武田薬品工業の沿革(1781〜2026年)

武田薬品工業の創業から現在までの主要な出来事・経営判断・組織変化を年月順に一覧できる沿革(社史年表)ページです。 各年の売上高・純利益などの業績推移と、歴史的意義の解説をあわせて掲載しています。 社史・報道資料などの公開情報をもとに重要事項を判断の上、作成しています。

年度売上高純利益年月区分出来事歴史的意義
1781
1-12月
founding
薬種商を創業
「薬を流す企業」として130年持続した屋号と信用の仕組み
1915
1-12月
武田製薬所を新設
1914年に第一次世界大戦が勃発すると、ドイツを中心とする欧州からの医薬品輸入は急速に滞った。当時の日本の医薬品市場は輸入依存度が高く、武田もまた薬種商・輸入商として海外供給に強く依存する事業構造にあった。輸入停止は一時的な需給問題ではなく、事業の前提条件そのものを揺るがす事態であった。 同時期、国内では医薬品の安定供給と国産化が政策的課題として浮上していた。1914年には武田研究部を設置し試験・分析機能を内製化していたが、研究成果を製品として供給する製造基盤は持っていなかった。研究と流通の間に製造という空白が存在していた。 1915年10月、武田は大阪に医薬品製造拠点として武田製薬所を新設した。輸入再開を待つのではなく自社で医薬品を製造する体制を構築する選択であった。この決断により武田は薬種商・輸入商という立場から、製造機能を持つ事業者へと踏み出すことになった。 製薬所の新設は前年に設置された武田研究部との連動を前提としていた。研究で得た知見を自社工場で製品化する体制を整えることで、開発から製造までを社内で完結させる道筋が描かれた。この判断は短期的な需給対応にとどまらず、流通業から製造業への事業構造の転換を意味していた。
輸入途絶を契機とした「流通から製造へ」の不可逆転換
1943
1-12月
武田薬品工業に商号変更
旧来の個人経営から株式会社に組織変更。1944年には武田薬品工業と小西薬品が合併。以後、武田薬品の経営トップは武田家が歴任したが、小西家も役員に就任して武田薬品の経営に携わった。このため、武田薬品の創業家には「武田家」と「小西家」という2つの系統が存在する。
1949
1-12月
東京証券取引所に株式上場
1954
1-12月
大衆薬アリナミンを発売
広告と流通統制の組み合わせが生んだ大衆薬の競争優位
FY57
1957/3
売上高
163.8億円
FY58
1958/3
売上高
204億円
FY59
1959/3
売上高
219億円
FY60
1960/3
売上高
249億円
FY61
1961/3
売上高
307億円
事業部制を導入
製薬・医薬販売・食品・化学品・外国の5部署からなる組織体制に変更。医薬以外の多角事業にも注力
FY62
1962/3
売上高
431億円
FY63
1963/3
売上高
556億円
湘南工場を新設
関東地区における生産を強化するため、神奈川県藤沢市に湘南工場を新設。アリナミン錠剤の主力工場上として稼働。1965年からは医療用医薬品(注射薬など)の製造を開始
FY64
1964/3
売上高
735億円
当期純利益
53.7億円
FY65
1965/3
売上高
951億円
当期純利益
63億円
FY66
1966/3
売上高
927億円
当期純利益
61.9億円
FY67
1967/3
売上高
1,039億円
当期純利益
62.3億円
FY68
1968/3
売上高
1,169億円
当期純利益
86億円
FY69
1969/3
売上高
1,395億円
当期純利益
120.5億円
FY70
1970/3
売上高
1,599億円
当期純利益
143.4億円
FY71
1971/3
売上高
1,722億円
当期純利益
132.3億円
FY72
1972/3
売上高
1,712億円
当期純利益
82.2億円
FY73
1973/3
売上高
1,880億円
当期純利益
72.4億円
大型新薬・リラシリンを開発
ビタミン剤ブームの終焉を受けて、医療用医薬品の開発を強化して抗生物質を自社開発。1970年代の最盛期には年間10億円の売上を記録し、武田薬品工業の大型新薬となった。一方で、リラシリン以外の大型新薬の市場投入には苦戦し、海外からの導入品や、食品・化成品といった多角事業の収益が武田薬品工業を支えた。このため、1970年代を通じて武田薬品は「大型新薬がなかった」(1981/5投資月報)ことが利益率悪化の原因と言われ、経営に苦戦した。
FY75
1975/3
小西新兵衛氏が社長就任
5代目武田長兵衛氏(1943年社長就任)が70歳にて社長を退任。1944年に経営統合した小西薬品の創業家出身の小西新兵衛氏が社長就した。小西氏は社長就任時から海外展開を意識しており、当時の製薬メーカーでは珍しくグローバルな経営者であった
FY76
1976/3
売上高
2,739億円
当期純利益
73.2億円
FY77
1977/3
売上高
3,168億円
当期純利益
103億円
米アボット社と提携
1975年に日本政府が製薬分野における資本自由化を実施したことで、欧米の大手製薬企業が日本市場へ本格的に参入する道が開かれた。外資系企業は日本法人の設立や合弁事業を通じて事業基盤を拡大し、国内市場の競争条件は急速に変化した。 この変化は国内市場を主戦場としてきた武田薬品にとっても無視できないものであった。価格競争や製品構成だけでなく、研究開発力やグローバルでの製品展開力が問われる局面に入り、国際競争を前提とした経営対応が必要となっていた。 1977年、武田薬品は米アボット社との提携を締結した。提携を通じて海外での販売ネットワークや開発知見にアクセスし、自社単独では補完しにくい領域の強化を狙った。この判断は単なる製品導入にとどまらず、国際的な製薬ビジネスに参画するための足場を築く意図を含んでいた。 資本自由化によって国際競争が避けられない以上、海外企業と協調しつつ経験を蓄積することが中長期的な成長に資すると判断された。1985年にはアボット社との合弁で米国現地法人が設立され、リュープリンの米国展開を支える基盤となった。この提携は武田薬品の海外展開における実務的な起点を形成した。
資本自由化への対応が後の米国事業基盤の起点を形成
スモン訴訟対応
薬害リスクを財務上で「確定処理」し経営の前提を整えた判断
FY78
1978/3
売上高
3,479億円
当期純利益
130億円
FY79
1979/3
売上高
3,886億円
当期純利益
199億円
FY80
1980/3
売上高
4,383億円
当期純利益
226億円
研究開発投資を強化。研究開発費年間200億円を計上
日本では1976年に「物質特許制度」が実施され、後発企業が製法を変えるという抜け道が塞がれ、実質的に創薬に対する特許の有効範囲が広がった。これを受けて、1970年代後半から武田薬品は医療用医薬品への創薬投資を強化。国内の競合他社が年間100億円の研究開発費を計上する中で、FY1979に武田薬品は2倍となる210億円を研究開発費として捻出して200億円を突破。業界内でも特に創薬重視の方向を鮮明にした
FY81
1981/3
売上高
4,505億円
当期純利益
224億円
FY82
1982/3
売上高
4,836億円
当期純利益
246億円
FY83
1983/3
売上高
5,194億円
当期純利益
262億円
FY84
1984/3
売上高
5,309億円
当期純利益
244億円
FY85
1985/3
売上高
5,438億円
当期純利益
222億円
FY86
1986/3
売上高
5,518億円
当期純利益
232億円
FY87
1987/3
売上高
5,714億円
当期純利益
284億円
FY88
1988/3
売上高
6,329億円
当期純利益
379億円
筑波研究所を新設
FY89
1989/3
売上高
6,867億円
当期純利益
388億円
リュープリンを発売
「撤退覚悟の集中」が日本発グローバル創薬の先例を生んだ構造
FY90
1990/3
売上高
6,943億円
当期純利益
368億円
FY91
1991/3
売上高
6,914億円
当期純利益
444億円
タケプロンを発売
プロトンポンプ阻害剤として開発し、欧州で販売開始。一般名は「ランソプラゾール」。米国ではリュープリン、欧州ではタケプロンが収益増大に寄与。武田薬品のグローバルの支えとなる基幹製品となった 大型新薬のタケプロンが米国を中心に売上を拡大。FY1995時点で国内95億円+米国1690億円+欧州ほか265億円の売上高を計上し、グローバルで1000億円を超える大型医薬品に育った
FY92
1992/3
売上高
7,096億円
当期純利益
338億円
研究所の組織改革を実施
FY93
1993/3
売上高
7,201億円
当期純利益
480億円
大型新薬・プログラフを発売
FY94
1994/3
売上高
7,278億円
当期純利益
476億円
FY95
1995/3
売上高
7,716億円
当期純利益
514億円
FY96
1996/3
売上高
8,013億円
当期純利益
598億円
カンパニー制を導入
1990年代に入ると新薬1品目あたりの研究開発費は200〜300億円規模へと膨張し、医薬品産業は資本集約型産業へ移行していた。医薬品市場はグローバルで一体化した競争環境へと変化し、日本市場だけで投資回収を行うことは現実的でなくなっていた。 一方、武田薬品は長年の多角化経営により、医薬事業に比べて付加価値の低い事業も製薬会社水準の人件費構造で抱え込む体制となっていた。この構造は新薬開発への巨額投資を継続する上で、固定費負担という形で経営の制約となっていた。 武田國男社長はローカル企業としての延命ではなく、世界市場で競争する研究開発型企業への転換を選択した。その中核施策として1996年にカンパニー制を導入し、各事業を独立採算単位として収益責任を明確化した。同時に新規採用の抑制により10年間で約3500人の人員削減方針を打ち出した。 カンパニー制は単なる管理制度ではなく、将来的な事業売却や再編を可能にする仕組みとして位置づけられていた。各事業の収益と投下資本を可視化することで、医薬品への集中投資に向けた事業ポートフォリオ再編の前提条件が整えられた。
事業売却の前提条件を整えた「制度としての選択と集中」
FY97
1997/3
売上高
8,388億円
当期純利益
713億円
プロプレスを発売
高血圧治療薬として発売。一般名は「カンデサルタン・シレキセチル」
アクトスが米国で承認
糖尿病治療薬である「アクトス」が米国で承認され販売開始。1999年には日本でも承認された。化合物の選定が1986年(AD-4833)、臨床試験の開始が1989年であり、約10年の開発期間を経て市場に投入。2000年代を通じて武田薬品の収益に貢献した大型新薬となった
FY98
1998/3
売上高
8,418億円
当期純利益
816億円
武田アメリカ研究開発センターを新設
FY99
1999/3
売上高
8,446億円
当期純利益
917億円
FY00
2000/3
売上高
9,231億円
当期純利益
1,196億円
FY01
2001/3
売上高
9,634億円
当期純利益
1,468億円
FY02
2002/3
売上高
10,050億円
当期純利益
2,356億円
FY03
2003/3
売上高
10,460億円
当期純利益
2,717億円
FY04
2004/3
売上高
10,864億円
当期純利益
2,852億円
FY05
2005/3
売上高
11,229億円
当期純利益
2,774億円
FY06
2006/3
売上高
12,122億円
当期純利益
3,132億円
divestiture
非注力事業の売却を開始
多角化事業の段階的切り離しが創薬集中投資の余力を生んだ構造
FY07
2007/3
売上高
13,051億円
当期純利益
3,358億円
FY08
2008/3
売上高
13,748億円
当期純利益
3,554億円
FY09
2009/3
売上高
15,383億円
当期純利益
2,343億円
acquisition
米ミレニアム社を買収
「時間を買う」発想の定着が巨額買収連鎖の起点を形成
FY10
2010/3
売上高
14,659億円
当期純利益
2,977億円
FY11
2011/3
売上高
14,193億円
当期純利益
2,478億円
湘南研究所を新設
FY12
2012/3
売上高
15,089億円
当期純利益
1,241億円
acquisition
ナイコメッド社を買収
弱点補強型の1兆円買収が企業価値向上に直結しなかった構造
FY13
2013/3
売上収益
15,570億円
(親)当期利益
1,485億円
FY14
2014/3
売上収益
16,916億円
(親)当期利益
1,066億円
FY15
2015/3
売上収益
17,778億円
(親)当期利益
-1,457億円
FY16
2016/3
売上収益
18,073億円
(親)当期利益
801億円
FY17
2017/3
売上収益
17,320億円
(親)当期利益
1,155億円
CEOにウェバー氏が就任
グローバル人材の内部不在が外国人CEO長期在任を構造的に規定
長期収載品を売却
ARIADを買収
米国の製薬メーカーARIAD社を5831億円で買収。希少疾患(白血病・肺がん・希少がん)向けの医療用医薬品の拡充を目論んだ。
和光純薬工業をで売却
富士フイルムHDに売却
FY18
2018/3
売上収益
17,705億円
(親)当期利益
1,868億円
FY19
2019/3
売上収益
20,972億円
(親)当期利益
1,351億円
acquisition
Shireを買収
6.2兆円が問うた「事業基盤拡張と企業価値」の乖離
FY20
2020/3
売上収益
32,911億円
(親)当期利益
442億円
FY21
2021/3
売上収益
31,978億円
(親)当期利益
3,760億円
大衆薬事業を売却
Shire買収によって悪化した財務体質を改善するために、非注力事業の大衆薬事業(アリナミンなど)を投資ファンドに売却。売却額は約2500億円
FY22
2022/3
売上収益
35,690億円
(親)当期利益
2,300億円
FY23
2023/3
売上収益
40,274億円
(親)当期利益
3,170億円
FY24
2024/3
売上収益
42,637億円
(親)当期利益
1,441億円
FY25
2025/3
売上収益
45,815億円
(親)当期利益
1,081億円
2026
1-12月
ジュリー・キムがCEO就任予定
  1. founding
    薬種商を創業
    「薬を流す企業」として130年持続した屋号と信用の仕組み
  2. 武田製薬所を新設

    1914年に第一次世界大戦が勃発すると、ドイツを中心とする欧州からの医薬品輸入は急速に滞った。当時の日本の医薬品市場は輸入依存度が高く、武田もまた薬種商・輸入商として海外供給に強く依存する事業構造にあった。輸入停止は一時的な需給問題ではなく、事業の前提条件そのものを揺るがす事態であった。 同時期、国内では医薬品の安定供給と国産化が政策的課題として浮上していた。1914年には武田研究部を設置し試験・分析機能を内製化していたが、研究成果を製品として供給する製造基盤は持っていなかった。研究と流通の間に製造という空白が存在していた。 1915年10月、武田は大阪に医薬品製造拠点として武田製薬所を新設した。輸入再開を待つのではなく自社で医薬品を製造する体制を構築する選択であった。この決断により武田は薬種商・輸入商という立場から、製造機能を持つ事業者へと踏み出すことになった。 製薬所の新設は前年に設置された武田研究部との連動を前提としていた。研究で得た知見を自社工場で製品化する体制を整えることで、開発から製造までを社内で完結させる道筋が描かれた。この判断は短期的な需給対応にとどまらず、流通業から製造業への事業構造の転換を意味していた。

    輸入途絶を契機とした「流通から製造へ」の不可逆転換
  3. 武田薬品工業に商号変更

    旧来の個人経営から株式会社に組織変更。1944年には武田薬品工業と小西薬品が合併。以後、武田薬品の経営トップは武田家が歴任したが、小西家も役員に就任して武田薬品の経営に携わった。このため、武田薬品の創業家には「武田家」と「小西家」という2つの系統が存在する。

  4. 東京証券取引所に株式上場
  5. 大衆薬アリナミンを発売
    広告と流通統制の組み合わせが生んだ大衆薬の競争優位
  6. 事業部制を導入

    製薬・医薬販売・食品・化学品・外国の5部署からなる組織体制に変更。医薬以外の多角事業にも注力

  7. 湘南工場を新設

    関東地区における生産を強化するため、神奈川県藤沢市に湘南工場を新設。アリナミン錠剤の主力工場上として稼働。1965年からは医療用医薬品(注射薬など)の製造を開始

  8. 大型新薬・リラシリンを開発

    ビタミン剤ブームの終焉を受けて、医療用医薬品の開発を強化して抗生物質を自社開発。1970年代の最盛期には年間10億円の売上を記録し、武田薬品工業の大型新薬となった。一方で、リラシリン以外の大型新薬の市場投入には苦戦し、海外からの導入品や、食品・化成品といった多角事業の収益が武田薬品工業を支えた。このため、1970年代を通じて武田薬品は「大型新薬がなかった」(1981/5投資月報)ことが利益率悪化の原因と言われ、経営に苦戦した。

  9. 小西新兵衛氏が社長就任

    5代目武田長兵衛氏(1943年社長就任)が70歳にて社長を退任。1944年に経営統合した小西薬品の創業家出身の小西新兵衛氏が社長就した。小西氏は社長就任時から海外展開を意識しており、当時の製薬メーカーでは珍しくグローバルな経営者であった

  10. 米アボット社と提携

    1975年に日本政府が製薬分野における資本自由化を実施したことで、欧米の大手製薬企業が日本市場へ本格的に参入する道が開かれた。外資系企業は日本法人の設立や合弁事業を通じて事業基盤を拡大し、国内市場の競争条件は急速に変化した。 この変化は国内市場を主戦場としてきた武田薬品にとっても無視できないものであった。価格競争や製品構成だけでなく、研究開発力やグローバルでの製品展開力が問われる局面に入り、国際競争を前提とした経営対応が必要となっていた。 1977年、武田薬品は米アボット社との提携を締結した。提携を通じて海外での販売ネットワークや開発知見にアクセスし、自社単独では補完しにくい領域の強化を狙った。この判断は単なる製品導入にとどまらず、国際的な製薬ビジネスに参画するための足場を築く意図を含んでいた。 資本自由化によって国際競争が避けられない以上、海外企業と協調しつつ経験を蓄積することが中長期的な成長に資すると判断された。1985年にはアボット社との合弁で米国現地法人が設立され、リュープリンの米国展開を支える基盤となった。この提携は武田薬品の海外展開における実務的な起点を形成した。

    資本自由化への対応が後の米国事業基盤の起点を形成
  11. スモン訴訟対応
    薬害リスクを財務上で「確定処理」し経営の前提を整えた判断
  12. 研究開発投資を強化。研究開発費年間200億円を計上

    日本では1976年に「物質特許制度」が実施され、後発企業が製法を変えるという抜け道が塞がれ、実質的に創薬に対する特許の有効範囲が広がった。これを受けて、1970年代後半から武田薬品は医療用医薬品への創薬投資を強化。国内の競合他社が年間100億円の研究開発費を計上する中で、FY1979に武田薬品は2倍となる210億円を研究開発費として捻出して200億円を突破。業界内でも特に創薬重視の方向を鮮明にした

  13. 筑波研究所を新設
  14. リュープリンを発売
    「撤退覚悟の集中」が日本発グローバル創薬の先例を生んだ構造
  15. タケプロンを発売

    プロトンポンプ阻害剤として開発し、欧州で販売開始。一般名は「ランソプラゾール」。米国ではリュープリン、欧州ではタケプロンが収益増大に寄与。武田薬品のグローバルの支えとなる基幹製品となった 大型新薬のタケプロンが米国を中心に売上を拡大。FY1995時点で国内95億円+米国1690億円+欧州ほか265億円の売上高を計上し、グローバルで1000億円を超える大型医薬品に育った

  16. 研究所の組織改革を実施
  17. 大型新薬・プログラフを発売
  18. カンパニー制を導入

    1990年代に入ると新薬1品目あたりの研究開発費は200〜300億円規模へと膨張し、医薬品産業は資本集約型産業へ移行していた。医薬品市場はグローバルで一体化した競争環境へと変化し、日本市場だけで投資回収を行うことは現実的でなくなっていた。 一方、武田薬品は長年の多角化経営により、医薬事業に比べて付加価値の低い事業も製薬会社水準の人件費構造で抱え込む体制となっていた。この構造は新薬開発への巨額投資を継続する上で、固定費負担という形で経営の制約となっていた。 武田國男社長はローカル企業としての延命ではなく、世界市場で競争する研究開発型企業への転換を選択した。その中核施策として1996年にカンパニー制を導入し、各事業を独立採算単位として収益責任を明確化した。同時に新規採用の抑制により10年間で約3500人の人員削減方針を打ち出した。 カンパニー制は単なる管理制度ではなく、将来的な事業売却や再編を可能にする仕組みとして位置づけられていた。各事業の収益と投下資本を可視化することで、医薬品への集中投資に向けた事業ポートフォリオ再編の前提条件が整えられた。

    事業売却の前提条件を整えた「制度としての選択と集中」
  19. プロプレスを発売

    高血圧治療薬として発売。一般名は「カンデサルタン・シレキセチル」

  20. アクトスが米国で承認

    糖尿病治療薬である「アクトス」が米国で承認され販売開始。1999年には日本でも承認された。化合物の選定が1986年(AD-4833)、臨床試験の開始が1989年であり、約10年の開発期間を経て市場に投入。2000年代を通じて武田薬品の収益に貢献した大型新薬となった

  21. 武田アメリカ研究開発センターを新設
  22. divestiture
    非注力事業の売却を開始
    多角化事業の段階的切り離しが創薬集中投資の余力を生んだ構造
  23. acquisition
    米ミレニアム社を買収
    「時間を買う」発想の定着が巨額買収連鎖の起点を形成
  24. 湘南研究所を新設
  25. acquisition
    ナイコメッド社を買収
    弱点補強型の1兆円買収が企業価値向上に直結しなかった構造
  26. CEOにウェバー氏が就任
    グローバル人材の内部不在が外国人CEO長期在任を構造的に規定
  27. 長期収載品を売却
  28. ARIADを買収

    米国の製薬メーカーARIAD社を5831億円で買収。希少疾患(白血病・肺がん・希少がん)向けの医療用医薬品の拡充を目論んだ。

  29. 和光純薬工業をで売却

    富士フイルムHDに売却

  30. acquisition
    Shireを買収
    6.2兆円が問うた「事業基盤拡張と企業価値」の乖離
  31. 大衆薬事業を売却

    Shire買収によって悪化した財務体質を改善するために、非注力事業の大衆薬事業(アリナミンなど)を投資ファンドに売却。売却額は約2500億円

  32. ジュリー・キムがCEO就任予定

参考文献・出所

有価証券報告書
Globis.jp
日経ビジネス