寳酒造を大きくしたのは、新しい酒ではなく他人の設備だった。1905年に四方合名会社として味淋・白酒・焼酎を始めたこの会社は、1916年に宇和島から大宮庫吉を迎えて新式焼酎に踏み出し、壜詰の焼酎で全国にタカラの名を通した。1925年の株式会社への改組から数えて、帝国酒造・大正製酒・鞆保命酒屋・日本酒造・日本酒精・旭酒造・中央酒類と合併を重ね、摂津酒造からは灘の工場を買い、1952年には政府の専売アルコール工場の払下げまで受けている。資本金は1947年の2580万円から6年で23億8千万円へ増えた。自前で建てるより、動いている設備を買い取るほうが速いという組み立てである。
集めた設備は、戦時と戦後の両方を渡る足場になった。工場能力の大半を政府用アルコールへ振り向けた戦時、国策会社の東亜化学興業へ出資した1943年、払下げで島原と高鍋を得た1952年は、どれも酒を造る会社が酒以外の需要へ発酵と蒸溜の能力を振り向けた場面である。14の工場を持ち、焼酎で全国の3割、味淋と本直しで7割を供給して酒造界第一位に立った1954年、寳酒造はジュースの生産販売にも入っていた。1955年に麦酒三社より大きい12万石の認可枠を得たとき、この会社は発酵と蒸溜で届く市場ならどこへでも入れると考えていた。
寳酒造の源流は、京都伏見で天保13年(1842年)から酒造業を営んできた四方家にさかのぼる。四方卯之助氏は1905年(明治38年)に四方合名会社を設立し、味淋・白酒・焼酎の三品目で創業した。1897年には"寳"の商標をみりんで登録している。焼酎の壜詰品を始めたのは同社であり、全国で"タカラ"の名は焼酎の代名詞として通っていた。その下地として、1916年(大正5年)に後の会長となる大宮庫吉氏を四国・宇和島から招いて新式焼酎の製造に乗り出し、伏見工場も広げた。四方合名時代の生産石数は、焼酎8万石、味淋2万石、本直し5千石、白酒3百石である。四方合名会社の株式会社組織への改組は1925年9月で、資本金55万円の寳酒造株式会社が京都市伏見区竹中町に生まれ、同時に四方合名会社を吸収合併して伏見・木崎の二工場で操業を始めた。定款の事業目的には『酒類、酒精、清涼飲料水、医薬用品、調味料等の製造および販売』が掲げられた。
四方合名会社が新式焼酎へ踏み出せたのは、技術を握る人を外から迎えたからである。1916年(大正5年)、神戸の鈴木商店が宇和島の日本酒類醸造株式会社を買収する交渉をまとめると、同社の特約店だった四方合名会社は仕入先を失いかねない立場に立った。四方卯之助社長は同年3月、四方貫次郎氏を伴って宇和島へ出向き、日本酒類醸造の社長福井春水氏に、同社の技師兼工場長であった大宮庫吉氏の招聘を申し入れた。当の大宮氏はこのとき、旧藩主細川家が過半の株式を持つ熊本の肥後酒精株式会社を買収して独立する話を進め、応諾の返事まで受け取っていた。鈴木商店も好条件を示して伏見行きを止めにかかったが、大宮氏はこれに応じず、同年4月1日に四方合名会社を訪ねて入社を決めた。四方合名会社はこの技師を得て新式焼酎の製造を始め、伏見工場を拡張した。
株式会社となった寳酒造は合併で生産拠点を広げ、1926年10月に千葉県市川の帝国酒造、1929年6月に東京王子の大正製酒、同年9月に広島県鞆の鞆保命酒屋、1939年1月に山口県防府の日本酒造を合併し、資本金を664万8千円へ積み増した。大正製酒から引き継いだ王子工場は、1964年5月に松戸工場へ統合されている。新式焼酎が勃興した大正年間には全国に業者が乱立して出血競争となり、寳酒造が主唱して全国新式焼酎聯盟会を組織し、全業者の生産制限を実行した。1933年4月には松竹梅酒造を設立し、清酒"松竹梅"を伏見・灘の両工場と傍系の都酒造・呉竹酒造を加えた四工場で生産を開始した。1938年3月には木崎工場を東亜酒精興業へ譲渡した。
日華事変以後は食糧統制から酒類原料の割当統制が始まり、1941年の大日本酒類販売会社の設立とともに酒類の配給も統制されて重点配給となった。清酒の生産は戦前の年間400万〜450万石から1938年以降に急減し、1948酒造年度には67万石まで減少した。原料不足と統制下の制約のなかで、寳酒造は工場能力の大部分を政府用アルコールの生産へ振り向け、あわせて各酒類の供給も続けた。1940年4月には満州新京に満州松竹梅酒造を設立して満州の日本酒メーカーとして操業し、1943年4月には香港に香港麦酒酒精工場を建設して熱帯地での麦酒生産に参入したが、いずれも終戦とともに接収された。戦争末期には王子工場が戦災で全焼している。
酒精の生産力は国策会社への出資にも向けられ、1943年3月には航空用高級燃料の製造を目的とする東亜化学興業(後の協和醗酵工業)の設立に加わった。同社は東洋紡績・大日本麦酒・合同酒精・第一生命保険・寳酒造・日本酒類の6社が資本金2000万円を共同出資し、山口県防府市の東洋紡績人絹工場を買収して発足している。1940年4月には大黒葡萄酒が社長として大宮庫吉氏を迎え、寳酒造の傍系会社となった。社長は四方家から二代続いたのち、三代に大宮庫吉氏が就任し、元大蔵大臣の石渡荘太郎氏を最高顧問に迎えている。戦後の生産品目は焼酎・味淋・本直し・白酒に清酒・合成清酒・ウイスキー・葡萄酒などが加わり、専売アルコールを木崎・楠・防府・島原・高鍋の五工場で、清酒添加用アルコールを全工場で生産する構成となった。
戦後の寳酒造は他社の買収と官営工場の払下げで生産設備を積み増し、1947年6月に大黒葡萄酒から白河工場(2003年3月廃止)を買収した。同年9月には日本酒精を吸収合併して木崎・楠・防府の三工場を継承し、長崎市の旭酒造もあわせて取り込んでいる。1949年5月、東京・大阪・名古屋の各証券取引所の開設に伴って株式を上場し、同年7月には京都証券取引所にも上場した。1952年10月には政府から専売アルコール工場の払下げを受け、長崎県島原と宮崎県高鍋(現・黒壁蔵)の二工場を取得。1952年11月に中央酒類を吸収合併して市川・灘第一・鹿児島の三工場を加え、1954年12月には摂津酒造から灘第二工場(現・白壁蔵)を買収した。
工場網は14を数え、総生産能力は一日の蒸溜能力で醪1万6千石、焼酎に換算して年産百余万石に達した。1954年3月期の生産販売石数は焼酎33万石・味淋1万石・本直し1万4千石・清酒3千5百石ほかの総計49万4千石で、金額では127億8千万円だった。焼酎で全国の3割、味淋と本直しで7割、専売アルコールで2割を供給し、寳酒造はわが国酒造界の第一位を占めた。資本金は1947年9月の2580万円から増資を重ね、1953年10月には23億8千万円となった。1953年11月には愛媛県青果販売農業協同組合連合会と提携してジュースの生産販売を始め、松山・王子の二工場で精製したタカラポンジュースは年間1千万本を出荷した。1955年9月、麦酒製造の免許を得た寳酒造は、木崎工場を拡張整備してタカラビールの生産に入った。
1955年9月1日に下りた麦酒の新工場建設の認可は、既存の麦酒三社に各10万石、寳酒造に12万石をそれぞれ第一期の枠として与えるものだった。戦後の酒類市場では清酒の生産が戦前の年間400万石から450万石の水準を大きく下回ったままで、伸びていたのは麦酒だった。免許行政のもとで新規参入がほとんど絞られてきた部門に、外から入る枠が開いたことになる。焼酎で全国の3割、味淋と本直しで7割、専売アルコールで2割を供給していた寳酒造にとって、麦酒は発酵と蒸溜の設備も原料の手当ても手元にある隣の市場だった。三社より大きな枠を与えられたことは、後発でありながら同じ土俵に立つ資格を認められたことを意味した。
寳酒造の麦酒事業は、作る技術ではなく売る仕組みで競争劣位に立った。焼酎で全国の3割、味淋と本直しで7割を握っていた会社にとって、麦酒は発酵も蒸溜も原料の手当ても手元にある隣の市場に見えた。1955年に下りた建設認可の枠も、既存三社の各10万石に対して12万石と大きい。ところが麦酒の問屋は特定の銘柄だけを扱う慣行に覆われており、松竹梅や味淋を置いてくれる酒販店が、そのまま麦酒を運んでくれるわけではなかった。会長の大宮庫吉が掲げた百万石の目標に向けて京都に第二工場を建て、40億円を増資で調達したことが、かえって損失の幅を広げる。1962年度から5期の無配と、1966年3月期の経常利益6300万円が、その帰結である。
寳酒造が麦酒事業へ参入したのは1957年である。焼酎で全国の3割、味淋と本直しで7割を供給して酒造界第一位に立っていた会社が、先行三社の占める市場へ後から入る判断だった。事業を主導したのは、1916年に宇和島から迎えられて新式焼酎の製造を立ち上げた会長の大宮庫吉氏で、麦酒は会社の資源を集中して立ち上げる事業と受け止められていた。1955年9月の免許取得を受けて群馬県の木崎工場を拡張整備し、1957年4月にこれを木崎麦酒工場として分離して、関東の市場からタカラビールの販売を始めた。原料の麦も発酵の設備も手元にあり、酒類の販売先も全国に持っていたことが、参入を支える前提だった。増資で集めた資金も麦酒へ振り向けられている。木崎工場はもともと1926年に群馬県へ設けた蒸溜の拠点で、麦酒はその設備の隣に置かれた。
1962年3月、寳酒造は京都に二つ目の麦酒工場を新設した。設計は清水建設、応接室だけは大宮庫吉氏が懇意にしていた建築家に委ねられ、敷地には庭園が設けられて、大宮氏自身がこれを庭園工場と呼んだ。用地の取得にあたっては、農地を手放す家から必ず一人を採用する条件が付けられている。麦酒の製造で出る粕は飼料として明治と森永の乳業各社と近隣の農家へ渡され、一日に一斗の乳を出す牛が二斗を出すと説明された。大宮氏は『事業と道徳、事業と宗教、事業と芸術はカナエの足のようなもので、これは絶対に切り離すことができない、必要なものだと考えているのでございます』と述べ、畜産と製麦と麦酒を一体のものとして構想していた。1962年に工場を訪れたロンドンと米国の醸造業の経営者は、一様にこの施設を羨んだという。工場は建てる前から、麦酒以外の使い道まで織り込んで設計されていた。大宮氏はこのとき喜寿を迎えた77歳で、社業のためになお百歳を志すと詠んでいる。
京都工場の新設は、麦酒の生産を百万石まで積み上げる計画の第一段だった。1962年7月に大宮庫吉氏が示した計画では、京都工場で15万石、木崎工場をさらに増設して50万石とし、最終の目標は百万石だった。資金は40億円の公募増資で賄われた。当時の資本金は100億円、配当率は1割で、増資は財界の状況を見ながら3割ずつ小刻みに行い、当面は長期信用銀行と農林中央金庫からの借入で凌ぐ方針が採られていた。松戸の土地は前年の夏に取得したもので、景気が下り坂へ向かう境目にあたっていた。1960年ごろには寿屋の鳥井信治郎社長から麦酒参入の了解を求める申し出があり、大宮氏は需要が増えるとみて賛意を示していた。百万石という目標は、既存三社と同じ量を作って初めて同じ売り方ができるという読みの上に置かれていた。
タカラビールは売れなかった。当時の麦酒の流通は、問屋が特定の銘柄だけを扱う専売的な慣行に覆われており、後発の寳酒造は販売ルートを確保できなかった。寳酒造が依存したのは、松竹梅と味淋で既に取引のある酒類の得意先だった。のちに大宮隆社長は敗因を『相手は松竹梅やみりんの得意先だから、頼めば何とか売ってくれると、甘く考えていたのが敗因。結局、古い業界組織に乗っかって売ろうとした宝酒造自身の古さの限界でした』と言い切っている。酒類は酒税の対象として製造から小売まで免許行政の下に置かれ、新規の参入を制限して既存の業者を守る仕組みが働いていた。政府は工場の増加に合わせて卸と小売の免許を緩和する方針へ動いていたが、既存三社はこれを一年延ばす対策を講じていた。寳酒造は発売以来、全社をあげて拡販に努めたものの、所期の目標には届かなかった。関西市場への進出は、この壁に正面からぶつかった。
1962年度から、寳酒造は5期にわたって無配となった。麦酒事業は、在来の酒類で稼いだ利益を食いつぶす重荷に変わっていた。1966年3月期の売上高は221億800万円、経常利益は6300万円で、売上に対する経常利益の比率は0.3%を下回る。同期の当期純利益は7100万円で、在来の酒類が積み上げた利益は麦酒の損失にほぼ吸い取られていた。翌1967年3月期の売上高は230億7700万円へ伸びたが、経常利益は5億500万円にとどまっている。拡大を狙って京都に第二工場を建てたことが、かえって失敗を決定的にしたと、のちに大宮隆氏は振り返っている。麦酒は発酵と蒸溜の技術では在来の酒類と隣り合っていても、売り方の設計がまったく違う市場だった。
麦酒の苦戦と並行して、寳酒造は在来部門の生産機構を組み替えた。1964年5月、市川と王子の両工場を統合して松戸工場を新設し、同年10月には摂津酒造と本辰酒造を吸収合併して大阪・長野の二工場を継承した。合併に伴う増資で資本金は105億5800万円となり、一方で鞆と鹿児島の工場を廃止して主力工場の能力を引き上げている。王子工場は1929年に大正製酒を合併して引き継いだ拠点で、35年を経て松戸へ統合された。1959年10月には札幌工場を建てて北海道にも生産の足場を置いた。従業員は1964年の時点で2500人近くを数えた。設備も人員も膨らんだが、収益を生んでいたのは味淋・焼酎・合成清酒・アルコールという在来の四部門であり、麦酒はその外に置かれたままだった。
1966年3月、大宮隆氏が社長に就任した。1913年に滋賀県で生まれ、1937年に同志社大学を卒業して日本酒精に入り、1947年の合併で寳酒造の取締役となった人物で、歩いてきたのは経理と人事の畑だった。前社長の大宮庫吉氏は養父にあたる。庫吉氏は1951年4月から会長を務め、1964年11月には社長を兼ねていたが、この交代と入れ替わりに社長を辞任して会長となった。会社は麦酒部門について、『所期の目標に達せず、そのまま操業を続けて万一経営の基盤に重大な支障を生ずることがあってはならない』と判断した。1967年7月に京都麦酒工場を麒麟麦酒へ、1968年4月に木崎麦酒工場をサッポロビールへ譲渡し、参入から10年で麦酒事業から退出している。譲渡にあたっては得意先を回って事情を説き、取引銀行を間に立てて工場を売却した。
1968年3月期、寳酒造はビール事業撤収損として8億6638万5千円を計上した。同期の売上高は192億7800万円で、前期の230億7700万円から38億円近く縮み、麦酒を手放した分だけ会社の規模が小さくなった。一方で経常利益は前期の5億500万円から6億300万円へ増えている。人員の削減は撤退の前後をまたいで続き、1964年に2500人近くいた従業員は、その後の13年間で合計1044人減らされた。二つの麦酒工場の売却とあわせて社員を大幅に減らしたのがこの時期である。撤収損を吸収するため、固定資産の売却益8866万円、圧縮損繰入予定額の振戻1億8500万円、価格変動準備金の戻入2340万円などを立て、税引前の当期利益は2101万円にとどまった。麦酒部門の分離によって不採算部門は解消され、在来の主製品を中心とする安定成長の目途がついた。
撤退の後始末と並んで大宮隆社長が手を付けたのが、それまで有名無実だった研究部門の建て直しだった。新しい組織の所長には、工業技術院の発酵研究所で部長だった田辺脩博士を招き、5人で走り出した。中央研究所は1970年9月に滋賀県大津市に開設され、運営費に年約1億円を充て、売上高の1%を毎年研究開発に回すと決めた。本社では人員を大きく削っていたが、研究所だけは人を増やし続けた。経営が苦しいのに当座の利益を生まないものへ金を出すのかと、社内では反対の声が次々に上がった。中央研究所を軸とする開発部門は『減資する代わりに、何か将来のためになる投資を』という考えに立って生まれ、しばらくは稼がない部門として扱われた。麦酒事業で失った10年を取り戻すために用意されたのが、酒精づくりで蓄えた発酵技術を次の事業へ橋渡しする場だった。
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|---|---|---|---|---|
| 1925〜1956年合併による設備集積 | 四方卯三郎 | 寳酒造を設立 | ★ | |
| 四方卯三郎 | 大正製酒を吸収合併、王子工場(1964年5月松戸工場に統合)に | ★ | ||
| 大黒葡萄酒より白河工場(2003年3月廃止)を買収 | ★ | |||
| 日本酒精を吸収合併 | ★ | |||
| 木崎・楠・防府の3工場を継承 | ★ | |||
| 東京、大阪、名古屋の各証券取引所開設に伴い株式上場 | ★ | |||
| 京都証券取引所に株式を上場 | ★ | |||
| 政府より専売アルコール工場の払下げを受領 | ★ | |||
| 中央酒類を吸収合併 | ★ | |||
| 摂津酒造より灘第二工場を買収 | ★ | |||
| 1957〜1976年ビール事業からの撤退 | 木崎麦酒工場を新設(1968年4月サッポロビールに譲渡) | ★ | ||
| 札幌工場(2003年3月廃止)建設 | ★ | |||
| ビール事業からの全面撤退と、二工場を手放しての経営資源の絞り込み 1966年に社長へ就任した大宮隆氏は、就任直後の最大の懸案として、1957年に参入したビール事業からの撤退を決めた。京都麦酒工場を1967年に麒麟麦酒へ、木崎麦酒工場を1968年にサッポロビールへ売却し、あわせて大規模な人員削減を進めた。前会長・大宮庫吉氏が社運を賭けて始めた事業を、後継の社長が畳んだ判断であった。 詳細を読む | ★★★ | |||
| 市川・王子の両工場を統合し松戸工場を新設 | ★ | |||
| 摂津酒造と本辰酒造を吸収合併 | ★ | |||
| 大阪・長野の2工場を継承 | ★ | |||
| 大宮隆 | 発酵を軸にした基礎研究への投資と、次世代技術への種まき 1970年9月、宝酒造は滋賀県大津市に中央研究所を設置した。酒精製造で培った発酵技術を土台に、生物工学・遺伝子工学へ研究範囲を広げる拠点で、後のタカラバイオの源流となる。ビール撤退で人員と設備を整理していた再建期に、大宮隆社長が反対を押し切って踏み切った投資であった。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 1977〜2001年焼酎「純」の復権と、絶頂期に始めた海外酒類・バイオへの先行投資 | 大宮隆 | NUMANO SAKE CO.を株式取得 | ★ | |
| 大宮隆 | 米国本土での清酒製造を開始 | ★★ | ||
| 久木田稔 | 焼酎が健在なうちに進めた海外酒類ブランドの取得 1980年代半ば、焼酎ブームで業界最大手となっていた宝酒造は、本業が健在なうちに海外酒類ブランドの取得を進めた。1986年に英国のスコッチウイスキーメーカー、トマーチン・ディスティラーズを買収し、1991年には米国のバーボンメーカー、エイジ・インターナショナルの持株会社を取得した。久木田稔社長が主導した、本業のピークで次の柱を仕込む多角化であった。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 久木田稔 | Tomatin Distillers Plc.の資産を買収 | ★★ | ||
| 久木田稔 | スコッチウイスキーの製造を開始 | ★ | ||
| 久木田稔 | AADC Holding Company,Inc.の株式を一部取得 | ★ | ||
| 大宮久 | 宝生物工程(大連)有限公司を設立 | ★ | ||
| 大宮久 | 合弁で北京寛宝食品有限公司を設立 | ★ | ||
| 2002〜2026年持株会社化と海外日本食流通への主力交代、タカラバイオの再統合 | 大宮久 | 持株会社化による酒類・バイオ二事業の分割 2002年4月、寳酒造は物的分割により酒類・食品・酒精事業を新設の宝酒造株式会社へ、バイオ事業を新設のタカラバイオ株式会社へ承継し、自身は持株会社の宝ホールディングス株式会社へ移行した。1925年の設立から77年目に、収益サイクルの異なる二事業を別法人へ分けた組織再編で、意思決定は大宮久社長が主導した。 詳細を読む | ★★★ | |
| 大宮久 | 会社分割により新設のタカラバイオがバイオ事業を承継 | ★★ | ||
| 大宮久 | タカラバイオが東京証券取引所マザーズに株式上場 | ★ | ||
| 大宮久 | Clontech Laboratories,Inc.の全株式をTakara Bio USA Holdings Inc.経由取得 | ★★ | ||
| 大宮久 | 宝酒造が仏国のFOODEX S.A.S.の発行済株式80%を取得 | ★ | ||
| 柿本敏男 | 宝酒造が米国のMutual Trading Co.,Inc.を子会社化 | ★ | ||
| 柿本敏男 | Rubicon Genomics, Inc.の全株式を取得 | ★ | ||
| 柿本敏男 | WaferGen Bio-systems, Inc.の全株式を取得 | ★ | ||
| 柿本敏男 | 海外日本食材卸事業を成長の主軸に据える戦略転換 宝ホールディングスが、成熟する国内酒類に代えて、海外の日本食レストラン向け食材卸を成長の軸に据えた戦略転換。2010年のフランスFOODEX買収以降、欧州・米国・豪州の日本食材卸を相次いで傘下に収め、2017年7月に宝酒造の海外事業を分割して宝酒造インターナショナルを独立した統括会社とした。木村睦社長のもとで"日本酒を売る会社"から"日本食を売る会社"への再定義が進んだ。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 木村睦 | プライム市場に移行 | ★ | ||
| 木村睦 | Kagerer & Co. GmbHの出資持分90%を取得 | ★ | ||
| 木村睦 | 上場子会社を取り込んでの親子上場の解消と、意思決定の一本化 2026年2月13日、宝ホールディングスは取締役会で、議決権の60.9%を保有する上場子会社タカラバイオに対し、1株1,150円の公開買付け(TOB)を実施すると決議した。成立後は株式併合によるスクイーズアウトを経て完全子会社とし、上場を廃止する方針であった。2002年の分割で送り出したバイオ事業を、24年を経て手元へ戻す判断であった。 詳細を読む | ★★★ |
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事実根拠:出所(宝ホールディングス)