ニッカウヰスキー:竹鶴政孝の大日本果汁設立と第一号ウイスキーの発売
1934年〜寿屋との十年契約満了と、鳥井信治郎氏が容れなかった北海道
竹鶴政孝氏は広島県竹原町のつくり酒屋に生まれ、大阪高等工業の醸造科を1916年に卒業する前から、大阪の摂津酒造で洋酒づくりに就いた。入社一年足らずの1918年7月、阿部喜兵衛社長にスコットランド留学を勧められ、神戸港を発った。グラスゴー大学に聴講生として籍を置きながら、1918年11月から1920年5月までローゼスのグレンリベット蒸溜所で実習を重ね、カンベルタウンではイネー博士のもとで約6か月ブレンドの訓練を受けた。1921年11月に帰国して技師長に就任したが、摂津酒造は大戦後の恐慌のただ中にあり、竹鶴政孝氏が出した本格モルトウイスキー醸造計画書は役員会で否認された。1922年、竹鶴政孝氏は辞表を出して摂津酒造を去った。
- 私の履歴書 経済人11(日本経済新聞社、1980年)「竹鶴政孝」
- [1]竹鶴政孝氏は広島県竹原町の造り酒屋に生まれ、大阪高等工業醸造科の卒業前から摂津酒造で洋酒づくりに従事した
- [2]1918年7月、摂津酒造の阿部喜兵衛社長の勧めでスコットランド留学に出発した
- [3]グラスゴー大学に聴講生として在籍し、1918年11月から1920年5月までローゼスのグレンリベット蒸溜所で実習、カンベルタウンでイネー博士に約6か月学んだ
- [4]1921年11月に帰国して摂津酒造の技師長となったが、本格モルトウイスキー醸造計画書は役員会で否認された
- [5]1922年に摂津酒造を退社した
1923年の春、寿屋の鳥井信治郎氏が浪人中の竹鶴政孝氏の自宅を三度訪ね、赤玉ポートワインで得た利益を本格ウイスキーに投じたいと持ちかけた。同年6月の入社にあたっては、ウイスキーづくりを全部まかせること、必要な資金を用意すること、年俸4,000円、雇用期間十年という条件が交わされた。十年という年限は、ウイスキーが商品として完成するのに要する年数から決めたものだった。竹鶴政孝氏は工場の土地に北海道を勧めたが、鳥井信治郎氏は大阪から近い場所を譲らなかった。当時の北海道は大阪から三日以上かかる辺地とみなされていた。竹鶴政孝氏は宝塚から紀州、滋賀、舞子まで歩いて京都の山崎を選び、1924年11月に200万円あまりを投じた工場を竣工させた。
- 私の履歴書 経済人11(日本経済新聞社、1980年)「竹鶴政孝」
- [6]1923年春、寿屋の鳥井信治郎氏が竹鶴政孝氏の自宅を三度訪ね、赤玉ポートワインの利益で本格ウイスキーをつくりたいと申し入れた
- [7]1923年6月に寿屋へ入社。ウイスキーづくりを一任、必要資金の用意、年俸4,000円、雇用期間十年という条件だった
- [8]雇用期間の十年は、ウイスキーが商品として完成するのに必要な年数から決めた
- [9]竹鶴政孝氏は工場用地に北海道を勧めたが、鳥井信治郎氏は大阪から近い土地を主張して譲らなかった
- [10]当時の北海道は大阪から三日以上かかり、一般には辺地とみなされていた
- [11]宝塚・紀州・滋賀・舞子まで候補地を探して山崎を選び、1924年11月に200万円あまりを要した工場が竣工した
1929年4月1日、山崎工場の原酒を用いた白札サントリーを1本3円50銭で発売したが、売れ行きも評判も伸びなかった。1933年、寿屋はビール工場と事業一切を麦酒共同販売へ300万円で売却し、工場長だった竹鶴政孝氏はその直後に郷里の母を亡くした。十年の契約は1932年に満了しており、竹鶴政孝氏はここで独立に踏み切った。熟成を待つあいだの収入をつくればすぐ売れるジュースで賄う計画を立て、加賀証券の加賀正太郎氏、芝川又四郎氏、柳沢伯爵の三人の応援を得て、資本金10万円の会社をつくることに決めた。工場の予定地には、以前から目をつけていた北海道余市を選んだ。余市川が日本海の石狩湾に注ぐ河口の町で、付近からピートがとれ、リンゴとぶどうの産地でもあった。
- 私の履歴書 経済人11(日本経済新聞社、1980年)「竹鶴政孝」
- [12]1929年4月1日に白札サントリーを1本3円50銭で発売したが、売れ行きも評判もよくなかった
- [13]1933年に寿屋はビール工場と企業一切を麦酒共同販売へ300万円で売却し、その頃竹鶴政孝氏は母を亡くした
- [14]寿屋との十年契約は1932年に満了しており、竹鶴政孝氏は独立を決意した
- [15]つくればすぐ売れるジュースを売りながらウイスキーを育てる計画を立て、加賀正太郎氏・芝川又四郎氏・柳沢伯爵の応援で資本金10万円の会社をつくることにした
- [16]工場の予定地は前から目をつけていた北海道余市に決めた
- [17]余市は余市川が日本海の石狩湾に流れ出る河口の町で、付近からピートがとれ、リンゴやぶどうの産地でもあった
参考文献[1]-[17]
- 私の履歴書 経済人11(日本経済新聞社、1980年)「竹鶴政孝」
- [1]竹鶴政孝氏は広島県竹原町の造り酒屋に生まれ、大阪高等工業醸造科の卒業前から摂津酒造で洋酒づくりに従事した
- [2]1918年7月、摂津酒造の阿部喜兵衛社長の勧めでスコットランド留学に出発した
- [3]グラスゴー大学に聴講生として在籍し、1918年11月から1920年5月までローゼスのグレンリベット蒸溜所で実習、カンベルタウンでイネー博士に約6か月学んだ
- [4]1921年11月に帰国して摂津酒造の技師長となったが、本格モルトウイスキー醸造計画書は役員会で否認された
- [5]1922年に摂津酒造を退社した
- [6]1923年春、寿屋の鳥井信治郎氏が竹鶴政孝氏の自宅を三度訪ね、赤玉ポートワインの利益で本格ウイスキーをつくりたいと申し入れた
- [7]1923年6月に寿屋へ入社。ウイスキーづくりを一任、必要資金の用意、年俸4,000円、雇用期間十年という条件だった
- [8]雇用期間の十年は、ウイスキーが商品として完成するのに必要な年数から決めた
- [9]竹鶴政孝氏は工場用地に北海道を勧めたが、鳥井信治郎氏は大阪から近い土地を主張して譲らなかった
- [10]当時の北海道は大阪から三日以上かかり、一般には辺地とみなされていた
- [11]宝塚・紀州・滋賀・舞子まで候補地を探して山崎を選び、1924年11月に200万円あまりを要した工場が竣工した
- [12]1929年4月1日に白札サントリーを1本3円50銭で発売したが、売れ行きも評判もよくなかった
- [13]1933年に寿屋はビール工場と企業一切を麦酒共同販売へ300万円で売却し、その頃竹鶴政孝氏は母を亡くした
- [14]寿屋との十年契約は1932年に満了しており、竹鶴政孝氏は独立を決意した
- [15]つくればすぐ売れるジュースを売りながらウイスキーを育てる計画を立て、加賀正太郎氏・芝川又四郎氏・柳沢伯爵の応援で資本金10万円の会社をつくることにした
- [16]工場の予定地は前から目をつけていた北海道余市に決めた
- [17]余市は余市川が日本海の石狩湾に流れ出る河口の町で、付近からピートがとれ、リンゴやぶどうの産地でもあった
1934年〜リンゴジュース1本30銭の不振と角びん第一号ウイスキー
1934年7月、竹鶴政孝氏は大日本果汁株式会社を設立した。大日本と冠したのは、当時の風潮に加えて、大日本麦酒の向こうを張ろうという意気からだった。同年10月には北海道余市郡に工場を建設し、住友銀行から100万円の融資を受けてウイスキーづくりの準備に入った。並行して余市のリンゴを搾り、フランス製の濃縮機で低温濃縮した果汁を1本30銭で売り出し、1935年5月にニッカリンゴ汁の発売を始めた。1本に約5個分の果汁を詰めた栄養本位の商品で、北海道のめぼしい病院で使われるまでにはなったが、ラムネとサイダーの時代に一般の嗜好とは合わず、値段も高すぎた。
- 証券 1989年
- [18]1934年7月、竹鶴政孝氏により大日本果汁株式会社が設立された
- [21]1935年5月に「ニッカリンゴ汁」の発売を開始した
- 私の履歴書 経済人11(日本経済新聞社、1980年)「竹鶴政孝」
- [19]大日本果汁の社名は、何でも大日本とつける当時の風潮と、大日本麦酒の向こうを張ろうという意気からつけた
- [20]1934年10月に北海道余市郡へ工場を建て、住友銀行から100万円の融資を受けてウイスキーづくりの準備にかかった
- [22]フランス製の濃縮機で低温濃縮したリンゴジュースを1本30銭で売り出した。1本に約5個分の果汁を濃縮し、北海道の主な病院で使われたが、ラムネ・サイダーの時代で一般の嗜好に合わず値段も高かった
小樽から船で東京と大阪へ送った積荷は、途中で雪をかぶってラベルの糊にカビが生え、商品として出せないこともあった。回転が悪く、東京に置いた在庫はペクチンが凝固して濁りを出し、本郷の本富士警察に呼び出された。赤字会社のうわさは小樽あたりまで広まった。それでも蒸溜の準備は進み、山崎工場の単式蒸溜機を手がけた喜田専之輔氏に同じ釜をつくらせ、1936年秋からウイスキーの蒸溜に入った。原酒が商品になるまでの間を埋めるため、1937年10月にアップル・ゼリーとグレープ・ゼリー、翌1938年にアップル・ワインを出した。
- 私の履歴書 経済人11(日本経済新聞社、1980年)「竹鶴政孝」
- [23]小樽から東京・大阪へ船で送った積荷が積雪でラベルの糊にカビを生じ、商品として出せないことがあった
- [24]回転が悪く東京の商品にペクチンが凝固して濁りが出て、本郷の本富士警察に呼び出された
- [25]赤字会社のうわさが広まり、小樽あたりでも「赤字会社のジュースか」と言われた
- [26]山崎工場の単式蒸溜機をつくった喜田専之輔氏に蒸溜機を製作させ、1936年秋からウイスキーの蒸溜に入った
- [27]1937年10月にアップル・ゼリーとグレープ・ゼリー、翌1938年にアップル・ワインを発売し、ウイスキーへのつなぎの商品とした
1940年10月、大日本果汁はぎざぎざの線を入れた角びんで第一号のニッカウヰスキーを発売した。ニッカという商品名は、当時の社名である大日本果汁の略、日果からとった。発売の2か月後に価格統制が始まり、ウイスキーは一級・二級・三級に分けられ、ニッカはサントリー、トミーとともに商工省と大蔵省の共同告知で一級ウイスキーの指定銘柄品として公示された。統制入りとともに余市工場は海軍の指定工場となり、原料の大麦の配給を受けて貯蔵量を増やした。竹鶴政孝氏は工場敷地内の沼に囲まれた島に貯蔵庫を建て、庫と庫の間を離したうえ、各年代の原酒を均等に分けて入れた。
- 証券 1989年
- [28]1940年10月に「ニッカウヰスキー」「ニッカブランデー」の発売を開始した
- 私の履歴書 経済人11(日本経済新聞社、1980年)「竹鶴政孝」
- [29]1940年秋にぎざぎざの線の入った角びんでニッカウヰスキー第一号を発売した。ニッカは社名・大日本果汁の略「日果」からとった
- [30]第一号発売の2か月後に価格統制が始まり、ウイスキーは一級・二級・三級に区分され、ニッカはサントリー・トミーとともに商工省・大蔵省の共同告知で一級ウイスキーの指定銘柄品に公示された
- [31]統制時代に入り余市工場は海軍の指定工場となって原料大麦の配給を受け、貯蔵量が増えた
- [32]工場敷地内の沼に囲まれた島に貯蔵庫を建て、貯蔵庫の間を離し、各年代の原酒を均等に各貯蔵庫へ分けて入れた
参考文献[18]-[32]
- 証券 1989年
- [18]1934年7月、竹鶴政孝氏により大日本果汁株式会社が設立された
- [21]1935年5月に「ニッカリンゴ汁」の発売を開始した
- [28]1940年10月に「ニッカウヰスキー」「ニッカブランデー」の発売を開始した
- 私の履歴書 経済人11(日本経済新聞社、1980年)「竹鶴政孝」
- [19]大日本果汁の社名は、何でも大日本とつける当時の風潮と、大日本麦酒の向こうを張ろうという意気からつけた
- [20]1934年10月に北海道余市郡へ工場を建て、住友銀行から100万円の融資を受けてウイスキーづくりの準備にかかった
- [22]フランス製の濃縮機で低温濃縮したリンゴジュースを1本30銭で売り出した。1本に約5個分の果汁を濃縮し、北海道の主な病院で使われたが、ラムネ・サイダーの時代で一般の嗜好に合わず値段も高かった
- [23]小樽から東京・大阪へ船で送った積荷が積雪でラベルの糊にカビを生じ、商品として出せないことがあった
- [24]回転が悪く東京の商品にペクチンが凝固して濁りが出て、本郷の本富士警察に呼び出された
- [25]赤字会社のうわさが広まり、小樽あたりでも「赤字会社のジュースか」と言われた
- [26]山崎工場の単式蒸溜機をつくった喜田専之輔氏に蒸溜機を製作させ、1936年秋からウイスキーの蒸溜に入った
- [27]1937年10月にアップル・ゼリーとグレープ・ゼリー、翌1938年にアップル・ワインを発売し、ウイスキーへのつなぎの商品とした
- [29]1940年秋にぎざぎざの線の入った角びんでニッカウヰスキー第一号を発売した。ニッカは社名・大日本果汁の略「日果」からとった
- [30]第一号発売の2か月後に価格統制が始まり、ウイスキーは一級・二級・三級に区分され、ニッカはサントリー・トミーとともに商工省・大蔵省の共同告知で一級ウイスキーの指定銘柄品に公示された
- [31]統制時代に入り余市工場は海軍の指定工場となって原料大麦の配給を受け、貯蔵量が増えた
- [32]工場敷地内の沼に囲まれた島に貯蔵庫を建て、貯蔵庫の間を離し、各年代の原酒を均等に各貯蔵庫へ分けて入れた
1952年〜高橋衛氏の説得とニッカウヰスキーへの商号変更
終戦の時点で、余市の貯蔵庫には古いもので約10年を経た原酒が並んでいた。北海道工場には占領軍の将兵などからウイスキーの強請があり、占領軍の幹部は15セントのアメリカたばことの交換を通達の形で求めてきた。竹鶴政孝氏はこれを略奪行為だと言って断った。当時のウイスキーは配給価格120円に対してヤミで1,500円がつき、一本が米一俵の相場だとも言われたが、大日本果汁がヤミ行為に回ることはできず、本格ウイスキーはつくるだけ損が出た。戦後の数年は本格ウイスキーを求める市場がなく、カストリやバクダンと呼ばれる密造酒が出回った。
- 私の履歴書 経済人11(日本経済新聞社、1980年)「竹鶴政孝」
- [33]終戦時、原酒は古いもので約10年を経て十分に熟成していた
- [34]戦後の混乱期、北海道工場に占領軍の将兵らからウイスキーの強請があり、占領軍幹部は15セントのアメリカたばことの交換を通達の形で要求した
- [35]竹鶴政孝氏は「これ以上強請すると略奪行為になるぞ」と断った
- [36]配給価格120円のウイスキーがヤミで1,500円した。一本が米一俵の相場とも言われたが、会社はヤミ行為ができず本格ウイスキーはつくるだけ損になった
- [37]戦後数年は本格ウイスキーを求める時代ではなく、カストリやバクダンと呼ばれる密造酒が横行した
1949年、酒類の自由販売と雑酒の公定価格廃止が実施された。当時の税法は三級ウイスキーを原酒5%以下と定め、下限は0%で、混ぜる原酒の貯蔵期間にも制限がなかった。イミテーションを出せない大日本果汁は、ウイスキーメーカーに原酒を売るモルト屋を兼業し、全国約30軒あまりの免許業者へ原酒を引き渡した。この収入で経理は一息ついたものの、インフレで従業員の給料が上がり、税金は滞納しがちになった。国税庁初代長官の高橋衛氏は、原酒を抱えたまま万一のことがあれば監督官庁も困ると竹鶴政孝氏に説いた。1950年春、竹鶴政孝氏は全従業員を工場の広場に集めて苦衷を述べ、三級ウイスキーの発売に同意した。
- 私の履歴書 経済人11(日本経済新聞社、1980年)「竹鶴政孝」
- [38]1949年に「酒類自由販売」と「雑酒」の公定価格廃止が行われた
- [39]当時の税法で三級ウイスキーは原酒5%以下・0%までと規定され、使う原酒の貯蔵期間にも規制がなかった
- [40]1949年ごろ、ウイスキーメーカーに原酒を売るモルト屋を兼業し、全国約30軒あまりのウイスキー免許業者へ原酒が引き取られた
- [41]モルト屋の収入で経理は一息ついたが、インフレで給料が上がり税金も滞納しがちになった
- [42]国税庁初代長官の高橋衛氏が竹鶴政孝氏を説得した
- [43]1950年春、全従業員を工場の広場に集めて苦衷を述べ、三級ウイスキーの発売に同意した
発売にあたり、竹鶴政孝氏は税法で許される最高率まで原酒を入れ、他社の640ミリリットル・330円に対して、140ミリリットル少ない500ミリリットルのびんを20円高い350円で出した。容量が少なく値段が高いことは、他社との競争上の不利として残った。売上が伸びるにつれて専門人材が要り、大日本果汁は特定の普通銀行を避けて日本銀行に依頼し、統計局長の土井太郎氏を経理担当に迎え、続いて営業担当にコロンビア大学商科出身の弥谷醇平氏を入れた。1952年8月、ウイスキーを売る会社が大日本果汁でもあるまいとして、商号をニッカウヰスキー株式会社に変更した。同じ年、東京・麻布の毛利家の屋敷跡にびん詰めの東京工場を建設した。1953年3月1日、ウイスキーの級別呼称は特級・一級・二級に改められた。
- 私の履歴書 経済人11(日本経済新聞社、1980年)「竹鶴政孝」
- [44]三級ウイスキーは税法で許される最高率まで原酒を入れ、他社の640ミリリットル・330円に対し500ミリリットル・350円で発売した
- [45]容量が少なく値段が高いことは他社との競争上不利だった
- [46]特定の普通銀行を避けて日本銀行に依頼し、統計局長の土井太郎氏を経理担当として迎え、その後に営業担当としてコロンビア大学商科出身の弥谷醇平氏を迎えた
- [48]1952年に東京・麻布の毛利邸跡にびん詰めの東京工場を建てた
- [49]1953年3月1日にウイスキーの級別呼称が特級・一級・二級に改められた
- 証券 1989年
- [47]1952年8月に商号を「ニッカウヰスキー株式会社」へ変更した
参考文献[33]-[49]
- 私の履歴書 経済人11(日本経済新聞社、1980年)「竹鶴政孝」
- [33]終戦時、原酒は古いもので約10年を経て十分に熟成していた
- [34]戦後の混乱期、北海道工場に占領軍の将兵らからウイスキーの強請があり、占領軍幹部は15セントのアメリカたばことの交換を通達の形で要求した
- [35]竹鶴政孝氏は「これ以上強請すると略奪行為になるぞ」と断った
- [36]配給価格120円のウイスキーがヤミで1,500円した。一本が米一俵の相場とも言われたが、会社はヤミ行為ができず本格ウイスキーはつくるだけ損になった
- [37]戦後数年は本格ウイスキーを求める時代ではなく、カストリやバクダンと呼ばれる密造酒が横行した
- [38]1949年に「酒類自由販売」と「雑酒」の公定価格廃止が行われた
- [39]当時の税法で三級ウイスキーは原酒5%以下・0%までと規定され、使う原酒の貯蔵期間にも規制がなかった
- [40]1949年ごろ、ウイスキーメーカーに原酒を売るモルト屋を兼業し、全国約30軒あまりのウイスキー免許業者へ原酒が引き取られた
- [41]モルト屋の収入で経理は一息ついたが、インフレで給料が上がり税金も滞納しがちになった
- [42]国税庁初代長官の高橋衛氏が竹鶴政孝氏を説得した
- [43]1950年春、全従業員を工場の広場に集めて苦衷を述べ、三級ウイスキーの発売に同意した
- [44]三級ウイスキーは税法で許される最高率まで原酒を入れ、他社の640ミリリットル・330円に対し500ミリリットル・350円で発売した
- [45]容量が少なく値段が高いことは他社との競争上不利だった
- [46]特定の普通銀行を避けて日本銀行に依頼し、統計局長の土井太郎氏を経理担当として迎え、その後に営業担当としてコロンビア大学商科出身の弥谷醇平氏を迎えた
- [48]1952年に東京・麻布の毛利邸跡にびん詰めの東京工場を建てた
- [49]1953年3月1日にウイスキーの級別呼称が特級・一級・二級に改められた
- 証券 1989年
- [47]1952年8月に商号を「ニッカウヰスキー株式会社」へ変更した
筆者考察
ウイスキーは仕込んでから売れるまでに十年かかり、その十年をどう食うかが会社の形を決める。竹鶴政孝氏が1923年に寿屋と交わした十年の雇用契約は、その待ち時間を鳥井信治郎氏の資本で埋める取り決めだった。1934年に独立した竹鶴政孝氏は、同じ十年を自前で用意しなければならない。大日本果汁という社名も、余市のリンゴを搾った1本30銭のニッカリンゴ汁も、1937年のゼリーやアップル・ワインも、1949年に始めた免許業者への原酒販売も、すべて熟成を待つための商売である。だがリンゴ汁は北海道の病院に入るのがやっとで、小樽から船で送れば途中でラベルの糊にカビが生え、東京に残った在庫は濁って警察の呼び出しを招いた。待つための商売が食えないなら、待たない商売を出すほかない。
1950年春の三級ウイスキーは品質の譲歩だが、竹鶴政孝氏は譲り方までは譲っていない。税法が三級を原酒5%以下と定め、下限は0%、貯蔵期間の制限もない仕組みのなかで、許される最高率まで原酒を入れ、他社の640ミリリットル・330円に対して140ミリリットル少ない500ミリリットルを20円高い350円で出した。原酒を持つ会社にしか作れない三級品を、原酒を持たない会社と同じ棚に並べたことになる。売れ行きの不利はここから来ており、朝日麦酒の資本参加を受けたあとの値下げも、この不利を引き受けたうえでの選択になる。譲るのは値段と容量で、原酒の量では譲らない。1952年に商号を大日本果汁からニッカウヰスキーへ改めたのは、待つための商売が主役を降りたという宣言でもあった。
出典・参考
2件
- 私の履歴書 経済人11(日本経済新聞社、1980年)「竹鶴政孝」
- 証券 1989年