片岡電気が選んだのは、完成品ではなく完成品の内側だった。片岡勝太郎は東京電気無線の技術者として無線機の匡体を手がけ、戦地では補給の切れた部品を上海で調達して無線機を組み立てている。そこで分かったのは、部品さえあれば機械は成り立ち、部品が無ければ何一つ成り立たないという順序である。1948年の創業でロータリースイッチとバリコンを選んだのは、ラジオという当時ほぼ唯一の量産機器の内側で、必ず数の要る品目だったからだ。完成品へ出れば売り先を自分で作らねばならないが、部品なら売り先が先に立っている。資本金50万円・23名で出発した会社が採れる位置は、そこしかなかった。
もっとも部品専業には代償がある。何を作るかは発注元の製品が決め、いつ作るかは発注元の在庫が決める。片岡電気が1954年にテレビ用チューナー、1958年にボリュームと品目を足し続けたのは、品揃えを誇るためではない。放送方式と家電の世代が変わるたびに主力が入れ替わる市場で、次の一つを外さないためだった。1958年の防衛庁規格、1959年の米軍用規格、1961年の米GEからのバリコン25万個は、その一つ一つが買い手の試験を通った証にあたる。1964年に同族の姓を外して商標アルプスを社名へ据えたのは、売り先が国内の数社から世界の完成品メーカーへ広がることを見越した改名だった。
片岡勝太郎氏は、電子部品のほかに何も知らない技術者として戦地から戻った人物である。1937年に旧制神戸高等工業学校の機械科を出て東京電気へ入り、入社式の直後に無線部へ配属された。翌1938年に召集され、中支で無線小隊長として3年3か月を過ごしている。CTSやハリクラフターなど米国の部品会社の名を覚えたのは、日本製の電子部品がほとんど見当たらない上海でのことだった。1941年の初めから無線器材の補給が途切れがちになり、そこで部品を集めて無線機を自分たちで組み上げていた。優れた部品を作れば世界じゅうで売れ、その商標は世界の人々に通じるものであるべきだという考えが生まれ『良い部品を造れば世界中に売れる、しかもそのブランドは世界の人に理解出来るものでなければならないと考えたことから今のアルプスの商標が生まれた』、創立と同時に採った「アルプス」の商標はそこから来ている。
片岡電気の設立は1948年11月1日、資本金50万円の片岡一族の同族会社だった。発足時の陣容は重役以下23名で、ロータリースイッチとバリコンの製造販売から事業を起こしている。創業者社長には勝太郎氏の兄にあたる片岡信直氏が就き、勝太郎氏は専務として兄を助けた。設立までの1年あまり、勝太郎氏はスイッチや電圧昇圧器を作って神田の現金問屋へ売り、駅前で問屋の真似事もしている。東芝の温室で育った技術者に部品商売の作法を教えたのは、このとき出会った問屋のセールスマンや部品メーカーの経営者たちだった。戦後に生まれた日本の電子部品メーカーの多くは同族会社であり、片岡電気もその型を外れてはいない。
部品メーカーが受ける注文の量は、景気や完成品の売れ行きだけでは決まらず、発注する側との力の差という経済の外の事情にも左右される。大阪出張所を1949年に開くなど売り先を広げようとしたが、1950年1月になってもラジオの生産は月2万台で低迷し、苦しい経営が続いた。潮目を変えたのは同年6月に起きた朝鮮戦争である。片岡勝太郎氏が打ち出した3割の増産が当たり、経営はここで上向いた。1952年には従業員が100名台に乗り、売上高も1億200万円と1億円台に届いた。増産の決定は、需要を読み切った判断というより、発注元が動く前に手を挙げる賭けに近かった。
1953年にテレビ放送が始まると、片岡電気は翌1954年、業界に先んじてテレビ用チューナーの生産へ入った。テレビ時代の幕開けに対応した進出だったと、後年の記事も同じ位置づけで記している。スイッチは創業時のロータリーに、1953年のスライド、1956年のボタンを重ねた。チューナーも1954年のスイッチ式から1956年のターレットへ移った。さらに1960年にFM、1961年にUHFコンバーター、1962年にUHFチューナーを加えている。受信機の心臓部は放送方式が変わるたびに置き換わり、置き換わるたびに発注の先も入れ替わる。先に作って待つか、決まってから追うか——片岡電気は前者を採り続けた。
1957年から研究を進めたボリュームは、1958年に生産へ移った。ここでスイッチ、バリコン、チューナー、ボリュームという四つの部門が顔をそろえ、以後の急速な発展を押し出す主力として引き継がれていく。製品の9割以上は民生用の部品であり、1960年以降の所得倍増政策のもとでテレビや冷蔵庫が家庭へ入るほど、部品の需要も増えた。売上高は1952年の1億200万円から1959年の16億2400万円、1965年の59億9300万円へ伸びている。総合という言い方は、後から取りそろえた品揃えを指すのではなく、放送と家電の普及に合わせて1品種ずつ足していった結果を指していた。
品質の裏づけも同じ時期に取っており、ロータリースイッチは1958年に防衛庁規格、1959年にアメリカ軍用規格の認定を受けた。認定の水準は当時の最高だった。1961年には米ゼネラル・エレクトリックからバリコン25万個の大量注文を受け、輸出が本格的に始まる。1963年には米GIC社とUHFチューナーの技術援助契約を結び、技術革新への対応を外からも取り込んだ。売上高は1962年3月期の25億2000万円から1963年3月期に27億4000万円となった。輸出の加わった1964年3月期は38億3000万円、当期純利益は2億9000万円である。部品は買い手が試験で選ぶ商品であり、規格の認定は営業活動より先に効く。
1961年10月、片岡電気は東京証券取引所第二部へ上場した。売上高は1961年3月期の10億8000万円から、1964年3月期の38億3000万円へ膨らんだ。この間に資本金は2億4000万円となり、東京工場の大幅な拡張に加え、1960年に第一期工事を済ませた横浜工場でも第二期工事が始まった。設備の増強は需要の見通しが立ったからではなく、需要に置いていかれないための手当てだった。とはいえ手元資金にゆとりはなく、建屋を造るかたわら時価発行増資で資金を工面し、長期の資金は北海道東北開発公庫や生命保険会社に頼ってしのいだ。メーンバンクの三井銀行にも貸せる資金がない時代だったと、片岡勝太郎氏は後年振り返っている。
東北アルプスは全額出資の子会社で、実態は本体の生産部門にあたり、1964年8月に宮城県古川で設立された同社が、地方に工場を置いた最初の例となった。裏付けとなる長期計画はなく、テレビの普及率が世帯数3000万に対してなお6割どまりという大づかみな読みと、輸出でも採算に乗るという感触が決断を後押しした。資金は集められる限り集めたが、建屋が半分できた時点で操業に入るのがやっとだった。人手は東北ですべてまかない、労働効率は都市部の工場に劣らなかった。工場を建てた年、駐車場には自転車が2000台並んだ。それが10年後には自家用車へ置き換わっていたと、片岡勝太郎氏は驚きとともに書き残している。
「アルプス」の商標は創立の時から使われており、そこには国内にとどまらず世界で通じる名になるという希望と目標が託されていた。図柄は米フォード社の社章を手本にしている。1964年12月1日、片岡電気は商号をアルプス電気に改め、同じ月に片岡勝太郎氏が社長の座に就いた。1937年に入社してから27年、うち16年は専務として兄を支えてきた末の就任である。この年に設けた東北アルプスにも商標がそのまま付けられ、その後の子会社は地名と商標を組み合わせた名で並ぶことになる。1964年3月期は売上高38億3000万円、当期純利益2億9000万円だった。資本金50万円・23名で出発した会社の、16年目の姿である。創業者一族の姓を掲げた社名を捨て、輸出先で通じる商標を会社の名に据えたところで、草創期は終わった。
1965年からの28年でアルプス電気の売上高は60億円から4,613億円へ伸びたが、その伸びを設計したのは自社の計画ではなかった。1968年にカラーテレビの生産が274万台へ跳ねると売上は1年で70%増え、1974年に同じカラーテレビが在庫調整へ入ると受注は月48億円から21億8500万円まで落ちる。同じ工場、同じ人員、同じ製品で、半年のうちに倍にも半分にもなった。1974年12月の2,400人の希望退職は、不振企業の整理ではなく、発注元の生産計画へ自社の規模を合わせ直す作業である。片岡勝太郎が増産の只中で売上の伸びを喜ぶなと釘を刺していたのは、この振幅を知っていたからだろう。
振幅から逃げる道は二つあった。一つは値段を守ること。原価の65%が材料費と外注加工費で利益は5%という構造では、2割の値引きを飲めば増産するほど赤字が増える。原価を割るなら注文を辞退するという値決めは、発注元との力関係を価格でだけは受け入れないという線引きだった。もう一つは、発注元の隣へ工場を移すこと。1986年から1989年にかけてシンガポール、韓国、アイルランド、マレーシア、台湾へ拠点を置いたのは、円高への対応であると同時に、部品が届かなければ取引ごと失うという圧力への応答でもある。1978年にモトローラの持ち分を買い取ってアルパインを手中へ収めたのも、車載という別の発注元を自前で持つための手だった。
1967年、アルプス電気の資本金は10億円に達し、同年8月に東京証券取引所第一部へ指定替えとなった。同じ年の5月、米モトローラと60対40の出資比率で合弁会社アルプス・モートローラを設立している。狙いは自動車用電子装置の技術導入で、テープデッキとカーラジオ用チューナーの増産に乗り出した。相馬に建てた工場では、カーステレオのデッキを月産3万台の規模で生産する計画が立てられた。技術は無償ではなく、当時のアルプス電気は合弁相手へ6%のロイヤルティーを甘受させられている。日本電気でさえ米フェアチャイルドへ12%を払っていた時期であり、部品の側から車載へ入るには対価が要った。
生産の側では、一工場一品種という割り方が敷かれた。東北アルプスは古川がバリコンと機械加工、涌谷がボリューム、高清水がバリコンを受け持った。1967年11月に設立した仙南アルプスは、角田と丸森の二つの工場でチューナーを担っている。同じ月、横河電機の子会社ハチマン電子から磁気ヘッド部門の委譲を受け、付属して移った八海電子を新潟アルプスとして再発足させた。東北アルプスと仙南アルプスはいずれも全額出資の子会社であり、実質は本体の生産部門にあたる。専門工場に割ったのは徹底した合理化のためで、品種を混ぜないことが原価の引き下げに直結した。1967年12月には宮城県角田市に角田工場が開き、1969年11月には福島県いわき市へ事業所を置いている。
1968年、カラーテレビの生産が年初予想を大きく超えて年間274万台に達し、電子部品業界は活況を呈した。アルプス電気の売上は1年で70%増え、1969年末までに月産16億円を28億円へ引き上げる計画が立てられた。設備投資は1968年度が発注ベースで23億円、1969年度は確定分だけで12億から13億円にのぼる。従業員7,400名は年内に1万名へ増える見込みだった。ただし片岡勝太郎氏は、1970年に予想される半期売上150億円の先に主力製品の転換期が来ると述べ、『売上の伸びをいたずらに喜ぶだけでは企業の将来はない』と釘を刺している。実際の1970年3月期の売上高は285億円に達し、当期純利益も16億6000万円へ伸びた。増産に追いつくだけの設備を持てるかどうかが、この時期の制約だった。
1974年3月期の売上高は527億円、経常利益は42億3100万円で、そこまでの最高を記録した。もっとも同じ時期、片岡勝太郎氏は原材料の側から締め上げられていた。月間の材料費は前年同月比で2億円増え、経常利益の半分が吹き飛ぶ計算になる。材料の供給には数量制限がかかり、2割ほど減りそうな情勢だった。東北アルプスを含めた従業員は1万2000人、年商は500億円に達している。加工が本業であるためエネルギー消費は大きくないが、材料が来なければ増産は止まる。片岡勝太郎氏はこの時期、会社そのものが伸びきっていると語った。1957年に初めて渡米したときから、売上も従業員も20倍から30倍になっていた。3年計画は持っていても3年先は分からず、5年計画は立てられないとも述べている。
受注は1974年の後半から落ち始めた。11月に27億1900万円、12月に30億4400万円、1975年1月は22億7300万円、2月は21億8500万円で底を打つ。最盛期の月48億円ベースからの落差であり、操業率は50から60%まで下がった。原因はカラーテレビの減産で、1975年1月の業界全体の生産台数は36万7000台と前年同月比40.2%減、1971年並みの水準へ逆戻りした。1974年12月、アルプス電気は全従業員の20%にあたる約2,400人の希望退職を募った。四つの子会社を含めて1万2000人まで膨らんだ陣容を、半分前後に減った仕事に合わせる処理だった。
1975年3月期の決算は、売上高が前期比29.9%減、経常段階で4億300万円の欠損となった。希望退職者への特別退職金5億2800万円などを加えた赤字は9億6500万円、当期純損失は7億円に達している。1961年の東証二部上場以来、初めての欠損だった。ところが人員削減を終えた直後の3月から受注は回復し、7月には最盛期の48億円ラインを突破する。片岡勝太郎氏は下請けの外注を増やす方針へ転じたが、混乱期に2割を超える値引きで納入された価格は、そのまま通り値として残った。1976年3月期の売上高は519億円、経常利益21億円まで戻っている。削ったのは人であり、戻らなかったのは値段だった。
1978年8月、アルプス電気は合弁相手のモトローラからアルプス・モートローラの株式を譲り受け、全額出資の子会社とした。同年11月、社名をアルパインへ改めている。車載機器はここで部品の一部門から独立した会社の事業になった。アルパインは1988年3月に東京証券取引所第二部へ上場し、1991年9月には第一部へ指定替えとなる。親会社が議決権の4割を持つ上場子会社という構えは、このときに生まれている。1978年3月期の売上高は765億円、1980年3月期には1,077億円へ乗せた。合弁でロイヤルティーを払って技術を買った側が、11年後には相手の持ち分を買い取り、さらに10年後には市場から資本を集める側へ回った。
1980年代後半の円高は、生産の置き場所そのものを問い直させた。1986年度は1ドル180円で予算を組んだところ160円へ進み、下期は150円、1987年度は140円まで動いた。販売価格を上げられない部品業界では、労働力の安い国への生産移管がまず検討される。アルプス電気は1986年9月にシンガポール、1987年2月に韓国へ現地法人を置いた。1988年3月にアイルランド、1989年4月にマレーシア、同年5月に台湾が続く。1987年の時点で5カ国9工場を持ち、海外へ移す生産の上限を片岡勝太郎氏は30%と見ていた。労働力の安い国で作るものと先進国で作るものを分け、日本に残すべきものは残すという分け方を、グローバルなマトリックスと呼んでいる。
海外展開の順番を決めたのは、自社の計画だけではなかった。1989年に10億円を投じて設立したアルプス・エレクトリック・マレーシアは、視察の途中で決まった拠点である。片岡政隆氏が現地の日系セットメーカーを回り、部品調達難の訴えを各地で聞かされた末の判断だった。進出が遅れる間に国内の取引を縮小した発注元もあり、要請は半ば脅しに近かったという。片岡勝太郎氏はそうした圧力の下でも値決めを譲らなかった。原価構成は流動費65%、人件費20%、一般管理販売費10%で、利益は5%にすぎない。『うちは原価を割るような売り方はしなかった。一定の価格以下で売られなければならないのなら、売るな。注文を辞退して帰って来る、というのが基本姿勢です』という基本姿勢が、安売りに走った部品メーカーとの分かれ目になった。売上高は1985年3月期に3,144億円、1992年3月期には連結で4,613億円へ達している。
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|---|---|---|---|---|
| 1948〜1964年部品専業での市場参入 | 片岡電気の設立 | ★ | ||
| バリコンの製造開始と秋葉原での販売 | ★ | |||
| テレビ時代への対応──VHFチューナーの製造開始 | ★★ | |||
| 東京証券取引所第二部に上場 | ★ | |||
| 東北アルプス設立──地方生産拠点の展開開始 | ★ | |||
| アルプス電気に商号変更 | ★ | |||
| 片岡勝太郎氏が社長に就任 | ★ | |||
| 1965〜1992年拡大局面での人員削減と事業分離 | アルプス・モトローラの設立 | ★ | ||
| 不況下の大量希望退職──片岡社長が一人一人に面接 | ★★ | |||
| タクトスイッチ(TACT Switch)の製造開始 | ★ | |||
| 米国法人ALPS ELECTRIC (USA)を設立 | ★ | |||
| アルパインに商号変更 | ★ | |||
| 欧州法人を設立 | ★ | |||
| 売上高1,000億円を突破 | ★ | |||
| 世界初のカーナビゲーションシステムを共同開発 | ★★ | |||
| 売上高3,114億円──5年で3倍以上に成長 | ★ | |||
| 現地生産を本格化 | ★ | |||
| 片岡政隆 | 片岡政隆氏が社長に就任 | ★ | ||
| 片岡政隆 | 売上高3,551億円──アルプス電気のピーク | ★ | ||
| 1993〜2016年大規模リストラと事業本部制、CIRQUE買収とリーマンショックの赤字、車載・スマホへの転換 | 片岡政隆 | 中国・生産拠点NINGBO ALPSを設立 | ★ | |
| 片岡政隆 | 大規模リストラと事業本部制への転換 | ★★ | ||
| 片岡政隆 | 自社ブランド・マイクロドライプリンター発売 | ★ | ||
| 片岡政隆 | アルプス物流が東京証券取引所二部に上場 | ★ | ||
| 片岡政隆 | CIRQUE社を買収──タッチパッド技術の獲得 | ★ | ||
| 片岡政隆 | リーマンショックで265億円の営業赤字 | ★★ | ||
| 栗山年弘 | 創業家外初の社長就任と車載・スマホへの事業構造転換 | ★★ | ||
| 2017〜2026年アルパインとの経営統合とオアシスとの委任状争奪戦、中期計画の中止とアルプス物流の売却 | 栗山年弘 | 株式交換による2社の経営統合の押し切りと、条件をめぐる攻防 2017年7月に発表されたアルプス電気とアルパインの経営統合をめぐり、アルパインの少数株主である香港の投資ファンド、オアシス・マネジメントが株式交換比率1対0.68はアルパインの少数株主に不利だとして反対した経営判断。2018年12月5日のアルパイン臨時株主総会で株式交換契約は原案どおり承認可決され、2019年1月1日にアルプス電気が商号をアルプスアルパインへ改め、アルパインを完全子会社とした。 詳細を読む | ★★★ | |
| 栗山年弘 | Faitalと資本提携を開始 | ★ | ||
| 栗山年弘 | アルプスアルパインに商号変更 | ★★ | ||
| 栗山年弘 | アルパインの全事業を吸収分割で承継 | ★ | ||
| 泉英男 | 第2次中期経営計画を中止──経営構造改革に転換 | ★ | ||
| 泉英男 | アルプス物流の株式を完全売却──KKRがTOBで取得 | ★★ | ||
| 泉英男 | 売上高1兆円突破の見通し | ★ |
免責事項およびポリシー
事実根拠:出所(アルプスアルパイン)