創業地東京都千代田区
創業年1970
上場年1981
創業者※日立製作所

親会社スピンオフ戦後復興期の起業1948年、戦後復興の国土建設需要のなか、建設省が日立製作所へパワーショベル2台を発注したのが源流となった。戦時中に車両・起重機・戦車で蓄えた重機械技術を、民需へ転用するものだった。建機事業は日立製作所の内側で生まれ、1955年にはアフターサービスの専門子会社を全国に設けて、機械を売って終わりにせず、保守と地域販路を通じて顧客とつながる稼ぎ方を国内に根付かせた。

海外展開・グローバル化業態転換・収益モデルの転換合弁・JV・提携による参入1981年の上場時点で日立建機は自前の海外販売網を持たず、1983年に米ディア、1986年に伊フィアットのディーラー網を借りるOEM提携で海外へ出て、まず市場を学んだ。経営体力が整うと自社ブランドへ切り替え、2001年のフィアット提携解消を経て2007年度に欧州売上を提携期のピーク超えへ伸ばした。借りて学び、整ったら自前へ組み替えるこの二段階のやり方は、のちの北米自社ブランド化にも引き継がれた。

決断の理由 — クリティカルな歴史の転換点を読み解く

Q なぜ日立製作所は1950〜70年代にかけて、建設機械事業を本体から切り離し専業の子会社として独立させたのか
A 総合電機・機械メーカーの一部門のままでは、建設機械に固有のアフターサービスや割賦販売、需要変動への機動的な対応が利きにくいためである。製造から販売・保守までを専業組織に委ね、製販一体で素早く意思決定する体制を求めた。日立製作所は1955年にアフターサービス専門の日立建設機械サービスを設け、1965年に販売の(旧)日立建機を、1969年に製造の日立建設機械製造を分けたうえで、1970年10月に両社を合併して新生・日立建機へ製販を統合した。足立・土浦の工場用地は簿価譲渡の税法特例で承継し、専業メーカーとして独立した
Q なぜ1983年に日立建機は、自社ブランドではなくジョン・ディアのOEM供給で北米に進出したのか
A 世界に自前の販売・サービス網を築くには多額の先行投資と長い時間がかかり、1981年に上場したばかりの日立建機にはその体力が足りなかったためである。そこで提携先の既存ディーラー網を借りて販売量を確保し、市場と顧客を学んでから自社ブランドへ移る二段階の道を選んだ。1983年に米ジョン・ディアへのOEM輸出で北米に進出し、欧州でも1986年に伊フィアットと組んだ。輸出20億円規模だった海外事業は2000年ごろに約1300億円へ伸び、借りて学び整えてから自前へ組み替えるこの型は、のちの北米自社ブランド化にも引き継がれた。
Q なぜ2022年に日立製作所は60年以上続いた親子関係を解きながら、完全売却ではなく持分法適用にとどめたのか
A 親子上場の解消を求める資本市場の声に応えつつ、長年の優良な収益源を手放しきりたくないという二つの要請を両立させる中間的な選択だったためである。日立製作所は2022年1月、保有する日立建機株の約26%を伊藤忠商事と日本産業パートナーズの合同会社HCJIへ約1824億円で売却した。残る25.4%は引き続き保有し、日立建機は連結子会社から持分法適用関連会社へ移った。完全売却でも完全子会社化でもないこの形は市場の要請と日立側の収益確保の双方に応える折衷であり、日立建機は社内でこれを『第2の創業』と呼んだ。

歴史詳細 - 3つの時代区分で読み解く

1948年〜1982年 日立製作所の建機事業と製販統合による試練の時代

売上高と利益率の推移:歴代経営トップの業績貢献
売上高(億円)
※経営トップ=有価証券報告書の提出書類における代表者(社長・CEO・会長など)

戦前重機械技術の転用から始まった建機事業の源流

日立製作所が建設機械を手がけた源流は、戦前から戦中にかけて軍需と資源開発の現場へ収めた重機械の実績にさかのぼる。1942年には石炭の露天掘り用として大型電気ショベル「120H」を南満州鉄道の撫順炭鉱へ納入し[2]、1944年には軽戦車を改造した排土車をブルドーザの前身として軍需向けに納めた[3]。ただし、いずれも個別の受注にとどまり、建設機械を量産品として本格的に生産するのは戦後のショベル開発を待った。1948年に発足した建設省は、その前身の建設院の時代から建設機械の国産化を国家的な課題に掲げ、占領軍からの払い下げ機に頼る機械化施工を自国の技術で置き換える担い手を探していた。遊休設備を抱えていた日立製作所の亀有工場は、この国産化の要請に応える形でパワーショベルの製作へ動き出し、戦時下に培った設計と製造の蓄積を民需へ転じていった[1][4]

1948年に建設省が日立製作所に対してパワーショベル2台を発注したことが自社の源流となる出来事であり、戦後復興期の国土建設需要に応えて戦前に蓄積された重機械技術が民需に再び活用されるきっかけとなった。日立製作所は1949年に自社開発の機械式ショベル「U05」を完成させて建設省の木曽川工事事務所に納入し[6]、初号機の実用化に到達した。1950年には量産型の「U06」を開発して亀有工場での生産を本格化させ[7]、建設省を中心とする国内の公共工事需要を取り込みながら油圧ショベルへと至る主力機種の開発系譜を積み上げていった[5]

1955年にはアフターサービスを専門に担う日立建設機械サービスを設立し、販売後の顧客対応を専門会社が担う体制を全国規模で整備することで、単品販売にとどまらない建機ビジネスの基礎を作り上げた。地域販売会社とアフターサービス子会社の二層構造を国内に張り巡らせる体制設計が、ここで形をとった。1960年代には全国を6ブロックに分けて地域販売会社を設立し、割賦販売方式を前面に押し出して新車販売を全国の地域販売会社経由で売り出したが、新車販売の80%が割賦取引で構成されていたため、販売を伸ばすほど売掛債権が膨張するという矛盾した構造に直面した。借入金は最終的に134億円にまで達し、製造部門と販売部門が別法人として分離運営される体制も意思決定の迅速さを欠く要因となり、組織全体の再構築が経営課題として前面に押し出されていった[8]

製販統合と赤字転落が迫った土浦一貫生産への集中

製造と販売が別法人で運営される体制の非効率を解消するために、1970年10月に日立建設機械製造と旧日立建機を合併して新生日立建機を発足させる組織再編が実行された。足立工場と土浦工場の工場用地について簿価譲渡の税法特例を活用し、金融機関4行から合計64億円を新規に借り入れるスキームで合併を実現させたが、発足時の総資産596億円のうち売掛債権が47%を占めるという極端に偏った財務構造を抱えており、自己資本比率はわずか64%という上場企業としては異例の脆弱さであった。製販統合という組織上の合理化は完了したが、財務面の体質改善までは同時には進められず、合併の直後から日立建機は構造的な危機に直面した[9]

日立建機:製販統合(1970年)とHCJI資本参加(2022年)による独立化 日立製作所の建機事業から生まれた製造・販売法人が1970年に合流し、2022年に伊藤忠・JIPが主要株主となって日立グループから自立した系譜
1948 1955 1965 1969 1970 2015 2017 2022 2026 日立製作所 1948年建機事業開始 日立建設機械サービス 1955年設立 (旧)日立建機 1965年販売部門合併 日立建設機械製造 1969年製造部門分離設立 日立建機 1970年製販合併・設立 KCM 2015年完全子会社化 Bradken 2017年TOBで連結子会社化 HCJI HD(伊藤忠×JIP) 2022年資本提携 日立製作所は25%保持し持分法適用関連会社へ
日立建機:製販統合(1970年)とHCJI資本参加(2022年)による独立化 日立製作所の建機事業から生まれた製造・販売法人が1970年に合流し、2022年に伊藤忠・JIPが主要株主となって日立グループから自立した系譜
1948 1955 1965 1969 1970 2015 2017 2022 2026 日立製作所 1948年建機事業開始 日立建設機械サービス 1955年設立 (旧)日立建機 1965年販売部門合併 日立建設機械製造 1969年製造部門分離設立 日立建機 1970年製販合併・設立 KCM 2015年完全子会社化 Bradken 2017年TOBで連結子会社化 HCJI HD(伊藤忠×JIP) 2022年資本提携 日立製作所は25%保持し持分法適用関連会社へ

発足直後から業績は悪化していき、1971年9月期と1972年3月期に2期連続の経常赤字を計上し累計28.1億円の損失を出し、自己資本比率は1.8%にまで低下する危機的な水準に陥ることとなった。1974年には東京都内の足立工場を閉鎖して12万平方メートルの跡地を売却する大胆な構造改革を断行し、その売却益を原資として土浦工場に135億円を投下して一貫生産体制を構築することで、生産効率の向上と固定費の圧縮を同時並行で実行した。1981年には株式に上場し、油圧ショベルを主力機種とする国内メーカーとして市場における地位を固めていき、海外展開に向けた経営体力の基盤を1980年代前半までに何とか整えていった[10][11]

解説
  • 1972/3期は-18.1億円の経常赤字で始まり、1976/3期-8.1億円・1977/3期-3.9億円と再度の赤字期を経て、1979/3期87.1億円・1980/3期99.2億円へと急回復した。
  • 足立工場閉鎖と土浦一貫生産化の構造改革が結実し、1981年の株式上場に向けた経営体力の確保が数値の上でも明確に確認できる。
油圧ショベル:生産高・国内シェア
順位FY1974FY1979FY1984
1位三菱重工(20.6%)コマツ(17.9%)コマツ(20.3%)
2位日立建機(18.9%)日立建機(16.2%)三菱重工(15.9%)
3位日本製鋼所(11.6%)三菱重工(15.2%)住友重機械(14.9%)
4位コマツ(10.3%)住友重機械(9.5%)日立建機(12.7%)
5位加藤製作所(10.1%)日本製鋼所(9.0%)神戸製鋼(12.0%)
出所:マーケットシェア事典

1983年〜2003年 OEM提携による海外展開と三極体制の構築

売上高と利益率の推移:歴代経営トップの業績貢献
売上高(億円)
※経営トップ=有価証券報告書の提出書類における代表者(社長・CEO・会長など)

ディアとフィアットの販路を借りた段階的な海外進出

1980年代の自社は海外に独自の販売網を持たず、自力での市場開拓に必要な投資体力が慢性的に不足していたため、主要海外市場への進出には既存プレーヤーのディーラー網を借りる提携関係の構築が前提条件となった。1983年に日立建機は米国の大手農業機械メーカーであるジョン・ディア社とOEM提携を正式に締結し、ディアの全米に張り巡らされた販売網を通じて日立建機製の油圧ショベルを北米市場に供給する形での本格的な市場参入を果たした。1988年にはディアと合弁会社を米国に設立して現地生産を開始し、輸送コストと為替リスクを同時に抑制する体制を整備することで、北米市場でのプレゼンスを拡大させていく道筋を築いた。

欧州市場においては1986年にイタリアの大手トラック・機械メーカーであるフィアット社との提携に踏み切り、オランダに合弁会社を設立して現地生産を立ち上げることで欧州への進出を果たした。輸出部門として20億円規模にとどまっていた日立建機の海外事業は、ディアとフィアットという二つの販路を活用したOEM戦略の成果によって、2000年頃までに現地生産分を含めて1300億円規模へと65倍の規模に拡大した。ただしOEM供給という事業形態の特質として日立ブランドが最終顧客に浸透しないという構造的な弱点を抱え、価格決定力やアフターサービス収益の確保が困難であるという課題が次第に顕在化し、次の段階としての自社ブランドへの移行という戦略課題が経営の視野に入ってきた。

欧州でのフィアット提携解消と自力展開への転換

2001年に自社は欧州推進事業本部を新設する組織改革を実行し、1986年以降15年続いたフィアットとの提携の段階的な解消を正式に経営決定として公表した。2年間の十分な移行期間を確保しつつ、オランダにアムステルダム工場を新設して合計約60億円を投じて欧州各国のディーラー網を独自に構築していき、製品ラインナップの不足は国内の古河機械との提携によって補完する多層的なアプローチを採用した。現地生産能力の整備と販売網の構築と製品拡充の三方面に同時並行で投資することで、提携解消に伴う移行期の空白期間を最小化する緻密な戦略設計が経営上の成功要因となり、欧州事業は自社ブランドへの転換を完遂した[12]

2007年度には欧州事業単独で過去最高の売上高1672億円を計上し、フィアットとのOEM提携時代の規模を上回る地位に到達することに成功し、日立ブランドが欧州市場で自立して受け入れられる状況を作り上げた。OEM提携解消から6年で旧提携期のピークを超える売上規模に到達した格好となった。自社ブランドでの展開により保守・サービス分野の収益を自社で直接確保できるようになり、販売価格の改善も同時に進行し、収益性の改善が進んだ。この欧州での二段階戦略の実績は自社社内における海外戦略のひとつの成功モデルとして高く評価され、後の2021年のディアとの北米提携解消における貴重な先行事例として参照される経験として経営の記憶に蓄積されていった。

解説
  • 欧州売上はFY2007で1672億円と提携解消移行期にピークを記録し、日本のFY2002で1438億円からFY2023で2268億円へ、米州はFY2002で460億円からFY2023で3752億円へ、アジアはFY2002で573億円からFY2023で4631億円へと拡大した。
  • 欧州の自社ブランド移行の成功を起点に米州・アジアが連結売上の主軸へと移り変わる地域構造の転換が明瞭に読み取れる。

2004年〜2022年 マイニング参入と独立した建機メーカーへの道筋

売上高と利益率の推移:歴代経営トップの業績貢献
売上高(億円)
※経営トップ=有価証券報告書の提出書類における代表者(社長・CEO・会長など)

ウェンコ買収とディア提携解消で広がった製品領域

2009年に日立建機はカナダのウェンコ社を買収することでマイニング分野へ参入し、油圧ショベルやダンプトラックという鉱山向けの重機製品群に運行管理システムを加え、建機メーカーとしての事業ポートフォリオを拡張した。鉱山運営に必要な機械群と運行管理ソフトウェアを一括提供する体制を、ウェンコ買収で初めて手にした。鉱山向けの機械は一般建機市場とは異なる需要サイクルと顧客構造を持つため、建設機械事業のボラティリティを平準化する効果をもたらすとともに、鉱山機械のメンテナンスやバリューチェーン事業という付加価値の高い領域へ参入する足がかりを作った戦略的な意義の大きい買収となった。マイニング分野への参入は日立建機にとって新しい事業の柱を形成する歴史的な転換点となり、当初は一部の鉱種に偏っていた受注も次第に多角化した[13][14]

2021年には1983年以来38年続いたディアとの北米での合弁提携を正式に解消し、自社ブランドでの北米展開を加速させる方針へ転換する経営決断を下した。欧州で2001年から2007年にかけて実証した「OEMで市場を知り、経営体力が整った段階で自社ブランドに切り替える」という二段階戦略を北米にも適用するものであり、長年の貿易商社である伊藤忠商事の参画によって現地販路の構築加速が強く期待される体制となった。提携解消後に短期的に販売量が一時的に減少するというリスクを伴うが、移行期の設計と投資タイミングの精緻化によって空白を最小化する欧州の経験が活かされる局面であり、移行期を乗り越えれば自社収益の改善が約束される構造転換であった[15][16]

日立からHCJIへの資本異動が促した独立の現実

2022年1月に日立製作所が保有していた日立建機株式の約26%を伊藤忠商事と日本産業パートナーズの合同会社であるHCJIに売却し、日立建機の筆頭株主が日立製作所からHCJIへと60年以上ぶりに交代する歴史的な資本構造の変化が現実となった。日立製作所は残る25.42%の株式を保持し続ける選択を取り[18]、日立建機は連結子会社から持分法適用関連会社へと分類変更されることとなり、「日立」ブランドは引き続き継続使用できるというブランド契約関係は維持される形で親子関係の段階的な見直しが完了した。完全売却でも完全子会社化でもない中間的な選択は、親子上場解消という市場の強い要請に応えつつ、日立側の手放しがたい優良な収益源への一定の出資を残すという巧妙な折衷案として働くこととなった[17][19]

2024年3月期の連結売上高は1兆4059億円・当期純利益932億円という規模にまで成長し、建設省のパワーショベル2台の受注から始まった事業は、製販統合による組織再編、OEMと自力進出の二段階海外戦略、マイニング分野への参入、そして親子上場の段階的な解消という数々の段階を経て、独立した総合建設機械メーカーとしての新しい体制を整えつつあった。日立建機はこの2022年からの資本構造の変化を社内で「第2の創業」と位置づけ、米州市場への独自展開の本格決断と並んで次の時代の経営ビジョンを再構築する歴史的な転換点として捉え、独立メーカーとしての事業運営のあり方そのものをゼロベースで見直していく議論を積み重ねていくこととなった。