1877年〜 1県1行主義で生まれた全国首位の巨艦地銀の光と影
- 1877年 第十七国立銀行が創立
- 1878年 第九十六国立銀行が設立
- 1896年 嘉穂銀行設立
- 1941年 福岡貯蓄銀行誕生
- 1941年 筑邦銀行新立合併
- 1945年 一県一行主義による県内4行の新立合併と福岡銀行の設立 国が命じた統合から、なぜ全国の地方銀行で預金高第1位の銀行が生まれたか
- 1948年 東京支店開設
4行合併で全国預金高首位に立った戦後直後の発足
福岡銀行の前身となる第十七国立銀行は1877年9月に福岡市で創立され、同行はこの年を自らの創業年に定めている。合併4行の中で最大の十七銀行は本店を福岡に置き、筑邦銀行の源流のひとつである柳河銀行は1878年11月に設立された第九十六国立銀行に遡る歴史を持つ。石炭王・麻生太吉氏ら炭鉱事業家が1896年に設立した嘉穂銀行は飯塚市など筑豊の炭田地帯に地盤を持ち、1941年には福岡県南部の農村銀行18行が合併新立して筑邦銀行となった。同じ1941年2月には嘉穂貯蓄・筑豊貯蓄・三池貯蓄の3行が合併し県下唯一の貯蓄銀行である福岡貯蓄銀行が誕生している。戦時統制下の金融再編は県内で先行しており、1県1行主義による合併の下地は早くから整っていた。 [1][2][3][4][5][6]
- 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
- [1]第十七国立銀行は1877年9月に福岡市で創立、福岡銀行はこの年を創業年とする
- [2]合併4行中最大の十七銀行は本店を福岡に置いた
- [3]第九十六国立銀行は1878年11月に設立(柳河銀行=筑邦銀行源流)
- [4]嘉穂銀行は石炭王・麻生太吉ら炭鉱事業家が1896年に設立、筑豊炭田地帯に地盤
- [5]1941年に福岡県南部の農村銀行18行が合併新立して筑邦銀行となった
- [6]1941年2月に嘉穂貯蓄・筑豊貯蓄・三池貯蓄の3行が合併し県下唯一の貯蓄銀行・福岡貯蓄銀行が誕生
1945年3月、政府の1県1行主義のもとで十七銀行・筑邦銀行・嘉穂銀行・福岡貯蓄銀行の4行が新立合併し福岡銀行が誕生した。資本金2500万円・店舗131カ店で発足した新銀行は、九州で最大であるだけでなく全国地方銀行の預金高でも第1位につけるという異例の規模だった。福岡県が戦後復興の中核である鉄鋼・石炭の産地を抱えていたため業容は伸び、1948年11月に東京、1951年に下関と大阪、1952年に佐世保、1953年に熊本・人吉・宇部、1954年に長崎と神田と相次いで県外拠点を開いた。1940年代後半を通じて地銀預金高トップの座を守り、戦後復興期の九州経済の成長をそのまま行内に取り込んだ時代だった。 [7][8][9][10]
- 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
- [7]1945年3月、1県1行主義のもと十七銀行・筑邦銀行・嘉穂銀行・福岡貯蓄銀行の4行が新立合併し福岡銀行が誕生
- [8]発足時は資本金2500万円・店舗131カ店
- [9]発足時、九州最大かつ全国地方銀行の預金高で第1位だった
- [10]県外拠点開設: 1948年11月東京・1951年下関と大阪・1952年佐世保・1953年熊本/人吉/宇部・1954年長崎と神田
- 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
- [1]第十七国立銀行は1877年9月に福岡市で創立、福岡銀行はこの年を創業年とする
- [2]合併4行中最大の十七銀行は本店を福岡に置いた
- [3]第九十六国立銀行は1878年11月に設立(柳河銀行=筑邦銀行源流)
- [4]嘉穂銀行は石炭王・麻生太吉ら炭鉱事業家が1896年に設立、筑豊炭田地帯に地盤
- [5]1941年に福岡県南部の農村銀行18行が合併新立して筑邦銀行となった
- [6]1941年2月に嘉穂貯蓄・筑豊貯蓄・三池貯蓄の3行が合併し県下唯一の貯蓄銀行・福岡貯蓄銀行が誕生
- [7]1945年3月、1県1行主義のもと十七銀行・筑邦銀行・嘉穂銀行・福岡貯蓄銀行の4行が新立合併し福岡銀行が誕生
- [8]発足時は資本金2500万円・店舗131カ店
- [9]発足時、九州最大かつ全国地方銀行の預金高で第1位だった
- [10]県外拠点開設: 1948年11月東京・1951年下関と大阪・1952年佐世保・1953年熊本/人吉/宇部・1954年長崎と神田
1953年の労使紛争と石炭斜陽化、日銀出身頭取の系譜
福岡銀行が曲がり角に立ったのは1953年である。同年7月、銀行史上初とされる従業員ストライキが発生し、労使紛争が経営に動揺を与えた。さらに福岡県経済の中核だった石炭産業はエネルギー革命のなかで衰退に向かい、福岡銀行は地銀預金高首位の座からも退いた。鉄鋼・石炭という戦後復興の主役を地盤とした強みが、エネルギー転換で採算上の負担に転じた局面だった。巨艦であるがゆえに産業構造の激変を受け、戦後地方金融再編の典型例を発足から10年足らずで自ら体現した。労使対立と地場産業の構造転換が同時に経営の根幹を揺さぶり、九州地銀の盟主が初めての構造調整期に入った時代だった。 [11][12]
- 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
- [11]曲がり角は1953年。同年7月、銀行史上初とされる従業員ストライキが発生
- [12]石炭産業の衰退とともに福岡銀行は地銀預金高首位の座を退いた
労使問題の解決と経営安定化のため、1955年5月に日本銀行考査役の蟻川五二郎氏が頭取に迎えられた。以後、頭取の座は4代連続で日銀出身者が占め、1995年時点の佃亮二頭取も元日銀理事・営業局長という経歴を持つ。1957年には労使協調が成立し、業績振興3カ年計画・第2次長期計画・1967年からの第3次計画と日銀OBによる計画経営が1960年代まで続いた。並行して1952年には金融機関再建整備法に基づく9割切り捨てを経て資本金を5億5000万円まで引き上げ、戦後整理の後始末も終えた。産業構造の転換に直面した地銀を中央銀行出身者が立て直すという戦後日本の地方金融の典型を、福岡銀行は早期に経験した。 [13][14][15][16]
- 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
- [13]1955年5月、日本銀行考査役の蟻川五二郎が頭取に就任
- [14]頭取は4代連続で日銀出身者が占め、1995年時点の佃亮二頭取も元日銀理事・営業局長
- [15]1957年に労使協調が成立、業績振興3カ年計画・第2次長期計画・1967年からの第3次計画が続いた
- [16]1952年、金融機関再建整備法に基づく9割切り捨てを経て資本金を5億5000万円に引き上げ
- 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
- [11]曲がり角は1953年。同年7月、銀行史上初とされる従業員ストライキが発生
- [12]石炭産業の衰退とともに福岡銀行は地銀預金高首位の座を退いた
- [13]1955年5月、日本銀行考査役の蟻川五二郎が頭取に就任
- [14]頭取は4代連続で日銀出身者が占め、1995年時点の佃亮二頭取も元日銀理事・営業局長
- [15]1957年に労使協調が成立、業績振興3カ年計画・第2次長期計画・1967年からの第3次計画が続いた
- [16]1952年、金融機関再建整備法に基づく9割切り捨てを経て資本金を5億5000万円に引き上げ