ニッカウヰスキー の歴史

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創業 1934年
創業者 竹鶴政孝
創業地 北海道余市町
創業
1934年7月、竹鶴政孝氏が北海道余市郡に資本金10万円の大日本果汁を設立した。摂津酒造から寿屋へ移り、1924年に山崎蒸溜所を建てた技師が、十年の契約を終えて独立した。原酒が商品になるまでの数年をしのぐため余市のリンゴを搾り、1935年5月にニッカリンゴ汁を1本30銭で売り出したが、ラムネとサイダーの時代に値が高く、赤字会社のうわさが小樽まで広まった。1936年秋に蒸溜へ入り、1940年10月に角びんの第一号ニッカウヰスキーを出して、1952年8月に商号をニッカウヰスキーへ改めている。
決断
原酒を法で許される上限まで入れる方針を、値段の側で払ってきた。1950年春、竹鶴政孝社長は全従業員を集めて三級ウイスキーの発売に同意する。ただし税法で許される最高率まで原酒を入れたため、他社の640ミリリットル330円に対し、140ミリリットル少ない500ミリリットルを20円高い350円で出すことになった。1955年9月、一本あたり三割の欠損を織り込んで同じ350円のまま640ミリリットルへ揃える。1962年に二級の原酒混和率が10%未満へ上がると、中性スピリッツをやめてグレーンスピリッツへ替え、1964年に日本で唯一のカフェ式蒸溜機を西宮へ据えた。容量を揃えた判断が、北海道6・内地4だった売上の比率を逆転させ、全国で売れる商品を作った。
現況
営業部門を親会社へ移し、余市と宮城峡で酒を造る会社になった。1989年9月27日に東京証券取引所第二部へ上場し、公募で得た約270億円を原酒へ充当して、1980年に200億円だった在庫を1990年に400億円へ倍増させる。ところが同じ1989年4月の酒税法改正で級別が廃止され、市場の4割を占めた旧1・2級は2年で7割が消えた。改正前の販売量に占める1・2級の比率は、サントリー5割・キリンシーグラム6割に対してニッカウヰスキーは7割である。1990年12月期の売上高は977億円と1988年比15.3%減、経常利益は8億7,800万円へ減少した。2001年2月1日にアサヒビールの完全子会社となって上場を廃止し、同年4月1日に販売部門を引き継がせている。
競合
相手はサントリー1社ではなく、税法の級別そのものだった。二級は原酒が0%でもウイスキーを名乗れたため、原酒を持たない業者が同じ棚に並ぶ。イミテーションを出せない大日本果汁は、逆に約30軒の免許業者へ原酒を渡すモルト屋を兼ねて食いつないだ。1976年度のシェアはサントリー70%に対しニッカウヰスキー20%、1977年3月期の自己資本比率は6.3%で、売上高600億円はサントリーの約4,000億円の7分の1にとどまる。1954年6月に資本参加した朝日麦酒が、2001年に全株式を取得した。原酒の濃さで差をつける方法は級別課税があって初めて通用し、級別が消えた市場では、濃く仕込んだ原酒が高い原価としてだけ残った。
長期業績の推移 1975〜2001年
ニッカウヰスキー:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円純利益率(%)
1975年3月期1983年12月期

創業ストーリー リンゴ汁で熟成を待った余市工場と三級ウイスキーへの譲歩 (1934年〜)

リンゴ汁で熟成を待った余市工場と三級ウイスキーへの譲歩

創業ストーリー(1)

寿屋との十年契約満了と、鳥井信治郎氏が容れなかった北海道

竹鶴政孝氏は広島県竹原町のつくり酒屋に生まれ、大阪高等工業の醸造科を1916年に卒業する前から、大阪の摂津酒造で洋酒づくりに就いた[1]。入社一年足らずの1918年7月、阿部喜兵衛社長にスコットランド留学を勧められ、神戸港を発った[2]。グラスゴー大学に聴講生として籍を置きながら、1918年11月から1920年5月までローゼスのグレンリベット蒸溜所で実習を重ね、カンベルタウンではイネー博士のもとで約6か月ブレンドの訓練を受けた[3]。1921年11月に帰国して技師長に就いたが、摂津酒造は大戦後の恐慌のただ中にあり、竹鶴政孝氏が出した本格モルトウイスキー醸造計画書は役員会で否認された[4]。1922年、竹鶴政孝氏は辞表を出して摂津酒造を去った[5]

  • 私の履歴書 経済人11(日本経済新聞社、1980年)「竹鶴政孝」
    • [1]竹鶴政孝氏は広島県竹原町の造り酒屋に生まれ、大阪高等工業醸造科の卒業前から摂津酒造で洋酒づくりに従事した
    • [2]1918年7月、摂津酒造の阿部喜兵衛社長の勧めでスコットランド留学に出発した
    • [3]グラスゴー大学に聴講生として在籍し、1918年11月から1920年5月までローゼスのグレンリベット蒸溜所で実習、カンベルタウンでイネー博士に約6か月学んだ
    • [4]1921年11月に帰国して摂津酒造の技師長となったが、本格モルトウイスキー醸造計画書は役員会で否認された
    • [5]1922年に摂津酒造を退社した

1923年の春、寿屋の鳥井信治郎氏が浪人中の竹鶴政孝氏の自宅を三度訪ね、赤玉ポートワインで得た利益を本格ウイスキーに投じたいと持ちかけた[6]。同年6月の入社にあたっては、ウイスキーづくりを全部まかせること、必要な資金を用意すること、年俸4,000円、雇用期間十年という条件が交わされた[7]。十年という年限は、ウイスキーが商品として完成するのに要する年数から決めたものだった[8]竹鶴政孝氏は工場の土地に北海道を勧めたが、鳥井信治郎氏は大阪から近い場所を譲らなかった[9]。当時の北海道は大阪から三日以上かかる辺地とみなされていた[10]竹鶴政孝氏は宝塚から紀州、滋賀、舞子まで歩いて京都の山崎を選び、1924年11月に200万円あまりを投じた工場を竣工させた[11]

  • 私の履歴書 経済人11(日本経済新聞社、1980年)「竹鶴政孝」
    • [6]1923年春、寿屋の鳥井信治郎氏が竹鶴政孝氏の自宅を三度訪ね、赤玉ポートワインの利益で本格ウイスキーをつくりたいと申し入れた
    • [7]1923年6月に寿屋へ入社。ウイスキーづくりを一任、必要資金の用意、年俸4,000円、雇用期間十年という条件だった
    • [8]雇用期間の十年は、ウイスキーが商品として完成するのに必要な年数から決めた
    • [9]竹鶴政孝氏は工場用地に北海道を勧めたが、鳥井信治郎氏は大阪から近い土地を主張して譲らなかった
    • [10]当時の北海道は大阪から三日以上かかり、一般には辺地とみなされていた
    • [11]宝塚・紀州・滋賀・舞子まで候補地を探して山崎を選び、1924年11月に200万円あまりを要した工場が竣工した

1929年4月1日、山崎工場の原酒を用いた白札サントリーを1本3円50銭で発売したが、売れ行きも評判も伸びなかった[12]。1933年、寿屋はビール工場と事業一切を麦酒共同販売へ300万円で売却し、工場長だった竹鶴政孝氏はその直後に郷里の母を亡くした[13]。十年の契約は1932年に満了しており、竹鶴政孝氏はここで独立に踏み切った[14]。熟成を待つあいだの収入をつくればすぐ売れるジュースで賄う計画を立て、加賀証券の加賀正太郎氏、芝川又四郎氏、柳沢伯爵の三人の応援を得て、資本金10万円の会社をつくることに決めた[15]。工場の予定地には、以前から目をつけていた北海道余市を選んだ[16]。余市川が日本海の石狩湾に注ぐ河口の町で、付近からピートがとれ、リンゴとぶどうの産地でもあった[17]

  • 私の履歴書 経済人11(日本経済新聞社、1980年)「竹鶴政孝」
    • [12]1929年4月1日に白札サントリーを1本3円50銭で発売したが、売れ行きも評判もよくなかった
    • [13]1933年に寿屋はビール工場と企業一切を麦酒共同販売へ300万円で売却し、その頃竹鶴政孝氏は母を亡くした
    • [14]寿屋との十年契約は1932年に満了しており、竹鶴政孝氏は独立を決意した
    • [15]つくればすぐ売れるジュースを売りながらウイスキーを育てる計画を立て、加賀正太郎氏・芝川又四郎氏・柳沢伯爵の応援で資本金10万円の会社をつくることにした
    • [16]工場の予定地は前から目をつけていた北海道余市に決めた
    • [17]余市は余市川が日本海の石狩湾に流れ出る河口の町で、付近からピートがとれ、リンゴやぶどうの産地でもあった
  • 私の履歴書 経済人11(日本経済新聞社、1980年)「竹鶴政孝」
    • [1]竹鶴政孝氏は広島県竹原町の造り酒屋に生まれ、大阪高等工業醸造科の卒業前から摂津酒造で洋酒づくりに従事した
    • [2]1918年7月、摂津酒造の阿部喜兵衛社長の勧めでスコットランド留学に出発した
    • [3]グラスゴー大学に聴講生として在籍し、1918年11月から1920年5月までローゼスのグレンリベット蒸溜所で実習、カンベルタウンでイネー博士に約6か月学んだ
    • [4]1921年11月に帰国して摂津酒造の技師長となったが、本格モルトウイスキー醸造計画書は役員会で否認された
    • [5]1922年に摂津酒造を退社した
    • [6]1923年春、寿屋の鳥井信治郎氏が竹鶴政孝氏の自宅を三度訪ね、赤玉ポートワインの利益で本格ウイスキーをつくりたいと申し入れた
    • [7]1923年6月に寿屋へ入社。ウイスキーづくりを一任、必要資金の用意、年俸4,000円、雇用期間十年という条件だった
    • [8]雇用期間の十年は、ウイスキーが商品として完成するのに必要な年数から決めた
    • [9]竹鶴政孝氏は工場用地に北海道を勧めたが、鳥井信治郎氏は大阪から近い土地を主張して譲らなかった
    • [10]当時の北海道は大阪から三日以上かかり、一般には辺地とみなされていた
    • [11]宝塚・紀州・滋賀・舞子まで候補地を探して山崎を選び、1924年11月に200万円あまりを要した工場が竣工した
    • [12]1929年4月1日に白札サントリーを1本3円50銭で発売したが、売れ行きも評判もよくなかった
    • [13]1933年に寿屋はビール工場と企業一切を麦酒共同販売へ300万円で売却し、その頃竹鶴政孝氏は母を亡くした
    • [14]寿屋との十年契約は1932年に満了しており、竹鶴政孝氏は独立を決意した
    • [15]つくればすぐ売れるジュースを売りながらウイスキーを育てる計画を立て、加賀正太郎氏・芝川又四郎氏・柳沢伯爵の応援で資本金10万円の会社をつくることにした
    • [16]工場の予定地は前から目をつけていた北海道余市に決めた
    • [17]余市は余市川が日本海の石狩湾に流れ出る河口の町で、付近からピートがとれ、リンゴやぶどうの産地でもあった
創業ストーリー(2)

リンゴジュース1本30銭の不振と角びん第一号ウイスキー

1934年7月、竹鶴政孝氏は大日本果汁株式会社を設立した[18]。大日本と冠したのは、当時の風潮に加えて、大日本麦酒の向こうを張ろうという意気からだった[19]。同年10月には北海道余市郡に工場を建て、住友銀行から100万円の融資を受けてウイスキーづくりの準備に入った[20]。並行して余市のリンゴを搾り、フランス製の濃縮機で低温濃縮した果汁を1本30銭で売り出し、1935年5月にニッカリンゴ汁の発売を始めた[21]。1本に約5個分の果汁を詰めた栄養本位の商品で、北海道のめぼしい病院で使われるまでにはなったが、ラムネとサイダーの時代に一般の嗜好とは合わず、値段も高すぎた[22]

  • 証券 1989年
    • [18]1934年7月、竹鶴政孝氏により大日本果汁株式会社が設立された
    • [21]1935年5月に「ニッカリンゴ汁」の発売を開始した
  • 私の履歴書 経済人11(日本経済新聞社、1980年)「竹鶴政孝」
    • [19]大日本果汁の社名は、何でも大日本とつける当時の風潮と、大日本麦酒の向こうを張ろうという意気からつけた
    • [20]1934年10月に北海道余市郡へ工場を建て、住友銀行から100万円の融資を受けてウイスキーづくりの準備にかかった
    • [22]フランス製の濃縮機で低温濃縮したリンゴジュースを1本30銭で売り出した。1本に約5個分の果汁を濃縮し、北海道の主な病院で使われたが、ラムネ・サイダーの時代で一般の嗜好に合わず値段も高かった

小樽から船で東京と大阪へ送った積荷は、途中で雪をかぶってラベルの糊にカビが生え、商品として出せないこともあった[23]。回転が悪く、東京に置いた在庫はペクチンが凝固して濁りを出し、本郷の本富士警察に呼び出された[24]。赤字会社のうわさは小樽あたりまで広まった[25]。それでも蒸溜の準備は進み、山崎工場の単式蒸溜機を手がけた喜田専之輔氏に同じ釜をつくらせ、1936年秋からウイスキーの蒸溜に入った[26]。原酒が商品になるまでの間を埋めるため、1937年10月にアップル・ゼリーとグレープ・ゼリー、翌1938年にアップル・ワインを出した[27]

  • 私の履歴書 経済人11(日本経済新聞社、1980年)「竹鶴政孝」
    • [23]小樽から東京・大阪へ船で送った積荷が積雪でラベルの糊にカビを生じ、商品として出せないことがあった
    • [24]回転が悪く東京の商品にペクチンが凝固して濁りが出て、本郷の本富士警察に呼び出された
    • [25]赤字会社のうわさが広まり、小樽あたりでも「赤字会社のジュースか」と言われた
    • [26]山崎工場の単式蒸溜機をつくった喜田専之輔氏に蒸溜機を製作させ、1936年秋からウイスキーの蒸溜に入った
    • [27]1937年10月にアップル・ゼリーとグレープ・ゼリー、翌1938年にアップル・ワインを発売し、ウイスキーへのつなぎの商品とした

1940年10月、大日本果汁はぎざぎざの線を入れた角びんで第一号のニッカウヰスキーを発売した[28]。ニッカという商品名は、当時の社名である大日本果汁の略、日果からとった[29]。発売の2か月後に価格統制が始まり、ウイスキーは一級・二級・三級に分けられ、ニッカはサントリートミーとともに商工省と大蔵省の共同告知で一級ウイスキーの指定銘柄品として公示された[30]。統制入りとともに余市工場は海軍の指定工場となり、原料の大麦の配給を受けて貯蔵量を増やした[31]竹鶴政孝氏は工場敷地内の沼に囲まれた島に貯蔵庫を建て、庫と庫の間を離したうえ、各年代の原酒を均等に分けて入れた[32]

  • 証券 1989年
    • [28]1940年10月に「ニッカウヰスキー」「ニッカブランデー」の発売を開始した
  • 私の履歴書 経済人11(日本経済新聞社、1980年)「竹鶴政孝」
    • [29]1940年秋にぎざぎざの線の入った角びんでニッカウヰスキー第一号を発売した。ニッカは社名・大日本果汁の略「日果」からとった
    • [30]第一号発売の2か月後に価格統制が始まり、ウイスキーは一級・二級・三級に区分され、ニッカはサントリー・トミーとともに商工省・大蔵省の共同告知で一級ウイスキーの指定銘柄品に公示された
    • [31]統制時代に入り余市工場は海軍の指定工場となって原料大麦の配給を受け、貯蔵量が増えた
    • [32]工場敷地内の沼に囲まれた島に貯蔵庫を建て、貯蔵庫の間を離し、各年代の原酒を均等に各貯蔵庫へ分けて入れた
  • 証券 1989年
    • [18]1934年7月、竹鶴政孝氏により大日本果汁株式会社が設立された
    • [21]1935年5月に「ニッカリンゴ汁」の発売を開始した
    • [28]1940年10月に「ニッカウヰスキー」「ニッカブランデー」の発売を開始した
  • 私の履歴書 経済人11(日本経済新聞社、1980年)「竹鶴政孝」
    • [19]大日本果汁の社名は、何でも大日本とつける当時の風潮と、大日本麦酒の向こうを張ろうという意気からつけた
    • [20]1934年10月に北海道余市郡へ工場を建て、住友銀行から100万円の融資を受けてウイスキーづくりの準備にかかった
    • [22]フランス製の濃縮機で低温濃縮したリンゴジュースを1本30銭で売り出した。1本に約5個分の果汁を濃縮し、北海道の主な病院で使われたが、ラムネ・サイダーの時代で一般の嗜好に合わず値段も高かった
    • [23]小樽から東京・大阪へ船で送った積荷が積雪でラベルの糊にカビを生じ、商品として出せないことがあった
    • [24]回転が悪く東京の商品にペクチンが凝固して濁りが出て、本郷の本富士警察に呼び出された
    • [25]赤字会社のうわさが広まり、小樽あたりでも「赤字会社のジュースか」と言われた
    • [26]山崎工場の単式蒸溜機をつくった喜田専之輔氏に蒸溜機を製作させ、1936年秋からウイスキーの蒸溜に入った
    • [27]1937年10月にアップル・ゼリーとグレープ・ゼリー、翌1938年にアップル・ワインを発売し、ウイスキーへのつなぎの商品とした
    • [29]1940年秋にぎざぎざの線の入った角びんでニッカウヰスキー第一号を発売した。ニッカは社名・大日本果汁の略「日果」からとった
    • [30]第一号発売の2か月後に価格統制が始まり、ウイスキーは一級・二級・三級に区分され、ニッカはサントリー・トミーとともに商工省・大蔵省の共同告知で一級ウイスキーの指定銘柄品に公示された
    • [31]統制時代に入り余市工場は海軍の指定工場となって原料大麦の配給を受け、貯蔵量が増えた
    • [32]工場敷地内の沼に囲まれた島に貯蔵庫を建て、貯蔵庫の間を離し、各年代の原酒を均等に各貯蔵庫へ分けて入れた
創業ストーリー(3)

高橋衛氏の説得と1952年のニッカウヰスキーへの商号変更

終戦の時点で、余市の貯蔵庫には古いもので約10年を経た原酒が並んでいた[33]。北海道工場には占領軍の将兵などからウイスキーの強請があり、占領軍の幹部は15セントのアメリカたばことの交換を通達の形で求めてきた[34]竹鶴政孝氏はこれを略奪行為だと言って断った[35]。当時のウイスキーは配給価格120円に対してヤミで1,500円がつき、一本が米一俵の相場だとも言われたが、大日本果汁がヤミ行為に回ることはできず、本格ウイスキーはつくるだけ損が出た[36]。戦後の数年は本格ウイスキーを求める市場がなく、カストリやバクダンと呼ばれる密造酒が出回った[37]

  • 私の履歴書 経済人11(日本経済新聞社、1980年)「竹鶴政孝」
    • [33]終戦時、原酒は古いもので約10年を経て十分に熟成していた
    • [34]戦後の混乱期、北海道工場に占領軍の将兵らからウイスキーの強請があり、占領軍幹部は15セントのアメリカたばことの交換を通達の形で要求した
    • [35]竹鶴政孝氏は「これ以上強請すると略奪行為になるぞ」と断った
    • [36]配給価格120円のウイスキーがヤミで1,500円した。一本が米一俵の相場とも言われたが、会社はヤミ行為ができず本格ウイスキーはつくるだけ損になった
    • [37]戦後数年は本格ウイスキーを求める時代ではなく、カストリやバクダンと呼ばれる密造酒が横行した

1949年、酒類の自由販売と雑酒の公定価格廃止が実施された[38]。当時の税法は三級ウイスキーを原酒5%以下と定め、下限は0%で、混ぜる原酒の貯蔵期間にも制限がなかった[39]。イミテーションを出せない大日本果汁は、ウイスキーメーカーに原酒を売るモルト屋を兼業し、全国約30軒あまりの免許業者へ原酒を引き渡した[40]。この収入で経理は一息ついたものの、インフレで従業員の給料が上がり、税金は滞納しがちになった[41]。国税庁初代長官の高橋衛氏は、原酒を抱えたまま万一のことがあれば監督官庁も困ると竹鶴政孝氏に説いた[42]。1950年春、竹鶴政孝氏は全従業員を工場の広場に集めて苦衷を述べ、三級ウイスキーの発売に同意した[43]

  • 私の履歴書 経済人11(日本経済新聞社、1980年)「竹鶴政孝」
    • [38]1949年に「酒類自由販売」と「雑酒」の公定価格廃止が行われた
    • [39]当時の税法で三級ウイスキーは原酒5%以下・0%までと規定され、使う原酒の貯蔵期間にも規制がなかった
    • [40]1949年ごろ、ウイスキーメーカーに原酒を売るモルト屋を兼業し、全国約30軒あまりのウイスキー免許業者へ原酒が引き取られた
    • [41]モルト屋の収入で経理は一息ついたが、インフレで給料が上がり税金も滞納しがちになった
    • [42]国税庁初代長官の高橋衛氏が竹鶴政孝氏を説得した
    • [43]1950年春、全従業員を工場の広場に集めて苦衷を述べ、三級ウイスキーの発売に同意した

発売にあたり、竹鶴政孝氏は税法で許される最高率まで原酒を入れ、他社の640ミリリットル・330円に対して、140ミリリットル少ない500ミリリットルのびんを20円高い350円で出した[44]。容量が少なく値段が高いことは、他社との競争上の不利として残った[45]。売上が伸びるにつれて専門人材が要り、大日本果汁は特定の普通銀行を避けて日本銀行に依頼し、統計局長の土井太郎氏を経理担当に迎え、続いて営業担当にコロンビア大学商科出身の弥谷醇平氏を入れた[46]。1952年8月、ウイスキーを売る会社が大日本果汁でもあるまいとして、商号をニッカウヰスキー株式会社に変更した[47]。同じ年、東京・麻布の毛利家の屋敷跡にびん詰めの東京工場を建てた[48]。1953年3月1日、ウイスキーの級別呼称は特級・一級・二級に改められた[49]

  • 私の履歴書 経済人11(日本経済新聞社、1980年)「竹鶴政孝」
    • [44]三級ウイスキーは税法で許される最高率まで原酒を入れ、他社の640ミリリットル・330円に対し500ミリリットル・350円で発売した
    • [45]容量が少なく値段が高いことは他社との競争上不利だった
    • [46]特定の普通銀行を避けて日本銀行に依頼し、統計局長の土井太郎氏を経理担当として迎え、その後に営業担当としてコロンビア大学商科出身の弥谷醇平氏を迎えた
    • [48]1952年に東京・麻布の毛利邸跡にびん詰めの東京工場を建てた
    • [49]1953年3月1日にウイスキーの級別呼称が特級・一級・二級に改められた
  • 証券 1989年
    • [47]1952年8月に商号を「ニッカウヰスキー株式会社」へ変更した
  • 私の履歴書 経済人11(日本経済新聞社、1980年)「竹鶴政孝」
    • [33]終戦時、原酒は古いもので約10年を経て十分に熟成していた
    • [34]戦後の混乱期、北海道工場に占領軍の将兵らからウイスキーの強請があり、占領軍幹部は15セントのアメリカたばことの交換を通達の形で要求した
    • [35]竹鶴政孝氏は「これ以上強請すると略奪行為になるぞ」と断った
    • [36]配給価格120円のウイスキーがヤミで1,500円した。一本が米一俵の相場とも言われたが、会社はヤミ行為ができず本格ウイスキーはつくるだけ損になった
    • [37]戦後数年は本格ウイスキーを求める時代ではなく、カストリやバクダンと呼ばれる密造酒が横行した
    • [38]1949年に「酒類自由販売」と「雑酒」の公定価格廃止が行われた
    • [39]当時の税法で三級ウイスキーは原酒5%以下・0%までと規定され、使う原酒の貯蔵期間にも規制がなかった
    • [40]1949年ごろ、ウイスキーメーカーに原酒を売るモルト屋を兼業し、全国約30軒あまりのウイスキー免許業者へ原酒が引き取られた
    • [41]モルト屋の収入で経理は一息ついたが、インフレで給料が上がり税金も滞納しがちになった
    • [42]国税庁初代長官の高橋衛氏が竹鶴政孝氏を説得した
    • [43]1950年春、全従業員を工場の広場に集めて苦衷を述べ、三級ウイスキーの発売に同意した
    • [44]三級ウイスキーは税法で許される最高率まで原酒を入れ、他社の640ミリリットル・330円に対し500ミリリットル・350円で発売した
    • [45]容量が少なく値段が高いことは他社との競争上不利だった
    • [46]特定の普通銀行を避けて日本銀行に依頼し、統計局長の土井太郎氏を経理担当として迎え、その後に営業担当としてコロンビア大学商科出身の弥谷醇平氏を迎えた
    • [48]1952年に東京・麻布の毛利邸跡にびん詰めの東京工場を建てた
    • [49]1953年3月1日にウイスキーの級別呼称が特級・一級・二級に改められた
  • 証券 1989年
    • [47]1952年8月に商号を「ニッカウヰスキー株式会社」へ変更した

丸びんニッキーの値下げとカフェ式蒸溜機が生んだ量と質

創業ストーリー(4)

朝日麦酒の資本参加と一本三割の欠損を見込んだ値下げ

1954年6月、ニッカウヰスキーは朝日麦酒の資本参加を受けた[50]。前年の1953年3月には、それまでの一級・二級・三級という区分が特級・一級・二級の呼称に改まり[51]、日本のウイスキー業界は二級を軸に伸び始めた[52]。1954年は洋酒各社の販売戦の年で、ウイスキーの消費量は激増したが、トミーを出していた東京醸造は経営不振に陥った[53]。この伸びにニッカウヰスキーは乗り切れなかった。1950年春に三級ウイスキーを出した際、税法で許される最高率まで原酒を入れ、他社の640ml・330円に対し、140ml少ない500ml入りを20円高い350円で売っていた[54]。容量が少なく値段が高いことは、他社との競争で不利に働いた[55]

  • 証券 1989年
    • [50]昭和29年6月にアサヒビール(朝日麦酒)の資本参加を受けた
  • 私の履歴書 経済人11(日本経済新聞社、1980年)「竹鶴政孝」
    • [51]昭和28年3月1日にウイスキーの級別呼称が一級・二級・三級から特級・一級・二級に改まった
    • [52]そのころから日本のウイスキー業界は二級ウイスキーを中心に伸びを示し始めた
    • [53]昭和29年は洋酒各社の販売戦の年でウイスキーの消費量が激増し、トミーを出していた東京醸造は経営不振に陥った
    • [54]昭和25年春の三級ウイスキーは、税法で許される最高率まで原酒を入れ、他社の640ml・330円に対し140ml少ない500ml入りを20円高の350円で売った
    • [55]びんの容量が少なく値段が高いことが他社との競争上不利だった

経理には日本銀行統計局長だった土井太郎氏を専務として迎え[56]、その2年後、営業担当としてコロンビア大学商科出身の弥谷醇平氏が1954年に入社した[57]。総務担当には元朝日ビール常務の奥村三郎氏が加わった[58]。弥谷醇平氏は、500ml入りで350円のものを他社なみの640ml入りにして同じ350円で売れば一本あたり三割の欠損になるが、一年もちこたえれば87%伸びて欠損は黒字に転じ、一度はデッドポイントを通過しなければ積極的な市場はもてないと説いた[59]竹鶴政孝社長はいろいろな角度から検討を重ね、この方針を決めた[60]

  • 私の履歴書 経済人11(日本経済新聞社、1980年)「竹鶴政孝」
    • [56]日本銀行統計局長の土井太郎に経理担当として入社してもらい、土井は専務となった
    • [57]土井専務の2年後、営業担当としてコロンビア大学商科出身の弥谷醇平が入社した。弥谷の入社は昭和29年
    • [58]総務担当として元朝日ビール常務の奥村三郎を迎えた
    • [59]弥谷醇平の説明は、他社なみの容量・価格で売ると一本当たり三割の欠損になるが、一年もちこたえれば87%伸びて欠損は黒字に転化する、一度はデッドポイントを通過しなければ積極的な市場がもちえない、というものだった
    • [60]いろいろな角度から検討を重ねてこの方針を決めた

丸びん(通称ニッキー)を発売したのは1955年9月1日である[61]。この一本で、それまで北海道6・内地4だった売上の割合は一挙に逆転し、全国商品になった[62]。ウイスキーの販売金額は1954酒造年度を100として、1959年には534に達した[63]。1955年11月、古い原酒を生かしたゴールドニッカを2000円で売り出し[64]、翌1956年にはブラックニッカを1500円で加えた[65]。都市の盛り場にはトリス・ニッカ・オーシャンの名を冠したバーが増え、戦後第一回の洋酒ブームが起きた[66]。当時の二級ウイスキーは原酒の混合量が5%までで、竹鶴政孝社長が考えるウイスキーとは遠かった[67]

  • 私の履歴書 経済人11(日本経済新聞社、1980年)「竹鶴政孝」
    • [61]丸びん(通称ニッキー)の発売は昭和30年9月1日
    • [62]当時の売り上げは北海道6・内地4の割合だったが、丸びんニッキーの発売で一挙に逆転し全国商品になった
    • [63]ウイスキーの販売金額は昭和29年(酒造年度)を100とすると昭和34年は534になった
    • [64]昭和30年11月、古い原酒を生かしたゴールドニッカを2000円で発売した
    • [65]その翌年、ブラックニッカを1500円で出した
    • [66]戦後第一回の洋酒ブームで、都市の盛り場にトリス・ニッカ・オーシャンなどの名をつけたバーが数を増した
    • [67]当時の二級ウイスキーは原酒の混合量が5%までで、竹鶴政孝の考えるウイスキーとは遠いものだった
  • 証券 1989年
    • [50]昭和29年6月にアサヒビール(朝日麦酒)の資本参加を受けた
  • 私の履歴書 経済人11(日本経済新聞社、1980年)「竹鶴政孝」
    • [51]昭和28年3月1日にウイスキーの級別呼称が一級・二級・三級から特級・一級・二級に改まった
    • [52]そのころから日本のウイスキー業界は二級ウイスキーを中心に伸びを示し始めた
    • [53]昭和29年は洋酒各社の販売戦の年でウイスキーの消費量が激増し、トミーを出していた東京醸造は経営不振に陥った
    • [54]昭和25年春の三級ウイスキーは、税法で許される最高率まで原酒を入れ、他社の640ml・330円に対し140ml少ない500ml入りを20円高の350円で売った
    • [55]びんの容量が少なく値段が高いことが他社との競争上不利だった
    • [56]日本銀行統計局長の土井太郎に経理担当として入社してもらい、土井は専務となった
    • [57]土井専務の2年後、営業担当としてコロンビア大学商科出身の弥谷醇平が入社した。弥谷の入社は昭和29年
    • [58]総務担当として元朝日ビール常務の奥村三郎を迎えた
    • [59]弥谷醇平の説明は、他社なみの容量・価格で売ると一本当たり三割の欠損になるが、一年もちこたえれば87%伸びて欠損は黒字に転化する、一度はデッドポイントを通過しなければ積極的な市場がもちえない、というものだった
    • [60]いろいろな角度から検討を重ねてこの方針を決めた
    • [61]丸びん(通称ニッキー)の発売は昭和30年9月1日
    • [62]当時の売り上げは北海道6・内地4の割合だったが、丸びんニッキーの発売で一挙に逆転し全国商品になった
    • [63]ウイスキーの販売金額は昭和29年(酒造年度)を100とすると昭和34年は534になった
    • [64]昭和30年11月、古い原酒を生かしたゴールドニッカを2000円で発売した
    • [65]その翌年、ブラックニッカを1500円で出した
    • [66]戦後第一回の洋酒ブームで、都市の盛り場にトリス・ニッカ・オーシャンなどの名をつけたバーが数を増した
    • [67]当時の二級ウイスキーは原酒の混合量が5%までで、竹鶴政孝の考えるウイスキーとは遠いものだった
創業ストーリー(5)

原酒混和率の引き上げと西宮のカフェ式グレーン工場

洋酒ブームの伸びが鈍化したのは1960年以降である[68]。ウイスキー業界はこの年、原酒の混和率を引き上げて二級の品質を上げたいと大蔵省に要望した[69]。これがいれられ、1962年4月1日から二級は5%未満から10%未満へ、5%以上とされていた一級は10%以上20%までへ改まった[70]。ただし原酒が0%でもウイスキーとして出せる点は是正されず[71]竹鶴政孝社長は級別がなければ日本のウイスキー業界はもっと進歩していたと述べている[72]。設備投資も並行し、1959年に西宮のびん詰め工場、1960年に弘前工場、1964年に九州鳥栖の工場を建てた[73]

  • 私の履歴書 経済人11(日本経済新聞社、1980年)「竹鶴政孝」
    • [68]第一回の洋酒ブームがやや下火となって伸びが鈍化したのは昭和35年以降だった
    • [69]昭和35年にウイスキー業界は原酒の混和率引き上げによる二級ウイスキーの品質向上を大蔵省に要望した
    • [70]昭和37年4月1日から二級は5%未満より10%未満に、5%以上の一級は10%以上20%までとなった
    • [71]この改正でも原酒0%でウイスキーとして出せる点は是正されなかった
    • [72]竹鶴政孝は、日本のウイスキーに級別がなかったら業界はもっと進歩していたと考えていた
    • [73]昭和34年に西宮のびん詰め工場、35年に弘前工場、39年に九州鳥栖の九州工場をつくった

竹鶴政孝社長は混和率の引き上げを機に二つの結論を出した[74]。一つは原酒を許されたぎりぎりまで、それもできるだけ古いものを使うこと。貯蔵期間に制限がないため、二級で9%入れれば普通の原酒を15%入れた程度の味が出る[75]。もう一つは、原酒に混ぜる中性スピリッツをやめ、スコッチと同じ穀類由来のグレーンスピリッツへ替える点にあった[76]。そのためにはカフェ式蒸溜機が要り、製造設備に多額の資金が必要だったため導入は先延ばしになった[77]。朝日麦酒の山本為三郎氏の援助で、西宮のグレーンスピリッツ工場は1964年に完成した[78]。日本でグレーン製法を採ったのはニッカウヰスキーだけだった[79]

  • 私の履歴書 経済人11(日本経済新聞社、1980年)「竹鶴政孝」
    • [74]昭和37年の原酒混和率引き上げを機に竹鶴政孝は二つの結論を出した
    • [75]原酒を許されたぎりぎりまで、それもできるだけ古いよいものを使えば、二級の場合9%入れても普通のものを15%入れたぐらいの味になる。貯蔵期間には制限が全くない
    • [76]中性スピリッツを、スコッチと同じように穀類からつくるグレーンスピリッツに替えてソフトなウイスキーをつくる
    • [77]カフェ式蒸溜機の製造設備には多額の資金が必要で、希望の実現は延び延びになっていた
    • [78]朝日麦酒の山本為三郎の援助で、西宮のグレーンスピリッツ工場が昭和39年に完成した
  • 実業往来 1968年
    • [79]昭和39年にカフェ式グレーンスピリッツ工場を完成し、日本ではニッカだけがグレーン製法をとっていた

この二つに取り組み、500円のハイニッカと1000円のブラックニッカを市場へ出した[80]。ハイニッカの発売は1964年2月、ブラックニッカは1965年9月である[81]。いずれも許される限りの原酒とカフェグレーンをブレンドした製品で[82]、世間では『千円ウイスキー戦争』『ソフトウイスキー合戦』と騒がれた[83]竹鶴政孝社長は、日本のウイスキーの品質が上がったかどうかだけが問題だとしてこの騒ぎを退けた[84]。1968年5月1日には税制が改正され、各級とも原酒の混和率が3%引き上げられたうえ、7%未満のものは製造もウイスキーの名乗りもできなくなった[85]。ニッカウヰスキーはこれにのっとってホワイトニッカを売り出した[86]

  • 私の履歴書 経済人11(日本経済新聞社、1980年)「竹鶴政孝」
    • [80]二つの結論に取り組んでつくりあげ市場に出したのが500円のハイニッカと1000円のブラックニッカだった
    • [82]両方とも許されるギリギリの原酒とカフェグレーンのブレンド製品だった
    • [83]「千円ウイスキー戦争」「ソフトウイスキー合戦」と一部で騒がれた
    • [84]竹鶴政孝は、日本のウイスキーの品質のアップに役立ったかどうかということだけが問題だと考えていた
    • [85]昭和43年5月1日から税制が改正され、各級とも原酒の混和率が3%アップされたうえ、7%未満のものは製造できずウイスキーという名も使えなくなった
    • [86]ホワイトニッカは原酒混和率が引き上げられた税制改正にのっとってさっそく売り出したウイスキーである
  • 証券 1989年
    • [81]ハイニッカウヰスキー(2級)の発売開始は昭和39年2月、ブラックニッカウヰスキー(1級)は昭和40年9月
  • 私の履歴書 経済人11(日本経済新聞社、1980年)「竹鶴政孝」
    • [68]第一回の洋酒ブームがやや下火となって伸びが鈍化したのは昭和35年以降だった
    • [69]昭和35年にウイスキー業界は原酒の混和率引き上げによる二級ウイスキーの品質向上を大蔵省に要望した
    • [70]昭和37年4月1日から二級は5%未満より10%未満に、5%以上の一級は10%以上20%までとなった
    • [71]この改正でも原酒0%でウイスキーとして出せる点は是正されなかった
    • [72]竹鶴政孝は、日本のウイスキーに級別がなかったら業界はもっと進歩していたと考えていた
    • [73]昭和34年に西宮のびん詰め工場、35年に弘前工場、39年に九州鳥栖の九州工場をつくった
    • [74]昭和37年の原酒混和率引き上げを機に竹鶴政孝は二つの結論を出した
    • [75]原酒を許されたぎりぎりまで、それもできるだけ古いよいものを使えば、二級の場合9%入れても普通のものを15%入れたぐらいの味になる。貯蔵期間には制限が全くない
    • [76]中性スピリッツを、スコッチと同じように穀類からつくるグレーンスピリッツに替えてソフトなウイスキーをつくる
    • [77]カフェ式蒸溜機の製造設備には多額の資金が必要で、希望の実現は延び延びになっていた
    • [78]朝日麦酒の山本為三郎の援助で、西宮のグレーンスピリッツ工場が昭和39年に完成した
    • [80]二つの結論に取り組んでつくりあげ市場に出したのが500円のハイニッカと1000円のブラックニッカだった
    • [82]両方とも許されるギリギリの原酒とカフェグレーンのブレンド製品だった
    • [83]「千円ウイスキー戦争」「ソフトウイスキー合戦」と一部で騒がれた
    • [84]竹鶴政孝は、日本のウイスキーの品質のアップに役立ったかどうかということだけが問題だと考えていた
    • [85]昭和43年5月1日から税制が改正され、各級とも原酒の混和率が3%アップされたうえ、7%未満のものは製造できずウイスキーという名も使えなくなった
    • [86]ホワイトニッカは原酒混和率が引き上げられた税制改正にのっとってさっそく売り出したウイスキーである
  • 実業往来 1968年
    • [79]昭和39年にカフェ式グレーンスピリッツ工場を完成し、日本ではニッカだけがグレーン製法をとっていた
  • 証券 1989年
    • [81]ハイニッカウヰスキー(2級)の発売開始は昭和39年2月、ブラックニッカウヰスキー(1級)は昭和40年9月
創業ストーリー(6)

仙台の第二原酒工場と輸出28カ国への広がり

ウイスキーは同じ技師が同じ機械と同じ原料を使っても、場所を変えれば全く違うものができる[87]。それらを合わせてブレンドするとさらによいものになるため、スコットランドでは各社がこの方式を採ってきた[88]。熟成を科学の力で早める試みは昔からあったがすべて失敗しており、自然と時だけが解決者だと竹鶴政孝社長は述べている[89]。そこで仙台の近くのピート地帯にウイスキーづくりに適した土地を求め、北海道工場より規模の大きい第二の原酒工場を建てた[90]。この仙台工場は1969年5月に操業を始め[91]、スコットランドからの技術導入は一通り実現した[92]

  • 私の履歴書 経済人11(日本経済新聞社、1980年)「竹鶴政孝」
    • [87]同じ技師が同じ機械、同じ原料を使っても別の場所でつくると全く違うものができる
    • [88]これらを合わせてブレンドするとさらによいものができるので、スコットランドでは全部このやり方がとられている
    • [89]ウイスキーの熟成を科学の力で早める試みは昔からあったがすべて失敗しており、自然と時だけがその解決者である
    • [90]仙台の近くのピート地帯にウイスキーづくりにぴったりの土地を見つけ、北海道工場より規模の大きい原酒の第二工場を建設した
    • [92]第二原酒工場が完成すればスコットランドからの技術導入はいちおう全部実現することになる
  • 証券 1989年
    • [91]昭和44年5月に宮城県仙台市の仙台工場が操業を開始した

1968年時点で、ニッカウヰスキーは北海道の原酒工場と建設中の仙台工場のほか、東京の麻布、千葉県柏市、西宮、弘前、九州の鳥栖に製品工場を持ち、年間の売上は200億円を超えた[93]。輸出は量こそ少ないものの、アメリカをはじめ28カ国に及んだ[94]。500円のハイニッカは9割超が家庭で飲まれ、1000円のウイスキーを飲むのは若い独身のサラリーマンか学生、それに年齢の上がった層だった[95]。日本の本格ウイスキーの歴史は半世紀に満たず、300数十年の伝統をもつスコッチには遠く及ばないが、品質と技術では比肩できるところまで来たと竹鶴政孝社長はみていた[96]。戦前まで日本人になじみの薄かったウイスキーは、家庭で広い世代に飲まれる酒に変わった[97]

  • 私の履歴書 経済人11(日本経済新聞社、1980年)「竹鶴政孝」
    • [93]北海道の原酒工場と建設中の仙台の原酒工場のほか、東京の麻布と千葉県柏市、西宮、弘前、九州の鳥栖に製品工場をもち、売り上げも年間200億円を越えた
    • [94]輸出は量はまだ少ないが、アメリカを初め28カ国に出している
    • [96]日本の本格ウイスキーの歴史はまだ半世紀に満たず、300数十年の伝統をもつスコッチには遠く及ばないが、品質的・技術的には比肩できるところまで来ている
    • [97]戦前までウイスキーは日本人になじみの薄い酒だったが、今は家庭で広い世代に飲まれる酒になった
  • 実業往来 1968年
    • [95]500円のハイニッカは9割超が家庭で飲まれ、1000円のウイスキーを飲むのは若い独身のサラリーマンか学生、それから年齢が上って老人である

弥谷醇平副社長は、国内メーカー同士が覇を競っているように見えるが敵はスコッチにあると語った[98]。1972年の資本自由化までに品質でも値段でも日本のものが上回らなければ競争に負ける、というのがその理由だった[99]。当時のスコッチの輸入は年間12万ケースで、全体の1%にすぎなかった[100]。弥谷醇平副社長は級別課税を意味の薄いものとみて従価税への移行と級の撤廃を主張し、メーカー各社は3年で切り換えると約束していた[101]。1968年4月からの増税では500円のものが20円、1000円のものが41円上がるところを、定価を据え置いてメーカーが負担した[102]

  • 実業往来 1968年
    • [98]国内メーカー同士で覇を競いあっているようにとられているが、敵はスコッチにある
    • [99]昭和47年には資本の自由化になるが、それまでに品質的にも値段的にも日本のものが上まわっていないと競争に負けてしまう
    • [100]スコッチの輸入は年間12万ケースで、これは全体の1%である
    • [101]クラス別課税はあまり意味を持たないので従価税にしてはどうか。級の撤廃も主張しており、メーカーでは3年すれば切り換えると約束している
    • [102]4月からウイスキーは増税され、500円のものは20円、1000円のものは41円それぞれ高くなるが、定価は上げずにメーカーで負担する
  • 私の履歴書 経済人11(日本経済新聞社、1980年)「竹鶴政孝」
    • [87]同じ技師が同じ機械、同じ原料を使っても別の場所でつくると全く違うものができる
    • [88]これらを合わせてブレンドするとさらによいものができるので、スコットランドでは全部このやり方がとられている
    • [89]ウイスキーの熟成を科学の力で早める試みは昔からあったがすべて失敗しており、自然と時だけがその解決者である
    • [90]仙台の近くのピート地帯にウイスキーづくりにぴったりの土地を見つけ、北海道工場より規模の大きい原酒の第二工場を建設した
    • [92]第二原酒工場が完成すればスコットランドからの技術導入はいちおう全部実現することになる
    • [93]北海道の原酒工場と建設中の仙台の原酒工場のほか、東京の麻布と千葉県柏市、西宮、弘前、九州の鳥栖に製品工場をもち、売り上げも年間200億円を越えた
    • [94]輸出は量はまだ少ないが、アメリカを初め28カ国に出している
    • [96]日本の本格ウイスキーの歴史はまだ半世紀に満たず、300数十年の伝統をもつスコッチには遠く及ばないが、品質的・技術的には比肩できるところまで来ている
    • [97]戦前までウイスキーは日本人になじみの薄い酒だったが、今は家庭で広い世代に飲まれる酒になった
  • 証券 1989年
    • [91]昭和44年5月に宮城県仙台市の仙台工場が操業を開始した
  • 実業往来 1968年
    • [95]500円のハイニッカは9割超が家庭で飲まれ、1000円のウイスキーを飲むのは若い独身のサラリーマンか学生、それから年齢が上って老人である
    • [98]国内メーカー同士で覇を競いあっているようにとられているが、敵はスコッチにある
    • [99]昭和47年には資本の自由化になるが、それまでに品質的にも値段的にも日本のものが上まわっていないと競争に負けてしまう
    • [100]スコッチの輸入は年間12万ケースで、これは全体の1%である
    • [101]クラス別課税はあまり意味を持たないので従価税にしてはどうか。級の撤廃も主張しており、メーカーでは3年すれば切り換えると約束している
    • [102]4月からウイスキーは増税され、500円のものは20円、1000円のものは41円それぞれ高くなるが、定価は上げずにメーカーで負担する

シェア20%からの追撃と、創業50周年に来たウイスキー増税

創業ストーリー(7)

70歳社長の次に来た住友銀行出身の55歳

創業者の竹鶴政孝氏は社長を退いて会長に移り、弥谷醇平氏があとを継いだ[103]竹鶴政孝氏は会長にとどまり、1977年時点で83歳を数えた[104]。その弥谷醇平氏が急逝したため、1972年に専務の土井太郎氏が社長へ繰り上がった[105]。土井太郎氏はすでに70歳で、高齢を理由に就任を断ったが、ほかに適任者が見当たらず、70歳の社長が生まれた[106]。短い任期で退くことは就任当初から社内で了解されており、2年の任期と懸案の価格改定を終えた1974年、土井太郎氏は橋本敬之氏へ社長を譲った[107]。社内はこれを予定された人事として受け止めた[108]

  • 日経ビジネス 1977年5月9日号
    • [103]竹鶴政孝氏は社長を退き会長に就いた
    • [104]1977年時点で竹鶴政孝氏は創業者会長、83歳
  • 実業往来 1974年
    • [105]弥谷醇平氏の急逝により、1972年に専務の土井太郎氏が社長に就任
    • [106]土井太郎氏は当時70歳、高齢を理由に社長就任を断ったが適任者が見当たらず就任した
    • [107]土井太郎氏の社長就任は当初から短期の交代が前提で、2年の任期と価格改定を終えた1974年に橋本敬之氏へ交代
    • [108]橋本敬之氏の社長就任は予定の人事であり、社内では当然のこととして受け止められた

橋本敬之氏は1919年生まれの55歳で社長に就いた[109]。1941年に東京大学法学部を卒業し、翌1942年に住友銀行へ入行した[110]。1962年に業務部長、1969年に名古屋支店長を務め、同年11月に取締役、1973年4月に常務取締役となり、同年5月にニッカウヰスキーの副社長へ移った[111]。後継者を探していた土井太郎氏のもとでの副社長就任は次期社長を前提とした人事で、住友銀行出身で朝日麦酒社長の高橋吉隆氏が強く推した[112]。社長が代わっても品質を第一とする方針は動かないと、社内外はみていた[113]。土井太郎氏からの交代で、社長の年齢は20年近く下がった[114]

  • 実業往来 1974年
    • [109]橋本敬之氏は1919年生まれ、55歳で社長就任
    • [110]1941年東京大学法学部卒業、1942年住友銀行入社
    • [111]1962年業務部長、1969年名古屋支店長・同年11月取締役、1973年4月常務取締役、同年5月ニッカウヰスキー副社長
    • [112]副社長就任は次期社長を前提としたもので、住友銀行出身の朝日麦酒社長 高橋吉隆氏の強い推薦があった
    • [113]社長が変わっても品質を第一とする方針は変わらないというのが社内外の評だった
    • [114]土井太郎氏から橋本敬之氏への交代は20年近い若返りとなった

1974年の値上げでは洋酒業界の先陣を切った[115]。G&Gを1,900円から2,200円、ノースランド角を1,500円から1,650円、ブラックニッカを1,000円から1,150円とし、ほとんどの製品を10〜20%引き上げた[116]。理由には麦芽など原材料の値上がり、人件費と輸送費の上昇、2度の酒税引き上げを挙げている[117]サントリーも追って値上げしたが、ウイスキー・ビール・清涼飲料・ワインを併せ持つサントリーには相互補完の余地があり、洋酒専業のニッカウヰスキーにはそれがなかった[118]。1974年3月にはキリンがロバートブラウン2,400円で特級の2,000円クラスへ加わり、自社のG&G2,200円、サントリーのオールド2,200円と並んだ[119]

  • 実業往来 1974年
    • [115]洋酒業界の値上げのトップを切ったのがニッカウヰスキーだった
    • [116]G&G1,900円→2,200円、ノースランド角1,500円→1,650円、ブラックニッカ1,000円→1,150円、ほとんどの製品を10〜20%引き上げ
    • [117]値上げ理由は麦芽など原材料の値上がり、人件費・輸送費の上昇、2回にわたる酒税引き上げ
    • [118]サントリーはウイスキー・ビール・清涼飲料・ワインの総合企業で相互補完が可能だが、洋酒専業のニッカウヰスキーにはできない
    • [119]1974年3月からキリンが加わり、特級2,000円クラスはG&G2,200円・オールド2,200円・ロバートブラウン2,400円
  • 日経ビジネス 1977年5月9日号
    • [103]竹鶴政孝氏は社長を退き会長に就いた
    • [104]1977年時点で竹鶴政孝氏は創業者会長、83歳
  • 実業往来 1974年
    • [105]弥谷醇平氏の急逝により、1972年に専務の土井太郎氏が社長に就任
    • [106]土井太郎氏は当時70歳、高齢を理由に社長就任を断ったが適任者が見当たらず就任した
    • [107]土井太郎氏の社長就任は当初から短期の交代が前提で、2年の任期と価格改定を終えた1974年に橋本敬之氏へ交代
    • [108]橋本敬之氏の社長就任は予定の人事であり、社内では当然のこととして受け止められた
    • [109]橋本敬之氏は1919年生まれ、55歳で社長就任
    • [110]1941年東京大学法学部卒業、1942年住友銀行入社
    • [111]1962年業務部長、1969年名古屋支店長・同年11月取締役、1973年4月常務取締役、同年5月ニッカウヰスキー副社長
    • [112]副社長就任は次期社長を前提としたもので、住友銀行出身の朝日麦酒社長 高橋吉隆氏の強い推薦があった
    • [113]社長が変わっても品質を第一とする方針は変わらないというのが社内外の評だった
    • [114]土井太郎氏から橋本敬之氏への交代は20年近い若返りとなった
    • [115]洋酒業界の値上げのトップを切ったのがニッカウヰスキーだった
    • [116]G&G1,900円→2,200円、ノースランド角1,500円→1,650円、ブラックニッカ1,000円→1,150円、ほとんどの製品を10〜20%引き上げ
    • [117]値上げ理由は麦芽など原材料の値上がり、人件費・輸送費の上昇、2回にわたる酒税引き上げ
    • [118]サントリーはウイスキー・ビール・清涼飲料・ワインの総合企業で相互補完が可能だが、洋酒専業のニッカウヰスキーにはできない
    • [119]1974年3月からキリンが加わり、特級2,000円クラスはG&G2,200円・オールド2,200円・ロバートブラウン2,400円
創業ストーリー(8)

営業員130人から260人へ、自己資本比率6.3%

橋本敬之社長は就任後に役員を入れ替え、常務以上の取締役の平均年齢を1972年3月末の66.2歳から1977年3月末の57.7歳へ8.5歳下げた[120]。83歳の創業者会長 竹鶴政孝氏を除くと、常務から社長までの6人の平均は53.5歳だった[121]。広告では社名と商品名を連呼する型をやめ、1級酒と2級酒に草刈正雄氏とスリーディグリーズ、特級酒に俳優のオーソン・ウェルズ氏を起用した[122]。品質の良い酒さえ作ればよいという社風を崩す作業で、社内の合意を得るには時間がかかった[123]。ウイスキーの品目も1975年3月までの12種類から、1977年3月末の20種類へ広げた[124]

  • 日経ビジネス 1977年5月9日号
    • [120]常務以上の取締役の平均年齢は1972年3月末66.2歳から1977年3月末57.7歳へ8.5歳若返った
    • [121]83歳の創業者会長 竹鶴政孝氏を除くと常務から社長までの6人の平均年齢は53.5歳
    • [122]会社名と商品名の連呼をやめ、1・2級酒に草刈正雄とスリーディグリーズ、特級酒にオーソンウェルズを起用
    • [123]品質の良い酒さえ作ればよいという社風で、新しい広告への社内の合意には時間がかかった
    • [124]ウイスキーは1975年3月まで12種類、1977年3月末には20種類

販売網の弱さは最大の弱点で、立て直しは営業担当者の増員から始めた[125]。1973年3月末に約130人だった営業員は1977年に260人へ増え、工場の合理化で余った人員を毎年30〜40人ずつ営業へ配転した[126]。全国12万軒の酒屋のうち上位約3万軒で全洋酒の8割が売られており、この3万軒を重要販売店、さらに選んだ1万8000軒を拠点店とし、月に1〜2回は販売員が店頭を回る仕組みを作った[127]。石油ショックと酒税引き上げ以降中断していた販売店へのリベートも、他社に先駆けて復活させた[128]。1976年10月には竹鶴政孝会長の姓から名を取った最高級ウイスキー『鶴』を、白磁びん1本1万5000円・年産2万本の見込みで売り出した[129]

  • 日経ビジネス 1977年5月9日号
    • [125]販売網の貧弱さがニッカウヰスキーの最大の弱点で、まず営業担当者の増員を打ち出した
    • [126]営業員は1973年3月末の約130人から1977年に260人。工場の合理化で余った人員を毎年30〜40人営業へ配転
    • [127]全国12万軒の酒屋のうち上位約3万軒で全洋酒の8割が売られ、3万軒を重要販売店、1万8000軒を拠点店として月1〜2回訪問
    • [128]石油ショックと酒税引き上げ以降中断していた販売店へのリベートを他社に先駆けて復活
  • 実業往来 1977年
    • [129]1976年10月に竹鶴会長の姓から取った超高級ウイスキー「鶴」を発売。白磁びん1万5000円、年産2万本程度の販売見込み

積極策の負担は収益に出た[130]。1977年3月期の自己資本比率は6.3%で、サントリーは20%に迫っていた[131]。売上高600億円はサントリーの約4,000億円の7分の1にとどまり、1976年3月期の経常利益8億3300万円はサントリーの249億円と2桁違った[132]。原酒の供給には20億円をかけて仙台工場を増設し、栃木県に26万平方メートルを取得して1976年秋から6億円の第1期工事に着手した[133]。それでもシェアは1976年度で0.2%ほどの上昇にとどまり、サントリー70%・ニッカウヰスキー20%という業界地図を崩せずにいた[134]。1977年には東亜相互企業の倒産で負債を負い、名義貸しをめぐって不動産銀行と裁判になり、発行済株式の2%が総会屋の手に渡った[135]

  • 日経ビジネス 1977年5月9日号
    • [130]積極作戦は負担の増加となって収益を圧迫した
    • [131]1977年3月期の自己資本比率はニッカウヰスキー6.3%、サントリーは20%に迫る
    • [132]売上高はサントリー約4,000億円に対しニッカウヰスキー600億円。1976年3月期経常利益は8億3300万円、サントリーは249億円
    • [133]仙台工場に20億円をかけて増設、栃木県に26万平方メートルを取得し1976年秋から6億円で第1期建設に着手
    • [134]シェアは1976年度で0.2%ぐらいの上昇にとどまり、サントリー70%・ニッカウヰスキー20%の業界地図は変わらない
  • 実業往来 1977年
    • [135]東亜相互企業の倒産で負債を負い、名義貸し事件で不動産銀行と裁判になり、発行済株数の2%が総会屋の手に渡った
  • 日経ビジネス 1977年5月9日号
    • [120]常務以上の取締役の平均年齢は1972年3月末66.2歳から1977年3月末57.7歳へ8.5歳若返った
    • [121]83歳の創業者会長 竹鶴政孝氏を除くと常務から社長までの6人の平均年齢は53.5歳
    • [122]会社名と商品名の連呼をやめ、1・2級酒に草刈正雄とスリーディグリーズ、特級酒にオーソンウェルズを起用
    • [123]品質の良い酒さえ作ればよいという社風で、新しい広告への社内の合意には時間がかかった
    • [124]ウイスキーは1975年3月まで12種類、1977年3月末には20種類
    • [125]販売網の貧弱さがニッカウヰスキーの最大の弱点で、まず営業担当者の増員を打ち出した
    • [126]営業員は1973年3月末の約130人から1977年に260人。工場の合理化で余った人員を毎年30〜40人営業へ配転
    • [127]全国12万軒の酒屋のうち上位約3万軒で全洋酒の8割が売られ、3万軒を重要販売店、1万8000軒を拠点店として月1〜2回訪問
    • [128]石油ショックと酒税引き上げ以降中断していた販売店へのリベートを他社に先駆けて復活
    • [130]積極作戦は負担の増加となって収益を圧迫した
    • [131]1977年3月期の自己資本比率はニッカウヰスキー6.3%、サントリーは20%に迫る
    • [132]売上高はサントリー約4,000億円に対しニッカウヰスキー600億円。1976年3月期経常利益は8億3300万円、サントリーは249億円
    • [133]仙台工場に20億円をかけて増設、栃木県に26万平方メートルを取得し1976年秋から6億円で第1期建設に着手
    • [134]シェアは1976年度で0.2%ぐらいの上昇にとどまり、サントリー70%・ニッカウヰスキー20%の業界地図は変わらない
  • 実業往来 1977年
    • [129]1976年10月に竹鶴会長の姓から取った超高級ウイスキー「鶴」を発売。白磁びん1万5000円、年産2万本程度の販売見込み
    • [135]東亜相互企業の倒産で負債を負い、名義貸し事件で不動産銀行と裁判になり、発行済株数の2%が総会屋の手に渡った
創業ストーリー(9)

ゼロベース予算と創業50周年に重なった増税

1978年初頭、橋本敬之社長はゼロベース予算の導入を決めた[136]。業績が悪化していたわけでも本社予算が膨張していたわけでもなく、全社を覆うマンネリ体質を崩す手立てとして選んだ[137]。企画管理部長の石津仲二氏をチーフに、総務・経理・生産・営業の代表を集めた5人のプロジェクトチームが組まれ、決算期が1〜12月であることから1978年度は下期の半年だけを対象とし、本社と横浜支店をモデルケースに絞った[138]。課・部・本社の3段階で個別業務計画表に優先順位を付け、最終の常務会は2日かけて約400枚のパッケージを審査した[139]。従来1カ月だった予算編成に3カ月を費やし、広告費と人件費を除く1979年度の本社予算は前年度比9%減となった[140]

  • 日経ビジネス 1980年6月16日号
    • [136]橋本敬之社長がゼロベース予算導入を決意したのは1978年初頭
    • [137]業績悪化や本社予算の膨張が理由ではなく、会社全体のマンネリ化した体質を打破する手段として導入した
    • [138]企画管理部長 石津仲二氏をチーフに総務・経理・生産・営業の代表5人でプロジェクトチームを編成。決算期が1〜12月のため1978年度は下期半年を対象とし、本社と横浜支店をモデルケースとした
    • [139]課・部・本社の3段階でランキングし、本社段階の常務会は2日間で約400枚のパッケージを審査した
    • [140]従来1カ月だった予算編成に3カ月を要し、広告・人件費を除く1979年度の本社予算は前年度比9%減

1978年夏からの急激な円高で外国産ウイスキーの攻勢を受け、ニッカウヰスキーは2桁の売上増は望めないと判断した[141]。体質改善3カ年計画は1979年度から始まり、退職者不補充による人員削減・部課縮小・経費削減の3本柱を掲げた[142]。1979年度は130人を減らし、製品在庫の圧縮と物流合理化を合わせて約10億円の経費を削り、直接部門と間接部門の比率は6対4から7対3へ動いた[143]。ゼロベース予算のほうは横浜支店の営業部門で拒否反応が出た[144]。販売活動と売上高が直接結び付かずパッケージ作りが難航し、工場でも既存の予算管理と重なるため、支店と工場への導入は見合わせた[145]。1979年、創業者の竹鶴政孝氏が死去した[146]

  • 日経ビジネス 1980年6月16日号
    • [141]1978年夏からの急激な円高で外国産ウイスキーの攻勢を受け、2桁台の売上増は望めないと判断した
    • [142]1979年度から体質改善3カ年計画を実施。退職者不補充による人員削減・部課縮小・経費削減が3本柱
    • [143]1979年度は130人の人員削減を中心に製品在庫縮小・物流合理化を進め約10億円の経費削減を達成、直間比率は6対4から7対3へ改善
    • [144]モデルケースの横浜支店の営業部門で拒否反応が起きた
    • [145]販売活動と売り上げが直接結び付かずパッケージづくりが難航し、工場でも既存の予算と重なるため支店・工場での導入は見合わせた
  • 証券アナリストジャーナル 1989年11月号(廣瀬忠夫・講演要旨)
    • [146]創業者 竹鶴政孝氏の死去は1979年(1989年時点で死去から10年)

1984年、税制改正でウイスキーに担税能力を超える増税が課され、焼酎ブームも重なった[147]。創業50周年の年に主力のウイスキー需要が縮んだ[148]。ニッカウヰスキーはウイスキーを原点から見直し、異なる蒸溜所のモルト原酒だけをブレンドしたピュアモルトと、余市・宮城峡のシングルモルトを品ぞろえに加えた[149]。1985年には樽から度数51.4%のまま瓶詰めした『フロム・ザ・バレル』を発売し、CIの研究にも着手した[150]。1985年3月、社長には竹鶴政孝氏の養子で、1949年に北海道大学工学部を出て同年入社した竹鶴威氏が就いた[151]。竹鶴威氏は1967年から東北各地の川の上流を歩いて用地を探し、1969年完成の仙台工場を建設委員長として指揮した[152]。ウイスキー離れについて、竹鶴威氏は酒飲みの8割はウイスキー愛好者であり、うまいものを出していれば心配は要らないとみていた[153]

  • 証券アナリストジャーナル 1989年11月号(廣瀬忠夫・講演要旨)
    • [147]1984年に税制改正でウイスキーに担税能力を超えた増税が実施され、同時に焼酎ブームが起きて痛手を受けた
    • [148]1984年はニッカウヰスキーの創業50周年にあたった
    • [149]ウイスキーを原点から見直すこととし、シングルモルトウイスキーやピュアモルトウイスキー(異なる蒸留所のモルト原酒同士をバッティングした原酒100%のウイスキー)を発売。原酒工場は余市と仙台宮城峡
    • [150]樽出しウイスキー「フロム・ザ・バレル」(アルコール度数51.4%)を発売。CIの研究に着手し、単にマークを替えるだけではない社内運動を行った
  • 日経ビジネス 1985年6月24日号
    • [151]竹鶴威氏は1924年3月6日生まれ、1949年北海道大学工学部卒・同年ニッカウヰスキー入社、1985年3月社長就任。養父は竹鶴政孝氏
    • [152]1967年の北海道工場長時代に第二工場づくりへ動き、地図を片手に東北地方の川の上流を歩いて用地を選定。建設委員長として指揮した仙台工場は1969年に完成
    • [153]竹鶴威氏は焼酎ブームによるウイスキー離れについて、酒飲みの80%はウイスキーのファンで、うまいものさえ出していれば心配は無用と述べた
  • 日経ビジネス 1980年6月16日号
    • [136]橋本敬之社長がゼロベース予算導入を決意したのは1978年初頭
    • [137]業績悪化や本社予算の膨張が理由ではなく、会社全体のマンネリ化した体質を打破する手段として導入した
    • [138]企画管理部長 石津仲二氏をチーフに総務・経理・生産・営業の代表5人でプロジェクトチームを編成。決算期が1〜12月のため1978年度は下期半年を対象とし、本社と横浜支店をモデルケースとした
    • [139]課・部・本社の3段階でランキングし、本社段階の常務会は2日間で約400枚のパッケージを審査した
    • [140]従来1カ月だった予算編成に3カ月を要し、広告・人件費を除く1979年度の本社予算は前年度比9%減
    • [141]1978年夏からの急激な円高で外国産ウイスキーの攻勢を受け、2桁台の売上増は望めないと判断した
    • [142]1979年度から体質改善3カ年計画を実施。退職者不補充による人員削減・部課縮小・経費削減が3本柱
    • [143]1979年度は130人の人員削減を中心に製品在庫縮小・物流合理化を進め約10億円の経費削減を達成、直間比率は6対4から7対3へ改善
    • [144]モデルケースの横浜支店の営業部門で拒否反応が起きた
    • [145]販売活動と売り上げが直接結び付かずパッケージづくりが難航し、工場でも既存の予算と重なるため支店・工場での導入は見合わせた
  • 証券アナリストジャーナル 1989年11月号(廣瀬忠夫・講演要旨)
    • [146]創業者 竹鶴政孝氏の死去は1979年(1989年時点で死去から10年)
    • [147]1984年に税制改正でウイスキーに担税能力を超えた増税が実施され、同時に焼酎ブームが起きて痛手を受けた
    • [148]1984年はニッカウヰスキーの創業50周年にあたった
    • [149]ウイスキーを原点から見直すこととし、シングルモルトウイスキーやピュアモルトウイスキー(異なる蒸留所のモルト原酒同士をバッティングした原酒100%のウイスキー)を発売。原酒工場は余市と仙台宮城峡
    • [150]樽出しウイスキー「フロム・ザ・バレル」(アルコール度数51.4%)を発売。CIの研究に着手し、単にマークを替えるだけではない社内運動を行った
  • 日経ビジネス 1985年6月24日号
    • [151]竹鶴威氏は1924年3月6日生まれ、1949年北海道大学工学部卒・同年ニッカウヰスキー入社、1985年3月社長就任。養父は竹鶴政孝氏
    • [152]1967年の北海道工場長時代に第二工場づくりへ動き、地図を片手に東北地方の川の上流を歩いて用地を選定。建設委員長として指揮した仙台工場は1969年に完成
    • [153]竹鶴威氏は焼酎ブームによるウイスキー離れについて、酒飲みの80%はウイスキーのファンで、うまいものさえ出していれば心配は無用と述べた

営業を手放し、余市と宮城峡の製造だけが残るまで

創業ストーリー(10)

東証二部上場と、原酒へ投じた公募270億円

1989年9月27日、ニッカウヰスキーは東京証券取引所第二部に上場した[154]。公募は発行済株式総数37,000千株のうち7,400千株、払込金額は1株3,640円で、調達額は約270億円[155][156]。上場直前の大株主はアサヒビールが21,319千株で72.0%、代表取締役副会長の竹鶴威氏が1,400千株で4.7%を保有していた[157]。従業員は1,112人、工場は北海道から九州まで7カ所、支店・営業所は全国52カ所にあった[158]。1988年12月期の売上高1,153億1,500万円のうち、ウイスキーが968億5,400万円と84.0%を占めた[159]

  • 証券 1989年
    • [154]1989年9月27日にニッカウヰスキーが東京証券取引所第二部へ上場した(業種・コード 食料品・2541)
    • [155]上場時の発行済株式総数は37,000千株、公募は7,400千株、払込金額は1株3,640円だった
    • [157]1989年4月20日現在の大株主はアサヒビール21,319千株(72.0%)、竹鶴威1,400千株(4.7%)
    • [158]1989年3月31日現在の従業員は1,112人、工場は北海道・弘前・仙台・栃木・柏・西宮・九州の7カ所、支店・営業所は全国52か所
    • [159]1988年12月期の販売実績はウイスキー96,854百万円(84.0%)、その他18,461百万円、合計115,315百万円
  • 日経ビジネス 1991年10月28日号
    • [156]1989年9月の東証2部上場の公募増資で市場から約270億円を調達した

社長の廣瀬忠夫氏は住友銀行の常務取締役から1983年3月にニッカウヰスキー取締役副社長へ移り、1988年3月に代表取締役社長に就いた[160]。上場から5日後の1989年10月2日、廣瀬忠夫社長は日本証券アナリスト協会の企業分析部会で、創業以来の品質第一・本物志向・パイオニア精神に、世界に冠たるウイスキーづくりという合言葉を重ねたと述べた[161]。モルト原酒の工場は余市と仙台の2カ所しかなく、蒸留所が100前後あるスコットランドのように他社から原酒を買えなかった[162]。1つの工場で発酵・蒸留・貯蔵と樽を変えて何種類もの原酒を作り分け、その一部をシングルモルト余市12年、シングルモルト宮城峡12年として発売した[163]

  • 証券 1989年
    • [160]廣瀬忠夫は1955年3月東京大学法学部卒業、同年4月住友銀行入行、1982年9月同行常務取締役、1983年3月ニッカウヰスキー取締役副社長、1988年3月代表取締役社長就任
  • 証券アナリストジャーナル 1989年11月号(廣瀬忠夫・講演要旨)
    • [161]1989年10月2日の日本証券アナリスト協会企業分析部会での講演で、品質第一・本物志向・パイオニア精神を基本理念とし、最近は「世界に冠たるウイスキーづくり」を合言葉にしていると述べた
    • [162]スコットランドはモルトウイスキーの蒸留工場が100前後あり相互に原酒を売買するが、ニッカウヰスキーは原酒工場が余市と仙台の2カ所しかない
    • [163]発酵・蒸留・貯蔵の仕方や樽の違いで各工場が何種類もの原酒を作り分け、その一部をシングルモルト余市12年・シングルモルト宮城峡12年として発売した

特級への傾斜は上場の9年前に決まっていた。サントリーのオールドが売上のピークを記録した1980年、ニッカウヰスキーは販売量の8割を占めていた1・2級と特級の比率を逆転させることを基本戦略に据え[164]、1985年ごろからピュアモルト、ザ・ブレンド、フロム・ザ・バレルと旧特級の品ぞろえを増やした[165]。特級を厚くするには、生産に最低7〜8年かかるモルト原酒の積み増しが要る[166]。1980年に200億円だった原酒在庫は1990年に400億円へ倍増し[167]、上場で得た約270億円を原資に、1989年と1990年は1年で約50億円ずつモルト原酒を積み増した[168]

  • 日経ビジネス 1991年10月28日号
    • [164]サントリー「オールド」が売上ピークを記録した1980年、ニッカウヰスキーは当時8割を占めていた1・2級と特級の比率を逆転させることを基本戦略とした
    • [165]改正前の1985年ごろから「ピュアモルト」「ザ・ブレンド」「フロム・ザ・バレル」など旧特級の品ぞろえに力を入れた
    • [166]ウイスキー事業は生産に最低7〜8年の長い年数がかかる
    • [167]原酒の在庫は1980年の200億円から1990年に400億円へ倍増した
    • [168]上場で調達した約270億円を原資に1989年・1990年に一気に約50億円ずつモルト原酒を積み増した
  • 証券 1989年
    • [154]1989年9月27日にニッカウヰスキーが東京証券取引所第二部へ上場した(業種・コード 食料品・2541)
    • [155]上場時の発行済株式総数は37,000千株、公募は7,400千株、払込金額は1株3,640円だった
    • [157]1989年4月20日現在の大株主はアサヒビール21,319千株(72.0%)、竹鶴威1,400千株(4.7%)
    • [158]1989年3月31日現在の従業員は1,112人、工場は北海道・弘前・仙台・栃木・柏・西宮・九州の7カ所、支店・営業所は全国52か所
    • [159]1988年12月期の販売実績はウイスキー96,854百万円(84.0%)、その他18,461百万円、合計115,315百万円
    • [160]廣瀬忠夫は1955年3月東京大学法学部卒業、同年4月住友銀行入行、1982年9月同行常務取締役、1983年3月ニッカウヰスキー取締役副社長、1988年3月代表取締役社長就任
  • 日経ビジネス 1991年10月28日号
    • [156]1989年9月の東証2部上場の公募増資で市場から約270億円を調達した
    • [164]サントリー「オールド」が売上ピークを記録した1980年、ニッカウヰスキーは当時8割を占めていた1・2級と特級の比率を逆転させることを基本戦略とした
    • [165]改正前の1985年ごろから「ピュアモルト」「ザ・ブレンド」「フロム・ザ・バレル」など旧特級の品ぞろえに力を入れた
    • [166]ウイスキー事業は生産に最低7〜8年の長い年数がかかる
    • [167]原酒の在庫は1980年の200億円から1990年に400億円へ倍増した
    • [168]上場で調達した約270億円を原資に1989年・1990年に一気に約50億円ずつモルト原酒を積み増した
  • 証券アナリストジャーナル 1989年11月号(廣瀬忠夫・講演要旨)
    • [161]1989年10月2日の日本証券アナリスト協会企業分析部会での講演で、品質第一・本物志向・パイオニア精神を基本理念とし、最近は「世界に冠たるウイスキーづくり」を合言葉にしていると述べた
    • [162]スコットランドはモルトウイスキーの蒸留工場が100前後あり相互に原酒を売買するが、ニッカウヰスキーは原酒工場が余市と仙台の2カ所しかない
    • [163]発酵・蒸留・貯蔵の仕方や樽の違いで各工場が何種類もの原酒を作り分け、その一部をシングルモルト余市12年・シングルモルト宮城峡12年として発売した
創業ストーリー(11)

1989年4月の級別廃止と、消えた旧1・2級市場

1989年4月、酒税法改正で特級・1級・2級の級別が廃止され、従量課税へ一本化された[169]。2級酒は平均で60%値上がりし、ウイスキー市場の4割を占めていた旧1・2級市場は2年で7割が消えた[170]。反対に特級は大幅に値下がりした[171]。改正前の販売量に占める1・2級の比率は、サントリーが5割、キリンシーグラムが6割、ニッカウヰスキーは7割[172]。1990年12月期の売上高は977億円と1988年比15.3%減で、サントリー洋酒事業部の13.8%減、キリンシーグラムの5.0%減より落ち込みが大きかった[173]

  • 日経ビジネス 1991年10月28日号
    • [169]1989年4月の酒税法改正で特級・1級・2級の級別が廃止され、従量課税に一本化された
    • [170]2級酒は平均で60%値上がりし、ウイスキー市場の4割を占めていた旧1・2級市場はこの2年間で7割が消えた
    • [171]改正で特級は大幅に値下がりした
    • [172]販売量に占める1・2級の比率は改正前でニッカ7割、サントリー5割、キリンシーグラム6割だった
    • [173]1990年12月期の売上高はニッカが977億円で1988年比15.3%減、サントリー洋酒事業部13.8%減、キリンシーグラム5.0%減

ニッカウヰスキーは旧特級クラスの新商品を続けて投入した。1989年7月にスーパーセッション、1990年2月にオールモルト、同年6月にスーパーニッカプレミアム[174]。オールモルトは発売から5カ月で初年度目標の25万ケースを超えた[175]。同時に売り先も広げ、1988年まで年1カ所だった営業拠点を1989年に姫路や岐阜など8カ所、1990年に山口や盛岡など5カ所新設した[176]。新入社員の採用は約20人から1989年47人・1990年48人へ倍増し、5年で営業マンが100人近く増えた[177]。1989年には生産から営業までの合理化に年10数億円のコンピューター投資も始めた[178]

  • 日経ビジネス 1991年10月28日号
    • [174]1989年7月「スーパーセッション」(720ml 1980円)、1990年2月「オールモルト」(750ml 2450円)、同年6月「スーパーニッカプレミアム」(5000円)を投入した
    • [175]オールモルトは発売後わずか5カ月で初年度の販売目標25万ケースを突破した
    • [176]1988年までは年1カ所だった営業拠点を1989年に姫路・岐阜など8カ所、1990年に山口・盛岡など5カ所新設した
    • [177]約20人だった新入社員の採用を1989年47人・1990年48人に倍増させ、過去5年間で営業マンが100人近く増えた
    • [178]1989年に生産から営業までの合理化のため年間10数億円をかけたコンピューター投資を始めた

1990年、輸入スコッチの価格攻勢が国産の旧特級を直撃した[179]。1989年から並行輸入が急増し、総代理店が正規品の価格を並行品に合わせたため、4,000〜5,000円の輸入洋酒が一部は半額近くで売られた[180]。売上高固定費比率は1986年の30.7%から1990年に40.5%へ上がり、社員1人当たり売上高は1988年の1億280万円から1990年に8,290万円へ落ちた[181][182]。1990年12月期の経常利益は8億7,800万円と、1988年12月期の3分の1近くまで減った[183]アサヒビールは1991年9月にアレルギー関連の医薬品事業の一部をニッカウヰスキーへ移管し、飲料の生産も委託した[184]

  • 日経ビジネス 1991年10月28日号
    • [179]1990年に国産ウイスキーはスコッチを中心とした輸入酒の猛烈な価格攻勢にあい、国産各社は軒並み打撃を受けた
    • [180]1989年から並行輸入が急増し輸入総代理店が正規品の価格を並行輸入品に合わせたため、4000〜5000円の輸入洋酒が一部は半額に近い価格で売られた
    • [181]売上高固定費比率は1986年の30.7%から1990年に40.5%へ上昇した
    • [182]社員1人当たりの売上高は1988年の1億280万円から1990年に8290万円へ下落した
    • [183]1990年12月期の経常利益は8億7800万円と1988年12月期に比べ3分の1近くに落ち込んだ
    • [184]1991年9月にアサヒビールグループのアレルギー関連の医薬品事業を一部ニッカへ移管し、アサヒビールの飲料の外部委託生産分もニッカへ委託した
  • 日経ビジネス 1991年10月28日号
    • [169]1989年4月の酒税法改正で特級・1級・2級の級別が廃止され、従量課税に一本化された
    • [170]2級酒は平均で60%値上がりし、ウイスキー市場の4割を占めていた旧1・2級市場はこの2年間で7割が消えた
    • [171]改正で特級は大幅に値下がりした
    • [172]販売量に占める1・2級の比率は改正前でニッカ7割、サントリー5割、キリンシーグラム6割だった
    • [173]1990年12月期の売上高はニッカが977億円で1988年比15.3%減、サントリー洋酒事業部13.8%減、キリンシーグラム5.0%減
    • [174]1989年7月「スーパーセッション」(720ml 1980円)、1990年2月「オールモルト」(750ml 2450円)、同年6月「スーパーニッカプレミアム」(5000円)を投入した
    • [175]オールモルトは発売後わずか5カ月で初年度の販売目標25万ケースを突破した
    • [176]1988年までは年1カ所だった営業拠点を1989年に姫路・岐阜など8カ所、1990年に山口・盛岡など5カ所新設した
    • [177]約20人だった新入社員の採用を1989年47人・1990年48人に倍増させ、過去5年間で営業マンが100人近く増えた
    • [178]1989年に生産から営業までの合理化のため年間10数億円をかけたコンピューター投資を始めた
    • [179]1990年に国産ウイスキーはスコッチを中心とした輸入酒の猛烈な価格攻勢にあい、国産各社は軒並み打撃を受けた
    • [180]1989年から並行輸入が急増し輸入総代理店が正規品の価格を並行輸入品に合わせたため、4000〜5000円の輸入洋酒が一部は半額に近い価格で売られた
    • [181]売上高固定費比率は1986年の30.7%から1990年に40.5%へ上昇した
    • [182]社員1人当たりの売上高は1988年の1億280万円から1990年に8290万円へ下落した
    • [183]1990年12月期の経常利益は8億7800万円と1988年12月期に比べ3分の1近くに落ち込んだ
    • [184]1991年9月にアサヒビールグループのアレルギー関連の医薬品事業を一部ニッカへ移管し、アサヒビールの飲料の外部委託生産分もニッカへ委託した
創業ストーリー(12)

完全子会社化と、製造に残った余市の原酒不足

1994年3月、アサヒビール常務からアサヒビールシステム社長を務めた小原宏氏がニッカウヰスキー社長に就いた[185]。売上高は1988年をピークに5年続けて減った[186]

  • 日経ビジネス 1994年6月27日号
    • [185]小原宏は1953年3月アサヒビール入社、1982年同社取締役、1986年同社常務・朝日共栄(現アサヒビールシステム)社長を経て1994年3月ニッカウヰスキー社長に就任した
    • [186]ニッカウヰスキーの業績は1988年をピークに5年連続で減収だった

回復は間に合わなかった。2000年10月12日、アサヒビールはニッカウヰスキーとアサヒビールシステムを簡易株式交換で完全子会社にすると発表し、効力発生日を2001年2月1日と定めた[187]。完全子会社化に続いて、2001年4月1日には販売部門の資産・組織・顧客・契約を一切アサヒビールへ引き継ぎ、洋酒や低アルコール飲料の製造会社に特化した[188]

    • [187]アサヒビールは2000年10月12日、ニッカウヰスキーとアサヒビールシステムを簡易株式交換で完全子会社化すると発表し、効力発生予定日は2001年2月1日とした
    • [188]アサヒビールとニッカウヰスキーは2001年1月15日に合意し、ニッカの販売部門にかかわる資産・組織・顧客・契約関係の一切をアサヒが引き継ぎ、ニッカは洋酒や低アル飲料などの製造会社に特化する。営業譲渡期日は2001年4月1日
  • 日経ビジネス 1994年6月27日号
    • [185]小原宏は1953年3月アサヒビール入社、1982年同社取締役、1986年同社常務・朝日共栄(現アサヒビールシステム)社長を経て1994年3月ニッカウヰスキー社長に就任した
    • [186]ニッカウヰスキーの業績は1988年をピークに5年連続で減収だった
    • [187]アサヒビールは2000年10月12日、ニッカウヰスキーとアサヒビールシステムを簡易株式交換で完全子会社化すると発表し、効力発生予定日は2001年2月1日とした
    • [188]アサヒビールとニッカウヰスキーは2001年1月15日に合意し、ニッカの販売部門にかかわる資産・組織・顧客・契約関係の一切をアサヒが引き継ぎ、ニッカは洋酒や低アル飲料などの製造会社に特化する。営業譲渡期日は2001年4月1日

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沿革年表 1934〜2024年

ニッカウヰスキーの沿革1934〜2024年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1934〜1953年リンゴ汁で熟成を待った余市工場と三級ウイスキーへの譲歩竹鶴政孝が大日本果汁を設立★★★
北海道余市に工場を建設★★
「ニッカ林檎汁」を発売★★
ウイスキー・ブランデーの製造免許を取得★★
「ニッカアップルワイン」を発売
第一号ウイスキー「ニッカウヰスキー」を発売★★
竹鶴政孝竹鶴政孝氏が取締役社長に就任★★
竹鶴政孝「スペシャルブレンドウヰスキー」を発売
竹鶴政孝商号をニッカウヰスキーに変更し東京工場を建設★★
1954〜1969年丸びんニッキーの値下げとカフェ式蒸溜機が生んだ量と質竹鶴政孝朝日麦酒が資本参加★★★
竹鶴政孝「ブラックニッカ」を発売★★
竹鶴政孝西宮工場を建設
竹鶴政孝弘前工場を建設
竹鶴政孝朝日麦酒からシードル事業を譲受
竹鶴政孝「スーパーニッカ」を発売★★
竹鶴政孝西宮工場にカフェ式連続式蒸溜機を設置★★
竹鶴政孝二級ウイスキー「ハイニッカ」を発売★★★
竹鶴政孝カフェグレーンを用いた新「ブラックニッカ」を発売
竹鶴政孝新東京工場(現・柏工場)を建設
竹鶴政孝宮城峡蒸溜所を建設★★
1970〜1988年シェア20%からの追撃と、創業50周年に来たウイスキー増税土井太郎「ニッカシードル」を発売
橋本敬之最高級ブレンデッド「鶴」を発売
橋本敬之栃木工場を建設
橋本敬之創業者の竹鶴政孝が死去★★
橋本敬之「ピュアモルト」を発売
竹鶴威「フロム・ザ・バレル」を発売
1989〜2025年営業を手放し、余市と宮城峡の製造だけが残るまで広瀬忠夫スコットランドのベン・ネヴィス蒸溜所を買収★★
広瀬忠夫東京証券取引所第二部に上場★★★
竹鶴威「ブラックニッカ クリアブレンド」を発売
田渕実カフェ式蒸溜機を西宮工場から宮城峡蒸溜所に移設
由井大三郎「竹鶴12年ピュアモルト」を発売
宇野正紘上場廃止を経てアサヒビールの完全子会社に移行★★★
宇野正紘営業部門をアサヒビールに譲渡し製造に特化★★
山下弘門司工場を吸収合併
中川圭一アサヒグループホールディングスの子会社に移行★★
中川圭一竹鶴政孝を題材とした連続テレビ小説「マッサン」が放映★★
岸本健利余市蒸溜所の建造物が国の重要文化財に指定★★
岸本健利本店を北海道余市町に移転
爲定一智創業90周年を迎え「ザ・ニッカ ナインディケイズ」を発売
出典・参考 13件
出典・参考
  • 日経ビジネス 1977年5月9日号
  • 日経ビジネス 1980年6月16日号
  • 日経ビジネス 1985年6月24日号
  • 証券アナリストジャーナル 1989年11月号(廣瀬忠夫・講演要旨)
  • 日経ビジネス 1991年10月28日号
  • 日経ビジネス 1994年6月27日号
  • 私の履歴書 経済人11(日本経済新聞社、1980年)「竹鶴政孝」
  • 日本食糧新聞 2000年10月16日
  • 日本食糧新聞 2001年1月19日
  • 実業往来 1968年
  • 実業往来 1974年
  • 実業往来 1977年
  • 証券 1989年

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