宝ホールディングスビール事業からの撤退と二工場のキリン・サッポロへの売却
養父が社運を賭けた事業を、就任直後の大宮隆社長はなぜ畳んだか
- 概要
- 1966年に社長へ就任した大宮隆は、就任直後の最大の懸案として、1957年に参入したビール事業からの撤退を決めた。京都麦酒工場を1967年に麒麟麦酒へ、木崎麦酒工場を1968年にサッポロビールへ売却し、あわせて大規模な人員削減を進めた。前会長・大宮庫吉氏が社運を賭けて始めた事業を、後継の社長が畳んだ判断であった。
- 背景
- 1957年に「タカラビール」で参入したビール事業は、問屋が特定銘柄だけを扱う専売的な流通と、先行する大手の壁に阻まれて販売ルートを築けなかった。1962年の京都第二工場建設で拡大を狙ったことがかえって傷を深め、経営の足を引っ張り続けていた。
- 内容
- 得意先や取引銀行を間に立てて京都・木崎の二つの麦酒工場を麒麟麦酒とサッポロビールへ売却し、ビール事業から全面撤退した。過剰となった人員も大幅に整理し、清酒・焼酎・本みりん・酒精という在来の主力へ経営資源を絞り直した。
- 含意
- 撤退で不採算部門を切り離した宝酒造は、焼酎「純」やCANチューハイの伸長で経営を立て直した。同時に、この再建期に設けた中央研究所が半世紀後のタカラバイオへつながる。ひとつの事業の失敗が、次の柱を探す転機になったとみることができる。
悲願を畳むということ
この判断の重さは、単なる不採算事業の整理という言葉に収まらない。撤退の対象は、前会長であり養父でもある大宮庫吉氏が社運を賭けて始めた事業であった。後を継いだばかりの大宮隆社長が、就任の最初の仕事としてその悲願を畳んだところに、この決断の緊張が凝縮されているとみることができる。決断に時間をかけて機会を失うことを恐れ、反対を押し切って一気に進めるやり方を、大宮隆は後年「ワンマン」という言葉で振り返っている。
もっとも、撤退が会社を救ったと言い切れるのは、その後の歩みを知っているからにすぎない。ビールを手放して縮小へ向かうなかで、同社は人員を整理する一方、目先の利益にならない研究所へ資金を割いた。守りと攻めを同時に進めたこの再建期の判断が、焼酎の復活とバイオの芽を用意したとみられる。失敗そのものより、失敗をどう畳み、次に何を仕込むかに経営の質が表れる——宝酒造のビール撤退は、その一例として読むことができる。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
社運を賭けたビール参入
宝酒造がビール事業へ参入したのは1957年であった。焼酎・清酒・本みりんを主力とする酒造業者にとって、ビールは市場の大きい魅力的な領域で、前会長の大宮庫吉氏が社運を賭けて始めた事業でもあった。木崎麦酒工場に続いて1962年には京都麦酒工場を建設し、資本金を大きく積み増して生産設備に資金を注ぎ込んだ。参入から数年で関西へ攻め込む構えを取り、酒類の総合メーカーとしての地歩を固めようとしていた[1]。
だが事業は軌道に乗らなかった。当時のビール流通は、問屋が特定の銘柄だけを扱う専売的な慣行が根を張り、先行するアサヒビールなど大手の壁は厚く、後発の宝酒造は販売ルートを築けなかった。1961年に京都へ第二工場を作って拡大を狙ったことが、かえって失敗を決定的にした。無配が続き、ビール事業は在来の酒類で稼いだ利益を食いつぶす重荷となっていった[2][3]。
決断
就任直後の社長が下した撤退
大宮隆が社長に就いた1966年は、ビール事業の重荷が経営を最も強く圧迫していた時期であった。前期にあたる1966年3月期の経常利益は0.63億円まで落ち込み、会社そのものの存続が危ぶまれる水準にあった。養父の大宮庫吉氏が悲願として始めた事業だっただけに撤退の決断は重かったが、大宮隆社長は「このまま続けると会社がつぶれる」と判断し、就任直後の最初の仕事としてビールからの全面撤退を選んだ[4][5]。
撤退は取引先への頭下げから始まった。大宮隆社長は得意先を回って事情を説き、取引銀行を間に立てて、京都麦酒工場を1967年に麒麟麦酒へ、木崎麦酒工場を1968年にサッポロビールへと売却した。あわせて過剰となった人員を大幅に整理し、13年間で1000人を超える削減に踏み込んだ。二つの工場と多くの雇用を手放す痛みをともなう、後戻りのできない再建策であった[6][7]。
結果
在来事業への回帰と業績の回復
不採算のビールを切り離した宝酒造は、味淋・焼酎・合成酒・アルコールという在来の主力へ経営を絞り直した。撤退の効果は数字にも表れ、1966年3月期に0.63億円まで落ちた経常利益は、翌1967年3月期には5.05億円へと持ち直した。麦酒部門の分離によって不採算部門が解消され、在来の主製品を中心とした安定成長の見通しがついたと、当時の会社側も総括している[8][9]。
撤退が残したのは負の整理だけではなかった。宝酒造は後年、この失敗を会社の転機として語るようになる。焼酎「純」やCANチューハイで再び存在感を高め、1980年代には焼酎のトップメーカーへと立ち直った。さらに、撤退で戦線を縮小するさなかに設けた中央研究所が、半世紀後のバイオ事業の源流となる。ビールの失敗は、次の柱を探す動機として同社の歴史に刻まれた[10]。
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
- 日経ビジネス 1981年11月2日号「ケーススタディ 宝酒造」
- 日経ビジネス 1986年3月31日号「宝酒造のウイスキー・清涼飲料進出」
- 日経ビジネス 1992年3月2日号「有訓無訓 苦しい時こそワンマンたれ」
- 週刊東洋経済 2000年8月5日号「[特集]変革のみやこ京都 宝酒造 バイオ事業に賭けろ!」
- 宝ホールディングス 有価証券報告書(1966年3月期・1967年3月期・単体)