ニッカウヰスキー:朝日麦酒の資本参加と宮城峡蒸溜所の建設
1954年〜朝日麦酒の資本参加と一本三割の欠損を見込んだ値下げ
1954年6月、ニッカウヰスキーは朝日麦酒の資本参加を受けた。前年の1953年3月には、それまでの一級・二級・三級という区分が特級・一級・二級の呼称に改まり、日本のウイスキー業界は二級を軸に伸び始めた。1954年は洋酒各社の販売戦の年で、ウイスキーの消費量は激増したが、トミーを出していた東京醸造は経営不振に陥った。この伸びにニッカウヰスキーは乗り切れなかった。1950年春に三級ウイスキーを出した際、税法で許される最高率まで原酒を入れ、他社の640ml・330円に対し、140ml少ない500ml入りを20円高い350円で売っていた。容量が少なく値段が高いことは、他社との競争で不利に働いた。
- 証券 1989年
- [1]昭和29年6月にアサヒビール(朝日麦酒)の資本参加を受けた
- 私の履歴書 経済人11(日本経済新聞社、1980年)「竹鶴政孝」
- [2]昭和28年3月1日にウイスキーの級別呼称が一級・二級・三級から特級・一級・二級に改まった
- [3]そのころから日本のウイスキー業界は二級ウイスキーを中心に伸びを示し始めた
- [4]昭和29年は洋酒各社の販売戦の年でウイスキーの消費量が激増し、トミーを出していた東京醸造は経営不振に陥った
- [5]昭和25年春の三級ウイスキーは、税法で許される最高率まで原酒を入れ、他社の640ml・330円に対し140ml少ない500ml入りを20円高の350円で売った
- [6]びんの容量が少なく値段が高いことが他社との競争上不利だった
経理には日本銀行統計局長だった土井太郎氏を専務として迎え、その2年後の1954年、営業担当として弥谷醇平氏が入社した。弥谷醇平氏は中央大学を出て渡米しアラバマ大学とコロンビア大学に学び、1928年に大阪の丸金醤油へ入って新聞見開きの大広告で同社を関東まで広げた人で、竹鶴政孝社長の人材難を知った朝日麦酒社長の山本為三郎氏が引き合わせた。総務担当には元朝日ビール常務の奥村三郎氏が加わった。500ml入りで350円のものを他社なみの640ml入りにして同じ350円で売れば一本あたり三割の欠損になるが、一年もちこたえれば87%伸びて欠損は黒字に転じる。一度はデッドポイントを通過しなければ積極的な市場はもてない——弥谷醇平氏が置いた算段である。竹鶴政孝社長はいろいろな角度から検討を重ね、この方針を決めた。
- 私の履歴書 経済人11(日本経済新聞社、1980年)「竹鶴政孝」
- [7]日本銀行統計局長の土井太郎に経理担当として入社してもらい、土井は専務となった
- [8]土井専務の2年後、営業担当としてコロンビア大学商科出身の弥谷醇平が入社した。弥谷の入社は昭和29年
- [10]総務担当として元朝日ビール常務の奥村三郎を迎えた
- [11]弥谷醇平の説明は、他社なみの容量・価格で売ると一本当たり三割の欠損になるが、一年もちこたえれば87%伸びて欠損は黒字に転化する、一度はデッドポイントを通過しなければ積極的な市場がもちえない、というものだった
- [12]いろいろな角度から検討を重ねてこの方針を決めた
- 実業往来 1970年
- [9]弥谷醇平は大正13年に中央大学を出て渡米しアラバマ大学・コロンビア大学に学び、昭和3年に大阪の丸金醤油に入社、新聞見開きの大広告など当時の常識を破る売り方で丸金を関東まで進出させた。朝日麦酒社長の山本為三郎が、竹鶴政孝の人材難を知って「ニッカの営業をやらんか」と持ちかけたのが入社の契機だった
丸びん(通称ニッキー)を発売したのは1955年9月1日である。この一本で、それまで北海道6・内地4だった売上の割合は一挙に逆転し、全国商品になった。ウイスキーの販売金額は1954酒造年度を100として、1959年には534に達した。1955年11月、古い原酒を生かしたゴールドニッカを2000円で売り出し、翌1956年にはブラックニッカを1500円で加えた。都市の盛り場にはトリス・ニッカ・オーシャンの名を冠したバーが増え、戦後第一回の洋酒ブームが起きた。当時の二級ウイスキーは原酒の混合量が5%までで、竹鶴政孝社長が考えるウイスキーとは遠かった。
- 私の履歴書 経済人11(日本経済新聞社、1980年)「竹鶴政孝」
- [13]丸びん(通称ニッキー)の発売は昭和30年9月1日
- [14]当時の売り上げは北海道6・内地4の割合だったが、丸びんニッキーの発売で一挙に逆転し全国商品になった
- [15]ウイスキーの販売金額は昭和29年(酒造年度)を100とすると昭和34年は534になった
- [16]昭和30年11月、古い原酒を生かしたゴールドニッカを2000円で発売した
- [17]その翌年、ブラックニッカを1500円で出した
- [18]戦後第一回の洋酒ブームで、都市の盛り場にトリス・ニッカ・オーシャンなどの名をつけたバーが数を増した
- [19]当時の二級ウイスキーは原酒の混合量が5%までで、竹鶴政孝の考えるウイスキーとは遠いものだった
参考文献[1]-[19]
- 証券 1989年
- [1]昭和29年6月にアサヒビール(朝日麦酒)の資本参加を受けた
- 私の履歴書 経済人11(日本経済新聞社、1980年)「竹鶴政孝」
- [2]昭和28年3月1日にウイスキーの級別呼称が一級・二級・三級から特級・一級・二級に改まった
- [3]そのころから日本のウイスキー業界は二級ウイスキーを中心に伸びを示し始めた
- [4]昭和29年は洋酒各社の販売戦の年でウイスキーの消費量が激増し、トミーを出していた東京醸造は経営不振に陥った
- [5]昭和25年春の三級ウイスキーは、税法で許される最高率まで原酒を入れ、他社の640ml・330円に対し140ml少ない500ml入りを20円高の350円で売った
- [6]びんの容量が少なく値段が高いことが他社との競争上不利だった
- [7]日本銀行統計局長の土井太郎に経理担当として入社してもらい、土井は専務となった
- [8]土井専務の2年後、営業担当としてコロンビア大学商科出身の弥谷醇平が入社した。弥谷の入社は昭和29年
- [10]総務担当として元朝日ビール常務の奥村三郎を迎えた
- [11]弥谷醇平の説明は、他社なみの容量・価格で売ると一本当たり三割の欠損になるが、一年もちこたえれば87%伸びて欠損は黒字に転化する、一度はデッドポイントを通過しなければ積極的な市場がもちえない、というものだった
- [12]いろいろな角度から検討を重ねてこの方針を決めた
- [13]丸びん(通称ニッキー)の発売は昭和30年9月1日
- [14]当時の売り上げは北海道6・内地4の割合だったが、丸びんニッキーの発売で一挙に逆転し全国商品になった
- [15]ウイスキーの販売金額は昭和29年(酒造年度)を100とすると昭和34年は534になった
- [16]昭和30年11月、古い原酒を生かしたゴールドニッカを2000円で発売した
- [17]その翌年、ブラックニッカを1500円で出した
- [18]戦後第一回の洋酒ブームで、都市の盛り場にトリス・ニッカ・オーシャンなどの名をつけたバーが数を増した
- [19]当時の二級ウイスキーは原酒の混合量が5%までで、竹鶴政孝の考えるウイスキーとは遠いものだった
- 実業往来 1970年
- [9]弥谷醇平は大正13年に中央大学を出て渡米しアラバマ大学・コロンビア大学に学び、昭和3年に大阪の丸金醤油に入社、新聞見開きの大広告など当時の常識を破る売り方で丸金を関東まで進出させた。朝日麦酒社長の山本為三郎が、竹鶴政孝の人材難を知って「ニッカの営業をやらんか」と持ちかけたのが入社の契機だった
1960年〜原酒混和率の引き上げと西宮のカフェ式グレーン工場
洋酒ブームの伸びが鈍化したのは1960年以降である。ウイスキー業界はこの年、原酒の混和率を引き上げて二級の品質を上げたいと大蔵省に要望した。これがいれられ、1962年4月1日から二級は5%未満から10%未満へ、5%以上とされていた一級は10%以上20%までへ改まった。ただし原酒が0%でもウイスキーとして出せる点は是正されなかった。級別がなければ日本のウイスキー業界はもっと進歩していた——竹鶴政孝社長の見立てである。設備投資も並行し、1959年に西宮のびん詰め工場、1960年に弘前工場、1964年に九州鳥栖の工場を建設した。
- 私の履歴書 経済人11(日本経済新聞社、1980年)「竹鶴政孝」
- [20]第一回の洋酒ブームがやや下火となって伸びが鈍化したのは昭和35年以降だった
- [21]昭和35年にウイスキー業界は原酒の混和率引き上げによる二級ウイスキーの品質向上を大蔵省に要望した
- [22]昭和37年4月1日から二級は5%未満より10%未満に、5%以上の一級は10%以上20%までとなった
- [23]この改正でも原酒0%でウイスキーとして出せる点は是正されなかった
- [24]竹鶴政孝は、日本のウイスキーに級別がなかったら業界はもっと進歩していたと考えていた
- [25]昭和34年に西宮のびん詰め工場、35年に弘前工場、39年に九州鳥栖の九州工場をつくった
竹鶴政孝社長は混和率の引き上げを機に二つの結論を出した。一つは原酒を許されたぎりぎりまで、それもできるだけ古いものを使うこと。貯蔵期間に制限がないため、二級で9%入れれば普通の原酒を15%入れた程度の味が出る。もう一つは、原酒に混ぜる中性スピリッツをやめ、スコッチと同じ穀類由来のグレーンスピリッツへ替える点にあった。そのためにはカフェ式蒸溜機が要り、製造設備に多額の資金が必要だったため導入は先延ばしになった。朝日麦酒の山本為三郎氏の援助で、西宮のグレーンスピリッツ工場は1964年に完成した。日本でグレーン製法を採ったのはニッカウヰスキーだけだった。
- 私の履歴書 経済人11(日本経済新聞社、1980年)「竹鶴政孝」
- [26]昭和37年の原酒混和率引き上げを機に竹鶴政孝は二つの結論を出した
- [27]原酒を許されたぎりぎりまで、それもできるだけ古いよいものを使えば、二級の場合9%入れても普通のものを15%入れたぐらいの味になる。貯蔵期間には制限が全くない
- [28]中性スピリッツを、スコッチと同じように穀類からつくるグレーンスピリッツに替えてソフトなウイスキーをつくる
- [29]カフェ式蒸溜機の製造設備には多額の資金が必要で、希望の実現は延び延びになっていた
- [30]朝日麦酒の山本為三郎の援助で、西宮のグレーンスピリッツ工場が昭和39年に完成した
- 実業往来 1968年
- [31]昭和39年にカフェ式グレーンスピリッツ工場を完成し、日本ではニッカだけがグレーン製法をとっていた
この二つに取り組み、500円のハイニッカと1000円のブラックニッカを市場へ出した。ハイニッカの発売は1964年2月、ブラックニッカは1965年9月である。いずれも許される限りの原酒とカフェグレーンをブレンドした製品で、世間では"千円ウイスキー戦争""ソフトウイスキー合戦"と騒がれた。竹鶴政孝社長は、日本のウイスキーの品質が上がったかどうかだけが問題だとしてこの騒ぎを退けた。1968年5月1日には税制が改正され、各級とも原酒の混和率が3%引き上げられたうえ、7%未満のものは製造もウイスキーの名乗りもできなくなった。ニッカウヰスキーはこれにのっとってホワイトニッカを売り出した。
- 私の履歴書 経済人11(日本経済新聞社、1980年)「竹鶴政孝」
- [32]二つの結論に取り組んでつくりあげ市場に出したのが500円のハイニッカと1000円のブラックニッカだった
- [34]両方とも許されるギリギリの原酒とカフェグレーンのブレンド製品だった
- [35]「千円ウイスキー戦争」「ソフトウイスキー合戦」と一部で騒がれた
- [36]竹鶴政孝は、日本のウイスキーの品質のアップに役立ったかどうかということだけが問題だと考えていた
- [37]昭和43年5月1日から税制が改正され、各級とも原酒の混和率が3%アップされたうえ、7%未満のものは製造できずウイスキーという名も使えなくなった
- [38]ホワイトニッカは原酒混和率が引き上げられた税制改正にのっとってさっそく売り出したウイスキーである
- 証券 1989年
- [33]ハイニッカウヰスキー(2級)の発売開始は昭和39年2月、ブラックニッカウヰスキー(1級)は昭和40年9月
参考文献[20]-[38]
- 私の履歴書 経済人11(日本経済新聞社、1980年)「竹鶴政孝」
- [20]第一回の洋酒ブームがやや下火となって伸びが鈍化したのは昭和35年以降だった
- [21]昭和35年にウイスキー業界は原酒の混和率引き上げによる二級ウイスキーの品質向上を大蔵省に要望した
- [22]昭和37年4月1日から二級は5%未満より10%未満に、5%以上の一級は10%以上20%までとなった
- [23]この改正でも原酒0%でウイスキーとして出せる点は是正されなかった
- [24]竹鶴政孝は、日本のウイスキーに級別がなかったら業界はもっと進歩していたと考えていた
- [25]昭和34年に西宮のびん詰め工場、35年に弘前工場、39年に九州鳥栖の九州工場をつくった
- [26]昭和37年の原酒混和率引き上げを機に竹鶴政孝は二つの結論を出した
- [27]原酒を許されたぎりぎりまで、それもできるだけ古いよいものを使えば、二級の場合9%入れても普通のものを15%入れたぐらいの味になる。貯蔵期間には制限が全くない
- [28]中性スピリッツを、スコッチと同じように穀類からつくるグレーンスピリッツに替えてソフトなウイスキーをつくる
- [29]カフェ式蒸溜機の製造設備には多額の資金が必要で、希望の実現は延び延びになっていた
- [30]朝日麦酒の山本為三郎の援助で、西宮のグレーンスピリッツ工場が昭和39年に完成した
- [32]二つの結論に取り組んでつくりあげ市場に出したのが500円のハイニッカと1000円のブラックニッカだった
- [34]両方とも許されるギリギリの原酒とカフェグレーンのブレンド製品だった
- [35]「千円ウイスキー戦争」「ソフトウイスキー合戦」と一部で騒がれた
- [36]竹鶴政孝は、日本のウイスキーの品質のアップに役立ったかどうかということだけが問題だと考えていた
- [37]昭和43年5月1日から税制が改正され、各級とも原酒の混和率が3%アップされたうえ、7%未満のものは製造できずウイスキーという名も使えなくなった
- [38]ホワイトニッカは原酒混和率が引き上げられた税制改正にのっとってさっそく売り出したウイスキーである
- 実業往来 1968年
- [31]昭和39年にカフェ式グレーンスピリッツ工場を完成し、日本ではニッカだけがグレーン製法をとっていた
- 証券 1989年
- [33]ハイニッカウヰスキー(2級)の発売開始は昭和39年2月、ブラックニッカウヰスキー(1級)は昭和40年9月
1969年〜仙台の第二原酒工場と輸出28カ国への広がり
ウイスキーは同じ技師が同じ機械と同じ原料を使っても、場所を変えれば全く違うものができる。それらを合わせてブレンドするとさらによいものになるため、スコットランドでは各社がこの方式を採ってきた。熟成を科学の力で早める試みは昔からあったがすべて失敗しており、自然と時だけが解決者だと竹鶴政孝社長は述べている。そこで仙台の近くのピート地帯にウイスキーづくりに適した土地を求め、北海道工場より規模の大きい第二の原酒工場を建設した。この仙台工場は1969年5月に操業を始め、スコットランドからの技術導入は一通り実現した。
- 私の履歴書 経済人11(日本経済新聞社、1980年)「竹鶴政孝」
- [39]同じ技師が同じ機械、同じ原料を使っても別の場所でつくると全く違うものができる
- [40]これらを合わせてブレンドするとさらによいものができるので、スコットランドでは全部このやり方がとられている
- [41]ウイスキーの熟成を科学の力で早める試みは昔からあったがすべて失敗しており、自然と時だけがその解決者である
- [42]仙台の近くのピート地帯にウイスキーづくりにぴったりの土地を見つけ、北海道工場より規模の大きい原酒の第二工場を建設した
- [44]第二原酒工場が完成すればスコットランドからの技術導入はいちおう全部実現することになる
- 証券 1989年
- [43]昭和44年5月に宮城県仙台市の仙台工場が操業を開始した
1968年時点で、ニッカウヰスキーは北海道の原酒工場と建設中の仙台工場のほか、東京の麻布、千葉県柏市、西宮、弘前、九州の鳥栖に製品工場を持ち、年間の売上は200億円を超えた。輸出は量こそ少ないものの、アメリカをはじめ28カ国に及んだ。500円のハイニッカは9割超が家庭で飲まれ、1000円のウイスキーを飲むのは若い独身のサラリーマンか学生、それに年齢の上がった層だった。日本の本格ウイスキーの歴史は半世紀に満たず、300数十年の伝統をもつスコッチには遠く及ばないが、品質と技術では比肩できるところまで来たと竹鶴政孝社長はみていた。戦前まで日本人になじみの薄かったウイスキーは、家庭で広い世代に飲まれる酒に変わった。
- 私の履歴書 経済人11(日本経済新聞社、1980年)「竹鶴政孝」
- [45]北海道の原酒工場と建設中の仙台の原酒工場のほか、東京の麻布と千葉県柏市、西宮、弘前、九州の鳥栖に製品工場をもち、売り上げも年間200億円を越えた
- [46]輸出は量はまだ少ないが、アメリカを初め28カ国に出している
- [48]日本の本格ウイスキーの歴史はまだ半世紀に満たず、300数十年の伝統をもつスコッチには遠く及ばないが、品質的・技術的には比肩できるところまで来ている
- [49]戦前までウイスキーは日本人になじみの薄い酒だったが、今は家庭で広い世代に飲まれる酒になった
- 実業往来 1968年
- [47]500円のハイニッカは9割超が家庭で飲まれ、1000円のウイスキーを飲むのは若い独身のサラリーマンか学生、それから年齢が上って老人である
国内メーカー同士が覇を競っているように見えるが、敵はスコッチにある——弥谷醇平副社長が置いた前提である。1972年の資本自由化までに品質でも値段でも日本のものが上回らなければ競争劣位に立つ、というのがその理由だった。当時のスコッチの輸入は年間12万ケースで、全体の1%にすぎなかった。弥谷醇平副社長は級別課税を意味の薄いものとみて従価税への移行と級の撤廃を主張し、メーカー各社は3年で切り換えると約束していた。1968年4月からの増税では500円のものが20円、1000円のものが41円上がるところを、定価を据え置いてメーカーが負担した。
- 実業往来 1968年
- [50]国内メーカー同士で覇を競いあっているようにとられているが、敵はスコッチにある
- [51]昭和47年には資本の自由化になるが、それまでに品質的にも値段的にも日本のものが上まわっていないと競争に負けてしまう
- [52]スコッチの輸入は年間12万ケースで、これは全体の1%である
- [53]クラス別課税はあまり意味を持たないので従価税にしてはどうか。級の撤廃も主張しており、メーカーでは3年すれば切り換えると約束している
- [54]4月からウイスキーは増税され、500円のものは20円、1000円のものは41円それぞれ高くなるが、定価は上げずにメーカーで負担する
参考文献[39]-[54]
- 私の履歴書 経済人11(日本経済新聞社、1980年)「竹鶴政孝」
- [39]同じ技師が同じ機械、同じ原料を使っても別の場所でつくると全く違うものができる
- [40]これらを合わせてブレンドするとさらによいものができるので、スコットランドでは全部このやり方がとられている
- [41]ウイスキーの熟成を科学の力で早める試みは昔からあったがすべて失敗しており、自然と時だけがその解決者である
- [42]仙台の近くのピート地帯にウイスキーづくりにぴったりの土地を見つけ、北海道工場より規模の大きい原酒の第二工場を建設した
- [44]第二原酒工場が完成すればスコットランドからの技術導入はいちおう全部実現することになる
- [45]北海道の原酒工場と建設中の仙台の原酒工場のほか、東京の麻布と千葉県柏市、西宮、弘前、九州の鳥栖に製品工場をもち、売り上げも年間200億円を越えた
- [46]輸出は量はまだ少ないが、アメリカを初め28カ国に出している
- [48]日本の本格ウイスキーの歴史はまだ半世紀に満たず、300数十年の伝統をもつスコッチには遠く及ばないが、品質的・技術的には比肩できるところまで来ている
- [49]戦前までウイスキーは日本人になじみの薄い酒だったが、今は家庭で広い世代に飲まれる酒になった
- 証券 1989年
- [43]昭和44年5月に宮城県仙台市の仙台工場が操業を開始した
- 実業往来 1968年
- [47]500円のハイニッカは9割超が家庭で飲まれ、1000円のウイスキーを飲むのは若い独身のサラリーマンか学生、それから年齢が上って老人である
- [50]国内メーカー同士で覇を競いあっているようにとられているが、敵はスコッチにある
- [51]昭和47年には資本の自由化になるが、それまでに品質的にも値段的にも日本のものが上まわっていないと競争に負けてしまう
- [52]スコッチの輸入は年間12万ケースで、これは全体の1%である
- [53]クラス別課税はあまり意味を持たないので従価税にしてはどうか。級の撤廃も主張しており、メーカーでは3年すれば切り換えると約束している
- [54]4月からウイスキーは増税され、500円のものは20円、1000円のものは41円それぞれ高くなるが、定価は上げずにメーカーで負担する
筆者考察
1955年の値下げと1962年の混和率引き上げは、量と質という別の話に見えて、同じ一つの制約に対する二つの答えである。制約とは、原酒を多く入れる会社ほど売り値で不利になる級別課税の仕組みそのものだった。原酒が0%でもウイスキーと名乗れる以上、原酒を増やせば原価が上がり、値段でも容量でも負ける。ニッカウヰスキーが丸びんニッキーで採ったのは、一本三割の欠損を一年の量で取り返すという解き方で、弥谷醇平氏の算段どおり、北海道6・内地4だった売上の割合は逆転した。ウイスキーの販売金額は1954酒造年度の100に対し1959年で534に達している。量さえ取れれば、原酒の量では譲らずに済む。
もう一つの答えは、制度そのものを動かすことだった。1962年に二級の混和率が5%未満から10%未満へ、1968年にさらに各級3%引き上げられたのは業界の要望によるもので、竹鶴政孝社長はこれを品質を上げる機会として使った。許される限りぎりぎりまで、しかもできるだけ古い原酒を入れれば、二級で9%でも普通の原酒を15%入れた程度の味が出る。1964年に完成した西宮のカフェ式グレーン工場は、混ぜる中性スピリッツを穀類由来のグレーンに替えるための設備で、日本でこの製法を採ったのはニッカウヰスキーだけだった。1964年のハイニッカ500円と1965年のブラックニッカ1000円は、千円ウイスキー戦争と呼ばれた値段の争いに見えて、上限いっぱいの原酒を安く配る仕掛けである。
- 1962年4月1日の改正で二級は5%未満から10%未満へ、1968年5月1日の改正で各級とも3%引き上げられた。
- 出所は私の履歴書 経済人11(日本経済新聞社、1980年)「竹鶴政孝」。
出典・参考
4件
- 私の履歴書 経済人11(日本経済新聞社、1980年)「竹鶴政孝」
- 実業往来 1968年
- 実業往来 1970年
- 証券 1989年