安宅産業の沿革(1909〜1977年)
安宅産業の創業から現在までの主要な出来事・経営判断・組織変化を年月順に一覧できる沿革(社史年表)ページです。 各年の売上高・純利益などの業績推移と、歴史的意義の解説をあわせて掲載しています。 社史・報道資料などの公開情報をもとに重要事項を判断の上、作成しています。
| 年度 | 売上高 | 純利益 | 年月 | 区分 | 出来事 | 歴史的意義 |
|---|---|---|---|---|---|---|
1909 1-12月 | founding | 安宅商会を創業 | 地金専門商社が国内メーカーとの紐帯で築いた成長基盤 | |||
1919 1-12月 | 株式会社安宅商会を設立 | |||||
1926 1-12月 | 官営八幡製鐵所と取引開始 | 非財閥系ながら八幡製鐵の指定商を獲得した国内取引の厚み | ||||
1928 1-12月 | ロンドン支店を新設 | |||||
1942 1-12月 | 創業者の安宅弥吉が逝去 1942年に安宅産業の創業者である安宅弥吉が逝去した。
後任に安宅家出身の安宅重雄氏が社長が就任したものの、1945年の敗戦によって財閥の経営者(公職追放・財閥解体)として責任に問われたため辞任した。財閥解体によって安宅家が保有する安宅産業の株式の大部分が放出されたため、安宅家は会社法における安宅産業の支配権を失った。 | |||||
1943 1-12月 | 安宅産業に商号変更 | |||||
1948 1-12月 | 過度経済力集中排除法に指定 | |||||
1952 1-12月 | 米国法人安宅ニューヨーク店を設置 | |||||
1956 1-12月 | 大阪証券取引所に株式上場 1956年に安宅産業は大阪証券取引所に株式を上場し、翌1957年には東京証券取引所にも上場を果たした。当時の安宅産業の事業構成は、1955年時点の売上高構成比で金属が31.1%を占めてトップに立ち、続いてパルプ・木材が26.4%、繊維が13.2%という構成であった。金属部門では日本製鐵(当時の八幡製鉄)との鉄鋼取引、木材パルプ部門では王子製紙との取引が収益の柱であり、素材分野に強みを持つ商社として株式市場に登場した。
上場当時の日本の商社業界では、伊藤忠商事や丸紅といった有力商社が繊維取引を主体としていた。繊維産業は戦後復興期の日本経済を牽引した分野であったが、1950年代後半には化学繊維の台頭や輸出環境の変化によって先行きに不透明感が漂い始めていた。こうした環境下で、鉄鋼を主力とする安宅産業は繊維に依存しない事業構成が評価され、業界内では「金へん商社」と称された。日本の重工業化が進展するなかで安宅産業の鉄鋼取引は拡大が見込まれ、市場では今後の成長が期待された。 | 繊維依存の同業他社と一線を画した鉄鋼主力の事業構成 | ||||
| founding | 安宅英一氏が会長就任 | 少数持分で人事権を掌握した創業家支配の構造的歪み | ||||
FY61 1961/3 | 売上高 1,339億円 | 経常利益 9億円 | ||||
FY62 1962/3 | 売上高 1,738億円 | 経常利益 12億円 | ||||
FY63 1963/3 | 売上高 1,716億円 | 経常利益 10億円 | 8本部20部制組織を導入 1960年代を通じて、安宅産業は取引品目の拡大によって総合商社に発展することを目論んだ。
1963年に8本部20部制組織を導入し、取扱品目の増大に備えた組織体制を導入した。 | |||
FY64 1964/3 | 売上高 2,126億円 | 経常利益 16億円 | 東京本社を新設 東京支店を東京本社に昇格することによって、東京・大阪における本社体制へ | |||
FY65 1965/3 | 売上高 2,486億円 | 経常利益 17億円 | ||||
FY66 1966/3 | 売上高 2,590億円 | 経常利益 16億円 | 住友商事との合併撤回 1965年に日本経済が不況に陥ると、安宅産業も減益決算を計上した。商社業界では日本商業と岩井産業が合併して日商岩井が発足するなど、業界再編が進行していた。こうしたなかで安宅産業と住友商事の合併が議題に上がった。これはメインバンクである住友銀行の意向によるもので、総合商社を志向する住友商事と安宅産業を1社にまとめ、融資を効率化する狙いがあった。住友商事にとっても木材・パルプの商権を持つ安宅産業は魅力的な合併先であった。
安宅産業の経営陣は住友商事との合併に前向きな姿勢を示した。メインバンクの意向に加え、不況下で単独での事業拡大が困難ななかでの合併は、安宅産業にとっても合理的な選択肢であった。しかし、創業家である安宅英一氏が合併に反対したことで、この構想は破談となった。安宅家にとって合併は創業家としての影響力の喪失を意味したとみられる。結果として安宅産業は単独での経営を継続することとなり、この判断は後年の経営破綻との関係で繰り返し言及されることとなった。 | 幻の大型合併 | ||
FY67 1967/3 | 売上高 3,104億円 | 経常利益 19億円 | ||||
FY68 1968/3 | 売上高 3,834億円 | 経常利益 21億円 | ||||
FY69 1969/3 | 売上高 4,467億円 | 経常利益 21億円 | 越田左多男氏が社長退任 創業家である安宅英一氏(安宅産業・社賓)の意向によって、1966年から安宅産業の社長を歴任していた越田左多男氏が1969年に解任された。意見対立があったものと推察されるが、株式保有比率が数%の株主によって社長が解任される事態に陥ったことは、安宅産業のガバナンスの問題を象徴する出来事であった。 | |||
市川政夫氏が社長就任 1969年、安宅産業の代表取締役社長に市川政夫氏が就任した。市川氏は安宅産業の生え抜きであり、1950年代から1960年代にかけて木材部で輸入材の取扱高を伸ばした実績が社内で評価されていた。直前の1969年には創業家の安宅英一氏の意向によって前任の越田左多男社長が解任されており、市川氏の社長登用もまた創業家の意向に沿った人事であったとみられている。
市川社長は安宅産業の経営目標として、5年後の1974年に半期売上高1兆円(1969年比で3.3倍)を掲げた。この目標を達成するべく、従来から強みのある鉄鋼・パルプ・木材に加えて、海外鉱山における資源開発を最重要戦略に位置づけた。大規模プロジェクトへの投資資金はメインバンクの住友銀行および協和銀行からの借入金によって調達する計画であり、自己資本に対して借入依存度の高い投資方針であった。取扱高の拡大を最優先とする経営方針は、安宅産業を大型プロジェクトへの傾斜投資に向かわせていくこととなる。 | 総合商社を目指して売上高1兆円を目標設定 | |||||
FY70 1970/3 | 売上高 5,786億円 | 経常利益 23億円 | ||||
FY71 1971/3 | 売上高 7,325億円 | 経常利益 32億円 | ||||
FY72 1972/3 | 売上高 8,101億円 | 経常利益 27億円 | ||||
FY73 1973/3 | 売上高 10,421億円 | 経常利益 52億円 | NRC総代理店契約を締結 1973年、安宅産業は石油精製分野の大型プロジェクトへの投資を決定した。カナダのニューファウンドランド島に拠点を置く石油精製会社NRC(代表者John Michael Shaheen氏)と提携し、安宅産業がBP(ブリティッシュ・ペトロリアム)から中東原油を買い付けてタンカーで輸送し、NRC社の精製所で精製した航空機燃料をニューヨークのジョン・F・ケネディ空港に販売する計画を立てた。日本を介さない三国間貿易であり、石油の取扱高を拡大する狙いがあった。
このプロジェクトで問題となったのは、安宅産業がBPから石油を10年間にわたって買い取る契約を締結した点であった。通常の商社取引であれば売買の仲介として手数料を徴収するのが一般的であるが、安宅産業はBPから一定量の石油を買い切る義務を負い、価格変動リスクを自ら引き受ける形となった。また、NRCを率いるシャヒーン氏はレバノン出身の人物で業界内での評判が芳しくなく、グレーな節税手法を用いるなどの問題が指摘されていたにもかかわらず、安宅産業は同氏との提携に踏み切った。 | 中東石油を北米で精製する巨大PJを推進 | ||
FY74 1974/3 | 売上高 16,164億円 | 経常利益 63億円 | ||||
FY75 1975/3 | 売上高 20,948億円 | 経常利益 39億円 | 安宅アメリカの業績が悪化 | 契約内容で石油価格変動リスクを織り込めず | ||
FY76 1976/3 | 売上高 19,989億円 | 経常利益 -151億円 | ||||
FY77 1977/3 | 売上高 14,901億円 | 経常利益 -311億円 | crisis | 経営破綻・伊藤忠が救済へ | 総合商社の経営破綻・エリート正社員2000名が失職 |
- 安宅商会を創業地金専門商社が国内メーカーとの紐帯で築いた成長基盤
- 株式会社安宅商会を設立
- 官営八幡製鐵所と取引開始非財閥系ながら八幡製鐵の指定商を獲得した国内取引の厚み
- ロンドン支店を新設
- 創業者の安宅弥吉が逝去
1942年に安宅産業の創業者である安宅弥吉が逝去した。 後任に安宅家出身の安宅重雄氏が社長が就任したものの、1945年の敗戦によって財閥の経営者(公職追放・財閥解体)として責任に問われたため辞任した。財閥解体によって安宅家が保有する安宅産業の株式の大部分が放出されたため、安宅家は会社法における安宅産業の支配権を失った。
- 安宅産業に商号変更
- 過度経済力集中排除法に指定
- 米国法人安宅ニューヨーク店を設置
- 大阪証券取引所に株式上場
1956年に安宅産業は大阪証券取引所に株式を上場し、翌1957年には東京証券取引所にも上場を果たした。当時の安宅産業の事業構成は、1955年時点の売上高構成比で金属が31.1%を占めてトップに立ち、続いてパルプ・木材が26.4%、繊維が13.2%という構成であった。金属部門では日本製鐵(当時の八幡製鉄)との鉄鋼取引、木材パルプ部門では王子製紙との取引が収益の柱であり、素材分野に強みを持つ商社として株式市場に登場した。 上場当時の日本の商社業界では、伊藤忠商事や丸紅といった有力商社が繊維取引を主体としていた。繊維産業は戦後復興期の日本経済を牽引した分野であったが、1950年代後半には化学繊維の台頭や輸出環境の変化によって先行きに不透明感が漂い始めていた。こうした環境下で、鉄鋼を主力とする安宅産業は繊維に依存しない事業構成が評価され、業界内では「金へん商社」と称された。日本の重工業化が進展するなかで安宅産業の鉄鋼取引は拡大が見込まれ、市場では今後の成長が期待された。
繊維依存の同業他社と一線を画した鉄鋼主力の事業構成 - 安宅英一氏が会長就任少数持分で人事権を掌握した創業家支配の構造的歪み
- 8本部20部制組織を導入
1960年代を通じて、安宅産業は取引品目の拡大によって総合商社に発展することを目論んだ。 1963年に8本部20部制組織を導入し、取扱品目の増大に備えた組織体制を導入した。
- 東京本社を新設
東京支店を東京本社に昇格することによって、東京・大阪における本社体制へ
- 住友商事との合併撤回
1965年に日本経済が不況に陥ると、安宅産業も減益決算を計上した。商社業界では日本商業と岩井産業が合併して日商岩井が発足するなど、業界再編が進行していた。こうしたなかで安宅産業と住友商事の合併が議題に上がった。これはメインバンクである住友銀行の意向によるもので、総合商社を志向する住友商事と安宅産業を1社にまとめ、融資を効率化する狙いがあった。住友商事にとっても木材・パルプの商権を持つ安宅産業は魅力的な合併先であった。 安宅産業の経営陣は住友商事との合併に前向きな姿勢を示した。メインバンクの意向に加え、不況下で単独での事業拡大が困難ななかでの合併は、安宅産業にとっても合理的な選択肢であった。しかし、創業家である安宅英一氏が合併に反対したことで、この構想は破談となった。安宅家にとって合併は創業家としての影響力の喪失を意味したとみられる。結果として安宅産業は単独での経営を継続することとなり、この判断は後年の経営破綻との関係で繰り返し言及されることとなった。
幻の大型合併 - 越田左多男氏が社長退任
創業家である安宅英一氏(安宅産業・社賓)の意向によって、1966年から安宅産業の社長を歴任していた越田左多男氏が1969年に解任された。意見対立があったものと推察されるが、株式保有比率が数%の株主によって社長が解任される事態に陥ったことは、安宅産業のガバナンスの問題を象徴する出来事であった。
- 市川政夫氏が社長就任
1969年、安宅産業の代表取締役社長に市川政夫氏が就任した。市川氏は安宅産業の生え抜きであり、1950年代から1960年代にかけて木材部で輸入材の取扱高を伸ばした実績が社内で評価されていた。直前の1969年には創業家の安宅英一氏の意向によって前任の越田左多男社長が解任されており、市川氏の社長登用もまた創業家の意向に沿った人事であったとみられている。 市川社長は安宅産業の経営目標として、5年後の1974年に半期売上高1兆円(1969年比で3.3倍)を掲げた。この目標を達成するべく、従来から強みのある鉄鋼・パルプ・木材に加えて、海外鉱山における資源開発を最重要戦略に位置づけた。大規模プロジェクトへの投資資金はメインバンクの住友銀行および協和銀行からの借入金によって調達する計画であり、自己資本に対して借入依存度の高い投資方針であった。取扱高の拡大を最優先とする経営方針は、安宅産業を大型プロジェクトへの傾斜投資に向かわせていくこととなる。
総合商社を目指して売上高1兆円を目標設定 - NRC総代理店契約を締結
1973年、安宅産業は石油精製分野の大型プロジェクトへの投資を決定した。カナダのニューファウンドランド島に拠点を置く石油精製会社NRC(代表者John Michael Shaheen氏)と提携し、安宅産業がBP(ブリティッシュ・ペトロリアム)から中東原油を買い付けてタンカーで輸送し、NRC社の精製所で精製した航空機燃料をニューヨークのジョン・F・ケネディ空港に販売する計画を立てた。日本を介さない三国間貿易であり、石油の取扱高を拡大する狙いがあった。 このプロジェクトで問題となったのは、安宅産業がBPから石油を10年間にわたって買い取る契約を締結した点であった。通常の商社取引であれば売買の仲介として手数料を徴収するのが一般的であるが、安宅産業はBPから一定量の石油を買い切る義務を負い、価格変動リスクを自ら引き受ける形となった。また、NRCを率いるシャヒーン氏はレバノン出身の人物で業界内での評判が芳しくなく、グレーな節税手法を用いるなどの問題が指摘されていたにもかかわらず、安宅産業は同氏との提携に踏み切った。
中東石油を北米で精製する巨大PJを推進 - 安宅アメリカの業績が悪化契約内容で石油価格変動リスクを織り込めず
- 経営破綻・伊藤忠が救済へ総合商社の経営破綻・エリート正社員2000名が失職