靴のマルトミの沿革(1950〜2000年)
靴のマルトミの創業から現在までの主要な出来事・経営判断・組織変化を年月順に一覧できる沿革(社史年表)ページです。 各年の売上高・純利益などの業績推移と、歴史的意義の解説をあわせて掲載しています。 社史・報道資料などの公開情報をもとに重要事項を判断の上、作成しています。
| 年度 | 売上高 | 純利益 | 年月 | 区分 | 出来事 | 歴史的意義 |
|---|---|---|---|---|---|---|
1950 1-12月 | 丸富靴店を開業 | 既製靴の価格破壊 | ||||
1957 1-12月 | 合資会社靴のマルトミを設立 | |||||
名駅地下街サンロード店を開店 靴のマルトミは名古屋市内を中心に靴のチェーン展開を開始。名古屋駅の地下街を始め、栄などの主要繁華街に4店舗を新設した。 | ||||||
1965 1-12月 | 掛け売りを禁止 | |||||
従業員の不正が発覚 靴のマルトミでは4店舗で従業員の不正が発覚。創業者の冨永光行は不正を働いた従業員を全員解雇し、穴埋めのために新規採用を実施。新規採用した社員については、創業者の冨永光行が社員と寝食を共にすることで「冨永イズム」という商売の精神を叩き込んだという。 | ||||||
1971 1-12月 | 名駅西エスカ店を開店 | |||||
1973 1-12月 | 株式会社靴のマルトミを設立 業容を拡大するために法人組織に改組。名古屋市内を中心に店舗網を拡大 | |||||
1975 1-12月 | 郊外店にシフト 靴のマルトミは名古屋市内の商店街や地下街を中心に100店舗を展開していたが、都心部における路面電車の廃止による繁華街の衰退や、ロードサイドの発展による郊外商圏の拡大を受けて、全100店のうち60店を閉店し、郊外店を主軸に置く方針を決めた。 | |||||
1980 1-12月 | 靴流通センターを全国展開 | |||||
FY83 1983/2 | 売上高 121億円 | |||||
FY84 1984/2 | 売上高 160億円 | 全店舗にオンラインシステムを導入 | ||||
FY85 1985/2 | 売上高 270億円 | 郊外おもちゃ専門店「BANBAN」の展開開始 | ロードサイドの出店ノウハウを移転 | |||
FY86 1986/2 | 売上高 440億円 | 国内シェアNo.1 靴販売金額で国内シェア1位(4.47%)を確保。2位のチヨダ(シェア4.25%)と接戦 | ||||
FY87 1987/2 | 売上高 650億円 | 株式上場を目標設定 | ||||
オーナーシステムを採用 靴のマルトミは名古屋を中心に店舗網を拡大し、路面店を軸としたロードサイドへの出店を進めていた。1980年代を通じた店舗数の増加により売場は拡大したが、運営は本社主導で統一され、仕入れや価格設定、人員配置などの判断は中央に集約されていた。
この体制では、立地条件や顧客層の違いが十分に反映されにくく、現場での工夫や改善が収益に直結しにくい構造が生じていた。販売現場には経験や能力を持つ社員が存在していたものの、それを引き出す仕組みは限定的であった。
こうした課題に対し、1987年に靴のマルトミは店舗運営の単位を本社から店舗へと移し、社員が実質的に経営責任を負うオーナーシステムを導入した。店舗責任者は仕入れや販売方針を自ら決定し、収益管理も店舗単位で行う仕組みとされた。
本社は売上総利益の一定割合を受け取る一方、残余の利益は店舗側の裁量で活用できる設計とし、独立採算に近い関係を構築した。制度開始時には多数の社員が応募し、全店舗の大半でこの仕組みが採用され、1990年時点で全店舗(964店)のうち615店がオーナー制度の店舗として運営された。 | ||||||
FY88 1988/2 | 売上高 820億円 | 全店舗にPOS導入を決定 | ||||
FY89 1989/2 | 売上高 767億円 | 当期純利益 8.9億円 | ||||
FY90 1990/2 | 売上高 889億円 | 当期純利益 11.7億円 | 名古屋証券取引所に株式上場 | |||
FY91 1991/2 | 売上高 1,064億円 | 当期純利益 12.6億円 | ||||
FY92 1992/2 | 売上高 1,300億円 | 当期純利益 20.5億円 | ||||
FY93 1993/2 | 売上高 1,547億円 | 当期純利益 28.5億円 | 1700店舗突破 1993年に靴のマルトミは1700店舗を突破し、過去最高となる経常利益57億円を達成した。 | |||
FY94 1994/2 | 売上高 1,703億円 | 当期純利益 9.4億円 | 中国に現地法人を合弁設立 中国において靴のチェーン展開を決定。現地企業との合弁で現地法人を設立して、1994年に一号店を北京に出店。 | |||
| divestiture | 180店舗を閉鎖 | 規制緩和で競争劣位へ | ||||
17期ぶりの減益 | ||||||
FY95 1995/2 | 売上高 1,680億円 | 当期純利益 3.1億円 | BANBANを268店展開 | |||
FY96 1996/2 | 売上高 1,717億円 | 当期純利益 4.6億円 | ||||
FY97 1997/2 | 売上高 1,702億円 | 当期純利益 1.2億円 | ||||
FY98 1998/2 | 売上高 1,561億円 | 当期純利益 -5億円 | 最終赤字転落 | |||
FY99 1999/2 | 売上高 1,380億円 | 当期純利益 -29.7億円 | ||||
FY00 2000/2 | 売上高 1,211億円 | 当期純利益 -87.3億円 | crisis | 民事再生法の適用申請 | 上場企業として倒産 |
- 丸富靴店を開業既製靴の価格破壊
- 合資会社靴のマルトミを設立
- 名駅地下街サンロード店を開店
靴のマルトミは名古屋市内を中心に靴のチェーン展開を開始。名古屋駅の地下街を始め、栄などの主要繁華街に4店舗を新設した。
- 掛け売りを禁止
- 従業員の不正が発覚
靴のマルトミでは4店舗で従業員の不正が発覚。創業者の冨永光行は不正を働いた従業員を全員解雇し、穴埋めのために新規採用を実施。新規採用した社員については、創業者の冨永光行が社員と寝食を共にすることで「冨永イズム」という商売の精神を叩き込んだという。
- 名駅西エスカ店を開店
- 株式会社靴のマルトミを設立
業容を拡大するために法人組織に改組。名古屋市内を中心に店舗網を拡大
- 郊外店にシフト
靴のマルトミは名古屋市内の商店街や地下街を中心に100店舗を展開していたが、都心部における路面電車の廃止による繁華街の衰退や、ロードサイドの発展による郊外商圏の拡大を受けて、全100店のうち60店を閉店し、郊外店を主軸に置く方針を決めた。
- 靴流通センターを全国展開
- 全店舗にオンラインシステムを導入
- 郊外おもちゃ専門店「BANBAN」の展開開始ロードサイドの出店ノウハウを移転
- 国内シェアNo.1
靴販売金額で国内シェア1位(4.47%)を確保。2位のチヨダ(シェア4.25%)と接戦
- 株式上場を目標設定
- オーナーシステムを採用
靴のマルトミは名古屋を中心に店舗網を拡大し、路面店を軸としたロードサイドへの出店を進めていた。1980年代を通じた店舗数の増加により売場は拡大したが、運営は本社主導で統一され、仕入れや価格設定、人員配置などの判断は中央に集約されていた。 この体制では、立地条件や顧客層の違いが十分に反映されにくく、現場での工夫や改善が収益に直結しにくい構造が生じていた。販売現場には経験や能力を持つ社員が存在していたものの、それを引き出す仕組みは限定的であった。 こうした課題に対し、1987年に靴のマルトミは店舗運営の単位を本社から店舗へと移し、社員が実質的に経営責任を負うオーナーシステムを導入した。店舗責任者は仕入れや販売方針を自ら決定し、収益管理も店舗単位で行う仕組みとされた。 本社は売上総利益の一定割合を受け取る一方、残余の利益は店舗側の裁量で活用できる設計とし、独立採算に近い関係を構築した。制度開始時には多数の社員が応募し、全店舗の大半でこの仕組みが採用され、1990年時点で全店舗(964店)のうち615店がオーナー制度の店舗として運営された。
- 全店舗にPOS導入を決定
- 名古屋証券取引所に株式上場
- 1700店舗突破
1993年に靴のマルトミは1700店舗を突破し、過去最高となる経常利益57億円を達成した。
- 中国に現地法人を合弁設立
中国において靴のチェーン展開を決定。現地企業との合弁で現地法人を設立して、1994年に一号店を北京に出店。
- 180店舗を閉鎖規制緩和で競争劣位へ
- 17期ぶりの減益
- BANBANを268店展開
- 最終赤字転落
- 民事再生法の適用申請上場企業として倒産