1906年3月、札幌麦酒・日本麦酒・大阪麦酒の三社が合同[1]し、資本金560万円[2]の大日本麦酒株式会社が発足した。初代社長には日本麦酒の馬越恭平氏[3]が就いた。合同に踏み切ったのは、麦酒会社どうしの競争が激しくなり[4]、中途半端な手段では立ちゆかないと判断されたためである。斡旋にあたったのは農商務大臣の清浦奎吾氏[5]で、馬越氏・渋沢栄一氏・大倉喜八郎氏のあいだを取り持った。合同三社の一つである札幌麦酒は、1876年9月に設立された開拓使麦酒醸造所に端を発する[6]。
合同の効果は生産量に表れ、明治39年のわが国麦酒生産高の総計15.9万石のうち過半を大日本麦酒が占めた[7]。同社は麦酒・清涼飲料・製壜の一貫作業[8]を自社内に抱え、以後も設備投資と同業の合併によって業界首位を保った。実質的な競合を麒麟麦酒一社に限る寡占構造が戦前期を通じて続き、終戦時のシェアは75%に達した[9]。多くの銘柄を地域別に持って売り分ける販売体制[10]も、この時期に固まった。
1949年9月、大日本麦酒は過度経済力集中排除法および企業再建整備法[11]の適用を受け、朝日麦酒と日本麦酒の二社へ分割された。GHQが通告した分割対象300社は、全企業の影響力の75%を占める[12]とされた。日本麦酒は初代社長に柴田清氏を迎え[13]、資本金1億円で発足した[14]。旧会社から引き継いだのは、エビス・サッポロ両商標と、札幌・川口・目黒・名古屋・門司の五工場だった[15]。
ところが柴田清社長は、承継した戦前の商標を封印し、1949年12月に新商標ニッポンビールへ銘柄を一本化して販売を始めた[16]。多くの銘柄を地域別に持ってきた不自由さを解消する狙い[17]だったが、平和が戻ると消費者は戦前の銘柄を選ぶようになり、同社は不利な戦いを強いられた[18]。1955年の時点でも、新商標によるハンディキャップ[19]を自社で認めていた。分割を免れた麒麟麦酒がこの間にシェアを伸ばし、1954年には首位と二位が入れ替わった[20]。戦前の主力銘柄が市場から消えていた期間は、1957年2月のサッポロビール商標の復活まで八年におよんだ[21]。
復活したサッポロビール商標は大いに受け、商標変更にともなって同社は勢いを盛り返した[22]。銘柄が市場に受け入れられたのを確かめたうえで、1964年1月、日本麦酒は商号をサッポロビール株式会社へ変更[23]し、社名を主力銘柄に一致させた。1961年9月に柴田清社長が死去した後を継いだ松山茂助社長[24]のもとでの決定。もっとも、キリンの伸長は止まらず、1968年12月には国内シェアが25%を割り込んだ[25]。
打開策の一つは朝日麦酒との合併で、交渉は1963年春・1965年暮・1966年春と三度進められ、いずれも流産した[26]。もう一つの製品差別化では、ファイブスター、ライト[27]、そして1970年12月のヱビスビール発売[28]と手を打ったが、いずれもキリンに打撃を与えるには至らなかった。ヱビスは副原料を使わない上位価格帯の商品として価格を10円高く設定し、まず東京で発売して高級ビールとしてのイメージづくりに成功[29]したものの、復活が業界の値上げ期に重なって浸透の機会を逃した[30]。1971年度のビールシェアは22%、近畿地方に限れば約0.8%[31]にとどまった。
味を変える正攻法で結果が出ないまま、シェアは1977年12月時点で20%前後に落ちていた[32]。製品戦略の転換は熱処理をやめる一点に絞られ、1977年4月、サッポロビールはびん詰め生ビール『サッポロびん生』を全国で発売[33]した。北海道・名古屋・大阪でのテスト販売で需要を確かめたうえでの全国投入であり、初年度の出荷は予定の2倍にあたる800万ケース[34]に達した。
翌年からは広告予算を生ビールへ集中させ、当時なお8割近くを占めていたラガーに、生比率23%の段階で見切りをつけた[35]。ラガーから生への切り換えは生産設備の裏づけを要し、ろ過装置や無菌設備の増強だけで毎年40億円から50億円の投資[36]を続けた。びん生のラベルには社内の反発を押し切って黒が採用され[37]、他社のさわやか路線との差別化と、季節を問わない通年商品化をねらった。この路線を常務営業部長の時代から実質的に主導した河合滉二氏が、1978年2月に社長へ就任した[38]。
生ビールという区分に限れば賭けは実を結び、1980年の生ビール市場でサッポロは39%を占めて首位に立ち、サントリー32%・朝日23%・キリン6%を上回った[39]。需要が低迷した同年、キリンが出荷量0.3%減・シェア0.7%減となる一方で、サッポロは出荷量3.1%増・シェア0.4%増を確保した[40]。東京でのシェアも4、5年で数ポイント上がって26%強[41]に達した。1981年12月期の売上高は3,304億円・経常利益90.1億円で、1977年12月期の2,084億円から4年で約6割の増収[42]となった。ただしビール全体で見ればキリン62.2%に対しサッポロは19.7%[43]であり、順位は動かなかった。
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|---|---|---|---|---|
| 1906〜1963年三社合同による寡占の成立と、戦後分割で戦前ブランドを封印した八年 | 日本麦酒・札幌麦酒・大阪麦酒の3社合同により大日本麦酒を設立 | ★★ | ||
| 日本麦酒を発足 | ★★ | |||
| 東京証券取引所に株式上場 | ★ | |||
| ニッポンビールの販売開始(柴田社長の大誤算) | ★★ | |||
| 国際飲料を設立 | ★ | |||
| サッポロビールの商標を復活 | ★ | |||
| 大阪工場を新設 | ★ | |||
| 厚木工場を新設(清涼飲料専門工場) | ★ | |||
| 1964〜1986年銘柄への回帰と、熱処理をやめた「生」への全面転換 | 「ニッポンビール」を捨て「サッポロ」へ——商標復活から社名変更に至るブランド一本化 1949年の大日本麦酒分割で新商標『ニッポンビール』を掲げて発足した日本麦酒が、1957年2月に継承商標『サッポロ』を復活させ、1964年1月には社名もサッポロビール株式会社へ変更してブランドを一本化した経営判断。商品・社名・発祥地の名を重ねる戦略への転換であった。 詳細を読む | ★★★ | ||
| ビールの国内シェアで25%を割り込む | ★ | |||
| 仙台工場を新設 | ★ | |||
| ヱビスビールの商標を復活 | ★ | |||
| 丸勝葡萄酒を買収 | ★ | |||
| 河合滉二 | 「サッポロびん生」全国発売——生ビールへの全面転換でキリン独走に挑む シェア低落が続いていたサッポロビールが、1977年4月に熱処理をしないびん詰め生ビール『サッポロびん生』を全国発売し、広告・設備投資・販売力を『生』に集中してキリンビール独走の市場構造に挑んだ経営判断。営業の先頭で路線を引っぱった河合滉二氏が1978年2月に社長へ就いた。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 河合滉二 | ビールの国内シェアで20%前後に低迷 | ★ | ||
| 河合滉二 | 静岡工場を新設 | ★ | ||
| 河合滉二 | SAPPORO U.S.A., INC. を設立 | ★ | ||
| 1987〜2006年ドライショックによる三位転落と、工場跡地を売らずに開発した恵比寿 | 荒川和夫 | アサヒ「スーパードライ」台頭への反攻と、黒ラベル終売・サッポロドラフトへの全面切替 1987年に発売されたアサヒ『スーパードライ』の大ヒットでビール市場が一変するなか、業界2位のサッポロビールが看板の黒ラベルを一度終売してまで潮流に追随し、結果として1989年にアサヒへ2位を明け渡して3位へ転落した一連の経営判断。1988年末の『大衆回帰』路線から1990年代の反攻まで、面的に続いた。 詳細を読む | ★★★ | |
| 荒川和夫 | 恵比寿工場跡地を売らず自社で開発した恵比寿ガーデンプレイスの開業 1994年10月、サッポロビールは移転した恵比寿工場の跡地(約8万3000平方メートル)を売却せず、みずから約3100億円を投じて再開発した複合街区『恵比寿ガーデンプレイス』を開業した。都心一等地の含み資産を一度きりの売却益に換えるのではなく、保有・賃貸して薄利のビール本業を支える安定収益源へ変える経営判断であり、以後のサッポロを不動産を抱えるビール会社という性格へ導いた。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 岩間辰志 | 持ち株会社に移行。サッポロHDに商号変更 | ★★ | ||
| 村上隆男 | 焼酎事業を買収 | ★ | ||
| 村上隆男 | SLEEMAN BREWERIES LTD.を買収 | ★ | ||
| 2007〜2026年資本効率への二度の問いと、恵比寿を手放すまでの19年 | 村上隆男 | スティール・パートナーズの買収提案に対する事前警告型買収防衛策と株主意思の確認 2007年、米系投資ファンドのスティール・パートナーズが、恵比寿ガーデンプレイスに象徴される不動産の含み益と低い資本効率を突き、1株825円・総額1,500億円超の友好的TOBでサッポロ株を約17%から66.6%まで買い増す買収を提案した。サッポロは村上隆男社長のもとで事前警告型の買収防衛策を株主総会に諮り、スティールの提案を大差で退けたうえ、モルガン・スタンレーと不動産で提携して安定株主を確保した。 詳細を読む | ★★★ | |
| 村上隆男 | モルガン・スタンレーと戦略的業務・資本提携を締結 | ★ | ||
| 村上隆男 | 子会社の株式を取得 | ★ | ||
| 村上隆男 | スティールパートナーズがサッポロHDの全株式を売却 | ★ | ||
| 上條努 | ポッカコーポレーションを買収 | ★★ | ||
| 上條努 | 恵比寿ガーデンプレイスを再取得 | ★ | ||
| 上條努 | 恵比寿ファーストスクエアを竣工 | ★ | ||
| 尾賀真城 | 最終赤字に転落。ポッカ設備で110億円の減損 | ★ | ||
| 尾賀真城 | 不動産売却により売却益232億円を計上 | ★ | ||
| 尾賀真城 | STONE BREWING CO.,LLCを買収 | ★ | ||
| 尾賀真城 | 3Dの株主提案とサッポロの不動産切り出し・ビール本業集中 2022年からサッポロHD株を買い増したシンガポールの投資ファンド3Dインベストメント・パートナーズが、不動産に偏った利益構造と低い資本効率を突き、恵比寿ガーデンプレイスなどの不動産事業の分離とビール本業への集中を求めた。サッポロは尾賀真城社長のもとで戦略検討委員会を設け、2024年2月に不動産への外部資本導入とROE10%以上を掲げた。2025年12月、不動産子会社をPAG・KKR陣営へ企業価値4,770億円で譲渡する契約を結んだ。 詳細を読む | ★★★ |
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事実根拠:出所(サッポロビール)