鐘紡の沿革・歴史的証言
1887年〜2007年
鐘紡の1887年〜2007年の主要な出来事・経営判断・組織変化を年月順に並べた沿革(社史年表)と、経営者・当事者の歴史的証言
| 年度 | 売上高 | 純利益 | 年月 | 区分 | 出来事 | 歴史的意義 |
|---|---|---|---|---|---|---|
1887 1-12月 | 会社設立 | 東京綿商社を創業 | 原料の仲介から製造工程への上流移行という創業の選択 | |||
1889 1-12月 | 株式上場 | 東京株式取引所に株式を上場 1889年1月、株式を東京株式取引所へ上場した。当時の紡績会社としては早期の株式公開であり、その後の紡績大合同を含む積極的な企業買収の資金調達基盤となった。 | ||||
鐘ヶ淵紡績会社に組織変更 | ||||||
1893 1-12月 | 中上川彦次郎氏が社長就任 | 28歳の銀行員を工場長に据えた中上川の人材登用 | ||||
1896 1-12月 | 兵庫工場を稼働 | |||||
1899 1-12月 | 紡績会社3社を買収 | |||||
1900 1-12月 | 企業買収 | 紡績大合同論を提唱。企業買収を積極化 | 「大合同」で日本一を実現した買収戦略の構造的代償 | |||
1901 1-12月 | 総合繊維メーカーを志向 | |||||
1933 1-12月 | 鐘紡が日本企業で売上高1位へ 国内全ての業種の企業において、鐘紡が売上高トップを記録。日本を代表する会社に発展した | |||||
1944 1-12月 | 組織再編 | 鐘淵紡績と鐘淵実業が合併し鐘淵工業を設立 1944年2月、戦時統制下の事業再編として鐘淵紡績と鐘淵実業が合併し、鐘淵工業を設立した。戦時体制への対応として化学・繊維等の事業を一体運営する組織変更であり、戦後1946年に再び鐘淵紡績へ復元された。 | ||||
1946 1-12月 | 武藤絲治が鐘紡の社長に就任 終戦直後に武藤山治の息子であった武藤絲治が鐘紡の社長に就任。以後、戦後の鐘紡の経営を武藤絲治が担う。 | |||||
1949 1-12月 | 事業売却組織再編 | 化学部門を分離・鐘淵化学工業を設立 1949年9月、化学部門を分離して鐘淵化学工業(現カネカ)を設立し、木材・造機・鉱山等の事業をすべて廃止して繊維のみを存置した。戦後再建のための事業整理であり、後年に化粧品事業を譲り受ける布石ともなった。 | ||||
FY51 1951/4 | 売上高 314億円 | 当期純利益 51.1億円 | 朝鮮特需で好調 | 市況依存の利益率24%が先送りした規模と雇用の構造問題 | ||
FY52 1952/4 | 売上高 507億円 | 当期純利益 30億円 | ||||
FY53 1953/4 | 売上高 367億円 | 当期純利益 3億円 | ||||
FY54 1954/4 | 売上高 405億円 | 当期純利益 14億円 | ||||
FY55 1955/4 | 売上高 379億円 | 当期純利益 4.3億円 | ||||
FY56 1956/4 | 売上高 405億円 | 当期純利益 9.4億円 | ||||
FY57 1957/4 | 売上高 493億円 | 当期純利益 22.8億円 | ||||
FY58 1958/4 | 売上高 464億円 | 当期純利益 8.9億円 | 紡績工場の一部休止を決定 綿製品の価格下落を受けて工場休止を決定。天然繊維で事業縮小 | |||
FY59 1959/4 | 売上高 383億円 | 当期純利益 0.2億円 | 博多工場・中津工場・中島工場を閉鎖 1958年前後の天然繊維市況悪化を受けて、鐘紡は主力工場の閉鎖を決定した。従来の閉鎖対象は従業員100〜500名規模の中規模工場(地方に点在した生糸繰糸工場)であったが、1959年以降は1000名規模の主力工場に拡大し、生産調整が本格化した。閉鎖対象は九州2工場(博多・中津)、大阪市内1工場(中島)、東京都内1工場(東京)であった。このうち東京工場は化粧品製造に一時転換されたが、その後完全に閉鎖された。 | |||
FY60 1960/4 | 売上高 465億円 | 当期純利益 18億円 | ||||
FY61 1961/4 | 売上高 538億円 | 当期純利益 24億円 | 企業買収 | 鐘淵化学から化粧品事業を譲受 1961年1月、カネボウ化粧品を設立し、鐘淵化学工業の化粧品事業を営業譲受した。グレーターカネボウ建設計画と並行する多角化の主軸であり、翌年の化粧品事業本格参入への布石となった。 | ||
FY62 1962/4 | 売上高 592億円 | 当期純利益 19.1億円 | グレーターカネボウ建設計画を策定 | 多角化の方向性は正しくとも繊維縮小を回避した構造的限界 | ||
化粧品事業に新規参入 | 販売組織への100億円集中投資が生んだ唯一の高収益事業 | |||||
FY63 1963/4 | 売上高 877億円 | 当期純利益 29.7億円 | ||||
FY64 1964/4 | 売上高 1,230億円 | 当期純利益 30.5億円 | 午後3時の綿業論を否定 鐘紡の社長であった武藤絲治は「繊維産業は斜陽では無い」という論説を展開し、鐘紡は「労使協調」を重視する意味でも繊維の縮小を先送りした。 | |||
FY65 1965/4 | 売上高 1,432億円 | 当期純利益 28.8億円 | ||||
FY66 1966/4 | 売上高 1,336億円 | 当期純利益 14.7億円 | 組織再編 | 立花製菓を合併し食品事業へ進出 1965年8月、立花製菓株式会社(現クラシエフーズ高槻第一工場)を合併し食品事業へ進出した。化粧品・薬品に続くペンタゴン経営における多角化の一翼であり、繊維以外の収益柱を増やす狙いであった。 | ||
FY67 1967/4 | 売上高 1,334億円 | 当期純利益 10.8億円 | 組織再編 | ペンタゴン経営を提唱 | 雇用維持を前提にした五事業体制が準備した統治の形骸化 | |
FY68 1968/4 | 売上高 1,523億円 | 当期純利益 17.5億円 | ||||
FY69 1969/4 | 売上高 1,641億円 | 当期純利益 11億円 | ||||
FY70 1970/4 | 売上高 1,885億円 | 当期純利益 15.8億円 | 国内5工場を閉鎖 1971年のニクソンショックにより円高ドル安が進行したことで、日本国内の繊維業は「東南アジア企業」との競争に巻き込まれ、国際競争力を喪失した。このため、再び生産調整のために1970年より工場閉鎖を再開した。1970年〜1974年にかけての工場閉鎖は都心部の工場を対象とした。よって、再就職先の斡旋が容易な地域から優先的に工場を閉鎖したと推察される。 | |||
FY71 1971/4 | 売上高 2,241億円 | 当期純利益 40.2億円 | 商号を鐘淵紡績から鐘紡に変更 繊維事業の比率低下に合わせて、社名から紡績の2文字を除去した「鐘紡」に変更した | |||
FY72 1972/4 | 売上高 2,482億円 | 当期純利益 40.2億円 | ||||
FY73 1973/4 | 売上高 2,959億円 | 当期純利益 43.5億円 | ||||
FY74 1974/4 | 売上高 3,929億円 | 当期純利益 66.5億円 | ||||
FY75 1975/4 | 売上高 4,017億円 | 当期純利益 12.1億円 | 事業売却 | 無配転落 | 化粧品の利益が繊維の赤字を補填し続ける構造の固定化 | |
国内4工場を閉鎖 1975年に鐘紡は繊維事業の不振で無配転落となり、工場閉鎖をさらに進めた。同年に京都・高砂・住道の3工場を一気に閉鎖して生産量を調整。それでも市場悪化に対応できず、1979年には四日市工場も閉鎖した。閉鎖対象工場は1950年代の全盛期には1000名以上を抱えていたが、生産合理化で300〜400名まで削減した。すなわちそこまで縮小しても収支は好転しなかったことを意味する。 | ||||||
FY76 1976/4 | 売上高 4,159億円 | 当期純利益 -8.7億円 | ||||
FY77 1977/4 | 売上高 4,319億円 | 当期純利益 28.3億円 | ||||
FY78 1978/4 | 売上高 3,601億円 | 当期純利益 -9億円 | ||||
FY79 1979/4 | 売上高 4,801億円 | 当期純利益 -93.5億円 | ||||
FY80 1980/4 | 売上高 4,535億円 | 当期純利益 34.8億円 | ||||
FY81 1981/4 | 売上高 4,980億円 | 当期純利益 -57.3億円 | ||||
FY82 1982/4 | 売上高 5,011億円 | 当期純利益 -50.4億円 | 国内2工場を閉鎖 1982年に鐘紡は淀川工場(大阪府都島区)を閉鎖した。淀川工場は鐘紡の主力工場の1つであり、戦前は「東洋一」と言われた繊維工場であった。大阪市街地に位置する工場であったため、工場跡地を三井不動産と共同で「ベルパーク」として再開発することで、土地売却益を捻出した。また、1986年には洲本工場(兵庫県淡路島)の閉鎖を決定した。鐘紡は洲本工場で全盛期に3,000名以上を雇用しており、工場閉鎖によって淡路島における雇用が失われることを意味した。 | |||
FY83 1983/4 | 売上高 4,895億円 | 当期純利益 -34.9億円 | ||||
FY84 1984/4 | 売上高 5,210億円 | 当期純利益 22.7億円 | ||||
FY85 1985/4 | 売上高 5,341億円 | 当期純利益 54.2億円 | ||||
FY86 1986/4 | 売上高 5,396億円 | 当期純利益 4.6億円 | ||||
FY87 1987/4 | 売上高 5,565億円 | 当期純利益 -66.7億円 | ||||
FY88 1988/4 | 売上高 5,375億円 | 当期純利益 -23.2億円 | ||||
FY89 1989/4 | 売上高 6,433億円 | 当期純利益 43.7億円 | ||||
FY90 1990/4 | 売上高 6,561億円 | 当期純利益 12.2億円 | ||||
FY91 1991/4 | 売上高 6,804億円 | 当期純利益 10.3億円 | ||||
FY92 1992/4 | 売上高 6,813億円 | 当期純利益 -61億円 | 国内4工場を閉鎖 1992年から1996年にかけて、国内の地方に残存する4工場を閉鎖した。対象は長野工場(長野市)、丸子工場(長野県上田市)、松阪工場(三重県)、西大寺(岡山県)であった。いずれも地方工場であり、地元自治体との雇用の関係で閉鎖が遅れたと推察される。 | |||
FY93 1993/4 | 売上高 6,597億円 | 当期純利益 -103億円 | ||||
FY94 1994/4 | 売上高 5,836億円 | 当期純利益 -46億円 | ||||
FY95 1995/4 | 売上高 5,900億円 | 当期純利益 -7億円 | ||||
FY96 1996/4 | 売上高 5,947億円 | 当期純利益 -275億円 | 防府工場の閉鎖撤回 合成繊維事業の競争力低下に合わせて、山口県の防府工場の閉鎖を決定したが、熾烈な反対を受けて一時頓挫する。 | |||
FY97 1997/4 | 売上高 6,083億円 | 当期純利益 -4億円 | ||||
FY98 1998/4 | 売上高 5,788億円 | 当期純利益 5億円 | ||||
FY99 1999/4 | 売上高 5,373億円 | 当期純利益 16億円 | ||||
FY00 2000/4 | 売上高 5,684億円 | 当期純利益 31億円 | ||||
FY01 2001/4 | 売上高 5,555億円 | 親会社株主に帰属する当期純利益 116億円 | 人員削減ではなく基本給10%削減を実施 2001年に帆足氏がカネボウの新社長に就任。債務超過寸前の財務状況であったが、労働組合の意向を考慮して人員削減ではなく基本給のカット(3年間10%削減)を決定した。それでも、帆足社長に対して「怪文書」(出所:2001/9/3日経ビジネス)が社内で飛び交うなど、厳しい状況にあった。 | |||
商号を鐘紡からカネボウに変更 2001年1月、商号を鐘紡株式会社からカネボウ株式会社へ変更した。創業時の紡績色をさらに薄め、化粧品ブランド「カネボウ」と社名を一致させることで多角化企業としてのブランド戦略を明確化した。 | ||||||
FY02 2002/4 | 売上高 5,335億円 | 親会社株主に帰属する当期純利益 0.7億円 | ||||
FY03 2003/4 | 売上高 5,183億円 | 親会社株主に帰属する当期純利益 5.1億円 | 国内4工場を閉鎖 鐘紡の粉飾決算が露呈したことを受けて、会社解散が決定。繊維工場のうち売却に値しないと判断された4工場の閉鎖を決定した。対象は、浜松工場(静岡県)、大垣工場(岐阜県)、彦根工場(滋賀県)、出雲工場(島根県)であり、撤退判断が遅れた工場であった。 | |||
FY04 2004/4 | 売上高 4,556億円 | 債務超過に転落 | 「事業の相互もたれあい」が名門企業を解体に導いた構造 | |||
FY05 2005/4 | 売上高 2,685億円 | 当期純利益 3,149億円 | ||||
FY06 2006/4 | 売上高 1,394億円 | 当期純損失 -22億円 | 株式上場 | 東京・大阪証券取引所市場第一部で上場廃止 2005年6月、粉飾決算の発覚と債務超過を受けて、東京証券取引所市場第一部および大阪証券取引所市場第一部で上場廃止となった。1889年の上場から116年を経た退場であり、企業解体の起点を象徴する出来事であった。 | ||
繊維事業をセーレンに売却 | ||||||
事業売却 | 化粧品事業を花王に売却 | 唯一の高収益事業が再建の換金対象となった企業解体の帰結 | ||||
FY07 2007/4 | 売上高 68億円 | 当期純利益 157億円 | 会社解散を決議 2007年の株主総会でカネボウは解散を採択。カネボウは精算業務を行うために商号を「海岸ベルマネジメント株式会社」に変更。カネボウとしての歴史に終止符を打った |
- 東京綿商社を創業原料の仲介から製造工程への上流移行という創業の選択
- 東京株式取引所に株式を上場
1889年1月、株式を東京株式取引所へ上場した。当時の紡績会社としては早期の株式公開であり、その後の紡績大合同を含む積極的な企業買収の資金調達基盤となった。
- 鐘ヶ淵紡績会社に組織変更
- 中上川彦次郎氏が社長就任28歳の銀行員を工場長に据えた中上川の人材登用
- 兵庫工場を稼働
- 紡績会社3社を買収
- 紡績大合同論を提唱。企業買収を積極化「大合同」で日本一を実現した買収戦略の構造的代償
- 総合繊維メーカーを志向
- 鐘紡が日本企業で売上高1位へ
国内全ての業種の企業において、鐘紡が売上高トップを記録。日本を代表する会社に発展した
- 鐘淵紡績と鐘淵実業が合併し鐘淵工業を設立
1944年2月、戦時統制下の事業再編として鐘淵紡績と鐘淵実業が合併し、鐘淵工業を設立した。戦時体制への対応として化学・繊維等の事業を一体運営する組織変更であり、戦後1946年に再び鐘淵紡績へ復元された。
- 武藤絲治が鐘紡の社長に就任
終戦直後に武藤山治の息子であった武藤絲治が鐘紡の社長に就任。以後、戦後の鐘紡の経営を武藤絲治が担う。
- 化学部門を分離・鐘淵化学工業を設立
1949年9月、化学部門を分離して鐘淵化学工業(現カネカ)を設立し、木材・造機・鉱山等の事業をすべて廃止して繊維のみを存置した。戦後再建のための事業整理であり、後年に化粧品事業を譲り受ける布石ともなった。
- 朝鮮特需で好調市況依存の利益率24%が先送りした規模と雇用の構造問題
- 紡績工場の一部休止を決定
綿製品の価格下落を受けて工場休止を決定。天然繊維で事業縮小
- 博多工場・中津工場・中島工場を閉鎖
1958年前後の天然繊維市況悪化を受けて、鐘紡は主力工場の閉鎖を決定した。従来の閉鎖対象は従業員100〜500名規模の中規模工場(地方に点在した生糸繰糸工場)であったが、1959年以降は1000名規模の主力工場に拡大し、生産調整が本格化した。閉鎖対象は九州2工場(博多・中津)、大阪市内1工場(中島)、東京都内1工場(東京)であった。このうち東京工場は化粧品製造に一時転換されたが、その後完全に閉鎖された。
- 鐘淵化学から化粧品事業を譲受
1961年1月、カネボウ化粧品を設立し、鐘淵化学工業の化粧品事業を営業譲受した。グレーターカネボウ建設計画と並行する多角化の主軸であり、翌年の化粧品事業本格参入への布石となった。
- グレーターカネボウ建設計画を策定多角化の方向性は正しくとも繊維縮小を回避した構造的限界
- 化粧品事業に新規参入販売組織への100億円集中投資が生んだ唯一の高収益事業
- 午後3時の綿業論を否定
鐘紡の社長であった武藤絲治は「繊維産業は斜陽では無い」という論説を展開し、鐘紡は「労使協調」を重視する意味でも繊維の縮小を先送りした。
- 立花製菓を合併し食品事業へ進出
1965年8月、立花製菓株式会社(現クラシエフーズ高槻第一工場)を合併し食品事業へ進出した。化粧品・薬品に続くペンタゴン経営における多角化の一翼であり、繊維以外の収益柱を増やす狙いであった。
- ペンタゴン経営を提唱雇用維持を前提にした五事業体制が準備した統治の形骸化
- 国内5工場を閉鎖
1971年のニクソンショックにより円高ドル安が進行したことで、日本国内の繊維業は「東南アジア企業」との競争に巻き込まれ、国際競争力を喪失した。このため、再び生産調整のために1970年より工場閉鎖を再開した。1970年〜1974年にかけての工場閉鎖は都心部の工場を対象とした。よって、再就職先の斡旋が容易な地域から優先的に工場を閉鎖したと推察される。
- 商号を鐘淵紡績から鐘紡に変更
繊維事業の比率低下に合わせて、社名から紡績の2文字を除去した「鐘紡」に変更した
- 無配転落化粧品の利益が繊維の赤字を補填し続ける構造の固定化
- 国内4工場を閉鎖
1975年に鐘紡は繊維事業の不振で無配転落となり、工場閉鎖をさらに進めた。同年に京都・高砂・住道の3工場を一気に閉鎖して生産量を調整。それでも市場悪化に対応できず、1979年には四日市工場も閉鎖した。閉鎖対象工場は1950年代の全盛期には1000名以上を抱えていたが、生産合理化で300〜400名まで削減した。すなわちそこまで縮小しても収支は好転しなかったことを意味する。
- 国内2工場を閉鎖
1982年に鐘紡は淀川工場(大阪府都島区)を閉鎖した。淀川工場は鐘紡の主力工場の1つであり、戦前は「東洋一」と言われた繊維工場であった。大阪市街地に位置する工場であったため、工場跡地を三井不動産と共同で「ベルパーク」として再開発することで、土地売却益を捻出した。また、1986年には洲本工場(兵庫県淡路島)の閉鎖を決定した。鐘紡は洲本工場で全盛期に3,000名以上を雇用しており、工場閉鎖によって淡路島における雇用が失われることを意味した。
- 国内4工場を閉鎖
1992年から1996年にかけて、国内の地方に残存する4工場を閉鎖した。対象は長野工場(長野市)、丸子工場(長野県上田市)、松阪工場(三重県)、西大寺(岡山県)であった。いずれも地方工場であり、地元自治体との雇用の関係で閉鎖が遅れたと推察される。
- 防府工場の閉鎖撤回
合成繊維事業の競争力低下に合わせて、山口県の防府工場の閉鎖を決定したが、熾烈な反対を受けて一時頓挫する。
- 人員削減ではなく基本給10%削減を実施
2001年に帆足氏がカネボウの新社長に就任。債務超過寸前の財務状況であったが、労働組合の意向を考慮して人員削減ではなく基本給のカット(3年間10%削減)を決定した。それでも、帆足社長に対して「怪文書」(出所:2001/9/3日経ビジネス)が社内で飛び交うなど、厳しい状況にあった。
- 商号を鐘紡からカネボウに変更
2001年1月、商号を鐘紡株式会社からカネボウ株式会社へ変更した。創業時の紡績色をさらに薄め、化粧品ブランド「カネボウ」と社名を一致させることで多角化企業としてのブランド戦略を明確化した。
- 国内4工場を閉鎖
鐘紡の粉飾決算が露呈したことを受けて、会社解散が決定。繊維工場のうち売却に値しないと判断された4工場の閉鎖を決定した。対象は、浜松工場(静岡県)、大垣工場(岐阜県)、彦根工場(滋賀県)、出雲工場(島根県)であり、撤退判断が遅れた工場であった。
- 債務超過に転落「事業の相互もたれあい」が名門企業を解体に導いた構造
- 東京・大阪証券取引所市場第一部で上場廃止
2005年6月、粉飾決算の発覚と債務超過を受けて、東京証券取引所市場第一部および大阪証券取引所市場第一部で上場廃止となった。1889年の上場から116年を経た退場であり、企業解体の起点を象徴する出来事であった。
- 繊維事業をセーレンに売却
- 化粧品事業を花王に売却唯一の高収益事業が再建の換金対象となった企業解体の帰結
- 会社解散を決議
2007年の株主総会でカネボウは解散を採択。カネボウは精算業務を行うために商号を「海岸ベルマネジメント株式会社」に変更。カネボウとしての歴史に終止符を打った
歴史的証言
失敗の深い谷があり、険しい山があって、成功の山の頂にのぼることの容易ならぬことを知りました
万事人間本位
カネボウ粉飾2000億円
ペンタゴン経営はどこへ行くか