歴史概要 — 現在に至るあゆみ 主要な意思決定と帰結のまとめ
創業1963年8月、竹内明雄氏が長野県坂城町に資本金300万円で竹内製作所を設立し、自動車部品の下請として営業を始めた。地場の精密機械集積地に並ぶ中小製造業の一社にすぎなかったが、創業8年目の1971年、20トン級が主流だった油圧ショベルの基本機構を小型化し、トラック1台で運べる世界初のミニショベルを開発した。住宅・農業・造園・水道工事の狭い現場という新しい市場が開け、下請から建設機械の専業メーカーへと業態を移した。
決断1996年に英国、2000年にフランスへ自前の販売子会社を置き、地場の中小製造業としては異例の早さで先進国の小型建機市場に直接食い込んだ。竹内明雄氏は本社代表のまま米英仏の現地法人代表を兼ね、海外経営を個人で采配した。FY07には売上844億円・経常利益106億円のピークに届いたが、2008年のリーマンショックで売上は2年で約4分の1の232億円まで縮み、2期連続の赤字に陥った。北米の住宅需要に業績を委ねる事業構造の弱さが、ここで表に出た。
決断の理由 — クリティカルな歴史の転換点を読み解く
- Q なぜ自動車部品の下請だった竹内製作所が、1971年に世界初のミニショベルを生み出せたのか
- A 竹内製作所が世界初のカテゴリーを単独で育てられたのは、大手が小型機を「おもちゃ」と侮って参入しなかったからである。大型ショベルの入れない狭所で使える機械が欲しいという土木会社の相談に応え、竹内明雄氏は都筑製作所で14年培ったもの造りを土台に、油圧ショベルを小型化して1971年に世界初のミニショベルを出した。世になく、よく壊れる機械を粘り強く直し続けた末、塗装が乾く前に出荷するほど売れたという逸話も残っている。
- Q なぜ竹内製作所は、世界で初めて開発したミニショベルを国内ではなく輸出に賭け、1978年に販路の主軸を移したのか
- A 輸出への転換は、販路であると同時に運転資金の選択だった。国内販売は据え置き付き24〜36回の長期割賦が常で、回収まで資金が寝る。世界初の開発者でありながら「竹内なんて聞いたこともない」と後発扱いされ、国内市場にも入れなかった。対して輸出はL/C決済で即金に近く、創業期から資金繰りに苦しんだ地方の中小には財務的に軽い。竹内製作所は1978年に輸出を主軸へ据え、後年は売上の約85%が輸出となった。長年の主要株主であり監査役も送る地元・長野の八十二銀行が、資金面で結びつきの深い主力行である。
- Q なぜ竹内製作所は、リーマンショックで最大の打撃を受けた北米市場で、2010年代にかえって依存度を高めたのか
- A 危機の震源と回復の源泉が同じ北米だったのは、現地需要が日本にない裾野を持つからである。リーマンショックでは住宅関連工事に連動するミニショベル需要が蒸発し、売上はピークの約4分の1まで縮小した。だが米国では製品がレンタル会社とディーラーを介して広く出回り、住宅まわりから園芸・畜産・除雪まで使われる。専業の土木に限られる日本と違い、消費地に近い実需が需要を厚くしていると見られる。米国セグメント売上は2015年2月期の約312億円から2025年2月期に約1,201億円へ伸び、危機の主因がそのまま最大の成長源となった。
歴史詳細 - 3つの時代区分で読み解く
1963年〜1994年 自動車部品下請から世界初ミニショベルへ──独立と輸出立国への道
都筑製作所での14年修業と1963年の独立
創業者・竹内明雄氏は1949年、15歳で坂城町村上地区の都筑製作所に入った[1]。当時の同社は従業員5、6人の町工場で、明雄氏はベルトがけ旋盤を回し、残業手当のつかない長時間労働を「就職というより小僧に入った」と振り返る。仕事の鬼と呼ばれた都筑社長は、真ちゅうの1ミリの切れ端にも「これは全部金だ」と無駄を戒め、合理的な仕事の進め方を厳しく教えた[2]。明雄氏は14年をこの工場で過ごし、叱られながら身につけたもの造りの考え方が後々まで役立ったと述べている。夜学は1年で諦め、油の染みた作業服で荷車を引く姿を同級生に見られるのが何よりつらかったという。
独立したいという思いは、明雄氏が22、23歳の頃から芽生えていた。豪邸や財産が目的ではなく、小さくても自分の工場で旋盤を回したいという素朴な願いだった。24、25歳の頃、優良企業表彰でホンダ本社を訪れた際、都筑社長が金メッキの手すりを握り「こういうものをやってみたいな」と漏らしたのを、明雄氏は深く心に刻んだ[4]。独立を切り出すと社長は「結婚もしてないのに無茶だ。信用がついてからにしろ」と諭し、明雄氏は社長の仲人で結婚する[3]。長女に続いて跡取りが生まれた年を機に、明雄氏はついに独立を決めた。
1963年8月、竹内明雄氏は長野県埴科郡坂城町に資本金300万円で株式会社竹内製作所を設立し、自動車部品メーカーの下請として営業を始めた[5]。都筑製作所からは退職金代わりに旋盤を譲り受け、運転資金150万円の借入には社長が保証人に立った[6]。兄を含む6人で出発した工場は、明雄氏が自ら屋根を張り板を打って建て、事務所は自宅の応接間を改造して何年も使った。資金繰りは苦しく、自身の給料を5か月止め、前の会社で得ていた取引先株を換金してしのいだ時期もある。自社ブランドも販売網も持たない、地場の受託加工業者としての出発だった。
工場は、最初兄と私を含め、6人の人数で始めたわけですが、工場を建てることから、お金の工面から、もちろんすべて自分でやるしかありません。 そのような具合でしたから、初めに工場を造るにも人に頼めず、自分で屋根を張ったり、板を打ったりして完成させました。
世界初ミニショベルと「おもちゃ」批判
1963年の創業から8年後、1971年9月に竹内製作所は小型の油圧ショベル=ミニショベルの生産を始めた[7]。20トン級以上の大型が主流だった建設機械の世界に、トラック1台で運べる小型機を持ち込む、世界初の製品化だった。開発の着想は東京オリンピックの頃にさかのぼる。世の中にない小さな機械をつくったため「おもちゃだ」と言われ、よく壊れては直す試行錯誤の連続だった[8]。住宅地や農地、側溝、水道工事といった狭い現場の掘削は人力に頼っていたが、ミニショベルはそこを機械化する新しい市場を開いた。1972年1月には村上工場(現・本社工場)を新設し、主力の生産拠点を整えた[9]。
自前の販売網を持たない同社は、量産の受け皿をOEM供給に求めた。1975年にエンジンを採っていた縁でヤンマーディーゼルへ供給を始め、ヤンマーが自製に転じるとトーメンへ「トーメン・ジョブ」として、続いて石川島播磨重工業へ「IHI」ブランドで供給先を移した[10]。1988年からは神戸製鋼所(現・コベルコ建機)へのOEMも加えた。井戸から水道への切替え工事が各地で盛んになると、水道・造園業者がミニショベルをスコップ代わりに買い、注文は生産が追いつかないほど殺到した[11]。8月決算だった当時、1978年8月期の売上高は45億円、1980年8月期には81億円へ伸びた[12]。
建設機械以外の事業も加えた。1976年3月に双信工業から営業を譲り受けて撹拌機事業を取得し(2018年6月にエムケー精工へ譲渡)、1977年9月には撹拌機を造る千曲工場を新設した[13]。もっとも事業の主役はミニショベルで、1993年時点の売上構成はミニバックホー95%・撹拌機5%と、ほぼ建設機械の一本足だった[14]。本体側も製品を広げ、1981年1月にミニショベルを1〜5トンクラスへそろえてシリーズを完成させ、1986年9月にはクローラーローダーを開発して掘削以外の作業機械にも手を広げた[15]。創業から十数年で、同社はミニショベルを軸とする建設機械専業メーカーの形を整えた。
時は、東京オリンピックを迎えておりまして大型の建設機械に高い関心が寄せられておりました。そういった状況の中で、我々が小さいものを開発したものだから、当社の機械はおもちゃだと言われました。しかも、世の中に無い機械だからよく壊れ、試行錯誤の連続でした。
竹内ブランドへの転換と輸出立国・米国進出
OEM供給先が次々と自社生産に乗り出すと、取引は先細りに向かった。やがて同社は、自社の竹内ブランドでの直接販売へ転じる。だが最初に開発した当事者でありながら世間では後発メーカーと見なされ、「竹内なんて聞いたこともない」と相手にされなかった[16]。ブランド志向の強い日本では、名が浸透していなければ市場に入れてもらえない。創業者はこの時期を一番苦しかったと振り返る。販路を断たれかねないなかで、同社はOEM依存から自力販売への、痛みを伴う転換に乗り出した。後発の烙印を押された自社ブランドを、どこで通用させるかが次の課題となった。
国内で名が通らないなら、いっそ輸出に賭ける。同社は1978年1月にミニショベルの輸出を始め、以後は輸出を主軸に据えた[17]。後年には売上の約85%を輸出が占め、取引はL/C決済で焦げ付きを避けた[18]。販売は「1国1ディーラー」を原則とし、ひとつの国を一社の販売店に任せて深く付き合う方式をとった(地域の広いフランスのみ例外的に2社)。狭い現場向けの小型機は、古い建物を生かして内装を直す欧州の使い方と相性がよく、欧州ユーザーは日本以上に長い時間ミニショベルを使い込んだ。竹内ブランドは、国内より先に海外で浸透していった。
1979年2月、同社は米国にTAKEUCHI MFG.(U.S.), LTD.を設立した[19]。創業16年目での海外現地法人は、長野の地場中小企業としては早い決断で、後年の北米依存の出発点となった。円高で各社が北米から引き揚げるなかでも赤字を辛抱して残り、撤退しなかった判断が後に生きた[20]。国内では1984年4月に戸倉工場を新設して生産能力を広げた。非上場の同族企業として、1993年時点の株式は創業者・竹内明雄氏が40%、東京中小企業投資育成が20%、専務・竹内好敏氏が10%、トーメンが2%を保有した[21]。世界初という製品優位を持ちながら、同社は名を売る苦労を輸出で乗り越え、ミニショベル専業メーカーの地位を固めた。
「竹内なんて聞いたこともない」ということで相手にされませんでした。要するに、うちが最初に開発したんだけれども、世の中ではメーカーとしては後発メーカーと見なされてしまいました。日本はブランド志向だから、ブランドが浸透していないとマーケットに入れないことが分かりました。 このため、いっそのこと全部を輸出に切り換えようということにしたわけです。
1995年〜2007年 欧州三拠点の構築とJASDAQ上場による成長基盤づくり
ドイツ合弁・英国・フランスの欧州三拠点
1995年3月、同社はドイツのHBM/NOBAS G.M.B.H(現GP GUNTER PAPENBURG AG)と油圧ショベル(ホイール式)の共同生産を開始した(2013年12月で終了)[22]。欧州市場での製造拠点を確保する初の本格的な取り組みで、合弁形態によるリスク分散の判断であった。翌1996年10月には英国にTAKEUCHI MFG.(U.K.) LTD.を設立し、欧州販売拠点を独自に整えた[23]。1998年5月にはISO9001認証を取得し(ショベル・クローラーキャリアの設計及び製造)、品質マネジメント体制を国際標準に適合させた。1998年10月には本社工場内に開発センターを新設し、R&D機能の内製化をした[24]。
2000年5月にはフランスにTAKEUCHI FRANCE S.A.S.を設立し、英国に続く欧州第二の販売拠点を整えた[25]。創業者・竹内明雄氏は本社の代表取締役社長を務めながら、TAKEUCHI MFG.(U.S.) LTD.取締役社長(1979年)・TAKEUCHI MFG.(U.K.) LTD.取締役社長(1996年)・TAKEUCHI FRANCE S.A.S.取締役社長(2001年)を歴任し、米英仏3カ国の海外現地法人を自身が代表として直接統括した[26]。2002年3月には米国GEHL CompanyへクローラーローダーOEM生産を開始(2011年2月まで)し、北米OEM販路も追加した[27]。
JASDAQ登録と東証への上場移行
2002年12月、創業から39年で、同社は株式を日本証券業協会(JASDAQ)に登録した[28][29]。資本市場経由での成長基盤を確立する第一歩であり、創業者個人保有の中小製造業から公開企業への転換が始まった時期に当たる。2002年2月期の連結売上高は166億円、経常利益7.99億円、純利益3.80億円と、上場前夜の事業規模は中堅機械メーカーの典型的なレンジにあった。2004年12月にはJASDAQ証券取引所に株式を上場し(日本証券業協会への店頭登録は取消)、2005年3月には本社工場内に第二工場を新設して生産能力を拡張した[30][31]。
JASDAQ登録から上場直後の2002年〜2007年は同社の業績拡大が急加速した時期である。2002年2月期売上166億円が、2006年2月期572億円、2008年2月期844億円へと7年で約5倍の規模に拡大した。北米住宅市場の好調と欧州市場の拡大が同時に進行し、ミニショベル世界初の老舗としての地位のもとシェアを拡大した。2008年2月期の経常利益106.6億円・純利益64.9億円という業績は、創業以来の最高水準であり、上場直後の数年で同社は中堅から準大手機械メーカーへ規模を拡大した。
2008年〜2024年 リーマンショック直撃から海外回復・世代承継までの再構築
売上半減・2期連続赤字──輸出依存の事業構造が抱えた脆弱性
2008年9月のリーマンショックは、輸出比率の高い同社の業績を直撃した。2008年2月期売上844億円・経常利益106.6億円・純利益64.9億円の最高益から、2009年2月期売上524億円・経常損失1.3億円・純損失2.0億円へ、わずか1年で売上が約38%減・赤字転落となった。続く2010年2月期は売上232億円(前期比約56%減)・経常損失8.7億円・純損失13.0億円と、売上ピーク比で約4分の1まで縮小した。創業以来の最大の業績後退であり、輸出依存型ミニショベル専業の事業構造が、グローバル金融危機による先進国住宅需要の急減に対して脆弱であることが明らかになった。
2010年2月期までの2期で同社は約15.3億円の累積損失を計上し、リーマン直前の経営拡張期に積み上げた固定費負担と在庫の重さに苦しんだ。2011年2月期に売上349億円・純利益4.4億円と黒字復帰したものの、ピーク時の2008年2月期には及ばない水準で停滞が続き、2014年2月期売上536億円・純利益46.2億円までは復元したものの、ピーク超えは2015年2月期売上699億円までかかった。リーマンショックからの回復期は5〜6年を要し、創業者・竹内明雄氏の長期在任の後半は危機からの再構築に費やされた[32]。
米国市場の本格回復と業績の長期上昇トレンド
2015年2月期以降、同社は本格的な業績拡大トレンドへ復帰した。米国セグメント売上は2015年2月期311.5億円から、2019年2月期507億円、2024年2月期1,151億円、2025年2月期1,201億円へと約10年間で約4倍に拡大した。米国シェールガス・住宅建設・小規模インフラ整備の各市場で同社のミニショベル・クローラーローダー・コンパクトトラックローダー(CTL)が需要を吸収し、北米市場への依存度は2025年2月期時点で売上の約56%を占めた。日本セグメント売上は2015年2月期256.8億円から2025年2月期671.3億円へ約2.6倍、フランスは29.4億円→113.3億円へ約3.9倍、英国は85.6億円→145.5億円へ約1.7倍と、いずれも順調な拡大を示した。
業績拡大に対応して、同社は人員・拠点も増強した。2025年2月期時点の主要セグメント従業員数は日本732名・米国289名・中国214名・英国24名・フランス18名と、グローバルで約1,300名規模に到達した。本社工場・戸倉工場・千曲工場(一部譲渡済み)に加え、青木工場(後年新設)を国内生産拠点として運用し、米国・中国(青島)にも生産機能を持つ多極生産体制を整えた[33]。2008年2月期の経常利益106.6億円ピークから16年を経て、2024年2月期経常利益354.6億円・純利益261.5億円という、リーマン前ピーク比3.3倍超の業績水準に到達した。回復の主因は米国市場の拡大であり、危機後の同社は北米依存をさらに深めながら最高益を更新した。
創業56年目の世代承継とプライム移行後の同族経営
2019年5月、創業者・竹内明雄氏(当時85歳)は代表取締役社長を退任し、長男・竹内敏也氏(当時56歳)が代表取締役社長に就任した[34][35]。創業56年で初の社長交代であり、創業者から創業家第二世代への直接承継となった。竹内明雄氏は代表取締役会長に転じ、米国・英国・フランス・中国の各海外子会社の代表は留任した[36]。竹内敏也氏は1985年4月に竹内製作所へ入社し、執行役員部品部長(2002年)・取締役村上工場長(2004年)・取締役副社長兼TAKEUCHI MFG.(U.S.)取締役(2008年)を歴任した後の社長就任で、生え抜き入社34年・取締役副社長11年を経た内部昇進であった[37]。
承継後の業績は、2019年2月期売上1,101億円・純利益113.9億円から、2025年2月期売上2,132億円・純利益261.1億円へと、6期で売上ほぼ倍増・純利益2.3倍超に拡大した。コロナ禍の北米住宅需要増(郊外移住)と、その後のインフラ投資拡大が同社の建機需要を押し上げた。営業利益率は2019年2月期14.0%から2025年2月期17.4%へ改善した。2022年4月、東証一部からプライム市場へ移行し、創業1963年・JASDAQ登録2002年・上場2004年からの公開企業の歴史の中で、上場維持基準を満たした位置で経営を継続している[38][39]。
2025年2月期の連結業績は、売上高2,132億円・経常利益356億円・純利益261億円・自己資本1,670億円・総資産2,177億円・自己資本比率77%と、無借金経営に近い財務構造を維持している。セグメント別売上は米国1,201億円(56%)・日本671億円(31%)・英国145億円(7%)・フランス113億円(5%)・中国1.2億円(0.1%)で、北米・欧州・国内の3市場が売上の99%超を占め、中国は生産機能の位置付けが強い。役員構成は2025年5月総会時点で創業家2名(会長・竹内明雄氏、社長・竹内敏也氏)に業務執行取締役4名と監査等委員の取締役5名を加え、同族経営に外部監督機能を組み合わせている[40]。創業者・竹内明雄氏は90歳を超えた現在も代表取締役会長として在任し、創業家経営の継続性と後継期への移行の両立が現時点での同社経営の構造的特徴である[41]。