1963年〜 自動車部品下請から世界初ミニショベルへ──独立と輸出立国への道
竹内製作所の業績推移:単体
- 1963年 竹内製作所を設立し自動車部品下請を開始
- 1971年 ミニショベルを開発し生産を開始
- 1975年 ヤンマーディーゼルへのミニショベルOEM生産を開始
- 1976年 双信工業より営業譲渡を受け撹拌機事業に参入
- 1978年 OEM供給依存から竹内ブランドでの直接販売への転換 他社の名で売るか、自らの名で売るか——販売網を持たない世界初のメーカーが選んだ道
- 1979年 米国現地法人の設立と、円高下でも引き揚げなかった北米残留 赤字を抱えたまま北米に残るか、他社と同じく引き揚げるか——輸出開始の翌年に置いた拠点をめぐる判断
- 1986年 クローラーローダーを開発し生産を開始
都筑製作所での14年修業と1963年の独立
創業者・竹内明雄氏は1949年、15歳で坂城町村上地区の都筑製作所に入った。当時の同社は従業員5、6人の町工場で、明雄氏はベルトがけ旋盤を回し、残業手当のつかない長時間労働を「就職というより小僧に入った」と振り返る。仕事の鬼と呼ばれた都筑社長は、真ちゅうの1ミリの切れ端にも「これは全部金だ」と無駄を戒め、合理的な仕事の進め方を厳しく教えた。明雄氏は14年をこの工場で過ごし、叱られながら身につけたもの造りの考え方が後々まで役立ったと述べている。夜学は1年で諦め、油の染みた作業服で荷車を引く姿を同級生に見られるのが何よりつらかったという。 [1][2]
- 坂城町工業発達史(坂城町, 1988)
- [1]竹内明雄は1949年(15歳)に坂城町村上の都筑製作所へ入社、14年間勤めた
- [2]都筑製作所は当時従業員5、6人の町工場で、都筑社長は無駄を戒め合理的な仕事を厳しく教えた
独立したいという思いは、明雄氏が22、23歳の頃から芽生えていた。豪邸や財産が目的ではなく、小さくても自分の工場で旋盤を回したいという素朴な願いだった。24、25歳の頃、優良企業表彰でホンダ本社を訪れた際、都筑社長が金メッキの手すりを握り「こういうものをやってみたいな」と漏らしたのを、明雄氏は深く心に刻んだ。独立を切り出すと社長は「結婚もしてないのに無茶だ。信用がついてからにしろ」と諭し、明雄氏は社長の仲人で結婚する。長女に続いて跡取りが生まれた年を機に、明雄氏はついに独立を決めた。 [3][4]
- 坂城町工業発達史(坂城町, 1988)
- [3]竹内明雄は22、23歳の頃から独立志向を抱き、都筑社長の助言を経て社長の仲人で結婚した
- [4]優良企業表彰でホンダ本社を訪れた際、都筑社長が金メッキの手すりを握り「こういうものをやってみたいな」と漏らした
1963年8月、竹内明雄氏は長野県埴科郡坂城町に資本金300万円で株式会社竹内製作所を設立し、自動車部品メーカーの下請として営業を始めた。都筑製作所からは退職金代わりに旋盤を譲り受け、運転資金150万円の借入には社長が保証人に立った。兄を含む6人で出発した工場は、明雄氏が自ら屋根を張り板を打って建て、事務所は自宅の応接間を改造して何年も使った。資金繰りは苦しく、自身の給料を5か月止め、前の会社で得ていた取引先株を換金してしのいだ時期もある。自社ブランドも販売網も持たない、地場の受託加工業者としての出発だった。 [5][6]
- 竹内製作所 有価証券報告書 第63期(2025年2月期)【沿革】
- [5]1963年8月 竹内明雄が長野県埴科郡坂城町に資本金300万円で㈱竹内製作所を設立(自動車部品下請)
- 坂城町工業発達史(坂城町, 1988)
- [6]退職金代わりに都筑から旋盤を譲り受け、150万円の借入に社長が保証人、兄を含む6人で出発し自ら工場を建てた
- 坂城町工業発達史(坂城町, 1988)
- [1]竹内明雄は1949年(15歳)に坂城町村上の都筑製作所へ入社、14年間勤めた
- [2]都筑製作所は当時従業員5、6人の町工場で、都筑社長は無駄を戒め合理的な仕事を厳しく教えた
- [3]竹内明雄は22、23歳の頃から独立志向を抱き、都筑社長の助言を経て社長の仲人で結婚した
- [4]優良企業表彰でホンダ本社を訪れた際、都筑社長が金メッキの手すりを握り「こういうものをやってみたいな」と漏らした
- [6]退職金代わりに都筑から旋盤を譲り受け、150万円の借入に社長が保証人、兄を含む6人で出発し自ら工場を建てた
- 竹内製作所 有価証券報告書 第63期(2025年2月期)【沿革】
- [5]1963年8月 竹内明雄が長野県埴科郡坂城町に資本金300万円で㈱竹内製作所を設立(自動車部品下請)
世界初ミニショベルと「おもちゃ」批判
1963年の創業から8年後、1971年9月に竹内製作所は小型の油圧ショベル=ミニショベルの生産を始めた。20トン級以上の大型が主流だった建設機械の世界に、トラック1台で運べる小型機を持ち込む、世界初の製品化だった。開発の着想は東京オリンピックの頃にさかのぼる。世の中にない小さな機械をつくったため「おもちゃだ」と言われ、よく壊れては直す試行錯誤の連続だった。住宅地や農地、側溝、水道工事といった狭い現場の掘削は人力に頼っていたが、ミニショベルはそこを機械化する新しい市場を開いた。1972年1月には村上工場(現・本社工場)を新設し、主力の生産拠点を整えた。 [7][8][9]
- 竹内製作所 有価証券報告書 第63期(2025年2月期)【沿革】
- [7]1971年9月 ミニショベル(小型油圧ショベル)を世界で初めて製品化し生産開始
- [9]1972年1月 坂城町に村上工場(現・本社工場)を新設
- JMC journal(日本機械輸出組合, 1998年11月)
- [8]世界に無い小型機ゆえ「おもちゃだ」と言われ、よく壊れる試行錯誤の連続だった(開発の着想は東京オリンピック頃)
自前の販売網を持たない同社は、量産の受け皿をOEM供給に求めた。1975年にエンジンを採っていた縁でヤンマーディーゼルへ供給を始め、ヤンマーが自製に転じるとトーメンへ「トーメン・ジョブ」として、続いて石川島播磨重工業へ「IHI」ブランドで供給先を移した。1988年からは神戸製鋼所(現・コベルコ建機)へのOEMも加えた。井戸から水道への切替え工事が各地で盛んになると、水道・造園業者がミニショベルをスコップ代わりに買い、注文は生産が追いつかないほど殺到した。8月決算だった当時、1978年8月期の売上高は45億円、1980年8月期には81億円へ伸びた。 [10][11][12]
- 竹内製作所 有価証券報告書 第63期(2025年2月期)【沿革】
- [10]自社販売網が無く、ヤンマーディーゼル(1975)→トーメン「トーメン・ジョブ」→石川島播磨「IHI」→神戸製鋼所(1988)とOEM供給先を移した
- JMC journal(日本機械輸出組合, 1998年11月)
- [11]水道への切替え工事ブームで水道・造園業者の注文が殺到した
- 東商信用録 中部版 昭和56年版(東京商工リサーチ名古屋支社, 1981)
- [12]8月決算だった当時、売上高は1978年8月期45億円、1980年8月期81億円
建設機械以外の事業も加えた。1976年3月に双信工業から営業を譲り受けて撹拌機事業を取得し(2018年6月にエムケー精工へ譲渡)、1977年9月には撹拌機を造る千曲工場を新設した。もっとも事業の主役はミニショベルで、1993年時点の売上構成はミニバックホー95%・撹拌機5%と、ほぼ建設機械の一本足だった。本体側も製品を広げ、1981年1月にミニショベルを1〜5トンクラスへそろえてシリーズを完成させ、1986年9月にはクローラーローダーを開発して掘削以外の作業機械にも手を広げた。創業から十数年で、同社はミニショベルを軸とする建設機械専業メーカーの形を整えた。 [13][14][15]
- 竹内製作所 有価証券報告書 第63期(2025年2月期)【沿革】
- [13]1976年3月 双信工業より撹拌機事業を取得(2018年6月エムケー精工へ譲渡)、1977年9月 千曲工場を新設
- [15]1981年1月 ミニショベルを1〜5トンクラスへそろえシリーズ完成、1986年9月 クローラーローダーを開発・生産開始
- 投資育成名鑑 平成5年版(東京中小企業投資育成, 1993)
- [14]1993年時点の売上構成はミニバックホー95%・撹拌機5%
- 竹内製作所 有価証券報告書 第63期(2025年2月期)【沿革】
- [7]1971年9月 ミニショベル(小型油圧ショベル)を世界で初めて製品化し生産開始
- [9]1972年1月 坂城町に村上工場(現・本社工場)を新設
- [10]自社販売網が無く、ヤンマーディーゼル(1975)→トーメン「トーメン・ジョブ」→石川島播磨「IHI」→神戸製鋼所(1988)とOEM供給先を移した
- [13]1976年3月 双信工業より撹拌機事業を取得(2018年6月エムケー精工へ譲渡)、1977年9月 千曲工場を新設
- [15]1981年1月 ミニショベルを1〜5トンクラスへそろえシリーズ完成、1986年9月 クローラーローダーを開発・生産開始
- JMC journal(日本機械輸出組合, 1998年11月)
- [8]世界に無い小型機ゆえ「おもちゃだ」と言われ、よく壊れる試行錯誤の連続だった(開発の着想は東京オリンピック頃)
- [11]水道への切替え工事ブームで水道・造園業者の注文が殺到した
- 東商信用録 中部版 昭和56年版(東京商工リサーチ名古屋支社, 1981)
- [12]8月決算だった当時、売上高は1978年8月期45億円、1980年8月期81億円
- 投資育成名鑑 平成5年版(東京中小企業投資育成, 1993)
- [14]1993年時点の売上構成はミニバックホー95%・撹拌機5%
竹内ブランドへの転換と輸出立国・米国進出
OEM供給先が次々と自社生産に乗り出すと、取引は先細りに向かった。やがて同社は、自社の竹内ブランドでの直接販売へ転じる。だが最初に開発した当事者でありながら世間では後発メーカーと見なされ、「竹内なんて聞いたこともない」と相手にされなかった。ブランド志向の強い日本では、名が浸透していなければ市場に入れてもらえない。創業者はこの時期を一番苦しかったと振り返る。販路を断たれかねないなかで、同社はOEM依存から自力販売への、痛みを伴う転換に乗り出した。後発の烙印を押された自社ブランドを、どこで通用させるかが次の課題となった。 [16]
- JMC journal(日本機械輸出組合, 1998年11月)
- [16]OEM先細りを受け竹内ブランドの自力販売へ転じたが、後発扱いされ「竹内なんて聞いたこともない」と相手にされなかった(創業者が一番苦しかったと回顧)
国内で名が通らないなら、いっそ輸出に賭ける。同社は1978年1月にミニショベルの輸出を始め、以後は輸出を主軸に据えた。後年には売上の約85%を輸出が占め、取引はL/C決済で焦げ付きを避けた。販売は「1国1ディーラー」を原則とし、ひとつの国を一社の販売店に任せて深く付き合う方式をとった(地域の広いフランスのみ例外的に2社)。狭い現場向けの小型機は、古い建物を生かして内装を直す欧州の使い方と相性がよく、欧州ユーザーは日本以上に長い時間ミニショベルを使い込んだ。竹内ブランドは、国内より先に海外で浸透した。 [17][18]
- 竹内製作所 有価証券報告書 第63期(2025年2月期)【沿革】
- [17]1978年1月 ミニショベルの輸出を開始
- JMC journal(日本機械輸出組合, 1998年11月)
- [18]後年は売上の約85%を輸出が占め、L/C決済、販売は「1国1ディーラー」原則(フランスのみ例外2社)
1979年2月、同社は米国にTAKEUCHI MFG.(U.S.), LTD.を設立した。創業16年目での海外現地法人は、長野の地場中小企業としては早い決断で、後年の北米依存の出発点となった。円高で各社が北米から引き揚げるなかでも赤字を辛抱して残り、撤退しなかった判断が後に生きた。国内では1984年4月に戸倉工場を新設して生産能力を広げた。非上場の同族企業として、1993年時点の株式は創業者・竹内明雄氏が40%、東京中小企業投資育成が20%、専務・竹内好敏氏が10%、トーメンが2%を保有した。世界初という製品優位を持ちながら、同社は名を売る苦労を輸出で乗り越え、ミニショベル専業メーカーの地位を固めた。 [19][20][21]
- 竹内製作所 有価証券報告書 第63期(2025年2月期)【沿革】
- [19]1979年2月 米国にTAKEUCHI MFG.(U.S.), LTD.を設立、1984年4月 戸倉工場を新設
- JMC journal(日本機械輸出組合, 1998年11月)
- [20]円高で各社が北米から撤退するなかでも辛抱して残留した
- 投資育成名鑑 平成5年版(東京中小企業投資育成, 1993)
- [21]1993年(非上場)の大株主は竹内明雄40%・東京中小企業投資育成20%・竹内好敏10%・トーメン2%
- JMC journal(日本機械輸出組合, 1998年11月)
- [16]OEM先細りを受け竹内ブランドの自力販売へ転じたが、後発扱いされ「竹内なんて聞いたこともない」と相手にされなかった(創業者が一番苦しかったと回顧)
- [18]後年は売上の約85%を輸出が占め、L/C決済、販売は「1国1ディーラー」原則(フランスのみ例外2社)
- [20]円高で各社が北米から撤退するなかでも辛抱して残留した
- 竹内製作所 有価証券報告書 第63期(2025年2月期)【沿革】
- [17]1978年1月 ミニショベルの輸出を開始
- [19]1979年2月 米国にTAKEUCHI MFG.(U.S.), LTD.を設立、1984年4月 戸倉工場を新設
- 投資育成名鑑 平成5年版(東京中小企業投資育成, 1993)
- [21]1993年(非上場)の大株主は竹内明雄40%・東京中小企業投資育成20%・竹内好敏10%・トーメン2%