ニッカウヰスキー:シェア20%からの追撃と創業50周年のウイスキー増税
1970年〜70歳社長の次に来た住友銀行出身の55歳
創業者の竹鶴政孝氏は社長を退任して会長に移り、弥谷醇平氏があとを継いだ。竹鶴政孝氏は会長にとどまり、1977年時点で83歳を数えた。その弥谷醇平氏が急逝したため、1972年に専務の土井太郎氏が社長へ繰り上がった。土井太郎氏はすでに70歳で、高齢を理由に就任を断ったが、ほかに適任者が見当たらず、70歳の社長が生まれた。短い任期で退くことは就任当初から社内で了解されており、2年の任期と懸案の価格改定を終えた1974年、土井太郎氏は橋本敬之氏へ社長を譲った。社内はこれを予定された人事として受け止めた。
- 日経ビジネス 1977年5月9日号
- [1]竹鶴政孝氏は社長を退き会長に就いた
- [2]1977年時点で竹鶴政孝氏は創業者会長、83歳
- 実業往来 1974年
- [3]弥谷醇平氏の急逝により、1972年に専務の土井太郎氏が社長に就任
- [4]土井太郎氏は当時70歳、高齢を理由に社長就任を断ったが適任者が見当たらず就任した
- [5]土井太郎氏の社長就任は当初から短期の交代が前提で、2年の任期と価格改定を終えた1974年に橋本敬之氏へ交代
- [6]橋本敬之氏の社長就任は予定の人事であり、社内では当然のこととして受け止められた
橋本敬之氏は1919年生まれの55歳で社長に就任した。1941年に東京大学法学部を卒業し、翌1942年に住友銀行へ入行した。1962年に業務部長、1969年に名古屋支店長を務め、同年11月に取締役、1973年4月に常務取締役となり、同年5月にニッカウヰスキーの副社長へ移った。後継者を探していた土井太郎氏のもとでの副社長就任は次期社長を前提とした人事で、住友銀行出身で朝日麦酒社長の高橋吉隆氏が強く推した。社長が代わっても品質を第一とする方針は動かないと、社内外はみていた。土井太郎氏からの交代で、社長の年齢は20年近く下がった。
- 実業往来 1974年
- [7]橋本敬之氏は1919年生まれ、55歳で社長就任
- [8]1941年東京大学法学部卒業、1942年住友銀行入社
- [9]1962年業務部長、1969年名古屋支店長・同年11月取締役、1973年4月常務取締役、同年5月ニッカウヰスキー副社長
- [10]副社長就任は次期社長を前提としたもので、住友銀行出身の朝日麦酒社長 高橋吉隆氏の強い推薦があった
- [11]社長が変わっても品質を第一とする方針は変わらないというのが社内外の評だった
- [12]土井太郎氏から橋本敬之氏への交代は20年近い若返りとなった
1974年の値上げでは洋酒業界の先陣を切った。G&Gを1,900円から2,200円、ノースランド角を1,500円から1,650円、ブラックニッカを1,000円から1,150円とし、ほとんどの製品を10〜20%引き上げた。理由には麦芽など原材料の値上がり、人件費と輸送費の上昇、2度の酒税引き上げを挙げている。サントリーも追って値上げしたが、ウイスキー・ビール・清涼飲料・ワインを併せ持つサントリーには相互補完の余地があり、洋酒専業のニッカウヰスキーにはそれがなかった。1974年3月にはキリンがロバートブラウン2,400円で特級の2,000円クラスへ加わり、自社のG&G2,200円、サントリーのオールド2,200円と並んだ。
- 実業往来 1974年
- [13]洋酒業界の値上げのトップを切ったのがニッカウヰスキーだった
- [14]G&G1,900円→2,200円、ノースランド角1,500円→1,650円、ブラックニッカ1,000円→1,150円、ほとんどの製品を10〜20%引き上げ
- [15]値上げ理由は麦芽など原材料の値上がり、人件費・輸送費の上昇、2回にわたる酒税引き上げ
- [16]サントリーはウイスキー・ビール・清涼飲料・ワインの総合企業で相互補完が可能だが、洋酒専業のニッカウヰスキーにはできない
- [17]1974年3月からキリンが加わり、特級2,000円クラスはG&G2,200円・オールド2,200円・ロバートブラウン2,400円
参考文献[1]-[17]
- 日経ビジネス 1977年5月9日号
- [1]竹鶴政孝氏は社長を退き会長に就いた
- [2]1977年時点で竹鶴政孝氏は創業者会長、83歳
- 実業往来 1974年
- [3]弥谷醇平氏の急逝により、1972年に専務の土井太郎氏が社長に就任
- [4]土井太郎氏は当時70歳、高齢を理由に社長就任を断ったが適任者が見当たらず就任した
- [5]土井太郎氏の社長就任は当初から短期の交代が前提で、2年の任期と価格改定を終えた1974年に橋本敬之氏へ交代
- [6]橋本敬之氏の社長就任は予定の人事であり、社内では当然のこととして受け止められた
- [7]橋本敬之氏は1919年生まれ、55歳で社長就任
- [8]1941年東京大学法学部卒業、1942年住友銀行入社
- [9]1962年業務部長、1969年名古屋支店長・同年11月取締役、1973年4月常務取締役、同年5月ニッカウヰスキー副社長
- [10]副社長就任は次期社長を前提としたもので、住友銀行出身の朝日麦酒社長 高橋吉隆氏の強い推薦があった
- [11]社長が変わっても品質を第一とする方針は変わらないというのが社内外の評だった
- [12]土井太郎氏から橋本敬之氏への交代は20年近い若返りとなった
- [13]洋酒業界の値上げのトップを切ったのがニッカウヰスキーだった
- [14]G&G1,900円→2,200円、ノースランド角1,500円→1,650円、ブラックニッカ1,000円→1,150円、ほとんどの製品を10〜20%引き上げ
- [15]値上げ理由は麦芽など原材料の値上がり、人件費・輸送費の上昇、2回にわたる酒税引き上げ
- [16]サントリーはウイスキー・ビール・清涼飲料・ワインの総合企業で相互補完が可能だが、洋酒専業のニッカウヰスキーにはできない
- [17]1974年3月からキリンが加わり、特級2,000円クラスはG&G2,200円・オールド2,200円・ロバートブラウン2,400円
1972年〜営業員130人から260人へ、自己資本比率6.3%
橋本敬之社長は就任後に役員を入れ替え、常務以上の取締役の平均年齢を1972年3月末の66.2歳から1977年3月末の57.7歳へ8.5歳下げた。83歳の創業者会長 竹鶴政孝氏を除くと、常務から社長までの6人の平均は53.5歳だった。ウイスキーは好みで選ばれる品だけに、製品のイメージを消費者の頭に刻み込む必要がある、と橋本敬之社長は語った。広告は社名と商品名を繰り返し叫ぶ手法をやめた。1級酒と2級酒の広告には草刈正雄氏とスリーディグリーズを、特級酒には俳優のオーソン・ウェルズ氏を登場させた。品目も1975年3月までの12種類が、1977年3月末には20種類に増えた。良い酒を造ることだけに重きを置いてきた社風を改める試みであり、社内の足並みがそろうまでには時間を要した。
- 日経ビジネス 1977年5月9日号
- [18]常務以上の取締役の平均年齢は1972年3月末66.2歳から1977年3月末57.7歳へ8.5歳若返った
- [19]83歳の創業者会長 竹鶴政孝氏を除くと常務から社長までの6人の平均年齢は53.5歳
- [20]橋本敬之社長は、ウイスキーは嗜好品であり消費者に製品の持つイメージを植え付けなければならないと述べた
- [21]会社名と商品名の連呼をやめ、1・2級酒に草刈正雄とスリーディグリーズ、特級酒にオーソンウェルズを起用
- [22]ウイスキーは1975年3月まで12種類、1977年3月末には20種類
- [23]品質の良い酒さえ作ればよいという社風で、新しい広告への社内の合意には時間がかかった
販売網の弱さは最大の弱点で、立て直しは営業担当者の増員から始めた。工場の合理化で浮いた人員を毎年30〜40人ずつ営業に回し、1973年3月末に約130人だった営業員は1977年には260人になった。全国12万軒の酒屋のうち、洋酒全体の8割を売っていたのは上位約3万軒だった。そこでこの3万軒を重要販売店に指定し、その中から1万8000軒を拠点店として絞り込み、販売員が月に1〜2回は店を訪ねる体制を作った。販売店へのリベートは石油ショックと酒税の引き上げを境に止まっていたが、同業に先んじてこれを再開した。1976年10月には、竹鶴政孝会長の姓にちなむ最高級ウイスキー"鶴"を発売した。白磁のびん入りで1本1万5000円、年間2万本の生産を見込んだ。
- 日経ビジネス 1977年5月9日号
- [24]販売網の貧弱さがニッカウヰスキーの最大の弱点で、まず営業担当者の増員を打ち出した
- [25]営業員は1973年3月末の約130人から1977年に260人。工場の合理化で余った人員を毎年30〜40人営業へ配転
- [26]全国12万軒の酒屋のうち上位約3万軒で全洋酒の8割が売られ、3万軒を重要販売店、1万8000軒を拠点店として月1〜2回訪問
- [27]石油ショックと酒税引き上げ以降中断していた販売店へのリベートを他社に先駆けて復活
- 実業往来 1977年
- [28]1976年10月に竹鶴会長の姓から取った超高級ウイスキー「鶴」を発売。白磁びん1万5000円、年産2万本程度の販売見込み
積極策の負担は収益に出た。1977年3月期の自己資本比率は6.3%で、サントリーは20%に迫っていた。売上高600億円はサントリーの約4,000億円の7分の1にとどまり、1976年3月期の経常利益8億3300万円はサントリーの249億円と2桁違った。原酒の供給には20億円をかけて仙台工場を増設し、栃木県に26万平方メートルを取得して1976年秋から6億円の第1期工事に着手した。それでもシェアは1976年度で0.2%ほどの上昇にとどまり、サントリー70%・ニッカウヰスキー20%という業界地図を崩せずにいた。1977年には東亜相互企業の倒産で負債を負い、名義貸しをめぐって不動産銀行と裁判になり、発行済株式の2%が総会屋の手に渡った。
- 日経ビジネス 1977年5月9日号
- [29]積極作戦は負担の増加となって収益を圧迫した
- [30]1977年3月期の自己資本比率はニッカウヰスキー6.3%、サントリーは20%に迫る
- [31]売上高はサントリー約4,000億円に対しニッカウヰスキー600億円。1976年3月期経常利益は8億3300万円、サントリーは249億円
- [32]仙台工場に20億円をかけて増設、栃木県に26万平方メートルを取得し1976年秋から6億円で第1期建設に着手
- [33]シェアは1976年度で0.2%ぐらいの上昇にとどまり、サントリー70%・ニッカウヰスキー20%の業界地図は変わらない
- 実業往来 1977年
- [34]東亜相互企業の倒産で負債を負い、名義貸し事件で不動産銀行と裁判になり、発行済株数の2%が総会屋の手に渡った
参考文献[18]-[34]
- 日経ビジネス 1977年5月9日号
- [18]常務以上の取締役の平均年齢は1972年3月末66.2歳から1977年3月末57.7歳へ8.5歳若返った
- [19]83歳の創業者会長 竹鶴政孝氏を除くと常務から社長までの6人の平均年齢は53.5歳
- [20]橋本敬之社長は、ウイスキーは嗜好品であり消費者に製品の持つイメージを植え付けなければならないと述べた
- [21]会社名と商品名の連呼をやめ、1・2級酒に草刈正雄とスリーディグリーズ、特級酒にオーソンウェルズを起用
- [22]ウイスキーは1975年3月まで12種類、1977年3月末には20種類
- [23]品質の良い酒さえ作ればよいという社風で、新しい広告への社内の合意には時間がかかった
- [24]販売網の貧弱さがニッカウヰスキーの最大の弱点で、まず営業担当者の増員を打ち出した
- [25]営業員は1973年3月末の約130人から1977年に260人。工場の合理化で余った人員を毎年30〜40人営業へ配転
- [26]全国12万軒の酒屋のうち上位約3万軒で全洋酒の8割が売られ、3万軒を重要販売店、1万8000軒を拠点店として月1〜2回訪問
- [27]石油ショックと酒税引き上げ以降中断していた販売店へのリベートを他社に先駆けて復活
- [29]積極作戦は負担の増加となって収益を圧迫した
- [30]1977年3月期の自己資本比率はニッカウヰスキー6.3%、サントリーは20%に迫る
- [31]売上高はサントリー約4,000億円に対しニッカウヰスキー600億円。1976年3月期経常利益は8億3300万円、サントリーは249億円
- [32]仙台工場に20億円をかけて増設、栃木県に26万平方メートルを取得し1976年秋から6億円で第1期建設に着手
- [33]シェアは1976年度で0.2%ぐらいの上昇にとどまり、サントリー70%・ニッカウヰスキー20%の業界地図は変わらない
- 実業往来 1977年
- [28]1976年10月に竹鶴会長の姓から取った超高級ウイスキー「鶴」を発売。白磁びん1万5000円、年産2万本程度の販売見込み
- [34]東亜相互企業の倒産で負債を負い、名義貸し事件で不動産銀行と裁判になり、発行済株数の2%が総会屋の手に渡った
1978年〜ゼロベース予算と創業50周年に重なった増税
1978年初頭、橋本敬之社長はゼロベース予算の導入を決めた。業績が悪化していたわけでも本社予算が膨張していたわけでもなく、全社を覆うマンネリ体質を崩す手立てとして選んだ。企画管理部長の石津仲二氏をチーフに、総務・経理・生産・営業の代表を集めた5人のプロジェクトチームが組まれ、決算期が1〜12月であることから1978年度は下期の半年だけを対象とし、本社と横浜支店をモデルケースに絞った。課・部・本社の3段階で個別業務計画表に優先順位を付け、最終の常務会は2日かけて約400枚のパッケージを審査した。従来1カ月だった予算編成に3カ月を費やし、広告費と人件費を除く1979年度の本社予算は前年度比9%減となった。
- 日経ビジネス 1980年6月16日号
- [35]橋本敬之社長がゼロベース予算導入を決意したのは1978年初頭
- [36]業績悪化や本社予算の膨張が理由ではなく、会社全体のマンネリ化した体質を打破する手段として導入した
- [37]企画管理部長 石津仲二氏をチーフに総務・経理・生産・営業の代表5人でプロジェクトチームを編成。決算期が1〜12月のため1978年度は下期半年を対象とし、本社と横浜支店をモデルケースとした
- [38]課・部・本社の3段階でランキングし、本社段階の常務会は2日間で約400枚のパッケージを審査した
- [39]従来1カ月だった予算編成に3カ月を要し、広告・人件費を除く1979年度の本社予算は前年度比9%減
1978年夏からの急激な円高で外国産ウイスキーの攻勢を受け、ニッカウヰスキーは2桁の売上増は望めないと判断した。体質改善3カ年計画は1979年度から始まり、退職者不補充による人員削減・部課縮小・経費削減の3本柱を掲げた。1979年度は130人を減らし、製品在庫の圧縮と物流合理化を合わせて約10億円の経費を削り、直接部門と間接部門の比率は6対4から7対3へ動いた。ゼロベース予算のほうは横浜支店の営業部門で拒否反応が出た。販売活動と売上高が直接結び付かずパッケージ作りが難航し、工場でも既存の予算管理と重なるため、支店と工場への導入は見合わせた。1979年、創業者の竹鶴政孝氏が死去した。
- 日経ビジネス 1980年6月16日号
- [40]1978年夏からの急激な円高で外国産ウイスキーの攻勢を受け、2桁台の売上増は望めないと判断した
- [41]1979年度から体質改善3カ年計画を実施。退職者不補充による人員削減・部課縮小・経費削減が3本柱
- [42]1979年度は130人の人員削減を中心に製品在庫縮小・物流合理化を進め約10億円の経費削減を達成、直間比率は6対4から7対3へ改善
- [43]モデルケースの横浜支店の営業部門で拒否反応が起きた
- [44]販売活動と売り上げが直接結び付かずパッケージづくりが難航し、工場でも既存の予算と重なるため支店・工場での導入は見合わせた
- 証券アナリストジャーナル 1989年11月号(廣瀬忠夫・講演要旨)
- [45]創業者 竹鶴政孝氏の死去は1979年(1989年時点で死去から10年)
1984年、税制改正でウイスキーに担税能力を超える増税が課され、焼酎ブームも重なった。創業50周年の年に主力のウイスキー需要が縮んだ。ニッカウヰスキーはウイスキーを原点から見直し、異なる蒸溜所のモルト原酒だけをブレンドしたピュアモルトと、余市・宮城峡のシングルモルトを品ぞろえに加えた。1985年には樽から度数51.4%のまま瓶詰めした"フロム・ザ・バレル"を発売し、CIの研究にも着手した。1985年3月、社長には竹鶴政孝氏の養子で、1949年に北海道大学工学部を出て同年入社した竹鶴威氏が就任した。竹鶴威氏は1967年から東北各地の川の上流を歩いて用地を探し、1969年完成の仙台工場を建設委員長として指揮した。ウイスキー離れについて、竹鶴威氏は酒飲みの8割はウイスキー愛好者であり、うまいものを出していれば心配は要らないとみていた。
- 証券アナリストジャーナル 1989年11月号(廣瀬忠夫・講演要旨)
- [46]1984年に税制改正でウイスキーに担税能力を超えた増税が実施され、同時に焼酎ブームが起きて痛手を受けた
- [47]1984年はニッカウヰスキーの創業50周年にあたった
- [48]ウイスキーを原点から見直すこととし、シングルモルトウイスキーやピュアモルトウイスキー(異なる蒸留所のモルト原酒同士をバッティングした原酒100%のウイスキー)を発売。原酒工場は余市と仙台宮城峡
- [49]樽出しウイスキー「フロム・ザ・バレル」(アルコール度数51.4%)を発売。CIの研究に着手し、単にマークを替えるだけではない社内運動を行った
- 日経ビジネス 1985年6月24日号
- [50]竹鶴威氏は1924年3月6日生まれ、1949年北海道大学工学部卒・同年ニッカウヰスキー入社、1985年3月社長就任。養父は竹鶴政孝氏
- [51]1967年の北海道工場長時代に第二工場づくりへ動き、地図を片手に東北地方の川の上流を歩いて用地を選定。建設委員長として指揮した仙台工場は1969年に完成
- [52]竹鶴威氏は焼酎ブームによるウイスキー離れについて、酒飲みの80%はウイスキーのファンで、うまいものさえ出していれば心配は無用と述べた
参考文献[35]-[52]
- 日経ビジネス 1980年6月16日号
- [35]橋本敬之社長がゼロベース予算導入を決意したのは1978年初頭
- [36]業績悪化や本社予算の膨張が理由ではなく、会社全体のマンネリ化した体質を打破する手段として導入した
- [37]企画管理部長 石津仲二氏をチーフに総務・経理・生産・営業の代表5人でプロジェクトチームを編成。決算期が1〜12月のため1978年度は下期半年を対象とし、本社と横浜支店をモデルケースとした
- [38]課・部・本社の3段階でランキングし、本社段階の常務会は2日間で約400枚のパッケージを審査した
- [39]従来1カ月だった予算編成に3カ月を要し、広告・人件費を除く1979年度の本社予算は前年度比9%減
- [40]1978年夏からの急激な円高で外国産ウイスキーの攻勢を受け、2桁台の売上増は望めないと判断した
- [41]1979年度から体質改善3カ年計画を実施。退職者不補充による人員削減・部課縮小・経費削減が3本柱
- [42]1979年度は130人の人員削減を中心に製品在庫縮小・物流合理化を進め約10億円の経費削減を達成、直間比率は6対4から7対3へ改善
- [43]モデルケースの横浜支店の営業部門で拒否反応が起きた
- [44]販売活動と売り上げが直接結び付かずパッケージづくりが難航し、工場でも既存の予算と重なるため支店・工場での導入は見合わせた
- 証券アナリストジャーナル 1989年11月号(廣瀬忠夫・講演要旨)
- [45]創業者 竹鶴政孝氏の死去は1979年(1989年時点で死去から10年)
- [46]1984年に税制改正でウイスキーに担税能力を超えた増税が実施され、同時に焼酎ブームが起きて痛手を受けた
- [47]1984年はニッカウヰスキーの創業50周年にあたった
- [48]ウイスキーを原点から見直すこととし、シングルモルトウイスキーやピュアモルトウイスキー(異なる蒸留所のモルト原酒同士をバッティングした原酒100%のウイスキー)を発売。原酒工場は余市と仙台宮城峡
- [49]樽出しウイスキー「フロム・ザ・バレル」(アルコール度数51.4%)を発売。CIの研究に着手し、単にマークを替えるだけではない社内運動を行った
- 日経ビジネス 1985年6月24日号
- [50]竹鶴威氏は1924年3月6日生まれ、1949年北海道大学工学部卒・同年ニッカウヰスキー入社、1985年3月社長就任。養父は竹鶴政孝氏
- [51]1967年の北海道工場長時代に第二工場づくりへ動き、地図を片手に東北地方の川の上流を歩いて用地を選定。建設委員長として指揮した仙台工場は1969年に完成
- [52]竹鶴威氏は焼酎ブームによるウイスキー離れについて、酒飲みの80%はウイスキーのファンで、うまいものさえ出していれば心配は無用と述べた
1970年〜1988年の業績
| 決算期 | 区分 | 売上高 | 営業利益 | 経常利益 | 純利益 | 主な投資 | ||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 億円 | YoY | 億円 | 億円 | 億円 | 利益率 | |||
| 1970年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1971年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1972年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1973年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1974年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1975年03月期 | 単体 | 241 | n/a | n/a | n/a | 1 | 0.8% | n/a |
| 1976年03月期 | 単体 | 523 | +116.6% | n/a | n/a | 2 | 0.5% | n/a |
| 1977年12月期 | 単体 | 448 | ▲14.5% | 11 | 1 | 1 | 0.2% | n/a |
| 1978年12月期 | 単体 | 614 | +37.2% | 18 | 3 | 0 | 0.1% | n/a |
| 1979年12月期 | 単体 | 614 | +0.0% | 26 | 3 | 0 | 0.1% | n/a |
| 1980年12月期 | 単体 | 723 | +17.6% | n/a | n/a | 1 | 0.3% | n/a |
| 1981年12月期 | 単体 | 850 | +17.6% | n/a | n/a | 5 | 0.7% | n/a |
| 1982年12月期 | 単体 | 937 | +10.3% | 51 | 22 | 9 | 1.0% | n/a |
| 1983年12月期 | 単体 | 1,008 | +7.5% | 54 | 25 | 7 | 0.7% | n/a |
| 1984年12月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1985年12月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1986年12月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1987年12月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1988年12月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
出所:会社総鑑 未上場会社版 1980年版、会社総鑑 未上場会社版 1980年版 変則9ヶ月決算、会社総鑑 未上場会社版 1985年版 上巻
出典・参考
6件
- 日経ビジネス 1977年5月9日号
- 日経ビジネス 1980年6月16日号
- 日経ビジネス 1985年6月24日号
- 証券アナリストジャーナル 1989年11月号(廣瀬忠夫・講演要旨)
- 実業往来 1974年
- 実業往来 1977年