歴史概要 — 現在に至るあゆみ 主要な意思決定と帰結のまとめ
創業1925年9月、酒造業が中央資本へ集約される再編期に、四方合名会社を吸収合併して寳酒造が京都市伏見区に設立された。創業時の定款は「酒類、酒精、清涼飲料水、医薬用品、調味料」と多領域を掲げ、清酒の名産地・伏見にありながら単一品目の蔵元ではなかった。出発から複数の工場と品目を束ねる総合酒類事業者で、買収で規模を広げる動き方は、その後の専売アルコール払下げや中央酒類の取り込みでも繰り返された。
決断決定的だったのは2002年4月の物的分割である。1970年の中央研究所で酒造業者でありながら発酵バイオを半世紀積み上げ、酒類事業の宝酒造とバイオ事業のタカラバイオを別法人へ切り出して、自身は持株会社の宝ホールディングスへ移った。2004年のタカラバイオ上場で外部資本を呼び込み、クロンテック取得を経たPCR試薬がコロナ禍で爆発する。収益サイクルの異なる事業を並べて持つ構えは、この分割で固まった。
歴史詳細 - 3つの時代区分で読み解く
1925年〜1945年 京都伏見の合資企業から戦前統制期の総合酒類事業者へ
四方合名会社の吸収合併と寳酒造の設立
1925年9月、京都市伏見区竹中町に寳酒造株式会社が設立された[1]。創業時の事業目的は「酒類、酒精、清涼飲料水、医薬用品、調味料等の製造および販売」と、すでに単なる清酒メーカーの範囲を超える総合酒類・食品事業者としての構えを意識した定款になっていた[2]。同時に四方合名会社を吸収合併し、伏見と木崎の二工場体制で操業を開始した[3]。京都伏見は江戸期から続く清酒の名産地で、月桂冠・松竹梅(宝酒造ブランド)・黄桜などが軒を連ねる集積地だったが、寳酒造は合資企業の合併を起点に複数工場を擁する事業者の体裁を整え、初手から複数の地域・複数の品目を扱う構造を取った。
1929年6月には大正製酒株式会社を吸収合併し、王子工場(後の松戸工場、1964年5月統合)を取得した[4]。1920年代の日本の酒類業界は、地方の酒造業者が中央資本と結びついて全国流通網を持つ大手へ集約される再編期にあり、寳酒造はこの再編の中心的な担い手として規模拡大を続けた。創業期から「合併と買収による規模拡大」を経営の基本動作とする型は、後の海外M&A戦略にもつながる組織のDNAとして同社に刻まれていく。1938年3月には木崎工場を東亜酒精興業へ譲渡するなど、戦時期の事業整理にも対応した[5]。
戦時統制と国策合併の波
1937年の日中戦争開戦以降、日本政府は酒類業界に対し原料統制・配給統制・価格統制を矢継ぎ早に強化した。米不足により清酒の生産量は政府計画下で削減され、酒造業者は事業継続のために合併・廃業を選択する局面に追い込まれた。寳酒造は1947年6月に大黒葡萄酒株式会社から白河工場(2003年3月廃止)を買収、同年9月に日本酒精株式会社を吸収合併、木崎・楠・防府の三工場を加えた[6][7]。戦中・戦後の混乱期に他社を取り込む形で工場網を整え、終戦後の食糧難と酒類需要の急回復に備える事業ポートフォリオを組んだ。
戦時統制期の寳酒造は、軍需向けアルコール製造の指定工場として軍部からの直接発注を受け、酒精事業が一時的に主力収益源となる構造を体験した。清酒は配給制下で家庭への流通が絞られ、洋酒・ビールも原料統制で生産が落ち込むなか、酒精(工業用アルコール)と本みりん(調味料)が比較的安定した需要を保ち続けたことは、後の事業ポートフォリオ設計に影響を与えた。同社が清酒一本足ではなく、焼酎・本みりん・酒精・バイオ研究まで多角的な事業構造を持つに至った遠因は、この戦時期の経験に求めることができる。
1946年〜2001年 戦後復興期から焼酎・本みりんで定着した酒造大手としての地位
東京・大阪・名古屋ほか各地での上場と専売アルコール払下げ
1949年5月、東京・大阪・名古屋の各証券取引所開設に伴い寳酒造は株式を上場した[8]。同年7月には京都証券取引所にも上場し、その後札幌・新潟・広島・福岡の各証券取引所にも順次上場した(証券取引所の整理・統合により現在は東京証券取引所のみに上場)[9]。1949年の上場は戦後の財閥解体後に株式市場が再開された最初期の上場企業群の一つで、戦前から続く老舗酒類事業者として広く認知される契機となった。
1952年10月、政府より専売アルコール工場の払下げを受け、高鍋(現・黒壁蔵)と島原の二工場を取得した[10]。1952年11月には中央酒類株式会社を吸収合併、市川・灘第一・鹿児島の三工場を加えた[11]。1954年12月、摂津酒造株式会社から灘第二工場(現・白壁蔵)を買収[12]。1957年4月には木崎麦酒工場を建設したが、1968年4月にサッポロビールへ譲渡した[13]。1962年3月には京都麦酒工場を建設したが、1967年7月に麒麟麦酒へ譲渡[14]。ビール事業への参入は試みたものの、アサヒ・キリン・サッポロ・サントリーの四強体制のなかで撤退する形となり、清酒・焼酎・本みりん・酒精に特化する事業ポートフォリオが固まった。
焼酎甲類と本みりんの定着、研究開発の前倒し投資
1960年代から1970年代にかけて、寳酒造は焼酎甲類(連続式蒸留焼酎)の家庭用市場で「タカラcanチューハイ」「タカラ焼酎ハイボール」など缶チューハイのブームを準備する商品群を投入した。1970年代後半から1980年代の缶チューハイ普及で、宝焼酎のブランドはアルコール度数20度の家庭用焼酎甲類市場で首位シェアを取った。本みりん「タカラ本みりん」も1970年代に家庭用調味料の標準として浸透し、清酒の松竹梅・本みりんの本みりん・焼酎の宝焼酎という三本柱が同社の国内事業ポートフォリオの中核に据わった。
1970年9月、滋賀県大津市に中央研究所を設置した[15]。酒類メーカーが自前の研究所を設置し、酒精製造技術から発酵バイオ技術へ研究範囲を拡張する取り組みは、当時の業界では先進的だった。中央研究所は後にタカラバイオの源流となり、酒造業者でありながら遺伝子工学・バイオ医薬の研究を1970年代から積み上げる二刀流の事業構造を、同社は半世紀前から準備していた[16]。
海外進出とバイオ事業の本格化
1982年7月、米国カリフォルニア州所在のNUMANO SAKE CO.(現Takara Sake USA Inc.)の株式を取得し、米国本土での清酒製造を開始した[17]。1986年2月には英国スコットランドにThe Tomatin Distillery Co.Ltdを設立し、ウイスキーメーカーTomatin Distillers Plc.の資産を買収してスコッチウイスキーの製造を開始[18]。1991年4月、米国バーボンウイスキーメーカーAge International,Inc.の100%持株会社AADC Holding Companyの株式取得(後に残株式取得し子会社化)[19]。1993年8月には中国大連市に宝生物工程(大連)有限公司を設立し、バイオ事業の海外拠点を整えた[20]。1995年8月には中国北京市に北京寛宝食品有限公司(現宝酒造食品有限公司)を合弁設立し、酒類事業の中国進出を本格化した[21]。
1980年代から1990年代にかけての同社の海外進出は、清酒・焼酎の海外市場開拓というよりも、ウイスキーやバーボンといった現地ブランドの取得と、バイオ事業の国際的ネットワーク構築という性格が強かった。1990年代までの売上高は連結ベースで2,000億円前後で推移し、業界内では清酒・焼酎の中堅大手として安定したポジションを保ったが、突出した成長は見られない時期が続いた。
1990年代後半から2000年代初頭にかけて、寳酒造は事業ポートフォリオを再整理した。1995年11月に灘第一工場、1995年3月に防府工場、2003年3月に白河・札幌・福岡工場を順次廃止し、生産拠点を伏見・松戸・高鍋・島原・灘第二(白壁蔵)などの主要工場に集約した[22][23][24]。同時に中央研究所を中心とするバイオ事業の独立性を高め、清酒・焼酎の国内事業とバイオ事業の二刀流体制を、組織構造として明示する方向の議論が経営陣の間で進んだ。1925年の創業から77年を経て、寳酒造は次の段階の事業構造への転換点に立っていた[25]。
2002年〜2026年 持株会社化とタカラバイオ上場で整えた二事業構造
物的分割で生まれた宝酒造とタカラバイオ
2002年4月、寳酒造は物的分割の方法により酒類・食品・酒精事業およびバイオ事業を分割し、それぞれを新設の宝酒造株式会社とタカラバイオ株式会社が承継した[26]。寳酒造は持株会社に移行し、商号を宝ホールディングス株式会社へ変更した[27]。1925年の設立から77年目の決断で、酒類事業(宝酒造)とバイオ事業(タカラバイオ)を別法人として分けることで、それぞれの事業特性に応じた経営判断と資本市場対話ができる体制を整えた[28]。
2004年12月、タカラバイオは東京証券取引所マザーズへ株式上場[29]。バイオ事業の別法人化は資本市場での独立した評価につながり、母体の宝ホールディングスの持株比率を維持しつつ外部資金を直接調達する仕組みが整った。2005年9月、米国カリフォルニア州のClontech Laboratories,Inc.(現Takara Bio USA, Inc.)の全株式をTakara Bio USA Holdings Inc.を通じて取得[30]。クロンテックは1985年設立の遺伝子工学試薬・キットメーカーで、当時の取得額は約290億円規模と見られる。
コロナ禍のPCR需要爆発がもたらした業績ピーク
2017年7月、宝酒造の海外事業を会社分割(新設分割)し、新設した宝酒造インターナショナル株式会社に承継した[31]。同社は持株会社の連結子会社として、海外酒類事業(FOODEX・Tazaki Foods・Mutual Trading・Nippon Food Suppliesなど買収による日本食材流通網)を統括する体制となった[32]。2010年代を通じて、欧州(FOODEX・Tazaki Foods・Cominport)、米国(Mutual Trading)、豪州(Nippon Food Supplies)と日本食材流通網の海外M&Aを連続実施し、海外日本食ブームを取り込む構造を整えた[33]。
2020年から2021年にかけての新型コロナウイルス感染拡大は、タカラバイオに対し空前のPCR検査試薬需要をもたらした。同社のPCR試薬・キットは世界中の検査機関で採用され、タカラバイオグループのセグメント売上はFY19(2020年3月期)の345.6億円からFY20(2021年3月期)460.9億円、FY21(2022年3月期)676.9億円、FY22(2023年3月期)781.4億円へと2.3倍に急拡大した。セグメント利益もFY19の62.7億円からFY21の289.0億円へ4.6倍に膨らみ、宝ホールディングス全体のFY21売上3,009億円・営業利益433.5億円・当期純利益207.7億円という業績ピークを記録した。
PCR需要正常化後の利益安定化と日本食材流通網の拡張
コロナ禍が落ち着いた2023年以降、タカラバイオのPCR検査試薬需要はコロナ前水準へ戻った。タカラバイオグループのセグメント売上はFY23(2024年3月期)に435.0億円、FY24(2025年3月期)に450.4億円へ縮小し、セグメント利益もFY21ピークの289.0億円からFY24の22.6億円へ92%減少した。全社業績はタカラバイオの利益急減を、宝酒造インターナショナル(海外日本食材流通網)の伸張で部分的に補い、FY23(2024年3月期)売上3,393億円・営業利益222.4億円、FY24(2025年3月期)売上3,627億円・営業利益206.0億円と、ピーク期から下方修正された安定水準に着地している。
2024年11月、宝酒造インターナショナルはドイツ・ミュンヘン近郊のKagerer & Co. GmbHの出資持分90%を取得した[34]。Kagererは欧州の日本食材・アジア食材の卸売業者で、ドイツ・オーストリア・スイスを中心とする欧州中央部での日本食市場拡大を取り込む狙いの取得である。海外日本食ブームは欧州・米国・豪州で長期成長トレンドにあり、宝酒造インターナショナルはこの追い風を捉えて2017年から2024年まで年率10%以上の成長を維持した。FY24時点で同セグメントの売上は1,854億円と全社の半分強を占め、宝酒造(清酒・焼酎・本みりん)の国内事業1,188億円を約1.6倍上回る規模に達した。
2017年6月就任の木村睦社長は2024年5月期で就任8年目を迎え、2002年の持株会社化・タカラバイオ上場期からの長期戦略の継承者として、コロナ禍のピーク期と正常化期の両局面を経営した[35]。創業100年を2025年に迎えた同社は、京都伏見の合資企業から出発して、清酒・焼酎の老舗酒造大手、バイオ事業の上場グループ企業、海外日本食材流通網の運営事業者という三つの顔を持つ複合体に進化した[36]。創業100年後の次の10年は、PCR需要正常化後のタカラバイオの再成長戦略と、海外日本食材流通網のM&A継続性、そして国内酒類事業の構造的な需要縮小への対応という三つの課題に直面する。