大日本麦酒を設立
明治期ビール産業の形成と三社鼎立
日本のビール醸造は1876年、北海道開拓を進める明治政府が設立した開拓使麦酒醸造所に始まる。政府はドイツから技術者を招いて官営生産を開始し、この醸造所は後に民営化を経て、1887年に大倉財閥のもとで札幌麦酒会社として再編された。札幌麦酒は早くから東京への販路を拓き、北海道産ホップの栽培にも成功して、原料と生産の両面で先発者としての基盤を固めた。 東京では1889年、日本麦酒醸造が渋谷村(現・目黒区三田)に醸造場を建設し、翌年「ヱビスビール」を発売した。ヱビスは都市部の消費と結び付いて浸透し、1896年には業界上位の出荷を記録した。大阪では大阪麦酒が吹田を拠点に「アサヒビール」を展開し、関西圏の需要を押さえた。 こうして明治後期には札幌・東京・大阪を軸とする三社が地域ごとに市場を分ける構造が成立した。しかし需要拡大に伴う参入と設備投資の競合が重なり、各社にとって収益性の維持と投資負担が課題となっていった。
1906年、三社合同による市場再編
1906年3月、札幌麦酒、日本麦酒、大阪麦酒の三社は合同し、大日本麦酒株式会社を設立した。この合同は規模の追求ではなく、過熱した競争構造を収束させ、供給と収益の安定を図る産業再編としての性格を持っていた。 合同によって北海道から関西に至る生産拠点が一体化し、全国をカバーする供給・販売体制が構築された。工場の広域配置は物流効率と市場到達度を高め、数量と網羅性の両面で国内最大のビール会社が成立した。 また「サッポロ」「ヱビス」「アサヒ」の主要ブランドは統合されず、地域と消費層に応じて併存させる方針が採られた。多ブランドを社内で運用し、需要の変動を一社の中で吸収する仕組みが、合同後の事業構造の特徴であった。
寡占体制の成立と戦後分割への帰結
三社合同により大日本麦酒は国内ビール市場の約77%を占め、競合は実質的にキリンビールのみとなった。主要三ブランドを傘下に収めた同社は、戦前期を通じて生産・流通の主導権を握り続けた。 この集中は供給の安定と設備投資の効率化をもたらした一方で、市場における競争の抑制という側面も帯びた。戦時下ではビールが配給対象となり、1943年にはブランド使用が中止されるなど、大日本麦酒は統制経済に組み込まれていった。 戦後、この市場集中は経済民主化の対象となる。大日本麦酒は財閥ではなかったが、国民的消費財であるビール市場における高い占有率を理由に過度経済力集中排除法が適用され、1949年に朝日麦酒と日本麦酒の二社に分割された。市場安定を目的とした合同が、分割の前提を形成する帰結をたどった。