森永製菓 の歴史

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1899年、森永太一郎氏が東京・赤坂で創業し、1912年に森永製菓へ改称。1949年の乳業部門分離による森永乳業の発足と菓子専業への絞り込みまでの沿革と経緯を執筆。

創業

1899年

創業者

森永太一郎

創業地

東京都赤坂

直近売上高(2026/3)

2,367億円

長期業績と転換点(1997/3〜2026/3)
売上高(億円純利益率(%)
Q なぜ1899年の創業時に森永太一郎氏は米国式の量産技術にこだわったのか
A 森永製菓が和菓子業者と分かれたのは、菓子を手で仕上げる工芸から、原料配合と機械を米国式の標準工程に乗せた量産業へ置き換えた点にある。森永太一郎氏は滞米11年で洋菓子製造法を修得して帰国し、1899年8月、東京・赤坂溜池の二坪の職場に森永西洋菓子製造所を構えた。当時の洋菓子は居留地向けの輸入品が中心で量産する作り手がほとんどおらず、国産化の余地が広く残されていた。1913年にはミルクキャラメルを発売し、翌1914年3月に出したポケット用の紙サック入りが人気を呼んだ
Q なぜ1949年に森永製菓は乳業を切り離して菓子へ集中したのか
A 森永製菓が菓子へ収益構造を絞り直したのは、戦時統制で乳業や軍需食料品まで抱え込んだ事業ポートフォリオの歪みを正すためだった。1943年に森永食糧工業へ強制改称された同社は、1949年に乳業部門を森永乳業として新設分離し、4月の分離・5月の東京・大阪・名古屋3市場上場・10月の社名復称までを半年で立て続けに実行して経営資源を菓子へ寄せた。以降はハイクラウン・チョコボール・チョコモナカと数十年売場に残るブランドを定番化し、新規開発の当たり外れに頼らず既存ブランドの売れ続ける力で利益を積む戦後モデルへ移った
Q なぜ2022年に森永製菓は政策保有株を売り取締役会を組み替えたのか
A 森永製菓が2022年に資本と取締役会から組み替えに動いたのは、東証プライム市場移行が独立性と資本効率の説明を正式な経営課題に加えたためだった。同社は2022年4月のプライム移行に合わせ、長く持ち合った政策保有株式を220億円規模で売却し、取締役17名のうち社外を7名・女性を4名へ組み替えた。パナソニック出身の宮井真千子氏、花王出身の広田雅人氏、伊藤忠出身の星秀一氏ら他産業の経歴者を社外に据え、製菓プロパー中心の意思決定へ外部の監督を入れた。長寿命ブランドで守ってきた会社が、ガバナンスの構成から組み替えた。

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1899年〜 米国仕込みの量産技術を移した創業と、設備拡張が招いた3期無配

  1. 1910年 「森永商店」設立
  2. 1912年 「森永製菓」に商号変更
  3. 1920年 日本煉乳を合併(これにより三島工場を承継)
  4. 1923年 自社品販売会社森永製品販売設立(以降全国各地に設立)

二坪の職場から芝田町・大阪へ広げた洋菓子の量産

森永製菓の出発は、1899年8月に森永太一郎氏が東京・赤坂溜池の二坪の職場に構えた森永西洋菓子製造所[1]である。太一郎氏は滞米11年で洋菓子製造法を修得して帰国し[2]、創業の8カ月後に溜池表通り、3年後に赤坂田町へ移った[3]。当時の日本の菓子は見た目の形が整っていればよい家内工業の域を出ておらず[4]、太一郎氏は原料の配合に細心の注意を払い、嗜好品にすぎなかった菓子に栄養価を持たせた「子供のための菓子」を安く量産する道[5]を選んだ。創業の年の暮れには日本で最初のキャラメルを作った[6]。1904年には衛生に配慮して業界に先駆けて従業員の制服を採用[7]し、1905年にはエンゼルマークを商標登録[8]した。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「森永製菓」の項
    • [1]1899年8月 森永太一郎が東京・赤坂溜池の二坪の職場で森永西洋菓子製造所を創業
    • [2]森永太一郎 滞米11年で洋菓子製造法を修得して帰国
    • [3]創業8カ月後に溜池表通りへ、3年後に赤坂田町へ移転
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編、1968年)「森永製菓」の項
    • [4]当時の日本の菓子工業は家内工業の域を出ず、見た目の形が整っていればよいとされた
    • [5]菓子の栄養価を高め「子供のための菓子」を安価に量産する方針
    • [6]1899年末 日本で最初のキャラメルを製造
  • 森永製菓 統合報告書2025
    • [7]1904年 衛生に配慮し業界に先駆けて従業員の制服を採用
    • [8]1905年 エンゼルマークを商標登録

1905年1月には松崎半三郎氏が支配人として入店して経営全般を担い[9]、森永・松崎のコンビが生まれた。1907年には芝田町へ新工場を建てて移り、翌1908年には大阪支店を設けた[10]。1910年2月には資本金30万円で株式会社森永商店を設立して森永太一郎氏が社長に就き、同年4月には資本金を50万円へ引き上げた[11]。1912年11月には森永製菓へ改称[12]し、翌1913年にミルクキャラメルを発売した[13]。キャラメルはばら売りが常識の時代だったため、1914年3月に出したポケット用の紙サック入りが人気を呼び[14]、森永の名を一挙に広げた。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「森永製菓」の項
    • [9]1905年1月 松崎半三郎が支配人として入店し経営全般を担当
    • [10]1907年 芝田町に新工場を建設して移転、1908年 大阪支店開設
    • [11]1910年2月 資本金30万円で株式会社森永商店を設立、社長 森永太一郎。同年4月 資本金50万円
  • 森永製菓 有価証券報告書【沿革】
    • [12]1912年11月 森永製菓へ商号変更
  • 森永製菓 統合報告書2025
    • [13]1913年 ミルクキャラメル発売
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編、1968年)「森永製菓」の項
    • [14]1914年3月 ミルクキャラメル・ポケット用を発表、ばら売りが常識の時代に紙サックの新型が人気

1915年にはビスケットを輸出向けに作りはじめ[15]、1918年9月には芝田町工場にチョコレート製造機械を据えて翌10月から国産第1号のミルクチョコレート[16]を売り出した[17]。1919年にはミルクココアを発売し、同じ年に業界へ先駆けて8時間労働制を敷いた[18]。1920年7月には日本煉乳を合併して三島工場を引き継いだ[19]。販路は内地のほか中国・朝鮮・満州・南洋・インドへ伸び、工場設備の拡張が避けられない状態[20]になった。その準備として松崎半三郎氏は1918年と1921年に米国および欧州各国の業界を視察し、各種の新式機械を輸入して帰った[21]

  • 森永製菓 統合報告書2025
    • [15]1915年 ビスケットを輸出向けに製造開始
    • [16]1918年 国産第1号ミルクチョコレート発売
    • [18]1919年 ミルクココア発売・業界に先駆けて8時間労働制を導入
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編、1968年)「森永製菓」の項
    • [17]1918年9月 芝田町工場にチョコレート製造機械を設置、10月からミルクチョコレート発売
  • 森永製菓 有価証券報告書【沿革】
    • [19]1920年7月 日本煉乳を合併し三島工場を承継
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「森永製菓」の項
    • [20]販路は内地のほか中国・朝鮮・満州・南洋・インドへ拡大、工場設備の拡張が必要に
    • [21]松崎半三郎が1918年・1921年に米国・欧州の業界を視察し新式機械を輸入
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「森永製菓」の項
    • [1]1899年8月 森永太一郎が東京・赤坂溜池の二坪の職場で森永西洋菓子製造所を創業
    • [2]森永太一郎 滞米11年で洋菓子製造法を修得して帰国
    • [3]創業8カ月後に溜池表通りへ、3年後に赤坂田町へ移転
    • [9]1905年1月 松崎半三郎が支配人として入店し経営全般を担当
    • [10]1907年 芝田町に新工場を建設して移転、1908年 大阪支店開設
    • [11]1910年2月 資本金30万円で株式会社森永商店を設立、社長 森永太一郎。同年4月 資本金50万円
    • [20]販路は内地のほか中国・朝鮮・満州・南洋・インドへ拡大、工場設備の拡張が必要に
    • [21]松崎半三郎が1918年・1921年に米国・欧州の業界を視察し新式機械を輸入
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編、1968年)「森永製菓」の項
    • [4]当時の日本の菓子工業は家内工業の域を出ず、見た目の形が整っていればよいとされた
    • [5]菓子の栄養価を高め「子供のための菓子」を安価に量産する方針
    • [6]1899年末 日本で最初のキャラメルを製造
    • [14]1914年3月 ミルクキャラメル・ポケット用を発表、ばら売りが常識の時代に紙サックの新型が人気
    • [17]1918年9月 芝田町工場にチョコレート製造機械を設置、10月からミルクチョコレート発売
  • 森永製菓 統合報告書2025
    • [7]1904年 衛生に配慮し業界に先駆けて従業員の制服を採用
    • [8]1905年 エンゼルマークを商標登録
    • [13]1913年 ミルクキャラメル発売
    • [15]1915年 ビスケットを輸出向けに製造開始
    • [16]1918年 国産第1号ミルクチョコレート発売
    • [18]1919年 ミルクココア発売・業界に先駆けて8時間労働制を導入
  • 森永製菓 有価証券報告書【沿革】
    • [12]1912年11月 森永製菓へ商号変更
    • [19]1920年7月 日本煉乳を合併し三島工場を承継

欧米視察で入れた新式機械と、金解禁後の半額減資

輸入した機械により鶴見・塚口の両工場が完成し、1925年6月には塚口に続いて鶴見工場が開かれて最新設備による菓子の量産に入った[22]。設備購入のため資本金は1923年5月に300万円、1924年5月には払込600万円を含む1500万円へ増えた[23]。1923年3月には自社品の販売会社である森永製品販売を設立し、以降は全国各地に同名の販売会社を置いた[24]。同年5月にはビスケットの大量生産を始め、新築の丸ビルへ森永キャンデーストアを開いて森永商事を設立した[25]。同年9月の関東大震災ではミルクと菓子類を大量に放出して罹災者へ提供し[26]、1928年には販売網として森永ベルトラインストアーを整えた[27]

  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編、1968年)「森永製菓」の項
    • [22]1925年6月 塚口工場に続き鶴見工場を開設、最新設備で菓子の量産を開始
    • [25]1923年5月 ビスケットの大量生産開始、丸ビルに森永キャンデーストア開店、森永商事設立
    • [26]1923年9月 関東大震災でミルク・菓子類を大量放出し罹災者へ提供
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「森永製菓」の項
    • [23]設備購入のため資本金を1923年5月に300万円、1924年5月に1500万円(払込600万円)へ増資
  • 森永製菓 有価証券報告書【沿革】
    • [24]1923年3月 自社品販売会社 森永製品販売を設立(以降全国各地に設立)
  • 森永製菓 統合報告書2025
    • [27]1928年 森永ベルトラインストアー(販売網)を整備

拡張の代償は1930年の金解禁の後に表れ、財界の不況が深刻となるなかで設備の拡張で増えた生産を消化することができず、経営は難局に直面した[28]。1931年9月期から1932年上期までの3期は無配となり、1933年8月には半額減資して資本金を750万円とし、同じ年の3月期からようやく6分の配当を復活した[29]。減資の後に事業は次第に安定へ向かったが、そこへ戦時体制の強化が続いた[30]。1923年にはマリーを[31]、1931年9月には森永チューインガム・タップガムを発売した[32]。1935年4月には森永太一郎氏と名コンビをうたわれた松崎半三郎氏が二代目社長に就いた[33]

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「森永製菓」の項
    • [28]1930年の金解禁以降の財界不況で、設備拡張による生産増加を消化できず経営が難局に直面
    • [29]1931年9月期から1932年上期まで3期無配、1933年8月に半額減資して資本金750万円、同年3月期から6分配当を復活
    • [30]減資後に事業は次第に安定へ向かったが戦時体制が強化された
  • 森永製菓 統合報告書2025
    • [31]1923年 マリー発売
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編、1968年)「森永製菓」の項
    • [32]1931年9月 森永チューインガム・タップガムを発表
    • [33]1935年4月 松崎半三郎が二代目社長に就任
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編、1968年)「森永製菓」の項
    • [22]1925年6月 塚口工場に続き鶴見工場を開設、最新設備で菓子の量産を開始
    • [25]1923年5月 ビスケットの大量生産開始、丸ビルに森永キャンデーストア開店、森永商事設立
    • [26]1923年9月 関東大震災でミルク・菓子類を大量放出し罹災者へ提供
    • [32]1931年9月 森永チューインガム・タップガムを発表
    • [33]1935年4月 松崎半三郎が二代目社長に就任
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「森永製菓」の項
    • [23]設備購入のため資本金を1923年5月に300万円、1924年5月に1500万円(払込600万円)へ増資
    • [28]1930年の金解禁以降の財界不況で、設備拡張による生産増加を消化できず経営が難局に直面
    • [29]1931年9月期から1932年上期まで3期無配、1933年8月に半額減資して資本金750万円、同年3月期から6分配当を復活
    • [30]減資後に事業は次第に安定へ向かったが戦時体制が強化された
  • 森永製菓 有価証券報告書【沿革】
    • [24]1923年3月 自社品販売会社 森永製品販売を設立(以降全国各地に設立)
  • 森永製菓 統合報告書2025
    • [27]1928年 森永ベルトラインストアー(販売網)を整備
    • [31]1923年 マリー発売

1937年〜 戦時統制で失った菓子と、乳業を切り離して菓子専業へ戻した1949年

森永製菓の業績推移:単体

売上高(億円)純利益率(%)
  1. 1942年 森永乳業・森永食品工業・東海製菓・森永関西牛乳を合併
  2. 1943年 「森永食糧工業」に商号変更
  3. 1949年 森永乳業設立
  4. 1949年 東京・大阪・名古屋証券取引所に上場
  5. 1949年 乳業部門の分離による「菓子専業」への絞り込み 戦時統制で抱え込んだ乳業を、なぜ半年のうちに切り離して菓子一本の会社へ戻したのか
  6. 1949年 「森永製菓」に復称
  7. 1965年 ゼネラルミルズとの合弁で森永ゼネラルミルズを設立

砂糖の切符制から森永食糧工業への改称、鶴見工場の焼失まで

1937年には日本に母の日を広めた「森永母の日大会」を開いた[34]が、その後は戦時体制の強化で商いの自由が失われた。1940年5月には砂糖の切符制度が始まり、同年10月には会社経理・銀行資金の運用・賃金のすべてが統制下に入った[35]。1941年6月には麦類の販売が国家管理となり、太平洋戦争へ突入すると原材料・動力・労力といった生産上の条件が軒並み制約された[36]。1942年10月には森永乳業・森永食品工業・東海製菓・森永関西牛乳の4社を合併し、中京工場と小山工場を引き継いだ[37]。1943年11月には社名も森永食糧工業へ改めた[38]

  • 森永製菓 統合報告書2025
    • [34]1937年 日本に母の日を広めた「森永母の日大会」を開催
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「森永製菓」の項
    • [35]1940年5月 砂糖の切符制度開始、同年10月 会社経理・銀行資金運用・賃金が統制下に
    • [36]1941年6月 麦類の販売が国家管理となり、太平洋戦争突入で原材料・動力・労力が制約
    • [38]1943年11月 社名を森永食糧工業へ変更
  • 森永製菓 有価証券報告書【沿革】
    • [37]1942年10月 森永乳業・森永食品工業・東海製菓・森永関西牛乳を合併(中京工場・小山工場を承継)

戦争末期の1945年4月には鶴見工場が空襲で約6割を焼失した[39]。1946年には森永太平氏が三代目社長に就任し、経済統制の続くなかで、まず乳業部門から再出発した[40]。戦後は統制下の経営から自由経済への転換と戦争被害の復旧、生産力の復元に力を注ぎ、戦災を免れた塚口工場へまず応急の増産設備を入れた[41]。資本金は1948年9月に1520万円から5000万円へ、1949年10月の倍額増資で1億円まで引き上げた[42]。砂糖・水飴・小麦粉などの自由販売と一般消費力の回復もあって、業績は年を追って好転した[43]

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「森永製菓」の項
    • [39]1945年4月 鶴見工場が空襲により約6割を焼失
    • [41]戦後は自由経済への転換・戦災復旧・生産力復元に取り組み、戦災を免れた塚口工場に応急増産設備を設置
    • [42]資本金 1948年9月に1520万円から5000万円へ、1949年10月の倍額増資で1億円
    • [43]砂糖・水飴・小麦粉等の自由販売と一般消費力の回復で業績が逐年好転
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編、1968年)「森永製菓」の項
    • [40]1946年 森永太平が三代目社長に就任(企業の歴史は6月、会社銀行八十年史は5月と記載)
  • 森永製菓 統合報告書2025
    • [34]1937年 日本に母の日を広めた「森永母の日大会」を開催
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「森永製菓」の項
    • [35]1940年5月 砂糖の切符制度開始、同年10月 会社経理・銀行資金運用・賃金が統制下に
    • [36]1941年6月 麦類の販売が国家管理となり、太平洋戦争突入で原材料・動力・労力が制約
    • [38]1943年11月 社名を森永食糧工業へ変更
    • [39]1945年4月 鶴見工場が空襲により約6割を焼失
    • [41]戦後は自由経済への転換・戦災復旧・生産力復元に取り組み、戦災を免れた塚口工場に応急増産設備を設置
    • [42]資本金 1948年9月に1520万円から5000万円へ、1949年10月の倍額増資で1億円
    • [43]砂糖・水飴・小麦粉等の自由販売と一般消費力の回復で業績が逐年好転
  • 森永製菓 有価証券報告書【沿革】
    • [37]1942年10月 森永乳業・森永食品工業・東海製菓・森永関西牛乳を合併(中京工場・小山工場を承継)
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編、1968年)「森永製菓」の項
    • [40]1946年 森永太平が三代目社長に就任(企業の歴史は6月、会社銀行八十年史は5月と記載)

半年で畳みかけた分離・上場・復称と、戦後の定番づくり

1949年の半年で、同社は4月に森永乳業を設立し、5月に東京・大阪・名古屋の各証券取引所へ上場、8月には販売部門を森永商事として独立させ、10月に乳業部門を森永乳業へ譲渡したうえで社名を森永製菓へ戻した[44]。1943年に強制された社名を6年ぶりに戻したことになる[45]。独立した森永商事は全国主要都市に支店・出張所を80カ所設け、製品一切の販売にあたった[46]。菓子事業へ経営資源を絞り込んだこの判断は、三代目・森永太平社長のもとで実行された[47]。社名の復旧はキャラメルの自由販売の許可と重なり、同社は量産と量販に努めた[48]

  • 森永製菓 有価証券報告書【沿革】
    • [44]1949年4月 森永乳業設立、5月 東京・大阪・名古屋証券取引所へ上場、10月 乳業部門を森永乳業へ譲渡し森永製菓へ復称
    • [45]1943年11月の強制改称から6年で社名を復旧
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「森永製菓」の項
    • [46]1949年8月 販売部門が森永商事として独立、全国主要都市に支店・出張所80カ所
    • [47]乳業分離は三代目社長 森永太平のもとで実行
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編、1968年)「森永製菓」の項
    • [48]社名復旧とキャラメル自由販売の許可が重なり量産量販に努めた

菓子の自由販売が許された1949年9月期の総売上高24億円は、1955年3月期には71億円余へ伸びた[49]。米・英・独・仏・スイスから最新式機械を輸入し、キャラメル・チョコレート・ビスケット・ドロップの4大製品で業界第一位の実力を確立した[50]。この設備拡張に投じた資金は15億円[51]に達した。1952年7月には鶴見工場へキャラメルの一貫製造設備を新設し[52]、1954年7月には売店部門を分離して森永キャンデーストアを設立した[53]。資本金も1952年3月の無償増資で2億円、1953年10月に5億円、1955年10月の無償増資で7億5000万円まで積み増した[54]

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「森永製菓」の項
    • [49]1949年9月期 総売上高24億円 → 1955年3月期 71億円余
    • [50]米・英・独・仏・スイスから最新式機械を輸入し、キャラメル・チョコレート・ビスケット・ドロップの4大製品で業界第一位
    • [51]設備拡張に投下した資金 15億円
    • [54]資本金 1952年3月無償増資で2億円→1953年10月5億円→1955年10月無償増資で7億5000万円
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編、1968年)「森永製菓」の項
    • [52]1952年7月 鶴見工場にキャラメル一貫製造設備を新設
  • 森永製菓 有価証券報告書【沿革】
    • [53]1954年7月 売店部門を分離し森永キャンデーストアを設立

売場の定番は1950年代から60年代にかけて出そろい、1953年4月には銀座に地球型のネオン塔を掲げた[55]。1956年には冷菓事業、1957年にはホットケーキミックスへ広げた[56]。1960年4月には三島工場が稼働してインスタント食品部門を拡充し、1963年10月の増資で資本金は30億円となり[57]、翌1964年にはハイクラウン・チョコレートを発売した[58]。1961年12月には台湾製菓股份有限公司と資本提携し、1962年から台湾での製造を始めた[59]。1965年3月には大和食品を、同年8月には米国ゼネラルミルズとの合弁で森永ゼネラルミルズを設立した[60]

  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編、1968年)「森永製菓」の項
    • [55]1953年4月 銀座に地球型ネオン塔
    • [57]1960年4月 三島工場が竣工稼働しインスタント食品部門を拡充、1963年10月の増資で資本金30億円
    • [58]1964年 ハイクラウン・チョコレートを発売
  • 森永製菓 統合報告書2025
    • [56]1956年 冷菓事業開始、1957年 ホットケーキミックス発売
  • 森永製菓 有価証券報告書【沿革】
    • [59]1961年12月 台湾製菓股份有限公司と資本提携、1962年 台湾で製造開始
    • [60]1965年3月 大和食品設立、1965年8月 ゼネラルミルズとの合弁で森永ゼネラルミルズを設立
  • 森永製菓 有価証券報告書【沿革】
    • [44]1949年4月 森永乳業設立、5月 東京・大阪・名古屋証券取引所へ上場、10月 乳業部門を森永乳業へ譲渡し森永製菓へ復称
    • [45]1943年11月の強制改称から6年で社名を復旧
    • [53]1954年7月 売店部門を分離し森永キャンデーストアを設立
    • [59]1961年12月 台湾製菓股份有限公司と資本提携、1962年 台湾で製造開始
    • [60]1965年3月 大和食品設立、1965年8月 ゼネラルミルズとの合弁で森永ゼネラルミルズを設立
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「森永製菓」の項
    • [46]1949年8月 販売部門が森永商事として独立、全国主要都市に支店・出張所80カ所
    • [47]乳業分離は三代目社長 森永太平のもとで実行
    • [49]1949年9月期 総売上高24億円 → 1955年3月期 71億円余
    • [50]米・英・独・仏・スイスから最新式機械を輸入し、キャラメル・チョコレート・ビスケット・ドロップの4大製品で業界第一位
    • [51]設備拡張に投下した資金 15億円
    • [54]資本金 1952年3月無償増資で2億円→1953年10月5億円→1955年10月無償増資で7億5000万円
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編、1968年)「森永製菓」の項
    • [48]社名復旧とキャラメル自由販売の許可が重なり量産量販に努めた
    • [52]1952年7月 鶴見工場にキャラメル一貫製造設備を新設
    • [55]1953年4月 銀座に地球型ネオン塔
    • [57]1960年4月 三島工場が竣工稼働しインスタント食品部門を拡充、1963年10月の増資で資本金30億円
    • [58]1964年 ハイクラウン・チョコレートを発売
  • 森永製菓 統合報告書2025
    • [56]1956年 冷菓事業開始、1957年 ホットケーキミックス発売

1966年〜 400種まで膨らんだ品種と、戦後初の赤字・脅迫事件が迫った作り直し

森永製菓の業績推移:単体

売上高(億円)純利益率(%)
  1. 1969年 森永商事(旧)を合併
  2. 1970年 森永開発を設立
  3. 1973年 森和商事を設立
  4. 1980年 森永デザートを設立
  5. 1987年 小山新工場が竣工

鶴見工場が支えた最盛期と、輸出の限界

主力の鶴見工場は同社の工場のなかで最も規模が大きく、1967年当時の従業員は1,400名、製菓研究所など本社機構の一部を含めると総勢1,600名が働いていた[61]。ここで作る製品は小売価格に直して多い月で15億円、少ない月でも10億円だった[62]。1967年3月期の売上は180億円から190億円、利益は4億5,000万円程度と見込まれ[63]、単品で最も売れていたハイクラウンの月商は5億円だった[64]。カカオ豆はトン当たり工場着で20万円から23万円と2年前より3割高くなっていた[65]。世界のカカオ豆の年間生産量は120万トンから130万トンで、そのうち日本の輸入は3万5,000トンほどだった[66]

  • 証券アナリストジャーナル 1967年5巻5号(望月幸吉 森永製菓常務取締役)
    • [61]鶴見工場は同社最大規模、従業員1,400名・本社機構を含め総勢1,600名(1967年)
    • [62]鶴見工場の生産品は小売価格で多い月15億円・少ない月10億円
    • [63]1967年3月期 売上180〜190億円・利益4億5,000万円程度の見込み
    • [64]ハイクラウンの月商 5億円(単品として最も売れている)
    • [65]カカオ豆はトン当たり工場着20〜23万円、2年前比で約3割高
    • [66]世界のカカオ豆年間生産量120〜130万トン、うち日本の輸入は3万5,000トン程度(1967年)

1967年時点の製品輸出は東はハワイ、西はマレー・タイあたりまでが限度だった[67]。北米については、ハイクラウンなら品質で十分に対抗できるものの小売のマージンが大きく勘定に合わない[68]というのが当時の同社の見方で、購買力と生活水準の高い中近東を積極的に開拓したいとしていた[69]。国内では1967年にチョコボール、1971年に小枝、1972年にチョコモナカ、1975年にハイチュウと定番が続き[70]、1977年には米国カーネーション社と業務提携してカーネーションアイスクリームを発売した[71]。会社の側でも1969年10月に森永商事を合併し、1970年12月に森永開発、1973年9月に森和商事、1980年1月に森永デザートを設けた[72]

  • 証券アナリストジャーナル 1967年5巻5号(望月幸吉 森永製菓常務取締役)
    • [67]1967年時点の製品輸出は東はハワイ、西はマレー・タイあたりまでが限度
    • [68]北米はハイクラウンでも小売マージンが大きく採算が合わないとの見方
    • [69]中近東は東南アジアより購買力・生活水準が高く積極的に開拓したいとの方針
  • 森永製菓 統合報告書2025
    • [70]1967年チョコボール・1971年小枝・1972年チョコモナカジャンボ・1975年ハイチュウ発売
  • 日本産業史 第3巻(日本経済新聞社、1994年)「食品-食の多様化・グローバル化」
    • [71]1977年 米国カーネーション社と業務提携しカーネーションアイスクリームを発売
  • 森永製菓 有価証券報告書【沿革】
    • [72]1969年10月 森永商事(旧)を合併、1970年12月 森永開発設立、1973年9月 森和商事設立、1980年1月 森永デザート設立
  • 証券アナリストジャーナル 1967年5巻5号(望月幸吉 森永製菓常務取締役)
    • [61]鶴見工場は同社最大規模、従業員1,400名・本社機構を含め総勢1,600名(1967年)
    • [62]鶴見工場の生産品は小売価格で多い月15億円・少ない月10億円
    • [63]1967年3月期 売上180〜190億円・利益4億5,000万円程度の見込み
    • [64]ハイクラウンの月商 5億円(単品として最も売れている)
    • [65]カカオ豆はトン当たり工場着20〜23万円、2年前比で約3割高
    • [66]世界のカカオ豆年間生産量120〜130万トン、うち日本の輸入は3万5,000トン程度(1967年)
    • [67]1967年時点の製品輸出は東はハワイ、西はマレー・タイあたりまでが限度
    • [68]北米はハイクラウンでも小売マージンが大きく採算が合わないとの見方
    • [69]中近東は東南アジアより購買力・生活水準が高く積極的に開拓したいとの方針
  • 森永製菓 統合報告書2025
    • [70]1967年チョコボール・1971年小枝・1972年チョコモナカジャンボ・1975年ハイチュウ発売
  • 日本産業史 第3巻(日本経済新聞社、1994年)「食品-食の多様化・グローバル化」
    • [71]1977年 米国カーネーション社と業務提携しカーネーションアイスクリームを発売
  • 森永製菓 有価証券報告書【沿革】
    • [72]1969年10月 森永商事(旧)を合併、1970年12月 森永開発設立、1973年9月 森和商事設立、1980年1月 森永デザート設立

押し込み販売の代償と、稲生平八社長による減量

1979年時点で品種は菓子だけで200種、食品などを入れて400種に達しながら、売上規模は35種ほどしか持たない江崎グリコとほとんど同じ[73]で、数を増やした結果は在庫と返品に表れた。決算期が近づくと新製品をいくつか打ち出して押し込み販売で帳尻を合わせる商いが続き、当時の松崎昭雄取締役社長室長はこれを「麻薬みたいなものだった」と語った[74]。製品在庫は1978年11月に業界平均の2倍にあたる2カ月分157億円まで積み上がり、返品率も他社の1%前後に対して2〜3%へ増えた[75]。損益分岐点比率は1977年以来95%を超え、商品を減らして売り上げが減ればすぐ赤字に落ちる体質[76]になっていた。6000店の販売店組織エンゼル会を形骸化させて取引を問屋中心にしたため、品目の多さは問屋に対する弱みにもなった[77]

  • 日経ビジネス 1980年1月28日号
    • [73]品種は菓子だけで200種・食品などを含め400種、江崎グリコは35種程度で売上規模はほぼ同じ
    • [74]決算期前に新製品を打ち出し押し込み販売で帳尻を合わせた商いを松崎昭雄が「麻薬みたいなもの」と証言
    • [75]製品在庫は1978年11月に業界平均の2倍の2カ月分157億円、返品率2〜3%(他社1%前後)
    • [76]損益分岐点比率は1977年以来95%超
    • [77]6000店の販売店組織「エンゼル会」の形骸化と問屋中心の取引、品目の多さによる問屋への弱み

1979年3月期は経常損益が8億8700万円の赤字となり、戦後初の欠損に陥った。同年9月中間決算では経常損失が24億円へ拡大した[78]。創業80周年の年に、33年間社長を続けた森永太平氏は代表権のない会長へ退き、森永乳業の社長を務めていた稲生平八氏が呼び戻されて1979年3月に社長へ就任した[79]。同時に松崎保副社長、松崎一雄取締役ら5人の首脳が責任をとって辞任した[80]。売上高人件費比率は1979年3月期に18.8%と江崎グリコの9.4%のちょうど2倍で、従業員1人当たりの粗付加価値額はグリコの1173万円に対し494万円と半分以下だった[81]

  • 日経ビジネス 1980年1月28日号
    • [78]1979年3月期 経常損益8億8700万円の赤字で戦後初の欠損、同年9月中間で経常損失24億円
    • [79]33年間社長を務めた森永太平が代表権のない会長へ退き、森永乳業社長の稲生平八が1979年3月に社長就任
    • [80]稲生社長就任と同時に松崎保副社長・松崎一雄取締役ら5人の首脳が辞任
    • [81]1979年3月期 売上高人件費比率18.8%(江崎グリコ9.4%)、労働生産性494万円(グリコ1173万円)

再建は減量から入り[82]、1979年12月20日を最終日とする希望退職の募集には、定年後再雇用の中止と自然退職を含めて900人以上が応じた[83]。人員は同年3月期末の4700人余から967人減って約3700人となり、人件費は年間50億円軽減される見込み[84]となった。生産では従来の7工場を5工場に削り、福岡工場を九州森永、小山工場を栃木森永として分離独立させて1品種1工場の専門化を進めた[85]。400種あった品目は200種へ半減させ、12あった地方販売部を8に減らし、在庫は80億円圧縮し、石油ショック期に買い込んだ32億円の土地を売却した[86]稲生平八氏は社長室を新設し、全国70人の支店長と10人の販売部長に毎日日誌を書かせた[87]

  • 日経ビジネス 1980年1月28日号
    • [82]再建の第1弾は大幅な人員削減
    • [83]1979年12月20日を最終日とする希望退職に900人以上が応募
    • [84]人員は1979年3月期末の4700人余から967人減の約3700人、人件費は年間50億円軽減の見込み
    • [85]7工場を5工場へ削減し福岡工場を九州森永・小山工場を栃木森永として分離独立、1品種1工場の専門化
    • [86]400種の品目を200種へ半減、地方12販売部を8へ、在庫80億円圧縮、32億円の土地を売却
    • [87]稲生平八氏は社長室を新設し、全国70人の支店長と10人の販売部長に毎日日誌を書かせた
  • 日経ビジネス 1980年1月28日号
    • [73]品種は菓子だけで200種・食品などを含め400種、江崎グリコは35種程度で売上規模はほぼ同じ
    • [74]決算期前に新製品を打ち出し押し込み販売で帳尻を合わせた商いを松崎昭雄が「麻薬みたいなもの」と証言
    • [75]製品在庫は1978年11月に業界平均の2倍の2カ月分157億円、返品率2〜3%(他社1%前後)
    • [76]損益分岐点比率は1977年以来95%超
    • [77]6000店の販売店組織「エンゼル会」の形骸化と問屋中心の取引、品目の多さによる問屋への弱み
    • [78]1979年3月期 経常損益8億8700万円の赤字で戦後初の欠損、同年9月中間で経常損失24億円
    • [79]33年間社長を務めた森永太平が代表権のない会長へ退き、森永乳業社長の稲生平八が1979年3月に社長就任
    • [80]稲生社長就任と同時に松崎保副社長・松崎一雄取締役ら5人の首脳が辞任
    • [81]1979年3月期 売上高人件費比率18.8%(江崎グリコ9.4%)、労働生産性494万円(グリコ1173万円)
    • [82]再建の第1弾は大幅な人員削減
    • [83]1979年12月20日を最終日とする希望退職に900人以上が応募
    • [84]人員は1979年3月期末の4700人余から967人減の約3700人、人件費は年間50億円軽減の見込み
    • [85]7工場を5工場へ削減し福岡工場を九州森永・小山工場を栃木森永として分離独立、1品種1工場の専門化
    • [86]400種の品目を200種へ半減、地方12販売部を8へ、在庫80億円圧縮、32億円の土地を売却
    • [87]稲生平八氏は社長室を新設し、全国70人の支店長と10人の販売部長に毎日日誌を書かせた

売り場を間違えたスポーツフーズと、グリコ・森永事件の4年

再建のさなかに出した新分野の商品は売り場を間違え、1979年11月に発売したスポーツフーズ第1弾のスポルティーボ・チョコレート(4個入り200円)は、カロリーを強化して高麗人参などを加えたため1グラム当たりの価格が普通のチョコレートの3倍になり[88]、菓子ルートに流れてスーパーの店頭で値引きされた。同社は1980年1月から全国のスポーツ用品店ルートへ売り先を切り替え、後に出した4種類のスポーツフーズもこのルート1本に絞った[89]。健康分野への進出はこの経験を挟んで続き、1982年にはおっとっと、1983年には健康事業を始めた[90]

  • 日経ビジネス 1980年12月15日号
    • [88]1979年11月発売のスポルティーボ・チョコレート(4個入り200円)はスポーツフーズ第1弾、1グラム当たり価格は普通のチョコレートの3倍
    • [89]菓子ルートに流れスーパー店頭で値引きされ、1980年1月から全国のスポーツ用品店ルートへ切り替え
  • 森永製菓 統合報告書2025
    • [90]1982年 おっとっと発売、1983年 健康事業開始

1984年9月12日、大阪の支店に脅迫状が置かれているのが見つかった[91]。9年後に高木貞男氏は「まさか当社にだけは」という油断があったのは間違いないと振り返っている[92]。半年前に江崎グリコに対する脅迫事件が起きたばかりで犯人は捕まっておらず、第2、第3の事件が発生する可能性はあったにもかかわらず、万が一を考えた手は打っていなかった[93]。当時副社長だった高木貞男氏は社長と約30分話し合い、「このような社会的な犯罪に対しては、犯人逮捕以外に解決はない」と判断して警察に届けた[94]。社外には「企業はつぶれたら何もならない。お金を払ってでも生き残る道を探すべきだ」との声もあった[95]

  • 日経ビジネス 1993年11月29日号
    • [91]1984年9月12日 大阪の支店で脅迫状が発見される
    • [92]高木貞男は「まさか当社にだけは」という油断があったと回顧
    • [93]半年前に江崎グリコへの脅迫事件が起きており犯人は未検挙、第2・第3の事件の可能性はあったが手は打っていなかった
    • [94]当時副社長の高木貞男が社長と約30分話し合い、犯人逮捕以外に解決はないと判断して警察へ届けた
    • [95]社外には金銭を払ってでも生き残る道を探すべきだとの声もあった

社長ほか5人で対策本部を作り、自分たちの方針が正しいかどうかを毎日議論した[96]。店頭に不審な人物がいないか、社員だけでなくその家族も監視態勢を敷くことに協力した[97]。12月後半になると拠点ごとに全従業員を集め、社長と専務らが手分けして状況を説明した[98]。毒入りの菓子がばらまかれた影響で売上高は目に見えて減り、1日当たり3000万円の損失が出た。売上高が事件前の水準に戻るまでには4年もかかり[99]、犯人は1993年の時点でも捕まっていなかった[100]。事件の間、同社は消費者からも温かい支援を受けた[101]。1987年4月には小山新工場が竣工[102]した。

  • 日経ビジネス 1993年11月29日号
    • [96]社長ほか5人による対策本部の設置と、方針の正しさをめぐる連日の議論
    • [97]店頭の監視態勢への社員とその家族の協力
    • [98]1984年12月後半 拠点ごとに全従業員を集め社長・専務らが手分けして状況を説明
    • [99]毒入り菓子がばらまかれた影響で1日当たり3000万円の損失、売上高が事件前の水準に戻るまで4年
    • [100]犯人は1993年時点で未検挙
    • [101]事件の間に消費者から受けた支援
  • 森永製菓 有価証券報告書【沿革】
    • [102]1987年4月 小山新工場が竣工
  • 日経ビジネス 1980年12月15日号
    • [88]1979年11月発売のスポルティーボ・チョコレート(4個入り200円)はスポーツフーズ第1弾、1グラム当たり価格は普通のチョコレートの3倍
    • [89]菓子ルートに流れスーパー店頭で値引きされ、1980年1月から全国のスポーツ用品店ルートへ切り替え
  • 森永製菓 統合報告書2025
    • [90]1982年 おっとっと発売、1983年 健康事業開始
  • 日経ビジネス 1993年11月29日号
    • [91]1984年9月12日 大阪の支店で脅迫状が発見される
    • [92]高木貞男は「まさか当社にだけは」という油断があったと回顧
    • [93]半年前に江崎グリコへの脅迫事件が起きており犯人は未検挙、第2・第3の事件の可能性はあったが手は打っていなかった
    • [94]当時副社長の高木貞男が社長と約30分話し合い、犯人逮捕以外に解決はないと判断して警察へ届けた
    • [95]社外には金銭を払ってでも生き残る道を探すべきだとの声もあった
    • [96]社長ほか5人による対策本部の設置と、方針の正しさをめぐる連日の議論
    • [97]店頭の監視態勢への社員とその家族の協力
    • [98]1984年12月後半 拠点ごとに全従業員を集め社長・専務らが手分けして状況を説明
    • [99]毒入り菓子がばらまかれた影響で1日当たり3000万円の損失、売上高が事件前の水準に戻るまで4年
    • [100]犯人は1993年時点で未検挙
    • [101]事件の間に消費者から受けた支援
  • 森永製菓 有価証券報告書【沿革】
    • [102]1987年4月 小山新工場が竣工

1988年〜 ぬ〜ぼ〜とinゼリーで作り直した稼ぎ方と、持ち合い解消・海外への振り向け

森永製菓の業績推移

売上高(億円)純利益率(%)
  1. 1997年 菓子事業の社内分社と「エンゼルの森」構想の見直し 11年ぶりの無配に転落した名門菓子メーカーは、本業をどう五つの「企業内企業」へ割り、理想都市の構想を畳んだのか
  2. 1999年 森永開発を合併
  3. 2001年 レストラン森永より営業権を譲り受け、エンゼルフードシステムズを設立
  4. 2003年 摩利哪呷(上海)食品有限公司を設立
  5. 2004年 エンゼルフードシステムズの株式を譲渡
  6. 2008年 米国森永製菓を設立
  7. 2022年 森永乳業株の政策保有縮減と、プライム移行に合わせたガバナンス改革 73年前に自ら分けた会社の株を、なぜこの時期に手放したのか——資本の縁の整理

キャラクターが稼いだ110億円と、エンゼルの森が招いた無配

1988年3月に発売したエアインチョコのパッケージ用に、デザイン室の佐藤勝則氏と奈良部貴子氏が描いたキャラクターが「ぬ〜ぼ〜」だった[103]。エアインチョコはチョコレートの中に微細な空気の泡を吹き込んだ商品で、大人向けには1986年11月からスプーナの名で売っていた[104]。ぬ〜ぼ〜のパッケージはアイス、クッキー、グミ、ケーキへ広がり、1991年3月期のシリーズ総売上は約110億円と、菓子売上886億円の約12%を占めた[105]。初めて登場した1988年度が約30億円、1989年度が約70億円で、キャラクターの版権収入は5000万円程度だった[106]

  • 日経ビジネス 1991年10月14日号
    • [103]1988年3月発売のエアインチョコのパッケージ用にデザイン室の佐藤勝則・奈良部貴子が「ぬ〜ぼ〜」を描いた
    • [104]エアインチョコはチョコレートに微細な空気の泡を吹き込んだ商品、大人向けは1986年11月からスプーナの名で販売
    • [105]1991年3月期のぬ〜ぼ〜シリーズ総売上 約110億円(菓子売上886億円の約12%)
    • [106]ぬ〜ぼ〜商品の売上は1988年度約30億円・1989年度約70億円、版権収入は5000万円程度

本業の外では、三重県上野市の丘陵地1000ヘクタールに職・住・遊・学のそろう理想都市を築く「エンゼルの森」の構想を1990年前後に立てた。総事業費は3500億円にのぼったが、バブル崩壊で資金計画が崩れ、6年余り着工できなかった[107]。同じ時期の菓子は新製品のヒットを欠いて4位グループへ後退し、冷菓の慢性赤字も重なって、1997年3月期には11年ぶりの無配へ沈んだ[108]。経営責任をとって松崎昭雄社長が会長へ退き、創業者・森永太一郎氏の孫にあたる森永剛太専務が社長に就いた[109]。売場では1989年にアイスボックス、1993年にダースを出した[110]

  • 日経ビジネス 1997年5月12日号
    • [107]三重県上野市の丘陵地1000ヘクタールに理想都市「エンゼルの森」を築く構想、総事業費3500億円、6年余り着工できず
    • [108]菓子は新製品のヒットを欠き4位グループへ後退、冷菓の慢性赤字も重なり1997年3月期に11年ぶりの無配
    • [109]1997年 松崎昭雄社長が会長へ退き、創業者・森永太一郎の孫にあたる森永剛太専務が社長に就任
  • 森永製菓 統合報告書2025
    • [110]1989年 アイスボックス発売、1993年 ダース発売

1996年12月には菓子事業本部の傘下にチョコレート、キャラメルキャンディー、ビスケットスナック、ファンシー、市場開発の5つのビジネスユニットを置き、商品分野ごとに独立採算で収益を管理する体制へ組み替えて、38歳の課長代理を抜擢するなど年功序列を崩した[111]。1999年にはエンゼルの森の開発事業から撤退し、同年4月には森永開発を吸収合併した[112]。この時期には日清食品との係争もあり、1992年2月に発売した「おっとっと チキンラーメン味」の製造を1993年7月末で取りやめる条件で、1993年3月1日に和解が成立した[113]

  • 日経ビジネス 1997年5月12日号
    • [111]1996年12月 菓子事業本部にチョコレート・キャラメルキャンディー・ビスケットスナック・ファンシー・市場開発の5ビジネスユニットを設置、38歳の課長代理を抜擢
  • 森永製菓 有価証券報告書【沿革】
    • [112]1999年 エンゼルの森の開発事業から撤退、1999年4月 森永開発を吸収合併
  • 日経ビジネス 1993年5月17日号
    • [113]1993年3月1日 日清食品との和解が成立、1992年2月発売の「おっとっと チキンラーメン味」を1993年7月末で製造中止
  • 日経ビジネス 1991年10月14日号
    • [103]1988年3月発売のエアインチョコのパッケージ用にデザイン室の佐藤勝則・奈良部貴子が「ぬ〜ぼ〜」を描いた
    • [104]エアインチョコはチョコレートに微細な空気の泡を吹き込んだ商品、大人向けは1986年11月からスプーナの名で販売
    • [105]1991年3月期のぬ〜ぼ〜シリーズ総売上 約110億円(菓子売上886億円の約12%)
    • [106]ぬ〜ぼ〜商品の売上は1988年度約30億円・1989年度約70億円、版権収入は5000万円程度
  • 日経ビジネス 1997年5月12日号
    • [107]三重県上野市の丘陵地1000ヘクタールに理想都市「エンゼルの森」を築く構想、総事業費3500億円、6年余り着工できず
    • [108]菓子は新製品のヒットを欠き4位グループへ後退、冷菓の慢性赤字も重なり1997年3月期に11年ぶりの無配
    • [109]1997年 松崎昭雄社長が会長へ退き、創業者・森永太一郎の孫にあたる森永剛太専務が社長に就任
    • [111]1996年12月 菓子事業本部にチョコレート・キャラメルキャンディー・ビスケットスナック・ファンシー・市場開発の5ビジネスユニットを設置、38歳の課長代理を抜擢
  • 森永製菓 統合報告書2025
    • [110]1989年 アイスボックス発売、1993年 ダース発売
  • 森永製菓 有価証券報告書【沿革】
    • [112]1999年 エンゼルの森の開発事業から撤退、1999年4月 森永開発を吸収合併
  • 日経ビジネス 1993年5月17日号
    • [113]1993年3月1日 日清食品との和解が成立、1992年2月発売の「おっとっと チキンラーメン味」を1993年7月末で製造中止

inゼリーという二本目の柱と、値上げでつまずいた2000年代

1994年に発売したinゼリーは、1983年に始めた健康事業の延長にあった[114]。同社はこの領域を広げ、2004年に通販事業を始め、2006年においしいコラーゲンドリンク、2009年にinバーを出した[115]。菓子の側では2003年にカレ・ド・ショコラを発売し、2001年には台湾でHI-CHEWの製造を始めた[116]。品質の管理では1995年に、食品危害を未然に防ぐ国際標準の手法をもとに包装状態や製品の形・味まで管理する森永HACCPを導入し、2000年には国内4工場でISO14001の認証を取得した[117]

  • 森永製菓 統合報告書2025
    • [114]1994年 inゼリー発売、1983年 健康事業開始
    • [115]2004年 通販事業開始、2006年 おいしいコラーゲンドリンク発売、2009年 inバー発売
    • [116]2003年 カレ・ド・ショコラ発売、2001年 HI-CHEWの台湾製造開始
    • [117]1995年 森永HACCP(総合衛生管理手法)導入、2000年 国内4工場でISO14001認証取得

外食への再参入は3年で終わり、2001年7月にレストラン森永から営業権を譲り受けて設立したエンゼルフードシステムズは、2004年12月に株式を譲渡した[118]。2007年の穀物価格高騰では、他社に先んじて主力のビスケット商品群を1割ほど値上げしたところ、競合が値上げに踏み切らずに取り扱いを打ち切る店舗が続出し[119]、同製品群の売上高は2007年度比で3割落ち込んだ[120]。連結売上高は2012年3月期に1,471億円、営業利益は28億円まで下がり[121]、2006年3月期には28億円の純損失も計上していた[122]

  • 森永製菓 有価証券報告書【沿革】
    • [118]2001年7月 レストラン森永から営業権を譲り受けエンゼルフードシステムズを設立、2004年12月に株式を譲渡
  • 週刊東洋経済 2011年1月26日号
    • [119]2007年の穀物価格高騰時にいち早く主力ビスケット商品群を1割ほど値上げしたが競合が追随せず取り扱い中止の店舗が続出
  • 週刊東洋経済 2011年6月7日号
    • [120]2008年に主力ビスケット商品群を約1割値上げしたが競合が追随せず、同製品群の売上高は2007年度比で3割減
  • 森永製菓 有価証券報告書(2025年3月期)
    • [121]2012年3月期 連結売上高1,471億円・営業利益28億円
    • [122]2006年3月期 親会社株主に帰属する当期純損失 28億円

立て直しは海外と健康の二方向で進み、2008年8月に米国森永製菓、2010年12月に森永食品(浙江)、2012年に上海森永食品、2013年にMorinaga America Foodsを設け[123]、2011年にはフラッグシップ工場の高崎森永を、2019年5月にはシンガポールを拠点とするMorinaga Asia Pacificを設立した[124]。2015年には米国でのHI-CHEW製造を始めた[125]。連結営業利益は2016年3月期の114億円から2020年3月期には212億円へ増え、売上高営業利益率は10.2%となった[126]

  • 森永製菓 有価証券報告書【沿革】
    • [123]2008年8月 米国森永製菓設立、2010年12月 森永食品(浙江)設立、2012年 上海森永食品、2013年 Morinaga America Foods設立
  • 森永製菓 統合報告書2025
    • [124]2011年 フラッグシップ工場 高崎森永設立、2019年5月 Morinaga Asia Pacific設立
    • [125]2015年 HI-CHEWの米国製造を開始
    • [126]連結営業利益 2016年3月期114億円 → 2020年3月期212億円、売上高営業利益率10.2%
  • 森永製菓 統合報告書2025
    • [114]1994年 inゼリー発売、1983年 健康事業開始
    • [115]2004年 通販事業開始、2006年 おいしいコラーゲンドリンク発売、2009年 inバー発売
    • [116]2003年 カレ・ド・ショコラ発売、2001年 HI-CHEWの台湾製造開始
    • [117]1995年 森永HACCP(総合衛生管理手法)導入、2000年 国内4工場でISO14001認証取得
    • [124]2011年 フラッグシップ工場 高崎森永設立、2019年5月 Morinaga Asia Pacific設立
    • [125]2015年 HI-CHEWの米国製造を開始
    • [126]連結営業利益 2016年3月期114億円 → 2020年3月期212億円、売上高営業利益率10.2%
  • 森永製菓 有価証券報告書【沿革】
    • [118]2001年7月 レストラン森永から営業権を譲り受けエンゼルフードシステムズを設立、2004年12月に株式を譲渡
    • [123]2008年8月 米国森永製菓設立、2010年12月 森永食品(浙江)設立、2012年 上海森永食品、2013年 Morinaga America Foods設立
  • 週刊東洋経済 2011年1月26日号
    • [119]2007年の穀物価格高騰時にいち早く主力ビスケット商品群を1割ほど値上げしたが競合が追随せず取り扱い中止の店舗が続出
  • 週刊東洋経済 2011年6月7日号
    • [120]2008年に主力ビスケット商品群を約1割値上げしたが競合が追随せず、同製品群の売上高は2007年度比で3割減
  • 森永製菓 有価証券報告書(2025年3月期)
    • [121]2012年3月期 連結売上高1,471億円・営業利益28億円
    • [122]2006年3月期 親会社株主に帰属する当期純損失 28億円

森永乳業株の売却とプライム移行、HI-CHEWの海外展開

2022年2月28日、同社は保有する森永乳業の普通株式430万株の売却を発表した[127]。翌3月1日、森永乳業が立会外買付取引で1株5,760円・総額約247億円の自己株式として買い取り、森永製菓の保有比率は約12.7%から約4.0%へ下がった[128]。2022年3月期には特別利益220億円を計上して純利益は278億円、自己資本当期純利益率は22.0%となった[129]。73年前に自ら乳業部門として切り出した相手との資本の縁は、2022年4月の東証プライム市場移行[130]を前にほぼ解けた。2024年3月期時点の取締役17名のうち、社外取締役は7名、女性取締役は4名だった[131]

  • 日本経済新聞(2022年2月28日)
    • [127]2022年2月28日 森永乳業普通株式430万株の売却を発表
  • 森永乳業 自己株式立会外買付取引(ToSTNeT-3)による自己株式取得結果および終了並びに主要株主である筆頭株主の異動に関するお知らせ(適時開示・2022年3月1日)
    • [128]2022年3月1日 森永乳業がToSTNeT-3で1株5,760円・総額約247億円の自己株式として取得、森永製菓の保有比率は約12.7%から約4.0%へ
  • 森永製菓 統合報告書2025
    • [129]2022年3月期 特別利益220億円・純利益278億円・ROE 22.0%
  • 森永製菓 有価証券報告書【沿革】
    • [130]2022年4月 東証プライム市場へ移行
  • 森永製菓 有価証券報告書 第177期(2024年3月期)【役員の状況】
    • [131]2024年3月期時点の取締役17名・社外取締役7名・女性取締役4名

2025年3月期の連結売上高は2,289億円、営業利益は212億円、純利益は177億円だった[132]。海外売上高は前年比112.6%の303億円、海外売上高比率は13.3%で、営業利益は前年より2億円少ない35億円となった[133]。米国では当初、日系やアジア系の小売店でHI-CHEWを売っていたが、米系大手組織小売業のキャンディコーナーを攻めるべき売り場と見極めて販売政策を変え、HI-CHEWの海外売上高は日本を超える規模になった[134]。同社は2030年に海外売上高750億円・海外売上高比率25%以上を目標に掲げている[135]

  • 森永製菓 統合報告書2025
    • [132]2025年3月期 連結売上高2,290億円・営業利益213億円・純利益177億円
    • [133]2024年度 海外売上高303億円(前年比112.6%)・海外売上高比率13.3%・海外事業の営業利益35億円(前年比2億円減)
    • [134]米国では日系・アジア系小売店から米系大手組織小売業のキャンディコーナーへ販売政策を転換、HI-CHEWの海外売上高は日本を超える規模に
    • [135]2030年目標 海外売上高750億円・海外売上高比率25%以上

2024年には新社屋の森永芝浦ビルへ本社機能を移した[136]。2025年6月30日時点のグループは18社・従業員3,231人で、国内は本社と研究所1・工場4に1,597人、北米は2社に244人、日本を除くアジアは4社に451人を置く[137]。国内では2018年度から2024年度にかけて女性管理職比率を6.7%から13.5%へ上げ[138]、カカオ豆の持続可能な調達比率は2021年度の9%から2024年度に78%まで引き上げた[139]。研究と品質の側では2009年に森永製菓R&Dセンターが稼働し、2018年には国内工場および生産関係会社でFSSC22000の認証を取得した[140]

  • 森永製菓 統合報告書2025
    • [136]2024年 新社屋「森永芝浦ビル」へ本社機能を移転
    • [137]2025年6月30日時点でグループ18社・従業員3,231人、国内1,597人・北米2社244人・アジア4社451人
    • [138]女性管理職比率(単体)2018年度6.7%→2024年度13.5%
    • [139]カカオ豆の持続可能な調達比率 2021年度9%→2024年度78%
    • [140]2009年 森永製菓R&Dセンター稼働開始、2018年 国内工場および生産関係会社でFSSC22000認証取得
  • 日本経済新聞(2022年2月28日)
    • [127]2022年2月28日 森永乳業普通株式430万株の売却を発表
  • 森永乳業 自己株式立会外買付取引(ToSTNeT-3)による自己株式取得結果および終了並びに主要株主である筆頭株主の異動に関するお知らせ(適時開示・2022年3月1日)
    • [128]2022年3月1日 森永乳業がToSTNeT-3で1株5,760円・総額約247億円の自己株式として取得、森永製菓の保有比率は約12.7%から約4.0%へ
  • 森永製菓 統合報告書2025
    • [129]2022年3月期 特別利益220億円・純利益278億円・ROE 22.0%
    • [132]2025年3月期 連結売上高2,290億円・営業利益213億円・純利益177億円
    • [133]2024年度 海外売上高303億円(前年比112.6%)・海外売上高比率13.3%・海外事業の営業利益35億円(前年比2億円減)
    • [134]米国では日系・アジア系小売店から米系大手組織小売業のキャンディコーナーへ販売政策を転換、HI-CHEWの海外売上高は日本を超える規模に
    • [135]2030年目標 海外売上高750億円・海外売上高比率25%以上
    • [136]2024年 新社屋「森永芝浦ビル」へ本社機能を移転
    • [137]2025年6月30日時点でグループ18社・従業員3,231人、国内1,597人・北米2社244人・アジア4社451人
    • [138]女性管理職比率(単体)2018年度6.7%→2024年度13.5%
    • [139]カカオ豆の持続可能な調達比率 2021年度9%→2024年度78%
    • [140]2009年 森永製菓R&Dセンター稼働開始、2018年 国内工場および生産関係会社でFSSC22000認証取得
  • 森永製菓 有価証券報告書【沿革】
    • [130]2022年4月 東証プライム市場へ移行
  • 森永製菓 有価証券報告書 第177期(2024年3月期)【役員の状況】
    • [131]2024年3月期時点の取締役17名・社外取締役7名・女性取締役4名

森永製菓の沿革1910〜2022年における主な出来事を抜粋

年月社長・CEO出来事重要度
「森永商店」設立
「森永製菓」に商号変更
日本煉乳を合併(これにより三島工場を承継)
自社品販売会社森永製品販売設立(以降全国各地に設立)★★
森永乳業・森永食品工業・東海製菓・森永関西牛乳を合併
「森永食糧工業」に商号変更
森永太平森永乳業設立★★
森永太平東京・大阪・名古屋証券取引所に上場
森永太平乳業部門の分離による「菓子専業」への絞り込み戦時統制で抱え込んだ乳業を、なぜ半年のうちに切り離して菓子一本の会社へ戻したのか 詳細を読む★★★
森永太平「森永製菓」に復称
森永太平売店部門を分離し森永キャンデーストアを設立
森永太平台湾製菓股份有限公司と資本提携
森永太平大和食品を設立
森永太平ゼネラルミルズとの合弁で森永ゼネラルミルズを設立★★
森永太平森永商事(旧)を合併
森永太平森永開発を設立
森永太平森和商事を設立
稲生平八森永デザートを設立
松崎昭雄小山新工場が竣工
森永剛太菓子事業の社内分社と「エンゼルの森」構想の見直し11年ぶりの無配に転落した名門菓子メーカーは、本業をどう五つの「企業内企業」へ割り、理想都市の構想を畳んだのか 詳細を読む★★★
森永剛太森永開発を合併
森永剛太レストラン森永より営業権を譲り受け、エンゼルフードシステムズを設立
森永剛太摩利哪呷(上海)食品有限公司を設立
森永剛太エンゼルフードシステムズの株式を譲渡
矢田雅之ディユーアソシエイツを子会社化
矢田雅之米国森永製菓を設立★★
矢田雅之森永食品(浙江)有限公司を設立
新井徹塚口工場閉鎖
新井徹森永キノインドネシアを設立
太田栄二郎森永キノインドネシアの株式を譲渡
太田栄二郎森永アジアパシフィックを設立
太田栄二郎森永スナック食品を合併
太田栄二郎森永乳業株の政策保有縮減と、プライム移行に合わせたガバナンス改革73年前に自ら分けた会社の株を、なぜこの時期に手放したのか——資本の縁の整理 詳細を読む★★★
太田栄二郎プライム市場に移行
出典・参考
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「森永製菓」の項
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編、1968年)「森永製菓」の項
  • 森永製菓 統合報告書2025
  • 森永製菓 有価証券報告書【沿革】
  • 証券アナリストジャーナル 1967年5巻5号(望月幸吉 森永製菓常務取締役)
  • 日本産業史 第3巻(日本経済新聞社、1994年)「食品-食の多様化・グローバル化」
  • 日経ビジネス 1980年1月28日号
  • 日経ビジネス 1980年12月15日号
  • 日経ビジネス 1993年11月29日号
  • 日経ビジネス 1991年10月14日号
  • 日経ビジネス 1997年5月12日号
  • 日経ビジネス 1993年5月17日号
  • 週刊東洋経済 2011年1月26日号
  • 週刊東洋経済 2011年6月7日号
  • 森永製菓 有価証券報告書(2025年3月期)
  • 日本経済新聞(2022年2月28日)
  • 森永乳業 自己株式立会外買付取引(ToSTNeT-3)による自己株式取得結果および終了並びに主要株主である筆頭株主の異動に関するお知らせ(適時開示・2022年3月1日)
  • 森永製菓 有価証券報告書 第177期(2024年3月期)【役員の状況】

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