らせる時間稼ぎの効果も持った。1968年から1970年の3年間は、エバラ食品工業が大手の警戒網の下を潜って精肉店ルートで焼肉のたれの棚を獲得し、家庭での試食機会を積み上げる準備期間だった。1970年のTVCM全国投下による広告先行は、この精肉店ルートで作った下地を活かして、家庭への認知を一気に押し上げる第二段ロケットの位置づけだった。
1970年〜1999年 第一次・第二次タレ戦争と「黄金の味」全国TVCMで国内シェア60%を確保するまで
TVCM先行投資で勝った第一次タレ戦争
1970年、エバラ食品工業はテレビCMによる「焼肉のたれ」の全国販売拡大を決断した。同年度の売上高4.5億円の中小企業が、社運をかけてTVCM広告費を投じる経営判断だった。最初の出稿地は静岡県で、首都圏文化圏にも関西文化圏にも属さずマーケティング検証地として最適と国夫氏が判断したためである。藤村俊二氏を起用し、同年末からはフジテレビ経由で首都圏へ展開、メインタレントを月の家円鏡氏(後の橘家圓蔵)に切り替えた。CM出稿は地域ごとに2クール6か月の集中投下とし、店頭でのマネキン販売・試食・ポップ広告・大量陳列を連動させて消費者の認知から購買までを一気通貫で押し上げる方法を取った。先発のカゴメは本業のケチャップへの投資を優先したため焼肉のたれカテゴリーでのCM対抗をせず、エバラ食品工業はCM先行で家庭への認知を他社に先んじて広げた。
1973年度に売上高は23億円へ到達し[7]、「焼肉のたれ=エバラ」というブランド認知が市場に定着した。エバラ食品工業の急成長を見た食品メーカー各社は1970年代前半に焼肉のたれカテゴリーへ相次いで参入し、参入企業数は100社に及んだとされる[8]。1974年には桃屋が「焼肉のたれ」を発売し、1979年時点でシェア2位の座を確保するまでに育てた[9]。1970年代前半のこの時期は「第一次タレ戦争」と呼ばれ、エバラ食品工業はTVCMの先行投資で築いた関東圏の知名度を盾に、後発勢の追い上げを抑え込んだ。
TVCMの広告投資は、関東圏でカバーできる営業拠点の範囲内でスポット出稿を続けた段階から、1973年以降は出稿地域を順次拡大して全国認知を狙う形へ進化した。1968年から1973年までの5年間でエバラ食品工業の売上高は1.5億円から23億円へと約15倍に伸び[10]、年率60%超の急成長を実現した。この成長率は中小食品工業として異例の水準で、TVCMの広告先行投資と精肉店ルートでの試食販売、家庭用焼肉文化の普及という3つの要素が連結して機能した結果だった。1972年7月、神奈川県伊勢原市に伊勢原工場を稼動させ[11]、生産能力を引き上げた。1975年2月には本社を横浜市神奈川区沢渡へ移転し[12]、1980年3月に横浜工場を閉鎖して跡地を研究所として活用する形へ整えた[13]。同年7月、群馬県伊勢崎市に群馬工場を稼動させ[14]、関東圏の生産拠点を西へ広げた。1981年10月には株式会社日本冷食を子会社化して冷凍食品分野へ進出し[15]、1984年4月に栃木県さくら市の栃木工場を稼動させて伊勢原工場を閉鎖した[16]。
「黄金の味」第二次タレ戦争でシェア60%を確保
1978年、エバラ食品工業は焼肉のたれの新ブランド「黄金の味」を発売した。それまでの焼肉のたれは醤油ベースの味付けが主流だったが、黄金の味はりんご・桃・梅・マンゴをベースに用いてマイルドな味と肉を柔らかくする効果、加えて高級感のあるトロ味を実現した。価格設定は従来の180g・150円から210g・300円へと一気に倍へ引き上げる挑戦で、営業部門が「倍では売れない」と販売予想に小さな数字しか出さなかったところを国夫氏が東和ホテルに各営業所長を集めて全数字の書き換えを命じ、社内合意を形成した。1978年6月、エバラ食品工業は黄金の味を全国一斉発売し、結果として営業の予想を上回る2倍超の受注が返った。1978年時点で関西圏では関東圏ほどのエバラブランド認知が確立しておらず、フルーツベースの新味は関西市場の攻略を意識した商品設計でもあった。
「黄金の味」はTVCMの全国放送と同時投下によって発売初年度に26億円の売上高を達成し、エバラ食品工業の主力商品の座を「焼肉のたれ」と二分する地位へ駆け上がった。1979年には焼肉のたれカテゴリーの上位メーカーがエバラ食品工業(シェア50%)・桃屋(シェア20%)・大昌食品(シェア14%)・カゴメ(シェア8%)という構成となり[17]、「第二次タレ戦争」として業界誌の注目を集めた。1980年に群馬工場を増設し、生産能力で後発勢を圧倒する体制を作ったエバラ食品工業に対し、桃屋を含む下位メーカーは1980年代を通じて焼肉のたれ事業からの撤退を選んだ。
1981年度にはエバラ食品工業の売上高が171億円へ達し[18]、1968年の1.5億円から13年で約114倍の急成長を実現した[19]。焼肉のたれの全国シェアは60%、本社のある関東・甲信越地区では80%を確保し、「焼肉のたれといえばエバラ」というブランド認知が国内市場で定着した。1984年に「すき焼きのたれ」を発売し、1987年に関西風醤油ベースの「すき焼きのたれマイルド」を投入して全国カバーの体制を整え、1994年4月には岡山県津山市に津山工場を稼動させて西日本生産拠点を確立した[20]。1988年3月にUS EBARA FOODS INC.を米国に設立したが、1996年3月に清算して米国市場からは一度撤退した[21]。1988年4月に株式会社エバラコーポレーションを設立して外食事業へ進出したものの、1999年12月に同社を解散して外食事業からも撤退した[22]。本業の家庭用調味料以外に手を広げた事業からは、収益が見通せない段階で早期に撤退する判断が継続した。
「焼肉のたれ」以外の多角化が定着しなかった1980〜90年代
エバラ食品工業は1980年代から1990年代にかけて、焼肉のたれ・黄金の味で稼いだ利益を周辺事業へ投入したが、本業以外の多角化はいずれも収益貢献を確保できないまま撤退・縮小に向かった。1981年10月に株式会社日本冷食を子会社化して冷凍食品分野へ進出したが[23]、冷凍食品の物流網と販売チャネルは焼肉のたれの流通網と異なり、競争優位を確保できなかった。1984年11月に宣伝部門を独立させて株式会社横浜エージェンシーを設立し総合広告代理店業へ進出したが[24]、本業の販売促進業務を内製化する目的にとどまり、外部受託で稼ぐ広告代理店としての成長は限定的だった。
1988年4月に設立した株式会社エバラコーポレーションによる外食事業進出は[25]、焼肉のたれの認知を活かして焼肉専門店チェーンを展開する構想だった。同年3月の米国法人US EBARA FOODS INC.も、米国市場での「焼肉のたれ」販売を狙った海外展開だった。だが外食事業は1999年12月の解散で本格撤退、米国法人は1996年3月に清算となり[26]、いずれも10年前後で本業外の事業が継続困難と判断された。1991年7月に子会社化した株式会社グロリア・フード(冷凍食品販売)[27]も2000年代に整理され、1981年から続いた冷凍食品事業は2006年3月の日本冷食全株式譲渡で本格撤退となった。
本業の焼肉のたれ・黄金の味は1990年代に入っても主力商品として国内シェア60%水準を維持したが、周辺事業からの収益貢献を取り込めなかったため、グループ売上高の伸長は本業の市場成熟度に左右される構造のまま固定された。創業者の森村国夫氏が確立した[28]「焼肉のたれ専業」の事業構造は、強みであると同時に、本業以外で稼ぐ事業を育てる経営課題を残す両刃の構造でもあった。
2000年〜2025年 ジャスダック上場・宮崎遵社長の収益性重視と森村剛士体制の海外・ポーション戦略まで
ジャスダック上場と宮崎遵社長の収益性重視への転換
2000年代を通じて、国内市場の人口減少と競合の参入で焼肉のたれカテゴリーの成長は止まった。1996年にキッコーマンが焼肉のたれへ参入し、2000年代を通じてシェアを伸ばしたため、主力商品の競争が一段と激化した。エバラ食品工業の売上高と利益率は2000年代に低位安定の局面へ入り、家庭用焼肉のたれを主力とした事業モデルの成長余地が国内市場で頭打ちとなった。1968年の1.5億円から1981年の171億円へと13年で約114倍に伸びた急成長期は終わり[29]、売上高がほぼ500億円前後で推移する成熟期へと事業構造が転換した。2000年3月に株式会社エバレイ(横浜市都筑区)を設立[30]、2001年4月には単位株制度の採用を目的として株式会社エバレイの商号をエバラ食品工業へ変更して合併する[31]持株会社的な再編を実施した。2003年4月に株式会社エバレイを吸収合併し[32]、グループ内法人を整理する組織再編を進めた。2003年4月に神奈川県足柄上郡に中央研究所を開設し[33]、フルーツベースの黄金の味の派生商品や、肉用調味料以外のカテゴリーへの研究開発投資を強化した。これらの組織再編は、上場準備の法人体制を整える狙いと、本業の研究開発機能を強化する狙いの両方を持っていた。1958年の創業から45年を経て[34]、エバラ食品工業は中小食品工業の体裁から、上場企業としての経営管理体制への移行期に入っていた。
2003年11月、エバラ食品工業は日本証券業協会に株式を店頭登録し[35]、2004年12月にはジャスダック証券取引所へ株式上場を果たして資本市場の評価軸に乗った[36]。1958年の創業から46年後の上場であり[37]、未上場のままTVCM広告投資で焼肉のたれカテゴリーを制してきた中堅食品メーカーが、資本市場での評価軸に乗ることを選んだ転換点だった。同年4月には株式会社サンリバティー横浜(人材派遣業)を孫会社化し、2005年4月には荏原食品(上海)有限公司を設立して中国市場への足場を作った[38]。2006年3月に株式会社日本冷食の全株式を譲渡し、1981年から続いた冷凍食品事業を売却した[39]。
2010年5月、創業者の森村国夫氏が91歳で逝去した。2012年4月、宮崎遵氏が4代目社長に就任し、中期経営計画を発表して収益性重視の経営方針へ切り替えた。2013年7月の東京証券取引所と大阪証券取引所の統合に伴いジャスダック市場へ移管され[40]、同年11月に東証2部、2014年12月に東証1部へ指定替えを果たした[41]。2017年、宮崎社長は黄金の味のリニューアルを決断した。フルーツ系焼肉のたれカテゴリーは、キッコーマンなど競合とのコモディティー化が進んでおり、新製品としての訴求でスーパーからの値引き要求を退け、適正な利潤を確保する狙いだった。FY16の拡販費74億円に対してFY17は64億円へと10億円削減し、売上高営業利益率を1%改善した。リニューアル直後の黄金の味は旧製品の在庫消化が進まず市場浸透が遅れて売上高を一時的に落としたものの、新製品としての訴求でスーパーからの値引き要求を退ける効果が、2018年3月期決算で拡販費を削減し利益率を改善した。宮崎社長の経営方針は、売上拡大を追わずに収益性改善を優先する明確なメッセージとして、社内外に伝わった。
森村剛士社長体制の海外・ポーション・Ebara Reboot 2026
2017年1月に台灣荏原食品股份有限公司[42]、2018年8月にEBARA SINGAPORE PTE. LTD.[43]、2021年6月にEBARA FOODS(THAILAND) CO., LTD.[44]、2022年5月にEBARA FOODS MALAYSIA SDN. BHD.を相次いで設立し[45]、東南アジア各国への足場作りを2010年代後半から2020年代前半にかけて集中させた。1988年の米国進出失敗から24年を経て、海外展開の対象市場を欧米から東南アジアへ切り替えた経営判断だった。中期経営計画「Evolution 60」(2015〜2019年度)では海外売上高10億円を目標に掲げ、2019年3月期にこの目標を達成した。続く中計「Unique 2023」(2019〜2023年度)では海外売上高20億円を次の目標に置き、東南アジアでの自社販売拠点を経由した業務用商品の販売拡大を本格化させた。東南アジア展開の特徴は、欧米向けの本格的な現地生産販売ではなく、既存の国内工場で生産した商品を現地販売拠点経由で外食・小売へ流す軽量モデルの選択にあった。タイ工場の稼働と津山工場のポーションライン整備はFY24(2024年3月期)に向けた供給能力の拡張投資であり、東南アジアの業務用市場における新規顧客獲得と並行して進められた。1988年の米国法人US EBARA FOODS INC.が現地生産販売の重量モデルで失敗したのに対し、2010年代後半以降の東南アジア展開は国内生産+現地販売拠点という軽量モデルを採用し、撤退コストを抑える設計が取られている。
2020年4月、宮崎社長が会長へ移り、森村剛士氏が5代目社長に就任した[46]。森村剛士氏は2代目社長森村忠司氏の長男にあたり、創業者の孫として創業家3代目の経営継承を担う立場である。社長就任直後の同月、政府は新型コロナウイルス感染拡大に対する緊急事態宣言を発出し、外食機会の縮小と巣ごもり消費の急増という市場環境の急変が新体制の出発点となった。FY20(2021年3月期)の連結売上高は513億円、営業利益36億円、純利益25億円と、巣ごもり需要に支えられて過去最高益を更新した。森村剛士社長の経営継承は、創業家経営の連続性を回復させる意味と、コロナ禍という市場環境の急変への対応という二つの課題を同時に背負う出発点だった。創業者の祖父・国夫氏が1967年に焼肉のたれを発売してから53年、2代目の父・忠司氏が黄金の味で国内シェア60%を確立してから42年が経過しており、創業家3代目の経営判断は祖業の延長線上にある事業構造をどう更新するかという論点に向き合った。コロナ禍下の巣ごもり消費は短期的には家庭用調味料の需要を急増させたが、外出自粛の解除後にはこの需要の一部が外食消費へ戻るため、巣ごもり特需を構造的成長に転換する商品開発・販路投資が経営課題として残った。2020年2月、エバラ食品工業は「黄金の味 さわやか檸檬」を発売し、黄金の味シリーズで32年ぶりとなる新テイストを投入した。1978年の黄金の味発売から32年間、フレーバーの追加投入を控えてきた基幹商品に新味を加える経営判断であり、商品の品質維持を優先してフレーバー拡張を抑えてきた既存方針からの一段の踏み込みでもあった。同社は家庭用ポーション調味料(プチッと鍋・プチッとうどん・プチッと中華)を成長領域に位置付け、汎用性と簡便性を兼ね備えた小容量パウチ商品で家族構成の縮小と内食機会の拡大に応える戦略を取った。プチッとシリーズは1〜2人分の少量パウチで使い切れる商品設計で、共働き世帯や単身世帯の調理時間短縮ニーズを取り込む位置取りにある。2022年4月、東京証券取引所の市場区分の見直しに伴い、市場第1部からスタンダード市場へ移行した[47]。同年5月にはヤマキン株式会社を孫会社化、2023年10月に丸二株式会社の株式を取得し[48]、業務用周辺への買収も継続した。
2024年4月から2026年3月までの中期経営計画「Ebara Reboot 2026」は、EBITDA40億円・海外売上高比率5%以上・総還元性向50%以上を経営目標に掲げる。FY25(2025年3月期)は売上原価率の上昇で営業利益が前期比15.4%減少したが、家庭用ポーション調味料と東南アジア海外事業がコア事業の利益源として位置付けられている。1958年の業務用ソース下請けから出発し、1967年の焼肉のたれと1978年の黄金の味で国内焼肉調味料市場を制したエバラ食品工業は、創業家3代目の経営の下で、ポーション調味料と東南アジア展開を新たな成長軸として収益確保を目指す段階にある。
ニッチ&トップ戦略と原材料・人材投資の継続課題
森村剛士社長は、エバラ食品工業の事業特色を「ニッチ&トップ戦略」と表現し、焼肉のたれを起点とする独自カテゴリーの商品開発と海外展開を中期経営計画の柱に据えている。家庭用ポーション調味料の「プチッと鍋」「プチッとうどん」「プチッと中華」シリーズは、1人分・2人分の小容量パウチで内食機会の汎用性と簡便性に応える商品設計で、家族構成の縮小・単身世帯増加・共働き世帯増加といった社会構造変化への対応として位置付けられている。
ただしFY25の営業利益減少は、原材料価格と物流コスト上昇による売上原価率上昇が主因であり、コスト構造の改善余地が経営課題として残る。2023年に導入した「エバラ流ジョブ型制度」は、中堅層以上を職務と役割に応じた報酬体系へ切り替える人事制度改革で、意欲のある人材が活躍できる組織への転換を目指す。1958年創業から67年[49]、エバラブランドの家庭用調味料への集中という事業構造は維持しつつ、原材料コスト・海外展開・人材制度という3つの軸での投資判断が、創業家3代目体制の経営の試金石である。