1925年〜 四方合名の改組から合併を重ね、酒造界第一位に立つまで
- 1925年 寳酒造を設立
- 1929年 大正製酒を吸収合併、王子工場(1964年5月松戸工場に統合)に
- 1947年 大黒葡萄酒より白河工場(2003年3月廃止)を買収
- 1947年 日本酒精を吸収合併
- 1947年 木崎・楠・防府の3工場を継承
- 1949年 東京、大阪、名古屋の各証券取引所開設に伴い株式上場
- 1949年 京都証券取引所に株式を上場
四方合名会社の吸収合併と総合酒類事業者としての出発
寳酒造の源流は、京都伏見で天保13年(1842年)から酒造業を営んできた四方家[1]にさかのぼる。四方卯之助氏は1905年(明治38年)に四方合名会社を設立[2]し、味淋・白酒・焼酎の三品目で創業した。1897年には「寳」の商標をみりんで登録[3]している。1916年(大正5年)には四国・宇和島から後の会長・大宮庫吉氏を迎えて新式焼酎の製造を始め[4]、伏見工場を拡張した。四方合名時代の生産石数は焼酎8万石・味淋2万石・本直し5千石・白酒3百石[5]。焼酎の壜詰品は同社が創始し、「タカラ」といえば焼酎という定評[6]を全国で得ていた。1925年9月、四方合名会社は株式会社組織へ改組[7]され、資本金55万円[8]の寳酒造株式会社が京都市伏見区竹中町に設立された。定款が掲げた事業目的は「酒類、酒精、清涼飲料水、医薬用品、調味料等の製造および販売[9]」で、設立と同時に四方合名会社を吸収合併し、伏見と木崎の二工場体制[10]で操業を始めた。
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
- [1]寳酒造の源流は京都伏見で天保13年(1842年)来酒造業を家業とした四方家
- [2]四方卯之助 1905年(明治38年)四方合名会社を設立、味淋・白酒・焼酎を製造
- [4]1916年(大正5年)四国・宇和島より後の会長・大宮庫吉を迎え新式焼酎の製造を開始、伏見工場を拡張
- [8]設立時の資本金 55万円
- 宝グループレポート2025(統合報告書)
- [3]1897年 「寳」の商標をみりんで登録
- [5]四方合名時代の生産石数 焼酎8万石・味淋2万石・本直し5千石・白酒3百石
- [6]焼酎の壜詰品は宝酒造が創始し「タカラ」といえば焼酎という定評を全国で獲得
- 宝ホールディングス 有価証券報告書【沿革】
- [7]1925年9月 四方合名会社を株式会社組織へ改組し京都市伏見区竹中町に寳酒造株式会社を設立
- [9]創業時の事業目的「酒類、酒精、清涼飲料水、医薬用品、調味料等の製造および販売」
- [10]設立と同時に四方合名会社を吸収合併し伏見・木崎の二工場体制で操業開始
株式会社となった寳酒造は合併で生産拠点を広げ、1926年10月に千葉県市川の帝国酒造[11]、1929年6月に東京王子の大正製酒、同年9月に広島県鞆の鞆保命酒屋、1939年1月に山口県防府の日本酒造を合併し、資本金を664万8千円へ[12]積み増した。大正製酒から引き継いだ王子工場は、1964年5月に松戸工場へ統合[13]されている。新式焼酎が勃興した大正年間には全国に業者が乱立して出血競争となり、寳酒造が主唱して全国新式焼酎聯盟会を組織し、全業者の生産制限を実行[14]した。1933年4月には松竹梅酒造を設立[15]し、清酒「松竹梅」を伏見・灘の両工場と傍系の都酒造・呉竹酒造を加えた四工場で生産を始めた。1938年3月には木崎工場を東亜酒精興業へ譲渡[16]した。
- [11]1926年10月 千葉県市川の帝国酒造、1929年6月 東京王子の大正製酒、同年9月 広島県鞆の鞆保命酒屋、1939年1月 山口県防府の日本酒造を合併
- [12]度重なる合併により資本金は664万8千円
- [14]新式焼酎の勃興期に宝酒造が主唱して全国新式焼酎聯盟会を組織し全業者の生産制限を実行
- [15]1933年4月 松竹梅酒造を設立し清酒「松竹梅」を伏見・灘と傍系の都酒造・呉竹酒造の四工場で生産開始
- 宝ホールディングス 有価証券報告書【沿革】
- [13]1929年6月 大正製酒を吸収合併し取得した王子工場は1964年5月に松戸工場へ統合
- [16]1938年3月 木崎工場を東亜酒精興業へ譲渡
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
- [1]寳酒造の源流は京都伏見で天保13年(1842年)来酒造業を家業とした四方家
- [2]四方卯之助 1905年(明治38年)四方合名会社を設立、味淋・白酒・焼酎を製造
- [4]1916年(大正5年)四国・宇和島より後の会長・大宮庫吉を迎え新式焼酎の製造を開始、伏見工場を拡張
- [8]設立時の資本金 55万円
- 宝グループレポート2025(統合報告書)
- [3]1897年 「寳」の商標をみりんで登録
- [5]四方合名時代の生産石数 焼酎8万石・味淋2万石・本直し5千石・白酒3百石
- [6]焼酎の壜詰品は宝酒造が創始し「タカラ」といえば焼酎という定評を全国で獲得
- [11]1926年10月 千葉県市川の帝国酒造、1929年6月 東京王子の大正製酒、同年9月 広島県鞆の鞆保命酒屋、1939年1月 山口県防府の日本酒造を合併
- [12]度重なる合併により資本金は664万8千円
- [14]新式焼酎の勃興期に宝酒造が主唱して全国新式焼酎聯盟会を組織し全業者の生産制限を実行
- [15]1933年4月 松竹梅酒造を設立し清酒「松竹梅」を伏見・灘と傍系の都酒造・呉竹酒造の四工場で生産開始
- 宝ホールディングス 有価証券報告書【沿革】
- [7]1925年9月 四方合名会社を株式会社組織へ改組し京都市伏見区竹中町に寳酒造株式会社を設立
- [9]創業時の事業目的「酒類、酒精、清涼飲料水、医薬用品、調味料等の製造および販売」
- [10]設立と同時に四方合名会社を吸収合併し伏見・木崎の二工場体制で操業開始
- [13]1929年6月 大正製酒を吸収合併し取得した王子工場は1964年5月に松戸工場へ統合
- [16]1938年3月 木崎工場を東亜酒精興業へ譲渡
戦時統制下の政府用アルコールと満州・香港への進出
日華事変以後は食糧統制から酒類原料の割当統制が始まり、1941年の大日本酒類販売会社の設立とともに酒類の配給も統制されて重点配給[17]となった。清酒の生産は戦前の年間400万〜450万石から1938年以降に急減し、1948酒造年度には67万石[18]まで落ちた。原料不足と統制下の制約のなかで、寳酒造は工場能力の大部分を政府用アルコールの生産へ振り向け[19]、あわせて各酒類の供給も続けた。1940年4月には満州新京に満州松竹梅酒造を設立[20]して満州の日本酒メーカーとして操業し、1943年4月には香港に香港麦酒酒精工場を建設[21]して熱帯地での麦酒生産に踏み込んだが、いずれも終戦とともに接収された。戦争末期には王子工場が戦災で全焼[22]している。
- [17]日華事変以後、食糧統制から酒類原料の割当統制が始まり、1941年の大日本酒類販売会社等の設立とともに配給も統制され重点配給となった
- [18]清酒の生産は戦前の年間400万〜450万石から1938年以降急減し1948酒造年度に67万石
- [19]戦時中は工場能力の大部分を政府用アルコールの生産に向け、各酒類の供給も継続
- [20]1940年4月 満州新京に満州松竹梅酒造を設立し満州の日本酒メーカーとして操業
- [21]1943年4月 香港に香港麦酒酒精工場を建設、熱帯地で麦酒を生産。いずれも終戦とともに接収
- [22]戦争末期に王子工場が戦災で全焼
酒精の生産力は国策会社への出資にも向けられ、1943年3月には航空用高級燃料の製造を目的とする東亜化学興業[23](後の協和醗酵工業)の設立に加わった。同社は東洋紡績・大日本麦酒・合同酒精・第一生命保険・寳酒造・日本酒類の6社が資本金2000万円を共同出資[24]し、山口県防府市の東洋紡績人絹工場を買収して発足している。1940年4月には大黒葡萄酒が社長として大宮庫吉氏を迎え[25]、寳酒造の傍系会社となった。社長は四方家から二代続いたのち、三代に大宮庫吉氏が就任し、元大蔵大臣の石渡荘太郎氏を最高顧問[26]に迎えている。戦後の生産品目は焼酎・味淋・本直し・白酒に清酒・合成清酒・ウイスキー・葡萄酒などが加わり、専売アルコールを木崎・楠・防府・島原・高鍋の五工場で、清酒添加用アルコールを全工場で生産[27]する構成となった。
- [23]1943年3月 アセトン・ブタノールおよび航空用高級燃料の製造を目的に東亜化学興業(後の協和醗酵工業)設立
- [24]東亜化学興業は東洋紡績・大日本麦酒・合同酒精・第一生命保険・宝酒造・日本酒類の6社が資本金2000万円を共同出資し山口県防府市の東洋紡績人絹工場を買収して発足
- [25]1940年4月 大黒葡萄酒が社長として宝酒造社長の大宮庫吉を迎え宝酒造の傍系会社となった
- [26]社長は初代 四方卯三郎(1940年まで)・二代 四方秀三郎(1945年まで)と続き、三代に大宮庫吉が就任、元大蔵大臣の石渡荘太郎を最高顧問に迎えた
- [27]戦後の生産品目は清酒・合成清酒・ウィスキー・ブランデー・葡萄酒・梅酒・薬酒等へ増大。専売アルコールを木崎・楠・防府・島原・高鍋の五工場で、清酒添加用アルコールを全工場で生産
- [17]日華事変以後、食糧統制から酒類原料の割当統制が始まり、1941年の大日本酒類販売会社等の設立とともに配給も統制され重点配給となった
- [18]清酒の生産は戦前の年間400万〜450万石から1938年以降急減し1948酒造年度に67万石
- [19]戦時中は工場能力の大部分を政府用アルコールの生産に向け、各酒類の供給も継続
- [20]1940年4月 満州新京に満州松竹梅酒造を設立し満州の日本酒メーカーとして操業
- [21]1943年4月 香港に香港麦酒酒精工場を建設、熱帯地で麦酒を生産。いずれも終戦とともに接収
- [22]戦争末期に王子工場が戦災で全焼
- [26]社長は初代 四方卯三郎(1940年まで)・二代 四方秀三郎(1945年まで)と続き、三代に大宮庫吉が就任、元大蔵大臣の石渡荘太郎を最高顧問に迎えた
- [27]戦後の生産品目は清酒・合成清酒・ウィスキー・ブランデー・葡萄酒・梅酒・薬酒等へ増大。専売アルコールを木崎・楠・防府・島原・高鍋の五工場で、清酒添加用アルコールを全工場で生産
- [23]1943年3月 アセトン・ブタノールおよび航空用高級燃料の製造を目的に東亜化学興業(後の協和醗酵工業)設立
- [24]東亜化学興業は東洋紡績・大日本麦酒・合同酒精・第一生命保険・宝酒造・日本酒類の6社が資本金2000万円を共同出資し山口県防府市の東洋紡績人絹工場を買収して発足
- [25]1940年4月 大黒葡萄酒が社長として宝酒造社長の大宮庫吉を迎え宝酒造の傍系会社となった
専売アルコール工場の払下げと酒造界第一位
戦後の寳酒造は他社の買収と官営工場の払下げで生産設備を積み増し、1947年6月に大黒葡萄酒から白河工場(2003年3月廃止)を買収[28]した。同年9月には日本酒精を吸収合併して木崎・楠・防府の三工場を継承[29]し、長崎市の旭酒造[30]もあわせて取り込んでいる。1949年5月、東京・大阪・名古屋の各証券取引所の開設に伴って株式を上場[31]し、同年7月には京都証券取引所にも上場[32]した。1952年10月には政府から専売アルコール工場の払下げ[33]を受け、長崎県島原と宮崎県高鍋(現・黒壁蔵)の二工場[34]を取得。1952年11月に中央酒類を吸収合併[35]して市川・灘第一・鹿児島の三工場を加え、1954年12月には摂津酒造から灘第二工場(現・白壁蔵)を買収[36]した。
- 宝ホールディングス 有価証券報告書【沿革】
- [28]1947年6月 大黒葡萄酒より白河工場(2003年3月廃止)を買収
- [29]1947年9月 日本酒精を吸収合併し木崎・楠・防府の3工場を継承
- [31]1949年5月 東京・大阪・名古屋の各証券取引所開設に伴い株式を上場
- [32]1949年7月 京都証券取引所に株式を上場
- [33]1952年10月 政府より専売アルコール工場の払下げを受領
- [35]1952年11月 中央酒類を吸収合併し市川・灘・鹿児島の3工場を加えた
- [36]1954年12月 摂津酒造より灘第二工場(現・白壁蔵)を買収
- [30]1947年9月に長崎市の旭酒造(資本金80万円)も合併
- [34]1952年10月 官営の長崎県島原工場と宮崎県高鍋工場を買収
工場網は14を数え[37]、総生産能力は一日の蒸溜能力で醪1万6千石、焼酎に換算して年産百余万石[38]に達した。1954年3月期の生産販売石数は焼酎33万石・味淋1万石・本直し1万4千石・清酒3千5百石ほかの総計49万4千石[39]で、金額では127億8千万円[40]だった。焼酎で全国の3割、味淋と本直しで7割、専売アルコールで2割[41]を供給し、寳酒造はわが国酒造界の第一位[42]を占めた。資本金は1947年9月の2580万円[43]から増資を重ね、1953年10月には23億8千万円[44]となった。1953年11月には愛媛県青果販売農業協同組合連合会と提携してジュースの生産販売[45]を始め、松山・王子の二工場で精製したタカラポンジュースは年間1千万本[46]を出荷した。1955年9月、麦酒製造の免許を得た[47]寳酒造は、木崎工場を拡張整備してタカラビールの生産[48]に入った。
- [37]14工場・総生産能力は一日蒸溜能力 醪1万6千石、焼酎として年産百余万石
- [38]総生産能力は一日蒸溜能力で醪1万6千石、焼酎として年産百余万石
- [39]1954年3月期の生産販売石数は総計49万4千石
- [40]1954年3月期の生産販売額は127億8千万円
- [41]焼酎は全国の3割、味淋・本直しは7割、専売アルコールは2割を生産供給
- [42]宝酒造はわが国酒造界の第一位を占めた
- [43]資本金は1947年9月の2580万円から1953年10月の23億8千万円へ増資
- [44]1953年10月に資本金23億8千万円
- [45]1953年11月から愛媛県青果販売農業協同組合連合会と提携しジュースの生産販売を開始
- [46]松山・王子の二工場で精製したタカラポンジュースは年間1千万本の売行
- [47]1955年9月 麦酒製造の免許を取得し木崎工場を拡張整備してタカラビールを生産
- [48]木崎工場を拡張整備してタカラビールを生産
- 宝ホールディングス 有価証券報告書【沿革】
- [28]1947年6月 大黒葡萄酒より白河工場(2003年3月廃止)を買収
- [29]1947年9月 日本酒精を吸収合併し木崎・楠・防府の3工場を継承
- [31]1949年5月 東京・大阪・名古屋の各証券取引所開設に伴い株式を上場
- [32]1949年7月 京都証券取引所に株式を上場
- [33]1952年10月 政府より専売アルコール工場の払下げを受領
- [35]1952年11月 中央酒類を吸収合併し市川・灘・鹿児島の3工場を加えた
- [36]1954年12月 摂津酒造より灘第二工場(現・白壁蔵)を買収
- [30]1947年9月に長崎市の旭酒造(資本金80万円)も合併
- [34]1952年10月 官営の長崎県島原工場と宮崎県高鍋工場を買収
- [37]14工場・総生産能力は一日蒸溜能力 醪1万6千石、焼酎として年産百余万石
- [38]総生産能力は一日蒸溜能力で醪1万6千石、焼酎として年産百余万石
- [39]1954年3月期の生産販売石数は総計49万4千石
- [40]1954年3月期の生産販売額は127億8千万円
- [41]焼酎は全国の3割、味淋・本直しは7割、専売アルコールは2割を生産供給
- [42]宝酒造はわが国酒造界の第一位を占めた
- [43]資本金は1947年9月の2580万円から1953年10月の23億8千万円へ増資
- [44]1953年10月に資本金23億8千万円
- [45]1953年11月から愛媛県青果販売農業協同組合連合会と提携しジュースの生産販売を開始
- [46]松山・王子の二工場で精製したタカラポンジュースは年間1千万本の売行
- [47]1955年9月 麦酒製造の免許を取得し木崎工場を拡張整備してタカラビールを生産
- [48]木崎工場を拡張整備してタカラビールを生産