沿革年表 1949〜2025年における重要度別の出来事(合計39件)

年月区分社長/CEO出来事年度売上高純利益
重要事項
宇部中央銀天街商店街にて「小郡商事」を開店
歴史的意義yutaka sugiura
小郡商事の創業が成立した背景には、宇部興産の石炭産業による企業城下町効果がある。駅前商店街という立地は宇部興産従業員の購買力に支えられており、創業者の事業眼というよりも時代と地域の恩恵で軌道に乗った。この「たまたまの成功体験」が、後に商店街が衰退した際の危機感の遅れにもつながった。ユニクロ誕生の35年前、原点は石炭景気に依存した零細小売店だった。
1949
1-12月
小郡商事株式会社を設立
歴史的意義yutaka sugiura
1967年時点の小郡商事は年商約8,000万円・利益157万円・従業員22名であり、取引銀行は広島銀行宇部支店の1行のみだった。この数字は商店街型小売業の成長限界を端的に示している。法人化して小倉に出店するなど拡大を試みたが、商店街の商圏に依存する限り、事業規模の上限は構造的に決まっていた。2022年に本店所在地が公園に変わっている事実が、この業態の最終到達点を象徴している。
1963
1-12月
柳井正氏が小郡商事に入社
歴史的意義yutaka sugiura
柳井正が入社した1972年時点では、商店街の衰退はまだ緩やかであり、小郡商事は商店街内の複数店舗運営で拡大していた。危機感が本格化するのは1980年代に入ってからであり、入社から改革着手まで約10年のタイムラグがある。逆に言えば、この10年間の商店街経営の経験が「ロードサイド・大量販売・低価格」というユニクロの方程式を逆算させた。衰退を体感した当事者だからこそ、脱出先の解像度が高かった。
1972
1-12月
商店街(銀天街)の衰退
歴史的意義yutaka sugiura
宇部新川商店街の衰退は、宇部興産の石炭産業縮小による大口顧客の喪失と、モータリゼーションによる購買行動の郊外移転という二重の構造変化によるものだった。だが衰退は30年かけて緩やかに進行したため、9億円を投じた銀天プラザ(1988年)のように現状維持型の投資が行われ、効果を発揮しなかった。柳井正が「これが私の原点です」と語る通り、この衰退プロセスの当事者体験が、ユニクロのロードサイド・SPA・グローバル展開という全ての逆張り戦略の出発点となった。
1980
1-12月
社長交代
柳井正
柳井正氏が小郡商事の代表取締役社長に就任
FY84
1984/8
広島市内にユニクロ1号店を開業
柳井正
ユニクロの店舗展開をロードサイドに変更
歴史的意義yutaka sugiura
広島繁華街の1号店が頓挫した後、郊外ロードサイドに転換したことがユニクロ最初のプロダクトマーケットフィットとなった。自動車保有率の高い地方で、年齢・性別を問わない普段着を平日客単価4,000円で販売するモデルは、都心型とは全く異なる顧客構造を前提にしている。この段階で「安くて品質が良い」という至上命題が確定し、後の中国生産・SPA構築という調達面の課題設定が不可避となった。
FY85
1985/8
重要事項
柳井正
香港経由で中国メーカーの製品を買い付け
柳井正がGAPの香港経由SPA方式に着目した1988年時点で、ユニクロの店舗数は中国メーカーが取引するに足る発注ロットを確保できていなかった。SPAの理想像は見えているのに、規模不足で実行できないというジレンマが、1991年以降の年間30店舗出店と長銀からの借入調達を必然にした。調達構造の転換が店舗拡大を要求し、店舗拡大が資金調達を要求する——この連鎖構造がファーストリテイリングの急成長を駆動した。
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FY88
1988/8
柳井正
FY90
1990/8
売上高
51.5億円
当期純利益
0.4億円
柳井正
社名をファーストリテイリングに変更
歴史的意義yutaka sugiura
1991年時点で国内にSPAを標榜する小売業は皆無に近く、メディアからも「わかりにくい社名」と評された。だが裏を返せば、GAPの方式を日本で最初に言語化し、経営の看板に掲げた先発者がファーストリテイリングだった。社名変更と同時にSPAの具現化に向けた急速な店舗拡大に着手しており、「名前を変える→構造を変える→調達を変える」という不可逆の連鎖を社名変更という形式行為で始動させた。
FY91
1991/8
売上高
71.7億円
当期純利益
1.4億円
日本長期信用銀行から借入調達を実施
歴史的意義yutaka sugiura
地方銀行が融資を渋る中、長銀広島支店がファーストリテイリングを「ベンチャー企業」として評価した判断が資金調達の突破口となった。長銀の融資決定を受けて、横並び意識の強い広島銀行・山口銀行も追随した構図は、日本の金融慣行の典型である。自己資本比率12%・借入残高35億円という財務状況で、柳井正個人が保証を背負いながら年間30店舗出店を断行した。上場前の3年間、SPAの実現は柳井正の個人信用に全面依存していた。
年間30店舗超の出店計画
歴史的意義yutaka sugiura
1991年の22店舗から1年で55店舗への急拡大は、土地・建物をリース契約で賄う「持たざる経営」によって実現した。1店舗あたり6,000万円という出店コストを固定資産化せず、初年度黒字が見込める立地に限定して投資回収を早めた。中国地方・東海地方でのドミナント展開を優先した点は、全国一斉展開のリスクを回避しつつ、ロードサイドの学習効果を地域内で蓄積する設計である。SPA実現に必要な店舗数という明確なゴールが、出店速度を規定していた。
柳井正
コンピュータの導入で在庫をコントロール
歴史的意義yutaka sugiura
SPAの核心は中国メーカーからの全量買取契約にあり、売れ残りリスクは全てファーストリテイリングが負う。このリスクを制御する仕組みが、POSデータを基に柳井正自ら参加して月曜朝から火曜夕方まで続けた売価変更会議だった。全商品の値付けを経営陣が直接決定するという異例の運用は、在庫管理がSPA企業にとって生死を分ける課題であることを示している。1988年の全店POS導入→1992年の社内システム稼働という段階的なIT投資が、急拡大する店舗網の情報統制を可能にした。
FY92
1992/8
売上高
143億円
当期純利益
4.1億円
会社設立
不採算事業から撤退。祖業のオーエス販売を解散
柳井正
実力主義による人事評価制度を導入
歴史的意義yutaka sugiura
年間30店舗超という急速な出店を支えたのは、入社半年〜1年で店長に昇格させ、20代でブロックマネージャーに抜擢する実力主義の人事制度だった。四半期ごとの業務評価とペーパーテストで職階を決定し、降格もあり得る運用は、1990年代前半の日本企業としては極めて異色である。年功序列を排除した理由は「人間の能力のピークは25歳」という柳井正の持論にあるが、実質的にはSPA構築に必要な店舗拡大速度が、若手への権限移譲を不可避にした。
FY93
1993/8
売上高
250億円
当期純利益
9.4億円
柳井正
ユニクロ100店舗を突破。売上成長を実現
ファーストリテイリングはユニクロの急速な多店舗展開によって、1994年に100店舗体制を確立した。わずか3年の間に80店舗を新設するスピード展開によって、カジュアルウェアの大量販売の仕組みを作り上げた。ファーストリテイリングの売上高も、ユニクロの店舗数拡大に合わせて増大。1994年には売上高333億円(YoY+33%)の急成長を実現した。
FY94
1994/8
売上高
333億円
当期純利益
13.3億円
広島証券取引所に株式上場。130億円を調達
大量出店によりSPAによる大量仕入れに目処
1994年にファーストリテイリングは株式上場によって、130億円の資金調達を実施した。この資金により、1995年度〜1997年度の3ヵ年において、年間50店舗のペースで出店する方針を固めた。出店対象の地域は、ロードサイドの郊外であり、関東地方にも進出することで売上高の増大を目指した。なお、店舗を一定数確保できたことから、SPAにおける中国メーカーからの大量仕入れを実現するための販売量の確保に目処を立てた。
本部制組織に移行
1994年にファーストリテイリングは、組織面において「開発・管理」と「店舗運営・商品本部」の2つの本部から構成される「本部制」を導入した。業績の拡大によって従業員数が500名に迫ったことによる組織変更であり、各部署の責務を明確にする狙いがあったと推察される。
柳井正
中国沿海部のメーカー4社と契約
歴史的意義yutaka sugiura
中国生産の本格化を可能にしたのは、東レ輸出部を退職して独立した長谷川靖彦氏の仲介だった。中国メーカーにとって魅力だったのは、上場によって店舗拡大に目処がついたユニクロの大量ロット発注の見込みである。1988年から7年越しで実現したSPA構築は、店舗拡大→上場→資金確保→大量発注→中国生産という連鎖の完成を意味した。委託先情報をトップシークレットとして22年間秘匿した事実は、この調達構造が競争優位の核心だったことを物語る。
FY95
1995/8
売上高
486億円
当期純利益
21億円
SPAの構築で総合商社と取引拡大。国内メーカーとの取引を縮小
中国メーカーへの委託生産本格化に伴い、ファーストリテイリングは仕入れを総合商社経由に切り替えた。ニチメンを筆頭に三菱商事、兼松、丸紅と取引し仕入体制を整えた。一方で美濃屋や水甚など国内アパレルメーカー問屋への支払手形残高が減少しており、SPA構築に合わせて国産商品比率を大幅に引き下げたものと推察される。
重要事項
PB衣料8割・毎週の売価変更で完全売り切り体制を確立、出店を年50店へ加速
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柳井正
FY96
1996/8
売上高
599億円
当期純利益
23.2億円
柳井正
FY97
1997/8
売上高
750億円
当期純利益
27億円
柳井正
ロードサイド店の飽和により売上成長率が鈍化
歴史的意義yutaka sugiura
年間50店舗ペースで出店を続けたにもかかわらず売上成長がYoY+10%台に鈍化した事実は、ロードサイド型展開の構造的限界を示した。中国生産の品質問題も未解決で、ユニクロは「安かろう悪かろう」の認知を脱却できていなかった。加えて小郡商事時代の古参経営陣が組織のボトルネックとなっており、地方企業から全国企業への脱皮には経営陣の刷新が不可避だった。この三重の壁が、1998年の原宿出店とフリース戦略という非連続な打ち手を導いた。
FY98
1998/8
売上高
831億円
当期純利益
29.2億円
重要事項組織再編
本部集中管理から個店対応へ転換、スーパーバイザー部を新設
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柳井正
ユニクロ原宿店を出店・首都圏初の都心型店舗
ファーストリテイリングは1990年代を通じて西日本を中心とした郊外のロードサイド店を拡大してきたが、都心部における店舗展開の検討を開始。1998年11月に首都圏初の都心型店舗として「ユニクロ原宿店」を開業した。
FY99
1999/8
売上高
1,110億円
当期純利益
68.1億円
柳井正
フリース旋風により業績好調へ
ユニクロの都心型店舗の展開に合わせて、集客のための目玉商品としてフリースを準備。1着あたり1900円で売り出したところ、安くて品質が良いフリースとしてヒット。2001年度におけるファーストリテイリングの業績は「フリース旋風」によって高収益(売上高・当期純利益率15%)を叩き出した。
FY00
2000/8
売上高
2,289億円
当期純利益
345億円
柳井正
FY01
2001/8
売上高
4,185億円
当期純利益
591億円
柳井正
ロンドンに4店舗を出店(英国進出)
海外進出を本格化。郊外を中心に3年間で50店舗の出店を計画するが、ブランド認知の獲得に苦戦。最大21店舗の出店に至ったが、これを6店舗まで縮小するなど、海外展開で苦戦した。
FY02
2002/8
売上高
3,441億円
当期純利益
511億円
柳井正
中国に2店舗を出店(中国進出)
FY03
2003/8
売上高
3,097億円
当期純利益
415億円
重要事項社長交代
柳井正氏が社長を退き会長兼CEOへ、玉塚元一氏が社長兼COOに就任
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柳井正
FY04
2004/8
売上高
3,399億円
当期純利益
313億円
柳井正
事業構造改革・売場面積の拡大へ
歴史的意義yutaka sugiura
フリース旋風の一巡後、シューズや野菜販売といった新規事業は全て不発に終わり、ファーストリテイリングは本業のユニクロに回帰した。その際の打ち手が、従来の200坪標準という店舗フォーマットの撤廃だった。大型店で品揃えを拡充すると来客層が拡大するという実験結果は、ユニクロの商品力が売場面積に制約されていたことを意味する。この発見がグローバル旗艦店(1,000坪)やGU(別ブランドによる低価格帯カバー)への道筋を開いた。
FY05
2005/8
売上高
3,839億円
当期純利益
338億円
柳井正
持株会社体制に移行
FY06
2006/8
売上高
4,488億円
当期純利益
404億円
重要事項
株式会社ジーユーを設立。GUの展開を開始
GU設立の背景には、グローバル旗艦店展開に伴うユニクロの高品質・高価格化がある。ユニクロが「安い普段着」から脱却する過程で、国内の低価格帯に空白地帯が生じ、その受け皿としてGUが設計された。ユニクロで構築したSPAをそのまま転用できる点がGUの初期優位性であり、ブランドを分離することで価格帯のカニバリゼーションを回避した。同一企業が価格帯別に二つのブランドを運用する構造は、ZARAとBershkaを抱えるInditexと同型である。
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重要事項
柳井正
グローバル化を宣言・グローバル旗艦店の出店を開始
2000年代前半の英国進出では郊外店を中心に展開したがブランド認知を獲得できず、21店舗を6店舗に縮小する失敗を経験した。この教訓から、進出国の一等地に1,000坪規模の旗艦店を出店して認知を一気に獲得する戦略に転換した。最も競争が厳しいニューヨークを最初に選んだのは、米国で通用したモデルを他国に展開する設計思想による。香港300坪店の成功が仮説を裏付け、英国の失敗が戦略の精度を上げた。失敗→仮説検証→本格展開という学習サイクルが機能した事例である。
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FY07
2007/8
売上高
5,252億円
当期純利益
317億円
柳井正
ユニクロの海外展開国を拡大
ユニクロのグローバル展開のために、欧州・東南アジアを中心に主要国における出店を本格化
FY08
2008/8
売上高
5,864億円
当期純利益
435億円
柳井正
FY09
2009/8
売上高
6,850億円
当期純利益
497億円
柳井正
FY10
2010/8
売上高
8,148億円
当期純利益
616億円
柳井正
FY11
2011/8
売上高
8,203億円
当期純利益
543億円
柳井正
FY12
2012/8
売上高
9,286億円
親会社株主に帰属する当期純利益
716億円
柳井正
FY13
2013/8
売上高
11,430億円
親会社株主に帰属する当期純利益
903億円
柳井正
FY14
2014/8
売上高
13,829億円
親会社株主に帰属する当期純利益
781億円
柳井正
FY15
2015/8
売上高
16,817億円
親会社株主に帰属する当期純利益
1,100億円
柳井正
無担保普通社債を発行・2500億円を調達
FY16
2016/8
売上高
17,864億円
親会社株主に帰属する当期純利益
480億円
柳井正
有明本部を稼働・物流投資を積極化
FY17
2017/8
売上高
18,619億円
親会社株主に帰属する当期純利益
1,192億円
主要取引先(工場)を公開
柳井正
FY18
2018/8
売上高
21,300億円
親会社株主に帰属する当期純利益
1,548億円
柳井正
FY19
2019/8
売上高
22,905億円
親会社株主に帰属する当期純利益
1,625億円
柳井正
東京にグローバル旗艦店「UNIQLO TOKYO」を出店(国内最大規模)
FY20
2020/8
売上高
20,088億円
親会社株主に帰属する当期純利益
903億円
柳井正
FY21
2021/8
売上高
21,329億円
親会社株主に帰属する当期純利益
1,698億円
柳井正
アクションプランを策定(〜2030年度)
FY22
2022/8
売上高
23,011億円
親会社株主に帰属する当期純利益
2,733億円
柳井正
FY23
2023/8
売上高
27,665億円
親会社株主に帰属する当期純利益
2,962億円
柳井正
FY24
2024/8
売上高
31,038億円
親会社株主に帰属する当期純利益
3,719億円
重要事項
柳井正
塚越大介氏の取締役登用など「ポスト柳井」の後継体制を準備
取締役の定員を拡大し、ユニクロ社長兼COOの塚越大介氏らを取締役に登用。創業者・柳井正氏に集中した経営の承継準備を進めた
経営判断をよむ →
FY25
2025/8
売上高
34,005億円
親会社株主に帰属する当期純利益
4,330億円
  1. 宇部中央銀天街商店街にて「小郡商事」を開店
    小郡商事の創業が成立した背景には、宇部興産の石炭産業による企業城下町効果がある。駅前商店街という立地は宇部興産従業員の購買力に支えられており、創業者の事業眼というよりも時代と地域の恩恵で軌道に乗った。この「たまたまの成功体験」が、後に商店街が衰退した際の危機感の遅れにもつながった。ユニクロ誕生の35年前、原点は石炭景気に依存した零細小売店だった。
  2. 小郡商事株式会社を設立
    1967年時点の小郡商事は年商約8,000万円・利益157万円・従業員22名であり、取引銀行は広島銀行宇部支店の1行のみだった。この数字は商店街型小売業の成長限界を端的に示している。法人化して小倉に出店するなど拡大を試みたが、商店街の商圏に依存する限り、事業規模の上限は構造的に決まっていた。2022年に本店所在地が公園に変わっている事実が、この業態の最終到達点を象徴している。
  3. 柳井正氏が小郡商事に入社
    柳井正が入社した1972年時点では、商店街の衰退はまだ緩やかであり、小郡商事は商店街内の複数店舗運営で拡大していた。危機感が本格化するのは1980年代に入ってからであり、入社から改革着手まで約10年のタイムラグがある。逆に言えば、この10年間の商店街経営の経験が「ロードサイド・大量販売・低価格」というユニクロの方程式を逆算させた。衰退を体感した当事者だからこそ、脱出先の解像度が高かった。
  4. 商店街(銀天街)の衰退
    宇部新川商店街の衰退は、宇部興産の石炭産業縮小による大口顧客の喪失と、モータリゼーションによる購買行動の郊外移転という二重の構造変化によるものだった。だが衰退は30年かけて緩やかに進行したため、9億円を投じた銀天プラザ(1988年)のように現状維持型の投資が行われ、効果を発揮しなかった。柳井正が「これが私の原点です」と語る通り、この衰退プロセスの当事者体験が、ユニクロのロードサイド・SPA・グローバル展開という全ての逆張り戦略の出発点となった。
  5. 社長交代
    柳井正氏が小郡商事の代表取締役社長に就任
  6. 広島市内にユニクロ1号店を開業
  7. ユニクロの店舗展開をロードサイドに変更
    広島繁華街の1号店が頓挫した後、郊外ロードサイドに転換したことがユニクロ最初のプロダクトマーケットフィットとなった。自動車保有率の高い地方で、年齢・性別を問わない普段着を平日客単価4,000円で販売するモデルは、都心型とは全く異なる顧客構造を前提にしている。この段階で「安くて品質が良い」という至上命題が確定し、後の中国生産・SPA構築という調達面の課題設定が不可避となった。
  8. 社名をファーストリテイリングに変更
    1991年時点で国内にSPAを標榜する小売業は皆無に近く、メディアからも「わかりにくい社名」と評された。だが裏を返せば、GAPの方式を日本で最初に言語化し、経営の看板に掲げた先発者がファーストリテイリングだった。社名変更と同時にSPAの具現化に向けた急速な店舗拡大に着手しており、「名前を変える→構造を変える→調達を変える」という不可逆の連鎖を社名変更という形式行為で始動させた。
  9. 日本長期信用銀行から借入調達を実施
    地方銀行が融資を渋る中、長銀広島支店がファーストリテイリングを「ベンチャー企業」として評価した判断が資金調達の突破口となった。長銀の融資決定を受けて、横並び意識の強い広島銀行・山口銀行も追随した構図は、日本の金融慣行の典型である。自己資本比率12%・借入残高35億円という財務状況で、柳井正個人が保証を背負いながら年間30店舗出店を断行した。上場前の3年間、SPAの実現は柳井正の個人信用に全面依存していた。
  10. 年間30店舗超の出店計画
    1991年の22店舗から1年で55店舗への急拡大は、土地・建物をリース契約で賄う「持たざる経営」によって実現した。1店舗あたり6,000万円という出店コストを固定資産化せず、初年度黒字が見込める立地に限定して投資回収を早めた。中国地方・東海地方でのドミナント展開を優先した点は、全国一斉展開のリスクを回避しつつ、ロードサイドの学習効果を地域内で蓄積する設計である。SPA実現に必要な店舗数という明確なゴールが、出店速度を規定していた。
  11. コンピュータの導入で在庫をコントロール
    SPAの核心は中国メーカーからの全量買取契約にあり、売れ残りリスクは全てファーストリテイリングが負う。このリスクを制御する仕組みが、POSデータを基に柳井正自ら参加して月曜朝から火曜夕方まで続けた売価変更会議だった。全商品の値付けを経営陣が直接決定するという異例の運用は、在庫管理がSPA企業にとって生死を分ける課題であることを示している。1988年の全店POS導入→1992年の社内システム稼働という段階的なIT投資が、急拡大する店舗網の情報統制を可能にした。
  12. 会社設立
    不採算事業から撤退。祖業のオーエス販売を解散
  13. 実力主義による人事評価制度を導入
    年間30店舗超という急速な出店を支えたのは、入社半年〜1年で店長に昇格させ、20代でブロックマネージャーに抜擢する実力主義の人事制度だった。四半期ごとの業務評価とペーパーテストで職階を決定し、降格もあり得る運用は、1990年代前半の日本企業としては極めて異色である。年功序列を排除した理由は「人間の能力のピークは25歳」という柳井正の持論にあるが、実質的にはSPA構築に必要な店舗拡大速度が、若手への権限移譲を不可避にした。
  14. ユニクロ100店舗を突破。売上成長を実現

    ファーストリテイリングはユニクロの急速な多店舗展開によって、1994年に100店舗体制を確立した。わずか3年の間に80店舗を新設するスピード展開によって、カジュアルウェアの大量販売の仕組みを作り上げた。ファーストリテイリングの売上高も、ユニクロの店舗数拡大に合わせて増大。1994年には売上高333億円(YoY+33%)の急成長を実現した。

  15. 広島証券取引所に株式上場。130億円を調達
  16. 大量出店によりSPAによる大量仕入れに目処

    1994年にファーストリテイリングは株式上場によって、130億円の資金調達を実施した。この資金により、1995年度〜1997年度の3ヵ年において、年間50店舗のペースで出店する方針を固めた。出店対象の地域は、ロードサイドの郊外であり、関東地方にも進出することで売上高の増大を目指した。なお、店舗を一定数確保できたことから、SPAにおける中国メーカーからの大量仕入れを実現するための販売量の確保に目処を立てた。

  17. 本部制組織に移行

    1994年にファーストリテイリングは、組織面において「開発・管理」と「店舗運営・商品本部」の2つの本部から構成される「本部制」を導入した。業績の拡大によって従業員数が500名に迫ったことによる組織変更であり、各部署の責務を明確にする狙いがあったと推察される。

  18. 中国沿海部のメーカー4社と契約
    中国生産の本格化を可能にしたのは、東レ輸出部を退職して独立した長谷川靖彦氏の仲介だった。中国メーカーにとって魅力だったのは、上場によって店舗拡大に目処がついたユニクロの大量ロット発注の見込みである。1988年から7年越しで実現したSPA構築は、店舗拡大→上場→資金確保→大量発注→中国生産という連鎖の完成を意味した。委託先情報をトップシークレットとして22年間秘匿した事実は、この調達構造が競争優位の核心だったことを物語る。
  19. SPAの構築で総合商社と取引拡大。国内メーカーとの取引を縮小

    中国メーカーへの委託生産本格化に伴い、ファーストリテイリングは仕入れを総合商社経由に切り替えた。ニチメンを筆頭に三菱商事、兼松、丸紅と取引し仕入体制を整えた。一方で美濃屋や水甚など国内アパレルメーカー問屋への支払手形残高が減少しており、SPA構築に合わせて国産商品比率を大幅に引き下げたものと推察される。

  20. ロードサイド店の飽和により売上成長率が鈍化
    年間50店舗ペースで出店を続けたにもかかわらず売上成長がYoY+10%台に鈍化した事実は、ロードサイド型展開の構造的限界を示した。中国生産の品質問題も未解決で、ユニクロは「安かろう悪かろう」の認知を脱却できていなかった。加えて小郡商事時代の古参経営陣が組織のボトルネックとなっており、地方企業から全国企業への脱皮には経営陣の刷新が不可避だった。この三重の壁が、1998年の原宿出店とフリース戦略という非連続な打ち手を導いた。
  21. ユニクロ原宿店を出店・首都圏初の都心型店舗

    ファーストリテイリングは1990年代を通じて西日本を中心とした郊外のロードサイド店を拡大してきたが、都心部における店舗展開の検討を開始。1998年11月に首都圏初の都心型店舗として「ユニクロ原宿店」を開業した。

  22. フリース旋風により業績好調へ

    ユニクロの都心型店舗の展開に合わせて、集客のための目玉商品としてフリースを準備。1着あたり1900円で売り出したところ、安くて品質が良いフリースとしてヒット。2001年度におけるファーストリテイリングの業績は「フリース旋風」によって高収益(売上高・当期純利益率15%)を叩き出した。

  23. ロンドンに4店舗を出店(英国進出)

    海外進出を本格化。郊外を中心に3年間で50店舗の出店を計画するが、ブランド認知の獲得に苦戦。最大21店舗の出店に至ったが、これを6店舗まで縮小するなど、海外展開で苦戦した。

  24. 中国に2店舗を出店(中国進出)
  25. 事業構造改革・売場面積の拡大へ
    フリース旋風の一巡後、シューズや野菜販売といった新規事業は全て不発に終わり、ファーストリテイリングは本業のユニクロに回帰した。その際の打ち手が、従来の200坪標準という店舗フォーマットの撤廃だった。大型店で品揃えを拡充すると来客層が拡大するという実験結果は、ユニクロの商品力が売場面積に制約されていたことを意味する。この発見がグローバル旗艦店(1,000坪)やGU(別ブランドによる低価格帯カバー)への道筋を開いた。
  26. 持株会社体制に移行
  27. ユニクロの海外展開国を拡大

    ユニクロのグローバル展開のために、欧州・東南アジアを中心に主要国における出店を本格化

  28. 無担保普通社債を発行・2500億円を調達
  29. 有明本部を稼働・物流投資を積極化
  30. 主要取引先(工場)を公開
  31. 東京にグローバル旗艦店「UNIQLO TOKYO」を出店(国内最大規模)
  32. アクションプランを策定(〜2030年度)