創業1948片岡勝太郎(創業者)
上場1961-
創業地東京都大田区
2025/3 売上高9,904億円YoY+2.7%
2025/3 営業利益341億円YoY+73%
FY24 単体平均給与641万円前年度比+13万円

昭和二十三年に片岡勝太郎が東京都大田区でラジオ用可変蓄電器の製造会社である片岡電気を立ち上げたのが、アルプスアルパインの出発点である。「安売りをした部品メーカーで生命をまっとうした会社は一社もない」との信念のもと、朝鮮動乱後の倒産ラッシュを高品質路線で乗り切り、テレビ用チューナーやタクトスイッチなど製品群を着実に拡大していった。ユーザーのニーズを先読みして次の製品ラインを迅速に開発する機動力を武器に、いわゆる「部品の総合デパート」と称される独自の地位を戦後日本の電子部品業界の中に築き上げたのであった。九十年代に入ってからも、この機動力は同社の代名詞であり続けたのである。この揺籃期の品質第一の姿勢こそが、後年の事業拡大の強固な基盤となっていった。

昭和四十二年に米モトローラとの合弁でカーオーディオ事業に参入し、後に完全子会社化してアルパインブランドを確立した。部品メーカーが完成品メーカーの領域に踏み出す異例の決断で、北米専門店向けの高価格帯事業を育てていったのである。しかしバブル崩壊後は五期連続の減収と大規模リストラを経験し、リーマンショック後には二百六十五億円規模の営業赤字を計上した。平成三十年代後半にはアルパインとの経営統合を断行してアルプスアルパインに改称し、車載・スマホ向け電子部品メーカーとして再出発を遂げたが、統合の収益効果は依然として道半ばにある。統合から数年を経てもなお、完成品事業と部品事業の相互補完の形を模索し続けている局面にある。

アルプスアルパイン:売上高の内訳と営業利益率(PL 分解 × 営業利益率)
売上高(億円)営業利益(億円)販管費(億円)売上原価(億円)営業利益率(%)
歴代社長
FY01
FY02
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FY08
FY09
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FY19
FY20
FY21
FY22
FY23
FY24
FY25
FY26
FY27
FY28
片岡政隆
取締役社長
片岡政隆
取..
代表取締役社長
栗山年弘
代表取締役社長
代..
代表取締役社長..
泉英男
代..
代..
代..
歴代社長
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片岡政隆
取締役社長
片岡政隆
取締役社長
片岡政隆
代表取締役社長
栗山年弘
代表取締役社長
栗山年弘
代表取締役社長執行役員
栗山年弘
代表取締役社長執行役員CEO
泉英男
代表取締役社長CEO兼技術担当
泉英男
代表取締役社長最高経営責任者
泉英男
代表取締役社長CEO
アルプスアルパイン:投資CF(M&A・設備投資ほか/事業施策と紐付き)
投資CF(億円)
アルプス物流の株式を完全売却──KKRがTOBで取得2024
アルパインとの経営統合とオアシスとの委任状争奪戦2017
創業家外初の社長就任と車載・スマホへの事業構造転換2012
米CIRQUE社を買収──タッチパッド技術の獲得2003

歴史概略

1948年〜1964片岡電気創業から総合電子部品メーカーとして立ち上がった揺籃期

品質重視の創業姿勢と朝鮮動乱特需の洗礼を受けた初期の急成長

片岡勝太郎は東芝を退社したのち、菊名製作所を経て神田でジャンク屋を営むなかで、市場に出回る可変蓄電器の良品があまりに少ないことに気づいた。昭和二十三年十一月、資本金五十万円・従業員二十三名で片岡電気を設立し、「アルプス」ブランドを冠した高品質の可変蓄電器を秋葉原で販売する道を歩み始めた。社長には実兄の片岡信直を据え、勝太郎自身は専務として経営の実権を握るという変則的な体制を十六年間にわたって続けている。創業者の品質への強いこだわりと、兄弟による役割分担がこの時期の経営の基本構造であったのだ。戦後の混乱期に独立した一介の技術者が、後の大企業の基礎をこの時点で静かに築き始めていたのである。

昭和二十五年の朝鮮動乱によってラジオ部品の特需景気が日本に到来したが、片岡は量的拡大よりも品質向上を一貫して重視する姿勢を崩さなかった。「安売りをした部品メーカーで生命をまっとうした会社は一社もない」という信念のもと、昭和二十八年の動乱終結後に訪れた倒産ラッシュを品質の高さだけを頼りに乗り切っていったのである。同時期にテレビ用チューナーの開発にも成功し、昭和二十九年には超短波チューナーの製造を開始する。創業からわずか十五年で資本金五億円、従業員二千七百人を擁する一流の部品メーカーへと駆け上がるに至った。戦後の電子部品業界の中でも屈指の成長劇だったと言ってよい。量より質を貫いた経営判断が、同社の長期的な存続を支える根幹となった。

参考文献
  • アルプス電気『アルプス50年のあゆみ』
  • アルプスアルパイン公式沿革
  • 「国際分業の花形―片岡電気」1963年1月
  • 日経ビジネス 1983年7月11日号

アルプス電気への改称と海外市場への本格開拓を支えた片岡外交

昭和三十六年に電子部品業界で初めて東京店頭市場に株式を公開し、同年十月には東京証券取引所二部にも上場を果たした。国際取引の拡大に伴い、昭和三十九年には片岡電気からアルプス電気へと社名を改め、創業者の片岡勝太郎が正式に社長として表舞台に立つこととなった。同年には宮城県に古川工場を新たに開設し、以後は東北各地に生産拠点を段階的に展開していく方針を打ち出している。海外市場ではモトローラ向けにチューナーを十七万台単位で納入するなど、部品の輸出事業を急速に拡大させていった。国内外の需要を両面で取り込む体制が、この時期に整えられたのである。創業者が表に出て自ら指揮を執る体制へ移行し、経営判断の速度と一貫性が大幅に高まった。

片岡勝太郎の経営の核心は、大手セットメーカーを自ら精力的に回り歩く、いわゆる「片岡外交」にあった。営業担当の日報・週報を通じて顧客情報を開発・生産部門に翌日中には伝達するという独自のシステムを構築し、パイオニアの松本誠也社長をして「どんな無理でもきいてくれる頼りになる存在」と言わしめた。九割以上が受注生産というビジネスモデルにあって、ユーザーのニーズを先読みして次の製品ラインを素早く開発する機動力こそが、同社の競争優位の源泉を形作っていた。部品メーカーとしては異例の営業密着度が、この時期の強さの根幹だったのである。このきめ細かな顧客対応こそが、長年にわたり業界内で高い評価を維持してきた源泉である。

参考文献
  • アルプス電気『アルプス50年のあゆみ』
  • アルプスアルパイン公式沿革
  • 「国際分業の花形―片岡電気」1963年1月
  • 日経ビジネス 1983年7月11日号

テレビ用部品とオーディオ部品の横展開が築いた「部品の総合デパート」

超短波チューナーに続き、同社はテレビ受像機用の各種部品やオーディオ機器向けのスイッチ類へと製品群を次々に広げていった。バリコンから始まった製品ラインナップはタクトスイッチ、ボリューム、ロータリーエンコーダなど、民生用電子機器に組み込まれる部品の大半を網羅する規模にまで拡張されていく。「部品の総合デパート」という呼び名は、こうした徹底的な多品種戦略と、顧客の要望に応じて迅速に新製品を投入する機動力から生まれたものだった。戦後日本の高度経済成長を支えた電子部品業界の中で、同社は特異な立ち位置を築いていたのである。顧客の要望に応じて素早く新製品を投入する姿勢は、業界内で独特の存在感を放っていた。

品質を重視する創業以来の方針と、営業主導で顧客に密着する片岡外交という二面は、この時期の同社にとって極めて強力な競争優位として働いていた。家電メーカー各社がカラーテレビの量産体制を整えるなかで、同社はその陰に回って部品供給の安定化を支える存在となり、業界内での地歩を確かなものとしていった。後年のアルパイン事業への進出も、こうした顧客密着の方針の延長線上に位置づけられるものであった。独自の素材や生産技術を持たない代わりに、顧客ごとのカスタマイズと納期対応の機動力で勝負するという、戦後日本的な中堅メーカーの一つの完成形がここにあったのである。成長の裏で育ちつつあった構造的な弱みが、次の時代に姿を現すことになる。

参考文献
  • アルプス電気『アルプス50年のあゆみ』
  • アルプスアルパイン公式沿革
  • 「国際分業の花形―片岡電気」1963年1月
  • 日経ビジネス 1983年7月11日号

1965年〜2010アルパイン誕生と総合電子部品メーカーの拡大と代償

モトローラとの合弁を起点としたアルパインブランドの確立

昭和四十二年五月、同社は米モトローラとの合弁でアルプス・モトローラを設立し、部品メーカーが完成品メーカーの領域に踏み出すという異例の決断を下した。部品屋がセットに出れば片岡社長のトップ外交がやりにくくなるとの同業他社の指摘が示すように、この判断には納入先との関係を毀損する相応のリスクが伴っていた。昭和五十三年にはモトローラの持分を買収して完全子会社化し、アルパインへと社名を改めている。北米市場では高価格帯の専門店向け販売に特化し、大衆量販店とは距離を置く独自の販売戦略を堅持する姿勢をとっていったのであった。思い切った決断が、後年のアルパインブランドの国際的な地位を形作っていくことになる。

昭和五十六年にはホンダと世界初のカーナビゲーションシステムを共同開発し、昭和六十三年にはアルパイン自身も東京証券取引所二部に株式上場を果たしている。一方のアルプス電気本体も、昭和五十五年三月期に売上高千億円を突破し、五年後の昭和六十年三月期には三千百億円を超える規模にまで成長した。カラーテレビ、ビデオデッキ、事務機器の部品需要を的確に捉え続け、日経ビジネス誌が先見性と機動力に富む輝かしい町工場と評するほどの存在感を発揮していた時期であった。親子並走で事業を拡大するという独自の形が、この時期には最も華やかな姿で現れていた。部品と完成品の両面で事業を伸ばす独自の形が、この時期には最も華やかに花開いていた。

参考文献
  • ALPINEブランドストーリー
  • 日経ビジネス 1983年7月11日号
  • 日経ビジネス 1996年10月28日号

バブル崩壊後の五期連続減収と「強みのなさ」を自覚した苦闘の時期

平成三年三月期に売上高三千五百億円を超えるピークを記録したのち、五期連続で減収が続き、平成八年三月期には二千百億円台まで落ち込んだ。部品の種類は十二万点規模にまで膨張し、研究開発投資は分散してしまっていた。片岡政隆社長自身が「バブル経済に乗って、黙っていても注文が入ってきた。受け身になって、独自の強みを生み出せなかった」と率直に振り返っている。海外生産比率も二割台半ばにとどまり、同業のミツミ電機のおよそ七割に大きく後れを取っていた姿は、当時の同社の構造的な弱みを端的に表していたのであった。独自素材や独自生産技術の不在という構造問題が、この頃から徐々に浮かび上がり始めていた。

平成五年六月には大規模リストラに着手し、希望退職千三百人、東北三工場の閉鎖、品種の十二万点から八万点への削減を断行している。事業本部制を導入して現場の意思決定を迅速化し、海外生産比率は平成八年に四割を超えるまでに引き上げられていった。しかし片岡政隆は「ティーディーケイにはフェライト、京セラにはセラミックという他にまねできない素材がある。じゃあアルプスは何と聞かれるとそんな強みがない」と述べ、コスト削減による回復が独自の技術的優位の獲得にまでは至っていないことを自覚していた。課題の根深さはこの時点ですでに明らかであった。構造的な課題を認識しながらも具体的な処方箋が見えないまま、苦しい模索が続いていった。

参考文献
  • ALPINEブランドストーリー
  • 日経ビジネス 1983年7月11日号
  • 日経ビジネス 1996年10月28日号

リーマンショックによる急落と成長戦略の不在が招いた停滞

平成二十年三月期には売上高六千九百億円規模にまで達したが、リーマンショックの直撃を受けて翌期は五千四百億円規模へと急落し、二百六十五億円規模の営業赤字を計上した。平成二十二年三月期にはさらに四千九百億円規模にまで落ち込んでいる。平成五年のリストラ以降も「部品の総合デパート」的な体質は根本的に変わっておらず、どの市場に集中すべきかの経営判断は、長期にわたって先送りされ続けたままになっていた。コスト削減だけでは構造問題を解けないという現実が、この時期に改めて突きつけられたのであった。何を捨てるかという核心的な問いが、依然として宙に浮いたまま放置されていた時期であった。長く先送りされた事業構造の見直しが、避けがたい形で突きつけられたのである。

創業家三代目の片岡政隆は二十四年間にわたって社長を務めたが、その間に二度の大きな危機を経験し、いずれも外部環境の激変に後手を回ってコスト削減で凌ぐというパターンが繰り返されたのであった。六十四年間続いた創業家経営のもとで、「何を捨てるか」という経営判断は構造的に先送りされやすかった面を否定しがたい。創業家の経営陣にとっては、父が育てた事業も、自らが守ってきた事業も、いずれも切り捨てがたい思い入れのあるものであったからだ。親の代からの継承の重みが、経営判断を鈍らせる要因として確かに作用していた。創業家経営の強みと弱みが同時に露わになった難しい時期であったと振り返ることができる。成熟した家業としての経営文化が、変化への対応力を鈍らせていた。

参考文献
  • ALPINEブランドストーリー
  • 日経ビジネス 1983年7月11日号
  • 日経ビジネス 1996年10月28日号

2011年〜2026経営統合と構造改革を経て車載部品メーカーへと向かう再出発期

創業家外初の社長就任と車載・スマホ領域への経営資源集中

平成二十四年六月、京都大学理学部出身の技術者である栗山年弘が、創業家外から初めての社長として経営のトップに就任した。「仕事を増やそう」という単純明快なメッセージを三年間にわたって繰り返し、車載で二千億円、スマホで一千億円という具体的な数値目標を掲げて、成長市場に経営資源を集中させていく方針を打ち出した。組織を機能別に再編し、五つの技術部門を一か所に集約することで、事業間の技術共有を促進する施策にも相次いで着手した。創業家経営からの脱却と事業の選択集中が、この時期に一気に進められたのである。創業家から外部経営者への移行は、電子部品業界においても一つの重要な節目となった。前任者からの危機感を追い風に、成長領域への資源集中が進められていった局面であった。

成果は数字の上にも明確に表れていった。平成二十五年三月期に六十八億円規模だった営業利益は、平成二十八年三月期には約六百億円規模に達し、およそ九倍にまで回復を遂げたのである。損益分岐点の引き下げという前任者時代の地道な蓄積と、栗山の成長志向がここで初めて噛み合った結果であったと評価できる。六十四年間の創業家経営のもとで先送りされてきた事業ポートフォリオの組み替えを、外部の視点を持つ経営者がついに実行に移したという点で、同社史における画期的な転換点となったのであった。外部からの目線がようやく経営の選別判断を後押しした、記念すべき局面となった。積年の構造問題に対して具体的な処方箋を示した経営判断は、業界内でも驚きをもって受け止められた出来事であった。

参考文献
  • 東洋経済「アルプス電気社長 就任3年利益9倍の内幕」
  • ダイヤモンド「アルプス・アルパイン統合なるか」
  • MARR「アルプス電気とアルパインの経営統合可決成立」

アルパインとの経営統合と統合効果を巡る今後の経営課題

平成二十九年七月、栗山はアルパインとの経営統合を正式に発表した。車の電動化・知能化・共有化・接続化という時代の変化に対応するため、部品と完成品を統合したプラットフォーム型供給体制の構築を目指す狙いであった。アルパインの少数株主であるオアシス・マネジメントとの委任状争奪戦を経て、平成三十年十二月の臨時株主総会で賛成約七割で可決されたが、親会社保有分を除く一般株主だけの賛否は僅差という苦しい構図にあった。統合の正統性を巡る議論が最後まで尾を引いた珍しい事例でもあった。既存株主の不満と統合の経済合理性との間で、経営陣の調整力が試される難しい場面となった。両社の長い親子並走の歴史を束ね直す難事業が、関係者に突きつけられた局面である。

平成三十一年一月にアルプスアルパインへと商号を改め、昭和四十二年の合弁設立から五十二年にわたった親子並走にここで終止符を打った。しかし旧アルパイン領域を含むモジュール・システム事業は、令和五年度には十一億円規模の赤字を計上し、統合の収益効果は依然として道半ばにある。令和六年には中期経営計画を白紙撤回して構造改革に転換し、令和七年度には売上高一兆円超を見込む計画を打ち出している。創業時の資本金五十万円から七十八年間で約二十万倍の規模にまで到達するという見通しが、ここに示されたのであった。統合の意義を収益として証明することこそが、現経営陣の最大の使命である。町工場的体質から車載供給者への脱皮が、本格的な課題となっている。

参考文献
  • 東洋経済「アルプス電気社長 就任3年利益9倍の内幕」
  • ダイヤモンド「アルプス・アルパイン統合なるか」
  • MARR「アルプス電気とアルパインの経営統合可決成立」

直近の動向と展望

車載電子部品市場の構造変化と同社の選択と集中の行方

電気自動車と先進運転支援システムの普及によって、車載電子部品市場は年々高い成長率を維持しているが、同社の主力である入力デバイスや各種センサの単価下落も同時に進行しつつある。旧アルパイン領域を含むモジュール・システム事業の赤字脱却が、統合シナジーを実現する上での最大の試金石として経営陣の前に立ちはだかっている。車載市場の競争激化のなかで、どの領域に経営資源を集中させるかの判断が、ここから数年の業績を左右する決定的な要素となっていくのである。創業以来の「総合デパート」的な発想からの完全な脱却が、ここで改めて焦点となっている。

参考文献
  • 有価証券報告書
  • 各種報道

スマホ関連事業の構造不況と中期経営計画白紙撤回の意味

一方でスマホ向け部品事業は、世界的な市場飽和と中国系メーカーとの価格競争によって構造不況の局面に突入している。令和六年の中期経営計画の白紙撤回は、従来の延長線上にある成長戦略では対応しきれないという経営陣の危機感の表明そのものであった。新たな構造改革の下では、非中核事業の整理と車載領域への一層の集中が進められる見通しであり、「何を捨てるか」という創業以来の課題に対する、現経営陣からの最終的な回答が焦点となる局面である。創業家経営の時代には回避され続けた選別の意思決定が、ようやく明示的に議論される段階に入ったと見るべきだろう。成長市場と成熟市場の選別という経営の本質的な判断が、ここから数年の焦点となっていく。

参考文献
  • 有価証券報告書
  • 各種報道

重要な意思決定

1948年11月

片岡電気株式会社の設立

東芝のエンジニアが独立後にジャンク屋を営み、そこでバリコンの品質の低さに気づいたという経緯は、技術者としての目利きと販売現場での市場感覚が重なった結果である。菊名製作所での挫折による2年間の遅れを「かならずしもムダではなかった」と後年評価されているのは、この販売経験が製品選択に直結したためである。兄を社長に据えて自らは専務に就いた創業時の体制もまた、片岡勝太郎という人物の実利的な判断力を示している。

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1967年5月

アルプス・モトローラの設立

部品メーカーが完成品領域に参入する場合、納入先のセットメーカーと競合関係が生じるリスクは避けがたい。アルプスはこの矛盾を、合弁会社という形式で本体とは別の法人に切り出すことで緩和した。モトローラとの合弁解消後も別会社として上場させたのは、部品事業と完成品事業の利益相反を組織的に分離する設計であったと読める。しかし50年後に親会社が統合を決断した際、この分離が少数株主との利害対立を生んだ。事業のリスクを分離した設計が、資本のリスクを後年に繰り延べた構造ともいえる。

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1993年6月

大規模リストラと事業本部制への転換

1992年時点でアルプスの海外生産比率は24.5%、同業ミツミ電機は約70%であった。この差は経営判断の速度の差であると同時に、1987年に片岡勝太郎が設定した「マキシマム30%」という目標が組織の動きを規定した結果でもある。創業者の設計思想が円高という環境変化のもとで制約に転じ、後継者がその修正に数年を要した。事業本部制の導入と品種削減は、トップダウンからの脱却を意図した施策であるが、それが構造改革として機能するまでに、ピークから39%の売上減少という代償を要した。

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2012年6月

創業家外初の社長就任と車載・スマホへの事業構造転換

栗山が就任時に掲げた「仕事を増やそう」というメッセージは、経営戦略としては自明に見える。しかし265億円の赤字を経験した組織においては、コスト削減と守りの意識が支配的になっており、成長へのマインドセットを取り戻すこと自体が課題であった。3年間同じメッセージを繰り返したという事実は、組織の慣性を変えるためには戦略の精緻さよりも、方向性の明快さと反復が効くことを示唆している。営業利益9倍という結果は、前任者時代の損益分岐点引き下げと栗山の成長志向が合わさって初めて実現したものである。

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2017年7月

アルパインとの経営統合とオアシスとの委任状争奪戦

経営統合の臨時株主総会における賛成率は73.3%であったが、親会社アルプス電気の保有分を除外すると賛成は32.38%にとどまり、反対の26.70%との差はわずかであった。形式的には特別決議の要件を満たしているが、少数株主の間では賛否が拮抗していたことを意味する。30年間上場企業として独自に企業価値を蓄積してきたアルパインの評価を、株式交換比率1:0.68で確定させることへの異議は、親子上場の構造そのものが孕む利益相反の一例として記録に値する。

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歴史的証言

「東南アジアを低賃金だからという形でどこまで活用していけるか」

世帯数

日経ビジネス 1975/09/15

どんな無理でもきいてくれる頼りになる存在

パイオニア 松本誠也社長

日経ビジネス 1983年7月11日号

「(注:円高に対応)できないよ、そりゃ(笑)」「グローバルなマトリックスで考えていく必要があります。米国での現地生産では補助的手段としてメキシコの活用を考えねばなりませんね。」「円高でアワを食って、ともかく安いところで作らねばならないという段階から踏み出して、もう一度、世界地図を描きなおして考えなければいかんのです」

円高

日経ビジネス 1987/06/22

「これは僕の計画がよかったかというんじゃなくて、やっぱり非常に運が強かったんだということでしょう。そういうツキがないと経営もダメじゃないかなと思いますね」

勝太郎

日経ビジネス 1988/12/05

「海外製造法人は9社あるが、利益が出ているのはわずかしかない。採算割れの現地法人を黒字転換し、現地化をさらに強化することが急務だ」

片岡正隆(アルプス電気・社長)

日経産業新聞 1989/03/16

1964年、宮城県に工場を作った時、私は駐車場に並んだ2000台の自転車の壮観に驚いた。ところがわずか10年を経た1974年頃にはそのほとんどが自家用車に換わっていた。一方、韓国で生産を始めて18年が経つ。この間、4500人の従業員は、50台のバスに分乗して通勤していた。それが去年の秋に行ってみて、私は昭和40年代に古川で感じたのと同じ驚きを抱いた。ボツボツと韓国製の自家用車が工場周辺に並び出しているのを見たのである。今、韓国では部長クラスが車をもてるようになっている。ここからはおそらく早い。

片岡勝太郎

日経ビジネス 1989/05/15

同じことは、東南アジア諸国連合(ASEAN)諸国でも起こるだろう。日本の電機メーカーや部品メーカーがこれまでなだれを打って展開してきたが、それは間違いなくそれぞれの国民所得をあげてきているからだ。(中略)つまり、海外マーケットが今、もうひとつ新たに生まれつつあるのだ。

片岡勝太郎

日経ビジネス 1989/05/15

最後に、変わっていないものは何かをひとつだけ挙げよう。それは、意外の感を与えるかもしれないが、日本人、とりわけ若い世代の労働意欲である。いざなぎ景気の頃は、日本全体がまだどちらへ行くかわからず暗中模索だったためもあろう、むしろ今より浮ついた気持ちで会社に入ってくるものが多かった。今は個々人がそれなりに会社の将来を読んだ上で、自分のベクトルを考えている。

片岡勝太郎

日経ビジネス 1989/05/15

「長期計画などあったものではない。日本の世帯数が3000万世帯でテレビの普及率はやっと60%だからまだあとこれだけは伸びる 」

片岡勝太郎

日経ビジネス 1989/09/15

バブル経済に乗って、黙っていても注文が入ってきた。受け身になって、独自の強みを生み出せなかった

片岡政隆社長

日経ビジネス 1996年10月28日号

TDKにはフェライト、京セラにはセラミックという他にまねできない素材がある。じゃあアルプスは何と聞かれるとそんな強みがない

片岡政隆社長

日経ビジネス 1996年10月28日号

「スマホはやはりコモディティ化していくだろう。これまで2年程度だった買い替えサイクルは、3年、4年と伸びていく。2ケタの台数成長は長くは続かない。こうした動きを見据えて、省エネ、ヘルスケアといった産業機器の分野を、スマホ、車載に続く収益柱に育てていきたい」「やることはHMI、センサー、コネクティビティのどれかになる」

栗山年弘(アルプス電気・社長)

週刊東洋経済 2015/11/13

安売りをした部品メーカーで生命をまっとうした会社は一社もない

片岡勝太郎

アルプス50年のあゆみ

仕事を増やそう

栗山年弘社長

東洋経済

参考文献・数字根拠

参考文献

アルプスアルパイン株式会社 有価証券報告書
アルプス電気『アルプス50年のあゆみ』
アルプスアルパイン公式沿革
「国際分業の花形―片岡電気」1963年1月
日経ビジネス 1983年7月11日号
ALPINEブランドストーリー
日経ビジネス 1996年10月28日号
東洋経済「アルプス電気社長 就任3年利益9倍の内幕」
ダイヤモンド「アルプス・アルパイン統合なるか」
MARR「アルプス電気とアルパインの経営統合可決成立」
有価証券報告書
各種報道

数字根拠

創業時 資本金

50万円

アルプス50年のあゆみ

品種削減(リストラ時)

12万点→8万点

日経ビジネス 1996年10月

リーマンショック後 営業赤字

約265億円

有価証券報告書

営業利益 回復倍率(就任3年)

約9倍

東洋経済

2019年 商号変更

アルプスアルパインへ

MARR