創業から117年。3回の決断
| 期 | 区分 | 売上高 | 利益※ | 利益率 |
|---|---|---|---|---|
| 1950/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1951/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1952/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1953/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1954/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1955/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1956/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 33億円 | 1億円 | 3.6% |
| 1957/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 46億円 | 1億円 | 3.0% |
| 1958/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 52億円 | 1億円 | 3.4% |
| 1959/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 54億円 | 1億円 | 2.9% |
| 1960/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 77億円 | 2億円 | 2.8% |
| 1961/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 110億円 | 3億円 | 2.8% |
| 1962/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 158億円 | 4億円 | 3.1% |
| 1963/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 185億円 | 6億円 | 3.2% |
| 1964/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 230億円 | 6億円 | 2.6% |
| 1965/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 242億円 | 6億円 | 2.4% |
| 1966/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 247億円 | 5億円 | 2.0% |
| 1967/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 282億円 | 4億円 | 1.4% |
| 1968/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 318億円 | 5億円 | 1.5% |
| 1969/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 363億円 | 2億円 | 0.5% |
| 1970/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 452億円 | 6億円 | 1.3% |
| 1971/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 547億円 | 9億円 | 1.6% |
| 1972/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 582億円 | 8億円 | 1.3% |
| 1973/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 686億円 | 6億円 | 0.8% |
| 1974/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 1,118億円 | 26億円 | 2.3% |
| 1975/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 1,076億円 | 11億円 | 1.0% |
| 1976/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 1,020億円 | 5億円 | 0.4% |
| 1977/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 1,231億円 | 5億円 | 0.4% |
| 1978/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 1,375億円 | 20億円 | 1.4% |
| 1979/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 1,359億円 | 18億円 | 1.3% |
| 1980/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 1,714億円 | 20億円 | 1.1% |
| 1981/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 1,899億円 | 29億円 | 1.5% |
| 1982/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 1,843億円 | 14億円 | 0.7% |
| 1983/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 1,769億円 | 30億円 | 1.6% |
| 1984/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 1,829億円 | 21億円 | 1.1% |
| 1985/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 1,998億円 | 14億円 | 0.7% |
| 1986/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1987/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1988/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1989/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1990/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1991/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1992/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 3,128億円 | 43億円 | 1.3% |
| 1993/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 2,848億円 | 33億円 | 1.1% |
| 1994/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 2,720億円 | 30億円 | 1.1% |
| 1995/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 2,816億円 | 22億円 | 0.7% |
| 1996/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 2,870億円 | 13億円 | 0.4% |
| 1997/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 2,917億円 | 32億円 | 1.0% |
| 1998/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 2,851億円 | 26億円 | 0.9% |
| 1999/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 2,779億円 | 14億円 | 0.5% |
| 2000/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 3,544億円 | 60億円 | 1.6% |
| 2001/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 3,812億円 | 37億円 | 0.9% |
| 2002/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 3,712億円 | 5億円 | 0.1% |
| 2003/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 3,643億円 | -28億円 | -0.8% |
| 2004/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 3,750億円 | 38億円 | 1.0% |
| 2005/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 3,911億円 | 109億円 | 2.7% |
| 2006/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 4,021億円 | 130億円 | 3.2% |
| 2007/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 4,129億円 | 94億円 | 2.2% |
| 2008/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 4,353億円 | 56億円 | 1.2% |
| 2009/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 4,466億円 | 78億円 | 1.7% |
| 2010/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 4,573億円 | 169億円 | 3.6% |
| 2011/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 4,748億円 | 102億円 | 2.1% |
| 2012/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 4,926億円 | 71億円 | 1.4% |
| 2013/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 5,026億円 | 129億円 | 2.5% |
| 2014/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 5,231億円 | 37億円 | 0.7% |
| 2015/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 5,226億円 | 57億円 | 1.0% |
| 2016/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 5,325億円 | 98億円 | 1.8% |
| 2017/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 5,454億円 | 138億円 | 2.5% |
| 2018/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 6,057億円 | 166億円 | 2.7% |
| 2019/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 6,531億円 | 171億円 | 2.6% |
| 2020/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 6,837億円 | 277億円 | 4.0% |
| 2021/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 6,807億円 | 285億円 | 4.1% |
| 2022/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 7,469億円 | 281億円 | 3.7% |
| 2023/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 8,460億円 | 204億円 | 2.4% |
| 2024/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 9,007億円 | 330億円 | 3.6% |
井上貞治郎氏の起業は、綿密な市場分析に基づくものではなく、10代から20代にかけて職を転々とし、大陸放浪で蓄財にも家族にも恵まれなかった人物が「自分で稼ぐしかない」という切迫感から生まれた。事業の選択も「パン屋か紙屋か」という二択から始まり、偶然目にしたドイツ製の梱包材に商機を見出すという経緯であった。だが、この偶発性の連鎖こそが、井上貞治郎氏を日本初の段ボール製造者へと導いた。失うものがない状態が大胆な意思決定を可能にし、逆境への耐性が創業初期の赤字を乗り越える原動力となった点は、創業者の資質を考えるうえで示唆に富む。
レンゴーの創業者である井上貞治郎氏は明治14年に姫路の農家に生まれた。丁稚奉公を経て生家を離れたものの、商家・中華料理屋・石炭屋と職を転々とし、生活基盤は安定しなかった。石炭屋では一時的に収入を得て「遊ぶ金」も工面できたというが長続きはせず、10代から20代にかけて定職に就くことができなかった。20代前半で「お雪」と結婚したものの生活は改善せず、貧困から脱却するために妻を実家に帰し、一切の縁故がない中で単身、中国大陸へ渡る決断を下した。
大陸での4年間は雑用を請け負う日々であり、宿賃すら払えない窮状が続いた。真珠貝の採集(10人中3人が命を落とすとされた仕事)に従事する寸前まで追い込まれたが、偶然にも宿の隣室にいた阪大佐太郎なる人物が日本人女性を人身売買する場面を目撃し、その弱みを握ることで帰国の船賃を確保した。井上貞治郎氏は「大阪に帰れば家も金もある」と偽り、悪党と共に日本への帰途についた。この間、日本に残した妻の「お雪」は結核により亡くなっていた。
蓄財に失敗し、家族をも失った青年期の経験は、井上貞治郎氏に「金無くして人生なし」という信念を植え付けた。大陸での放浪で得たものは何もなく、帰国の費用すら他人の不正に乗じて工面したという事実は、同氏の後半生における事業への執着の原点となった。戦後、井上貞治郎氏がレンゴーの創業者として著名になると、その波瀾万丈の半生はテレビドラマ『流転』として映像化され、高視聴率を記録した。
1910年4月、阪大佐太郎から手渡された手切金の10銭を握りしめ、井上貞治郎氏は桜の咲く上野公園にて起業を決断した。このエピソードに由来して、レンゴーの創立記念日は「井上貞治郎氏が起業を決意した日」とされ、1910年4月と定められている。無一文からの出発であったが、大陸放浪で培われた「金を稼がねばならない」という切迫感が、この決断を支えた。
事業内容については「メリケン粉(パン屋)と紙屋」の2つで迷った末に、紙で起業することを選んだ。決め手となったのは、偶然東京で目にした「ボール紙をシワ寄せした電球梱包紙」であった。ドイツ製のこの梱包材に商機を見出し、国産品として製造・販売する構想を固めた。井上貞治郎氏はこの梱包材を「段ボール」と命名し、以後この名称が日本における包装材の代名詞として定着していくことになる。
起業の背景には、職を転々とした経験から「自分で事業を興す以外に道はない」という認識があった。雇われる立場では生活が安定しないことを身をもって知った井上貞治郎氏にとって、起業は消去法的な選択でもあった。ただし、段ボールという未知の素材に賭けた判断には、大陸での放浪を通じて養われた度胸と、失うものがない境遇ゆえの大胆さが作用していた。
井上貞治郎氏は1910年8月に「三盛社」を共同で設立し、段ボール製造機械を用いた梱包材の生産を開始した。ボール紙にシワをつけた紙自体はドイツ製品が先行していたが、「段ボール」という日本語名称を付けて国産化に踏み切ったのは井上貞治郎氏が初めてであった。この命名は製品の普及において重要な役割を果たし、レンゴーは日本における「段ボールの創始者」としての地位を確立した。
創業直後は経営が軌道に乗らず、赤字が続いたことで共同設立者が次々と離脱し、最後は井上貞治郎氏だけが残された。それでも事業を諦めず、島田洋紙店からの借入でドイツ製の製造機械を輸入して量産体制を構築した。この粘り強さは、大陸放浪で培われた逆境への耐性と、「金を稼ぐ」という一念によるものであった。
段ボールの需要が本格的に拡大する契機となったのは、第一次世界大戦期の好景気であった。特に東京電気(現・東芝)がウラジオストック経由で電球の海外輸出を本格化した際、梱包材として段ボールが採用されたことが大きかった。この受注により段ボールは輸出産業を支える必需品としての地位を獲得し、井上貞治郎氏の事業は安定的な成長軌道に乗った。
井上貞治郎氏の起業は、綿密な市場分析に基づくものではなく、10代から20代にかけて職を転々とし、大陸放浪で蓄財にも家族にも恵まれなかった人物が「自分で稼ぐしかない」という切迫感から生まれた。事業の選択も「パン屋か紙屋か」という二択から始まり、偶然目にしたドイツ製の梱包材に商機を見出すという経緯であった。だが、この偶発性の連鎖こそが、井上貞治郎氏を日本初の段ボール製造者へと導いた。失うものがない状態が大胆な意思決定を可能にし、逆境への耐性が創業初期の赤字を乗り越える原動力となった点は、創業者の資質を考えるうえで示唆に富む。
わたしは足かけ4年、あてもなく放浪し続けた大陸をあとに、博多丸の特別3等船室におさまって、いよいよ内地への帰途についたのであった。法網をくぐって生きている悪党の情に縋って、内地へ帰る私の心の中は、反省と悔恨に満たされ、今更ながら「金無くして人生なし」という私なりの人生哲学を強いられるようになったのである。
それにしても、鮮・満・中、長年にわたる私の流浪生活は、思えば、すべて恥ずかしいことの連続だった。無謀というより、無茶苦茶であった。危ない橋渡りばかりで、我ながら慄然とする。おまけに、この異郷の生活で得たものは何一つなく、ただいたずらに歳をとったというにすぎない。今こうして尾羽打ち枯らして日本へ帰っていくというのも、実を申せば自分の金、自分の力ではない。相手が悪党と知りつつ、その不純の金を借りての帰国なのだ。情けないなんとも言いようがないではないか。金がなければこそ、婦女誘拐の男をも、恩人としなければならないのである。
「ああ、金が欲しい。それも不浄な金でなく、真面目に儲けた美しい金が欲しい・・・」
金がなくては、人間一匹、どうすることもできぬ。金を離れて人生なしと、船の上での思いはいつもそこへ落ち着いた。
段ボールはドイツ製品の模倣から始まったが、「段ボール」という日本語の命名によって国内市場に固有のカテゴリーが生まれた。技術的な差別化ではなく、命名と国産化による価格競争力が事業の基盤となった点は、後発メーカーの参入戦略として構造的に興味深い。加えて、第一次世界大戦期に東京電気の電球輸出が急増し、梱包材需要が拡大するという外部環境の変化が事業を軌道に乗せた。国産化の判断と好機の到来が重なった構図は、創業期における計画と偶発の関係を示している。
1910年、起業を決意した井上貞治郎氏は梱包材の製造機械を改造し、ボール紙にシワをつけた梱包材を「段ボール」と命名して国内市場に売り出した。ボール紙を波状に加工した梱包材自体は、すでにドイツ製の製品が国内で流通しており、電球の包装などに使用されていた。つまり製品としては新規ではなかったが、日本語で「段ボール」と名付けて国産化に踏み切った点に井上貞治郎氏の独自性があった。ドイツからの輸入品に頼るのではなく、自ら製造・販売することで価格面での競争力を確保しようとした。
井上貞治郎氏が段ボール事業に着目した背景には、明治末期から大正期にかけて工業化が進展する日本において、製品の梱包需要が拡大しつつあったことがある。電球・タバコ・瓶類など壊れやすい工業製品の出荷には緩衝材としての包装が不可欠であり、ドイツ製梱包材の流通はその需要の存在を裏付けていた。しかし輸入品は高価であり、国産の段ボールが供給されれば価格面で優位に立てる可能性があった。井上貞治郎氏は「紙で起業する」という意思決定の延長線上で、梱包材としての段ボール製造を事業の中核に据えた。
1910年8月、井上貞治郎氏は共同出資の形態で「三盛社」を設立し、段ボール製造機械を用いて電球やタバコの梱包材の生産を開始した。しかし創業直後から経営は軌道に乗らず、赤字が続いたことで共同設立者が次々と離脱し、最終的には井上貞治郎氏だけが残される事態となった。それでも事業を放棄することなく、島田洋紙店から借り入れた資金でドイツ製の製造機械を輸入し、量産体制の構築に踏み切った。この判断により生産効率が大幅に改善し、段ボール事業はようやく軌道に乗り始めた。
段ボール事業が安定的に成長する転機となったのは、大正時代に勃発した第一次世界大戦による好景気であった。特に東京電気(現・東芝)からの受注が事業基盤を固めた。1914年頃から東京電気はウラジオストック経由で電球の海外輸出を本格化し、その梱包材として段ボールを大量に必要とした。井上貞治郎氏はこの需要を取り込み、電球輸出の拡大に伴い段ボールは輸出産業を支える必需品としての地位を確立した。のちに東京電気が段ボールメーカーへの資本参加を検討する布石ともなった。
段ボールはドイツ製品の模倣から始まったが、「段ボール」という日本語の命名によって国内市場に固有のカテゴリーが生まれた。技術的な差別化ではなく、命名と国産化による価格競争力が事業の基盤となった点は、後発メーカーの参入戦略として構造的に興味深い。加えて、第一次世界大戦期に東京電気の電球輸出が急増し、梱包材需要が拡大するという外部環境の変化が事業を軌道に乗せた。国産化の判断と好機の到来が重なった構図は、創業期における計画と偶発の関係を示している。
2006年の3社提携は、王子製紙による北越製紙へのTOBという外圧を契機に成立した。株式持ち合いと経営統合の模索を同時に打ち出したが、防衛目的の提携と前向きな統合では意思決定の温度差が生じやすい。外圧が去れば統合の推進力も失われるという構図はM&Aにおいて典型的であり、リーマンショックという外部環境の変化がその構造的弱さを顕在化させた。結果としてレンゴーは単独路線を選択し、のちのトライウォール買収に代表される独自の海外展開戦略へと舵を切ることになる。
2006年、製紙業界では買収を通じた業界再編の可能性が浮上していた。同年7月に業界最大手の王子製紙が中堅の北越製紙に対してTOBを宣言し、規模の拡大による競争力強化を目指す動きが表面化した。この敵対的TOBは最終的に不成立に終わったものの、製紙業界における力学が変化しつつあることを市場に印象づけた。段ボール原紙を主力とするレンゴーにとっても、単独での事業継続が将来的に困難になるリスクが現実味を帯びる局面であった。
レンゴーは1999年に摂津板紙(セッツ)を合併した際に住友商事との関係を深めており、2000年には住友商事出身の大坪清氏を社長に迎えていた。こうした資本・人材面での結びつきを背景に、レンゴーは住友商事を仲介役として日本製紙との戦略的提携を模索し始めた。日本製紙は紙・パルプの大手であり、レンゴーの段ボール原紙事業との補完関係が見込まれた。業界再編の波に対して、3社が株式を持ち合う形での防衛的連携という構図が形成されていった。
2006年11月、レンゴー・日本製紙・住友商事の3社は戦略提携の締結を発表した。3社間で株式を持ち合うことにより資本面での連携を強化し、将来的にはレンゴーと日本製紙の経営統合の可能性を視野に入れた提携であった。買収防衛策としての側面に加え、原紙の調達・生産における規模の経済を追求する狙いがあった。2008年には一部報道で「レンゴーと日本製紙の経営統合」が報じられるなど、業界内外で提携の行方に注目が集まった。
しかし提携後の連携は期待どおりには進まなかった。両社の事業構造や企業文化の違いから具体的な統合施策の合意形成が難航し、2008年のリーマンショックによる景気悪化が追い打ちをかけた。需要の急減により両社とも足元の業績対応に追われ、統合に向けた議論を進める余裕を失った。2009年、レンゴーと日本製紙は戦略提携の解消を決定し、レンゴーは単独企業として段ボール市場の成熟・飽和に向き合う方針へと転換した。
2006年の3社提携は、王子製紙による北越製紙へのTOBという外圧を契機に成立した。株式持ち合いと経営統合の模索を同時に打ち出したが、防衛目的の提携と前向きな統合では意思決定の温度差が生じやすい。外圧が去れば統合の推進力も失われるという構図はM&Aにおいて典型的であり、リーマンショックという外部環境の変化がその構造的弱さを顕在化させた。結果としてレンゴーは単独路線を選択し、のちのトライウォール買収に代表される独自の海外展開戦略へと舵を切ることになる。