1890年〜 リヨンに学んだ染料商から住友化学の特約販売店へ
- 1938年 名古屋支店開設
- 1939年 日本染料製造の医薬品の総販売元となり、医薬品部門を新設
- 1943年 商号を稲畑産業に変更
- 1944年 日本染料製造の住友化学合併を受け、住友化学工業の特約販売店となる 創業者が育てたメーカーを手放して販売の側に残るか——戦時統制下の商権をめぐる選択
京都府派遣留学生だった創業者・稲畑勝太郎氏のフランス染色技術直輸入
稲畑産業の起点は1890年10月、創業者の稲畑勝太郎氏が京都市三条大橋東[1]に開いた「稲畑染料店」である[2]。創業者は1862年に京都の御所御用達菓子舗[3]「亀屋正重」の長男として生まれ、1877年に15歳で京都府派遣留学生8名の一人として選抜[4]され、フランス・リヨンへ渡った。マルチニエール工業学校で染色を学び、リヨン近郊のマルナス染工場で3年間の徒弟[5]として実技を身につけたのち、1885年に帰国した[6]。京都府庁奉職、京都織物の技師長を経て独立した創業者は[7]、フランス・サンドニ社の総代理店として染料の直輸入を始めた。当時の日本の染色業者は欧州から薬品を仕入れる場合も商社経由が普通で、欧州メーカーと直接結びつく独立染料商の登場は珍しかった。
- 稲畑産業 創業者史料室 IKものがたり
- [1]1890年10月 稲畑勝太郎氏が京都市三条大橋東に「稲畑染料店」を開業
- [2]創業者の氏名は稲畑勝太郎
- [3]創業者は1862年に京都の菓子舗の長男として生まれた
- [4]1877年に15歳で京都府派遣留学生8名の一人に選抜されフランス・リヨンへ渡った
- [5]マルチニエール工業学校で染色を学び、マルナス染工場で3年間の徒弟を経た
- [6]1885年に帰国
- [7]京都府庁奉職・京都織物の技師長を経て独立しサンドニ社総代理店として染料直輸入を開始
1891年には商標「IK」を制定し[8]、1893年に商号を「稲畑商店」へ改め[9]、1894年には東京出張所を開設した[10]。1895年には毛斯綸紡織を共同で創立し[11]、1897年にはリヨン留学時代の同窓だったリュミエール兄弟から映写機「シネマトグラフ」と興行権[12]を譲り受け、京都電燈の中庭で日本初の映画試写[13]、続いて大阪・南地演舞場で日本初の有料映画興行を実現した。映画事業は本業の染料商に専念するため数年で撤退したが、欧州先端技術を国内に持ち込む独立輸入商の創業者の人脈と判断速度は、その後の住友グループとの結びつきにつながった。1918年に法人化して「株式会社稲畑商店」となり[14]、創業者は1926年に日本染料製造の社長に就任した[15]。
- 稲畑産業 会社沿革ページ
- [8]1891年に商標「IK」を制定
- [9]1893年に商号を「稲畑商店」へ改めた
- [10]1894年に東京出張所を開設
- [11]1895年に毛斯綸紡織を共同で創立
- [14]1918年に法人化して「株式会社稲畑商店」となった
- [15]創業者は1926年に日本染料製造の社長に就任
- 日本映画発祥の地 京都市公式観光Navi
- [12]1897年にリュミエール兄弟から映写機「シネマトグラフ」と興行権を譲り受けた
- [13]京都電燈の中庭で日本初の映画試写・大阪南地演舞場で日本初の有料映画興行(最上級主張)
- 稲畑産業 創業者史料室 IKものがたり
- [1]1890年10月 稲畑勝太郎氏が京都市三条大橋東に「稲畑染料店」を開業
- [2]創業者の氏名は稲畑勝太郎
- [3]創業者は1862年に京都の菓子舗の長男として生まれた
- [4]1877年に15歳で京都府派遣留学生8名の一人に選抜されフランス・リヨンへ渡った
- [5]マルチニエール工業学校で染色を学び、マルナス染工場で3年間の徒弟を経た
- [6]1885年に帰国
- [7]京都府庁奉職・京都織物の技師長を経て独立しサンドニ社総代理店として染料直輸入を開始
- 稲畑産業 会社沿革ページ
- [8]1891年に商標「IK」を制定
- [9]1893年に商号を「稲畑商店」へ改めた
- [10]1894年に東京出張所を開設
- [11]1895年に毛斯綸紡織を共同で創立
- [14]1918年に法人化して「株式会社稲畑商店」となった
- [15]創業者は1926年に日本染料製造の社長に就任
- 日本映画発祥の地 京都市公式観光Navi
- [12]1897年にリュミエール兄弟から映写機「シネマトグラフ」と興行権を譲り受けた
- [13]京都電燈の中庭で日本初の映画試写・大阪南地演舞場で日本初の有料映画興行(最上級主張)
「IK」商標と東京・大阪二極の販売網
1918年の法人化以降、稲畑商店は染料・化学品・医薬品の取り扱いを順次広げ、大阪本店と東京出張所を軸とする販売網を整えた。1938年6月には名古屋支店を開設し[16]、中部圏の取引先にも対応できる体制を敷いた。当時の染料商社は綿紡・絹織業者を主要顧客とする業態で、輸入元の海外染料メーカーと国内染色業者を結ぶ仲介機能が稼ぎ頭だった。1939年2月には日本染料製造の医薬品の総販売元となり[17]、医薬品部門を新設して取扱い品目を化学から医療へ広げた。創業者・稲畑勝太郎氏が日本染料製造の社長[18]を兼ねていた関係から、関係会社の販売チャネルを取り込む形で多角化が進んだ。
- 稲畑産業 有価証券報告書【沿革】
- [16]1938年6月 名古屋支店を開設
- [17]1939年2月 日本染料製造の医薬品の総販売元となり医薬品部門を新設
- 稲畑産業 会社沿革ページ
- [18]創業者・稲畑勝太郎氏が日本染料製造の社長を兼ねていた
1943年4月、商号を「稲畑産業株式会社」[19]へ改めた。「染料店」「商店」と続いた商号から「産業」を冠する社名への転換は、染料単品の輸入商社という出自を超えて、化学品・医薬品・機械までを扱う総合商社的な業態への意識転換を示した。戦時下の物資統制は染料の自由な輸入を絶ち、稲畑産業はこの時期、住友系の化学品取扱いに事業の中心を移した。1944年7月、稲畑勝太郎氏が育てた日本染料製造が住友化学工業に合併されたのと同時に、稲畑産業は住友化学工業の染料・化学品・医薬品の特約販売店に指定[20]された。創業者が興した日本染料製造が住友化学に吸収されたことで、創業者の影響圏は事業会社から販売チャネルの側へ集約された。
- 稲畑産業 有価証券報告書【沿革】
- [19]1943年4月 商号を「稲畑産業株式会社」へ改めた
- [20]1944年7月 日本染料製造が住友化学工業に合併され、稲畑産業は住友化学工業の染料・化学品・医薬品の特約販売店に指定された
1968年刊の『企業の歴史 明治百年』(経済春秋社編)は、稲畑染料店が明治末期に取扱い分野を広げ、1897年に店舗を大阪の本店所在地へ移したと記す[21]。同書によれば、移転と前後して従来の染料に加え工業薬品・紡織・染色用諸機械・雑貨・洋酒を海外から輸入[22]するようになり、染料単品商から輸入雑貨を含む商社へ業容を広げた。1916年には染料・医薬品を製造する日本染料を設立し[23]、染料では後に国内最大のメーカーへ育てた。1918年6月の株式会社稲畑商店への組織変更時の資本金は100万円[24]で、第一次大戦の活況も事業拡大に重なった。1935年には医薬品を取扱業務に加え[25]、1943年4月の現社名への改称と同時に資本金を200万円[26]へ増やしている。
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
- [21]稲畑染料店は1897年に店舗を大阪の本店所在地へ移転した
- [22]大阪移転と前後して染料の外に工業薬品・紡織・染色用諸機械・雑貨・洋酒を海外から輸入するようになった
- [23]1916年(大正5年)に染料・医薬品を製造する日本染料を設立し、染料では後に国内最大のメーカーに発展した
- [24]1918年6月の株式会社稲畑商店への組織変更時の資本金は100万円
- [25]1935年(昭和10年)に医薬品を取扱業務に加えた(沿革の1939年2月医薬品部門新設とは別の取扱開始時点)
- [26]1943年4月の現社名への改称と同時に資本金を200万円へ増やした
- 稲畑産業 有価証券報告書【沿革】
- [16]1938年6月 名古屋支店を開設
- [17]1939年2月 日本染料製造の医薬品の総販売元となり医薬品部門を新設
- [19]1943年4月 商号を「稲畑産業株式会社」へ改めた
- [20]1944年7月 日本染料製造が住友化学工業に合併され、稲畑産業は住友化学工業の染料・化学品・医薬品の特約販売店に指定された
- 稲畑産業 会社沿革ページ
- [18]創業者・稲畑勝太郎氏が日本染料製造の社長を兼ねていた
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
- [21]稲畑染料店は1897年に店舗を大阪の本店所在地へ移転した
- [22]大阪移転と前後して染料の外に工業薬品・紡織・染色用諸機械・雑貨・洋酒を海外から輸入するようになった
- [23]1916年(大正5年)に染料・医薬品を製造する日本染料を設立し、染料では後に国内最大のメーカーに発展した
- [24]1918年6月の株式会社稲畑商店への組織変更時の資本金は100万円
- [25]1935年(昭和10年)に医薬品を取扱業務に加えた(沿革の1939年2月医薬品部門新設とは別の取扱開始時点)
- [26]1943年4月の現社名への改称と同時に資本金を200万円へ増やした
創業者・稲畑勝太郎氏の死と住友グループ商社化の起点
1949年2月、創業者の稲畑勝太郎氏は87歳で死去[27]した。リヨン留学からシネマトグラフ輸入、日本染料製造創立、住友化学合併への流れを生涯にわたって主導した創業者の退場は、稲畑産業の経営判断の主軸が一族親族から組織的経営へ移る転機となった。2代社長の稲畑太郎氏は1937年から創業者の後を継いで稲畑商店の社長を務めており、1943年の稲畑産業改称後も社長として終戦直後[28]の混乱期を支えた。1944年の住友化学特約店化は戦時下の商権整理の一環でもあったが、結果として稲畑産業は住友化学の販売チャネルの一翼を担う商社として戦後を出発した。
- 稲畑産業 創業者史料室 IKものがたり
- [27]1949年2月 創業者・稲畑勝太郎氏が87歳で死去
- 稲畑産業 有価証券報告書【沿革】
- [28]1943年の稲畑産業改称後も2代社長として終戦直後を支えた
戦後の稲畑産業は染料課を1946年に新設して取扱いを復活し[29]、1949年にはモンサント社の塩化ビニル樹脂の取扱いを開始[30]した。染料一本足ではなく、新興の合成樹脂や化学品へ商権を広げる起点が、創業者死去の同じ年に置かれた。住友化学の特約販売店という立ち位置は、自社で原料を製造しない代わりに住友化学のメーカー力を販売面で代行する商社機能を稲畑産業に与えた。創業者の興した「フランス染料の直輸入商」という出発点は、創業者死去とともに、戦後日本の住友系化学品流通網の中の一商社という新しい姿に置き換わった。1890年から1949年までの約60年間は、創業者・稲畑勝太郎氏が一代で「リヨン仕込[31]みの染料商」を「住友化学の特約販売店」へと変えた時代であり、戦後の事業転換の土台を残した。
- 稲畑産業 会社沿革ページ
- [29]1946年に染料課を新設し取扱いを復活
- [30]1949年にモンサント社の塩化ビニル樹脂の取扱いを開始
- 稲畑産業 創業者史料室 IKものがたり
- [31]創業(リヨン仕込みの染料商)から1949年(創業者死去)までは約60年間
- 稲畑産業 創業者史料室 IKものがたり
- [27]1949年2月 創業者・稲畑勝太郎氏が87歳で死去
- [31]創業(リヨン仕込みの染料商)から1949年(創業者死去)までは約60年間
- 稲畑産業 有価証券報告書【沿革】
- [28]1943年の稲畑産業改称後も2代社長として終戦直後を支えた
- 稲畑産業 会社沿革ページ
- [29]1946年に染料課を新設し取扱いを復活
- [30]1949年にモンサント社の塩化ビニル樹脂の取扱いを開始