竹鶴政孝氏は広島県竹原町のつくり酒屋に生まれ、大阪高等工業の醸造科を1916年に卒業する前から、大阪の摂津酒造で洋酒づくりに就いた[1]。入社一年足らずの1918年7月、阿部喜兵衛社長にスコットランド留学を勧められ、神戸港を発った[2]。グラスゴー大学に聴講生として籍を置きながら、1918年11月から1920年5月までローゼスのグレンリベット蒸溜所で実習を重ね、カンベルタウンではイネー博士のもとで約6か月ブレンドの訓練を受けた[3]。1921年11月に帰国して技師長に就いたが、摂津酒造は大戦後の恐慌のただ中にあり、竹鶴政孝氏が出した本格モルトウイスキー醸造計画書は役員会で否認された[4]。1922年、竹鶴政孝氏は辞表を出して摂津酒造を去った[5]。
1923年の春、寿屋の鳥井信治郎氏が浪人中の竹鶴政孝氏の自宅を三度訪ね、赤玉ポートワインで得た利益を本格ウイスキーに投じたいと持ちかけた[6]。同年6月の入社にあたっては、ウイスキーづくりを全部まかせること、必要な資金を用意すること、年俸4,000円、雇用期間十年という条件が交わされた[7]。十年という年限は、ウイスキーが商品として完成するのに要する年数から決めたものだった[8]。竹鶴政孝氏は工場の土地に北海道を勧めたが、鳥井信治郎氏は大阪から近い場所を譲らなかった[9]。当時の北海道は大阪から三日以上かかる辺地とみなされていた[10]。竹鶴政孝氏は宝塚から紀州、滋賀、舞子まで歩いて京都の山崎を選び、1924年11月に200万円あまりを投じた工場を竣工させた[11]。
1929年4月1日、山崎工場の原酒を用いた白札サントリーを1本3円50銭で発売したが、売れ行きも評判も伸びなかった[12]。1933年、寿屋はビール工場と事業一切を麦酒共同販売へ300万円で売却し、工場長だった竹鶴政孝氏はその直後に郷里の母を亡くした[13]。十年の契約は1932年に満了しており、竹鶴政孝氏はここで独立に踏み切った[14]。熟成を待つあいだの収入をつくればすぐ売れるジュースで賄う計画を立て、加賀証券の加賀正太郎氏、芝川又四郎氏、柳沢伯爵の三人の応援を得て、資本金10万円の会社をつくることに決めた[15]。工場の予定地には、以前から目をつけていた北海道余市を選んだ[16]。余市川が日本海の石狩湾に注ぐ河口の町で、付近からピートがとれ、リンゴとぶどうの産地でもあった[17]。
1934年7月、竹鶴政孝氏は大日本果汁株式会社を設立した[18]。大日本と冠したのは、当時の風潮に加えて、大日本麦酒の向こうを張ろうという意気からだった[19]。同年10月には北海道余市郡に工場を建て、住友銀行から100万円の融資を受けてウイスキーづくりの準備に入った[20]。並行して余市のリンゴを搾り、フランス製の濃縮機で低温濃縮した果汁を1本30銭で売り出し、1935年5月にニッカリンゴ汁の発売を始めた[21]。1本に約5個分の果汁を詰めた栄養本位の商品で、北海道のめぼしい病院で使われるまでにはなったが、ラムネとサイダーの時代に一般の嗜好とは合わず、値段も高すぎた[22]。
小樽から船で東京と大阪へ送った積荷は、途中で雪をかぶってラベルの糊にカビが生え、商品として出せないこともあった[23]。回転が悪く、東京に置いた在庫はペクチンが凝固して濁りを出し、本郷の本富士警察に呼び出された[24]。赤字会社のうわさは小樽あたりまで広まった[25]。それでも蒸溜の準備は進み、山崎工場の単式蒸溜機を手がけた喜田専之輔氏に同じ釜をつくらせ、1936年秋からウイスキーの蒸溜に入った[26]。原酒が商品になるまでの間を埋めるため、1937年10月にアップル・ゼリーとグレープ・ゼリー、翌1938年にアップル・ワインを出した[27]。
1940年10月、大日本果汁はぎざぎざの線を入れた角びんで第一号のニッカウヰスキーを発売した[28]。ニッカという商品名は、当時の社名である大日本果汁の略、日果からとった[29]。発売の2か月後に価格統制が始まり、ウイスキーは一級・二級・三級に分けられ、ニッカはサントリー、トミーとともに商工省と大蔵省の共同告知で一級ウイスキーの指定銘柄品として公示された[30]。統制入りとともに余市工場は海軍の指定工場となり、原料の大麦の配給を受けて貯蔵量を増やした[31]。竹鶴政孝氏は工場敷地内の沼に囲まれた島に貯蔵庫を建て、庫と庫の間を離したうえ、各年代の原酒を均等に分けて入れた[32]。
終戦の時点で、余市の貯蔵庫には古いもので約10年を経た原酒が並んでいた[33]。北海道工場には占領軍の将兵などからウイスキーの強請があり、占領軍の幹部は15セントのアメリカたばことの交換を通達の形で求めてきた[34]。竹鶴政孝氏はこれを略奪行為だと言って断った[35]。当時のウイスキーは配給価格120円に対してヤミで1,500円がつき、一本が米一俵の相場だとも言われたが、大日本果汁がヤミ行為に回ることはできず、本格ウイスキーはつくるだけ損が出た[36]。戦後の数年は本格ウイスキーを求める市場がなく、カストリやバクダンと呼ばれる密造酒が出回った[37]。
1949年、酒類の自由販売と雑酒の公定価格廃止が実施された[38]。当時の税法は三級ウイスキーを原酒5%以下と定め、下限は0%で、混ぜる原酒の貯蔵期間にも制限がなかった[39]。イミテーションを出せない大日本果汁は、ウイスキーメーカーに原酒を売るモルト屋を兼業し、全国約30軒あまりの免許業者へ原酒を引き渡した[40]。この収入で経理は一息ついたものの、インフレで従業員の給料が上がり、税金は滞納しがちになった[41]。国税庁初代長官の高橋衛氏は、原酒を抱えたまま万一のことがあれば監督官庁も困ると竹鶴政孝氏に説いた[42]。1950年春、竹鶴政孝氏は全従業員を工場の広場に集めて苦衷を述べ、三級ウイスキーの発売に同意した[43]。
発売にあたり、竹鶴政孝氏は税法で許される最高率まで原酒を入れ、他社の640ミリリットル・330円に対して、140ミリリットル少ない500ミリリットルのびんを20円高い350円で出した[44]。容量が少なく値段が高いことは、他社との競争上の不利として残った[45]。売上が伸びるにつれて専門人材が要り、大日本果汁は特定の普通銀行を避けて日本銀行に依頼し、統計局長の土井太郎氏を経理担当に迎え、続いて営業担当にコロンビア大学商科出身の弥谷醇平氏を入れた[46]。1952年8月、ウイスキーを売る会社が大日本果汁でもあるまいとして、商号をニッカウヰスキー株式会社に変更した[47]。同じ年、東京・麻布の毛利家の屋敷跡にびん詰めの東京工場を建てた[48]。1953年3月1日、ウイスキーの級別呼称は特級・一級・二級に改められた[49]。
1954年6月、ニッカウヰスキーは朝日麦酒の資本参加を受けた[50]。前年の1953年3月には、それまでの一級・二級・三級という区分が特級・一級・二級の呼称に改まり[51]、日本のウイスキー業界は二級を軸に伸び始めた[52]。1954年は洋酒各社の販売戦の年で、ウイスキーの消費量は激増したが、トミーを出していた東京醸造は経営不振に陥った[53]。この伸びにニッカウヰスキーは乗り切れなかった。1950年春に三級ウイスキーを出した際、税法で許される最高率まで原酒を入れ、他社の640ml・330円に対し、140ml少ない500ml入りを20円高い350円で売っていた[54]。容量が少なく値段が高いことは、他社との競争で不利に働いた[55]。
経理には日本銀行統計局長だった土井太郎氏を専務として迎え[56]、その2年後、営業担当としてコロンビア大学商科出身の弥谷醇平氏が1954年に入社した[57]。総務担当には元朝日ビール常務の奥村三郎氏が加わった[58]。弥谷醇平氏は、500ml入りで350円のものを他社なみの640ml入りにして同じ350円で売れば一本あたり三割の欠損になるが、一年もちこたえれば87%伸びて欠損は黒字に転じ、一度はデッドポイントを通過しなければ積極的な市場はもてないと説いた[59]。竹鶴政孝社長はいろいろな角度から検討を重ね、この方針を決めた[60]。
丸びん(通称ニッキー)を発売したのは1955年9月1日である[61]。この一本で、それまで北海道6・内地4だった売上の割合は一挙に逆転し、全国商品になった[62]。ウイスキーの販売金額は1954酒造年度を100として、1959年には534に達した[63]。1955年11月、古い原酒を生かしたゴールドニッカを2000円で売り出し[64]、翌1956年にはブラックニッカを1500円で加えた[65]。都市の盛り場にはトリス・ニッカ・オーシャンの名を冠したバーが増え、戦後第一回の洋酒ブームが起きた[66]。当時の二級ウイスキーは原酒の混合量が5%までで、竹鶴政孝社長が考えるウイスキーとは遠かった[67]。
洋酒ブームの伸びが鈍化したのは1960年以降である[68]。ウイスキー業界はこの年、原酒の混和率を引き上げて二級の品質を上げたいと大蔵省に要望した[69]。これがいれられ、1962年4月1日から二級は5%未満から10%未満へ、5%以上とされていた一級は10%以上20%までへ改まった[70]。ただし原酒が0%でもウイスキーとして出せる点は是正されず[71]、竹鶴政孝社長は級別がなければ日本のウイスキー業界はもっと進歩していたと述べている[72]。設備投資も並行し、1959年に西宮のびん詰め工場、1960年に弘前工場、1964年に九州鳥栖の工場を建てた[73]。
竹鶴政孝社長は混和率の引き上げを機に二つの結論を出した[74]。一つは原酒を許されたぎりぎりまで、それもできるだけ古いものを使うこと。貯蔵期間に制限がないため、二級で9%入れれば普通の原酒を15%入れた程度の味が出る[75]。もう一つは、原酒に混ぜる中性スピリッツをやめ、スコッチと同じ穀類由来のグレーンスピリッツへ替える点にあった[76]。そのためにはカフェ式蒸溜機が要り、製造設備に多額の資金が必要だったため導入は先延ばしになった[77]。朝日麦酒の山本為三郎氏の援助で、西宮のグレーンスピリッツ工場は1964年に完成した[78]。日本でグレーン製法を採ったのはニッカウヰスキーだけだった[79]。
この二つに取り組み、500円のハイニッカと1000円のブラックニッカを市場へ出した[80]。ハイニッカの発売は1964年2月、ブラックニッカは1965年9月である[81]。いずれも許される限りの原酒とカフェグレーンをブレンドした製品で[82]、世間では『千円ウイスキー戦争』『ソフトウイスキー合戦』と騒がれた[83]。竹鶴政孝社長は、日本のウイスキーの品質が上がったかどうかだけが問題だとしてこの騒ぎを退けた[84]。1968年5月1日には税制が改正され、各級とも原酒の混和率が3%引き上げられたうえ、7%未満のものは製造もウイスキーの名乗りもできなくなった[85]。ニッカウヰスキーはこれにのっとってホワイトニッカを売り出した[86]。
ウイスキーは同じ技師が同じ機械と同じ原料を使っても、場所を変えれば全く違うものができる[87]。それらを合わせてブレンドするとさらによいものになるため、スコットランドでは各社がこの方式を採ってきた[88]。熟成を科学の力で早める試みは昔からあったがすべて失敗しており、自然と時だけが解決者だと竹鶴政孝社長は述べている[89]。そこで仙台の近くのピート地帯にウイスキーづくりに適した土地を求め、北海道工場より規模の大きい第二の原酒工場を建てた[90]。この仙台工場は1969年5月に操業を始め[91]、スコットランドからの技術導入は一通り実現した[92]。
1968年時点で、ニッカウヰスキーは北海道の原酒工場と建設中の仙台工場のほか、東京の麻布、千葉県柏市、西宮、弘前、九州の鳥栖に製品工場を持ち、年間の売上は200億円を超えた[93]。輸出は量こそ少ないものの、アメリカをはじめ28カ国に及んだ[94]。500円のハイニッカは9割超が家庭で飲まれ、1000円のウイスキーを飲むのは若い独身のサラリーマンか学生、それに年齢の上がった層だった[95]。日本の本格ウイスキーの歴史は半世紀に満たず、300数十年の伝統をもつスコッチには遠く及ばないが、品質と技術では比肩できるところまで来たと竹鶴政孝社長はみていた[96]。戦前まで日本人になじみの薄かったウイスキーは、家庭で広い世代に飲まれる酒に変わった[97]。
弥谷醇平副社長は、国内メーカー同士が覇を競っているように見えるが敵はスコッチにあると語った[98]。1972年の資本自由化までに品質でも値段でも日本のものが上回らなければ競争に負ける、というのがその理由だった[99]。当時のスコッチの輸入は年間12万ケースで、全体の1%にすぎなかった[100]。弥谷醇平副社長は級別課税を意味の薄いものとみて従価税への移行と級の撤廃を主張し、メーカー各社は3年で切り換えると約束していた[101]。1968年4月からの増税では500円のものが20円、1000円のものが41円上がるところを、定価を据え置いてメーカーが負担した[102]。
創業者の竹鶴政孝氏は社長を退いて会長に移り、弥谷醇平氏があとを継いだ[103]。竹鶴政孝氏は会長にとどまり、1977年時点で83歳を数えた[104]。その弥谷醇平氏が急逝したため、1972年に専務の土井太郎氏が社長へ繰り上がった[105]。土井太郎氏はすでに70歳で、高齢を理由に就任を断ったが、ほかに適任者が見当たらず、70歳の社長が生まれた[106]。短い任期で退くことは就任当初から社内で了解されており、2年の任期と懸案の価格改定を終えた1974年、土井太郎氏は橋本敬之氏へ社長を譲った[107]。社内はこれを予定された人事として受け止めた[108]。
橋本敬之氏は1919年生まれの55歳で社長に就いた[109]。1941年に東京大学法学部を卒業し、翌1942年に住友銀行へ入行した[110]。1962年に業務部長、1969年に名古屋支店長を務め、同年11月に取締役、1973年4月に常務取締役となり、同年5月にニッカウヰスキーの副社長へ移った[111]。後継者を探していた土井太郎氏のもとでの副社長就任は次期社長を前提とした人事で、住友銀行出身で朝日麦酒社長の高橋吉隆氏が強く推した[112]。社長が代わっても品質を第一とする方針は動かないと、社内外はみていた[113]。土井太郎氏からの交代で、社長の年齢は20年近く下がった[114]。
1974年の値上げでは洋酒業界の先陣を切った[115]。G&Gを1,900円から2,200円、ノースランド角を1,500円から1,650円、ブラックニッカを1,000円から1,150円とし、ほとんどの製品を10〜20%引き上げた[116]。理由には麦芽など原材料の値上がり、人件費と輸送費の上昇、2度の酒税引き上げを挙げている[117]。サントリーも追って値上げしたが、ウイスキー・ビール・清涼飲料・ワインを併せ持つサントリーには相互補完の余地があり、洋酒専業のニッカウヰスキーにはそれがなかった[118]。1974年3月にはキリンがロバートブラウン2,400円で特級の2,000円クラスへ加わり、自社のG&G2,200円、サントリーのオールド2,200円と並んだ[119]。
橋本敬之社長は就任後に役員を入れ替え、常務以上の取締役の平均年齢を1972年3月末の66.2歳から1977年3月末の57.7歳へ8.5歳下げた[120]。83歳の創業者会長 竹鶴政孝氏を除くと、常務から社長までの6人の平均は53.5歳だった[121]。広告では社名と商品名を連呼する型をやめ、1級酒と2級酒に草刈正雄氏とスリーディグリーズ、特級酒に俳優のオーソン・ウェルズ氏を起用した[122]。品質の良い酒さえ作ればよいという社風を崩す作業で、社内の合意を得るには時間がかかった[123]。ウイスキーの品目も1975年3月までの12種類から、1977年3月末の20種類へ広げた[124]。
販売網の弱さは最大の弱点で、立て直しは営業担当者の増員から始めた[125]。1973年3月末に約130人だった営業員は1977年に260人へ増え、工場の合理化で余った人員を毎年30〜40人ずつ営業へ配転した[126]。全国12万軒の酒屋のうち上位約3万軒で全洋酒の8割が売られており、この3万軒を重要販売店、さらに選んだ1万8000軒を拠点店とし、月に1〜2回は販売員が店頭を回る仕組みを作った[127]。石油ショックと酒税引き上げ以降中断していた販売店へのリベートも、他社に先駆けて復活させた[128]。1976年10月には竹鶴政孝会長の姓から名を取った最高級ウイスキー『鶴』を、白磁びん1本1万5000円・年産2万本の見込みで売り出した[129]。
積極策の負担は収益に出た[130]。1977年3月期の自己資本比率は6.3%で、サントリーは20%に迫っていた[131]。売上高600億円はサントリーの約4,000億円の7分の1にとどまり、1976年3月期の経常利益8億3300万円はサントリーの249億円と2桁違った[132]。原酒の供給には20億円をかけて仙台工場を増設し、栃木県に26万平方メートルを取得して1976年秋から6億円の第1期工事に着手した[133]。それでもシェアは1976年度で0.2%ほどの上昇にとどまり、サントリー70%・ニッカウヰスキー20%という業界地図を崩せずにいた[134]。1977年には東亜相互企業の倒産で負債を負い、名義貸しをめぐって不動産銀行と裁判になり、発行済株式の2%が総会屋の手に渡った[135]。
1978年初頭、橋本敬之社長はゼロベース予算の導入を決めた[136]。業績が悪化していたわけでも本社予算が膨張していたわけでもなく、全社を覆うマンネリ体質を崩す手立てとして選んだ[137]。企画管理部長の石津仲二氏をチーフに、総務・経理・生産・営業の代表を集めた5人のプロジェクトチームが組まれ、決算期が1〜12月であることから1978年度は下期の半年だけを対象とし、本社と横浜支店をモデルケースに絞った[138]。課・部・本社の3段階で個別業務計画表に優先順位を付け、最終の常務会は2日かけて約400枚のパッケージを審査した[139]。従来1カ月だった予算編成に3カ月を費やし、広告費と人件費を除く1979年度の本社予算は前年度比9%減となった[140]。
1978年夏からの急激な円高で外国産ウイスキーの攻勢を受け、ニッカウヰスキーは2桁の売上増は望めないと判断した[141]。体質改善3カ年計画は1979年度から始まり、退職者不補充による人員削減・部課縮小・経費削減の3本柱を掲げた[142]。1979年度は130人を減らし、製品在庫の圧縮と物流合理化を合わせて約10億円の経費を削り、直接部門と間接部門の比率は6対4から7対3へ動いた[143]。ゼロベース予算のほうは横浜支店の営業部門で拒否反応が出た[144]。販売活動と売上高が直接結び付かずパッケージ作りが難航し、工場でも既存の予算管理と重なるため、支店と工場への導入は見合わせた[145]。1979年、創業者の竹鶴政孝氏が死去した[146]。
1984年、税制改正でウイスキーに担税能力を超える増税が課され、焼酎ブームも重なった[147]。創業50周年の年に主力のウイスキー需要が縮んだ[148]。ニッカウヰスキーはウイスキーを原点から見直し、異なる蒸溜所のモルト原酒だけをブレンドしたピュアモルトと、余市・宮城峡のシングルモルトを品ぞろえに加えた[149]。1985年には樽から度数51.4%のまま瓶詰めした『フロム・ザ・バレル』を発売し、CIの研究にも着手した[150]。1985年3月、社長には竹鶴政孝氏の養子で、1949年に北海道大学工学部を出て同年入社した竹鶴威氏が就いた[151]。竹鶴威氏は1967年から東北各地の川の上流を歩いて用地を探し、1969年完成の仙台工場を建設委員長として指揮した[152]。ウイスキー離れについて、竹鶴威氏は酒飲みの8割はウイスキー愛好者であり、うまいものを出していれば心配は要らないとみていた[153]。
1989年9月27日、ニッカウヰスキーは東京証券取引所第二部に上場した[154]。公募は発行済株式総数37,000千株のうち7,400千株、払込金額は1株3,640円で、調達額は約270億円[155][156]。上場直前の大株主はアサヒビールが21,319千株で72.0%、代表取締役副会長の竹鶴威氏が1,400千株で4.7%を保有していた[157]。従業員は1,112人、工場は北海道から九州まで7カ所、支店・営業所は全国52カ所にあった[158]。1988年12月期の売上高1,153億1,500万円のうち、ウイスキーが968億5,400万円と84.0%を占めた[159]。
社長の廣瀬忠夫氏は住友銀行の常務取締役から1983年3月にニッカウヰスキー取締役副社長へ移り、1988年3月に代表取締役社長に就いた[160]。上場から5日後の1989年10月2日、廣瀬忠夫社長は日本証券アナリスト協会の企業分析部会で、創業以来の品質第一・本物志向・パイオニア精神に、世界に冠たるウイスキーづくりという合言葉を重ねたと述べた[161]。モルト原酒の工場は余市と仙台の2カ所しかなく、蒸留所が100前後あるスコットランドのように他社から原酒を買えなかった[162]。1つの工場で発酵・蒸留・貯蔵と樽を変えて何種類もの原酒を作り分け、その一部をシングルモルト余市12年、シングルモルト宮城峡12年として発売した[163]。
特級への傾斜は上場の9年前に決まっていた。サントリーのオールドが売上のピークを記録した1980年、ニッカウヰスキーは販売量の8割を占めていた1・2級と特級の比率を逆転させることを基本戦略に据え[164]、1985年ごろからピュアモルト、ザ・ブレンド、フロム・ザ・バレルと旧特級の品ぞろえを増やした[165]。特級を厚くするには、生産に最低7〜8年かかるモルト原酒の積み増しが要る[166]。1980年に200億円だった原酒在庫は1990年に400億円へ倍増し[167]、上場で得た約270億円を原資に、1989年と1990年は1年で約50億円ずつモルト原酒を積み増した[168]。
1989年4月、酒税法改正で特級・1級・2級の級別が廃止され、従量課税へ一本化された[169]。2級酒は平均で60%値上がりし、ウイスキー市場の4割を占めていた旧1・2級市場は2年で7割が消えた[170]。反対に特級は大幅に値下がりした[171]。改正前の販売量に占める1・2級の比率は、サントリーが5割、キリンシーグラムが6割、ニッカウヰスキーは7割[172]。1990年12月期の売上高は977億円と1988年比15.3%減で、サントリー洋酒事業部の13.8%減、キリンシーグラムの5.0%減より落ち込みが大きかった[173]。
ニッカウヰスキーは旧特級クラスの新商品を続けて投入した。1989年7月にスーパーセッション、1990年2月にオールモルト、同年6月にスーパーニッカプレミアム[174]。オールモルトは発売から5カ月で初年度目標の25万ケースを超えた[175]。同時に売り先も広げ、1988年まで年1カ所だった営業拠点を1989年に姫路や岐阜など8カ所、1990年に山口や盛岡など5カ所新設した[176]。新入社員の採用は約20人から1989年47人・1990年48人へ倍増し、5年で営業マンが100人近く増えた[177]。1989年には生産から営業までの合理化に年10数億円のコンピューター投資も始めた[178]。
1990年、輸入スコッチの価格攻勢が国産の旧特級を直撃した[179]。1989年から並行輸入が急増し、総代理店が正規品の価格を並行品に合わせたため、4,000〜5,000円の輸入洋酒が一部は半額近くで売られた[180]。売上高固定費比率は1986年の30.7%から1990年に40.5%へ上がり、社員1人当たり売上高は1988年の1億280万円から1990年に8,290万円へ落ちた[181][182]。1990年12月期の経常利益は8億7,800万円と、1988年12月期の3分の1近くまで減った[183]。アサヒビールは1991年9月にアレルギー関連の医薬品事業の一部をニッカウヰスキーへ移管し、飲料の生産も委託した[184]。
1994年3月、アサヒビール常務からアサヒビールシステム社長を務めた小原宏氏がニッカウヰスキー社長に就いた[185]。売上高は1988年をピークに5年続けて減った[186]。
回復は間に合わなかった。2000年10月12日、アサヒビールはニッカウヰスキーとアサヒビールシステムを簡易株式交換で完全子会社にすると発表し、効力発生日を2001年2月1日と定めた[187]。完全子会社化に続いて、2001年4月1日には販売部門の資産・組織・顧客・契約を一切アサヒビールへ引き継ぎ、洋酒や低アルコール飲料の製造会社に特化した[188]。
| 時代 | 年月 | 社長・CEO | 出来事 | 重要度 |
|---|---|---|---|---|
| 1934〜1953年リンゴ汁で熟成を待った余市工場と三級ウイスキーへの譲歩 | 竹鶴政孝が大日本果汁を設立 | ★★★ | ||
| 北海道余市に工場を建設 | ★★ | |||
| 「ニッカ林檎汁」を発売 | ★★ | |||
| ウイスキー・ブランデーの製造免許を取得 | ★★ | |||
| 「ニッカアップルワイン」を発売 | ★ | |||
| 第一号ウイスキー「ニッカウヰスキー」を発売 | ★★ | |||
| 竹鶴政孝 | 竹鶴政孝氏が取締役社長に就任 | ★★ | ||
| 竹鶴政孝 | 「スペシャルブレンドウヰスキー」を発売 | ★ | ||
| 竹鶴政孝 | 商号をニッカウヰスキーに変更し東京工場を建設 | ★★ | ||
| 1954〜1969年丸びんニッキーの値下げとカフェ式蒸溜機が生んだ量と質 | 竹鶴政孝 | 朝日麦酒が資本参加 | ★★★ | |
| 竹鶴政孝 | 「ブラックニッカ」を発売 | ★★ | ||
| 竹鶴政孝 | 西宮工場を建設 | ★ | ||
| 竹鶴政孝 | 弘前工場を建設 | ★ | ||
| 竹鶴政孝 | 朝日麦酒からシードル事業を譲受 | ★ | ||
| 竹鶴政孝 | 「スーパーニッカ」を発売 | ★★ | ||
| 竹鶴政孝 | 西宮工場にカフェ式連続式蒸溜機を設置 | ★★ | ||
| 竹鶴政孝 | 二級ウイスキー「ハイニッカ」を発売 | ★★★ | ||
| 竹鶴政孝 | カフェグレーンを用いた新「ブラックニッカ」を発売 | ★ | ||
| 竹鶴政孝 | 新東京工場(現・柏工場)を建設 | ★ | ||
| 竹鶴政孝 | 宮城峡蒸溜所を建設 | ★★ | ||
| 1970〜1988年シェア20%からの追撃と、創業50周年に来たウイスキー増税 | 土井太郎 | 「ニッカシードル」を発売 | ★ | |
| 橋本敬之 | 最高級ブレンデッド「鶴」を発売 | ★ | ||
| 橋本敬之 | 栃木工場を建設 | ★ | ||
| 橋本敬之 | 創業者の竹鶴政孝が死去 | ★★ | ||
| 橋本敬之 | 「ピュアモルト」を発売 | ★ | ||
| 竹鶴威 | 「フロム・ザ・バレル」を発売 | ★ | ||
| 1989〜2025年営業を手放し、余市と宮城峡の製造だけが残るまで | 広瀬忠夫 | スコットランドのベン・ネヴィス蒸溜所を買収 | ★★ | |
| 広瀬忠夫 | 東京証券取引所第二部に上場 | ★★★ | ||
| 竹鶴威 | 「ブラックニッカ クリアブレンド」を発売 | ★ | ||
| 田渕実 | カフェ式蒸溜機を西宮工場から宮城峡蒸溜所に移設 | ★ | ||
| 由井大三郎 | 「竹鶴12年ピュアモルト」を発売 | ★ | ||
| 宇野正紘 | 上場廃止を経てアサヒビールの完全子会社に移行 | ★★★ | ||
| 宇野正紘 | 営業部門をアサヒビールに譲渡し製造に特化 | ★★ | ||
| 山下弘 | 門司工場を吸収合併 | ★ | ||
| 中川圭一 | アサヒグループホールディングスの子会社に移行 | ★★ | ||
| 中川圭一 | 竹鶴政孝を題材とした連続テレビ小説「マッサン」が放映 | ★★ | ||
| 岸本健利 | 余市蒸溜所の建造物が国の重要文化財に指定 | ★★ | ||
| 岸本健利 | 本店を北海道余市町に移転 | ★ | ||
| 爲定一智 | 創業90周年を迎え「ザ・ニッカ ナインディケイズ」を発売 | ★ |
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事実根拠:出所(ニッカウヰスキー)