安宅産業の沿革・歴史的証言
1904年〜1977年
安宅産業の1904年〜1977年の主要な出来事・経営判断・組織変化を年月順に並べた沿革(社史年表)と、経営者・当事者の歴史的証言
| 年度 | 売上高 | 純利益 | 年月 | 区分 | 出来事 | 歴史的意義 |
|---|---|---|---|---|---|---|
1904 1-12月 | 会社設立 | 安宅商会を創業 安宅弥吉氏が個人経営として安宅商会を発足させ、米・砂糖・木材・非鉄金属・雑貨などの輸出入貿易を主要業務として事業を興した。これが安宅産業の淵源となった。 | 地金専門商社が国内メーカーとの紐帯で築いた成長基盤 | |||
1910 1-12月 | 輸入パルプに「ATAKA」印を商標登録 パルプ輸入販売の信用差別化のため、輸入パルプに自社ブランド「ATAKA」印を商標登録した。 | |||||
1914 1-12月 | 業務提携 | 日本窒素肥料の硫安販売を開始 1914年11月、日本窒素肥料工場が製造する硫安の販売取扱を開始した。化学品分野へ取り扱い品目を広げる契機となった。 | ||||
1919 1-12月 | 株式会社安宅商会を設立 第一次大戦による国産業界の活況を契機として、資本金300万円の株式会社組織に改組した。 | |||||
1921 1-12月 | 米国からの木材輸入を開始 1921年から米国産木材の輸入を開始し、後の木材・パルプを軸とした収益構造の起点となった。 | |||||
1926 1-12月 | 官営八幡製鐵所と取引開始 | 非財閥系ながら八幡製鐵の指定商を獲得した国内取引の厚み | ||||
1927 1-12月 | 八幡駐在員事務所を新設 前年に取引を開始した八幡製鐵所との連絡強化のため、八幡駐在員事務所を新設した。 | |||||
1928 1-12月 | 業務提携 | 川崎造船所の薄鋼の指定商として取引開始 川崎造船所が製造する薄鋼の指定商として取引を開始した。八幡製鐵所に続く主要鉄鋼メーカーとの関係構築により、「金へん商社」としての基盤を強化した。 | ||||
ソ連・樺太からの木材輸入を開始 1928年からソ連および樺太からの木材輸入を開始した。米国に続く木材調達ルート確立により、輸入材の供給源を多様化した。 | ||||||
ロンドン支店を新設 大戦後の鉄鋼界恐慌で指定商社制度に指定されたことを礎とし、ロンドン支店開設を皮切りに海外有力メーカーと代理店契約を締結し、海外進出を本格化した。 | ||||||
1933 1-12月 | 業務提携 | 王子製紙のレーヨンパルプの一手販売店となる 1933年、王子製紙が製造するレーヨンパルプの一手販売店となった。これにより国内パルプ流通における中核的地位を確立し、後の主力収益源となるパルプ・木材分野の基盤を形成した。 | ||||
1935 1-12月 | 東洋曹達工業(東ソー)の設立に出資 1935年3月、東洋曹達工業(現・東ソー)の設立に合わせて出資した。化学品分野における事業会社との資本関係構築の一例となった。 | |||||
1936 1-12月 | 業務提携 | 米グリーソンの日本総代理店となる 1936年、米国グリーソン社(工作機械メーカー)の日本総代理店となり、工作機械の国内輸入販売を開始した。機械類の取り扱いを広げる契機となった。 | ||||
1940 1-12月 | 海外進出 | 海外8支店体制を確立 1928年3月のロンドン支店開設以降、海外有力メーカーとの代理店契約を相次ぎ締結し、1940年(昭和15年)までに海外8支店を擁する体制を構築した。これにより輸出入商社としての海外ネットワークが整った。 | ||||
1943 1-12月 | 安宅産業に商号変更 商号を「安宅商会」から「安宅産業」に改めた。戦時中は専ら国内物資の配給に従事すると同時に、アジア全域にわたる諸物資の集荷配給と現地開発に注力し、海外支店出張所は80数ヵ店に達した。 | |||||
1947 1-12月 | 民間貿易再開と同時に再建に着手 終戦により膨大な在外資産と販売網を喪失していたが、民間貿易の再開と同時に再建に着手し、漸次業容を戦前水準まで回復させた。東京・名古屋ほか全国主要都市に支店網を確立し、1952年以降のニューヨーク支店をはじめとする海外復興の足掛かりとした。 | |||||
1948 1-12月 | 過度経済力集中排除法に指定 | |||||
1949 1-12月 | 創業者の安宅弥吉が逝去(享年77歳) 1949年2月、創業者の安宅弥吉氏が享年77歳で逝去した。戦後の財閥解体によって安宅家保有株式の大部分が放出されており、創業家は会社法上の支配権を既に失っていた。 | |||||
1952 1-12月 | 米国法人 安宅ニューヨークを会社設立 | |||||
1956 1-12月 | 会社設立 | 安宅英一氏が会長就任 | 少数持分で人事権を掌握した創業家支配の構造的歪み | |||
株式上場 | 大阪証券取引所で株式店頭取引を開始 1956年1月に大阪証券取引所で株式店頭取引を開始し、同年8月の正式上場へとつなげた。 | |||||
大阪証券取引所に株式上場 1956年に大阪証券取引所、翌1957年に東京証券取引所へ株式を上場した。1955年時点の売上高構成比は金属31.1%・パルプ木材26.4%・繊維13.2%で、八幡製鐵との鉄鋼取引と王子製紙との木材パルプ取引が収益の柱であった。伊藤忠・丸紅など繊維主体の商社が並ぶなか、鉄鋼を主力とする安宅産業は「金へん商社」と称され、重工業化進展のもとで成長が期待された。 | 繊維依存の同業他社と一線を画した鉄鋼主力の事業構成 | |||||
1958 1-12月 | 海外進出 | 安宅ドイツを会社設立 1958年9月、ドイツに現地法人「安宅ドイツ」を会社設立した。1952年の安宅ニューヨークに続く欧州での海外現地法人として、戦後の海外活動再開を加速した。 | ||||
FY61 1961/3 | 売上高 1,339億円 | 経常利益 9億円 | ||||
FY62 1962/3 | 売上高 1,738億円 | 経常利益 12億円 | ||||
FY63 1963/3 | 売上高 1,716億円 | 経常利益 10億円 | 海外進出 | 安宅英国を会社設立 1962年4月、英国に現地法人「安宅英国」を会社設立した。米国・ドイツに続く欧州拠点拡張により、海外ネットワークをさらに強化した。 | ||
8本部20部制組織を導入 1960年代を通じて、安宅産業は取引品目の拡大によって総合商社に発展することを目論んだ。1963年に8本部20部制組織を導入し、取扱品目の増大に備えた組織体制を導入した。 | ||||||
FY64 1964/3 | 売上高 2,126億円 | 経常利益 16億円 | 東京本社を新設 東京支店を東京本社に昇格することによって、東京・大阪における本社体制へ | |||
FY65 1965/3 | 売上高 2,486億円 | 経常利益 17億円 | ||||
FY66 1966/3 | 売上高 2,590億円 | 経常利益 16億円 | 住友商事との合併撤回 1965年の不況で安宅産業は減益決算となり、商社業界では日本商業と岩井産業が合併し日商岩井が発足するなど再編が進んでいた。メインバンク住友銀行の意向で住友商事との合併が議題に上り、住商は木材・パルプ商権を狙い、安宅経営陣も前向きであった。しかし創業家の安宅英一氏が影響力喪失を嫌って反対し破談となった。結果として単独経営を継続し、この判断は後年の経営破綻との関連で繰り返し言及された。 | 幻の大型合併 | ||
FY67 1967/3 | 売上高 3,104億円 | 経常利益 19億円 | ||||
FY68 1968/3 | 売上高 3,834億円 | 経常利益 21億円 | ||||
FY69 1969/3 | 売上高 4,467億円 | 経常利益 21億円 | 越田左多男氏が社長退任 創業家である安宅英一氏(安宅産業・社賓)の意向によって、1966年から安宅産業の社長を歴任していた越田左多男氏が1969年に解任された。意見対立があったものと推察されるが、株式保有比率が数%の株主によって社長が解任される事態に陥ったことは、安宅産業のガバナンスの問題を象徴する出来事であった。 | |||
市川政夫氏が社長就任 1969年に市川政夫氏が社長に就任した。生え抜きで木材部の輸入材取扱高拡大が評価された人事であり、前任の越田左多男社長が安宅英一氏の意向で解任された後の登用も創業家意向に沿うものであった。市川社長は1974年に半期売上高1兆円(1969年比3.3倍)を掲げ、鉄鋼・パルプ・木材に加え海外鉱山の資源開発を最重要戦略に据えた。投資資金は住友銀行・協和銀行からの借入で調達する計画で、借入依存度の高さが後の大型プロジェクト傾斜投資につながった。 | 総合商社を目指して売上高1兆円を目標設定 | |||||
FY70 1970/3 | 売上高 5,786億円 | 経常利益 23億円 | ||||
FY71 1971/3 | 売上高 7,325億円 | 経常利益 32億円 | ||||
FY72 1972/3 | 売上高 8,101億円 | 経常利益 27億円 | ||||
FY73 1973/3 | 売上高 10,421億円 | 経常利益 52億円 | NRC総代理店契約を締結 1973年、カナダ・ニューファウンドランド島の石油精製会社NRC(代表Shaheen氏)と提携した。BPから中東原油を買い付けタンカー輸送し、NRC精製所で航空機燃料に精製、JFK空港へ販売する三国間貿易で石油取扱高拡大を狙った。しかしBPと10年間の買取契約を結んで価格変動リスクを自ら負担し、通常の仲介取引から逸脱した。シャヒーン氏はレバノン出身で業界内の評判が芳しくなく、グレーな節税手法も指摘されていたが提携に踏み切った。 | 中東石油を北米で精製する巨大PJを推進 | ||
FY74 1974/3 | 売上高 16,164億円 | 経常利益 63億円 | ||||
FY75 1975/3 | 売上高 20,948億円 | 経常利益 39億円 | 安宅アメリカの業績が悪化 | 契約内容で石油価格変動リスクを織り込めず | ||
FY76 1976/3 | 売上高 19,989億円 | 経常利益 -151億円 | 経営危機 | 期末時点の借入総額が5248億円に拡大 1975年9月期末時点で借入総額は5248億円に達した。NRC石油PJをはじめとする大型プロジェクトへの傾斜投資が原資調達を借入に依存しており、住友銀行・協和銀行を中心とする借入依存度の高さが財務悪化の主因となった。 | ||
FY77 1977/3 | 売上高 14,901億円 | 経常利益 -311億円 | 経営危機 | 経営危機が表面化 1976年12月、安宅産業の経営危機が表面化した。NRC石油プロジェクトの採算悪化と借入残高の急増が信用不安を招き、メインバンクをはじめとする金融機関による支援体制の組成が急務となった。 | ||
経営危機 | 協調融資団6銀行の頭取が対策会議を開催 1977年1月、協調融資団を構成する6銀行の頭取が対策会議を開催し、安宅産業の救済策を協議した。住友銀行を中心とした金融機関の連携によって、合併・救済の枠組みを模索する局面に入った。 | |||||
伊藤忠商事と合併(経営破綻) 1977年10月、伊藤忠商事と合併する形で経営破綻した。NRC案件をはじめとする大型プロジェクト傾斜投資で借入が膨張し、1976年12月の経営危機表面化と1977年1月の協調融資団6銀行による緊急対応を経て、最終的に総合商社としての独立経営を断念した。 | 総合商社の経営破綻・正社員2000名が失職 |
- 安宅商会を創業
安宅弥吉氏が個人経営として安宅商会を発足させ、米・砂糖・木材・非鉄金属・雑貨などの輸出入貿易を主要業務として事業を興した。これが安宅産業の淵源となった。
地金専門商社が国内メーカーとの紐帯で築いた成長基盤 - 輸入パルプに「ATAKA」印を商標登録
パルプ輸入販売の信用差別化のため、輸入パルプに自社ブランド「ATAKA」印を商標登録した。
- 日本窒素肥料の硫安販売を開始
1914年11月、日本窒素肥料工場が製造する硫安の販売取扱を開始した。化学品分野へ取り扱い品目を広げる契機となった。
- 株式会社安宅商会を設立
第一次大戦による国産業界の活況を契機として、資本金300万円の株式会社組織に改組した。
- 米国からの木材輸入を開始
1921年から米国産木材の輸入を開始し、後の木材・パルプを軸とした収益構造の起点となった。
- 官営八幡製鐵所と取引開始非財閥系ながら八幡製鐵の指定商を獲得した国内取引の厚み
- 八幡駐在員事務所を新設
前年に取引を開始した八幡製鐵所との連絡強化のため、八幡駐在員事務所を新設した。
- 川崎造船所の薄鋼の指定商として取引開始
川崎造船所が製造する薄鋼の指定商として取引を開始した。八幡製鐵所に続く主要鉄鋼メーカーとの関係構築により、「金へん商社」としての基盤を強化した。
- ソ連・樺太からの木材輸入を開始
1928年からソ連および樺太からの木材輸入を開始した。米国に続く木材調達ルート確立により、輸入材の供給源を多様化した。
- ロンドン支店を新設
大戦後の鉄鋼界恐慌で指定商社制度に指定されたことを礎とし、ロンドン支店開設を皮切りに海外有力メーカーと代理店契約を締結し、海外進出を本格化した。
- 王子製紙のレーヨンパルプの一手販売店となる
1933年、王子製紙が製造するレーヨンパルプの一手販売店となった。これにより国内パルプ流通における中核的地位を確立し、後の主力収益源となるパルプ・木材分野の基盤を形成した。
- 東洋曹達工業(東ソー)の設立に出資
1935年3月、東洋曹達工業(現・東ソー)の設立に合わせて出資した。化学品分野における事業会社との資本関係構築の一例となった。
- 米グリーソンの日本総代理店となる
1936年、米国グリーソン社(工作機械メーカー)の日本総代理店となり、工作機械の国内輸入販売を開始した。機械類の取り扱いを広げる契機となった。
- 海外8支店体制を確立
1928年3月のロンドン支店開設以降、海外有力メーカーとの代理店契約を相次ぎ締結し、1940年(昭和15年)までに海外8支店を擁する体制を構築した。これにより輸出入商社としての海外ネットワークが整った。
- 安宅産業に商号変更
商号を「安宅商会」から「安宅産業」に改めた。戦時中は専ら国内物資の配給に従事すると同時に、アジア全域にわたる諸物資の集荷配給と現地開発に注力し、海外支店出張所は80数ヵ店に達した。
- 民間貿易再開と同時に再建に着手
終戦により膨大な在外資産と販売網を喪失していたが、民間貿易の再開と同時に再建に着手し、漸次業容を戦前水準まで回復させた。東京・名古屋ほか全国主要都市に支店網を確立し、1952年以降のニューヨーク支店をはじめとする海外復興の足掛かりとした。
- 過度経済力集中排除法に指定
- 創業者の安宅弥吉が逝去(享年77歳)
1949年2月、創業者の安宅弥吉氏が享年77歳で逝去した。戦後の財閥解体によって安宅家保有株式の大部分が放出されており、創業家は会社法上の支配権を既に失っていた。
- 米国法人 安宅ニューヨークを会社設立
- 安宅英一氏が会長就任少数持分で人事権を掌握した創業家支配の構造的歪み
- 大阪証券取引所で株式店頭取引を開始
1956年1月に大阪証券取引所で株式店頭取引を開始し、同年8月の正式上場へとつなげた。
- 大阪証券取引所に株式上場
1956年に大阪証券取引所、翌1957年に東京証券取引所へ株式を上場した。1955年時点の売上高構成比は金属31.1%・パルプ木材26.4%・繊維13.2%で、八幡製鐵との鉄鋼取引と王子製紙との木材パルプ取引が収益の柱であった。伊藤忠・丸紅など繊維主体の商社が並ぶなか、鉄鋼を主力とする安宅産業は「金へん商社」と称され、重工業化進展のもとで成長が期待された。
繊維依存の同業他社と一線を画した鉄鋼主力の事業構成 - 安宅ドイツを会社設立
1958年9月、ドイツに現地法人「安宅ドイツ」を会社設立した。1952年の安宅ニューヨークに続く欧州での海外現地法人として、戦後の海外活動再開を加速した。
- 安宅英国を会社設立
1962年4月、英国に現地法人「安宅英国」を会社設立した。米国・ドイツに続く欧州拠点拡張により、海外ネットワークをさらに強化した。
- 8本部20部制組織を導入
1960年代を通じて、安宅産業は取引品目の拡大によって総合商社に発展することを目論んだ。1963年に8本部20部制組織を導入し、取扱品目の増大に備えた組織体制を導入した。
- 東京本社を新設
東京支店を東京本社に昇格することによって、東京・大阪における本社体制へ
- 住友商事との合併撤回
1965年の不況で安宅産業は減益決算となり、商社業界では日本商業と岩井産業が合併し日商岩井が発足するなど再編が進んでいた。メインバンク住友銀行の意向で住友商事との合併が議題に上り、住商は木材・パルプ商権を狙い、安宅経営陣も前向きであった。しかし創業家の安宅英一氏が影響力喪失を嫌って反対し破談となった。結果として単独経営を継続し、この判断は後年の経営破綻との関連で繰り返し言及された。
幻の大型合併 - 越田左多男氏が社長退任
創業家である安宅英一氏(安宅産業・社賓)の意向によって、1966年から安宅産業の社長を歴任していた越田左多男氏が1969年に解任された。意見対立があったものと推察されるが、株式保有比率が数%の株主によって社長が解任される事態に陥ったことは、安宅産業のガバナンスの問題を象徴する出来事であった。
- 市川政夫氏が社長就任
1969年に市川政夫氏が社長に就任した。生え抜きで木材部の輸入材取扱高拡大が評価された人事であり、前任の越田左多男社長が安宅英一氏の意向で解任された後の登用も創業家意向に沿うものであった。市川社長は1974年に半期売上高1兆円(1969年比3.3倍)を掲げ、鉄鋼・パルプ・木材に加え海外鉱山の資源開発を最重要戦略に据えた。投資資金は住友銀行・協和銀行からの借入で調達する計画で、借入依存度の高さが後の大型プロジェクト傾斜投資につながった。
総合商社を目指して売上高1兆円を目標設定 - NRC総代理店契約を締結
1973年、カナダ・ニューファウンドランド島の石油精製会社NRC(代表Shaheen氏)と提携した。BPから中東原油を買い付けタンカー輸送し、NRC精製所で航空機燃料に精製、JFK空港へ販売する三国間貿易で石油取扱高拡大を狙った。しかしBPと10年間の買取契約を結んで価格変動リスクを自ら負担し、通常の仲介取引から逸脱した。シャヒーン氏はレバノン出身で業界内の評判が芳しくなく、グレーな節税手法も指摘されていたが提携に踏み切った。
中東石油を北米で精製する巨大PJを推進 - 安宅アメリカの業績が悪化契約内容で石油価格変動リスクを織り込めず
- 期末時点の借入総額が5248億円に拡大
1975年9月期末時点で借入総額は5248億円に達した。NRC石油PJをはじめとする大型プロジェクトへの傾斜投資が原資調達を借入に依存しており、住友銀行・協和銀行を中心とする借入依存度の高さが財務悪化の主因となった。
- 経営危機が表面化
1976年12月、安宅産業の経営危機が表面化した。NRC石油プロジェクトの採算悪化と借入残高の急増が信用不安を招き、メインバンクをはじめとする金融機関による支援体制の組成が急務となった。
- 協調融資団6銀行の頭取が対策会議を開催
1977年1月、協調融資団を構成する6銀行の頭取が対策会議を開催し、安宅産業の救済策を協議した。住友銀行を中心とした金融機関の連携によって、合併・救済の枠組みを模索する局面に入った。
- 伊藤忠商事と合併(経営破綻)
1977年10月、伊藤忠商事と合併する形で経営破綻した。NRC案件をはじめとする大型プロジェクト傾斜投資で借入が膨張し、1976年12月の経営危機表面化と1977年1月の協調融資団6銀行による緊急対応を経て、最終的に総合商社としての独立経営を断念した。
総合商社の経営破綻・正社員2000名が失職