歴史概要 — 現在に至るあゆみ 主要な意思決定と帰結のまとめ
創業1899年、洋菓子が輸入品として珍重された時代に、米国で量産技術を11年学んだ森永太一郎が東京・赤坂の二坪の作業場で森永西洋菓子製造所を始めた。国内に洋菓子を量産できる作り手がほとんどおらず、輸入品が上流階級や居留地向けに細々と流れるだけだった。そこへ森永は原料配合と機械化を米国式の標準工程ごと持ち込み、エンゼルマーク入りのマシュマロを明治屋ら洋酒輸入商を経由して納めた。1914年にはミルクキャラメルを小箱入りで売り出し、駄菓子屋から百貨店まで届く流通を引いた。
決断量産技術を菓子一本の収益構造へ絞り込んだのが戦後の選択だった。戦時統制で森永食糧工業へ改称し乳業や軍需食料品まで抱えた同社は、1949年に乳業部門を森永乳業として分離し、半年のうちに会社分割・再上場・社名復元を立て続けに実行して経営資源を菓子へ寄せた。以降はミルクキャラメル・チョコボール・チョコモナカと、数十年単位で売場に残るブランドを次々に定番化し、新規開発の当たり外れに頼らず既存ブランドの売れ続ける力で利益を積む稼ぎ方へ移っていった。
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1899年〜1948年 米国仕込みの洋菓子量産技術を国産化した創業と戦時の国策統合
米国で11年学んだ洋菓子量産技術の国産化
1899年8月、森永太一郎氏は東京・赤坂溜池の二坪の作業場で「森永西洋菓子製造所」を個人創業した[1][2][3]。森永太一郎氏は1888年に渡米し、サンフランシスコのオークランドで洋菓子製造を11年にわたり学び、マシュマロ・キャラメル・ビスケットの量産技術を体得して帰国した直後の出発だった[4]。当時の日本で洋菓子は外国人居留地や高級ホテル向けの輸入品が中心で、量産する作り手はほとんどおらず、国産化の余地は事業機会として広く残されていた。創業期の主力商品は手作りのエンゼルマーク入りマシュマロで、明治屋・新橋亭などの洋酒輸入商を経由して上流階級向けに流通した。
森永西洋菓子製造所が他の和菓子業者と一線を画した点は、原料配合と機械化を米国式の標準工程に乗せて再現した点にあった。森永太一郎氏は1905年にチョコレート・キャラメルの本格生産を開始し、1910年2月には資本金30万円で株式会社森永商店として法人化、1912年11月に森永製菓株式会社へ改称した[5][6]。商号変更と同時期の1914年にはミルクキャラメルを「滋養豊富、風味絶佳」のキャッチコピーで発売し、ポケット型黄色紙箱に入れた20粒10銭の小売パッケージで全国の駄菓子屋・百貨店ルートへの流通を確立した[7]。米国で身につけた洋菓子量産技術を国産化する装置として、創業期の森永製菓は出発した。
工業化の進展と都市中産階級の勃興により、洋菓子の需要は1910年代後半から1920年代にかけて急拡大した。1920年7月の日本煉乳合併で三島工場を承継し、1921年3月に塚口工場、1925年6月に鶴見工場を新設して西日本・関東圏での生産体制を整えた[8][9][10]。1923年3月には自社品販売会社の森永製品販売を設立し(以降全国各地で同名の販売会社を順次設立)、同年4月には丸の内ビルディングに森永キャンデーストアを開店、菓子の小売と外食を結びつけた直営店モデルも試みた[11][12]。創業から20年で原料調達・工場分散・自社販売網・直営小売という洋菓子量産業の基本装置を一通り揃えた同社は、戦前期の国内洋菓子市場で明治製菓と並ぶ二大ブランドの地位を確立した。
戦時統制で「森永食糧工業」へ強制改称、創業者経営の断絶
1937年の日中戦争開戦以降、政府は砂糖・カカオ・乳製品の輸入を統制し、菓子製造各社の原料配給を国の管理下に置いた。砂糖の配給量が戦前比の半分以下まで縮小する1940年代前半、森永製菓を含む主要製菓会社は嗜好品から食料品への業態転換を政府の指導で進めた。1942年10月、政府の食料供給合理化方針のもとで森永乳業・森永食品工業(これにより中京工場を承継)・東海製菓(これにより小山工場を承継)・森永関西牛乳の四社を吸収合併し、1943年11月には「森永食糧工業株式会社」と商号を強制改称した[13][14]。菓子製造業者から軍需食料品供給業者への組み替えが、社名のレベルで完了した。
戦時統制期の同社は乾パン・粉乳・栄養菓子といった軍向け食料品の供給に生産能力の大半を振り向け、戦前に築いた洋菓子ブランド群はほぼ全面的に休止状態に置かれた。創業者の森永太一郎氏は1937年に死去しており、戦時下の経営は二代目の松崎半三郎氏ら森永乳業創業期から関与した経営陣が継いだ。1945年8月の終戦時、空襲で塚口工場・鶴見工場の主要設備は損傷し、原材料の備蓄もほぼ枯渇した状態だった。戦前の洋菓子量産事業者としての森永製菓は、戦時統制と空襲被害でほぼ解体された状態で戦後を迎えた。
戦後の食料事情はさらに逼迫し、1947年5月には久留米工場を新設して醸造業を併営するなど、菓子製造から離れた多角化で当面の事業継続を図った[15]。1948年から1949年にかけてGHQの財閥解体方針と過度経済力集中排除法の対象選定を受け、戦時合併した子会社群の再分離が経営課題に浮上した。1899年の個人創業から半世紀、米国で身につけた洋菓子量産技術を国産化する装置として出発した同社は、戦時統制で社名と事業領域を強制的に書き換えられ、創業者・森永太一郎氏の世代が手放した会社を、戦後復興期の経営陣が再起動する局面へと移った。
1949年〜1999年 戦後の乳業分離による菓子集中と長寿命ブランドで稼ぐ50年
乳業分離と再上場、菓子事業への集中
1949年は戦後再起の節目となった年である。4月に森永乳業を新設分離して乳製品事業を独立会社化し、5月に東京・大阪・名古屋の各証券取引所へ上場、8月には商事部門を分離して森永商事(旧)を発足、10月には乳業部門を森永乳業へ正式譲渡したうえで社名を「森永食糧工業」から「森永製菓株式会社」へ復称した[16][17][18][19]。半年で会社分割・株式上場・社名復元を矢継ぎ早に実行した1949年は、戦時統制で歪んだ事業ポートフォリオを菓子に絞り直す決断の年として位置付けられる。乳業を分離したことで森永製菓は菓子事業への経営資源集中を制度的に固め、戦前型の洋菓子量産業へ復帰する道筋を整えた。
1950年代から1960年代の同社は、戦前の長寿命ブランド群を順次再生産しながら新ブランドの投入を重ねた。1953年にハイクラウンチョコレート、1957年にチョコボール、1967年にチョコモナカ、1968年にエンゼルパイと、いずれも数十年単位で売場の定番として残り続けるブランドが連続して市場投入された。1961年12月の台湾製菓股份有限公司との資本提携(現・台湾森永製菓股份有限公司)は戦後初の海外資本提携で、1965年3月の大和食品設立(現・森永エンゼルデザート)と1965年8月の米国ゼネラルミルズとの合弁による森永ゼネラルミルズ設立(1980年に森永スナック食品へ社名変更)は、菓子の周辺領域への事業拡張だった[20][21][22]。ゼネラルミルズとの合弁ではシリアル(チェリオ・パンプアップ等)とポテトスナック(ポテロング等)の生産・販売を担い、米国型の朝食習慣と新興スナック市場を国内に持ち込んだ。
1969年10月には森永商事(旧)を吸収合併し、1970年12月に森永開発、1973年9月に森和商事(現・森永商事)、1980年1月に森永デザートを順次設立、関連会社の整理と新設を交互に繰り返しながら、菓子を核とする企業群を整備した[23][24][25][26]。1949年の乳業分離から30年、洋菓子量産技術を母体とする戦前型のビジネスモデルを、長寿命ブランドの定番化と関連会社群による事業ポートフォリオ管理という戦後型の経営手法に組み替える作業が、1970年代までにほぼ完了した。製造・販売・関連事業を分業する企業群の再編は、戦前型の単一会社経営から戦後型のグループ経営への移行を意味し、以降の海外子会社・健康食品子会社の新設も同じ手法で進められた。
「森永ヒ素ミルク事件」が突きつけた品質管理の課題
1955年6月に発覚した森永ヒ素ミルク中毒事件は、戦後復興期の同社経営に長期にわたる課題を残した[27]。事件は森永乳業徳島工場で製造された粉ミルク「森永ドライミルク」に第二リン酸ソーダ精製過程で混入したヒ素により、西日本一帯の乳児に中毒被害が広がったもので、被害者は1万3千人超、死者130名以上が公式集計された[28]。森永製菓は1949年に乳業部門を分離していたが、消費者と販売現場では「森永」ブランドが菓子と乳業で共通しており、製菓側の販売にも長期にわたる影響が及んだ。事件後の数年間、森永ブランドの菓子製品も買い控えに直面し、戦後復興期の積み上げてきたブランド資産が品質管理の事故で毀損する経験を残した。
森永乳業が患者救済と恒久対策を組織的に開始したのは1973年12月の三者会談合意(森永乳業・厚生省・被害者救済会)以降だった。製菓側も乳業の被害補償基金「ひかり協会」設立への協力を求められ、1970年代から1980年代にかけて森永グループ全体としての社会的責任を継続的に負担した。1955年の事件は同社の連結損益に直接の特別損失として現れる種類のものではなかったが、ブランド管理と原料安全性への投資判断に長く影響を残し、戦後の長寿命ブランドを定番化していくモデルが、品質保証を前提とした事業構造に依存していることを経営に刻み込んだ。
1987年4月には小山新工場が完成し、戦後復興期の老朽工場群の更新が一段落した[29]。1980年代後半のバブル経済期は国内菓子市場も拡大基調で、同社の単体売上は1989年3月期に1,500億円を突破した(推定)。1990年代に入るとカカオ・砂糖といった輸入原料の調達コスト変動と国内菓子需要の頭打ちが顕在化し、1999年4月の森永開発吸収合併と関連会社の再編で1980年代以降の多角化資産の見直しに着手した[30]。1949年から1999年の50年は、洋菓子量産業を長寿命ブランドの定番化で回す戦後モデルが完成し、その完成と同時に成長余地の限界が見え始めた半世紀だった。
1994年発売の「ウイダーinゼリー」が後の主力に育つ起点
1994年5月、同社は「ウイダーinゼリー」を発売した[31]。米国のウイダー・ニュートリション社(後のウイダー・パブリケーションズ)とのライセンス契約に基づき、運動補給用のゼリー飲料として開発された製品で、180g入りパウチを片手で握って吸引摂取する形状は、当時の食品市場では珍しい飲み方だった。発売当初は陸上競技・サイクリングなどスポーツ補給市場が中心で、菓子事業の中では小さな新規領域に過ぎなかった。発売初年度の売上規模は推定で数億円水準にとどまり、当時の同社売上の0.5%にも届かない補助的な存在として位置付けられていた。
ウイダーinゼリーが菓子と並ぶ柱に育つには10年以上の時間を要した。1990年代後半から2000年代前半にかけて、忙しい朝の朝食代替・受験生の栄養補給・運動後のタンパク補給という用途が消費者の側で発見され、コンビニエンスストアの定番棚に並ぶ位置を獲得した。2003年には「ウイダーinゼリー エネルギー」シリーズが年間100億円を突破し、菓子の長寿命ブランドと並ぶ単独カテゴリーとして同社のポートフォリオに組み込まれた[32]。1965年の米国ゼネラルミルズとの合弁で築いたシリアル・スナック関連のノウハウと販路が、1994年のウイダーinゼリー導入と2000年代の市場拡大を支えた歴史的な連続性を持つ。
1990年代末の時点では、ウイダーinゼリーが2010年代以降の同社の成長エンジンに置き換わると経営陣が予測していた根拠は限定的で、菓子事業の枠内で機能性を訴求する新規ブランドの一つに過ぎなかった。長寿命ブランドを中心に置く戦後モデルを延命する位置付けで投入された製品が、20年後に菓子から健康食品への転換を担う中核へと成長することは、1994年時点では誰も具体的に見通していなかった。1999年までの森永製菓は、菓子集中型の戦後モデルが完成段階にある会社であり、次の主力交代に向けた種は撒かれていたが、まだ収穫期に入っていなかった。
2000年〜2025年 inゼリーの台頭で健康食品への比重を移したグローバル化期
inゼリーの本格成長と海外展開の起動
2000年代に入り、国内菓子市場は少子化と健康志向の浸透で縮小基調に転じた。日本チョコレート・ココア協会の統計でも国内チョコレート消費量はピークの1990年代後半から2000年代前半にかけて緩やかな減少が続き、キャラメル・ビスケットなど伝統的な砂糖菓子の需要は構造的に押し下げられた。一方でウイダーinゼリーは2003年に単独カテゴリーで100億円を突破した後も伸び続け、2010年頃には200億円規模に到達した[33]。健康志向・タンパク質摂取ニーズの拡大を捉えた同製品の成長は、菓子事業の縮小を打ち消す形で同社の連結売上を下支えした。
2001年7月にレストラン森永(1987年に森永キャンデーストアから社名変更)から営業権を譲り受けて株式会社エンゼルフードシステムズを設立、外食事業に再参入したが、2004年12月に同社株式を譲渡して撤退した[34][35][36]。3年で撤退した外食事業は、戦後の長寿命ブランド型モデルが小売・外食という別業態へ拡張する難しさを露わにした事例として残った。2008年1月のアントステラ(クッキー菓子のステラおばさんのクッキー運営)100%子会社化と同年8月の米国森永製菓設立は、菓子周辺領域への国内買収とinゼリー北米展開の準備という二つの方向性を同時に進めた決定だった[37][38]。
2010年代半ば以降、海外展開のペースは速まった。2010年12月の森永食品(浙江)設立、2011年4月の高崎森永設立、2013年10月の森永キノインドネシア設立(2019年1月に株式譲渡で撤退)、2013年12月の森永アメリカフーズ設立、2019年5月の森永アジアパシフィック設立と、3〜4年に一度のペースで海外子会社の新設を重ねた[39][40][41][42][43]。連結売上はFY11の1,472億円からFY16の1,995億円、FY19の2,089億円まで8年で約1.4倍に伸び、菓子の長寿命ブランドとinゼリー・健康食品の二本柱で2,000億円水準を維持する事業構造が固まった。
コロナ禍で露呈した菓子事業の構造課題と業務用市場の重心
2020年3月期からのコロナ禍は同社の事業構造に二つの方向の影響を及ぼした。第一に、コンビニ・駅売店向けのinゼリー販売は外出自粛で19%減少し、FY20の連結売上は前期2,089億円から1,682億円へ後退した。第二に、家庭内消費向けの菓子需要は巣ごもり需要で一定の下支えがあり、長寿命ブランド群の家庭用パッケージは販売を維持した。同社全体としてはFY20の営業利益は191億円と前期212億円から小幅減にとどまり、菓子と健康食品の二本柱が需要変動への耐性をもたらした。コンビニ依存の高いinゼリーの落ち込みを、スーパー・ドラッグストアでの菓子販売が部分的に補完する構図は、複数の販路と複数のカテゴリーを持つ事業構造の利点として表れた。
FY21(2022年3月期)には特別利益として政策保有株式の縮減に伴う売却益が220億円規模で計上され、純利益は277億円まで膨らんだ。連結売上はFY21の1,813億円、FY22の1,944億円、FY23の2,134億円、FY24の2,290億円と4年で回復・拡大を続け、コロナ禍前のFY19水準(2,089億円)を上回る規模に到達した。営業利益はFY15の115億円からFY19の212億円、FY24の213億円へと、10年で約2倍に伸びた水準を維持した。営業利益はFY15の115億円からFY19の212億円、FY24の213億円へと、10年で約2倍に伸びた水準を維持した。
セグメント別ではFY24時点で食料品製造(菓子・健康食品)が連結売上の95%、不動産及びサービスが1%、食料卸売が4%を占め、菓子・健康食品事業への一極集中構造は変わらない[44]。FY24の食料品製造セグメント売上2,175億円のうち、inゼリー系の健康食品が約3割、菓子事業が約6割という構成(同社開示推定)で、1994年発売のウイダーinゼリーは発売30年で同社売上の3割近くを占める主力カテゴリーに育った[45]。1899年の創業から125年、米国仕込みの洋菓子量産技術で出発した会社は、米国仕込みの機能性飲料技術を主力に組み替える構造転換の途中にある。
海外展開の本格化とプライム市場移行
2022年4月、東京証券取引所の市場区分見直しにより、同社は市場第一部からプライム市場へ移行した[46]。1949年5月の東京・大阪・名古屋3市場上場から73年を経た上場区分の再編で、プライム基準を満たすコーポレートガバナンス開示と英文開示の整備が経営課題として正式に加わった[47]。2020年代以降の同社は、社外取締役の独立性比率を一段引き上げ、女性取締役の登用を順次拡大し、機関投資家との対話頻度を高めるガバナンス再編を順次進めた。FY24時点の取締役17名のうち、社外取締役は7名、女性取締役は4名で、プライム市場上場企業の標準的なガバナンス構成に整えられた[48]。
海外展開ではinゼリーの北米市場開拓を中心軸に据え、米国森永製菓と森永アメリカフーズを通じて健康志向の高い米国西海岸・東海岸都市部での販路を広げてきた。アジア地域では2019年5月設立の森永アジアパシフィックがシンガポールを拠点に東南アジア各国へのinゼリー販売と現地嗜好に合わせた菓子のカスタマイズを担う。中国市場では2003年3月設立の摩利哪呷(上海)食品有限公司(現・上海森永食品有限公司)と2010年12月設立の森永食品(浙江)有限公司が現地生産・販売を担当する[49]。グローバル売上比率はFY24時点で連結売上の約10%水準にとどまり、明治HDの約15%・江崎グリコの約12%と比較すると後方に位置する[50]。
国内菓子市場の縮小と原材料(カカオ・砂糖・乳製品)の高騰という二つの構造要因は、2020年代を通じて緩和せず、むしろ強まっている。カカオ価格は2024年に過去最高水準を更新し、菓子各社は値上げと製品リニューアルで対応してきたが、ブランドロイヤリティを維持しながらの価格転嫁には限界がある[51]。同業の明治HDが売上1兆円超、江崎グリコが3,500億円超の規模を持つなかで、森永製菓のFY24売上2,290億円は中規模の専業菓子・健康食品メーカーの位置にとどまる[52]。次のポートフォリオの転換を担うのは、inゼリーの海外展開で連結売上に占める健康食品比率と海外比率をどこまで引き上げられるかの判断である。