創業地神奈川県横浜市
創業年1917
上場年1950
創業者※横濱電線製造

輸入代替・国産化構造的ハンデ・依存を内包財閥・グループ資本系1917年10月、工業用ゴムの多くを輸入に頼っていた大正期に、電線被膜用ゴムを手掛けた横浜電線製造(現古河電工)の中川末吉が、米B.F.グッドリッチとの折半出資で横浜市裏高島町に「横濱護謨製造」を起こした。技術はグッドリッチ、経営は古河系が担う取り決めのもと、ベルトやホースを国内の機械・自動車メーカーへ納め、輸入品を国産で置き換えていった。

技術・ブランドによる差別化/多角化多角化・事業拡張再建・構造改革量産投資の遅れで1960年代に乗用車タイヤの首位をブリヂストンへ譲り、汎用品の価格競争では勝てないまま、横浜ゴムは1978年12月期に二期連続の最終赤字へ沈んだ。ここで規模を追う路線を捨て、同年投入した高性能タイヤADVANと、コンベヤベルトや海洋商品といった非タイヤ事業へ収益の重みを移した。この選び方が、その後半世紀の稼ぎ方と、規模で勝てない場所では戦わない体質をかたちづくった。

決断の理由 — クリティカルな歴史の転換点を読み解く

Q なぜ1917年に古河系の電線会社が米B.F.グッドリッチと折半出資でゴム会社を起こしたのか
A 横浜ゴムは、輸入に頼っていた高級ゴム製品を国産で置き換えるために生まれた会社である。電線被膜用ゴムを手掛けた横浜電線製造(現古河電気工業)の中川末吉氏は、ベルト・ホース・タイヤといった工業用ゴムの需要が急増しながら大半を輸入に依存する状況に商機を見出し、東洋での生産拠点を求めていた米B.F.グッドリッチと利害を一致させた。1917年10月、両社は折半出資・資本金250万円で横濱護謨製造を設立し、技術はグッドリッチ、経営は古河系が担う分担で出発した
Q なぜ1978年に赤字へ転落した横浜ゴムは規模拡大ではなくADVANと非タイヤ事業を選んだのか
A 量産投資で後発のブリヂストンに先を越し、汎用タイヤの価格競争では勝てないと見たため、横浜ゴムは規模を追う路線を捨てた。1960年代に乗用車タイヤの首位をブリヂストンへ譲ったうえ、第一次石油危機後の原料高と需要低迷が重なり、1978年12月期に二期連続の最終赤字へ転落した。同年、価格ではなく性能で選ばれる高性能タイヤADVANを発売し、コンベヤベルトや海洋商品など非タイヤ事業へ収益を移した。量で勝てない場所では戦わない事業の形がここで定まった。
Q なぜ2016年以降の横浜ゴムは農機・建機用タイヤの大型買収を重ねたのか
A 乗用車タイヤでブリヂストン・住友ゴムに次ぐ国内三位の横浜ゴムが、価格競争と景気変動に弱い主力を補うため、別の収益源を求めたからである。農機・建機用のオフハイウェイタイヤ(OHT)は景気変動を受けにくく利益率が高い。2016年に蘭アライアンス・タイヤ・グループを約1,356億円で買収してOHTへ参入し、2023年にスウェーデンのトレルボルグ・ホイールシステムズを企業価値約2,652億円で取り込み、2025年にはGoodyearのOTR事業を加えた。三度の買収で2024年12月期に売上1兆円を超えた

歴史詳細 - 3つの時代区分で読み解く

1917年〜1949年 電線会社からの多角化で発足した米国合弁と戦災による生産基盤の喪失

電線会社の多角化として呼び込まれたB.F.グッドリッチ

横浜ゴムの母体となったのは、電線被膜用ゴムの製造を手掛けていた横浜電線製造(現古河電気工業)である[1]。この横浜電線製造は明治一七年に横浜市の山田与七氏が興した個人企業に始まり[2]、電信用パラフィン線・綿巻線・電灯線を製造するわが国最初の被覆線工場であったが[3]、銅線の供給者である古河合名の資本系統下に入って古河系へと組み込まれた[4]。一九一七年、同社の中川末吉氏(後の古河電工社長)は将来有望な産業としてゴム工業を位置づけ、高級ゴム製品の国産化を企画したといわれる[5]。当時の日本は製鉄・電力・機械の近代化により、ベルト・ホース・自動車用タイヤといった工業用ゴム製品の需要が急拡大していたものの、その大半を海外からの輸入に依存していた状況にあった。国産化の担い手を新しく育てる産業政策的な意味合いと、古河系として電線事業から周辺のゴム製品へと多角化していく経営戦略の両方を兼ね備えた構想として発案されたものだった。

技術提携先を探るなか、日本に営業所を構えて東洋での生産事業所建設を企図していた米B.F.グッドリッチ社の思惑と利害が一致し、同年十月、両社の折半出資による資本金二百五十万円の合弁会社[9]「横濱護謨製造株式会社」が神奈川県横浜市裏高島町に設立され[6][8]、初代の取締役会長には中島久萬吉氏が就いた[7]。出資比率はそれぞれ五十パーセント、グッドリッチ側が技術を、古河側が経営を担うという分担で覚書を交わしたと記録されており、創業時から外資の技術力と国内資本の経営力を組み合わせる二人三脚の構造を背負って出発した会社である。事業目的にはタイヤ及び工業品の輸入販売も含まれ[10]、大正期の高級ゴム製品の輸入依存を脱する国産化の起点として、また古河系タイヤメーカーの母体としての位置づけを与えられた案件であった。

関東大震災と戦災で二度にわたり生産基盤を喪失した戦前期

一九二一年に横浜市平沼に最初の工場を建設し[11]、ベルト・ホース・パッキング・コードタイヤなどの本格的な生産を開始した。ところが一九二三年九月の関東大震災で平沼工場は全壊し[12]、従業員二十四名の死亡という犠牲を出したうえで操業は中止され[14]、本社を東京市麹町区(現千代田区)へ移転して再起の時を待つ状態となった[13]。創業からわずか六年で生産基盤を失った同社は、しばらくの間グッドリッチから輸入した製品の販売に従事することで辛うじて食いつなぐ事実上の休業期間を経験しており、戦前期に積み上げた事業立ち上げの成果がこの震災で後退した格好となった。合弁相手のグッドリッチから見ても日本拠点の再建が経営課題となった局面である。

一九二九年には鶴見区平安町に二代目横浜工場を再建し[15]、ホース・ベルト・パッキングなどの工業用ゴム製品と自動車用タイヤの量産を軌道に乗せ、一九三一年までに日本フォードや日本GM向けの新車用タイヤ納入にも漕ぎ着けた。一九三四年には三倍規模への増設も実施し、震災で失った生産基盤をおおむね取り戻していた状況にあった。一九三八年には東洋紡績と提携して東洋タイヤ工業を設立し、海外進出の第一歩を踏み出している[16]。日華事変以降ゴム工業は軍需産業に組み込まれ、一九四二年に日本軍占領下のシンガポール既設工場の経営を軍から委託されたのを皮切りに[17]、東南アジア各地に建設した工場は十六工場におよんだ[18]

しかし戦時末期の一九四五年四月、米軍の空襲で横浜工場は九〇パーセントを焼失するに至り[19]、中国・韓国・ベトナム・フィリピンと大陸から東南アジアにかけて広げた海外工場五つも戦禍のなかで例外なく放棄され[21]、同社は震災に続く二度目のゼロからの再出発を強いられる格好となった。本社も同月に東京都港区へ再移転し[22]、戦後再建の構想を迫られる局面に追い込まれた。軍需期に空前の規模へ膨らんだ生産網は、本土と東南アジアの双方で終戦とともに一挙に崩れ去り、それでも昭和二二年三月までには三重・三島など残った工場群の復興整備にこぎ着けて[20]、戦後再建の最初の足場をかろうじて固めることになる。

戦災工場の焼失から対米技術提携復活までの再起動

戦後の混乱期、同社は焼け残った三重・三島・上尾の各工場を頼りに事業の再起動を図ることとなった。三重工場は戦時中の一九四三年八月に度会郡(現伊勢市)に建設されたもので[23]、戦災を免れたことで戦後生産の最初の足場となった工場である。終戦直後の一九四六年三月には静岡県三島市に三島工場を新設し[24]、関東圏の生産機能の一部を補完する役割を担わせる形で、戦後復興期における生産網の再構築に着手している。戦前と同じ横浜・平沼への復帰を断念したことが、後の平塚集約戦略への事実上の布石となり、関東諸工場の分散体制を見直すきっかけとしても働いた経営判断であったと評価できる。戦前の二度の工場焼失の経験が戦後の拠点戦略を形づくる原動力となった局面でもある。

一九四九年十二月、財閥解体で古河の支配が緩むのと並行して、戦中に途絶えていたB.F.グッドリッチとの技術提携を復活させた[25]。輸入依存を脱して国産化を担うために生まれた会社が、戦災と財閥解体を経てなお米国側の技術を必要とする立場から再出発するという格好であり、戦中断絶した米国大手との技術関係を再開したこの動きは戦後の品質キャッチアップの土台となった重要な局面である。半年後の一九五〇年四月には東京・大阪両証券取引所の市場第一部へ株式を上場し[26]、戦後復興期における市場からの資金調達ルートを確保して、独立した上場企業として歩み出すうえでの財務基盤がしっかりと整えられていった。戦災で一度は失った生産基盤を再び構築するための財務面の裏付けがこの上場によって得られた格好である。

1950年〜1989年 独立後の国内集約と高付加価値差別化路線の模索によるADVANの確立期

売上高と利益率の推移
売上高(億円)

平塚八万坪の総合工場に集約した戦後再建の司令塔

戦後の同社は、関東圏に小規模工場が散らばる非効率な体制を抱えていた。経営陣は焼失した横浜工場の再建を断念し、一九五〇年八月、GHQに対して神奈川県平塚にあった大蔵省保有・米第八軍管理の八万坪の敷地の使用許可を申請した[27]。許可を取り付けたのち、一九五二年八月に平塚工場として本格稼働を開始し、横浜・金町・藤沢の各工場と藤沢にあった技術研究所までをすべてここに集約することで[28]、戦前の分散体制と決別する戦後再建の司令塔としての総合工場を立ち上げる運びとなった。戦災で散逸した生産設備を一拠点に集約し、戦後の生産効率化と多品種展開を支える母体がここに据えられた形で、戦後復興期の生産戦略の要となる基幹拠点が形作られた節目である。

一九五七年には航空部品(燃料タンク・ホース)の生産を開始し[29]、ゴム加工技術を活かした周辺領域への転用にも着手し始めている。一九六〇年三月には事業部制を導入し、タイヤ・工業品・合成品・雑貨・部品・海外の六事業部体制を整え[30]、総合ゴムメーカー化を志向した経営体制への明確な転換点を迎えた。一九六一年一月には本社ビル「浜ゴムビル」が竣工し、同年十月には名古屋証券取引所市場第一部へも株式を上場している[31]。そして一九六三年十月には商号を「横濱護謨製造」から「横浜ゴム株式会社」へと改称し[32]、戦後の総合ゴムメーカーとしての新しいブランドを社名にも反映させる格好で、戦前期の旧商号から脱皮する象徴的な位置づけが与えられた節目となった出来事である。

新城工場の遅れた量産投資でブリヂストンに譲った首位の座

一九六〇年の所得倍増計画とモータリゼーションが重なり、自動車用タイヤ需要は一九六〇年代半ばから立ち上がった。横浜ゴムは一九六四年六月に愛知県新城市にタイヤ専門の新城工場を新設して増産体制を整え[33]、一九六七年には日本初の乗用車用スチールラジアルタイヤ[34]、続く一九六九年にはトラック・バス用ラジアルタイヤの開発にも成功している[35]。さらに一九七三年六月には茨城県東茨城郡に茨城工場、翌一九七四年十月には広島県尾道市に建設・鉱山機械向けタイヤ専門の尾道工場を建設し[36]、用途別の生産拠点を順次整えていった。技術面では業界の先頭を走った時期であり、一九六九年十一月には米国に販売会社ヨコハマタイヤコーポレーションを設立して[37]本格的な海外市場開拓の足場をも築きつつあった。

ただし量産投資のタイミングでは、後発のブリヂストンに先を越される格好となってしまった。ブリヂストンは既に一九六〇年から東京工場を稼働させて量産体制を確立しており[38]、横浜ゴムの新城工場の稼働はそれより遅れて入ったため、乗用車用タイヤの大量供給を巡るシェア争いで同社は規模の優位を取り戻すことができなかった局面である。タイヤ国内首位の座は一九六〇年代を境にブリヂストンが固める形となり、横浜ゴムは二位という位置取りで以後の半世紀を過ごす立場に置かれ[39]、量で勝負しない経営路線の必要性が逆説的に浮かび上がる局面となっていった。技術面での先頭ランナーという評価と量産での出遅れという実情が乖離した時期でもあった。

二期連続赤字を契機としたADVANと非タイヤ多角化の断行

一九七三年の第一次石油危機と翌一九七四年のGNPマイナス成長を経て、日本経済は安定成長期へと入っていった[40]。汎用品の価格競争では首位のブリヂストンに勝てない構造が業績にはっきりと現れ始め、横浜ゴムは一九七八年十二月期に二期連続の最終赤字へと転落している[41]。原料高と需要低迷の挟み撃ちを受けた局面であり、価格勝負を続けても利益が出ないという経営体質の限界が露呈したことで、後のブランド差別化と非タイヤ多角化への路線転換の伏線がこの時期にはっきりと敷かれた、同社の経営モデルの転換点とも呼べる節目である。ここから先、量を追うのではなく付加価値で選ばれる商品づくりを目指すという経営方針が、危機意識のもとで形づくられていった。

同じ一九七八年、同社は乗用車用ラジアル「ADVAN」を発売した[42]。ハイパフォーマンスタイヤという新コンセプトを業界に先駆けて打ち出し、価格ではなく性能で選ばれるブランドを志向した商品で、以降の高性能タイヤ時代の幕開けを作り横浜ゴムのブランド差別化の核となった。並行してコンベヤベルト・高圧ホース・建築用シーリング材などの非タイヤ事業を伸ばし、一九八三年十一月にはスポーツ用品会社スポーツコンプレックス(現プロギア)を設立してゴルフ用品事業にも参入し[43]、一九八八年にはインテストブランドも投入している[44]。低価格量産で先行するブリヂストンの土俵を避け、性能差別化と非タイヤ多角化で利益を確保する路線が、同社の事業モデルとして定まっていった格好である。

1990年〜2015年 グッドリッチ資本離脱後の現地生産拡大と国内三位へ後退した長い踊り場

売上高と利益率の推移
売上高(億円)

B.F.グッドリッチ資本離脱と米モホーク買収による北米現地生産化

一九八一年五月、創業以来のパートナーだったB.F.グッドリッチが横浜ゴム株式の大半を売却する決断を下し[45]、六十四年にわたって続いた合弁関係が事実上終わりを迎えた[46]。資本関係を清算したことで、同社は名実ともに独立系の日本タイヤメーカーとなり、海外戦略を自前で組み立て直す必要に迫られた局面である。一九八〇年代前半には米国・カナダ・オーストラリア・ドイツに販売会社を順次設立し[47]、まずは販売網の整備から海外展開を再開するという手順を踏み、現地生産はその後に段階を追って進める段取りで、戦後の海外事業を仕切り直す道筋が描かれていった。創業以来続いた日米合弁というアイデンティティから脱却する、同社の歴史のなかでも特筆すべき転換点となった出来事である。

その八年後の一九八八年四月、同社は三社合弁で米国にトラック・バス用タイヤ生産会社「GTYタイヤカンパニー」を設立し、一九九〇年から生産を開始した[48]。続く一九八九年十月には乗用車用タイヤ生産のために米モホーク・ラバー・カンパニーを買収し[49]、一九九二年七月にはヨコハマタイヤコーポレーションがモホーク・ラバーを吸収合併して[50]北米での販売と生産の一体化を完成させている。グッドリッチが去ってからのちょうど十年で、同社は技術導入元であった米国の地に自前の生産拠点を構えるところまで歩を進め、北米乗用車タイヤの現地生産・現地販売の一体化を完了した格好であり、一九八〇年代海外展開の集大成ともいうべき重要な動きとなった節目である。

中国での一気通貫の拠点整備とリーマンショックでの初の純損失計上

二〇〇一年十二月に中国の杭州横浜輪胎を設立したのを起点に[51]、同社は中国でのタイヤ生産網を急ピッチで広げていった。二〇〇五年十一月には事業統括会社「横浜橡胶(中国)」を設立して中国事業を一本のホールディング体制に束ね[52]、翌二〇〇六年一月には山東でコンベヤベルト合弁の山東横浜橡胶工業制品、同年四月には蘇州でトラック・バス用スチールラジアルタイヤの生産会社を相次いで立ち上げている[53]。汎用乗用車用から工業用ゴムまでを中国で一気通貫に押さえに行く形が、二〇〇〇年代半ばに集中的に進められた中国拠点整備の中身であり、中国市場を一大拠点化する戦略の本格化を象徴的に示す動きとなった。

並行して二〇〇七年一月にはインドにヨコハマ・インディアを設立し[54]、新興国のタイヤ需要の取り込みにも動いている。二〇〇八年八月にはタイにヨコハマ・アジア、同年十二月にはロシアにLLCヨコハマR.P.Z.を相次いで設立し[55]、世界各地で現地販売・調達拠点を増設しているところであった。しかしリーマンショック後の二〇〇九年十二月期には創業以来初となる純損失五十六億円を計上する格好となり[56]、金融危機による世界自動車需要の急減の影響を受けた形である。翌年にはドイツにヨコハマ工業品ヨーロッパGmbHを、国内市販販社十九社を統合したヨコハマタイヤジャパンをそれぞれ七月に設立し[57]、販売網の再編で立て直しを図ったが、規模の小ささが世界不況下で露呈する局面となった。

住友ゴム台頭で国内三位へと後退した長い滞留期

タイヤ事業の規模では、同社は一九六〇年代以降ブリヂストンに次ぐ二位を維持していたが、二〇〇〇年代に入ると住友ゴム工業が伸長し国内三位へと下がる構図が固まっていった格好である。二〇一六年十二月期の連結売上高は五千九百六十一億円で[58]、首位のブリヂストンの三・三兆円との差は五倍以上に開いており、住友ゴムの七千五百六十七億円に対しても下回るという規模感であった。乗用車・トラック用タイヤという主戦場で先頭二社を逆転する筋道は、タイヤ事業の規模の経済を考えればもはや現実的に描けない位置にあったと言ってよく、経営の関心は必然的に周辺領域へと向けられざるを得ない状況に追い込まれていた局面となる。

打ち手は周辺領域と海外生産能力の積み増しが中心となっていた。二〇一三年五月にはミシシッピ、二〇一四年一月にはヴァージニアにタイヤ製造販売会社を相次いで設立して北米生産能力を再拡張し[59]、同年九月には伊パーカーMHP社を買収してマリンホースなどの海洋商品で世界的シェアを取りに行っている[60]。二〇一五年一月には不二精工からタイヤビード専業の亀山ビードも買収し[61]、国内サプライチェーンの周辺領域にも手を広げていった格好である。乗用車タイヤの本筋では動かしにくく、別の事業軸を探す必要が経営課題として残された長い踊り場の期間であり、次のM&Aへの助走期間に当たった。

出典

経済展望 1951年10月01日
ゴム時報 1954年08月
ゴム時報 1959年05月
日本会社史総覧 東洋経済新報社 1995年11月01日
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