重要な意思決定
194811月

片岡電気株式会社の設立

背景

東芝退社から3年間の回り道

片岡勝太郎は1937年に旧制神戸高等工業学校機械工学科を卒業し、東京芝浦電気(現東芝)にエンジニアとして入社した。1945年の終戦を機に独立を決意する。直接の動機は、最も信頼していた上司の自殺と、官僚的な大会社の機構では自分の志を伸ばせないという認識であった。旧制神戸高工時代の友人で、技術少佐として東芝に派遣されていた加藤開が片岡の考えに共鳴し、以後行動をともにすることになる。二人とも資金は持たなかったが、技術者としての自負と独立への意志は揺るがなかった。

独立への道は平坦ではなかった。東芝の下請工場主と組んで菊名製作所を設立したが、事情があって間もなく袂を分かつことになる。片岡は神田にジャンク屋(中古品・部品販売店)を開き、菊名の販売部門を担当する中で、バリコン(可変蓄電器)の良品が市場に少ないことに気づいた。この発見がのちの創業製品の選択を決定づける。菊名製作所での挫折による約2年間の回り道は「かならずしもムダではなかった」と後年評価されており、販売現場での市場感覚が技術者としての判断力と結びついた重要な準備期間であった。

決断

兄を社長に据え、自らは専務で経営の実権を握る

1948年11月1日、片岡勝太郎は東京都大田区雪谷町に片岡電気株式会社を設立した。資本金50万円、従業員23名、50坪の建物を買収したのが全財産であった。ジャンク屋時代に目をつけていた高品質のバリコンを「アルプス」ブランドで製造し、秋葉原の電気街で販売した。当時はまだ戦後の荒廃が社会をおおっていた時期であり、ラジオ用パーツは需要こそあったものの品質のばらつきが大きく、良品を安定供給できるメーカーは限られていた。品質で差別化するという着眼点は、片岡のジャンク屋での経験に裏打ちされたものであった。

創業時の体制には独特の設計があった。社長には実兄の片岡信直を据え、勝太郎自身は専務取締役に就いた。経営の実権は弟の勝太郎が握り、兄は名目上の社長という構図である。この配置は1964年の社名変更(アルプス電気への改称)まで16年間続き、勝太郎が正式に社長に就任するのはそのときであった。兄を社長に据えるという判断は、対外的な信用と実務的な機動力を両立させる実利的な選択であり、後年の「片岡外交」に通じる勝太郎の現実主義が創業時から表れていた。

結果

品質重視の姿勢が朝鮮動乱後の淘汰を生き残らせる

1950年6月に朝鮮動乱が勃発し、新興パーツメーカーにとってまたとない追い風が吹いた。特需景気で片岡電気の業績は飛躍的に伸びたが、片岡勝太郎は単なる量的拡大よりも品質と技術の向上を重視する姿勢を崩さなかった。「安売りをした部品メーカーで生命をまっとうした会社は1社もない」という片岡の信念は、この時期にすでに形成されていたと考えられる。1953年に動乱が終結するとパーツ業界には倒産が相次いだが、片岡電気は品質の高さを武器にこの淘汰の波を乗り切った。

さらにこの時期にチューナー(同調器)の開発に成功し、バリコンに次ぐ新たな事業の柱を築いた。1954年にはVHFテレビチューナーの製造を開始し、テレビ時代の到来に対応する。同年には東京工場二号館が完成して生産規模が飛躍的に拡大し、可変抵抗器やスイッチなど製品の品目も次第に広がっていった。創業からわずか15年で資本金5億円、従業員2,700人の一流パーツメーカーに成長する。片岡のジャンク屋時代に根ざす「品質を落とさず適正価格で売る」という哲学は、以後の経営の基本原則として組織に定着していく。