沿革年表 1887〜2007年における重要度別の出来事(合計37件)

年月区分社長/CEO出来事年度売上高純利益
重要事項会社設立
東京綿商社を創業
歴史的意義yutaka sugiura
鐘紡の出発点は綿花輸入の仲介業務であった。取引量の伸び悩みから、付加価値が製造工程に偏在する構造を認識し、自ら紡績メーカーに転じる判断を下した。商社機能を捨てて製造に専念する選択は不可逆であり、以後の鐘紡が大規模工場と企業買収を軸に拡大する経営モデルの前提条件を形成した。注目すべきは、技術者不足という致命的な制約を認識しつつも参入に踏み切った点であり、「まず規模を確保し技術は後から蓄積する」という発想が鐘紡の原型を規定した。
1887
1-12月
株式上場
東京株式取引所に株式を上場
1889年1月、株式を東京株式取引所へ上場した。当時の紡績会社としては早期の株式公開であり、その後の紡績大合同を含む積極的な企業買収の資金調達基盤となった。
1889
1-12月
鐘ヶ淵紡績会社に組織変更
重要事項
中上川彦次郎氏が社長就任
歴史的意義yutaka sugiura
中上川彦次郎の経営介入は、財務・費用・技術の三領域を同時に手当てする再建手法であり、初年度から黒字化を実現した。しかしより注目すべきは、紡績未経験の28歳の銀行員を大型工場の責任者に据えた人材登用にある。技術力より経営管理能力を優先するこの判断は、武藤山治という後の鐘紡を規定する経営者を生み出した。再建と拡張を同時に構想し、人材配置で実行力を確保する手法は、三井財閥の経営介入の一つの型を示している。
1893
1-12月
兵庫工場を稼働
1896
1-12月
紡績会社3社を買収
1899
1-12月
重要事項企業買収
紡績大合同論を提唱。企業買収を積極化
歴史的意義yutaka sugiura
武藤山治の紡績大合同論は、業界の淘汰局面を自社の規模拡大に転化する明確な戦略であった。原料の大量調達による購買力の確保と、買収先の設備更新による生産効率の向上を同時に狙う構想は合理的であり、実際に鐘紡を国内売上首位に押し上げた。しかしこの戦略は、全国に分散した大規模工場群と数万人の雇用を固定費として抱え込む構造を生んだ。繊維市況が悪化した際に「縮小する自由」を持たない企業体質は、ここに原型が形成された。
1900
1-12月
総合繊維メーカーを志向
-
1901
1-12月
鐘紡が日本企業で売上高1位へ
国内全ての業種の企業において、鐘紡が売上高トップを記録。日本を代表する会社に発展した
1933
1-12月
組織再編
鐘淵紡績と鐘淵実業が合併し鐘淵工業を設立
1944年2月、戦時統制下の事業再編として鐘淵紡績と鐘淵実業が合併し、鐘淵工業を設立した。戦時体制への対応として化学・繊維等の事業を一体運営する組織変更であり、戦後1946年に再び鐘淵紡績へ復元された。
1944
1-12月
武藤絲治が鐘紡の社長に就任
終戦直後に武藤山治の息子であった武藤絲治が鐘紡の社長に就任。以後、戦後の鐘紡の経営を武藤絲治が担う。
1946
1-12月
事業売却組織再編
化学部門を分離・鐘淵化学工業を設立
1949年9月、化学部門を分離して鐘淵化学工業(現カネカ)を設立し、木材・造機・鉱山等の事業をすべて廃止して繊維のみを存置した。戦後再建のための事業整理であり、後年に化粧品事業を譲り受ける布石ともなった。
1949
1-12月
朝鮮特需で好調
歴史的意義yutaka sugiura
朝鮮特需による利益率24%は鐘紡の戦後最高水準であった。しかしこの数字は、天然繊維の一時的な価格上昇がもたらしたものであり、全国30超の工場を維持する固定費構造の問題を覆い隠した。特需が去った後に露呈したのは、価格調整の手段を持たないまま数万人の雇用を抱える事業構造の脆弱性であった。好況期の成功体験は工場網の維持を正当化し、繊維不況下での構造改革の遅れと多角化への依存を準備する結果となった。
FY51
1951/4
売上高
314億円
当期純利益
51.1億円
FY52
1952/4
売上高
507億円
当期純利益
30億円
FY53
1953/4
売上高
367億円
当期純利益
3億円
FY54
1954/4
売上高
405億円
当期純利益
14億円
FY55
1955/4
売上高
379億円
当期純利益
4.3億円
FY56
1956/4
売上高
405億円
当期純利益
9.4億円
FY57
1957/4
売上高
493億円
当期純利益
22.8億円
紡績工場の一部休止を決定
綿製品の価格下落を受けて工場休止を決定。天然繊維で事業縮小
FY58
1958/4
売上高
464億円
当期純利益
8.9億円
博多工場・中津工場・中島工場を閉鎖
1958年前後の天然繊維市況悪化を受けて、鐘紡は主力工場の閉鎖を決定した。従来の閉鎖対象は従業員100〜500名規模の中規模工場(地方に点在した生糸繰糸工場)であったが、1959年以降は1000名規模の主力工場に拡大し、生産調整が本格化した。閉鎖対象は九州2工場(博多・中津)、大阪市内1工場(中島)、東京都内1工場(東京)であった。このうち東京工場は化粧品製造に一時転換されたが、その後完全に閉鎖された。
FY59
1959/4
売上高
383億円
当期純利益
0.2億円
FY60
1960/4
売上高
465億円
当期純利益
18億円
企業買収
鐘淵化学から化粧品事業を譲受
1961年1月、カネボウ化粧品を設立し、鐘淵化学工業の化粧品事業を営業譲受した。グレーターカネボウ建設計画と並行する多角化の主軸であり、翌年の化粧品事業本格参入への布石となった。
FY61
1961/4
売上高
538億円
当期純利益
24億円
重要事項
グレーターカネボウ建設計画を策定
グレーターカネボウ計画は、天然繊維依存からの脱却という方向性において合理的であった。化粧品やナイロンを成長領域に据える構想は、実際に売上構成の改善をもたらした。しかしこの計画は繊維事業の縮小ではなく新規事業の上乗せで構成比を変えようとするものであり、不採算部門の整理には踏み込まなかった。雇用維持を前提とした多角化は、後のペンタゴン経営における「化粧品の利益で繊維の赤字を補填する」構造の出発点となった。
経営判断をよむ →
FY62
1962/4
売上高
592億円
当期純利益
19.1億円
化粧品事業に新規参入
歴史的意義yutaka sugiura
化粧品参入の本質は、カネカからの事業買収と販売網への集中投資という二段構えにあった。製造ではなく流通に100億円を投じたのは、化粧品が販売接点の密度で勝負する事業であることを見抜いた判断であり、3年で売上10倍という結果がこれを裏付けた。しかし化粧品が唯一の高収益源となったことで、不採算事業の延命を可能にする資金供給装置としても機能した。「強い事業が弱い事業を支える」構造が固定化した起点がここにある。
FY63
1963/4
売上高
877億円
当期純利益
29.7億円
午後3時の綿業論を否定
鐘紡の社長であった武藤絲治は「繊維産業は斜陽では無い」という論説を展開し、鐘紡は「労使協調」を重視する意味でも繊維の縮小を先送りした。
FY64
1964/4
売上高
1,230億円
当期純利益
30.5億円
FY65
1965/4
売上高
1,432億円
当期純利益
28.8億円
組織再編
立花製菓を合併し食品事業へ進出
1965年8月、立花製菓株式会社(現クラシエフーズ高槻第一工場)を合併し食品事業へ進出した。化粧品・薬品に続くペンタゴン経営における多角化の一翼であり、繊維以外の収益柱を増やす狙いであった。
FY66
1966/4
売上高
1,336億円
当期純利益
14.7億円
組織再編
ペンタゴン経営を提唱
歴史的意義yutaka sugiura
ペンタゴン経営は繊維依存からの脱却と雇用維持を同時に達成するための構想であった。しかし五事業のうち利益を生んだのは化粧品のみであり、繊維の余剰人員を新規事業に配置する運営は各事業の自立的成長を妨げた。事業構成の複雑化は収益実態の把握を困難にし、計画と実績の乖離を是正する仕組みは機能しなかった。粉飾決算は個人の逸脱ではなく、雇用維持を最優先とする意思決定構造が長期にわたり積み重なった帰結として整理できる。
FY67
1967/4
売上高
1,334億円
当期純利益
10.8億円
FY68
1968/4
売上高
1,523億円
当期純利益
17.5億円
FY69
1969/4
売上高
1,641億円
当期純利益
11億円
国内5工場を閉鎖
1971年のニクソンショックにより円高ドル安が進行したことで、日本国内の繊維業は「東南アジア企業」との競争に巻き込まれ、国際競争力を喪失した。このため、再び生産調整のために1970年より工場閉鎖を再開した。1970年〜1974年にかけての工場閉鎖は都心部の工場を対象とした。よって、再就職先の斡旋が容易な地域から優先的に工場を閉鎖したと推察される。
FY70
1970/4
売上高
1,885億円
当期純利益
15.8億円
商号を鐘淵紡績から鐘紡に変更
繊維事業の比率低下に合わせて、社名から紡績の2文字を除去した「鐘紡」に変更した
FY71
1971/4
売上高
2,241億円
当期純利益
40.2億円
FY72
1972/4
売上高
2,482億円
当期純利益
40.2億円
FY73
1973/4
売上高
2,959億円
当期純利益
43.5億円
FY74
1974/4
売上高
3,929億円
当期純利益
66.5億円
事業売却
無配転落
歴史的意義yutaka sugiura
1975年の無配転落はペンタゴン経営の構造的欠陥を数字として露呈させた局面であった。五事業のうち利益を生むのは化粧品のみであり、繊維は年間100億円の赤字を計上していた。しかし化粧品が稼ぐほど不採算事業を維持する余地が生まれ、撤退判断は先送りされ続けた。工場跡地の売却益で純利益を整え、販社への押し込みで数字を作る慣行がこの時期に定着した点は、後年の粉飾決算の組織的な前提条件を形成した。
FY75
1975/4
売上高
4,017億円
当期純利益
12.1億円
国内4工場を閉鎖
1975年に鐘紡は繊維事業の不振で無配転落となり、工場閉鎖をさらに進めた。同年に京都・高砂・住道の3工場を一気に閉鎖して生産量を調整。それでも市場悪化に対応できず、1979年には四日市工場も閉鎖した。閉鎖対象工場は1950年代の全盛期には1000名以上を抱えていたが、生産合理化で300〜400名まで削減した。すなわちそこまで縮小しても収支は好転しなかったことを意味する。
FY76
1976/4
売上高
4,159億円
当期純利益
-28.3億円
FY77
1977/4
売上高
4,319億円
当期純利益
-9億円
FY78
1978/4
売上高
3,601億円
当期純利益
-26.8億円
FY79
1979/4
売上高
4,801億円
当期純利益
-93.5億円
FY80
1980/4
売上高
4,535億円
当期純利益
34.8億円
FY81
1981/4
売上高
4,980億円
当期純利益
-57.3億円
国内2工場を閉鎖
1982年に鐘紡は淀川工場(大阪府都島区)を閉鎖した。淀川工場は鐘紡の主力工場の1つであり、戦前は「東洋一」と言われた繊維工場であった。大阪市街地に位置する工場であったため、工場跡地を三井不動産と共同で「ベルパーク」として再開発することで、土地売却益を捻出した。また、1986年には洲本工場(兵庫県淡路島)の閉鎖を決定した。鐘紡は洲本工場で全盛期に3,000名以上を雇用しており、工場閉鎖によって淡路島における雇用が失われることを意味した。
FY82
1982/4
売上高
5,011億円
当期純利益
-50.4億円
FY83
1983/4
売上高
4,895億円
当期純利益
-34.9億円
FY84
1984/4
売上高
5,210億円
当期純利益
22.7億円
FY85
1985/4
売上高
5,341億円
当期純利益
54.2億円
FY86
1986/4
売上高
5,396億円
当期純利益
4.6億円
FY87
1987/4
売上高
5,565億円
当期純利益
-66.7億円
FY88
1988/4
売上高
5,375億円
当期純利益
-23.2億円
FY89
1989/4
売上高
6,433億円
当期純利益
43.7億円
FY90
1990/4
売上高
6,561億円
当期純利益
12.2億円
FY91
1991/4
売上高
6,804億円
当期純利益
10.3億円
国内4工場を閉鎖
1992年から1996年にかけて、国内の地方に残存する4工場を閉鎖した。対象は長野工場(長野市)、丸子工場(長野県上田市)、松阪工場(三重県)、西大寺(岡山県)であった。いずれも地方工場であり、地元自治体との雇用の関係で閉鎖が遅れたと推察される。
FY92
1992/4
売上高
6,813億円
当期純利益
-61億円
FY93
1993/4
売上高
6,597億円
当期純利益
-103億円
FY94
1994/4
売上高
5,836億円
当期純利益
-46億円
FY95
1995/4
売上高
5,900億円
当期純利益
-7億円
防府工場の閉鎖撤回
合成繊維事業の競争力低下に合わせて、山口県の防府工場の閉鎖を決定したが、熾烈な反対を受けて一時頓挫する。
FY96
1996/4
売上高
5,947億円
当期純利益
-275億円
FY97
1997/4
売上高
6,083億円
当期純利益
-4億円
FY98
1998/4
売上高
5,788億円
当期純利益
5億円
FY99
1999/4
売上高
5,373億円
当期純利益
16億円
FY00
2000/4
売上高
5,684億円
当期純利益
31億円
人員削減ではなく基本給10%削減を実施
2001年に帆足氏がカネボウの新社長に就任。債務超過寸前の財務状況であったが、労働組合の意向を考慮して人員削減ではなく基本給のカット(3年間10%削減)を決定した。それでも、帆足社長に対して「怪文書」(出所:2001/9/3日経ビジネス)が社内で飛び交うなど、厳しい状況にあった。
FY01
2001/4
売上高
5,555億円
親会社株主に帰属する当期純利益
116億円
商号を鐘紡からカネボウに変更
2001年1月、商号を鐘紡株式会社からカネボウ株式会社へ変更した。創業時の紡績色をさらに薄め、化粧品ブランド「カネボウ」と社名を一致させることで多角化企業としてのブランド戦略を明確化した。
FY02
2002/4
売上高
5,335億円
親会社株主に帰属する当期純利益
0.7億円
中嶋章義
国内4工場を閉鎖
鐘紡の粉飾決算が露呈したことを受けて、会社解散が決定。繊維工場のうち売却に値しないと判断された4工場の閉鎖を決定した。対象は、浜松工場(静岡県)、大垣工場(岐阜県)、彦根工場(滋賀県)、出雲工場(島根県)であり、撤退判断が遅れた工場であった。
FY03
2003/4
売上高
5,183億円
親会社株主に帰属する当期純利益
5.1億円
中嶋章義
債務超過に転落
歴史的意義yutaka sugiura
鐘紡の債務超過は単年度の業績悪化ではなく、数十年にわたる構造問題の帰結であった。五事業体制のもとで化粧品が繊維の赤字を補填し続けた相互もたれあいの構造は、撤退判断を先送りし会計処理の歪みを許容する組織風土を形成した。産業再生機構による再建は鐘紡を事業単位で解体売却する方針を採用し、総合メーカーとしての歴史に終止符を打った。強い事業を生む力とそれに資源を集中させる仕組みの乖離が、120年の名門を消滅させた。
FY04
2004/4
売上高
4,556億円
重要事項
産業再生機構がカネボウグループ全体の支援を決定
経営判断をよむ →
中嶋章義
FY05
2005/4
売上高
2,685億円
当期純利益
3,149億円
重要事項株式上場
中嶋章義
東京・大阪証券取引所市場第一部で上場廃止
2005年6月、粉飾決算の発覚と債務超過を受けて、東京証券取引所市場第一部および大阪証券取引所市場第一部で上場廃止となった。1889年の上場から116年を経た退場であり、企業解体の起点を象徴する出来事であった。
FY06
2006/4
売上高
1,394億円
当期純損失
-22億円
繊維事業をセーレンに売却
事業売却
化粧品事業を花王に売却
歴史的意義yutaka sugiura
化粧品事業の花王への売却は、鐘紡が単独企業として存続する選択肢を放棄した瞬間であった。化粧品は40年以上にわたりグループ唯一の安定収益源であり、事業の競争力は売却時点でも健在であった。しかし鐘紡は強い事業を育てながらもその事業に経営資源を集中させる仕組みを持てなかった。高収益事業が全社を救う武器ではなく換金資産として処分された事実が、多角化経営の帰結を象徴している。
重要事項
会社解散を決議
2007年の株主総会でカネボウは解散を採択。カネボウは精算業務を行うために商号を「海岸ベルマネジメント株式会社」に変更。カネボウとしての歴史に終止符を打った
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FY07
2007/4
売上高
68億円
当期純利益
157億円
  1. 会社設立
    東京綿商社を創業
    鐘紡の出発点は綿花輸入の仲介業務であった。取引量の伸び悩みから、付加価値が製造工程に偏在する構造を認識し、自ら紡績メーカーに転じる判断を下した。商社機能を捨てて製造に専念する選択は不可逆であり、以後の鐘紡が大規模工場と企業買収を軸に拡大する経営モデルの前提条件を形成した。注目すべきは、技術者不足という致命的な制約を認識しつつも参入に踏み切った点であり、「まず規模を確保し技術は後から蓄積する」という発想が鐘紡の原型を規定した。
  2. 株式上場
    東京株式取引所に株式を上場

    1889年1月、株式を東京株式取引所へ上場した。当時の紡績会社としては早期の株式公開であり、その後の紡績大合同を含む積極的な企業買収の資金調達基盤となった。

  3. 鐘ヶ淵紡績会社に組織変更
  4. 中上川彦次郎氏が社長就任
    中上川彦次郎の経営介入は、財務・費用・技術の三領域を同時に手当てする再建手法であり、初年度から黒字化を実現した。しかしより注目すべきは、紡績未経験の28歳の銀行員を大型工場の責任者に据えた人材登用にある。技術力より経営管理能力を優先するこの判断は、武藤山治という後の鐘紡を規定する経営者を生み出した。再建と拡張を同時に構想し、人材配置で実行力を確保する手法は、三井財閥の経営介入の一つの型を示している。
  5. 兵庫工場を稼働
  6. 紡績会社3社を買収
  7. 企業買収
    紡績大合同論を提唱。企業買収を積極化
    武藤山治の紡績大合同論は、業界の淘汰局面を自社の規模拡大に転化する明確な戦略であった。原料の大量調達による購買力の確保と、買収先の設備更新による生産効率の向上を同時に狙う構想は合理的であり、実際に鐘紡を国内売上首位に押し上げた。しかしこの戦略は、全国に分散した大規模工場群と数万人の雇用を固定費として抱え込む構造を生んだ。繊維市況が悪化した際に「縮小する自由」を持たない企業体質は、ここに原型が形成された。
  8. 総合繊維メーカーを志向

    -

  9. 鐘紡が日本企業で売上高1位へ

    国内全ての業種の企業において、鐘紡が売上高トップを記録。日本を代表する会社に発展した

  10. 組織再編
    鐘淵紡績と鐘淵実業が合併し鐘淵工業を設立

    1944年2月、戦時統制下の事業再編として鐘淵紡績と鐘淵実業が合併し、鐘淵工業を設立した。戦時体制への対応として化学・繊維等の事業を一体運営する組織変更であり、戦後1946年に再び鐘淵紡績へ復元された。

  11. 武藤絲治が鐘紡の社長に就任

    終戦直後に武藤山治の息子であった武藤絲治が鐘紡の社長に就任。以後、戦後の鐘紡の経営を武藤絲治が担う。

  12. 事業売却組織再編
    化学部門を分離・鐘淵化学工業を設立

    1949年9月、化学部門を分離して鐘淵化学工業(現カネカ)を設立し、木材・造機・鉱山等の事業をすべて廃止して繊維のみを存置した。戦後再建のための事業整理であり、後年に化粧品事業を譲り受ける布石ともなった。

  13. 朝鮮特需で好調
    朝鮮特需による利益率24%は鐘紡の戦後最高水準であった。しかしこの数字は、天然繊維の一時的な価格上昇がもたらしたものであり、全国30超の工場を維持する固定費構造の問題を覆い隠した。特需が去った後に露呈したのは、価格調整の手段を持たないまま数万人の雇用を抱える事業構造の脆弱性であった。好況期の成功体験は工場網の維持を正当化し、繊維不況下での構造改革の遅れと多角化への依存を準備する結果となった。
  14. 紡績工場の一部休止を決定

    綿製品の価格下落を受けて工場休止を決定。天然繊維で事業縮小

  15. 博多工場・中津工場・中島工場を閉鎖

    1958年前後の天然繊維市況悪化を受けて、鐘紡は主力工場の閉鎖を決定した。従来の閉鎖対象は従業員100〜500名規模の中規模工場(地方に点在した生糸繰糸工場)であったが、1959年以降は1000名規模の主力工場に拡大し、生産調整が本格化した。閉鎖対象は九州2工場(博多・中津)、大阪市内1工場(中島)、東京都内1工場(東京)であった。このうち東京工場は化粧品製造に一時転換されたが、その後完全に閉鎖された。

  16. 企業買収
    鐘淵化学から化粧品事業を譲受

    1961年1月、カネボウ化粧品を設立し、鐘淵化学工業の化粧品事業を営業譲受した。グレーターカネボウ建設計画と並行する多角化の主軸であり、翌年の化粧品事業本格参入への布石となった。

  17. 化粧品事業に新規参入
    化粧品参入の本質は、カネカからの事業買収と販売網への集中投資という二段構えにあった。製造ではなく流通に100億円を投じたのは、化粧品が販売接点の密度で勝負する事業であることを見抜いた判断であり、3年で売上10倍という結果がこれを裏付けた。しかし化粧品が唯一の高収益源となったことで、不採算事業の延命を可能にする資金供給装置としても機能した。「強い事業が弱い事業を支える」構造が固定化した起点がここにある。
  18. 午後3時の綿業論を否定

    鐘紡の社長であった武藤絲治は「繊維産業は斜陽では無い」という論説を展開し、鐘紡は「労使協調」を重視する意味でも繊維の縮小を先送りした。

  19. 組織再編
    立花製菓を合併し食品事業へ進出

    1965年8月、立花製菓株式会社(現クラシエフーズ高槻第一工場)を合併し食品事業へ進出した。化粧品・薬品に続くペンタゴン経営における多角化の一翼であり、繊維以外の収益柱を増やす狙いであった。

  20. 組織再編
    ペンタゴン経営を提唱
    ペンタゴン経営は繊維依存からの脱却と雇用維持を同時に達成するための構想であった。しかし五事業のうち利益を生んだのは化粧品のみであり、繊維の余剰人員を新規事業に配置する運営は各事業の自立的成長を妨げた。事業構成の複雑化は収益実態の把握を困難にし、計画と実績の乖離を是正する仕組みは機能しなかった。粉飾決算は個人の逸脱ではなく、雇用維持を最優先とする意思決定構造が長期にわたり積み重なった帰結として整理できる。
  21. 国内5工場を閉鎖

    1971年のニクソンショックにより円高ドル安が進行したことで、日本国内の繊維業は「東南アジア企業」との競争に巻き込まれ、国際競争力を喪失した。このため、再び生産調整のために1970年より工場閉鎖を再開した。1970年〜1974年にかけての工場閉鎖は都心部の工場を対象とした。よって、再就職先の斡旋が容易な地域から優先的に工場を閉鎖したと推察される。

  22. 商号を鐘淵紡績から鐘紡に変更

    繊維事業の比率低下に合わせて、社名から紡績の2文字を除去した「鐘紡」に変更した

  23. 事業売却
    無配転落
    1975年の無配転落はペンタゴン経営の構造的欠陥を数字として露呈させた局面であった。五事業のうち利益を生むのは化粧品のみであり、繊維は年間100億円の赤字を計上していた。しかし化粧品が稼ぐほど不採算事業を維持する余地が生まれ、撤退判断は先送りされ続けた。工場跡地の売却益で純利益を整え、販社への押し込みで数字を作る慣行がこの時期に定着した点は、後年の粉飾決算の組織的な前提条件を形成した。
  24. 国内4工場を閉鎖

    1975年に鐘紡は繊維事業の不振で無配転落となり、工場閉鎖をさらに進めた。同年に京都・高砂・住道の3工場を一気に閉鎖して生産量を調整。それでも市場悪化に対応できず、1979年には四日市工場も閉鎖した。閉鎖対象工場は1950年代の全盛期には1000名以上を抱えていたが、生産合理化で300〜400名まで削減した。すなわちそこまで縮小しても収支は好転しなかったことを意味する。

  25. 国内2工場を閉鎖

    1982年に鐘紡は淀川工場(大阪府都島区)を閉鎖した。淀川工場は鐘紡の主力工場の1つであり、戦前は「東洋一」と言われた繊維工場であった。大阪市街地に位置する工場であったため、工場跡地を三井不動産と共同で「ベルパーク」として再開発することで、土地売却益を捻出した。また、1986年には洲本工場(兵庫県淡路島)の閉鎖を決定した。鐘紡は洲本工場で全盛期に3,000名以上を雇用しており、工場閉鎖によって淡路島における雇用が失われることを意味した。

  26. 国内4工場を閉鎖

    1992年から1996年にかけて、国内の地方に残存する4工場を閉鎖した。対象は長野工場(長野市)、丸子工場(長野県上田市)、松阪工場(三重県)、西大寺(岡山県)であった。いずれも地方工場であり、地元自治体との雇用の関係で閉鎖が遅れたと推察される。

  27. 防府工場の閉鎖撤回

    合成繊維事業の競争力低下に合わせて、山口県の防府工場の閉鎖を決定したが、熾烈な反対を受けて一時頓挫する。

  28. 人員削減ではなく基本給10%削減を実施

    2001年に帆足氏がカネボウの新社長に就任。債務超過寸前の財務状況であったが、労働組合の意向を考慮して人員削減ではなく基本給のカット(3年間10%削減)を決定した。それでも、帆足社長に対して「怪文書」(出所:2001/9/3日経ビジネス)が社内で飛び交うなど、厳しい状況にあった。

  29. 商号を鐘紡からカネボウに変更

    2001年1月、商号を鐘紡株式会社からカネボウ株式会社へ変更した。創業時の紡績色をさらに薄め、化粧品ブランド「カネボウ」と社名を一致させることで多角化企業としてのブランド戦略を明確化した。

  30. 国内4工場を閉鎖

    鐘紡の粉飾決算が露呈したことを受けて、会社解散が決定。繊維工場のうち売却に値しないと判断された4工場の閉鎖を決定した。対象は、浜松工場(静岡県)、大垣工場(岐阜県)、彦根工場(滋賀県)、出雲工場(島根県)であり、撤退判断が遅れた工場であった。

  31. 債務超過に転落
    鐘紡の債務超過は単年度の業績悪化ではなく、数十年にわたる構造問題の帰結であった。五事業体制のもとで化粧品が繊維の赤字を補填し続けた相互もたれあいの構造は、撤退判断を先送りし会計処理の歪みを許容する組織風土を形成した。産業再生機構による再建は鐘紡を事業単位で解体売却する方針を採用し、総合メーカーとしての歴史に終止符を打った。強い事業を生む力とそれに資源を集中させる仕組みの乖離が、120年の名門を消滅させた。
  32. 株式上場
    東京・大阪証券取引所市場第一部で上場廃止

    2005年6月、粉飾決算の発覚と債務超過を受けて、東京証券取引所市場第一部および大阪証券取引所市場第一部で上場廃止となった。1889年の上場から116年を経た退場であり、企業解体の起点を象徴する出来事であった。

  33. 繊維事業をセーレンに売却
  34. 事業売却
    化粧品事業を花王に売却
    化粧品事業の花王への売却は、鐘紡が単独企業として存続する選択肢を放棄した瞬間であった。化粧品は40年以上にわたりグループ唯一の安定収益源であり、事業の競争力は売却時点でも健在であった。しかし鐘紡は強い事業を育てながらもその事業に経営資源を集中させる仕組みを持てなかった。高収益事業が全社を救う武器ではなく換金資産として処分された事実が、多角化経営の帰結を象徴している。