沿革年表 1946〜2026年における重要度別の出来事(合計43件)

年月区分社長/CEO出来事年度売上高純利益
重要事項会社設立
本田技術研究所を個人創業
歴史的意義yutaka sugiura
本田宗一郎は東海精機の株式を豊田自動織機に売却し、トヨタ系部品メーカーの地位を自ら手放した。終戦直後の不確実な環境下での独立判断は、系列内での安定よりも自前の製品開発を優先する意思の表明であった。この選択がなければホンダはトヨタの下請け企業として存続した可能性があり、二輪車および四輪車の完成品メーカーとしての発展経路は生まれなかった。系列に留まる安定と独立の自由度を天秤にかけた創業時の判断が、ホンダの事業構造の原型を規定した。
1946
1-12月
本田技研工業株式会社を設立
自転車向けエンジンおよび二輪車への本格参入のため、株式会社として「本田技研工業」を設立。本田宗一郎氏が社長に就任
1948
1-12月
藤沢武夫氏が参画
歴史的意義yutaka sugiura
ホンダの創業期において本田宗一郎は技術開発に秀でていたが、販売代金の回収や資金管理には手が回らなかった。藤沢武夫の参画により技術と経営の分業が成立したことで、本田宗一郎は製品開発に専念できる環境が整った。この分業体制は1973年に両者が同時退任するまで25年間にわたり機能し、ホンダの組織構造の原型を形成した。創業者の技術力だけでは事業は拡大しないという命題に対する一つの回答であった。
1949
1-12月
二輪車の製造を開始
ドリーム号の生産を開始。自転車据付型のエンジンメーカーから、オートバイの完成品メーカーに転身
二輪車の増産投資
歴史的意義yutaka sugiura
1952年のホンダは資本金6000万円の中小企業であり、約4.5億円の工作機械の輸入は経営判断の常識を超える規模であった。自己資本比率は6.7%まで低下し不況期には存続が危ぶまれたが、この投資が生んだ量産体制は後の二輪車輸出と四輪車参入の技術的基盤となった。投資の目的が国内競争の優位ではなく輸出による外貨獲得に置かれていた点が特徴的であり、中小企業の段階から世界市場を前提とした設備投資の設計がなされていた。
FY52
1952/3
売上高
2.059億円
当期純利益
0.059億円
組織再編
本社を東京に移転
1952年4月に本社を浜松から東京都へ移転した。資金調達と全国販売網構築を視野に入れた動きであり、地方町工場から全国メーカーへ脱皮する転機となった。
FY53
1953/3
売上高
24.3億円
当期純利益
1億円
FY54
1954/3
売上高
60.6億円
当期純利益
5.13億円
FY55
1955/3
売上高
59.7億円
当期純利益
0.69億円
FY56
1956/3
売上高
55.2億円
当期純利益
1.91億円
FY57
1957/3
売上高
78.7億円
当期純利益
3.94億円
東京証券取引所に株式上場
1955年の経済不況期を乗り切ると、ホンダは再び増収増益基調に回帰した。主に農村における好景気が需要の牽引役となり、ホンダの二輪車の販売を押し上げた。この結果、1957年にホンダは東京証券取引所に株式上場を実施。資金調達によって懸案だった自己資本比率を改善した。
FY58
1958/3
売上高
97.7億円
当期純利益
5.06億円
FY59
1959/3
売上高
141億円
当期純利益
11.56億円
二輪車の北米輸出を積極化
1959年6月にホンダは北米に販売現地法人を設立し、二輪車の北米輸出を本格化した。量産によるコストダウンを志向するために、1960年に鈴鹿製作所を新設した。鈴鹿製作所の稼働によって二輪車の量産体制を確立。ホンダは二輪車において国内シェアトップを確保した。
FY60
1960/3
組織再編
本田技術研究所を分社化
1960年7月に本田技術研究所をホンダより分離し株式会社本田技術研究所を設立した。研究開発機能を別会社化することで開発の独立性と長期視点を担保する仕組みを整え、本田宗一郎の研究主導の組織哲学を制度化した。
FY61
1961/3
売上高
490億円
当期純利益
53.2億円
FY62
1962/3
売上高
579億円
当期純利益
59.9億円
FY63
1963/3
売上高
644億円
当期純利益
70.1億円
四輪車に本格参入
FY64
1964/3
売上高
831億円
当期純利益
73.5億円
海外進出
タイにアジアホンダモーターを設立
1964年10月にタイへアジアホンダモーターカンパニーを設立した。東南アジアの二輪車販売・現地生産の橋頭堡となり、その後の域内事業の統轄機能の前身となった。
FY65
1965/3
売上高
978億円
当期純利益
37.6億円
東南アジアで二輪車の現地生産を開始
FY66
1966/3
売上高
1,236億円
当期純利益
65.1億円
FY67
1967/3
売上高
1,067億円
当期純利益
30億円
FY68
1968/3
売上高
1,411億円
当期純利益
26.1億円
FY69
1969/3
売上高
1,938億円
当期純利益
66.2億円
FY70
1970/3
売上高
2,447億円
当期純利益
123億円
FY71
1971/3
売上高
3,163億円
当期純利益
121億円
海外進出
ブラジルにホンダモーターを設立
1971年10月にブラジルへホンダモーター・ド・ブラジル(2000年4月にホンダサウスアメリカへ商号変更)を設立した。よって南米事業の母体を確保し、後年に南米統轄機能を担う中心拠点へ発展した。
FY72
1972/3
売上高
3,329億円
当期純利益
124億円
四輪車シビックを発売
FY73
1973/3
売上高
3,277億円
当期純利益
125億円
重要事項
低公害エンジン「CVCC」の開発を発表
燃費性能の良いCVCCを搭載したシビックが、国内および北米市場でヒット。四輪車では最後発だったが、1977年までに国内3位メーカーに浮上(1位トヨタ・2位日産・3位ホンダ)
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重要事項組織再編
本田宗一郎・藤沢武夫が第一線を退き河島喜好が社長に就任
創業者の本田宗一郎社長と藤沢武夫副社長が同時に経営の第一線を退き取締役最高顧問となり、創業一族に属さない河島喜好(45歳)が3代目社長に就任した。宗一郎は「本田家のものじゃない」と世襲を退けた。
一人の求心力で率いる個人経営から大部屋重役室とトロイカ方式による全員参加の組織経営への転換点。好調のさなかに創業者みずから求心力に依存する経営を手放し、世襲否定と潔い引き際は河島にも受け継がれた。
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FY74
1974/3
売上高
3,668億円
当期純利益
113億円
FY75
1975/3
売上高
5,199億円
当期純利益
106億円
四輪車アコードを発売
FY76
1976/3
売上高
5,638億円
当期純利益
120億円
熊本製作所を新設
二輪車の海外輸出拠点として熊本製作所を新設
株式上場
ADRをニューヨーク証券取引所に上場
1977年2月にADR(米国預託証券)をニューヨーク証券取引所へ上場した。日本の自動車メーカーとしては早期の本格的米国市場上場であり、北米現地生産投資(1978年HAM設立)の前提となる資本市場での認知を獲得した。
FY77
1977/3
売上高
6,687億円
当期純利益
155億円
重要事項海外進出
HAMを設立・米国での現地生産を開始
ホンダが北米で最初に設立したのは四輪車工場ではなく二輪車工場であった。まず小規模な二輪車の生産で現地の労働慣行や品質管理を学び、3年後に四輪車へ拡張するという段階的な進出方式を採った。この設計は前例のない海外生産のリスクを分散する仕組みであると同時に、二輪車事業で蓄積した現地生産の知見を四輪車の立ち上げに転用する学習装置としても機能した。累計投資額25.7億ドルの大半は段階的に投下されたものである。
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FY78
1978/3
売上高
8,496億円
当期純利益
175億円
HY戦争(二輪車の国内価格競争)
ホンダの北米進出を見たヤマハ発動機が、競合の手薄になると判断して価格競争を開始。だが、ホンダは競合のヤマハと国内で熾烈な価格競争を展開して対抗。BCGからコンサルティグを受けつつ、ヤマハ発動機を殲滅(同社を赤字転落)した
FY79
1979/3
売上高
9,223億円
当期純利益
160億円
FY80
1980/3
売上高
10,694億円
当期純利益
237億円
FY81
1981/3
売上高
13,449億円
当期純利益
301億円
株式上場
株式をロンドン証券取引所に上場
1981年6月に株式をロンドン証券取引所へ上場した。北米に続く欧州の資本市場での認知度を高め、4年後の英国HUM設立による欧州現地生産への布石となった。
FY82
1982/3
売上高
15,441億円
当期純利益
243億円
本田宗一郎氏・藤沢武夫氏が退任
創業者の本田宗一郎氏(当時78歳)と、財務を支えてきた藤沢武夫氏(当時75歳)が、ともに同じタイミングでホンダの取締役を退任。経営は後任に任せて、ホンダの経営から退いた
FY83
1983/3
売上高
17,469億円
当期純利益
313億円
FY84
1984/3
売上高
18,460億円
当期純利益
246億円
HUMを設立・英国での現地生産を開始
ホンダは貿易摩擦の深刻化を考慮して、欧州での乗用車の現地生産を決定。1985年に英国にHonda of the U.K. Manufacturing(HUM)を設立し、現地生産の準備を開始した。工場用地について、熟練工が多い地域として知られたスウィンドンに決定して敷地を確保した。1989年にスウィンドン工場を竣工し、英国における現地生産を開始した。まずはエンジンの生産を開始し、1992年から完成車として「アコード」の生産を開始した。
FY85
1985/3
売上高
19,295億円
当期純利益
327億円
組織再編
北米統轄会社ホンダノースアメリカを設立
1987年3月に米国へ北米子会社事業の統轄機能を有するホンダノースアメリカを設立した。HAM・販売・金融・研究の各機能の頂点に統轄会社を置き、地域経営の自立性を高める設計が進んだ。
FY87
1987/3
組織再編
欧州統轄会社ホンダモーターヨーロッパを設立
1989年8月に英国へ欧州子会社事業の統轄機能を有するホンダモーターヨーロッパを設立した。HUMによる現地生産の本格立ち上げに合わせて域内の販売・金融機能を一元化した。
FY90
1990/3
東南アジアで二輪車および四輪車の現地生産を本格化
アジアでの現地生産を本格化。日本・北米・欧州・アジアのグローバル生産体制へ
FY92
1992/3
売上高
43,918億円
当期純利益
648億円
FY93
1993/3
売上高
41,324億円
当期純利益
371億円
FY94
1994/3
売上高
38,627億円
当期純利益
236億円
重要事項組織再編
三菱自動車工業との合併説を退け、「新しい本田技研工業」への改革を宣言
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FY95
1995/3
売上高
39,661億円
当期純利益
615億円
FY96
1996/3
売上高
42,522億円
当期純利益
708億円
FY97
1997/3
売上高
52,933億円
当期純利益
2,211億円
FY98
1998/3
売上高
59,997億円
当期純利益
2,606億円
中国での現地生産を本格化
FY99
1999/3
売上高
62,310億円
当期純利益
3,050億円
設備投資
米国アラバマに四輪車工場を設立
1999年12月に米国アラバマ州へホンダマニュファクチュアリングオブアラバマを設立した。オハイオ州に続く北米2拠点目の四輪量産拠点であり、SUV・ミニバン需要の拡大に合わせた現地生産能力の増強となった。
FY00
2000/3
売上高
60,988億円
当期純利益
2,624億円
FY01
2001/3
売上高
64,383億円
当期純利益
2,322億円
福井威夫
FY02
2002/3
売上高
73,624億円
当期純利益
3,627億円
福井威夫
埼玉製作所・和光工場を閉鎖
旧大和工場(1953年新設)の閉鎖を決定。周辺地域の宅地化が進行して拡張が困難であった。工場跡地は「Honda和光ビル」として活用
FY03
2003/3
売上高
79,714億円
当期純利益
4,266億円
組織再編
福井威夫
中国事業統轄会社を設立
2004年1月に中国事業の統轄機能を有する本田技研工業(中国)投資有限公司を設立した。複数の合弁・販売拠点を統括し、急拡大する中国市場での意思決定を現地完結型へ近づける狙いとなった。
FY04
2004/3
売上高
81,626億円
当期純利益
4,643億円
福井威夫
FY05
2005/3
売上高及びその他の営業収入
86,501億円
当期純利益
4,861億円
福井威夫
FY06
2006/3
売上高及びその他の営業収入
99,079億円
当期純利益
5,970億円
福井威夫
FY07
2007/3
売上高及びその他の営業収入
110,871億円
当期純利益
5,923億円
伊東孝紳
FY08
2008/3
売上高及びその他の営業収入
120,028億円
当期純利益
6,000億円
伊東孝紳
FY09
2009/3
売上高及びその他の営業収入
100,112億円
当社株主に帰属する当期純利益
1,370億円
伊東孝紳
国内工場の再編
FY10
2010/3
売上高及びその他の営業収入
85,791億円
当社株主に帰属する当期純利益
2,684億円
伊東孝紳
FY11
2011/3
売上高及びその他の営業収入
89,368億円
当社株主に帰属する当期純利益
5,340億円
伊東孝紳
FY12
2012/3
売上高
79,480億円
親会社株主に帰属する当期純利益
2,114億円
伊東孝紳
FY13
2013/3
売上高
98,779億円
親会社株主に帰属する当期純利益
3,671億円
設備投資
八郷隆弘
埼玉製作所寄居工場が稼働
2013年7月に埼玉製作所寄居工場が稼働開始した。狭山工場の縮小・閉鎖を見据えた次世代ライン導入の中核拠点であり、国内四輪生産の再編軸となった。
FY14
2014/3
売上高
125,060億円
親会社株主に帰属する当期純利益
6,247億円
八郷隆弘
FY15
2015/3
売上高
133,280億円
親会社株主に帰属する当期純利益
5,094億円
八郷隆弘
タカタ製エアバッグでリコール問題
FY16
2016/3
売上高
146,011億円
親会社株主に帰属する当期純利益
3,445億円
八郷隆弘
FY17
2017/3
売上高
139,992億円
親会社株主に帰属する当期純利益
6,165億円
重要事項事業売却
八郷隆弘
狭山工場の閉鎖発表
狭山工場はホンダが四輪車に本格参入した1964年に設立された最初の四輪車専用工場であった。60年にわたりアコードやシビックの生産を担った拠点の閉鎖は、国内市場の縮小に対する生産体制の適応を意味していた。年産106万台から81万台への減産は約25万台分の生産能力の削減であり、狭山工場の閉鎖後に実施された早期退職制度には当初予定の2倍の応募があった。国内の生産規模縮小は四輪車事業のグローバル化と表裏の関係にある。
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FY18
2018/3
売上高
153,611億円
親会社株主に帰属する当期純利益
10,593億円
八郷隆弘
FY19
2019/3
売上高
158,886億円
親会社株主に帰属する当期純利益
6,103億円
三部敏宏
FY20
2020/3
売上高
149,310億円
親会社株主に帰属する当期純利益
4,557億円
三部敏宏
FY21
2021/3
売上高
131,705億円
親会社株主に帰属する当期純利益
6,574億円
重要事項経営体制
三部敏宏
三部敏宏が社長に就任し「2040年に四輪をEV・FCV100%」とする電動化目標を宣言
就任会見で2040年に四輪をすべてEV・FCVとし、2030年40%・2035年に先進国80%へ高める目標を提示。電動化を「第2の創業」と位置づけた。
エンジンで名を成したホンダが期限を切って内燃機関からの退場を宣言し、狭山閉鎖・欧州撤退・提携・日産統合協議の上位命題となった脱エンジンへの転換点
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FY22
2022/3
売上高
145,526億円
親会社株主に帰属する当期純利益
7,070億円
真岡工場の閉鎖発表(2025年閉鎖予定)
重要事項事業売却
欧州での現地生産から撤退(英国工場を閉鎖)
ホンダは1985年に英国で現地生産を開始したが、欧州市場でのシェアは一貫して1%未満にとどまった。年産25万台の工場は実稼働16万台で推移し、生産量の6割を北米や日本に輸出することで稼働率を維持していた。36年間にわたる欧州生産の経験は、販売基盤の構築が伴わない現地生産が固定費の負担と撤退コストを膨張させることを示している。進出判断と撤退判断の間にある30年の時間差が問題の本質である。
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重要事項
早期退職優遇制度を実施
ホンダのライフシフトプログラムは当初1000名の募集に対して約2000名以上が応じ、退職特別加算金は累計428億円に達した。応募超過の背景には狭山工場の閉鎖や英国工場の撤退といった生産拠点の再編に加え、EV転換に伴う事業構造の変化が組織内に浸透しつつあったことがある。年収3年分の加算という条件設計は退職のインセンティブとして機能したが、想定を超える人材流出は組織の求心力に対する問いでもあった。
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組織再編
埼玉製作所狭山工場の四輪完成車生産を終了
2021年12月に埼玉製作所狭山工場の四輪完成車の生産を終了した。すなわち2017年に発表された狭山工場閉鎖計画の最終段階であり、創業期の量産拠点を寄居・鈴鹿へ統合する国内再編が完了した。
三部敏宏
四輪車事業で営業赤字
北米におけるリコール損失(リアビューモニター用ケーブルに関する品質問題)の計上で、FY2022における四輪車事業について166億円の営業損失を計上した
FY23
2023/3
売上高
169,077億円
親会社株主に帰属する当期純利益
6,514億円
三部敏宏
FY24
2024/3
売上高
204,288億円
親会社株主に帰属する当期純利益
11,071億円
重要事項企業買収
三部敏宏
ホンダ・日産自動車・三菱自動車の3社が経営統合を協議
ホンダ・日産・三菱自動車の経営統合協議は、EV開発のコスト負担が単独メーカーの経営を圧迫するなかで浮上した。3社合算で世界第3位の販売規模となるが、統合の実質的な推進力はEV関連の研究開発費の分担と部品調達の共通化にある。ホンダが主導権を握る構想であり、1.1兆円の自社株買いは統合後の企業価値向上を前提とした株主への意思表示であった。規模の統合が技術開発の競争力に直結するかは今後の統合設計に依存する。
経営判断をよむ →
FY25
2025/3
売上高
216,887億円
親会社株主に帰属する当期純利益
8,358億円
FY26
2026/3
売上高
217,966億円
親会社株主に帰属する当期純利益
-4,239億円
  1. 会社設立
    本田技術研究所を個人創業
    本田宗一郎は東海精機の株式を豊田自動織機に売却し、トヨタ系部品メーカーの地位を自ら手放した。終戦直後の不確実な環境下での独立判断は、系列内での安定よりも自前の製品開発を優先する意思の表明であった。この選択がなければホンダはトヨタの下請け企業として存続した可能性があり、二輪車および四輪車の完成品メーカーとしての発展経路は生まれなかった。系列に留まる安定と独立の自由度を天秤にかけた創業時の判断が、ホンダの事業構造の原型を規定した。
  2. 本田技研工業株式会社を設立

    自転車向けエンジンおよび二輪車への本格参入のため、株式会社として「本田技研工業」を設立。本田宗一郎氏が社長に就任

  3. 藤沢武夫氏が参画
    ホンダの創業期において本田宗一郎は技術開発に秀でていたが、販売代金の回収や資金管理には手が回らなかった。藤沢武夫の参画により技術と経営の分業が成立したことで、本田宗一郎は製品開発に専念できる環境が整った。この分業体制は1973年に両者が同時退任するまで25年間にわたり機能し、ホンダの組織構造の原型を形成した。創業者の技術力だけでは事業は拡大しないという命題に対する一つの回答であった。
  4. 二輪車の製造を開始

    ドリーム号の生産を開始。自転車据付型のエンジンメーカーから、オートバイの完成品メーカーに転身

  5. 二輪車の増産投資
    1952年のホンダは資本金6000万円の中小企業であり、約4.5億円の工作機械の輸入は経営判断の常識を超える規模であった。自己資本比率は6.7%まで低下し不況期には存続が危ぶまれたが、この投資が生んだ量産体制は後の二輪車輸出と四輪車参入の技術的基盤となった。投資の目的が国内競争の優位ではなく輸出による外貨獲得に置かれていた点が特徴的であり、中小企業の段階から世界市場を前提とした設備投資の設計がなされていた。
  6. 組織再編
    本社を東京に移転

    1952年4月に本社を浜松から東京都へ移転した。資金調達と全国販売網構築を視野に入れた動きであり、地方町工場から全国メーカーへ脱皮する転機となった。

  7. 東京証券取引所に株式上場

    1955年の経済不況期を乗り切ると、ホンダは再び増収増益基調に回帰した。主に農村における好景気が需要の牽引役となり、ホンダの二輪車の販売を押し上げた。この結果、1957年にホンダは東京証券取引所に株式上場を実施。資金調達によって懸案だった自己資本比率を改善した。

  8. 二輪車の北米輸出を積極化

    1959年6月にホンダは北米に販売現地法人を設立し、二輪車の北米輸出を本格化した。量産によるコストダウンを志向するために、1960年に鈴鹿製作所を新設した。鈴鹿製作所の稼働によって二輪車の量産体制を確立。ホンダは二輪車において国内シェアトップを確保した。

  9. 組織再編
    本田技術研究所を分社化

    1960年7月に本田技術研究所をホンダより分離し株式会社本田技術研究所を設立した。研究開発機能を別会社化することで開発の独立性と長期視点を担保する仕組みを整え、本田宗一郎の研究主導の組織哲学を制度化した。

  10. 四輪車に本格参入
  11. 海外進出
    タイにアジアホンダモーターを設立

    1964年10月にタイへアジアホンダモーターカンパニーを設立した。東南アジアの二輪車販売・現地生産の橋頭堡となり、その後の域内事業の統轄機能の前身となった。

  12. 東南アジアで二輪車の現地生産を開始
  13. 海外進出
    ブラジルにホンダモーターを設立

    1971年10月にブラジルへホンダモーター・ド・ブラジル(2000年4月にホンダサウスアメリカへ商号変更)を設立した。よって南米事業の母体を確保し、後年に南米統轄機能を担う中心拠点へ発展した。

  14. 四輪車シビックを発売
  15. 四輪車アコードを発売
  16. 熊本製作所を新設

    二輪車の海外輸出拠点として熊本製作所を新設

  17. 株式上場
    ADRをニューヨーク証券取引所に上場

    1977年2月にADR(米国預託証券)をニューヨーク証券取引所へ上場した。日本の自動車メーカーとしては早期の本格的米国市場上場であり、北米現地生産投資(1978年HAM設立)の前提となる資本市場での認知を獲得した。

  18. HY戦争(二輪車の国内価格競争)

    ホンダの北米進出を見たヤマハ発動機が、競合の手薄になると判断して価格競争を開始。だが、ホンダは競合のヤマハと国内で熾烈な価格競争を展開して対抗。BCGからコンサルティグを受けつつ、ヤマハ発動機を殲滅(同社を赤字転落)した

  19. 株式上場
    株式をロンドン証券取引所に上場

    1981年6月に株式をロンドン証券取引所へ上場した。北米に続く欧州の資本市場での認知度を高め、4年後の英国HUM設立による欧州現地生産への布石となった。

  20. 本田宗一郎氏・藤沢武夫氏が退任

    創業者の本田宗一郎氏(当時78歳)と、財務を支えてきた藤沢武夫氏(当時75歳)が、ともに同じタイミングでホンダの取締役を退任。経営は後任に任せて、ホンダの経営から退いた

  21. HUMを設立・英国での現地生産を開始

    ホンダは貿易摩擦の深刻化を考慮して、欧州での乗用車の現地生産を決定。1985年に英国にHonda of the U.K. Manufacturing(HUM)を設立し、現地生産の準備を開始した。工場用地について、熟練工が多い地域として知られたスウィンドンに決定して敷地を確保した。1989年にスウィンドン工場を竣工し、英国における現地生産を開始した。まずはエンジンの生産を開始し、1992年から完成車として「アコード」の生産を開始した。

  22. 組織再編
    北米統轄会社ホンダノースアメリカを設立

    1987年3月に米国へ北米子会社事業の統轄機能を有するホンダノースアメリカを設立した。HAM・販売・金融・研究の各機能の頂点に統轄会社を置き、地域経営の自立性を高める設計が進んだ。

  23. 組織再編
    欧州統轄会社ホンダモーターヨーロッパを設立

    1989年8月に英国へ欧州子会社事業の統轄機能を有するホンダモーターヨーロッパを設立した。HUMによる現地生産の本格立ち上げに合わせて域内の販売・金融機能を一元化した。

  24. 東南アジアで二輪車および四輪車の現地生産を本格化

    アジアでの現地生産を本格化。日本・北米・欧州・アジアのグローバル生産体制へ

  25. 中国での現地生産を本格化
  26. 設備投資
    米国アラバマに四輪車工場を設立

    1999年12月に米国アラバマ州へホンダマニュファクチュアリングオブアラバマを設立した。オハイオ州に続く北米2拠点目の四輪量産拠点であり、SUV・ミニバン需要の拡大に合わせた現地生産能力の増強となった。

  27. 埼玉製作所・和光工場を閉鎖

    旧大和工場(1953年新設)の閉鎖を決定。周辺地域の宅地化が進行して拡張が困難であった。工場跡地は「Honda和光ビル」として活用

  28. 組織再編
    中国事業統轄会社を設立

    2004年1月に中国事業の統轄機能を有する本田技研工業(中国)投資有限公司を設立した。複数の合弁・販売拠点を統括し、急拡大する中国市場での意思決定を現地完結型へ近づける狙いとなった。

  29. 国内工場の再編
  30. 設備投資
    埼玉製作所寄居工場が稼働

    2013年7月に埼玉製作所寄居工場が稼働開始した。狭山工場の縮小・閉鎖を見据えた次世代ライン導入の中核拠点であり、国内四輪生産の再編軸となった。

  31. タカタ製エアバッグでリコール問題
  32. 真岡工場の閉鎖発表(2025年閉鎖予定)
  33. 組織再編
    埼玉製作所狭山工場の四輪完成車生産を終了

    2021年12月に埼玉製作所狭山工場の四輪完成車の生産を終了した。すなわち2017年に発表された狭山工場閉鎖計画の最終段階であり、創業期の量産拠点を寄居・鈴鹿へ統合する国内再編が完了した。

  34. 四輪車事業で営業赤字

    北米におけるリコール損失(リアビューモニター用ケーブルに関する品質問題)の計上で、FY2022における四輪車事業について166億円の営業損失を計上した