創業1920年12月、第一次世界大戦後の反動恐慌で横浜最大の七十四銀行と横浜貯蓄銀行が相次いで休業し、横浜の金融秩序が崩れた直後に横浜興信銀行が開業した。原資は政府・日本銀行の特別融資1,600万円、役員は無報酬、株式は無配当という異例の条件で、通常業務に加えて破綻した両行の不良債権・不良資産を回収し整理することを主業とした。当時の地方銀行は両替商や旧国立銀行を母体とするのが通例だったが、横浜興信銀行は危機の後始末のために設けられた。
決断後始末から出発した銀行が、その仕事を通じて県内の集約を進めた。1927年の左右田銀行、1928年の第二銀行、1932年の関東興信銀行を吸収し、設立から十年余りで県内主要行を束ねた。1941年の戦時一県一行主義で県内6行を一括合併し、1945年には神奈川県で唯一の本店銀行となる。1957年に横浜銀行へ改称し、京浜工業地帯の集積と人口流入を取り込んで、1969年に地方銀行の預金量で全国首位に立った。神奈川という地理ごと取り込んだ。
- 歴史詳細 3章・3,691字
メインコンテンツ。一次資料をベースに歴史を紐解く
- 沿革年表 27件
主要な出来事を重要度別に時系列で整理
- 長期業績 1971〜2026年(56カ年)
有価証券報告書などの公開データに基づく長期データ
- 直近の業績
業績推移と経営体制
- セグメント情報 2005〜2013年(9カ年)
各事業の売上・営業利益・利益率の推移
- 歴代社長 4名
代表取締役社長・CEO の在任期間・経歴・在任中の施策
- 取締役一覧 2018〜2025年(8カ年)
取締役の構成バランスと社外独立性
- 大株主・株主構成 1960〜2024年(65カ年)
上位10名の入れ替わりと所有者区分7区分の推移
- 組織と給料 2005〜2025年(21カ年)
連結/単体の年次変化と業界他社の平均給与比較
決断の理由 — クリティカルな歴史の転換点を読み解く
- Q なぜ1920年に、破綻処理の機関として横浜興信銀行が設けられたのか
- A 破綻処理と預金者保護を同時に担う仕事は通常の営業収益だけでは成り立たず、外部の信用補完を前提とせざるをえない。そこで政府・日本銀行が特別融資1,600万円を出し、役員無報酬・株式無配当という条件で支える形をとった。第一次世界大戦後の反動恐慌で横浜最大の七十四銀行と横浜貯蓄銀行が相次いで休業し、横浜の金融秩序が崩れた直後の1920年12月、地元財界はこの異例の銀行として横浜興信銀行を開業させ、破綻両行の不良債権整理を主業に据えた。
- Q なぜ破綻整理から出発した銀行が、戦時統制を経て1969年に地銀預金量で全国首位に立てたのか
- A 破綻整理という出自ゆえに他行を吸収し再建する作業が経営の常態となり、県内集約を進めやすかった。1927年の左右田銀行、1928年の第二銀行を合併し、1941年の戦時一県一行主義で県内6行を一括合併して、横浜正金銀行を除く神奈川県内唯一の本店銀行となった。1957年に「興信」の語が破綻整理を連想させる時代の終わりを受けて横浜銀行へ改称し、東京に隣接して人口流入と京浜工業地帯の集積が続く神奈川の伸びを取り込み、1969年に地方銀行の預金量で全国首位に立った。
- Q なぜ2016年に東日本銀行とコンコルディアFGを組み、2025年に横浜FGへ商号を戻したのか
- A 人口減少と低金利の長期化で神奈川一県の基盤だけでは伸びにくくなり、地理の補完で広域化を図る相手を求めた。神奈川に179店を持ちながら東京都内は20店にとどまる横浜銀行と、都内に約49店を持つ東日本銀行は店舗網が重なりにくく、2016年4月の株式移転でコンコルディア・フィナンシャルグループを発足し、単純合算総資産17.4兆円で地銀グループ首位に立った。統合から8年でグループ連携が定着し、中核行の名で認知度を高める狙いから、2025年10月に横浜フィナンシャルグループへ商号を改めた。
歴史詳細 - 3つの時代区分で読み解く
1920年〜1956年 破綻銀行の整理から始まった神奈川の地方銀行
七十四銀行破綻と横浜興信銀行の設立
1920年5月、第一次世界大戦後の反動恐慌のさなかに、横浜最大の普通銀行であった七十四銀行が休業した[1]。七十四銀行は1878年に第七十四国立銀行として設立され、生糸売込商を中心に横浜商人の金融機関として40年余り営業した行である。戦後不況による取り付けに耐えられず休業に追い込まれた。同年内には横浜貯蓄銀行も破綻し、横浜の金融秩序は崩壊の危機に直面した[2]。横浜の商業と貿易を支える銀行網が戦後不況の波に飲み込まれ、預金者と地元経済の将来をめぐる不安が広がった。地域金融の再建は地元財界にとって最大の課題となり、政府・日本銀行と地元有力者が連携して新銀行の設立に動いた。
地元財界は預金者救済と地域経済の安定を目的として新銀行の設立に動き、1920年12月16日に横浜興信銀行が開業した[3]。原資は政府・日本銀行による特別融資1,600万円で、役員は無報酬、株式は無配当という異例の条件が付された[4]。通常の銀行業務に加え、破綻した両行の不良債権・不良資産の回収と整理を主業とするサービサー的な銀行として出発した[5]。全国の地方銀行の多くが有力両替商や旧国立銀行を母体とするのに対し、横浜銀行の前身は危機対応のために設けられた銀行で、出自として異色の位置にある。預金者保護と不良債権処理を同時に担う運営は通常の営業収益だけでは成立せず、特別融資の存在が前提となる仕組みだった。
昭和期の県内合併と一県一行化の完成
横浜興信銀行は設立後、神奈川県内の銀行を次々と吸収した。1927年に左右田銀行[6]、1928年に第二銀行、1932年に関東興信銀行を合併した[7]。第二銀行は1874年に横浜為替会社を母体として設立された旧・横浜第二国立銀行の後継行で[8]、横浜の金融史における最古の系譜を横浜興信銀行に持ち込んだ。横浜為替会社は1869年設立の日本初の会社組織による金融機関とされ、横浜銀行はこの系譜から「創業151年」と数える場合もある[9]。破綻銀行の整理という出自を抱えながら、横浜の金融史全体を継承する側面を併せ持った。設立から10年余りで県内主要行を束ねる地位に立ったことは、サービサー的な出発点とは異なる通常銀行としての基盤が固まった経緯を示す。
1941年には戦時下の一県一行主義政策に基づき[10]、鎌倉銀行・秦野銀行・足柄農商銀行・相模銀行・平塚江陽銀行・明和銀行の県内6行を合併した[11]。1945年に都南貯蓄銀行を合併し、特殊銀行であった横浜正金銀行を除いて神奈川県内唯一の本店銀行となった[12]。25年間で10行以上を合併し、県内金融の一元化を完成させた経緯にあたる。戦時動員期を通じて地方銀行の統合が全国で進むなか、横浜興信銀行は神奈川県金融の中心に位置した。破綻処理機関として生まれた銀行が、名実ともに県内唯一の本店銀行へ転換した。一県一行主義は戦時統制経済の柱の一つで、預金集積と国債消化の効率化を目的とする政策だった。
1957年〜2015年 高度成長期の地銀トップ到達と公的資金時代
横浜銀行への改称と預金量全国首位到達
1957年、横浜興信銀行は「横浜銀行」に行名を改めた[13]。「興信」の語が破綻銀行の整理を連想させる時代が終わり、高度成長期の神奈川県とともに伸びる地方銀行としての名称を選び直した判断である。神奈川県は東京に隣接する立地から人口流入が続き、沿線開発と工業集積が進んだ。この人口と経済の伸びを受け、横浜銀行は1969年に全国の地方銀行で預金量首位に立った[14]。設立から49年、破綻銀行の処理機関として生まれた銀行が地銀トップに到達した節目で[15]、戦後復興と高度成長の波に乗った経営の成果が数字の上で示された結果である。神奈川県の人口は1955年から1970年にかけて年率4%超で増え、京浜工業地帯の集積も進み、預金と貸出の双方で県内地銀として吸収力を発揮した。
1993年には創立70周年記念事業として、横浜市西区みなとみらいに本店を移転した[16]。みなとみらい21地区の開発と歩調を合わせた移転で[17]、横浜の都市ブランドと銀行のアイデンティティを重ね合わせる狙いがあった。神奈川県の経済的中心が横浜駅周辺からみなとみらい地区へ移る流れに合わせ、銀行の象徴的な存在も新しい都市軸の上に置き直した経緯にあたる。地銀トップの地位を固めた銀行が県内経済の新しい中核地域と歩調を合わせて自らの拠点を更新した動きは、地域密着型の地方銀行としての姿勢を示す経営判断である。みなとみらい21地区はバブル期に着工した再開発エリアで、本店移転は地域開発と銀行経営を直結させる試みだった。
バブル崩壊と公的資金による早期完済
1990年代後半、バブル崩壊に伴う不良債権処理が横浜銀行の経営を圧迫した。1997年には北海道拓殖銀行と山一証券が破綻し、金融システム全体に信用不安が広がるなか、横浜銀行は1998年から1999年にかけて劣後ローンと優先株あわせて計2,200億円の公的資金を受け入れた[18]。当時の頭取・平澤貞昭は「業務態勢再構築委員会」を設置し、早期退職や転籍の促進を含むリストラを断行した。地域密着の地方銀行であっても金融危機の波から無縁ではいられず、設立時の公的使命を背負う銀行として再び公的支援の下に立った。早期健全化法に基づく公的資金注入は1999年3月に都銀7行を含む15行に対して総額7.5兆円規模で実施され、地銀のなかでは横浜銀行が代表的な受入行となった。
地域密着の金融サービスへの回帰とコスト構造の見直しが奏功し、業績は回復した。2004年8月、当初の返済計画より1年半前倒しで公的資金2,200億円を完済した[19]。7年で完済するという国への約束を上回る速度で、地銀のなかでも早期完済を果たした事例のひとつとして知られる。設立時に政府・日銀の特別融資を背負って生まれた銀行が、戦後の成長期を経てバブル崩壊の波を乗り越え、公的資金の早期返済までこぎつけた。完済時点で同行のコア業務純益は1,000億円規模を保ち、神奈川県の経済規模と地銀トップの預金量という基盤が公的資金返済を支える原資となった。
2016年〜2026年 経営統合とグループ再編による横浜フィナンシャルグループ化
東日本銀行との統合とコンコルディアFG発足
2014年11月、横浜銀行と東日本銀行は経営統合に関する基本合意を発表した[20]。東日本銀行は1924年に茨城県水戸市で「常磐無尽」として創業し、1951年に常磐相互銀行、1989年に普通銀行転換を経て東日本銀行となった行で、東京都内に49店舗の営業基盤を持っていた。横浜銀行は神奈川県に180店を展開していたが東京都内は20店にとどまり、両行の店舗網は補完関係にあった。神奈川県を地盤とする横浜銀行と東京都内の店舗網を持つ東日本銀行とが、地理的な相互補完のなかで一体化する経営統合の構図にあたる。地方銀行の経営統合は2010年代以降、人口減少と低金利環境の長期化を受けて全国で進み、首都圏地銀同士の組み合わせが上位グループの再編を主導した。
2016年4月、株式移転方式により共同持株会社「コンコルディア・フィナンシャルグループ」を設立し、東京証券取引所に上場した[21]。「コンコルディア」はラテン語で「調和・協調」を意味する語で、統合に込めた思いを社名に刻む狙いがあった。単純合算の総資産は17.4兆円で、ふくおかフィナンシャルグループを抜き、地銀グループの首位に立った[22]。経営統合時の数値目標は貸出金年率4%増・業務粗利益年率3%増で、過去の成長率を上回る水準である。両行の経営規模差は資産で約7倍あり、横浜銀行が事実上の主導権を握る統合だった。後年に頭取となる大矢恭好は統合の意義について、目的を欠けば単なる数合わせに堕してしまうと述べ、規模だけでない統合の質を強調した[23]。
神奈川銀行子会社化と横浜FGへの商号変更
2023年4月、横浜銀行は神奈川県を地盤とする神奈川銀行の株式を取得し連結子会社化した[24]。同年6月には議決権100%を取得し完全子会社化した[25]。横浜銀行・東日本銀行・神奈川銀行の3行体制により、神奈川県を「面」として捉える営業基盤を整えた。神奈川銀行は1953年に横浜中央信用金庫として設立され、1989年に第二地方銀行に転換した行で、横浜銀行とは規模が異なる中小企業向け融資に強みを持つ。3行で機能の住み分けを設計する取り組みである。片岡達也頭取は統合のタイミングについて、両行が元気なうちの統合にこだわった結果として機を捉えたものの、利上げ局面と重なっていれば顧客や従業員の不安も高まっていたはずだとして、利上げ前の決断であった点を重視した[26]。
FY24(2025年3月期)の連結経常収益は3,991億円、連結純利益は828億円となった。2025年10月、コンコルディア・フィナンシャルグループは「横浜フィナンシャルグループ」に商号変更した[27]。設立から8年が経過しグループ内連携が定着したことで「コンコルディア」の役割は終えたと判断した[28]。片岡達也社長は商号変更の理由として、現社名では地域金融機関グループらしさが伝わらないと説明し、中核企業である横浜銀行の名を冠して国内外の認知度を高める意図を示した[29]。破綻銀行の整理機関として1920年に生まれた銀行が、100年を超える時を経て県内金融の中核グループを形成し、中核行の名をグループ名にまで押し上げる段階に達した。地銀グループ名にあえて持株会社固有の中立的な名称を与え、後に中核行名へ戻す事例は珍しい。