1917年〜 電線会社からの多角化で発足した米国合弁と戦災による生産基盤の喪失
- 1917年 横濱護謨製造を設立
- 1921年 平沼工場を新設
- 1923年 関東大震災で平沼工場の操業中止
- 1929年 横浜工場を再建
- 1943年 三重工場を新設
- 1945年 本社を移転
- 1949年 B.F.グッドリッチとの業務提携を復活
電線会社の多角化として呼び込まれたB.F.グッドリッチ
横浜ゴムの母体となったのは、電線被膜用ゴムの製造を手掛けていた横浜電線製造(現古河電気工業)である。この横浜電線製造は1884年に横浜市の山田与七氏が興した個人企業に始まり、電信用パラフィン線・綿巻線・電灯線を製造するわが国最初の被覆線工場であったが、銅線の供給者である古河合名の資本系統下に入って古河系へと組み込まれた。1917年、同社の中川末吉氏(後の古河電工社長)は将来有望な産業としてゴム工業を位置づけ、高級ゴム製品の国産化を企画したといわれる。当時の日本は製鉄・電力・機械の近代化により、ベルト・ホース・自動車用タイヤといった工業用ゴム製品の需要が急拡大していたものの、その大半を海外からの輸入に依存していた状況にあった。国産化の担い手を新しく育てる産業政策的な意味合いと、古河系として電線事業から周辺のゴム製品へと多角化していく経営戦略の両方を兼ね備えた構想として発案されたものだった。 [1][2][3][4][5]
- 横浜ゴム 有価証券報告書 第166期(2024年12月期)【沿革】
- [1]母体は電線被膜用ゴムを手掛けた横浜電線製造(現古河電気工業)
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
- [2]横浜電線製造は明治17年に横浜市の山田与七の個人企業として誕生
- [3]電信用パラフィン線・綿巻線・電灯線を製造するわが国最初の被覆線工場であった
- [4]銅線の供給者である古河合名の資本系統下に入り古河系へ組み込まれた
- 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
- [5]中川末吉(後の古河電工社長)が横浜電線製造側で高級ゴム製品の国産化を企画
技術提携先を探るなか、日本に営業所を構えて東洋での生産事業所建設を企図していた米B.F.グッドリッチ社の思惑と利害が一致し、同年10月、両社の折半出資による資本金250万円の合弁会社「横濱護謨製造株式会社」が神奈川県横浜市裏高島町に設立され、初代の取締役会長には中島久萬吉氏が就いた。出資比率はそれぞれ50パーセント、グッドリッチ側が技術を、古河側が経営を担うという分担で覚書を交わしたと記録されており、創業時から外資の技術力と国内資本の経営力を組み合わせる二人三脚の構造を背負って出発した会社である。事業目的にはタイヤ及び工業品の輸入販売も含まれ、大正期の高級ゴム製品の輸入依存を脱する国産化の起点として、また古河系タイヤメーカーの母体としての位置づけを与えられた案件であった。 [6][7][8][9][10]
- 横浜ゴム 有価証券報告書 第166期(2024年12月期)【沿革】
- [6]米B.F.グッドリッチ社との折半出資で横濱護謨製造株式会社を設立
- [8]1917年10月に横濱護謨製造を設立
- [10]事業目的にタイヤ及び工業品の輸入販売を含む
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
- [7]初代取締役会長に中島久萬吉が就任
- 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
- [9]設立時資本金250万円・出資比率50:50(日米折半)
- 横浜ゴム 有価証券報告書 第166期(2024年12月期)【沿革】
- [1]母体は電線被膜用ゴムを手掛けた横浜電線製造(現古河電気工業)
- [6]米B.F.グッドリッチ社との折半出資で横濱護謨製造株式会社を設立
- [8]1917年10月に横濱護謨製造を設立
- [10]事業目的にタイヤ及び工業品の輸入販売を含む
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
- [2]横浜電線製造は明治17年に横浜市の山田与七の個人企業として誕生
- [3]電信用パラフィン線・綿巻線・電灯線を製造するわが国最初の被覆線工場であった
- [4]銅線の供給者である古河合名の資本系統下に入り古河系へ組み込まれた
- [7]初代取締役会長に中島久萬吉が就任
- 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
- [5]中川末吉(後の古河電工社長)が横浜電線製造側で高級ゴム製品の国産化を企画
- [9]設立時資本金250万円・出資比率50:50(日米折半)
関東大震災と戦災で二度にわたり生産基盤を喪失した戦前期
1921年に横浜市平沼に最初の工場を建設し、ベルト・ホース・パッキング・コードタイヤなどの本格的な生産を開始した。ところが1923年9月の関東大震災で平沼工場は全壊し、従業員24名の死亡という犠牲を出したうえで操業は中止され、本社を東京市麹町区(現千代田区)へ移転して再起の時を待つ状態となった。創業からわずか六年で生産基盤を失った同社は、しばらくの間グッドリッチから輸入した製品の販売に従事することで辛うじて食いつなぐ事実上の休業期間を経験しており、戦前期に積み上げた事業立ち上げの成果がこの震災で後退した格好となった。合弁相手のグッドリッチから見ても日本拠点の再建が経営課題となった局面である。 [11][12][13][14]
- 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
- [11]1921年4月に横浜市平沼に最初の工場(平沼工場)を建設
- 横浜ゴム 有価証券報告書 第166期(2024年12月期)【沿革】
- [12]1923年9月の関東大震災で平沼工場が操業中止・本社を東京市麹町区へ移転
- [13]震災後に本社を東京市麹町区(現千代田区)へ移転
- 横浜ゴム 有価証券報告書【沿革】
- [14]関東大震災で従業員24名が死亡
1929年には鶴見区平安町に二代目横浜工場を再建し、ホース・ベルト・パッキングなどの工業用ゴム製品と自動車用タイヤの量産を軌道に乗せ、1931年までに日本フォードや日本GM向けの新車用タイヤ納入にも漕ぎ着けた。1934年には三倍規模への増設も実施し、震災で失った生産基盤をおおむね取り戻していた状況にあった。1938年には東洋紡績と提携して東洋タイヤ工業を設立し、海外進出の第一歩を踏み出している。日華事変以降ゴム工業は軍需産業に組み込まれ、1942年に日本軍占領下のシンガポール既設工場の経営を軍から委託されたのを皮切りに、東南アジア各地に建設した工場は16工場におよんだ。 [15][16][17][18]
- 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
- [15]1929年に横浜市鶴見区平安町に横浜工場を再建
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
- [16]1938年に東洋紡績と提携して東洋タイヤ工業を設立し海外進出の第一歩とした
- [17]1942年に日本軍占領下のシンガポール既設工場の経営を軍から委託された
- [18]東南アジアに建設した工場は16工場におよんだ
しかし戦時末期の1945年4月、米軍の空襲で横浜工場は90パーセントを焼失するに至り、中国・韓国・ベトナム・フィリピンと大陸から東南アジアにかけて広げた海外工場五つも戦禍のなかで例外なく放棄され、同社は震災に続く二度目のゼロからの再出発を強いられる格好となった。本社も同月に東京都港区へ再移転し、戦後再建の構想を迫られる局面に追い込まれた。軍需期に空前の規模へ膨らんだ生産網は、本土と東南アジアの双方で終戦とともに一挙に崩れ去り、それでも1947年3月までには三重・三島など残った工場群の復興整備にこぎ着けて、戦後再建の最初の足場をかろうじて固めることになる。 [19][20][21][22]
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
- [19]1945年4月の米軍空襲で横浜工場の90%を焼失
- [20]昭和22年(1947年)3月までに残った工場群の復興整備が成った
- 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
- [21]海外5工場(中国・韓国・ベトナム・フィリピン)を戦禍で放棄
- 横浜ゴム 有価証券報告書 第166期(2024年12月期)【沿革】
- [22]1945年4月に本社を東京都港区へ移転
- 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
- [11]1921年4月に横浜市平沼に最初の工場(平沼工場)を建設
- [15]1929年に横浜市鶴見区平安町に横浜工場を再建
- [21]海外5工場(中国・韓国・ベトナム・フィリピン)を戦禍で放棄
- 横浜ゴム 有価証券報告書 第166期(2024年12月期)【沿革】
- [12]1923年9月の関東大震災で平沼工場が操業中止・本社を東京市麹町区へ移転
- [13]震災後に本社を東京市麹町区(現千代田区)へ移転
- [22]1945年4月に本社を東京都港区へ移転
- 横浜ゴム 有価証券報告書【沿革】
- [14]関東大震災で従業員24名が死亡
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
- [16]1938年に東洋紡績と提携して東洋タイヤ工業を設立し海外進出の第一歩とした
- [17]1942年に日本軍占領下のシンガポール既設工場の経営を軍から委託された
- [18]東南アジアに建設した工場は16工場におよんだ
- [19]1945年4月の米軍空襲で横浜工場の90%を焼失
- [20]昭和22年(1947年)3月までに残った工場群の復興整備が成った
戦災工場の焼失から対米技術提携復活までの再起動
戦後の混乱期、同社は焼け残った三重・三島・上尾の各工場を頼りに事業の再起動を図ることとなった。三重工場は戦時中の1943年8月に度会郡(現伊勢市)に建設されたもので、戦災を免れたことで戦後生産の最初の足場となった工場である。終戦直後の1946年3月には静岡県三島市に三島工場を新設し、関東圏の生産機能の一部を補完する役割を担わせる形で、戦後復興期における生産網の再構築に着手している。戦前と同じ横浜・平沼への復帰を断念したことが、後の平塚集約戦略への事実上の布石となり、関東諸工場の分散体制を見直すきっかけとしても働いた経営判断であったと評価できる。戦前の二度の工場焼失の経験が戦後の拠点戦略を形づくる原動力となった局面でもある。 [23][24]
- 横浜ゴム 有価証券報告書 第166期(2024年12月期)【沿革】
- [23]三重工場は1943年8月に度会郡(現伊勢市)に建設
- [24]1946年3月に静岡県三島市に三島工場を新設
1949年12月、財閥解体で古河の支配が緩むのと並行して、戦中に途絶えていたB.F.グッドリッチとの技術提携を復活させた。輸入依存を脱して国産化を担うために生まれた会社が、戦災と財閥解体を経てなお米国側の技術を必要とする立場から再出発するという格好であり、戦中断絶した米国大手との技術関係を再開したこの動きは戦後の品質キャッチアップの土台となった重要な局面である。半年後の1950年4月には東京・大阪両証券取引所の市場第一部へ株式を上場し、戦後復興期における市場からの資金調達ルートを確保して、独立した上場企業として歩み出すうえでの財務基盤がしっかりと整えられた。戦災で一度は失った生産基盤を再び構築するための財務面の裏付けがこの上場によって得られた格好である。 [25][26]
- 横浜ゴム 有価証券報告書【沿革】
- [25]1949年12月にB.F.グッドリッチとの技術提携を復活
- 横浜ゴム 有価証券報告書 第166期(2024年12月期)【沿革】
- [26]1950年4月に東京・大阪両証券取引所市場第一部へ上場
- 横浜ゴム 有価証券報告書 第166期(2024年12月期)【沿革】
- [23]三重工場は1943年8月に度会郡(現伊勢市)に建設
- [24]1946年3月に静岡県三島市に三島工場を新設
- [26]1950年4月に東京・大阪両証券取引所市場第一部へ上場
- 横浜ゴム 有価証券報告書【沿革】
- [25]1949年12月にB.F.グッドリッチとの技術提携を復活