赤井電機の沿革・歴史的証言
1924年〜2000年
赤井電機の1924年〜2000年の主要な出来事・経営判断・組織変化を年月順に並べた沿革(社史年表)と、経営者・当事者の歴史的証言
| 年度 | 売上高 | 純利益 | 年月 | 区分 | 出来事 | 歴史的意義 |
|---|---|---|---|---|---|---|
1924 1-12月 | 赤井電機製作所を個人創業 赤井舛吉氏がソケットラジオ部品を製造するために東京都港区で創業 | |||||
1929 1-12月 | 赤井電機株式会社を設立 個人経営の赤井電機製作所を改組し、東京都中央区において赤井電機株式会社を設立した。創業から5年を経て法人化に踏み切った。 | |||||
1935 1-12月 | 自動車電装・モーター・ラジオ部品の製造を開始 自動車電装部品・マグネット部品・ラジオ部品・小型モーターの製造を開始し、製品ラインアップを多角化した。 | |||||
1947 1-12月 | 赤井電機(2代目)を創業 戦時中に赤井電機(初代)は同業他社のとの合併により消滅した。そこで、終戦直後の1947年に赤井三郎氏(実父が赤井舛吉氏)は、赤い電機を復活させて、再び独立起業をはかった。赤井三郎氏は1947年から1973年に急逝するまで赤井電機の経営に従事。1968年に株式上場を果たすなど、終戦直後は町工場であった赤井電機の業容拡大に貢献した。 | |||||
本社を東京都大田区に移転 戦後の事業再開にあわせて、本社を東京都大田区に移転した。以後、大田区を生産・経営の拠点とする体制を確立した。 | ||||||
1948 1-12月 | 汎用モーター・電蓄用小型モーターの製造を開始 戦後の事業再開に合わせ、汎用モーターおよび電蓄(電気蓄音機)用小型モーターの製造を開始した。 | |||||
1951 1-12月 | テープレコーダーに参入。輸出に特化 | 後発参入から輸出特化型メーカーへの転換過程 | ||||
1953 1-12月 | 組織再編 | 赤井商事株式会社を設立 販売部門強化のため、東京都港区に赤井商事株式会社を設立した。製造(赤井電機)と販売(赤井商事)の機能を分離し、販路拡大に注力する体制とした。 | ||||
1954 1-12月 | テープメカニズム AT-1 を発売 テープレコーダー用機構部品「AT-1」を発売した。完成品ではなく機構部品をOEM供給する事業形態を確立し、後の輸出特化の基盤となった。 | |||||
1955 1-12月 | 設備投資 | 第1次工場拡張で本社・機械工場を新築 第1次工場拡張計画として、東京都大田区糀谷町に本社および機械工場を新築移転した。テープレコーダー量産体制の整備を進めた。 | ||||
1957 1-12月 | 生産設備に積極投資。輸出に注力 | |||||
1958 1-12月 | ステレオテープレコーダー MS-60 を発売 ステレオテープレコーダー「MS-60」を発売した。ステレオ録再対応機を市場投入することで、オーディオ機器メーカーとしての地位を高めた。 | |||||
1959 1-12月 | 設備投資 | 第3次工場拡張で3階建工場を新築 第3次工場拡張計画として、大田区糀谷町に3階建工場1棟を新築した。 | ||||
1961 1-12月 | 設備投資 | 第4次工場拡張で4階建組立工場を増築 第4次工場拡張計画として、大田区糀谷町に4階建組立工場を増築した。 | ||||
1962 1-12月 | 設備投資 | 4階建プレス組立工場を新築 大田区糀谷町に4階建プレス組立工場を新築し、プレス加工と組立工程の能力を増強した。 | ||||
研究開発 | クロスフィールドヘッド付テープレコーダー M-7 を発売 クロスフィールドヘッド付テープレコーダー「M-7」を発売した。独自方式の磁気ヘッドを採用し、技術的差別化を推進した。 | |||||
FY65 1965/11 | 売上高 26.9億円 | 当期純利益 1.19億円 | 本社を東京都大田区東糀谷に移転 本社を現住所(東京都大田区東糀谷)に移転し、移転登記を完了した。 | |||
FY66 1966/11 | 売上高 52.1億円 | 当期純利益 6.23億円 | ||||
FY67 1967/11 | 売上高 76億円 | 当期純利益 8.02億円 | 設備投資 | 第5次工場拡張で本社工場7階建を新築 第5次工場拡張計画として、大田区東糀谷に本社工場の7階建ビルを新築した。本社機能と生産機能の一体運用を強化した。 | ||
FY68 1968/11 | 売上高 107億円 | 当期純利益 13.8億円 | 東京証券取引所第2部に株式上場 企業経営の透明性を高めるために株式上場を選択。財務体質は良好で、売上高純利益率12.8%(FY1968)の高収益企業として注目を集めた。 | |||
FY69 1969/11 | 売上高 142億円 | 当期純利益 20.1億円 | ||||
FY70 1970/11 | 売上高 172億円 | 当期純利益 22.2億円 | 株式上場 | 東京証券取引所第1部に指定替え 1968年11月の東証第2部上場からおよそ1年半で第1部に指定替えとなった。AKAIブランドが欧州を中心に高い人気を獲得し、輸出主導で業績を伸ばしていた時期の節目となった。 | ||
FY71 1971/11 | 売上高 187億円 | 当期純利益 17.2億円 | ||||
FY72 1972/11 | 売上高 195億円 | 当期純利益 17.3億円 | ||||
FY73 1973/11 | 売上高 216億円 | 当期純利益 17.5億円 | ||||
FY74 1974/11 | 売上高 247億円 | 当期純利益 7.11億円 | 赤井三郎氏が社長在任中に急逝 実質創業者である赤井三郎氏が年末のスキー旅行の際に急逝。後任社長をめぐる後継争いなどが発生し、赤井電機の経営は迷走。1981年に三菱銀行出身の社長が就任して銀行支援を受けに至った。 | |||
FY75 1975/11 | 売上高 290億円 | 当期純利益 4.75億円 | ビデオに参入。円高ドル安で収益性が悪化 | 輸出特化型の事業モデルが抱えていた構造的な限界 | ||
FY76 1976/11 | 売上高 368億円 | 当期純利益 11.2億円 | ||||
FY77 1977/11 | 売上高 425億円 | 当期純利益 7.2億円 | ||||
FY78 1978/11 | 売上高 475億円 | 当期純利益 3.56億円 | ||||
FY79 1979/11 | 売上高 526億円 | 当期純利益 2.84億円 | ||||
FY80 1980/11 | 売上高 778億円 | 当期純利益 3.05億円 | ||||
FY81 1981/11 | 売上高 905億円 | 当期純利益 -5.67億円 | 三菱銀行が経営支援 円高の進行でビデオとオーディオ機器の輸出が不振。資産売却が要に | |||
FY82 1982/11 | 売上高 908億円 | 当期純利益 -62.3億円 | ||||
FY83 1983/11 | 売上高 807億円 | 当期純利益 20.4億円 | ||||
FY84 1984/11 | 売上高 800億円 | 当期純利益 4.11億円 | ||||
FY85 1985/11 | 業務提携 | 三菱電機との提携を全面強化 1985年10月22日、経営再建のため三菱電機との提携を強化すると発表した。提携内容は開発・設計・製造・販売の全面にわたり、VTRなど主力製品で連携を深めた。1981年に三菱銀行から経営支援を受けて以降、三菱グループによる支援体制をさらに踏み込ませる位置付けとなった。 | ||||
本社工場の一部を三菱グループ系不動産会社へ売却 東京都大田区にある本社工場の一部を、三菱グループの不動産管理会社である萬興業(本社東京、社長大野喜市氏)に売却した。売却金額は20億円弱で、経営再建のための資産圧縮策として実施された。 | ||||||
FY86 1986/11 | 三菱電機を引受先とする第三者割当増資を含む再建計画を発表 1986年6月16日、岡田真社長ら首脳が記者会見し、三菱電機を引受先とする第三者割当増資を7月に実施するなどの再建計画を発表した。三菱グループによる出資を受け入れ、資本面でも結びつきを強化する内容となった。 | |||||
FY87 1987/11 | 業務提携社長交代 | 三菱電機からオーディオ製品の開発・生産を移管 1987年3月19日に三菱電機が発表した再建支援策に基づき、4月1日付で三菱電機のオーディオ製品の開発・生産を赤井電機へ移管した。国内販売・サービスは三菱電機が担当する分業体制とし、三菱グループによる事業面での全面支援が具体化した。 | ||||
FY89 1989/11 | 事業撤退 | AV機器の北米向け輸出を停止 音響・映像(AV)機器の北米向け輸出を1989年1月から見合わせることを決定した。中野忠史社長は「不採算輸出の絞り込みは2年前からの経営再建計画に沿ったもの」と説明した。円高で採算が悪化していた北米市場から実質撤退する形となった。 | ||||
FY95 1995/11 | FY1994/11決算で経常赤字23億円を計上 1995年1月13日に発表したFY1994/11期決算で、欧州向けVTRおよびオーディオ機器の販売不振により経常損益が23億円の赤字となった。赤字幅は前期から5億円強拡大しており、欧州市場の苦戦と円高による採算悪化が深刻化していた。 | |||||
セミテックグループが経営支援 三菱電機が再建を断念し、香港の多国籍企業グループであるセミ・テック(後のアカイ・ホールディングス)が第三者割当増資を引き受ける形で約55%の株式を取得した。これにより事実上同グループの傘下に入った。 | ||||||
全従業員の約4割にあたる400人の勧奨退職を発表 全従業員の約4割にあたる400人を1995年度中に勧奨退職させる人員削減策を打ち出した。日本企業としては異例の大規模カットであり、円高による輸出不振でメインバンクの三菱銀行主導の再建が続くなか、財務体質改善を狙った措置となった。 | ||||||
社長交代 | ジェームス・H・ティン会長が社長兼務、種田公二社長が退任 1995年7月14日、ジェームス・H・ティン会長(44歳)が社長を兼務し、三菱銀行出身の種田公二社長(64歳)を退任させる人事を発表した。セミ・テック(後のアカイ・ホールディングス)の傘下入り後、親会社による経営直接掌握が進んだ。 | |||||
事業撤退 | 主力VTRの国内生産から撤退する方針を決定 主力製品であるVTRの国内生産から撤退する方針を決めた。VTR国内生産は埼玉県行田市の埼玉工場が年間100億円規模で担当していたが、年内に生産を停止する計画とした。円高による輸出採算悪化が深刻化するなかで、生産機能の海外移管が加速した。 | |||||
FY97 1997/11 | 企業買収 | 山水電気の事実上の筆頭株主となる 1997年11月26日、子会社のオランダ法人パーシカスビーヴィが山水電気の発行済み株式の約42%を取得し、事実上の筆頭株主となったと発表した。経営悪化が続いていた山水電気を傘下に取り込み、後にDVDの共同開発などで連携を進めることとなった。 | ||||
FY99 1999/11 | 香港グランデ・グループの傘下に入る アカイ・ホールディングス(旧セミ・テック)から、同じく香港の多国籍企業グループであるグランデ・グループに譲渡され、その傘下で再建を目指すこととなった。 | |||||
FY00 2000/11 | 1026億円の最終赤字を計上し債務超過に転落 FY2000/3決算で売上高約126億円に対し、海外販売会社向けの貸倒引当金や子会社の投資損失引当金を計上した結果、最終赤字約1026億円・債務超過約426億円となった。決算書が監査未了のまま東証に提出され、改善報告書の提出を求められて信用不安が拡大した。 | |||||
親会社アカイ・ホールディングスが香港で清算決定 2000年8月23日、香港裁判所においてアカイ・ホールディングスなど関連会社の清算が決定された。親会社の清算により、赤井電機は単独での経営再建を迫られた。 | ||||||
東京地裁に民事再生手続き開始を申請(倒産) 11月2日に東京地裁へ民事再生手続き開始を申請した。99年以降、グループの山水電気と共同開発していたDVDの遅れや海外からの回収遅延で資金繰りがひっ迫し、支払遅延も発生していた。膨大な債務負担と業績改善の見込みが立たないことが決め手となった。 |
- 赤井電機製作所を個人創業
赤井舛吉氏がソケットラジオ部品を製造するために東京都港区で創業
- 赤井電機株式会社を設立
個人経営の赤井電機製作所を改組し、東京都中央区において赤井電機株式会社を設立した。創業から5年を経て法人化に踏み切った。
- 自動車電装・モーター・ラジオ部品の製造を開始
自動車電装部品・マグネット部品・ラジオ部品・小型モーターの製造を開始し、製品ラインアップを多角化した。
- 赤井電機(2代目)を創業
戦時中に赤井電機(初代)は同業他社のとの合併により消滅した。そこで、終戦直後の1947年に赤井三郎氏(実父が赤井舛吉氏)は、赤い電機を復活させて、再び独立起業をはかった。赤井三郎氏は1947年から1973年に急逝するまで赤井電機の経営に従事。1968年に株式上場を果たすなど、終戦直後は町工場であった赤井電機の業容拡大に貢献した。
- 本社を東京都大田区に移転
戦後の事業再開にあわせて、本社を東京都大田区に移転した。以後、大田区を生産・経営の拠点とする体制を確立した。
- 汎用モーター・電蓄用小型モーターの製造を開始
戦後の事業再開に合わせ、汎用モーターおよび電蓄(電気蓄音機)用小型モーターの製造を開始した。
- テープレコーダーに参入。輸出に特化後発参入から輸出特化型メーカーへの転換過程
- 赤井商事株式会社を設立
販売部門強化のため、東京都港区に赤井商事株式会社を設立した。製造(赤井電機)と販売(赤井商事)の機能を分離し、販路拡大に注力する体制とした。
- テープメカニズム AT-1 を発売
テープレコーダー用機構部品「AT-1」を発売した。完成品ではなく機構部品をOEM供給する事業形態を確立し、後の輸出特化の基盤となった。
- 第1次工場拡張で本社・機械工場を新築
第1次工場拡張計画として、東京都大田区糀谷町に本社および機械工場を新築移転した。テープレコーダー量産体制の整備を進めた。
- 生産設備に積極投資。輸出に注力
- ステレオテープレコーダー MS-60 を発売
ステレオテープレコーダー「MS-60」を発売した。ステレオ録再対応機を市場投入することで、オーディオ機器メーカーとしての地位を高めた。
- 第3次工場拡張で3階建工場を新築
第3次工場拡張計画として、大田区糀谷町に3階建工場1棟を新築した。
- 第4次工場拡張で4階建組立工場を増築
第4次工場拡張計画として、大田区糀谷町に4階建組立工場を増築した。
- 4階建プレス組立工場を新築
大田区糀谷町に4階建プレス組立工場を新築し、プレス加工と組立工程の能力を増強した。
- クロスフィールドヘッド付テープレコーダー M-7 を発売
クロスフィールドヘッド付テープレコーダー「M-7」を発売した。独自方式の磁気ヘッドを採用し、技術的差別化を推進した。
- 本社を東京都大田区東糀谷に移転
本社を現住所(東京都大田区東糀谷)に移転し、移転登記を完了した。
- 第5次工場拡張で本社工場7階建を新築
第5次工場拡張計画として、大田区東糀谷に本社工場の7階建ビルを新築した。本社機能と生産機能の一体運用を強化した。
- 東京証券取引所第2部に株式上場
企業経営の透明性を高めるために株式上場を選択。財務体質は良好で、売上高純利益率12.8%(FY1968)の高収益企業として注目を集めた。
- 東京証券取引所第1部に指定替え
1968年11月の東証第2部上場からおよそ1年半で第1部に指定替えとなった。AKAIブランドが欧州を中心に高い人気を獲得し、輸出主導で業績を伸ばしていた時期の節目となった。
- 赤井三郎氏が社長在任中に急逝
実質創業者である赤井三郎氏が年末のスキー旅行の際に急逝。後任社長をめぐる後継争いなどが発生し、赤井電機の経営は迷走。1981年に三菱銀行出身の社長が就任して銀行支援を受けに至った。
- ビデオに参入。円高ドル安で収益性が悪化輸出特化型の事業モデルが抱えていた構造的な限界
- 三菱銀行が経営支援
円高の進行でビデオとオーディオ機器の輸出が不振。資産売却が要に
- 三菱電機との提携を全面強化
1985年10月22日、経営再建のため三菱電機との提携を強化すると発表した。提携内容は開発・設計・製造・販売の全面にわたり、VTRなど主力製品で連携を深めた。1981年に三菱銀行から経営支援を受けて以降、三菱グループによる支援体制をさらに踏み込ませる位置付けとなった。
- 本社工場の一部を三菱グループ系不動産会社へ売却
東京都大田区にある本社工場の一部を、三菱グループの不動産管理会社である萬興業(本社東京、社長大野喜市氏)に売却した。売却金額は20億円弱で、経営再建のための資産圧縮策として実施された。
- 三菱電機を引受先とする第三者割当増資を含む再建計画を発表
1986年6月16日、岡田真社長ら首脳が記者会見し、三菱電機を引受先とする第三者割当増資を7月に実施するなどの再建計画を発表した。三菱グループによる出資を受け入れ、資本面でも結びつきを強化する内容となった。
- 三菱電機からオーディオ製品の開発・生産を移管
1987年3月19日に三菱電機が発表した再建支援策に基づき、4月1日付で三菱電機のオーディオ製品の開発・生産を赤井電機へ移管した。国内販売・サービスは三菱電機が担当する分業体制とし、三菱グループによる事業面での全面支援が具体化した。
- AV機器の北米向け輸出を停止
音響・映像(AV)機器の北米向け輸出を1989年1月から見合わせることを決定した。中野忠史社長は「不採算輸出の絞り込みは2年前からの経営再建計画に沿ったもの」と説明した。円高で採算が悪化していた北米市場から実質撤退する形となった。
- FY1994/11決算で経常赤字23億円を計上
1995年1月13日に発表したFY1994/11期決算で、欧州向けVTRおよびオーディオ機器の販売不振により経常損益が23億円の赤字となった。赤字幅は前期から5億円強拡大しており、欧州市場の苦戦と円高による採算悪化が深刻化していた。
- セミテックグループが経営支援
三菱電機が再建を断念し、香港の多国籍企業グループであるセミ・テック(後のアカイ・ホールディングス)が第三者割当増資を引き受ける形で約55%の株式を取得した。これにより事実上同グループの傘下に入った。
- 全従業員の約4割にあたる400人の勧奨退職を発表
全従業員の約4割にあたる400人を1995年度中に勧奨退職させる人員削減策を打ち出した。日本企業としては異例の大規模カットであり、円高による輸出不振でメインバンクの三菱銀行主導の再建が続くなか、財務体質改善を狙った措置となった。
- ジェームス・H・ティン会長が社長兼務、種田公二社長が退任
1995年7月14日、ジェームス・H・ティン会長(44歳)が社長を兼務し、三菱銀行出身の種田公二社長(64歳)を退任させる人事を発表した。セミ・テック(後のアカイ・ホールディングス)の傘下入り後、親会社による経営直接掌握が進んだ。
- 主力VTRの国内生産から撤退する方針を決定
主力製品であるVTRの国内生産から撤退する方針を決めた。VTR国内生産は埼玉県行田市の埼玉工場が年間100億円規模で担当していたが、年内に生産を停止する計画とした。円高による輸出採算悪化が深刻化するなかで、生産機能の海外移管が加速した。
- 山水電気の事実上の筆頭株主となる
1997年11月26日、子会社のオランダ法人パーシカスビーヴィが山水電気の発行済み株式の約42%を取得し、事実上の筆頭株主となったと発表した。経営悪化が続いていた山水電気を傘下に取り込み、後にDVDの共同開発などで連携を進めることとなった。
- 香港グランデ・グループの傘下に入る
アカイ・ホールディングス(旧セミ・テック)から、同じく香港の多国籍企業グループであるグランデ・グループに譲渡され、その傘下で再建を目指すこととなった。
- 1026億円の最終赤字を計上し債務超過に転落
FY2000/3決算で売上高約126億円に対し、海外販売会社向けの貸倒引当金や子会社の投資損失引当金を計上した結果、最終赤字約1026億円・債務超過約426億円となった。決算書が監査未了のまま東証に提出され、改善報告書の提出を求められて信用不安が拡大した。
- 親会社アカイ・ホールディングスが香港で清算決定
2000年8月23日、香港裁判所においてアカイ・ホールディングスなど関連会社の清算が決定された。親会社の清算により、赤井電機は単独での経営再建を迫られた。
- 東京地裁に民事再生手続き開始を申請(倒産)
11月2日に東京地裁へ民事再生手続き開始を申請した。99年以降、グループの山水電気と共同開発していたDVDの遅れや海外からの回収遅延で資金繰りがひっ迫し、支払遅延も発生していた。膨大な債務負担と業績改善の見込みが立たないことが決め手となった。