歴史概要 — 現在に至るあゆみ 主要な意思決定と帰結のまとめ
創業1917年、塗料の国産化を日本ペイント・東亜ペイントなど数社が握る時代に、その両社で技師長を務めた玉水弘氏が独立し、兵庫県尼崎市神崎で関西ペイント工業所を起こした。翌1918年、岩井勝次郎の岩井商店(現・双日)が出資して株式会社へ改組し、岩井商店の常務が社長を兼ね、玉水氏は専務兼技師長として技術を受け持った。技術者単独ではなく総合商社の資本と流通網を組み合わせた発足で、岩井ルートを通じて西日本・アジア向けの販路を最初から備え、量で売り切る商社機能を内に抱えた塗料メーカーとして始まった。
決断戦後に自動車・建築・船舶・工業の4分野で国内総合塗料の地位を固めた同社の進路を決めたのは、1986年にインドの自動車用塗料トップ、Kansai Nerolacを連結子会社化した一手である。新たに工場を建てるのではなく、現地で実績ある優良メーカーをそのまま取り込むこの手法を、台湾・マレーシア・トルコと20年積み重ね、国内の塗料会社をアジア・新興国で稼ぐ会社へ組み替えた。2016年に米U.S. Paint、2017年に欧州Kansai Heliosを加えて買収先は先進国へ及び、FY18の売上は4,274億円に届いた。
決断の理由 — クリティカルな歴史の転換点を読み解く
- Q なぜ1918年に玉水弘氏は単独ではなく岩井商店の資本を受け入れて創業したのか
- A 1917年に塗料を起こした玉水弘氏が翌1918年に岩井商店(現・双日)の出資を受け入れたのは、技術だけでは量で売り切る塗料事業を全国へ広げられなかったためである。日本ペイント・東亜ペイントなど先行メーカーが市場を握るなか、岩井勝次郎の総合商社が資本と西日本・アジア向けの流通網を提供した。岩井商店常務の安野譲氏が社長を兼ね、玉水氏は専務兼技師長として技術を受け持つ二頭体制をとり、商社の信用と販路を内に抱えた塗料メーカーとして発足した。
- Q なぜ1986年に工場新設ではなくインドKansai Nerolacの取り込みで海外展開を始めたのか
- A 1986年にインドのKansai Nerolacを連結子会社化したのは、成熟した国内市場の外で稼ぐ手段として、現地で実績ある優良メーカーをそのまま取り込む方が、新たに工場を建てて販路を一から築くより速く確実だったためである。Nerolacはインドの自動車用塗料で約6割のシェアを持つトップ企業だった。関西ペイントはこの取り込み型M&Aを台湾・マレーシア・トルコと20年積み重ね、国内塗料会社をアジア・新興国で稼ぐ会社へ組み替えた。
- Q なぜ2024年に40年続けた買収拡大を止めて欧州の構造改革へ向かったのか
- A 2024年11月の第18次中期経営計画で40年続けた買収による拡大を止めたのは、2017年に取り込んだ欧州Kansai Helios圏の採算が薄く、版図を広げるより取得済みの事業の収益を立て直す方が先と判断したためである。欧州はFY24に売上1,564億円とグループ最大の規模を持ちながら、セグメント利益は35億円にとどまった。構造改革True Colorでドイツ・スロベニアの工場を閉め、不採算事業を切り離し、毛利訓士社長は一体運営を指す「ONE KANSAI」を掲げた。
歴史詳細 - 4つの時代区分で読み解く
1918年〜1980年 岩井商店の後ろ盾を得た尼崎創業と国内総合塗料化
玉水弘氏の独立と岩井商店の出資による創業
関西ペイントの源流は、1917年に東京帝国大学応用化学科卒の技術者・玉水弘氏が、日本ペイントや東亜ペイントで取締役兼技師長を歴任した後に独立して兵庫県尼崎市神崎で創業した「関西ペイント工業所」にある[1]。玉水氏は大正六年(1917年)に西宮市で同工業所を起こし、従業員約20人で光明丹・弁柄・堅練ジンクペイントの製造を始めた[3]。第一次大戦下の産業ブームのなかで塗料は輸入国から輸出国へ転じていたが、小規模経営の同工業所は営業が伸び悩んでいた。このとき岩井商店社長の岩井勝次郎氏が、玉水氏の親友で東京帝国大学助教授の田中芳雄氏の仲介で事業譲渡を受け、岩井の企業力と玉水氏の技術力とが結ばれて、大正七年5月17日、関西ペイントは尼崎市に誕生した[4]。資本金50万円、初代社長は岩井商店常務の安野譲氏、専務取締役技師長は玉水氏、従業員約150名での出発で、技術者単独ではなく総合商社の資本と組み合わせた創業形態をとった[2]。製造品目は亜鉛華・鉛丹など顔料類が多く、塗料類はまだ少量で、販売は岩井商店を総代理店として全面的に依存していた[5]。明治後期から大正期にかけて、塗料の国産化は日本ペイント・東亜ペイント・関西ペイントの3社が主要部分を占めており、関西ペイントは岩井商店ルートで西日本・アジア市場への流通網を最初から持っていた点が、創業時の競争優位だった。
第一次大戦後は企業乱立で販売競争が激化し、関西ペイントも繰越損に苦しみ、1920年(大正九年)の恐慌で早くも崩壊の危機に瀕した。この窮境を打開したのが常務の織田秋之助氏で、相場変動の激しい顔料から安定的な塗料へ品種の重点を移し、岩井商店依存の販売を自主販売体制へ切り替えて全国に出張所と特約販売店網を築いた[6]。技術面では1926年(大正一五年)に硝化綿を用いたラッカーの国産化に成功し、国産ラッカー第一号〈セルバ〉が速乾性と強靱な塗膜を実現して、後年の業界首位を支える企業基盤となった[7]。1930年(昭和五年)には、大恐慌下で各社が無配に追い込まれるなか五分配当を実現して積年の繰越損を解消し、危機を積極経営で乗り越える社風を形づくった[8]。続いて1937年(昭和一二年)に岩城塗料製造を合併して総合塗料メーカーへ脱皮し、翌1938年(昭和一三年)には奉天に満州関西ペイントを設立して国際的な規模に達した[9]。戦時下では1943年(昭和一八年)にオリエンタルペイント・沢村亜鉛を吸収して急膨張したが、1945年(昭和二〇年)の大空襲で尼崎工場などが被爆し海外事業もすべて失った[10]。戦後は原料欠乏と過度経済力集中排除法の指定による会社分割の危機に直面しながら再建を進め、1948年(昭和二三年)に室蘭工場を開設して最初の北海道進出を果たした[11]。
1933年6月に東京工場(現・東京事業所、大田区)を新設して関東進出を果たし、戦後の1949年5月、大阪・東京の両証券取引所に上場した[12][13]。1950年4月に大阪市東区(現・中央区)に本社事務所を新設[14]。戦後復興期から高度経済成長期にかけて、平塚工場(1960年)、名古屋工場(1961年)、中央研究所(1965年)、鹿沼工場(1971年)と相次いで国内拠点を整備し、自動車・建築・船舶・工業の4分野で総合塗料メーカーとしての地位を固めた[15]。1968年に株式会社KAT、1971年に株式会社カンペハピオ、1994年に久保孝ペイントを連結子会社化するなど、国内グループ各社の集約も行った[16]。
岩井系オーナー社長から生え抜き社長への世代交代
設立から戦中までの社長は、出資元の岩井商店から送り込まれる構図が続いた。初代の安野譲氏(在任1918〜1922年)は岩井商店常務との兼務で経営を統括し、米田靏吉氏、織田秋之助氏を経て、1934年には岩井商店の総帥である岩井勝次郎氏が、翌1935年からは岩井雄二郎氏が社長に就いた。技術を担う専務取締役兼技師長の玉水弘氏と、資本・経営を握る岩井系社長という二頭体制が、創業から四半世紀の関西ペイントの統治形態だった。総合商社の信用と流通網を借りて立ち上げた塗料メーカーが、資本の出し手をそのまま経営トップに据えるのは、当時の商社系製造業に共通する形である。
戦後は出資者派遣型の経営から、塗料事業を内側から知る生え抜き社長への移行が進んだ。山中鹿太郎氏、沢田豊氏を経て、佐々木善七氏は1955年から1966年まで11年の長期にわたり社長を務め、1949年の上場後に続いた平塚・名古屋・鹿沼の工場新設と、自動車・建築・船舶・工業の4分野体制の整備を主導した。以降は児玉正雄氏、小谷憲孝氏、坂東依彦氏、桑田俊晴氏と数年単位で交代する体制に入り、創業期の商社支配から、塗料の製造・営業をたたき上げた経営陣が事業を運営する会社へと、社長の出自が入れ替わった。商社の資本で生まれた塗料メーカーが、事業の現場を担う人材を経営トップへ登用する組織へと自立していく過程にあたる。
1981年〜2010年 アジア・新興国軸への海外展開と総合塗料事業の深化
インドKansai Nerolacから始まる新興国シフト
国内市場が成熟するなか、関西ペイントは1968年11月に「Thai Kansai Paint Co.,Ltd.」をタイで出資設立して海外進出の第一歩とした[17]。本格的な海外展開の転機は、1986年9月に「Kansai Nerolac Paints Ltd.」(インド、1968年8月ボンベイ証券取引所上場)の株式を取得して連結子会社化した時にあった[18][19]。インドの自動車用塗料市場でトップシェアを持つNerolacの子会社化は、新興国市場での「現地優良メーカーの取り込み型」M&Aの最初の事例となった。
1985年10月の台湾関西塗料、1995年12月のKansai Resin(タイ)、1996年10月のSime Kansai Paints(マレーシア)、1999年10月のP.T.Kansai Paint Indonesia、2006年4月のKansai Paint Asia Pacific(マレーシア)、2007年10月のKansai Altan Boya(トルコ)と、東南アジア・南アジア・中東への展開を5年単位で積み上げていった[20][21][22][23][24][25]。FY11時点の連結売上高は2,565億円。国内総合塗料メーカーから「アジア・新興国軸の塗料メーカー」へと事業構造を組み替える、20年がかりの構造転換期にあたる。
2002年の関西ペイント販売設立
2002年7月、国内地域別販売会社を統合して「関西ペイント販売株式会社」を設立した[26]。国内塗料市場の縮小に対応した販売網の集約で、本社直販と販社の役割分担を明確化した。後にFY18から代表取締役社長となる毛利訓士氏が同販売会社の社長を務め、社内のキャリアパスの上で「国内営業の最終責任者」がトップ人材の育成ルートとなった[27]。1981年入社で営業企画管理本部長・国際管掌を経た毛利氏の経歴は、買収統合期から事業ポートフォリオ最適化期への切り替えを担う社長像と整合している[28]。
2002年の販売会社統合と並行して、海外展開は東南アジア・南アジアの拠点拡張から、中東・アフリカへと地理的に広がっていく時期に入った。2006年4月のKansai Paint Asia Pacific(マレーシア)設立は、アジア地域の統括機能を持たせる狙いで、それまで国別に積み上げた現地法人を地域単位で束ねた最初の組織再編となった[29]。2007年10月のKansai Altan Boya(トルコ)出資設立で中東・欧州方面に参入し、続く2011年のアフリカ展開につながった[30][31]。
2011年〜2021年 M&Aとアフリカ・欧州展開
KP Plascon買収と東欧Helios統合
2011年4月、南アフリカの「Kansai Plascon Africa Ltd.」の株式を取得し、アフリカ市場への本格進出を開始した[32]。続いて2017年1月に「Kansai Plascon East Africa」を出資設立し、ケニアを中心とした東アフリカへも展開[33]。アフリカは新興国市場の中でも建築用塗料・自動車補修塗料の需要が長期的に拡大することを見込んだ進出だった。
2016年8月、米国の自動車用塗料メーカー「U.S. Paint Corporation」の株式を取得し、米国市場に参入した[34]。2017年3月、欧州・東欧の塗料メーカー「Kansai Helios Group」の株式を取得して連結子会社化[35]。欧州市場での自動車・工業塗料の販売網と研究開発機能を一括で取得する買収で、関西ペイントの売上構成における欧州比率を押し上げた。FY17の連結売上高は4,019億円、FY18は4,274億円と、Helios連結化により大台を超える売上規模に到達した。
石野博氏から毛利訓士氏への社長交代
社長は、FY05〜FY08の小林正受氏、FY09〜FY11の河盛裕三氏、FY12〜FY17の石野博氏と、いずれも生え抜きの塗料事業出身者が短期間で繋ぐ体制が続いた[36][37]。石野博氏は2017年にCEOを兼任し、Helios買収を主導したのち、FY18に毛利訓士氏へバトンを渡した[38]。
毛利氏は1981年入社の生え抜きで、関西ペイント販売社長・営業企画管理本部長・国際管掌を経て、2018年4月にCOOを兼任した代表取締役専務執行役員に昇格し、2019年4月に代表取締役社長に就任した[39]。営業・国際を主軸に据えた経営者への切り替えだった。
2022年〜2026年 アフター・コロナの構造改革と監査等委員会移行(2022〜現在)
プライム市場への移行と大阪本社の移転
2022年4月、東証の市場区分見直しに伴い、市場第一部からプライム市場に移行した[40]。2023年12月、大阪市北区に新本社事務所を移転し、国内本社機能の集約を行った[41]。FY22の連結売上高は5,090億円、FY23は5,622億円、FY24は5,888億円と拡大基調にある。一方で、20年かけて積み上げた海外子会社ポートフォリオの精査と入れ替えにも着手しており、その方針転換はアフリカ事業の譲渡公表と撤回に象徴される(詳細は次章)。
FY23から監査等委員会設置会社へ移行し、長谷部秀士氏(常勤監査等委員)、山本徳男氏・中井洋恵氏(弁護士)といった法務・監査専門の社外取締役を取締役会に組み込むガバナンス強化を実施[42]。総合塗料メーカーとして100年を超えた歴史を、海外子会社網の整理と国内本社機能の集約という2軸で、次の経営フェーズへ繋いでいく時期にあたる[43]。
中期経営計画で海外子会社網を入れ替えるポートフォリオ再編
20年がかりで積み上げた海外子会社網は、コロナ後の構造改革で取捨選択の対象に変わった。2019年度から始まった第16次中期経営計画は低収益資産の整理を掲げ、続く2022年4月始動の第17次中期経営計画では、約800億円規模の自己株式取得とブランド・ロゴの刷新、地域密着型の事業展開へ方針を変えた。象徴的だったのがアフリカ事業の扱いで、2011年の買収参入後に景気減速と通貨安で赤字が続いたため、2022年6月に同地域2子会社を同業のアクゾ・ノーベルへ4億5,000万ドルで譲渡すると公表した[44]。
ところが2023年11月、南アフリカの競争当局が株式譲渡を認めず、関西ペイントはアクゾとの契約を解除してアフリカ事業の継続を決めた。撤退戦略が当局判断で頓挫したことで、保有資産を売り切るのではなく自前で立て直す前提に切り替わった。海外売上の地域構成も組み替わり、欧州はKansai Helios連結化以降に拡大し、FY24(2025年3月期)の地域別売上は欧州1,457億円・インド1,440億円が国内1,484億円に並ぶ規模となった。インドのKansai Nerolacを成長ドライバー、欧州を構造改革対象とする、地域ごとに役割の異なるポートフォリオへ組み替わった。
18中計の欧州構造改革True Colorと累進配当への転換
2024年11月に公表された第18次中期経営計画(2025〜2028年度)は、収益性と効率性の強化を第一の柱に据えた。中核に置いたのが欧州の構造改革プロジェクトTrue Colorで、利益率の低いKansai Helios圏を対象に、ドイツ・スロベニア等の工場閉鎖と不採算事業のカーブアウトを進める内容である。欧州は売上規模こそ最大だが、FY24のセグメント利益は35億円と売上1,564億円に対して薄く、規模より採算を優先する整理が中期計画の前提に据えられた。18中計の期間中はM&Aを見送り、グループ内再編を優先する方針も示された。
資本政策も買収主導から株主還元重視へ切り替わった。FY23(2024年3月期)に約800億円の自己株式取得と消却を実施し、政策保有株式の売却も継続。配当はFY24に年40円から50円へ増配し、減配せず維持か増配を続ける累進配当を掲げた。アフリカ参入から欧州・米州・東欧へと買収で版図を広げた拡大期を経て、関西ペイントは取得した子会社網の採算を地域単位で精査し、稼ぐ事業に資源を集中させる再編期に入っている。毛利訓士社長は成長市場としてインドとアフリカを重視し、グループの一体運営を意味する「ONE KANSAI」を旗印に掲げている(日経ヴェリタス 2026/5/26)。