横浜ゴム の歴史

更新:

創業

1917年

創業者

※横濱電線製造

創業地

神奈川県横浜市

直近売上高(2025/12)

12,349億円

長期業績と転換点(1996/3〜2025/12)
売上高(億円純利益率(%)
Q なぜ1917年に古河系の電線会社が米B.F.グッドリッチと折半出資でゴム会社を起こしたのか
A 横浜ゴムは、輸入に頼っていた高級ゴム製品を国産で置き換えるために生まれた会社である。電線被膜用ゴムを手掛けた横浜電線製造(現古河電気工業)の中川末吉氏は、ベルト・ホース・タイヤといった工業用ゴムの需要が急増しながら大半を輸入に依存する状況に商機を見出し、東洋での生産拠点を求めていた米B.F.グッドリッチと利害を一致させた。1917年10月、両社は折半出資・資本金250万円で横濱護謨製造を設立し、技術はグッドリッチ、経営は古河系が担う分担で出発した
Q なぜ1978年に赤字へ転落した横浜ゴムは規模拡大ではなくADVANと非タイヤ事業を選んだのか
A 量産投資で後発のブリヂストンに先を越し、汎用タイヤの価格競争では勝てないと見たため、横浜ゴムは規模を追う路線を捨てた。1960年代に乗用車タイヤの首位をブリヂストンへ譲ったうえ、第一次石油危機後の原料高と需要低迷が重なり、1978年12月期に二期連続の最終赤字へ転落した。同年、価格ではなく性能で選ばれる高性能タイヤADVANを発売し、コンベヤベルトや海洋商品など非タイヤ事業へ収益を移した。量で勝てない場所では戦わない事業の形がここで定まった。
Q なぜ2016年以降の横浜ゴムは農機・建機用タイヤの大型買収を重ねたのか
A 乗用車タイヤでブリヂストン・住友ゴムに次ぐ国内三位の横浜ゴムが、価格競争と景気変動に弱い主力を補うため、別の収益源を求めたからである。農機・建機用のオフハイウェイタイヤ(OHT)は景気変動を受けにくく利益率が高い。2016年に蘭アライアンス・タイヤ・グループを約1,356億円で買収してOHTへ参入し、2023年にスウェーデンのトレルボルグ・ホイールシステムズを企業価値約2,652億円で取り込み、2025年にはGoodyearのOTR事業を加えた。三度の買収で2024年12月期に売上1兆円を超えた

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1917年〜 電線会社からの多角化で発足した米国合弁と戦災による生産基盤の喪失

  1. 1917年 横濱護謨製造を設立
  2. 1921年 平沼工場を新設
  3. 1923年 関東大震災で平沼工場の操業中止
  4. 1929年 横浜工場を再建
  5. 1943年 三重工場を新設
  6. 1945年 本社を移転
  7. 1949年 B.F.グッドリッチとの業務提携を復活

電線会社の多角化として呼び込まれたB.F.グッドリッチ

横浜ゴムの母体となったのは、電線被膜用ゴムの製造を手掛けていた横浜電線製造(現古河電気工業)である。この横浜電線製造は1884年に横浜市の山田与七氏が興した個人企業に始まり、電信用パラフィン線・綿巻線・電灯線を製造するわが国最初の被覆線工場であったが、銅線の供給者である古河合名の資本系統下に入って古河系へと組み込まれた。1917年、同社の中川末吉氏(後の古河電工社長)は将来有望な産業としてゴム工業を位置づけ、高級ゴム製品の国産化を企画したといわれる。当時の日本は製鉄・電力・機械の近代化により、ベルト・ホース・自動車用タイヤといった工業用ゴム製品の需要が急拡大していたものの、その大半を海外からの輸入に依存していた状況にあった。国産化の担い手を新しく育てる産業政策的な意味合いと、古河系として電線事業から周辺のゴム製品へと多角化していく経営戦略の両方を兼ね備えた構想として発案されたものだった。 [1][2][3][4][5]

  • 横浜ゴム 有価証券報告書 第166期(2024年12月期)【沿革】
    • [1]母体は電線被膜用ゴムを手掛けた横浜電線製造(現古河電気工業)
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [2]横浜電線製造は明治17年に横浜市の山田与七の個人企業として誕生
    • [3]電信用パラフィン線・綿巻線・電灯線を製造するわが国最初の被覆線工場であった
    • [4]銅線の供給者である古河合名の資本系統下に入り古河系へ組み込まれた
  • 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
    • [5]中川末吉(後の古河電工社長)が横浜電線製造側で高級ゴム製品の国産化を企画

技術提携先を探るなか、日本に営業所を構えて東洋での生産事業所建設を企図していた米B.F.グッドリッチ社の思惑と利害が一致し、同年10月、両社の折半出資による資本金250万円の合弁会社「横濱護謨製造株式会社」が神奈川県横浜市裏高島町に設立され、初代の取締役会長には中島久萬吉氏が就いた。出資比率はそれぞれ50パーセント、グッドリッチ側が技術を、古河側が経営を担うという分担で覚書を交わしたと記録されており、創業時から外資の技術力と国内資本の経営力を組み合わせる二人三脚の構造を背負って出発した会社である。事業目的にはタイヤ及び工業品の輸入販売も含まれ、大正期の高級ゴム製品の輸入依存を脱する国産化の起点として、また古河系タイヤメーカーの母体としての位置づけを与えられた案件であった。 [6][7][8][9][10]

  • 横浜ゴム 有価証券報告書 第166期(2024年12月期)【沿革】
    • [6]米B.F.グッドリッチ社との折半出資で横濱護謨製造株式会社を設立
    • [8]1917年10月に横濱護謨製造を設立
    • [10]事業目的にタイヤ及び工業品の輸入販売を含む
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [7]初代取締役会長に中島久萬吉が就任
  • 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
    • [9]設立時資本金250万円・出資比率50:50(日米折半)
  • 横浜ゴム 有価証券報告書 第166期(2024年12月期)【沿革】
    • [1]母体は電線被膜用ゴムを手掛けた横浜電線製造(現古河電気工業)
    • [6]米B.F.グッドリッチ社との折半出資で横濱護謨製造株式会社を設立
    • [8]1917年10月に横濱護謨製造を設立
    • [10]事業目的にタイヤ及び工業品の輸入販売を含む
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [2]横浜電線製造は明治17年に横浜市の山田与七の個人企業として誕生
    • [3]電信用パラフィン線・綿巻線・電灯線を製造するわが国最初の被覆線工場であった
    • [4]銅線の供給者である古河合名の資本系統下に入り古河系へ組み込まれた
    • [7]初代取締役会長に中島久萬吉が就任
  • 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
    • [5]中川末吉(後の古河電工社長)が横浜電線製造側で高級ゴム製品の国産化を企画
    • [9]設立時資本金250万円・出資比率50:50(日米折半)

関東大震災と戦災で二度にわたり生産基盤を喪失した戦前期

1921年に横浜市平沼に最初の工場を建設し、ベルト・ホース・パッキング・コードタイヤなどの本格的な生産を開始した。ところが1923年9月の関東大震災で平沼工場は全壊し、従業員24名の死亡という犠牲を出したうえで操業は中止され、本社を東京市麹町区(現千代田区)へ移転して再起の時を待つ状態となった。創業からわずか六年で生産基盤を失った同社は、しばらくの間グッドリッチから輸入した製品の販売に従事することで辛うじて食いつなぐ事実上の休業期間を経験しており、戦前期に積み上げた事業立ち上げの成果がこの震災で後退した格好となった。合弁相手のグッドリッチから見ても日本拠点の再建が経営課題となった局面である。 [11][12][13][14]

  • 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
    • [11]1921年4月に横浜市平沼に最初の工場(平沼工場)を建設
  • 横浜ゴム 有価証券報告書 第166期(2024年12月期)【沿革】
    • [12]1923年9月の関東大震災で平沼工場が操業中止・本社を東京市麹町区へ移転
    • [13]震災後に本社を東京市麹町区(現千代田区)へ移転
  • 横浜ゴム 有価証券報告書【沿革】
    • [14]関東大震災で従業員24名が死亡

1929年には鶴見区平安町に二代目横浜工場を再建し、ホース・ベルト・パッキングなどの工業用ゴム製品と自動車用タイヤの量産を軌道に乗せ、1931年までに日本フォードや日本GM向けの新車用タイヤ納入にも漕ぎ着けた。1934年には三倍規模への増設も実施し、震災で失った生産基盤をおおむね取り戻していた状況にあった。1938年には東洋紡績と提携して東洋タイヤ工業を設立し、海外進出の第一歩を踏み出している。日華事変以降ゴム工業は軍需産業に組み込まれ、1942年に日本軍占領下のシンガポール既設工場の経営を軍から委託されたのを皮切りに、東南アジア各地に建設した工場は16工場におよんだ。 [15][16][17][18]

  • 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
    • [15]1929年に横浜市鶴見区平安町に横浜工場を再建
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [16]1938年に東洋紡績と提携して東洋タイヤ工業を設立し海外進出の第一歩とした
    • [17]1942年に日本軍占領下のシンガポール既設工場の経営を軍から委託された
    • [18]東南アジアに建設した工場は16工場におよんだ

しかし戦時末期の1945年4月、米軍の空襲で横浜工場は90パーセントを焼失するに至り、中国・韓国・ベトナム・フィリピンと大陸から東南アジアにかけて広げた海外工場五つも戦禍のなかで例外なく放棄され、同社は震災に続く二度目のゼロからの再出発を強いられる格好となった。本社も同月に東京都港区へ再移転し、戦後再建の構想を迫られる局面に追い込まれた。軍需期に空前の規模へ膨らんだ生産網は、本土と東南アジアの双方で終戦とともに一挙に崩れ去り、それでも1947年3月までには三重・三島など残った工場群の復興整備にこぎ着けて、戦後再建の最初の足場をかろうじて固めることになる。 [19][20][21][22]

  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [19]1945年4月の米軍空襲で横浜工場の90%を焼失
    • [20]昭和22年(1947年)3月までに残った工場群の復興整備が成った
  • 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
    • [21]海外5工場(中国・韓国・ベトナム・フィリピン)を戦禍で放棄
  • 横浜ゴム 有価証券報告書 第166期(2024年12月期)【沿革】
    • [22]1945年4月に本社を東京都港区へ移転
  • 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
    • [11]1921年4月に横浜市平沼に最初の工場(平沼工場)を建設
    • [15]1929年に横浜市鶴見区平安町に横浜工場を再建
    • [21]海外5工場(中国・韓国・ベトナム・フィリピン)を戦禍で放棄
  • 横浜ゴム 有価証券報告書 第166期(2024年12月期)【沿革】
    • [12]1923年9月の関東大震災で平沼工場が操業中止・本社を東京市麹町区へ移転
    • [13]震災後に本社を東京市麹町区(現千代田区)へ移転
    • [22]1945年4月に本社を東京都港区へ移転
  • 横浜ゴム 有価証券報告書【沿革】
    • [14]関東大震災で従業員24名が死亡
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [16]1938年に東洋紡績と提携して東洋タイヤ工業を設立し海外進出の第一歩とした
    • [17]1942年に日本軍占領下のシンガポール既設工場の経営を軍から委託された
    • [18]東南アジアに建設した工場は16工場におよんだ
    • [19]1945年4月の米軍空襲で横浜工場の90%を焼失
    • [20]昭和22年(1947年)3月までに残った工場群の復興整備が成った

戦災工場の焼失から対米技術提携復活までの再起動

戦後の混乱期、同社は焼け残った三重・三島・上尾の各工場を頼りに事業の再起動を図ることとなった。三重工場は戦時中の1943年8月に度会郡(現伊勢市)に建設されたもので、戦災を免れたことで戦後生産の最初の足場となった工場である。終戦直後の1946年3月には静岡県三島市に三島工場を新設し、関東圏の生産機能の一部を補完する役割を担わせる形で、戦後復興期における生産網の再構築に着手している。戦前と同じ横浜・平沼への復帰を断念したことが、後の平塚集約戦略への事実上の布石となり、関東諸工場の分散体制を見直すきっかけとしても働いた経営判断であったと評価できる。戦前の二度の工場焼失の経験が戦後の拠点戦略を形づくる原動力となった局面でもある。 [23][24]

  • 横浜ゴム 有価証券報告書 第166期(2024年12月期)【沿革】
    • [23]三重工場は1943年8月に度会郡(現伊勢市)に建設
    • [24]1946年3月に静岡県三島市に三島工場を新設

1949年12月、財閥解体で古河の支配が緩むのと並行して、戦中に途絶えていたB.F.グッドリッチとの技術提携を復活させた。輸入依存を脱して国産化を担うために生まれた会社が、戦災と財閥解体を経てなお米国側の技術を必要とする立場から再出発するという格好であり、戦中断絶した米国大手との技術関係を再開したこの動きは戦後の品質キャッチアップの土台となった重要な局面である。半年後の1950年4月には東京・大阪両証券取引所の市場第一部へ株式を上場し、戦後復興期における市場からの資金調達ルートを確保して、独立した上場企業として歩み出すうえでの財務基盤がしっかりと整えられた。戦災で一度は失った生産基盤を再び構築するための財務面の裏付けがこの上場によって得られた格好である。 [25][26]

  • 横浜ゴム 有価証券報告書【沿革】
    • [25]1949年12月にB.F.グッドリッチとの技術提携を復活
  • 横浜ゴム 有価証券報告書 第166期(2024年12月期)【沿革】
    • [26]1950年4月に東京・大阪両証券取引所市場第一部へ上場
  • 横浜ゴム 有価証券報告書 第166期(2024年12月期)【沿革】
    • [23]三重工場は1943年8月に度会郡(現伊勢市)に建設
    • [24]1946年3月に静岡県三島市に三島工場を新設
    • [26]1950年4月に東京・大阪両証券取引所市場第一部へ上場
  • 横浜ゴム 有価証券報告書【沿革】
    • [25]1949年12月にB.F.グッドリッチとの技術提携を復活

1950年〜 独立後の国内集約と高付加価値差別化路線の模索によるADVANの確立期

横浜ゴムの業績推移:単体

売上高(億円)純利益率(%)
  1. 1950年 東京証券取引所・大阪証券取引所一部に株式を上場
  2. 1952年 平塚製造所を建設し関東諸工場を統合
  3. 1963年 ブリヂストンに譲った首位からの巻き返し——新城工場と島崎敬夫社長の経営刷新 日米合弁ゆえの意思決定の遅さで王座を明け渡したゴムの老舗は、どう自立をめざしたか
  4. 1967年 日本初の乗用車用スチールラジアルタイヤを開発
  5. 1978年 ADVAN発売とB.F.グッドリッチ資本離脱による独自路線の確立 量産競争でブリヂストンに勝てず二期連続赤字に沈んだ横浜ゴムは、どこに活路を見出したか
  6. 1978年 2期連続で最終赤字に転落
  7. 1981年 B.F.グッドリッチが横浜ゴム株式の大半を売却

平塚8万坪の総合工場に集約した戦後再建の司令塔

戦後の同社は、関東圏に小規模工場が散らばる非効率な体制を抱えていた。経営陣は焼失した横浜工場の再建を断念し、1950年8月、GHQに対して神奈川県平塚にあった大蔵省保有・米第八軍管理の8万坪の敷地の使用許可を申請した。許可を取り付けたのち、1952年8月に平塚工場として本格稼働を開始し、横浜・金町・藤沢の各工場と藤沢にあった技術研究所までをすべてここに集約することで、戦前の分散体制と決別する戦後再建の司令塔としての総合工場を立ち上げる運びとなった。戦災で散逸した生産設備を一拠点に集約し、戦後の生産効率化と多品種展開を支える母体がここに据えられた形で、戦後復興期の生産戦略の要となる基幹拠点が形作られた節目である。 [27][28]

  • 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
    • [27]平塚の敷地は8万坪
    • [28]1952年8月に平塚工場が本格稼働、横浜・金町・藤沢の各工場と技術研究所を集約

1957年には航空部品(燃料タンク・ホース)の生産を開始し、ゴム加工技術を活かした周辺領域への転用にも着手し始めている。1960年3月には事業部制を導入し、タイヤ・工業品・合成品・雑貨・部品・海外の六事業部体制を整え、総合ゴムメーカー化を志向した経営体制への明確な転換点を迎えた。1961年1月には本社ビル「浜ゴムビル」が竣工し、同年10月には名古屋証券取引所市場第一部へも株式を上場している。そして1963年10月には商号を「横濱護謨製造」から「横浜ゴム株式会社」へと改称し、戦後の総合ゴムメーカーとしての新しいブランドを社名にも反映させる格好で、戦前期の旧商号から脱皮する象徴的な位置づけが与えられた節目となった出来事である。 [29][30][31][32]

  • 横浜ゴム 有価証券報告書【沿革】
    • [29]1957年に航空部品(燃料タンク・ホース)の生産を開始
    • [30]1960年3月に事業部制を導入(6事業部体制)
  • 横浜ゴム 有価証券報告書 第166期(2024年12月期)【沿革】
    • [31]1961年1月に本社ビル「浜ゴムビル」竣工、同年10月に名証一部へ上場
    • [32]1963年10月に商号を横浜ゴム株式会社へ改称
  • 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
    • [27]平塚の敷地は8万坪
    • [28]1952年8月に平塚工場が本格稼働、横浜・金町・藤沢の各工場と技術研究所を集約
  • 横浜ゴム 有価証券報告書【沿革】
    • [29]1957年に航空部品(燃料タンク・ホース)の生産を開始
    • [30]1960年3月に事業部制を導入(6事業部体制)
  • 横浜ゴム 有価証券報告書 第166期(2024年12月期)【沿革】
    • [31]1961年1月に本社ビル「浜ゴムビル」竣工、同年10月に名証一部へ上場
    • [32]1963年10月に商号を横浜ゴム株式会社へ改称

新城工場の遅れた量産投資でブリヂストンに譲った首位の座

1960年の所得倍増計画とモータリゼーションが重なり、自動車用タイヤ需要は1960年代半ばから立ち上がった。横浜ゴムは1964年6月に愛知県新城市にタイヤ専門の新城工場を新設して増産体制を整え、1967年には日本初の乗用車用スチールラジアルタイヤ、続く1969年にはトラック・バス用ラジアルタイヤの開発にも成功している。さらに1973年6月には茨城県東茨城郡に茨城工場、翌1974年10月には広島県尾道市に建設・鉱山機械向けタイヤ専門の尾道工場を建設し、用途別の生産拠点を順次整えた。技術面では業界の先頭を走った時期であり、1969年11月には米国に販売会社ヨコハマタイヤコーポレーションを設立して本格的な海外市場開拓の足場をも築きつつあった。 [33][34][35][36][37]

  • 横浜ゴム 有価証券報告書 第166期(2024年12月期)【沿革】
    • [33]1964年6月に愛知県新城市にタイヤ専門の新城工場を新設
    • [36]1973年6月に茨城工場、1974年10月に尾道工場を建設
    • [37]1969年11月に米国にヨコハマタイヤコーポレーションを設立
  • 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
    • [34]1967年に日本初の乗用車用スチールラジアルタイヤを開発
    • [35]1969年にトラック・バス用ラジアルタイヤを開発

ただし量産投資のタイミングでは、後発のブリヂストンに先を越される格好となってしまった。ブリヂストンは既に1960年から東京工場を稼働させて量産体制を確立しており、横浜ゴムの新城工場の稼働はそれより遅れて入ったため、乗用車用タイヤの大量供給を巡るシェア争いで同社は規模の優位を取り戻すことができなかった局面である。タイヤ国内首位の座は1960年代を境にブリヂストンが固める形となり、横浜ゴムは二位という位置取りで以後の半世紀を過ごす立場に置かれ、量で勝負しない経営路線の必要性が逆説的に浮かび上がる局面となった。技術面での先頭ランナーという評価と量産での出遅れという実情が乖離した時期でもあった。 [38][39]

  • ダイヤモンド(1965年1月25日)
    • [38]ブリヂストンは1960年から東京工場を稼働させ量産体制を確立
  • 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
    • [39]1960年代を境にタイヤ国内首位はブリヂストンが固め横浜ゴムは2位に後退
  • 横浜ゴム 有価証券報告書 第166期(2024年12月期)【沿革】
    • [33]1964年6月に愛知県新城市にタイヤ専門の新城工場を新設
    • [36]1973年6月に茨城工場、1974年10月に尾道工場を建設
    • [37]1969年11月に米国にヨコハマタイヤコーポレーションを設立
  • 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
    • [34]1967年に日本初の乗用車用スチールラジアルタイヤを開発
    • [35]1969年にトラック・バス用ラジアルタイヤを開発
    • [39]1960年代を境にタイヤ国内首位はブリヂストンが固め横浜ゴムは2位に後退
  • ダイヤモンド(1965年1月25日)
    • [38]ブリヂストンは1960年から東京工場を稼働させ量産体制を確立

二期連続赤字を契機としたADVANと非タイヤ多角化の断行

1973年の第一次石油危機と翌1974年のGNPマイナス成長を経て、日本経済は安定成長期へと入った。汎用品の価格競争では首位のブリヂストンに勝てない構造が業績にはっきりと現れ始め、横浜ゴムは1978年12月期に二期連続の最終赤字へと転落している。原料高と需要低迷の挟み撃ちを受けた局面であり、価格勝負を続けても利益が出ないという経営体質の限界が露呈したことで、後のブランド差別化と非タイヤ多角化への路線転換の伏線がこの時期にはっきりと敷かれた、同社の経営モデルの転換点とも呼べる節目である。ここから先、量を追うのではなく付加価値で選ばれる商品づくりを目指すという経営方針が、危機意識のもとで形づくられた。 [40][41]

  • 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
    • [40]1973年第一次石油危機・1974年GNPマイナス成長を経て安定成長期へ
  • 横浜ゴム 有価証券報告書【主要指標】
    • [41]1978年12月期に2期連続の最終赤字へ転落

同じ1978年、同社は乗用車用ラジアル「ADVAN」を発売した。ハイパフォーマンスタイヤという新コンセプトを業界に先駆けて打ち出し、価格ではなく性能で選ばれるブランドを志向した商品で、以降の高性能タイヤ時代の幕開けを作り横浜ゴムのブランド差別化の核となった。並行してコンベヤベルト・高圧ホース・建築用シーリング材などの非タイヤ事業を伸ばし、1983年11月にはスポーツ用品会社スポーツコンプレックス(現プロギア)を設立してゴルフ用品事業にも参入し、1988年にはインテストブランドも投入している。低価格量産で先行するブリヂストンの土俵を避け、性能差別化と非タイヤ多角化で利益を確保する路線が、同社の事業モデルとして定まっていった格好である。 [42][43][44]

  • 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
    • [42]1978年に乗用車用ラジアル「ADVAN」を発売
    • [44]1988年にインテストブランドを投入
  • 横浜ゴム 有価証券報告書 第166期(2024年12月期)【沿革】
    • [43]1983年11月にスポーツコンプレックス(現プロギア)を設立しゴルフ用品事業へ参入
  • 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
    • [40]1973年第一次石油危機・1974年GNPマイナス成長を経て安定成長期へ
    • [42]1978年に乗用車用ラジアル「ADVAN」を発売
    • [44]1988年にインテストブランドを投入
  • 横浜ゴム 有価証券報告書【主要指標】
    • [41]1978年12月期に2期連続の最終赤字へ転落
  • 横浜ゴム 有価証券報告書 第166期(2024年12月期)【沿革】
    • [43]1983年11月にスポーツコンプレックス(現プロギア)を設立しゴルフ用品事業へ参入

1990年〜 グッドリッチ資本離脱後の現地生産拡大と国内三位へ後退した長い踊り場

横浜ゴムの業績推移:連結

売上高(億円)純利益率(%)
  1. 1992年 平塚製造所内に研究開発センタービルを建設
  2. 1993年 萩原晴二氏から冨永靖雄氏へ、危機感で継いだコスト削減と構造改革の10年 バブル崩壊と世界寡占化の圧力のなか、二代の社長がどう「負け組」の評判に抗ったか
  3. 1993年 コスト削減に経営の的を絞る方針を提示
  4. 1996年 ヨコハマタイヤフィリピンを設立
  5. 1996年 ヨコハマラバー(タイランド)を設立
  6. 2001年 杭州横浜輪胎を設立
  7. 2009年 リーマンショックで初の純損失に転落

B.F.グッドリッチ資本離脱と米モホーク買収による北米現地生産化

1981年5月、創業以来のパートナーだったB.F.グッドリッチが横浜ゴム株式の大半を売却する決断を下し、64年にわたって続いた合弁関係が事実上終わりを迎えた。資本関係を清算したことで、同社は名実ともに独立系の日本タイヤメーカーとなり、海外戦略を自前で組み立て直す必要に迫られた局面である。1980年代前半には米国・カナダ・オーストラリア・ドイツに販売会社を順次設立し、まずは販売網の整備から海外展開を再開するという手順を踏み、現地生産はその後に段階を追って進める段取りで、戦後の海外事業を仕切り直す道筋が描かれた。創業以来続いた日米合弁というアイデンティティから脱却する、同社の歴史のなかでも特筆すべき転換点となった出来事である。 [45][46][47]

  • 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
    • [45]1981年5月にB.F.グッドリッチが横浜ゴム株式の大半を売却し合弁関係が解消
    • [47]1980年代前半に米国・カナダ・オーストラリア・ドイツに販売会社を設立
  • 横浜ゴム 有価証券報告書【沿革】
    • [46]日米合弁関係は64年続いた

その八年後の1988年4月、同社は三社合弁で米国にトラック・バス用タイヤ生産会社「GTYタイヤカンパニー」を設立し、1990年から生産を開始した。続く1989年10月には乗用車用タイヤ生産のために米モホーク・ラバー・カンパニーを買収し、1992年7月にはヨコハマタイヤコーポレーションがモホーク・ラバーを吸収合併して北米での販売と生産の一体化を完成させている。グッドリッチが去ってからのちょうど十年で、同社は技術導入元であった米国の地に自前の生産拠点を構えるところまで歩を進め、北米乗用車タイヤの現地生産・現地販売の一体化を完了した格好であり、1980年代海外展開の集大成ともいうべき重要な動きとなった節目である。 [48][49][50]

  • 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
    • [48]1988年4月に三社合弁でGTYタイヤカンパニーを設立、1990年から生産開始
  • 横浜ゴム 有価証券報告書 第166期(2024年12月期)【沿革】
    • [49]1989年10月に米モホーク・ラバー・カンパニーを買収
    • [50]1992年7月にヨコハマタイヤコーポレーションがモホーク・ラバーを吸収合併
  • 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
    • [45]1981年5月にB.F.グッドリッチが横浜ゴム株式の大半を売却し合弁関係が解消
    • [47]1980年代前半に米国・カナダ・オーストラリア・ドイツに販売会社を設立
    • [48]1988年4月に三社合弁でGTYタイヤカンパニーを設立、1990年から生産開始
  • 横浜ゴム 有価証券報告書【沿革】
    • [46]日米合弁関係は64年続いた
  • 横浜ゴム 有価証券報告書 第166期(2024年12月期)【沿革】
    • [49]1989年10月に米モホーク・ラバー・カンパニーを買収
    • [50]1992年7月にヨコハマタイヤコーポレーションがモホーク・ラバーを吸収合併

中国での一気通貫の拠点整備とリーマンショックでの初の純損失計上

2001年12月に中国の杭州横浜輪胎を設立したのを起点に、同社は中国でのタイヤ生産網を急ピッチで広げた。2005年11月には事業統括会社「横浜橡胶(中国)」を設立して中国事業を一本のホールディング体制に束ね、翌2006年1月には山東でコンベヤベルト合弁の山東横浜橡胶工業制品、同年4月には蘇州でトラック・バス用スチールラジアルタイヤの生産会社を相次いで立ち上げている。汎用乗用車用から工業用ゴムまでを中国で一気通貫に押さえに行く形が、2000年代半ばに集中的に進められた中国拠点整備の中身であり、中国市場を一大拠点化する戦略の本格化を象徴的に示す動きとなった。 [51][52][53]

  • 横浜ゴム 有価証券報告書 第166期(2024年12月期)【沿革】
    • [51]2001年12月に中国で杭州横浜輪胎を設立
    • [52]2005年11月に事業統括会社「横浜橡胶(中国)」を設立
    • [53]2006年1月に山東横浜橡胶工業制品、同年4月に蘇州でTB用ラジアルタイヤ生産会社を設立

並行して2007年1月にはインドにヨコハマ・インディアを設立し、新興国のタイヤ需要の取り込みにも動いている。2008年8月にはタイにヨコハマ・アジア、同年12月にはロシアにLLCヨコハマR.P.Z.を相次いで設立し、世界各地で現地販売・調達拠点を増設しているところであった。しかしリーマンショック後の2009年3月期には創業以来初となる純損失56億円を計上する格好となり、金融危機による世界自動車需要の急減の影響を受けた形である。翌年にはドイツにヨコハマ工業品ヨーロッパGmbHを、国内市販販社19社を統合したヨコハマタイヤジャパンをそれぞれ七月に設立し、販売網の再編で立て直しを図ったが、規模の小ささが世界不況下で露呈する局面となった。 [54][55][56][57]

  • 横浜ゴム 有価証券報告書 第166期(2024年12月期)【沿革】
    • [54]2007年1月にヨコハマ・インディアを設立
    • [55]2008年8月にヨコハマ・アジア(タイ)、同年12月にLLCヨコハマR.P.Z.(ロシア)を設立
    • [57]2009年7月に国内市販販社19社を統合しヨコハマタイヤジャパンを設立、ドイツにヨコハマ工業品ヨーロッパGmbHを設立
  • 横浜ゴム 有価証券報告書【主要指標】
    • [56]2009年3月期に創業以来初の純損失約56億円を計上
  • 横浜ゴム 有価証券報告書 第166期(2024年12月期)【沿革】
    • [51]2001年12月に中国で杭州横浜輪胎を設立
    • [52]2005年11月に事業統括会社「横浜橡胶(中国)」を設立
    • [53]2006年1月に山東横浜橡胶工業制品、同年4月に蘇州でTB用ラジアルタイヤ生産会社を設立
    • [54]2007年1月にヨコハマ・インディアを設立
    • [55]2008年8月にヨコハマ・アジア(タイ)、同年12月にLLCヨコハマR.P.Z.(ロシア)を設立
    • [57]2009年7月に国内市販販社19社を統合しヨコハマタイヤジャパンを設立、ドイツにヨコハマ工業品ヨーロッパGmbHを設立
  • 横浜ゴム 有価証券報告書【主要指標】
    • [56]2009年3月期に創業以来初の純損失約56億円を計上

住友ゴム台頭で国内三位へと後退した長い滞留期

タイヤ事業の規模では、同社は1960年代以降ブリヂストンに次ぐ二位を維持していたが、2000年代に入ると住友ゴム工業が伸長し国内三位へと下がる構図が固まっていった格好である。2016年12月期の連結売上高は5,961億円で、首位のブリヂストンの三・3兆円との差は五倍以上に開いており、住友ゴムの7,567億円に対しても下回るという規模感であった。乗用車・トラック用タイヤという主戦場で先頭二社を逆転する筋道は、タイヤ事業の規模の経済を考えればもはや現実的に描けない位置にあったと言ってよく、経営の関心は必然的に周辺領域へと向けられざるを得ない状況に追い込まれていた局面となる。 [58]

  • 横浜ゴム 有価証券報告書 第141期(2016年12月期)【主要な経営指標等の推移】
    • [58]2016年12月期の連結売上高は5,961億円(596,193百万円)

打ち手は周辺領域と海外生産能力の積み増しが中心となっていた。2013年5月にはミシシッピ、2014年1月にはヴァージニアにタイヤ製造販売会社を相次いで設立して北米生産能力を再拡張し、同年9月には伊パーカーMHP社を買収してマリンホースなどの海洋商品で世界的シェアを取りに行っている。2015年1月には不二精工からタイヤビード専業の亀山ビードも買収し、国内サプライチェーンの周辺領域にも手を広げていった格好である。乗用車タイヤの本筋では動かしにくく、別の事業軸を探す必要が経営課題として残された長い踊り場の期間であり、次のM&Aへの助走期間に当たった。 [59][60][61]

  • 横浜ゴム 有価証券報告書 第166期(2024年12月期)【沿革】
    • [59]2013年5月にミシシッピ、2014年1月にヴァージニアにタイヤ製造販売会社を設立
    • [60]2014年9月に伊パーカーMHP社を買収(マリンホース)
    • [61]2015年1月に不二精工からタイヤビード専業の亀山ビードを買収
  • 横浜ゴム 有価証券報告書 第141期(2016年12月期)【主要な経営指標等の推移】
    • [58]2016年12月期の連結売上高は5,961億円(596,193百万円)
  • 横浜ゴム 有価証券報告書 第166期(2024年12月期)【沿革】
    • [59]2013年5月にミシシッピ、2014年1月にヴァージニアにタイヤ製造販売会社を設立
    • [60]2014年9月に伊パーカーMHP社を買収(マリンホース)
    • [61]2015年1月に不二精工からタイヤビード専業の亀山ビードを買収

横浜ゴムの沿革1917〜2025年における主な出来事を抜粋

年月社長・CEO出来事重要度
横濱護謨製造を設立
平沼工場を新設
関東大震災で平沼工場の操業中止
横浜工場を再建
三重工場を新設
本社を移転
横浜工場が空襲で全焼
三島工場を新設
B.F.グッドリッチとの業務提携を復活★★
東京証券取引所・大阪証券取引所一部に株式を上場
平塚製造所を建設し関東諸工場を統合
航空部品(燃料タンク・ホース)の生産を開始
事業部制を導入
ブリヂストンに譲った首位からの巻き返し——新城工場と島崎敬夫社長の経営刷新日米合弁ゆえの意思決定の遅さで王座を明け渡したゴムの老舗は、どう自立をめざしたか 詳細を読む★★★
タイヤ専門の新城工場を新設
日本初の乗用車用スチールラジアルタイヤを開発★★
ヨコハマタイヤコーポレーション設立
茨城工場を新設
横浜エイロクイップを設立
建設用大型タイヤ専門の尾道工場を新設
2期連続で最終赤字に転落★★
ADVAN発売とB.F.グッドリッチ資本離脱による独自路線の確立量産競争でブリヂストンに勝てず二期連続赤字に沈んだ横浜ゴムは、どこに活路を見出したか 詳細を読む★★★
B.F.グッドリッチが横浜ゴム株式の大半を売却★★
スポーツコンプレックスを設立
総合タイヤテストコースを建設
GTYタイヤカンパニーを3社合弁で設立
モホーク・ラバー・カンパニーを買収
平塚製造所内に研究開発センタービルを建設
萩原晴二氏から冨永靖雄氏へ、危機感で継いだコスト削減と構造改革の10年バブル崩壊と世界寡占化の圧力のなか、二代の社長がどう「負け組」の評判に抗ったか 詳細を読む★★★
コスト削減に経営の的を絞る方針を提示
ヨコハマタイヤフィリピンを設立
ヨコハマラバー(タイランド)を設立
冨永靖雄杭州横浜輪胎を設立
冨永靖雄コンチネンタル社と合弁会社を設立
南雲忠信事業統括会社「横浜橡胶」を設立
南雲忠信リーマンショックで初の純損失に転落★★
南雲忠信国内市販用販社19社を統合しヨコハマタイヤジャパンを設立
野地彦旬ミシシッピにタイヤ製造販売会社を設立
野地彦旬パーカーMHP社(マリンホース)を買収
野地彦旬コンチネンタル社との合弁を解消
野地彦旬オフハイウェイタイヤ(OHT)事業への連続M&Aによる事業構成の転換景気変動を受けやすい乗用車用タイヤに依存した収益構造を、10年がかりの「プログラマティックM&A」でどう組み替えたか 詳細を読む★★★
山石昌孝山石昌孝が代表取締役社長に就任
山石昌孝ハマタイト事業を売却★★
山石昌孝スウェーデンTrelleborg Wheel Systems(Y-TWS)を買収★★
清宮眞二売上収益10,947億円・事業利益1,344億円で過去最高更新
清宮眞二Goodyear社のOTR事業(G-OTR)を買収★★
出典・参考
  • 横浜ゴム 有価証券報告書 第166期(2024年12月期)【沿革】
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
  • 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
  • 横浜ゴム 有価証券報告書【沿革】
  • ダイヤモンド(1965年1月25日)
  • 横浜ゴム 有価証券報告書【主要指標】
  • 横浜ゴム 有価証券報告書 第141期(2016年12月期)【主要な経営指標等の推移】

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