1931年〜 石橋家による久留米タイヤ事業と国内基盤の確立
ブリヂストンの業績推移:単体
- 1931年 ブリヂストン創業——久留米の足袋商から国産自動車タイヤメーカーへ 地下足袋でゴム加硫技術を蓄えた42歳・石橋正二郎氏は、日本足袋のタイヤ部をどう国産自動車タイヤ専業メーカーへ独立させたか
- 1933年 タイヤの初期不良が続出
- 1934年 久留米工場を新設
- 1935年 ゴルフボールの生産開始
- 1937年 本社を移転
- 1942年 日本タイヤに商号変更
- 1951年 グッドイヤー社と提携
創業と初期不良の克服、そして戦中戦後の事業再編
1931年3月、石橋正二郎氏は日本足袋のタイヤ部を分離[1]し、石橋家が全額を出資する同族企業としてブリッヂストンタイヤ株式会社を福岡県久留米市に設立[2]した。社名は『石橋』を英訳した Stone-Bridge を逆に組み替えたもの[3]で、アーチの要石を指すキーストーンの語義も重ねている。資本金は100万円[4]で、1929年12月に日本足袋の構内へ設けた仮工場での試作[5]を経て生産に入っていたが、外国製が1本100円台で売られるなか50円という半値[6]で市場へ参入したため、走行中の破裂をはじめとする初期不良が続いた[7]。不良品を新品と引き換える責任保証制で臨んだので故意に破損させて返品する者も現れ、創業から3年間の生産44万本に対し返品は10万本[8]に達した。それでも引き換えに応じ、返品分は荷車用に補修するか再生ゴムの原料へ回して損失を薄めたが、3年間の損失は資本金を上回る100万円を超えた[9]。
- ブリヂストン 有価証券報告書 第107期(2025年12月期)【沿革】
- [1]1931年3月 日本足袋のタイヤ部を分離しブリッヂストンタイヤを設立
- [2]石橋家の全額出資による同族企業として福岡県久留米市に設立
- 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
- [3]社名の由来 Stone-Bridge の転置とキーストーンの語義
- [4]設立時の資本金 100万円
- [5]1929年12月 日本足袋の構内に仮工場を設けてタイヤの試作を開始
- [6]外国製1本100円台に対し50円の低価格で参入
- [7]低価格参入により走行中の破裂など初期不良が続出
- [9]3年間の損失 100万円超(資本金を上回る)
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
- [8]創業3年間の生産44万本に対し返品10万本
石橋正二郎氏は返品されたタイヤを補修販売と再生ゴム原料へ振り向けて損失を抑え[10]ながら、原料配合と加硫工程の改良に数年を費やした。地下足袋の量産で蓄えたゴム加硫の技術を自動車タイヤへ転用する試みであり、1907年に家業を足袋の専業へ転換[11]し、1918年に日本足袋を設立[12]して1921年の『アサヒ地下足袋』で加硫技術を社内に固めた[13]蓄積が土台にあった。品質が安定した1932年には優良国産品の認定を受け[14]、日本フォードをはじめ自動車メーカーの採用が始まる[15]。1934年には久留米市に鉄筋コンクリート造の本格工場を建て[16]、トヨタや日産といった黎明期の国内メーカーへの納入を増やした。1938年7月には日本ゴムの横浜工場を取得[17]し、東日本の量産拠点も手に入れている。
- 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
- [10]返品分の補修販売・再生ゴム原料転用による損失圧縮
- [11]1907年 家業を足袋の専業へ転換
- [12]1918年 日本足袋設立
- [13]1921年 アサヒ地下足袋でゴム加硫技術を確立
- [14]1932年 優良国産品の認定と日本フォードほかの採用開始
- [15]日本フォードほか自動車メーカーの採用開始
- [17]1938年7月 日本ゴムの横浜工場を取得
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
- [16]1934年 久留米市に鉄筋コンクリート造の本格工場を建設
タイヤで固めたゴム加工の技術は周辺の商品へ広がり、1935年10月にゴルフボールの生産を開始[18]し、1937年5月には本社を東京へ移し[19]、同年9月にホースの生産にも入っている[20]。戦時下の1942年2月には英語の社名を避けて日本タイヤ株式会社へ改称[21]し、軍用トラック用タイヤや航空機関連部品の生産にも従事[22]した。終戦後の1949年10月には自転車事業をブリヂストン自転車として分離[23]し、タイヤへ経営資源を絞る。1951年2月にブリヂストンタイヤ株式会社へ社名を戻し[24]、同年には米グッドイヤーと技術提携を結んだ[25]。米国メーカーに対し生産性が5分の1程度[26]という自己認識のもとで最新の生産技術を導入し、生産性の引き上げに着手している。
- ブリヂストン 有価証券報告書 第107期(2025年12月期)【沿革】
- [18]1935年10月 ゴルフボールの生産開始
- [19]1937年5月 本社を東京へ移転
- [20]1937年9月 ホースの生産開始
- [21]1942年2月 日本タイヤ株式会社へ社名変更
- [23]1949年10月 ブリヂストン自転車を分離設立
- [24]1951年2月 ブリヂストンタイヤ株式会社へ社名を復す
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
- [22]軍用トラック用タイヤ・航空機関連部品の生産
- [25]1951年 米グッドイヤーとの技術提携
- [26]米国メーカー比の生産性 5分の1程度という認識
- ブリヂストン 有価証券報告書 第107期(2025年12月期)【沿革】
- [1]1931年3月 日本足袋のタイヤ部を分離しブリッヂストンタイヤを設立
- [2]石橋家の全額出資による同族企業として福岡県久留米市に設立
- [18]1935年10月 ゴルフボールの生産開始
- [19]1937年5月 本社を東京へ移転
- [20]1937年9月 ホースの生産開始
- [21]1942年2月 日本タイヤ株式会社へ社名変更
- [23]1949年10月 ブリヂストン自転車を分離設立
- [24]1951年2月 ブリヂストンタイヤ株式会社へ社名を復す
- 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
- [3]社名の由来 Stone-Bridge の転置とキーストーンの語義
- [4]設立時の資本金 100万円
- [5]1929年12月 日本足袋の構内に仮工場を設けてタイヤの試作を開始
- [6]外国製1本100円台に対し50円の低価格で参入
- [7]低価格参入により走行中の破裂など初期不良が続出
- [9]3年間の損失 100万円超(資本金を上回る)
- [10]返品分の補修販売・再生ゴム原料転用による損失圧縮
- [11]1907年 家業を足袋の専業へ転換
- [12]1918年 日本足袋設立
- [13]1921年 アサヒ地下足袋でゴム加硫技術を確立
- [14]1932年 優良国産品の認定と日本フォードほかの採用開始
- [15]日本フォードほか自動車メーカーの採用開始
- [17]1938年7月 日本ゴムの横浜工場を取得
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
- [8]創業3年間の生産44万本に対し返品10万本
- [16]1934年 久留米市に鉄筋コンクリート造の本格工場を建設
- [22]軍用トラック用タイヤ・航空機関連部品の生産
- [25]1951年 米グッドイヤーとの技術提携
- [26]米国メーカー比の生産性 5分の1程度という認識
戦前の輸出攻勢と海外工場の建設、終戦による喪失
国産化と並行して輸出にも臨み、1932年に中国・東南アジア・インドなどへの輸出を始め[27]、同年4万本、翌1933年には10万本[28]へと数量を伸ばした。安価な日本製の進出に脅威を感じた欧米のタイヤ会社は値下げで対抗し[29]、1932年のオタワ会議の後には、それぞれの属領国で30%から60%という高率の特別関税[30]をかけて締め出しを図った。それでも製品は各国で受け入れられ、1934年にはアフリカ・トルコ・ベルギー・ドイツへも輸出している[31]。石橋正二郎氏は1912年に自動車へ試乗して1台を買い入れており[32]、当時の自動車は東京で約300台、九州には1台もない時代[33]だった。
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
- [27]1932年 中国・東南アジア・インド向け輸出を開始
- [28]輸出数量 1932年4万本 → 1933年10万本
- [29]欧米タイヤ会社の値下げによる対抗
- [30]1932年オタワ会議後の属領国における30〜60%の特別関税
- [31]1934年 アフリカ・トルコ・ベルギー・ドイツへ進出
- 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
- [32]1912年 石橋正二郎氏が自動車に試乗し1台を購入/当時の自動車は東京で約300台・九州に皆無
- [33]当時の保有台数 東京で約300台・九州は0台
1937年から1941年にかけては、青島・吉林・京城・台湾と相次いで海外に工場を建て[34]、自動車タイヤや自転車タイヤ、コンベアーベルトを生産[35]した。吉林の工場では合成ゴムの生産にも着手している[36]。もっとも原料の生ゴムは輸入に頼っており、1937年7月の為替管理法強化を受けて同年12月には民需用生ゴムの輸入が許可制となり[37]、太平洋戦争の末期には南方のゴム園を失って原料難が深刻になった[38]。しかしこれらの海外工場は終戦によってすべて失われ[39]、戦前に築いた輸出網と大陸の生産拠点は消滅した。戦後の再建は、戦禍を免れた久留米工場の生産再開から始まる[40]。海外拠点と輸出網を一挙に失ったため、1988年に米ファイアストンを買収するまで、成長の場は国内市場に限られた[41]。
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
- [34]1937〜1941年 青島・吉林・京城・台湾に工場を建設
- [35]自動車タイヤ・自転車タイヤ・コンベアーベルトの生産
- [36]吉林工場での合成ゴム生産への着手
- [39]終戦による海外工場の全喪失
- [40]戦後再建は久留米工場の生産再開から
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)2篇 日本会社史「ゴム・皮革」
- [37]1937年7月 為替管理法強化/同年12月 民需用生ゴムの輸入が許可制
- [38]太平洋戦争末期の南方ゴム園喪失による原料難
- ブリヂストン 有価証券報告書 第107期(2025年12月期)【沿革】
- [41]1988年 米ファイアストン買収まで成長の場は国内市場
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
- [27]1932年 中国・東南アジア・インド向け輸出を開始
- [28]輸出数量 1932年4万本 → 1933年10万本
- [29]欧米タイヤ会社の値下げによる対抗
- [30]1932年オタワ会議後の属領国における30〜60%の特別関税
- [31]1934年 アフリカ・トルコ・ベルギー・ドイツへ進出
- [34]1937〜1941年 青島・吉林・京城・台湾に工場を建設
- [35]自動車タイヤ・自転車タイヤ・コンベアーベルトの生産
- [36]吉林工場での合成ゴム生産への着手
- [39]終戦による海外工場の全喪失
- [40]戦後再建は久留米工場の生産再開から
- 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
- [32]1912年 石橋正二郎氏が自動車に試乗し1台を購入/当時の自動車は東京で約300台・九州に皆無
- [33]当時の保有台数 東京で約300台・九州は0台
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)2篇 日本会社史「ゴム・皮革」
- [37]1937年7月 為替管理法強化/同年12月 民需用生ゴムの輸入が許可制
- [38]太平洋戦争末期の南方ゴム園喪失による原料難
- ブリヂストン 有価証券報告書 第107期(2025年12月期)【沿革】
- [41]1988年 米ファイアストン買収まで成長の場は国内市場
30年の非上場経営と東京工場の新設による量産体制
石橋正二郎氏のもとで、同社は1961年10月の上場まで30年にわたり非上場を通した[42]。1952年1月には東京・京橋にブリヂストンビルを竣工[43]し、石橋家が長年収集した西洋美術品を展示するブリヂストン美術館を併設[44]した。関東大震災で空き地となっていた京橋の土地を1938年に取得[45]しており、戦時中は木造事務所として暫定的に使っていた。同年3月には石橋家が富裕税の納付申告で日本一となり[46]、創業から20年あまりで同族企業としての蓄財力を示している。石橋正二郎氏は1906年に久留米商業学校を出て兄とともに家業の仕立物業『志まや』を継ぎ[47]、徒弟制を廃して給料制を敷くところから経営を立て直した[48]人物だった。
- 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
- [42]1961年10月の上場まで30年間の非上場経営
- [47]1906年 久留米商業学校を卒業し兄とともに仕立物業「志まや」を継承
- [48]徒弟制の廃止と給料制の導入による家業の立て直し
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
- [43]1952年1月 東京・京橋にブリヂストンビル竣工
- [44]石橋家収集の西洋美術品を展示するブリヂストン美術館の併設
- [45]1938年 関東大震災で空き地となっていた京橋の土地を取得
- [46]1952年3月 石橋家が富裕税納付申告で日本一
生産の内製化も同じ時期に進み、1955年には久留米工場内に国内唯一のコード工場を完成[49]させ、コードからタイヤまでを社内で賄う一貫生産[50]に踏み切る。1958年には久留米第2工場を設けてナイロンコードのタイヤ量産[51]に入った。1958年に建設計画へ着手した東京工場は1960年3月に第1期工事を終えて操業を開始[52]し、1965年時点で敷地60万平方メートル・従業員2,100名・年産能力410万本[53]を擁する規模に達した。全長430メートルの建屋の一端から原料が入り、逆行することなく他端から製品が出る完全流れ方式[54]を採り、全高34メートルのH.Tマシンや自動成型機を備えた[55]。着工前の報道は『同社の久留米工場(工場敷地10万坪・月産能力2500トン)に劣らぬ規模の生産設備を新設することになった』と伝えている。
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
- [49]1955年 久留米工場内に国内唯一のコード工場が完成
- [50]コードからタイヤまでの一貫生産体制
- [51]1958年 久留米第2工場でナイロンコードタイヤの量産開始
- 証券アナリストジャーナル 1965年3巻5号(斉藤敬治 財務部長)
- [52]1958年 東京工場の建設計画に着手/1960年3月 第1期工事完成・操業開始
- [53]1965年時点の東京工場 敷地60万平方メートル・従業員2,100名・年産能力410万本
- [54]全長430メートルの建屋による完全流れ方式
- [55]全高34メートルのH.Tマシン・自動成型機の設置
1961年10月、東京・大阪両証券取引所に株式を上場[56]し、創業30年目にして外部資金による設備投資の道を開いた。1962年には栃木県に小型タイヤ専門の那須工場を建て[57]、品種別の生産分業も進める。1964年度の売上高は685億円で、内訳はタイヤ483億円・生活用品83億円・工業用品61億円・サイクル58億円[58]、うち輸出が109億円を占め、前年度の78億円から40%伸びた[59]。同年度の税引前利益は58億円、税引後利益は35億円で、総資本利益率は8.9%[60]だった。工場数の少なさは同業比較でも際立ち、『自動車タイヤは1960年まで久留米工場のみで生産していた。それでも、横浜ゴムや東洋ゴム、住友ゴムの全工場の生産高を上回っていたのである』と評された。
- ブリヂストン 有価証券報告書 第107期(2025年12月期)【沿革】
- [56]1961年10月 東京・大阪両証券取引所に株式を上場
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
- [57]1962年 栃木県に小型タイヤ専門の那須工場を建設
- 証券アナリストジャーナル 1965年3巻5号(斉藤敬治 財務部長)
- [58]1964年度売上高 685億円(タイヤ483・生活用品83・工業用品61・サイクル58億円)
- [59]1964年度の輸出 109億円・前年度78億円から40%増
- [60]1964年度 税引前利益58億円・税引後利益35億円・総資本利益率8.9%
- 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
- [42]1961年10月の上場まで30年間の非上場経営
- [47]1906年 久留米商業学校を卒業し兄とともに仕立物業「志まや」を継承
- [48]徒弟制の廃止と給料制の導入による家業の立て直し
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
- [43]1952年1月 東京・京橋にブリヂストンビル竣工
- [44]石橋家収集の西洋美術品を展示するブリヂストン美術館の併設
- [45]1938年 関東大震災で空き地となっていた京橋の土地を取得
- [46]1952年3月 石橋家が富裕税納付申告で日本一
- [49]1955年 久留米工場内に国内唯一のコード工場が完成
- [50]コードからタイヤまでの一貫生産体制
- [51]1958年 久留米第2工場でナイロンコードタイヤの量産開始
- [57]1962年 栃木県に小型タイヤ専門の那須工場を建設
- 証券アナリストジャーナル 1965年3巻5号(斉藤敬治 財務部長)
- [52]1958年 東京工場の建設計画に着手/1960年3月 第1期工事完成・操業開始
- [53]1965年時点の東京工場 敷地60万平方メートル・従業員2,100名・年産能力410万本
- [54]全長430メートルの建屋による完全流れ方式
- [55]全高34メートルのH.Tマシン・自動成型機の設置
- [58]1964年度売上高 685億円(タイヤ483・生活用品83・工業用品61・サイクル58億円)
- [59]1964年度の輸出 109億円・前年度78億円から40%増
- [60]1964年度 税引前利益58億円・税引後利益35億円・総資本利益率8.9%
- ブリヂストン 有価証券報告書 第107期(2025年12月期)【沿革】
- [56]1961年10月 東京・大阪両証券取引所に株式を上場