沿革年表 1947〜2011年における重要度別の出来事(合計36件)

年月区分社長/CEO出来事年度売上高純利益
重要事項会社設立
三洋電機製作所を創業
歴史的意義yutaka sugiura
井植歳男は松下電器の創業期を約30年にわたり専務として支えた人物だが、GHQの公職追放により松下を去らざるを得なかった。注目すべきは、松下電器から譲渡された北条工場と自転車ランプの製造権という「のれん分け」的な資産が独立の足がかりとなった点である。後発17番目のランプメーカーが4年でシェア70%を奪取できた背景には、松下電器で培った大量生産とコストダウンの経営手法があった。創業時から社名に三洋(太平洋・大西洋・インド洋に由来)を冠して海外志向を明示したことも、国内で松下と正面衝突を避ける戦略的判断であった。
1947
1-12月
設備投資
北條工場を新設
創業翌月に北條工場を新設した。守口本社に続く生産拠点を立ち上げ、戦後再出発期の量産体制構築を進めた。
組織再編
三洋電機株式会社を設立
個人経営の三洋電機製作所を改組し、資本金2千万円で三洋電機株式会社を設立した。法人化により増資・資金調達余地を広げ、本格的な家電メーカーへ移行した。
FY50
1950/11
売上高
2.97億円
重要事項業務提携
ラジオの生産開始(国内初のプラスチックラジオ)
歴史的意義yutaka sugiura
三洋電機がラジオに参入した1951年は中小メーカーが乱立する市場であり、後発の三洋電機には技術的な優位性がなかった。そこで樹脂メーカーの積水化学と協業し、国内初のプラスチック製キャビネットを採用した「52型」を投入することで外装デザインの差別化に成功した。さらに1957年にはWEとの技術提携でトランジスタラジオに参入し、米国向けOEMで輸出を拡大した。自社技術ではなく外部提携を活用して市場参入する手法は、後の三洋電機の事業展開に共通するパターンとなる。
FY51
1951/11
売上高
8.97億円
FY52
1952/11
売上高
27.4億円
重要事項
噴流式洗濯機の製造を開始
歴史的意義yutaka sugiura
三洋電機が洗濯機市場を席巻できた最大の要因は、競合が英フーバー社の特許を恐れて手を出さなかった噴流式に果敢に踏み込んだ点にある。技術者が「国内では特許が成立しない」と判断したことで、攪拌式から噴流式への方針転換が可能となった。さらに価格を競合の約半額の2.8万円に設定し、月産30台から1年余りで月産1万台へと急速にスケールさせた量産力も見逃せない。日本の家電業界における噴流式の標準化は、三洋電機の技術的判断と量産投資の掛け合わせによって実現したものであった。
FY53
1953/11
売上高
41.5億円
大阪証券取引所に株式上場
業績好調により株式上場を達成。1953年11期における半期売上高は24億円。売上構成比率は発電ランプ43%及びラジオ38%。家電事業はまだ発展途上にあった。
FY54
1954/11
株式上場
東京証券取引所に上場
大阪上場の半年後に東京証券取引所に上場した。全国規模の資本市場でのプレゼンスを確立し、家電量産期の設備投資資金調達基盤を整えた。
FY55
1955/11
売上高
43.7億円
FY56
1956/11
売上高
107億円
FY57
1957/11
売上高
129億円
当期純利益
12.8億円
重要事項
ストライキが発生・労使関係が悪化
歴史的意義yutaka sugiura
創業から10年で急成長を遂げた三洋電機だが、工場の従業員管理が追いつかず深刻な労使対立を招いた。30億円の機会損失と10億円の直接損害は、当時の三洋電機にとって致命的な規模であった。興味深いのは、この労使問題が東京三洋電機の設立という経営判断に直結した点である。群馬の3割安い賃金水準を活かすために別法人を設立するという手法は、労使問題の根本解決ではなく地理的な回避策であり、後年の同族経営における意思決定の特徴を先取りしている。
FY58
1958/11
売上高
174億円
当期純利益
16.8億円
東京三洋電機を設立
労働組合との関係を断ち、首都圏での生産販売を強化するため、三洋電機とは別法人として「東京三洋電機」を設立した。群馬県大泉町の旧中島飛行機小泉製作所跡地を取得し、敷地132万平方メートルの大規模生産拠点として東京工場を新設した。三洋電機は労組と全国統一賃金で合意していたが、大阪と群馬では群馬の方が3割安く、人件費削減の観点から法人を分ける道を選択した。
FY59
1959/11
売上高
312億円
当期純利益
32.3億円
海外進出
三洋電機(香港)を設立
三洋電機貿易と並行して三洋電機(香港)有限公司を設立した。アジアでの輸出拠点を整え、後の北米・欧州輸出ネットワークの起点となった。
FY60
1960/11
売上高
417億円
当期純利益
40.7億円
米国にSanyo Electric Incを設立
米国に現地法人を設立し、トランジスタラジオの輸出を本格化。1958年には米チャネルマスター社と販売契約を締結し、三洋電機はOEMによりトランジスタの供給を開始した。この結果、1961年に三洋電機はトランジスタラジオの輸出量でトップを記録した。ただし、三洋電機はOEMによる北米輸出が主体であり、先発企業で独自ブランドで進出したSONYと比べて、収益性は低かったと推定される。
FY61
1961/11
売上高
491億円
当期純利益
39.3億円
FY62
1962/11
売上高
630億円
当期純利益
51.4億円
FY63
1963/11
売上高
675億円
当期純利益
46.1億円
国内の地方に生産拠点
FY64
1964/11
売上高
741億円
当期純利益
31.7億円
カラーテレビへの量産投資
歴史的意義yutaka sugiura
三洋電機はカラーテレビの北米輸出によって半期売上高を354億円から1126億円へと4年で3倍に伸ばしたが、この急成長は日本の家電各社が北米市場に殺到したことで貿易摩擦を招く結果となった。三洋電機に限らず松下・東芝・ソニー・日立・シャープが同じ市場で競い合った構図は、日本の家電産業が輸出主導で成長した1960年代の典型的なパターンである。最終的に30%減産を余儀なくされたことは、日本国内で生産して北米に輸出するビジネスモデルの限界を示し、後の北米現地生産への転換を促す直接の契機となった。
FY65
1965/11
売上高
732億円
当期純利益
22.1億円
鳥取三洋電機を設立
鳥取三洋電機(現三洋電機コンシューマエレクトロニクス)を設立した。地方分散型生産体制の中核拠点として、後にTFT液晶量産を担う主要拠点へ発展した。
FY66
1966/11
売上高
928億円
当期純利益
33.7億円
FY67
1967/11
売上高
1,290億円
当期純利益
51.6億円
FY68
1968/11
売上高
1,723億円
当期純利益
78.1億円
海外進出
三洋丸紅(英国)を設立
三洋丸紅(英国)(現三洋ヨーロッパ)を設立した。欧州市場での販売拠点を整え、北米偏重から欧州含むグローバル展開へ広げた。
FY69
1969/11
売上高
2,151億円
当期純利益
87.9億円
創業者の井植歳男氏が逝去・井植家による同族経営を持続
FY70
1970/11
売上高
2,417億円
当期純利益
76億円
円高ドル安で業績悪化
1970年12月のニクソンショックにより円高ドル安が進行。カラーテレビの輸出に頼っていた三洋電機の業績が低迷
FY71
1971/11
売上高
2,477億円
当期純利益
49億円
海外進出
三洋電子(シンガポール)を設立
三洋電子(シンガポール)(現三洋アジア)を設立した。東南アジア生産・販売の地域統括拠点として、後の中国・ASEAN展開を支えた。
FY72
1972/11
売上高
2,630億円
当期純利益
54億円
FY73
1973/11
売上高
3,118億円
当期純利益
63.4億円
FY74
1974/11
売上高
3,588億円
当期純利益
57.4億円
FY75
1975/11
売上高
3,502.08億円
当期純利益
57.8億円
重要事項企業買収
Sanyo manufacturing Corporationを設立(TVの北米現地生産)
この買収の本質は、貿易摩擦への対応というよりも、最大顧客シアーズとの取引関係の維持にあった。ウォーイック社の再建依頼を断れば北米向けテレビの販路を失う恐れがあり、三洋電機は技術支援のつもりが交渉の過程で31.7億円の資産買取に発展した。結果として年産96万台で松下・ソニーを上回る現地生産トップに立ち、従業員を400名から1800名に増やして州政府から表彰されるまでに至った。顧客の依頼に応じた受動的な判断が、日本企業の北米現地生産の先駆的モデルを生んだ点が興味深い。
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FY76
1976/11
売上高
4,675.88億円
当期純利益
92.59億円
FY77
1977/11
売上高
5,321.23億円
当期純利益
109.29億円
FY78
1978/11
売上高
5,275.94億円
当期純利益
113.46億円
FY79
1979/11
売上高
5,840.56億円
当期純利益
151.26億円
FY80
1980/11
売上高
6,805.9億円
当期純利益
211.52億円
FY81
1981/11
売上高
7,524.03億円
当期純利益
239.47億円
フィリップス社の英国テレビ工場を取得
FY82
1982/11
売上高
7,614.18億円
当期純利益
246.9億円
FY83
1983/11
売上高
8,197.66億円
当期純利益
228.66億円
FY84
1984/11
売上高
9,917.08億円
当期純利益
275.36億円
組織再編
東京三洋電機を吸収合併
労組分離を目的に分社化していた東京三洋電機を吸収合併し本社に統合した。全国統一賃金体制下で別法人を維持する経済合理性が低下し、組織の一体運営に回帰した。
FY87
1987/11
重要事項
二次電池に傾斜投資を開始
累計660億円を投じた二次電池事業は三洋電機の全社利益の約80%を占めるまでに成長し、家電メーカーとしては異例の収益構造を形成した。裏を返せば、家電事業の収益力が著しく低下していたことを意味する。二次電池への傾斜投資は技術力の蓄積という点では成功だったが、特定事業への依存度の高さは経営リスクでもあった。後年のパナソニックによる買収において、三洋電機の電池技術が最大の買収動機となったことを踏まえると、この時期の投資判断が三洋電機の最終的な企業価値を決定づけたといえる。
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FY90
1990/11
社内分社制度を導入(新規事業の立案)
家電に変調した事業構成を見直し、新事業開発のために社内分社制を導入(※実際に分社するわけではなく事業部制の延長)。全社研究プロジェクトを事業部横断で組成する体制をとった。また付加価値が高くてシェアを確保できる「トップステージ商品」に投資を集中する方針を示した
FY92
1992/11
売上高
15,657億円
当期純利益
-12億円
FY93
1993/11
売上高
15,568億円
当期純利益
-15億円
FY94
1994/11
売上高
16,936億円
当期純利益
113億円
FY95
1995/11
売上高
17,422億円
当期純利益
155億円
組織再編
決算期を11月から3月に変更
決算期を11月30日から3月31日に変更した。国内主要メーカーの3月決算に揃えることで連結比較性を高めた。
FY96
1996/11
売上高
5,246億円
当期純利益
-37億円
新潟三洋電機で半導体量産
鳥取三洋電機で液晶パネル量産
TFT液晶工場を新設。液晶パネルへの集中投資を開始し、2003年までに総額2000億円を投資
FY97
1997/11
売上高
18,462億円
当期純利益
176億円
デジタルカメラに本格参入
普及しつつあったコンパクトデジタルカメラに参入。三洋ブランドとOEMの両輪で展開した結果、2001年に生産シェアで世界1位(40%)を確保
FY98
1998/11
売上高
19,246億円
当期純利益
123億円
FY99
1999/11
売上高
18,824億円
当期純利益
-258億円
FY00
2000/11
売上高
20,142億円
当期純利益
216億円
FY01
2001/11
売上高
22,409億円
当期純利益
422億円
米イーストマンコダック社と有機ELの合弁設立。320億円を投資
FY02
2002/11
売上高
20,247億円
当期純利益
13億円
重要事項業務提携
中国ハイアール社と提携
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事業売却
三洋電機自販機を富士電機に譲渡
三洋電機自販機を富士電機に譲渡した。中核事業以外の非家電領域から段階的に撤収する選択と集中の一環として実施した。
最終赤字に転落
半導体事業について、ITバブル崩壊による業績悪化に加えて、新潟県中越地震の発生で半導体工場が被災。特別損失を計上して全社業績で最終赤字に転落
FY03
2003/11
売上高
21,825億円
当期純利益
-616億円
井植敏雅
FY04
2004/11
売上高
25,080億円
当期純利益
134億円
井植敏雅
野中ともよ氏が代表取締役会長に就任
元NHKキャスターの野中ともよ氏が三洋電機の社長に就任(2002年に三洋電機の社外取締役に就任)。異例の社長人事として注目を浴びたが、不祥事により2007年に野中氏は代表取締役を辞任した。
FY05
2005/11
売上高
24,846億円
当期純利益
-1,715億円
重要事項
佐野精一郎
第三者割当増資
ゴールドマンサックス、大和証券SMBC、三井住友銀行が三洋電機の増資(第三者割当増資)を引き受けることを決定。三洋電機は3000億円を調達
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FY06
2006/11
売上高
23,970億円
当期純利益
-2,056億円
重要事項
財務状況が悪化・疑義注記を記載
三洋電機の経営危機は単一事業の失敗ではなく、液晶・太陽電池・二次電池・半導体・デジカメという複数の巨額投資事業が同時に競争劣位に陥った構造的な問題であった。液晶だけで2000億円を投じながらシャープや韓国勢に押され、半導体は新潟県中越地震で被災するという不運も重なった。FY2005に特別損失3039億円を計上して自己資本比率が18.7%まで低下し、監査法人がゴーイングコンサーン注記を付す事態に至った。経営資源の全方位分散は、個別技術では優れていても事業規模で勝てないという三洋電機の宿命的な課題を露呈した。
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佐野精一郎
FY07
2007/11
売上高
19,499億円
当期純利益
-453億円
構造改革
佐野精一郎
携帯電話事業を京セラに譲渡
鳥取三洋電機の事業を再編し、生活家電・車載機器事業を分割・承継させた。同時に携帯電話事業を京セラに譲渡し、二次電池などへの選択集中を進めた。
FY08
2008/11
売上高
19,181億円
当期純利益
287億円
佐野精一郎
FY09
2009/11
売上高
17,706億円
当期純利益
-932億円
佐野精一郎
FY10
2010/11
売上高
15,946億円
当期純利益
-487億円
重要事項
パナソニックが三洋電機を完全子会社化
パナソニックが三洋電機を救済する形で完全子会社化。2011年に三洋電機は上場を廃止した。
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FY11
2011/11
売上高
14,894億円
当期純利益
-351億円
  1. 会社設立
    三洋電機製作所を創業
    井植歳男は松下電器の創業期を約30年にわたり専務として支えた人物だが、GHQの公職追放により松下を去らざるを得なかった。注目すべきは、松下電器から譲渡された北条工場と自転車ランプの製造権という「のれん分け」的な資産が独立の足がかりとなった点である。後発17番目のランプメーカーが4年でシェア70%を奪取できた背景には、松下電器で培った大量生産とコストダウンの経営手法があった。創業時から社名に三洋(太平洋・大西洋・インド洋に由来)を冠して海外志向を明示したことも、国内で松下と正面衝突を避ける戦略的判断であった。
  2. 設備投資
    北條工場を新設

    創業翌月に北條工場を新設した。守口本社に続く生産拠点を立ち上げ、戦後再出発期の量産体制構築を進めた。

  3. 組織再編
    三洋電機株式会社を設立

    個人経営の三洋電機製作所を改組し、資本金2千万円で三洋電機株式会社を設立した。法人化により増資・資金調達余地を広げ、本格的な家電メーカーへ移行した。

  4. 業務提携
    ラジオの生産開始(国内初のプラスチックラジオ)
    三洋電機がラジオに参入した1951年は中小メーカーが乱立する市場であり、後発の三洋電機には技術的な優位性がなかった。そこで樹脂メーカーの積水化学と協業し、国内初のプラスチック製キャビネットを採用した「52型」を投入することで外装デザインの差別化に成功した。さらに1957年にはWEとの技術提携でトランジスタラジオに参入し、米国向けOEMで輸出を拡大した。自社技術ではなく外部提携を活用して市場参入する手法は、後の三洋電機の事業展開に共通するパターンとなる。
  5. 噴流式洗濯機の製造を開始
    三洋電機が洗濯機市場を席巻できた最大の要因は、競合が英フーバー社の特許を恐れて手を出さなかった噴流式に果敢に踏み込んだ点にある。技術者が「国内では特許が成立しない」と判断したことで、攪拌式から噴流式への方針転換が可能となった。さらに価格を競合の約半額の2.8万円に設定し、月産30台から1年余りで月産1万台へと急速にスケールさせた量産力も見逃せない。日本の家電業界における噴流式の標準化は、三洋電機の技術的判断と量産投資の掛け合わせによって実現したものであった。
  6. 大阪証券取引所に株式上場

    業績好調により株式上場を達成。1953年11期における半期売上高は24億円。売上構成比率は発電ランプ43%及びラジオ38%。家電事業はまだ発展途上にあった。

  7. 株式上場
    東京証券取引所に上場

    大阪上場の半年後に東京証券取引所に上場した。全国規模の資本市場でのプレゼンスを確立し、家電量産期の設備投資資金調達基盤を整えた。

  8. ストライキが発生・労使関係が悪化
    創業から10年で急成長を遂げた三洋電機だが、工場の従業員管理が追いつかず深刻な労使対立を招いた。30億円の機会損失と10億円の直接損害は、当時の三洋電機にとって致命的な規模であった。興味深いのは、この労使問題が東京三洋電機の設立という経営判断に直結した点である。群馬の3割安い賃金水準を活かすために別法人を設立するという手法は、労使問題の根本解決ではなく地理的な回避策であり、後年の同族経営における意思決定の特徴を先取りしている。
  9. 東京三洋電機を設立

    労働組合との関係を断ち、首都圏での生産販売を強化するため、三洋電機とは別法人として「東京三洋電機」を設立した。群馬県大泉町の旧中島飛行機小泉製作所跡地を取得し、敷地132万平方メートルの大規模生産拠点として東京工場を新設した。三洋電機は労組と全国統一賃金で合意していたが、大阪と群馬では群馬の方が3割安く、人件費削減の観点から法人を分ける道を選択した。

  10. 海外進出
    三洋電機(香港)を設立

    三洋電機貿易と並行して三洋電機(香港)有限公司を設立した。アジアでの輸出拠点を整え、後の北米・欧州輸出ネットワークの起点となった。

  11. 米国にSanyo Electric Incを設立

    米国に現地法人を設立し、トランジスタラジオの輸出を本格化。1958年には米チャネルマスター社と販売契約を締結し、三洋電機はOEMによりトランジスタの供給を開始した。この結果、1961年に三洋電機はトランジスタラジオの輸出量でトップを記録した。ただし、三洋電機はOEMによる北米輸出が主体であり、先発企業で独自ブランドで進出したSONYと比べて、収益性は低かったと推定される。

  12. 国内の地方に生産拠点
  13. カラーテレビへの量産投資
    三洋電機はカラーテレビの北米輸出によって半期売上高を354億円から1126億円へと4年で3倍に伸ばしたが、この急成長は日本の家電各社が北米市場に殺到したことで貿易摩擦を招く結果となった。三洋電機に限らず松下・東芝・ソニー・日立・シャープが同じ市場で競い合った構図は、日本の家電産業が輸出主導で成長した1960年代の典型的なパターンである。最終的に30%減産を余儀なくされたことは、日本国内で生産して北米に輸出するビジネスモデルの限界を示し、後の北米現地生産への転換を促す直接の契機となった。
  14. 鳥取三洋電機を設立

    鳥取三洋電機(現三洋電機コンシューマエレクトロニクス)を設立した。地方分散型生産体制の中核拠点として、後にTFT液晶量産を担う主要拠点へ発展した。

  15. 海外進出
    三洋丸紅(英国)を設立

    三洋丸紅(英国)(現三洋ヨーロッパ)を設立した。欧州市場での販売拠点を整え、北米偏重から欧州含むグローバル展開へ広げた。

  16. 創業者の井植歳男氏が逝去・井植家による同族経営を持続
  17. 円高ドル安で業績悪化

    1970年12月のニクソンショックにより円高ドル安が進行。カラーテレビの輸出に頼っていた三洋電機の業績が低迷

  18. 海外進出
    三洋電子(シンガポール)を設立

    三洋電子(シンガポール)(現三洋アジア)を設立した。東南アジア生産・販売の地域統括拠点として、後の中国・ASEAN展開を支えた。

  19. フィリップス社の英国テレビ工場を取得
  20. 組織再編
    東京三洋電機を吸収合併

    労組分離を目的に分社化していた東京三洋電機を吸収合併し本社に統合した。全国統一賃金体制下で別法人を維持する経済合理性が低下し、組織の一体運営に回帰した。

  21. 社内分社制度を導入(新規事業の立案)

    家電に変調した事業構成を見直し、新事業開発のために社内分社制を導入(※実際に分社するわけではなく事業部制の延長)。全社研究プロジェクトを事業部横断で組成する体制をとった。また付加価値が高くてシェアを確保できる「トップステージ商品」に投資を集中する方針を示した

  22. 組織再編
    決算期を11月から3月に変更

    決算期を11月30日から3月31日に変更した。国内主要メーカーの3月決算に揃えることで連結比較性を高めた。

  23. 新潟三洋電機で半導体量産
  24. 鳥取三洋電機で液晶パネル量産

    TFT液晶工場を新設。液晶パネルへの集中投資を開始し、2003年までに総額2000億円を投資

  25. デジタルカメラに本格参入

    普及しつつあったコンパクトデジタルカメラに参入。三洋ブランドとOEMの両輪で展開した結果、2001年に生産シェアで世界1位(40%)を確保

  26. 米イーストマンコダック社と有機ELの合弁設立。320億円を投資
  27. 事業売却
    三洋電機自販機を富士電機に譲渡

    三洋電機自販機を富士電機に譲渡した。中核事業以外の非家電領域から段階的に撤収する選択と集中の一環として実施した。

  28. 最終赤字に転落

    半導体事業について、ITバブル崩壊による業績悪化に加えて、新潟県中越地震の発生で半導体工場が被災。特別損失を計上して全社業績で最終赤字に転落

  29. 野中ともよ氏が代表取締役会長に就任

    元NHKキャスターの野中ともよ氏が三洋電機の社長に就任(2002年に三洋電機の社外取締役に就任)。異例の社長人事として注目を浴びたが、不祥事により2007年に野中氏は代表取締役を辞任した。

  30. 構造改革
    携帯電話事業を京セラに譲渡

    鳥取三洋電機の事業を再編し、生活家電・車載機器事業を分割・承継させた。同時に携帯電話事業を京セラに譲渡し、二次電池などへの選択集中を進めた。