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歴史概要 — 現在に至るあゆみ 主要な意思決定と帰結のまとめ

創業地東京都赤坂区
創業年1937
上場年1972
創業者広瀬銈三
現代表鎌形伸
従業員数4,878

独立系・個人創業戦後復興期の起業1937年8月、広瀬銈三が東京・赤坂に広瀬商会を創立し、電気絶縁物と陸海軍向け通信機部品の製造を始めた。戦時下の1945年、物資統制と空襲を避けて神奈川の湯河原に疎開工場を設けたが、この拠点が転機になる。終戦後の1948年、空襲を逃れて残った湯河原工場で丸形・角形・同軸コネクタの生産を始め、通信部品の零細メーカーが主力をコネクタに移した。1963年に社名をヒロセ電機へ改め、コネクタ専業メーカーとして歩み出した。

専業集中・一点突破海外展開・グローバル化創業期に主力をコネクタに移した後、ヒロセ電機はその一品に経営を集中させ、国内外へ広げる道を選んだ。1972年に東証二部、1984年に一部へ上場して資金基盤を固め、1980年の米国進出を皮切りに韓国・西独・英国・台湾・中国・オランダと、30年で9カ国へ拠点を配した。製品を多角化せず、コネクタという単一テーマのまま世界の電子機器サプライチェーンへ食い込む。専業に絞る代わりに地理で広げる構えが、この時期に定着した。

ヒロセ電機:売上高の内訳と営業利益率(PL 分解 × 営業利益率)
売上高(億円)営業利益(億円)販管費(億円)売上原価(億円)営業利益率(%)
歴代社長
FY01
FY03
FY05
FY07
FY09
FY11
FY13
FY15
FY17
FY19
FY21
FY23
FY25
FY27
FY29
ヒロセ電機:投資CF(M&A・設備投資ほか/事業施策と紐付き)
投資CF(億円)
福島県郡山市に工場を新設し郡山ヒロセ電機㈱を移転2024
本店を神奈川県横浜市に移転し横浜センターを本社に改称2020
新総合拠点・横浜センターを新設2011
ヒロセコリア㈱の株式25%を追加取得(計75%)し連結子会社化2010

決断の理由 — クリティカルな歴史の転換点を読み解く

Q なぜ1948年に、戦時疎開で設けた湯河原工場がコネクタ専業への転換を呼び込んだのか
A 工場を地方へ移したのは空襲と物資統制を避けるためだったが、結果として湯河原工場は戦火を免れ、終戦後すぐ稼働できる数少ない生産設備として残った。ラジオ・テレビ受信機が普及する戦後の電子機器産業では、機器どうしをつなぐコネクタが標準部品として需要を伸ばし、残った設備を活かす先になった。1937年に広瀬銈三氏が東京・赤坂で創業した広瀬商会は電気絶縁物と陸海軍向け通信機部品を作る零細メーカーだったが、1948年10月に湯河原工場で丸形・角形・同軸コネクタの生産を始め、主力をコネクタへ移した。1963年の社名変更でヒロセ電機を名乗り、コネクタ専業メーカーとして歩み出した
Q なぜ1980年代以降、製品を多角化せず、コネクタ専業のまま海外へ広げる道を選んだのか
A コネクタはほぼすべての電子機器に組み込まれる標準部品であり、品種を増やすより一品の設計・量産を深掘りするほど、顧客ごとの細かな要求に応える設計力と歩留まりで差がつく。多角化して経営資源を薄めるより、専業のまま世界中の電子機器メーカーへ供給網を伸ばすほうが、単一テーマの強みを増幅できた。ヒロセ電機は1972年に東証二部、1984年に一部へ上場して資金基盤を固め、1980年の米国進出を皮切りに韓国・西独・英国・台湾・中国・オランダなどへ拠点を配し、30年で9カ国に生産・販売網を広げた。製品で広げず地理で広げる構えが、この時期に定着した
Q なぜ2025年に、87年続いた創業家・生え抜き継承を破ってNTTデータ出身の鎌形伸氏を社長に据えたのか
A ヒロセ電機の高収益はスマートフォン向け多極コネクタに集中し、2020年代前半には営業利益率が25%を超えたが、それは業績がスマホ市場の成長サイクルに縛られた姿でもあった。次の柱として車載・産業機器・データセンター向けへ事業を分散する「G-WING」を掲げるなか、技術の延長で勝ってきた領域を守る発想ではなく、IT・経営管理の畑から事業構造そのものを組み替える経営者を選んだ。1990年にNTTデータへ入社し2002年にヒロセ電機へ移った鎌形伸氏は、執行役員・専務取締役を経て、2025年6月に代表取締役社長へ就いた。創業家・生え抜きの技術系が継いできた社長人事の伝統が、ここで初めて外部出身者へ開かれ、石井和徳前社長は代表権のない会長に退いた

歴史詳細 - 3つの時代区分で読み解く

1937年〜1973年 戦前創業の広瀬商会から戦後コネクタ専業メーカーへの転身

売上高と利益率の推移
売上高(億円

1937年──広瀬銈三氏による創業

1937年8月、東京市赤坂区榎坂町において、初代社長・広瀬銈三氏が広瀬商会を創立した[2][3]。設立目的は「電気絶縁物並びに通信機部品の製造販売」で[1]、戦前の通信機器産業(陸軍・海軍向け通信機部品、民間放送機器部品)の中核部品としての電気絶縁物・通信機部品が出発点である。日中戦争開始直後の時期で、軍需と民需の境界が曖昧だった戦前期の通信機部品市場における新規参入が、ヒロセ電機の創業の出発点となった。広瀬家による同族経営の起点でもある。

1945年4月、神奈川県足柄下郡湯河原町に湯河原工場を設置した。これは初の自社工場で[4]、戦時下の物資統制と空襲被害を避けるための地方分散型の生産拠点配置である。終戦後の1948年6月、株式会社組織に改め社名を株式会社広瀬商会製作所と称し、本社を東京都大田区に設置した[5]。創業11年で株式会社化を経て、戦後の電子機器産業(ラジオ受信機・テレビ受信機・通信機器)の急成長期に対応する組織形態を整えた。同年10月には湯河原工場で丸形・角形・同軸コネクタの生産を開始、戦後のコネクタ事業の出発点となった[6]

コネクタ専業メーカーへの転身

戦後の高度成長期にあたる1953年2月、本社を東京都品川区に移転[7]、1954年7月には東京都大田区に下丸子工場を新設して生産能力を増強した[8]。1963年8月、社名をヒロセ電機株式会社に改称し、現社名が確立された[9]。創業26年で「広瀬商会」から「ヒロセ電機」への商号統一を完了し、戦前期の創業社名からコネクタ専業メーカーとしてのブランドを整えた。

1966年12月の東京都品川区大崎工場新設[10]、1967年6月の横浜市港北区菊名工場新設[11]を経て、1970年代の半導体・電子機器産業の成長期に重ねて、コネクタ専業メーカーとしての国内生産体制を整えた。1972年12月、東京証券取引所市場第二部に上場し[12]、創業35年で公開市場への移行を完了した。

防衛庁認定とボタン電話用コネクタによる飛躍

創業後はまず通信機器の電源用に使う丸形コネクタの開発に成功し、続いて機器内部用の角形コネクタ、高周波用の同軸コネクタへと製品系列を広げた。1959年(昭和34年)には同社のコネクタが防衛庁および米軍規格の認定を受け[13]、1963年(昭和38年)に独自開発した「ミニコン1300シリーズ」が欧米製コネクタと比べて遜色ないと評価され[14]、専業メーカーとしての技術的地位を固めた。同シリーズは1965年(昭和40年)に日本電信電話公社のボタン電話用コネクタへ採用されて量産体制が整い[15]、1966年(昭和41年)からは公社認定メーカー3社の一角としてボタン電話専用コネクタの納入を開始、これを契機に売上は急増し、1967年5月期には年間売上高10億円を突破した[16]

1967年(昭和42年)には電子計算機需要をにらんで国産初のプリント基板用コネクタを自社技術で開発し、これが1969年(昭和44年)の卓上計算機ブームに合致して業績を飛躍させた[17]。1968年(昭和43年)にはメキシコ五輪向けの通信衛星インテルサット3号計画に同社の同軸コネクタ(HRM)が大量採用され[18]、製品の優秀性が国際的に示された。同年8月には米国チェリー社とアジア地域を含む国内販売代理店契約を結び、コネクタ以外の製品としてマイクロスイッチの販売も始めた[19]。こうして通信・計測から計算機まで用途を広げ、コネクタ専業メーカーとしての事業基盤を確立した。

1971年5月(昭和46年)、創業者で初代社長の広瀬銈三が死去し[20]、創業家による同族経営は次代へ引き継がれた。1972年12月の東証二部上場の前後で、同社は産業用コネクタを主力とし、売上の大半を直接受注によって日本電信電話公社・日本電気・松下通信工業・三菱電機・日立製作所など大手電機向けに納めていた[21]。コネクタ業界での販売高は第2位・シェア15.9%で、上位5社のうち4社が外資との合弁や技術提携であるなか、同社は唯一の純国産メーカーであった[22]。下丸子・菊名・大崎・湯河原の4工場を構え、従業員は1972年5月期末で628人を数えた[23]

1974年〜2010年 海外展開と東証一部昇格──コネクタ専業の世界化

売上高と利益率の推移
売上高(億円

国内生産体制の拡張と海外進出

1974年3月、岩手県宮古市に東北ヒロセ電機株式会社を設立し、多極コネクタ・絶縁物・金型製造を目的とした東北生産拠点を設けた[24]。1982年6月には福島県郡山市に郡山ヒロセ電機株式会社を設立、多極コネクタ製造の生産体制を拡張した[25]。1980年代以降の主力工場は東北地方に分散配置され、東北が国内コネクタ生産の中核地域となった。

1980年9月、米国に現地法人ヒロセエレクトリック(USA)INCを設立し、海外進出を開始した[26]。1985年10月には韓国大徳産業との合弁でヒロセコリア株式会社を設立[27]、1988年2月の西独ヒロセエレクトリックGmbH、同年4月の英国ヒロセエレクトリックUK LTD[28]、1989年8月のマレーシア、1991年3月の台湾、1995年12月のインドネシア、1999年11月の香港、2000年10月の中国(東莞)への進出と、海外拠点配置を順次拡張した[29]。1984年11月の東京証券取引所市場第一部への昇格は、本則市場昇格として創業47年の節目となった[30]

産業用コネクタ国内首位と「待ち伏せ製品」戦略

1990年代半ばには、産業用コネクタを主力とする事業構造が成長軌道に乗った。1996年9月時点で当時の酒井秀樹社長は、売上高が606億円・前年比17%増に達したと語り[31]、好調の要因として携帯電話・PHS・カーナビ・基地局といった移動体通信向け、パソコンおよび周辺機器向け、半導体製造装置向け、さらにパチンコのプリペイドカードリーダー向けの製品群が伸びたことを挙げた[32]。とりわけ世界的なブームとなった移動体通信関連の需要拡大が業績を押し上げ、産業用コネクタの分野で同社は国内シェア首位の位置を占めた[33]

成長を支えたのは、需要が顕在化する前に自社開発のトレンド製品を用意しておく「待ち伏せ製品」と、つかんだ情報を分析してセットメーカーへ先回りで売り込む提案型営業であった[34]。新製品は全体の約3割・1万点超に及び、モデルチェンジの速いパソコン向けでは1~2週間という短納期への対応力が問われた[35]。これに応えるため同社はファブレス経営に徹し、量産は約200社の協力工場へ委ねる体制をとった[36]。海外でも米国・英国・ドイツ・マレーシア・台湾に現地法人を構え、セットメーカーの海外展開に追随する形でグローバル化を進めた[37]

中国・東南アジア・欧州・北米への展開

2000年10月、中国に広瀬電機(東莞)有限公司を設立し、中国生産拠点を設けた[38]。2003年4月には中国上海に博瀬電機貿易(上海)有限公司を設立して中国販売子会社の体制を整え[39]、2003年10月のオランダ・ヒロセエレクトリックヨーロッパB.V.設立(欧州統括会社)[40]、2007年7月の中国蘇州工場(広瀬電機(蘇州)有限公司)の設立を経て[41]、グローバル供給体制を整えた。2010年7月にはシンガポールにヒロセエレクトリックシンガポールPtd Ltdを設立、東南アジア統括拠点を設けた[42]

2010年12月、ヒロセコリア株式会社の株式25%を追加取得し(計75%)連結子会社化[43]、2012年11月にさらに約22%を追加取得(計約97%)し、2015年1月には約3%を追加取得して100%子会社化を完了した[44]。創業期からの合弁関係を経て、韓国子会社の完全子会社化までを5年間で完了した。2011年9月には新総合拠点・横浜センターを新設、本社機能の集約と生産技術センターを統合した[45]

2011年〜2025年 スマートフォン依存からの分散と外部社長就任

売上高と利益率の推移
売上高(億円

FY11-FY18──スマートフォン向けコネクタの拡大期

FY11(2012年3月期)連結売上高948億円・純利益128億円、FY12(2013年3月期)売上高959億円・純利益135億円、FY13(2014年3月期)売上高1,250億円・純利益224億円、FY14(2015年3月期)売上高1,257億円・営業利益326億円・純利益229億円と、スマートフォン市場の急成長局面(2010年代前半)でヒロセ電機の業績は飛躍的に拡大した。FY14時点で同軸コネクタ事業の売上162億円・営業利益42億円、多極コネクタ事業の売上1,014億円・営業利益282億円という構造で、多極コネクタ事業が業績の中核を担った。

FY15-FY18は売上高1,200億円台で安定し、営業利益200〜300億円台の高水準を維持した。スマートフォン1台あたりの基板実装密度が上昇するにつれ、コネクタ需要は構造的に拡大し、ヒロセ電機は世界のスマートフォン部品サプライチェーンにおける主要プレイヤーとしての位置を占めた。

FY19-FY22──多極コネクタ事業の収益拡大とコロナ後の高水準維持

FY19(2020年3月期)売上高1,218億円・営業利益204億円・純利益153億円、FY20(2021年3月期)売上高1,335億円・営業利益279億円・純利益199億円、FY21(2022年3月期)売上高1,637億円・営業利益408億円・純利益314億円、FY22(2023年3月期)売上高1,832億円・営業利益468億円・純利益346億円と、コロナ後の電子機器需要拡大局面で業績は過去最高水準まで上昇した。FY22の営業利益率は25.5%と異例の高水準で、コネクタ専業メーカーとしての高い収益性が顕在化した。

2020年7月、本店を神奈川県横浜市に移転し横浜センターを本社に改称した[46]。創業以来の東京区部本店から横浜への移転は、生産・研究開発拠点との一体運営を狙った組織再編である。2022年4月の東証市場区分見直しでプライム市場へ移行し[47]、上場企業としての制度的位置づけを完了した。

FY24──スマートフォン依存からの分散と外部社長就任

FY23(2024年3月期)売上高1,655億円・営業利益340億円・純利益264億円とFY22のピークから一服したが、FY24(2025年3月期)売上高1,894億円・営業利益427億円・純利益330億円と再び高水準まで回復した。同軸コネクタ事業の売上137億円・営業利益34億円、多極コネクタ事業の売上1,708億円・営業利益394億円という構造で、多極コネクタ事業が業績の中核を担う構造を維持している。

2024年6月に専務取締役へ就任していた鎌形伸氏(旧NTTデータ出身)[49]が、2025年6月24日に代表取締役社長へ昇格した[48]。ヒロセ電機の創業以来、創業家・生え抜きによる継承が中軸であった社長交代の歴史において、外部招聘社長の就任は稀有な事例である。石井和徳前社長(在任FY11-FY23)は取締役会長として継続関与しており[50]、外部視点とヒロセ電機の事業経験を組み合わせた経営体制への移行が進む。中期経営計画「Hirose 2027」の下では、スマートフォン依存の収益構造から、車載電動化・産業機器・データセンター向けへの分散戦略を進めている[51]

無借金経営と自己資本比率80%超の財務基盤のもと[55]、潤沢な現預金を成長投資と株主還元(増配・自己株式取得)の両軸に活用しつつ、創業88年(2025年時点)の伝統[52]と外部視点を組み合わせた新体制での持続的成長が焦点となる局面である。2024年3月の岩手県盛岡市・東北アドバンスト・テクノロジーセンター設立[53]、2024年6月の郡山ヒロセ電機新工場移転、2024年12月のヒロセコリア精密センター新棟設立など、生産・研究開発拠点の刷新投資も継続している[54]

出典

有価証券報告書(FY22 / ) 2023年03月

API for AI Agents — 静的アセットのJSONで取得可能。API実行の認証不要

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