いすゞ自動車の沿革・歴史的証言
1937年〜2025年
いすゞ自動車の1937年〜2025年の主要な出来事・経営判断・組織変化を年月順に並べた沿革(社史年表)と、経営者・当事者の歴史的証言
| 年度 | 売上高 | 純利益 | 年月 | 区分 | 出来事 | 歴史的意義 |
|---|---|---|---|---|---|---|
1937 1-12月 | 東京自動車工業株式会社を設立 1930年代後半、政府は戦時体制下で自動車生産を効率化するため、首都圏メーカーの統合を推進した。1937年4月、東京瓦斯電気工業の自動車部門とダット自動車製造が合同し東京自動車工業(現いすゞ)が発足した。前身の石川島造船所以来のディーゼル技術を集約し、1934年設置の「ディーゼル機関研究委員会」の蓄積も継承された。この方向性が戦時の戦車製造、戦後の商用車開発へ受け継がれ、ディーゼルトラックメーカーとしての原点となった。 | 「国策の統合」が宿命づけたディーゼルの系譜 | ||||
1938 1-12月 | 川崎工場を新設 東京瓦斯電気の工場建設予定地であった川崎工場について、いすゞ自動車の工場として活用する方針を決定。1938年7月にいすゞは川崎工場(敷地面積4万坪)として自動車量産のための工場を新設した。工場新設の翌月(1938年8月31日)には、トラック「TX40型」をラインオフし、四輪トラックの生産工場として稼働を開始した。 | |||||
1941 1-12月 | 商号をヂーゼル自動車工業株式会社に変更 戦時体制において、日本政府はディーゼル車を量産するために、これらの技術をいすゞ自動車に集約する方針を決定。商号を「東京自動車工業」から「ヂーゼル自動車工業」に変更した。 | |||||
1942 1-12月 | 日野製造所を日野自動車として分離 1938年、いすゞは陸軍要請で戦車量産のため日野市に20万坪を確保し、1941年から日野製造所として稼働した。しかし本体は商工省、日野は陸軍補助という二重管轄が非効率となった。よって1942年、日野製造所を分離し完全子会社の日野重工業(後の日野自動車)を発足させた。軍需と民需を組織的に切り分ける意味も持っていた。しかし戦後の財閥解体でいすゞは日野株式売却を余儀なくされ、国策による一時的分離が同業の競争相手を生む結果となった。 | 「補助金の論理」が生んだ同業の競争相手 | ||||
1947 1-12月 | 民需転換によりディーゼル商用車を開発 | |||||
FY50 1950/3 | 東京証券取引所に株式上場 | |||||
商号をいすゞ自動車株式会社に変更 | ||||||
FY53 1953/3 | ルーツ社と技術援助提携に調印(乗用車生産開始) 1953年2月に英ルーツ社と提携し、乗用車「ヒルマン」の国内生産(組立生産)を開始。いすゞとしては、トラックおよびバスの量産から、乗用車の生産に進出する足掛かりとして。外国メーカーとの提携によるノックダウン生産を選択した。1958年には乗用車「ヒルマン」の量産のために、川崎工場の拡張(5.9万坪の取得)を実施。商用車に続く事業展開として、乗用車の量産を志向した。 | |||||
FY60 1960/3 | 小型トラック「エルフ」を発表 | |||||
FY62 1962/3 | ディーゼル乗用車ベレルを発表 | |||||
藤沢工場を新設 乗用車の量産のために、神奈川県藤沢市内に藤沢工場を新設。敷地面積は34.5万坪であり、いすゞ自動車としては最大の規模であった。 | ||||||
FY67 1967/3 | 泰国いすゞ自動車(IMCT)を設立 1957年にいすゞはタイ向けトラック輸出を開始し、三菱商事と協業した。1963年に三菱商事がタイに組立工場を新設し、1966年にいすゞが同工場を譲り受けて「泰国いすゞ自動車」を発足、現地生産を開始した。出資はいすゞ42.5%、三菱商事グループ6.5%、販売会社トリペッチいすゞセールス36.0%。販売網は1970年代までに同社が継承し、タイ国内で90販売拠点・24アフター拠点に達した。商社主導の販路整備が後の最大海外拠点の基盤となった。 | 「商社が敷いた販路」の上に築かれた海外拠点 | ||||
FY69 1969/3 | 乗用車クーペを発売 | |||||
トラック事業で赤字転落 1960年代を通じていすゞは乗用車への量産投資を優先し、商用車投資を抑制した。結果、トラック国内シェアは低下し1969年には25%以下に落ちた。1960年代前半まではトラックの高収益で乗用車赤字を補填していたが、後半には両事業とも業績が悪化した。乗用車については商用車中心ゆえに国内販路整備が不十分で、日産・トヨタが量産投資でシェアを確保したため、いすゞは劣勢となった。 | ||||||
FY72 1972/3 | GM社と全面提携に調印 1960年代後半、乗用車優先投資でトラック競争力が低下し業績が悪化した。単独再建が困難ななか、1971年7月、いすゞは伊藤忠商事の仲介で米GMと全面提携し、第三者割当増資でGMが株式34.2%を取得し筆頭株主となった。いすゞはGMグループのディーゼル車開発を一任され、乗用車「ジェミニ」を共同開発、北米向けピックアップのOEMも開始した。しかし経営はGM方針に従属する構造となり、後年の協業縮小局面で北米事業が打撃を受ける布石となった。 | 「世界最大手への従属」が内包した構造的リスク | ||||
FY73 1973/3 | 栃木工場を新設 トラック量産のために栃木工場を新設。将来の拡張可能性を考慮した敷地面積は30万坪であった。ところが、主力の藤沢工場や川崎工場からは離れた立地条件であり、従業員が配置転換を拒んだため、機能移転が遅れたという。 | |||||
FY75 1975/3 | 乗用車ジェミニを発売(GMと共同開発) | |||||
FY76 1976/3 | 経常赤字に転落 | |||||
FY81 1981/3 | 米国いすゞ自動車を設立 1971年提携後、GMは1980年までに方針を転換した。小型トラックをOEM調達から米国自社生産に切替えたため、いすゞは北米輸出縮小に直面した。GM販売網依存ゆえ自社ブランド販路を持たず、市場アクセス喪失リスクが顕在化した。よって1980年6月、いすゞ80%・伊藤忠20%出資で米国いすゞ自動車を設立し、北米自主販売を開始した。設立1年で全米22州200ディーラーを確保し、GM提携で浸透したブランド認知が販路立ち上げを後押しした。 | 「依存の遺産」が逆説的に支えた自律への転換 | ||||
FY85 1985/3 | 北海道工場を新設(Rカー量産) | 「前提条件の崩壊」が暴いた大規模投資の脆弱性 | ||||
FY87 1987/3 | 富士重工と北米現地生産の合弁会社を設立(IF提携) | |||||
FY89 1989/3 | 鶴見製造所を閉鎖 大型エンジン部品を製造していた鶴見製作所を閉鎖。工場跡地を岡村製作所(文具メーカー)に売却 | |||||
FY92 1992/3 | 売上高 15,080億円 | 当期純利益 -289億円 | ||||
FY93 1993/3 | 売上高 15,617億円 | 当期純利益 -42億円 | 乗用車から事業撤退 いすゞは業績不振の原因であった乗用車事業の縮小を決定。主力車種である「ジェミニ」の後継車種の開発を中止した。生産面では、1992年12月にホンダと提携し、北米ではRVをホンダにOEMで供与し、国内ではホンダがいすゞに小型車を供与することで合意した。この結果、販売面ではいすゞブランドの乗用車は存続するものの、生産・開発面では乗用車事業から撤退。いすゞとしては長年継続してきた乗用車から撤退し、トラックなどの商用社に注力する体制をとった。 | |||
FY94 1994/3 | 売上高 15,973億円 | 当期純利益 30億円 | ||||
FY95 1995/3 | 売上高 7,584億円 | 当期純利益 64億円 | ||||
FY96 1996/3 | 売上高 16,818億円 | 当期純利益 375億円 | ||||
FY97 1997/3 | 売上高 19,232億円 | 当期純利益 95億円 | ||||
FY98 1998/3 | 売上高 17,996億円 | 当期純利益 60億円 | ||||
FY99 1999/3 | 売上高 16,191億円 | 当期純利益 62億円 | GMと合弁会社DMAXを設立 | |||
FY00 2000/3 | 売上高 15,066億円 | 当期純利益 -1,041億円 | ||||
FY01 2001/3 | 売上高 15,691億円 | 当期純利益 -667億円 | ||||
FY02 2002/3 | 売上高 15,977億円 | 当期純利益 -429億円 | 希望退職者の募集 本社人員700名に対して希望退職者の募集を実施。対象者は32歳以上で、勤続10年以上の社員。募集開始から2時間で740名の応募があり、発表当日に受付を終了した。 | |||
FY03 2003/3 | 売上高 13,494億円 | 当期純利益 -1,443億円 | 過去最大の赤字転落 | |||
FY04 2004/3 | 売上高 14,303億円 | 当期純利益 547億円 | ||||
FY05 2005/3 | 売上高 14,935億円 | 当期純利益 600億円 | 川崎工場を閉鎖 | |||
タイ現地法人を子会社化 | ||||||
FY06 2006/3 | 売上高 15,818億円 | 当期純利益 589億円 | ||||
FY07 2007/3 | 売上高 16,629億円 | 当期純利益 923億円 | GMと資本提携を解消 | |||
FY08 2008/3 | 売上高 19,248億円 | 当期純利益 760億円 | ||||
FY09 2009/3 | 売上高 14,247億円 | 当期純損失 -268億円 | ||||
FY10 2010/3 | 売上高 10,809億円 | 当期純利益 84億円 | ||||
FY11 2011/3 | 売上高 14,155億円 | 当期純利益 515億円 | ||||
FY12 2012/3 | 売上高 14,000億円 | 親会社株主に帰属する当期純利益 912億円 | ||||
FY13 2013/3 | 売上高 16,555億円 | 親会社株主に帰属する当期純利益 965億円 | ||||
FY14 2014/3 | 売上高 17,608億円 | 親会社株主に帰属する当期純利益 1,193億円 | ||||
FY15 2015/3 | 売上高 18,794億円 | 親会社株主に帰属する当期純利益 1,170億円 | ||||
FY16 2016/3 | 売上高 19,269億円 | 親会社株主に帰属する当期純利益 1,146億円 | ||||
FY17 2017/3 | 売上高 19,531億円 | 親会社株主に帰属する当期純利益 938億円 | 米ピックアップトラックの組立工場を新設 | |||
FY18 2018/3 | 売上高 20,703億円 | 親会社株主に帰属する当期純利益 1,056億円 | ||||
FY19 2019/3 | 売上高 21,491億円 | 親会社株主に帰属する当期純利益 1,134億円 | ||||
FY20 2020/3 | 売上高 20,799億円 | 親会社株主に帰属する当期純利益 812億円 | ||||
FY21 2021/3 | 売上高 19,081億円 | 親会社株主に帰属する当期純利益 427億円 | ボルボ社と協業・UDトラックスの株式を取得 UDトラックス(旧日産ディーゼル)は2007年にボルボ傘下入りしたが、2018年12月期は売上高2565億円・営業利益11億円と低迷し、ボルボは売却を企図していた。いすゞには埼玉県上尾市の生産基盤が事業領域拡充の機会となった。2020年、いすゞはボルボと協業しUD株式100%を取得した。取得原価587億円に加え、UDがボルボに負う借入金2615億円も弁済し支払総額は3203億円に達した。簿価と実質負担の乖離が大きい戦略的投資となった。 | 「簿価と実質負担」の乖離が問う買収の真価 | ||
FY22 2022/3 | 売上高 25,142億円 | 親会社株主に帰属する当期純利益 1,261億円 | トヨタ・日野自動車と商用事業で協業 | |||
FY23 2023/3 | 売上高 31,955億円 | 親会社株主に帰属する当期純利益 1,517億円 | ||||
FY24 2024/3 | 売上高 33,866億円 | 親会社株主に帰属する当期純利益 1,764億円 | ||||
FY25 2025/3 | 売上高 32,080億円 | 親会社株主に帰属する当期純利益 1,343億円 |
- 東京自動車工業株式会社を設立
1930年代後半、政府は戦時体制下で自動車生産を効率化するため、首都圏メーカーの統合を推進した。1937年4月、東京瓦斯電気工業の自動車部門とダット自動車製造が合同し東京自動車工業(現いすゞ)が発足した。前身の石川島造船所以来のディーゼル技術を集約し、1934年設置の「ディーゼル機関研究委員会」の蓄積も継承された。この方向性が戦時の戦車製造、戦後の商用車開発へ受け継がれ、ディーゼルトラックメーカーとしての原点となった。
「国策の統合」が宿命づけたディーゼルの系譜 - 川崎工場を新設
東京瓦斯電気の工場建設予定地であった川崎工場について、いすゞ自動車の工場として活用する方針を決定。1938年7月にいすゞは川崎工場(敷地面積4万坪)として自動車量産のための工場を新設した。工場新設の翌月(1938年8月31日)には、トラック「TX40型」をラインオフし、四輪トラックの生産工場として稼働を開始した。
- 商号をヂーゼル自動車工業株式会社に変更
戦時体制において、日本政府はディーゼル車を量産するために、これらの技術をいすゞ自動車に集約する方針を決定。商号を「東京自動車工業」から「ヂーゼル自動車工業」に変更した。
- 日野製造所を日野自動車として分離
1938年、いすゞは陸軍要請で戦車量産のため日野市に20万坪を確保し、1941年から日野製造所として稼働した。しかし本体は商工省、日野は陸軍補助という二重管轄が非効率となった。よって1942年、日野製造所を分離し完全子会社の日野重工業(後の日野自動車)を発足させた。軍需と民需を組織的に切り分ける意味も持っていた。しかし戦後の財閥解体でいすゞは日野株式売却を余儀なくされ、国策による一時的分離が同業の競争相手を生む結果となった。
「補助金の論理」が生んだ同業の競争相手 - 民需転換によりディーゼル商用車を開発
- 東京証券取引所に株式上場
- 商号をいすゞ自動車株式会社に変更
- ルーツ社と技術援助提携に調印(乗用車生産開始)
1953年2月に英ルーツ社と提携し、乗用車「ヒルマン」の国内生産(組立生産)を開始。いすゞとしては、トラックおよびバスの量産から、乗用車の生産に進出する足掛かりとして。外国メーカーとの提携によるノックダウン生産を選択した。1958年には乗用車「ヒルマン」の量産のために、川崎工場の拡張(5.9万坪の取得)を実施。商用車に続く事業展開として、乗用車の量産を志向した。
- 小型トラック「エルフ」を発表
- ディーゼル乗用車ベレルを発表
- 藤沢工場を新設
乗用車の量産のために、神奈川県藤沢市内に藤沢工場を新設。敷地面積は34.5万坪であり、いすゞ自動車としては最大の規模であった。
- 泰国いすゞ自動車(IMCT)を設立
1957年にいすゞはタイ向けトラック輸出を開始し、三菱商事と協業した。1963年に三菱商事がタイに組立工場を新設し、1966年にいすゞが同工場を譲り受けて「泰国いすゞ自動車」を発足、現地生産を開始した。出資はいすゞ42.5%、三菱商事グループ6.5%、販売会社トリペッチいすゞセールス36.0%。販売網は1970年代までに同社が継承し、タイ国内で90販売拠点・24アフター拠点に達した。商社主導の販路整備が後の最大海外拠点の基盤となった。
「商社が敷いた販路」の上に築かれた海外拠点 - 乗用車クーペを発売
- トラック事業で赤字転落
1960年代を通じていすゞは乗用車への量産投資を優先し、商用車投資を抑制した。結果、トラック国内シェアは低下し1969年には25%以下に落ちた。1960年代前半まではトラックの高収益で乗用車赤字を補填していたが、後半には両事業とも業績が悪化した。乗用車については商用車中心ゆえに国内販路整備が不十分で、日産・トヨタが量産投資でシェアを確保したため、いすゞは劣勢となった。
- GM社と全面提携に調印
1960年代後半、乗用車優先投資でトラック競争力が低下し業績が悪化した。単独再建が困難ななか、1971年7月、いすゞは伊藤忠商事の仲介で米GMと全面提携し、第三者割当増資でGMが株式34.2%を取得し筆頭株主となった。いすゞはGMグループのディーゼル車開発を一任され、乗用車「ジェミニ」を共同開発、北米向けピックアップのOEMも開始した。しかし経営はGM方針に従属する構造となり、後年の協業縮小局面で北米事業が打撃を受ける布石となった。
「世界最大手への従属」が内包した構造的リスク - 栃木工場を新設
トラック量産のために栃木工場を新設。将来の拡張可能性を考慮した敷地面積は30万坪であった。ところが、主力の藤沢工場や川崎工場からは離れた立地条件であり、従業員が配置転換を拒んだため、機能移転が遅れたという。
- 乗用車ジェミニを発売(GMと共同開発)
- 経常赤字に転落
- 米国いすゞ自動車を設立
1971年提携後、GMは1980年までに方針を転換した。小型トラックをOEM調達から米国自社生産に切替えたため、いすゞは北米輸出縮小に直面した。GM販売網依存ゆえ自社ブランド販路を持たず、市場アクセス喪失リスクが顕在化した。よって1980年6月、いすゞ80%・伊藤忠20%出資で米国いすゞ自動車を設立し、北米自主販売を開始した。設立1年で全米22州200ディーラーを確保し、GM提携で浸透したブランド認知が販路立ち上げを後押しした。
「依存の遺産」が逆説的に支えた自律への転換 - 北海道工場を新設(Rカー量産)「前提条件の崩壊」が暴いた大規模投資の脆弱性
- 富士重工と北米現地生産の合弁会社を設立(IF提携)
- 鶴見製造所を閉鎖
大型エンジン部品を製造していた鶴見製作所を閉鎖。工場跡地を岡村製作所(文具メーカー)に売却
- 乗用車から事業撤退
いすゞは業績不振の原因であった乗用車事業の縮小を決定。主力車種である「ジェミニ」の後継車種の開発を中止した。生産面では、1992年12月にホンダと提携し、北米ではRVをホンダにOEMで供与し、国内ではホンダがいすゞに小型車を供与することで合意した。この結果、販売面ではいすゞブランドの乗用車は存続するものの、生産・開発面では乗用車事業から撤退。いすゞとしては長年継続してきた乗用車から撤退し、トラックなどの商用社に注力する体制をとった。
- GMと合弁会社DMAXを設立
- 希望退職者の募集
本社人員700名に対して希望退職者の募集を実施。対象者は32歳以上で、勤続10年以上の社員。募集開始から2時間で740名の応募があり、発表当日に受付を終了した。
- 過去最大の赤字転落
- 川崎工場を閉鎖
- タイ現地法人を子会社化
- GMと資本提携を解消
- 米ピックアップトラックの組立工場を新設
- ボルボ社と協業・UDトラックスの株式を取得
UDトラックス(旧日産ディーゼル)は2007年にボルボ傘下入りしたが、2018年12月期は売上高2565億円・営業利益11億円と低迷し、ボルボは売却を企図していた。いすゞには埼玉県上尾市の生産基盤が事業領域拡充の機会となった。2020年、いすゞはボルボと協業しUD株式100%を取得した。取得原価587億円に加え、UDがボルボに負う借入金2615億円も弁済し支払総額は3203億円に達した。簿価と実質負担の乖離が大きい戦略的投資となった。
「簿価と実質負担」の乖離が問う買収の真価 - トヨタ・日野自動車と商用事業で協業
歴史的証言
当社は、堅実をモットーにする会社である。眼に見えぬ合理化には、日夜、いそしんでいるが、大々的な拡張は、積極的にやらない
フォード・東洋工業、資本提携に動く
トヨタ?日産?フォード?
わが国自動車業界では来春の資本自由化実施前に…世界の三大自動車会社がそろって対日進出することになる
乗っ取り防げるか
入社以来43年、いすゞを愛する気持ちは誰にも負けないつもりだ。1万3000人の従業員、220の関連企業の将来のためにも、いすゞの名が消えるような提携の仕方はしない。GMだって、乗っ取りはしないとはっきりいっている
GMの世界的な販売網に乗ったいすゞ車のトラック販売という、国際分業体制が本格的に動き出した/もし、GMルートによる輸出がなかったら、一気に大幅赤字に陥ったのは確実
こうした苦難に直面してGMを後ろ盾にしている強みを感じる
800億〜1000億円に及ぶ投資を伴うだけにかなり背伸びした計画/岡本利雄社長が「入社以来49年、今がいちばん苦しいとき」
全体のちょうど1%に過ぎなかった/20万台輸出計画に賭けてなけなしのカネをはたいたいすゞの体力は急速に悪化した/飛山社長にとって記念すべき年は、悪夢の年へと転落した
いすゞの悲劇は巨大企業GMとの提携にあると決めつけたら、言い過ぎだろうか/GM依存の体質は、今やいすゞの経営の隅々にまで浸透している