ブリヂストンの沿革(1931〜2023年)

ブリヂストンの創業から現在までの主要な出来事・経営判断・組織変化を年月順に一覧できる沿革(社史年表)ページです。 各年の売上高・純利益などの業績推移と、歴史的意義の解説をあわせて掲載しています。 社史・報道資料などの公開情報をもとに重要事項を判断の上、作成しています。

年度売上高純利益年月区分出来事歴史的意義
1931
1-12月
ブリッヂストンタイヤ株式会社を設立
地下足袋のゴム技術と別会社化が生んだ国産化と同族蓄財の構造
1933
1-12月
タイヤの初期不良が続出
1930年からタイヤの生産を開始したブリヂストンは、外国製タイヤが1本100円台で販売される中、50円という低価格で市場に参入した。価格競争力を武器に販売を拡大したが、創業期のタイヤは品質が安定せず、ゴムの破裂などの初期不良が続出した。ブリヂストンは品質保証の一環として不良品の無償交換を謳ったが、これが「わざとタイヤを破損させて交換を要求する」購入者を誘発する事態を招いた。 生産開始から3年間で約10万本のタイヤが不良品として返品された。周囲からは社名を改めるべきとの忠告を受け、「石橋を逆にしたのが縁起が悪い」と揶揄されるほどであった。返品されたタイヤは廃棄せず、品質基準が緩い荷馬車用に補修して販売するか、再生ゴムの原料として活用することで全損を回避した。しかし、3年間で100万円以上の損失を計上しており、タイヤ国産化の技術的困難さを示す創業期の試練であった。不良品の再利用という対処は損失の最小化策であり、廃棄ではなく転用する判断が財務上の全損回避に寄与した。
不良品10万本の返品を受け入れた創業期の品質保証コスト
1934
1-12月
久留米工場を新設
国内における自動車メーカーの相次ぐ創業および増産(トヨタ・日産など)に対応するため、ブリヂストンは久留米市内においてタイヤ量産工場の新設を決定。1934年3月に久留米第1工場を竣工した。 なお、当初は自動車用タイヤを中心に製造していたが、1939年に軍の要請を受けて飛行機用タイヤの生産を開始。戦時中には、陸軍・海軍向けのトラック用タイヤに加えて、軍用航空機向けタイヤ生産に従事。戦時中の最盛期には、5000名の工員(学徒動員を含む)が軍用タイヤの生産に従事した。
1935
1-12月
ゴルフボールの生産開始
1937
1-12月
本社を東京に移転
1949
1-12月
自転車事業を「ブリヂストン自転車(株)」に分離
FY51
1951/12
ブリヂストンタイヤ株式会社に商号変更
米グッドイヤー社と提携
石橋正二郎氏は、ブリヂストンのタイヤ生産について、米国メーカーと比較して生産性が1/5程度であると判断。また、タイヤ原料についても、従来の「綿コード(天然繊維)」から「レーヨンコード(化学繊維)」への転換が急務と判断した。 そこで、海外からの生産技術の導入を決定。1951年に米グッドイヤー社と提携し、当時最先端であったレーヨンによるタイヤ製造の設備導入を図った。なお、この時にグッドイヤー社はブリヂストンの株式25%を取得することを要求したが、石橋正二郎氏はこの申し出を断っている。
FY52
1952/12
本社にブリヂストンビルを竣工・ブリヂストン美術館を併設
1938年に石橋正二郎は、関東大震災で空き地となっていた東京・京橋の土地を購入し、戦時中は木造2階建ての事務所として使用していた。戦後の事業拡大に伴い、石橋は本格的な本社ビルの建設を決定。1952年1月にブリヂストンビルを竣工した。同ビルの2階には、石橋の趣味である絵画コレクションを一般公開するブリヂストン美術館を併設した。1950年の渡米時に各地の美術館を視察し、コレクションを個人で秘蔵するよりも広く公開すべきとの考えに至ったことが開館の契機であった。 1956年に石橋は個人の寄付により石橋財団を設立し、美術館運営を会社経営から分離した。財団には年間2億円の予算を設定し、美術館運営に5000万円、美術品購入に5000万円、学術・文化・教育支援に1億円を配分する体制を整えた。非上場の同族企業として蓄積した石橋家の資産が、財団を通じた文化事業の財源となった構図であった。タイヤ事業の収益を文化活動に還元する仕組みは、石橋正二郎個人の美意識と、同族経営による資本蓄積が結びついた結果であった。
同族経営の蓄財が文化事業に転化した石橋財団の設計
石橋家が富裕税納付申告で日本1位
FY58
1958/12
久留米第2工場を新設
ナイロンコードによるタイヤ量産のため、久留米第2工場を新設。原料であるナイロンは、東レから購入
FY59
1959/12
売上高
272億円
当期純利益
19.1億円
FY60
1960/12
売上高
369億円
当期純利益
24.4億円
東京工場を新設(第1期・第2期)
資本金の3倍超の投資が同族経営からの転換を促した構図
FY61
1961/12
売上高
487億円
当期純利益
55.3億円
東京証券取引所に株式上場
国内における自動車の普及によりタイヤの増産(東京工場の新設など)が必要になったため、資金調達のために株式上場を決定。1961年に東京証券取引所に株式を上場し、石橋家による非上場同族経営から決別した。 なお、株式上場直後の1961年12月時点において、石橋幹一郎氏が20.4%。石橋正二郎氏が11.8%、石橋財団が10.0%保有しており、石橋家による保有形態は継続した。
FY62
1962/12
売上高
549億円
当期純利益
52.3億円
FY63
1963/12
売上高
607億円
当期純利益
43.4億円
FY64
1964/12
売上高
684億円
当期純利益
34.6億円
乗用車向けラジアルタイヤを開発
FY65
1965/12
売上高
736億円
当期純利益
38.6億円
FY66
1966/12
売上高
822億円
当期純利益
42.6億円
FY67
1967/12
売上高
939億円
当期純利益
50.7億円
ブリヂストンタイヤショップ制度を開始
FY68
1968/12
売上高
1,050億円
当期純利益
57.4億円
FY69
1969/12
売上高
1,246億円
当期純利益
68.5億円
FY70
1970/12
売上高
1,510億円
当期純利益
76.5億円
FY71
1971/12
売上高
1,572億円
当期純利益
68.2億円
FY72
1972/12
売上高
1,787億円
当期純利益
96.1億円
FY73
1973/12
売上高
2,257億円
当期純利益
118億円
柴本重理氏が社長就任
FY74
1974/12
売上高
2,943億円
当期純利益
119億円
FY75
1975/12
売上高
2,953億円
当期純利益
165億円
FY76
1976/12
売上高
3,271億円
当期純利益
125億円
創業者・石橋正二郎氏が逝去
FY77
1977/12
売上高
3,538億円
当期純利益
137億円
FY78
1978/12
売上高
3,699億円
当期純利益
149億円
FY79
1979/12
売上高
4,343億円
当期純利益
253億円
FY80
1980/12
売上高
4,176億円
当期純利益
244億円
豪UNIROYAL社を買収
FY81
1981/12
売上高
5,140億円
当期純利益
141億円
FY82
1982/12
売上高
4,908億円
当期純利益
171億円
FY83
1983/12
売上高
5,134億円
当期純利益
154億円
米ファイアストンのナッシュビル工場を取得
1980年代を通じてブリヂストンは自動車用タイヤのグローバル展開を志向し、1982年に米国現地法人を設立した。1983年には米大手タイヤメーカー・ファイアストンが閉鎖を検討していたナッシュビル工場(トラック用タイヤ)を取得し、現地生産を開始した。生産改善により3年で黒字化を達成したが、海外展開の本質的な課題は生産ではなく販路にあった。利益率の高い補修用タイヤの販売には現地のディーラー網への浸透が不可欠であり、後発のブリヂストンにとって開拓は困難であった。 完成車メーカー向けタイヤについても、米ビッグスリー(GM・フォード・クライスラー)への納入は現地メーカーが占有しており、ブリヂストンの参入余地はなかった。日本メーカーの米国現地生産も始まりつつあったが、工場の本格稼働前でまとまった需要は期待できなかった。ナッシュビル工場の黒字化は生産面の能力を証明したが、販売網なしには北米市場での本格的な事業展開は不可能であった。この認識が、1988年のファイアストン本体の買収という決断に直結する。工場取得から本体買収への5年間は、販路確保の壁を体感するプロセスであった。
ナッシュビル工場の黒字化がFS本体買収に至る布石となった構図
FY84
1984/12
売上高
5,467億円
当期純利益
176億円
株式会社ブリヂストンに商号変更
FY88
1988/12
acquisition
米ファイアストンを買収(米国5工場・欧州6工場)
ピレリとの入札で3倍に膨張した買収価格が問うた国際化の値段
FY91
1991/12
売上高
17,638億円
当期純利益
74億円
FY92
1992/12
売上高
17,451億円
当期純利益
284億円
米国現地法人BFSで大規模リストラ
1989年にブリヂストンは米国現地法人とファイアストンの組織を統合し、現地統括会社BFSを設立した。生産面では日本国内から品質改善のための生産技術者を派遣し、国内工場とBFSの工場で「姉妹工場制度」を発足させてノウハウの移転を実施した。しかし設備更新の対象が広範に及んだため、改善には3〜4年を要したという。その間もファイアストンの低い生産性と高コスト体質が業績を圧迫し続けた。 1992年にBFSは2500名の人員削減を実施するとともに、工場閉鎖も辞さない態度で労働組合との規約を改定し、休日操業の開始などの条件変更を勝ち取った。米国の労使関係においては、労働協約の改定は経営側にとって高いハードルであり、工場閉鎖をちらつかせるという強硬な姿勢で交渉に臨んだ。この結果、固定費の削減に成功し、1993年3月期においてBFSは黒字化を達成した。買収から黒字化まで約5年を要しており、生産改善と人員整理の両面から再建を進めた結果であった。
工場閉鎖を交渉材料に労組規約を改定し黒字化した再建の構図
FY93
1993/12
売上高
15,991億円
当期純利益
283億円
FY94
1994/12
売上高
15,950億円
当期純利益
318億円
欧州に統括会社を設立(組織再編)
米国BFSと同様に、ブリヂストンはファイアストンの欧州事業についても大規模なリストラを実施。ポーランドの工場閉鎖や、1500名の人員削減などを遂行した。
FY95
1995/12
売上高
16,866億円
当期純利益
541億円
FY96
1996/12
売上高
19,580億円
当期純利益
703億円
FY97
1997/12
売上高
21,708億円
当期純利益
391億円
FY98
1998/12
売上高
22,366億円
当期純利益
1,046億円
FY99
1999/12
売上高
20,857億円
当期純利益
886億円
FY00
2000/12
売上高
20,069億円
当期純利益
177億円
タイに現地生産子会社を設立
米でタイヤ自主回収(欠陥疑惑)
米国におけるタイヤの欠陥疑惑を受けて、650万本の自主回収を決定。2000年12月期に「製品自主回収関連損失」として814億円、翌年2001年12月期にも同803億円を計上し、合計1617億円を回収に係る損失として計上した。
FY01
2001/12
売上高
21,338億円
当期純利益
173億円
米国に統括会社を設立(組織再編)
FY02
2002/12
売上高
22,477億円
当期純利益
453億円
FY03
2003/12
売上高
23,039億円
当期純利益
887億円
FY04
2004/12
売上高
24,166億円
当期純利益
1,144億円
中国に統括会社を設立
FY05
2005/12
売上高
26,913億円
当期純利益
1,807億円
FY06
2006/12
売上高
29,912億円
当期純利益
851億円
FY07
2007/12
売上高
33,902億円
当期純利益
1,316億円
BADAG社を買収(リトレッド)
FY08
2008/12
売上高
32,344億円
当期純利益
104億円
FY09
2009/12
売上高
25,970億円
当期純利益
10億円
FY10
2010/12
売上高
28,616億円
当期純利益
989億円
FY11
2011/12
売上高
30,243億円
当期純利益
1,029億円
FY12
2012/12
売上高
30,397億円
当期純利益
1,716億円
FY13
2013/12
売上高
35,680億円
当期純利益
2,020億円
FY14
2014/12
売上高
36,739億円
当期純利益
3,005億円
FY15
2015/12
売上高
37,902億円
当期純利益
2,842億円
FY16
2016/12
売上高
33,370億円
当期純利益
2,655億円
FY17
2017/12
売上高
36,434億円
当期純利益
2,882億円
仏ETS PAUL AYME社を買収(タイヤ販売)
FY18
2018/12
売上高
36,501億円
当期純利益
2,916億円
FY19
2019/12
売上収益
35,072億円
当期利益
2,401億円
蘭TOM TOM TELEMATICS社を買収(運行管理システム)
FY20
2020/12
売上収益
26,952億円
当期利益
-233億円
最終赤字に転落
FY21
2021/12
売上収益
32,460億円
当期利益
3,940億円
中期事業計画を公表・生産拠点集約を開始
米AZUGA HDを買収
OTRACO社を買収
FY22
2022/12
売上収益
41,100億円
当期利益
3,003億円
FY23
2023/12
売上収益
43,138億円
当期利益
3,313億円
  1. ブリッヂストンタイヤ株式会社を設立
    地下足袋のゴム技術と別会社化が生んだ国産化と同族蓄財の構造
  2. タイヤの初期不良が続出

    1930年からタイヤの生産を開始したブリヂストンは、外国製タイヤが1本100円台で販売される中、50円という低価格で市場に参入した。価格競争力を武器に販売を拡大したが、創業期のタイヤは品質が安定せず、ゴムの破裂などの初期不良が続出した。ブリヂストンは品質保証の一環として不良品の無償交換を謳ったが、これが「わざとタイヤを破損させて交換を要求する」購入者を誘発する事態を招いた。 生産開始から3年間で約10万本のタイヤが不良品として返品された。周囲からは社名を改めるべきとの忠告を受け、「石橋を逆にしたのが縁起が悪い」と揶揄されるほどであった。返品されたタイヤは廃棄せず、品質基準が緩い荷馬車用に補修して販売するか、再生ゴムの原料として活用することで全損を回避した。しかし、3年間で100万円以上の損失を計上しており、タイヤ国産化の技術的困難さを示す創業期の試練であった。不良品の再利用という対処は損失の最小化策であり、廃棄ではなく転用する判断が財務上の全損回避に寄与した。

    不良品10万本の返品を受け入れた創業期の品質保証コスト
  3. 久留米工場を新設

    国内における自動車メーカーの相次ぐ創業および増産(トヨタ・日産など)に対応するため、ブリヂストンは久留米市内においてタイヤ量産工場の新設を決定。1934年3月に久留米第1工場を竣工した。 なお、当初は自動車用タイヤを中心に製造していたが、1939年に軍の要請を受けて飛行機用タイヤの生産を開始。戦時中には、陸軍・海軍向けのトラック用タイヤに加えて、軍用航空機向けタイヤ生産に従事。戦時中の最盛期には、5000名の工員(学徒動員を含む)が軍用タイヤの生産に従事した。

  4. ゴルフボールの生産開始
  5. 本社を東京に移転
  6. 自転車事業を「ブリヂストン自転車(株)」に分離
  7. ブリヂストンタイヤ株式会社に商号変更
  8. 米グッドイヤー社と提携

    石橋正二郎氏は、ブリヂストンのタイヤ生産について、米国メーカーと比較して生産性が1/5程度であると判断。また、タイヤ原料についても、従来の「綿コード(天然繊維)」から「レーヨンコード(化学繊維)」への転換が急務と判断した。 そこで、海外からの生産技術の導入を決定。1951年に米グッドイヤー社と提携し、当時最先端であったレーヨンによるタイヤ製造の設備導入を図った。なお、この時にグッドイヤー社はブリヂストンの株式25%を取得することを要求したが、石橋正二郎氏はこの申し出を断っている。

  9. 本社にブリヂストンビルを竣工・ブリヂストン美術館を併設

    1938年に石橋正二郎は、関東大震災で空き地となっていた東京・京橋の土地を購入し、戦時中は木造2階建ての事務所として使用していた。戦後の事業拡大に伴い、石橋は本格的な本社ビルの建設を決定。1952年1月にブリヂストンビルを竣工した。同ビルの2階には、石橋の趣味である絵画コレクションを一般公開するブリヂストン美術館を併設した。1950年の渡米時に各地の美術館を視察し、コレクションを個人で秘蔵するよりも広く公開すべきとの考えに至ったことが開館の契機であった。 1956年に石橋は個人の寄付により石橋財団を設立し、美術館運営を会社経営から分離した。財団には年間2億円の予算を設定し、美術館運営に5000万円、美術品購入に5000万円、学術・文化・教育支援に1億円を配分する体制を整えた。非上場の同族企業として蓄積した石橋家の資産が、財団を通じた文化事業の財源となった構図であった。タイヤ事業の収益を文化活動に還元する仕組みは、石橋正二郎個人の美意識と、同族経営による資本蓄積が結びついた結果であった。

    同族経営の蓄財が文化事業に転化した石橋財団の設計
  10. 石橋家が富裕税納付申告で日本1位
  11. 久留米第2工場を新設

    ナイロンコードによるタイヤ量産のため、久留米第2工場を新設。原料であるナイロンは、東レから購入

  12. 東京工場を新設(第1期・第2期)
    資本金の3倍超の投資が同族経営からの転換を促した構図
  13. 東京証券取引所に株式上場

    国内における自動車の普及によりタイヤの増産(東京工場の新設など)が必要になったため、資金調達のために株式上場を決定。1961年に東京証券取引所に株式を上場し、石橋家による非上場同族経営から決別した。 なお、株式上場直後の1961年12月時点において、石橋幹一郎氏が20.4%。石橋正二郎氏が11.8%、石橋財団が10.0%保有しており、石橋家による保有形態は継続した。

  14. 乗用車向けラジアルタイヤを開発
  15. ブリヂストンタイヤショップ制度を開始
  16. 柴本重理氏が社長就任
  17. 創業者・石橋正二郎氏が逝去
  18. 豪UNIROYAL社を買収
  19. 米ファイアストンのナッシュビル工場を取得

    1980年代を通じてブリヂストンは自動車用タイヤのグローバル展開を志向し、1982年に米国現地法人を設立した。1983年には米大手タイヤメーカー・ファイアストンが閉鎖を検討していたナッシュビル工場(トラック用タイヤ)を取得し、現地生産を開始した。生産改善により3年で黒字化を達成したが、海外展開の本質的な課題は生産ではなく販路にあった。利益率の高い補修用タイヤの販売には現地のディーラー網への浸透が不可欠であり、後発のブリヂストンにとって開拓は困難であった。 完成車メーカー向けタイヤについても、米ビッグスリー(GM・フォード・クライスラー)への納入は現地メーカーが占有しており、ブリヂストンの参入余地はなかった。日本メーカーの米国現地生産も始まりつつあったが、工場の本格稼働前でまとまった需要は期待できなかった。ナッシュビル工場の黒字化は生産面の能力を証明したが、販売網なしには北米市場での本格的な事業展開は不可能であった。この認識が、1988年のファイアストン本体の買収という決断に直結する。工場取得から本体買収への5年間は、販路確保の壁を体感するプロセスであった。

    ナッシュビル工場の黒字化がFS本体買収に至る布石となった構図
  20. 株式会社ブリヂストンに商号変更
  21. acquisition
    米ファイアストンを買収(米国5工場・欧州6工場)
    ピレリとの入札で3倍に膨張した買収価格が問うた国際化の値段
  22. 米国現地法人BFSで大規模リストラ

    1989年にブリヂストンは米国現地法人とファイアストンの組織を統合し、現地統括会社BFSを設立した。生産面では日本国内から品質改善のための生産技術者を派遣し、国内工場とBFSの工場で「姉妹工場制度」を発足させてノウハウの移転を実施した。しかし設備更新の対象が広範に及んだため、改善には3〜4年を要したという。その間もファイアストンの低い生産性と高コスト体質が業績を圧迫し続けた。 1992年にBFSは2500名の人員削減を実施するとともに、工場閉鎖も辞さない態度で労働組合との規約を改定し、休日操業の開始などの条件変更を勝ち取った。米国の労使関係においては、労働協約の改定は経営側にとって高いハードルであり、工場閉鎖をちらつかせるという強硬な姿勢で交渉に臨んだ。この結果、固定費の削減に成功し、1993年3月期においてBFSは黒字化を達成した。買収から黒字化まで約5年を要しており、生産改善と人員整理の両面から再建を進めた結果であった。

    工場閉鎖を交渉材料に労組規約を改定し黒字化した再建の構図
  23. 欧州に統括会社を設立(組織再編)

    米国BFSと同様に、ブリヂストンはファイアストンの欧州事業についても大規模なリストラを実施。ポーランドの工場閉鎖や、1500名の人員削減などを遂行した。

  24. タイに現地生産子会社を設立
  25. 米でタイヤ自主回収(欠陥疑惑)

    米国におけるタイヤの欠陥疑惑を受けて、650万本の自主回収を決定。2000年12月期に「製品自主回収関連損失」として814億円、翌年2001年12月期にも同803億円を計上し、合計1617億円を回収に係る損失として計上した。

  26. 米国に統括会社を設立(組織再編)
  27. 中国に統括会社を設立
  28. BADAG社を買収(リトレッド)
  29. 仏ETS PAUL AYME社を買収(タイヤ販売)
  30. 蘭TOM TOM TELEMATICS社を買収(運行管理システム)
  31. 最終赤字に転落
  32. 中期事業計画を公表・生産拠点集約を開始
  33. 米AZUGA HDを買収
  34. OTRACO社を買収

参考文献・出所

有価証券報告書
有価証券報告書 沿革
有価証券報告書 経理の状況