1918年〜 岩井商店の後ろ盾を得た尼崎創業と国内総合塗料化
関西ペイントの業績推移:単体
- 1918年 関西ペイントを設立、塗料・顔料の製造を開始
- 1933年 東京工場を新設
- 1949年 大阪、東京の2証券取引所に上場
- 1950年 本社事務所を開設
- 1960年 平塚工場を新設
- 1965年 中央研究所を新設
- 1968年 Thai Kansai Paint Co.,Ltd.を出資設立
玉水弘氏の独立と岩井商店の出資による創業
関西ペイントの源流は、1917年に東京帝国大学応用化学科卒の技術者・玉水弘氏が、日本ペイントや東亜ペイントで取締役兼技師長を歴任した後に独立して兵庫県尼崎市神崎で創業した「関西ペイント工業所」にある。玉水氏は1917年に西宮市で同工業所を起こし、従業員約20人で光明丹・弁柄・堅練ジンクペイントの製造を始めた。第一次大戦下の産業ブームのなかで塗料は輸入国から輸出国へ転じていたが、小規模経営の同工業所は営業が伸び悩んでいた。このとき岩井商店社長の岩井勝次郎氏が、玉水氏の親友で東京帝国大学助教授の田中芳雄氏の仲介で事業譲渡を受け、岩井の企業力と玉水氏の技術力とが結ばれて、1918年5月17日、関西ペイントは尼崎市に誕生した。資本金50万円、初代社長は岩井商店常務の安野譲氏、専務取締役技師長は玉水氏、従業員約150名での出発で、技術者単独ではなく総合商社の資本と組み合わせた創業形態をとった。製造品目は亜鉛華・鉛丹など顔料類が多く、塗料類はまだ少量で、販売は岩井商店を総代理店として全面的に依存していた。明治後期から大正期にかけて、塗料の国産化は日本ペイント・東亜ペイント・関西ペイントの3社が主要部分を占めており、関西ペイントは岩井商店ルートで西日本・アジア市場への流通網を最初から持っていた点が、創業時の競争優位だった。 [1][2][3][4][5]
- 尼崎市立教育委員会資料「尼崎の歴史」
- [1]関西ペイントの源流は1917年に玉水弘氏が兵庫県尼崎市神崎で創業した「関西ペイント工業所」にある
- 関西ペイント 有価証券報告書 第161期(2025年3月期)【沿革】/双日歴史館
- [2]1918年(大正七年)5月17日に岩井商店の出資を得て資本金50万円の関西ペイントが尼崎市に設立された
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
- [3]玉水弘氏は1917年に西宮市で関西ペイント工業所を起こし、従業員約20人で光明丹・弁柄・堅練ジンクペイントの製造を始めた
- [4]岩井勝次郎氏が玉水弘氏の親友で東京帝国大学助教授の田中芳雄氏の仲介で工業所の事業譲渡を受けた
- [5]設立時の製造品目は亜鉛華・鉛丹など顔料類が多く塗料類は少量で、販売は岩井商店を総代理店として全面依存していた
第一次大戦後は企業乱立で販売競争が激化し、関西ペイントも繰越損に苦しみ、1920年(大正九年)の恐慌で早くも崩壊の危機に瀕した。この窮境を打開したのが常務の織田秋之助氏で、相場変動の激しい顔料から安定的な塗料へ品種の重点を移し、岩井商店依存の販売を自主販売体制へ切り替えて全国に出張所と特約販売店網を築いた。技術面では1926年(大正15年)に硝化綿を用いたラッカーの国産化に成功し、国産ラッカー第一号〈セルバ〉が速乾性と強靱な塗膜を実現して、後年の業界首位を支える企業基盤となった。1930年(昭和五年)には、大恐慌下で各社が無配に追い込まれるなか五分配当を実現して積年の繰越損を解消し、危機を積極経営で乗り越える社風を形づくった。続いて1937年(昭和12年)に岩城塗料製造を合併して総合塗料メーカーへ脱皮し、翌1938年(昭和13年)には奉天に満州関西ペイントを設立して国際的な規模に達した。戦時下では1943年(昭和18年)にオリエンタルペイント・沢村亜鉛を吸収して急膨張したが、1945年(昭和20年)の大空襲で尼崎工場などが被爆し海外事業もすべて失った。戦後は原料欠乏と過度経済力集中排除法の指定による会社分割の危機に直面しながら再建を進め、1948年(昭和23年)に室蘭工場を開設して最初の北海道進出を果たした。 [6][7][8][9][10][11]
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
- [6]第一次大戦後の販売競争と1920年(大正九年)恐慌の危機を、常務の織田秋之助氏が顔料から塗料への重点移行と自主販売体制への転換で打開した
- [7]1926年(大正15年)に硝化綿を用いたラッカーの国産化に成功し、国産ラッカー第一号〈セルバ〉が速乾性と強い塗膜を実現して業界首位の企業基盤となった
- [8]1930年(昭和五年)に大恐慌下で各社が無配となるなか五分配当を実現し積年の繰越損を解消した
- [9]1937年(昭和12年)に岩城塗料製造を合併、翌1938年(昭和13年)に奉天に満州関西ペイントを設立した
- [10]1943年(昭和18年)にオリエンタルペイント・沢村亜鉛を吸収し、1945年(昭和20年)の大空襲で尼崎工場などが被爆し海外事業もすべて喪失した
- [11]戦後は集排法指定による会社分割の危機に直面しながら、1948年(昭和23年)に室蘭工場を開設して最初の北海道進出を果たした
1933年6月に東京工場(現・東京事業所、大田区)を新設して関東進出を果たし、戦後の1949年5月、大阪・東京の両証券取引所に上場した。1950年4月に大阪市東区(現・中央区)に本社事務所を新設。戦後復興期から高度経済成長期にかけて、平塚工場(1960年)、名古屋工場(1961年)、中央研究所(1965年)、鹿沼工場(1971年)と相次いで国内拠点を整備し、自動車・建築・船舶・工業の4分野で総合塗料メーカーとしての地位を固めた。1968年に株式会社KAT、1971年に株式会社カンペハピオ、1994年に久保孝ペイントを連結子会社化するなど、国内グループ各社の集約も行った。 [12][13][14][15][16]
- 関西ペイント 有価証券報告書 第161期(2025年3月期)【沿革】
- [12]1933年6月 東京工場(現・東京事業所、大田区)を新設して関東進出
- [14]1950年4月 大阪市東区(現・中央区)に本社事務所を新設
- [15]平塚工場1960年・名古屋工場1961年・中央研究所1965年・鹿沼工場1971年に整備
- [16]1968年 株式会社KAT・1971年 株式会社カンペハピオ・1994年 久保孝ペイントを連結子会社化
- 関西ペイント 有価証券報告書 第161期(2025年3月期)【沿革】/双日歴史館
- [13]1949年5月 大阪・東京の両証券取引所に上場
- 尼崎市立教育委員会資料「尼崎の歴史」
- [1]関西ペイントの源流は1917年に玉水弘氏が兵庫県尼崎市神崎で創業した「関西ペイント工業所」にある
- 関西ペイント 有価証券報告書 第161期(2025年3月期)【沿革】/双日歴史館
- [2]1918年(大正七年)5月17日に岩井商店の出資を得て資本金50万円の関西ペイントが尼崎市に設立された
- [13]1949年5月 大阪・東京の両証券取引所に上場
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
- [3]玉水弘氏は1917年に西宮市で関西ペイント工業所を起こし、従業員約20人で光明丹・弁柄・堅練ジンクペイントの製造を始めた
- [4]岩井勝次郎氏が玉水弘氏の親友で東京帝国大学助教授の田中芳雄氏の仲介で工業所の事業譲渡を受けた
- [5]設立時の製造品目は亜鉛華・鉛丹など顔料類が多く塗料類は少量で、販売は岩井商店を総代理店として全面依存していた
- [6]第一次大戦後の販売競争と1920年(大正九年)恐慌の危機を、常務の織田秋之助氏が顔料から塗料への重点移行と自主販売体制への転換で打開した
- [7]1926年(大正15年)に硝化綿を用いたラッカーの国産化に成功し、国産ラッカー第一号〈セルバ〉が速乾性と強い塗膜を実現して業界首位の企業基盤となった
- [8]1930年(昭和五年)に大恐慌下で各社が無配となるなか五分配当を実現し積年の繰越損を解消した
- [9]1937年(昭和12年)に岩城塗料製造を合併、翌1938年(昭和13年)に奉天に満州関西ペイントを設立した
- [10]1943年(昭和18年)にオリエンタルペイント・沢村亜鉛を吸収し、1945年(昭和20年)の大空襲で尼崎工場などが被爆し海外事業もすべて喪失した
- [11]戦後は集排法指定による会社分割の危機に直面しながら、1948年(昭和23年)に室蘭工場を開設して最初の北海道進出を果たした
- 関西ペイント 有価証券報告書 第161期(2025年3月期)【沿革】
- [12]1933年6月 東京工場(現・東京事業所、大田区)を新設して関東進出
- [14]1950年4月 大阪市東区(現・中央区)に本社事務所を新設
- [15]平塚工場1960年・名古屋工場1961年・中央研究所1965年・鹿沼工場1971年に整備
- [16]1968年 株式会社KAT・1971年 株式会社カンペハピオ・1994年 久保孝ペイントを連結子会社化
岩井系オーナー社長から生え抜き社長への世代交代
設立から戦中までの社長は、出資元の岩井商店から送り込まれる構図が続いた。初代の安野譲氏(在任1918〜1922年)は岩井商店常務との兼務で経営を統括し、米田靏吉氏、織田秋之助氏を経て、1934年には岩井商店の総帥である岩井勝次郎氏が、翌1935年からは岩井雄二郎氏が社長に就いた。技術を担う専務取締役兼技師長の玉水弘氏と、資本・経営を握る岩井系社長という二頭体制が、創業から四半世紀の関西ペイントの統治形態だった。総合商社の信用と流通網を借りて立ち上げた塗料メーカーが、資本の出し手をそのまま経営トップに据えるのは、当時の商社系製造業に共通する形である。
戦後は出資者派遣型の経営から、塗料事業を内側から知る生え抜き社長への移行が進んだ。山中鹿太郎氏、沢田豊氏を経て、佐々木善七氏は1955年から1966年まで11年の長期にわたり社長を務め、1949年の上場後に続いた平塚・名古屋・鹿沼の工場新設と、自動車・建築・船舶・工業の4分野体制の整備を主導した。以降は児玉正雄氏、小谷憲孝氏、坂東依彦氏、桑田俊晴氏と数年単位で交代する体制に入り、創業期の商社支配から、塗料の製造・営業をたたき上げた経営陣が事業を運営する会社へと、社長の出自が入れ替わった。商社の資本で生まれた塗料メーカーが、事業の現場を担う人材を経営トップへ登用する組織へと自立していく過程にあたる。