ヤオハンの沿革(1930〜2019年)

ヤオハンの創業から現在までの主要な出来事・経営判断・組織変化を年月順に一覧できる沿革(社史年表)ページです。 各年の売上高・純利益などの業績推移と、歴史的意義の解説をあわせて掲載しています。 社史・報道資料などの公開情報をもとに重要事項を判断の上、作成しています。

年度売上高純利益年月区分出来事歴史的意義
1930
1-12月
八百半熱海支店を創業
熱海の旅館向けに野菜を販売していた「八百半」から暖簾分けする形で、1930年に和田良平が「八百半熱海支店」(現在のヤオハン)を創業した。創業当初は熱海に点在する温泉旅館向けの「野菜卸」の事業を主軸としたが、収益性は低かったという。
1955
1-12月
八百半食品デパートに商号変更
1956
1-12月
現金正札廉価販売を導入
旅館向け掛売の廃止が生んだ「仕入回転の加速」という収益構造
1962
1-12月
和田一夫(33歳)が社長就任
ヤオハンの社長に創業家の和田一夫が就任。熱海の1店舗だけであったが、1960年代を通じて伊豆半島(熱海・三島・沼津)にスーパーを新設することで、地域密着型の店舗展開によって業容を拡大する。なお、和田一夫は熱心な信仰家(生長の家)でもあり、ヤオハンの経営にも信仰心が生かされたという。
1965
1-12月
小田原店を新設(神奈川県へ進出)
1966
1-12月
伊東店を新設
1971
1-12月
ブラジル店を開店
初動の成功体験が撤退判断を遅らせた南米進出の構図
1972
1-12月
グループ年商100億円を突破
1973
1-12月
熱海店を新設
清水店を新設
1974
1-12月
シンガポール店を開店
「流通業のソニーになる」という目標を達成するために、ヤオハンはシンガポールに進出した。
1977
1-12月
ブラジルヤオハンの破綻
1973年のオイルショックによって世界経済が不況に陥ると、ブラジルヤオハンの業績が悪化。経営支援のための送金がブラジル政府によって制限されたこともあり、ヤオハンはブラジルヤオハンを破綻を決めた。
1981
1-12月
蒲郡店を新設(愛知県へ進出)
1982
1-12月
名古屋証券取引所に株式上場
ブラジル事業では失敗を被ったものの、ヤオハンはシンガポール事業と、国内事業によって堅調に業容を拡大。1982年に株式上場を果たす。
袋井プラザ店を新設
1983
1-12月
グループ年商1000億円を突破
1986
1-12月
ワラント債および転換社債の発行開始
1989
1-12月
海外22店舗体制
1980年代を通じてヤオハンはシンガポールやマレーシアなどの東南アジアを中心に店舗網を拡大し、日本小売業界では異例とも言える海外店舗を22店(1989年時点)を運営した。このため、ヤオハンは経済メディアから「流通界の国際派No.1」(1989/2/13日経ビジネス)として賞賛され、和田一夫の経営に注目が集まる。
1990
1-12月
香港にグループ本社を設置
経常利益を大幅に超える社債発行が前提とした「将来の中国内需」
1992
1-12月
富士宮プラザ店を新設
1993
1-12月
経営指導料の架空計上を開始(粉飾)
1994
1-12月
有利子負債が増加
櫛形店を新設
1995
1-12月
沼津南プラザ店を新設
1997
1-12月
国内16店舗をダイエーに売却
会社更生法の適用申請により倒産
ヤオハングループは、現金正札廉価販売を起点として成長し、国内外で店舗網を拡大していった。1960年代以降のチェーン展開に加え、1970年代以降は海外進出を本格化させ、アジア、南米、中国へと事業領域を広げていった。小売業としては異例の速度と規模での拡大であった。 とくに1980年代後半から1990年代にかけては、海外展開と国内事業の並行拡大が進み、グループ全体の規模は急速に膨らんでいった。ピーク時には世界16ヵ国に約450店舗を展開し、年商は約5,000億円、従業員数は約1万8,000人に達していた。ヤオハンは名実ともに国際流通グループとして認知される存在となっていた。 一方で、急拡大の裏側では、国内事業の競争環境が厳しさを増していた。スーパーマーケット業界では価格競争が激化し、収益構造は徐々に圧迫されていた。海外事業の成長が注目される中で、国内事業の収益力低下は相対的に見えにくくなっていた。 1997年9月18日、ヤオハングループは経営破綻に至った。負債総額は約1,600億円に上り、当時の流通業としては過去最大規模の倒産であった。グループ各社は整理・売却され、展開していた世界各地の店舗網も解体されることとなった。 倒産の直接的な引き金は資金繰りの行き詰まりであったが、背景には複合的な要因が存在していた。海外事業そのものが失敗したというよりも、拡大路線が続く中で、国内事業の不振に十分な手当てができなくなっていた点が大きかった。収益基盤である国内事業の弱体化が、全体の財務バランスを崩していた。 また、グループ全体を統括する財務管理やリスク管理の機能が十分に機能していなかったことも影響した。資金調達の複雑化、同族経営による牽制機能の弱さ、危機の兆候に対する対応の遅れが重なり、経営判断の修正が後手に回っていた。結果として、巨大化した組織を支える統制力が追いつかなくなっていた。 倒産後、グループ会長であった和田一夫氏は、すべての役職を辞任し、経営の第一線から退いた。銀行融資に対する個人保証もあり、和田氏は私財を失い、事実上無一文の状態となった。68歳での再出発であった。 しかし、和田氏は経営者としての活動を終えたわけではなかった。翌年には経営コンサルティング業務を開始し、自身の成功と失敗の経験をもとに企業支援に関わるようになった。その後、中国企業の経営戦略顧問に就任するなど、活動の場を再び海外へと広げていった。 晩年に至るまで、和田氏は国際経営コンサルタントとして日中両国で活動を続けていた。ヤオハンの倒産は経営人生における大きな挫折であったが、その経験は、経営の危機管理や成長の限界を語る実例として、次世代の経営者に共有されるものとなっていった。x
「流通界の国際派No.1」を支えた粉飾と同族経営の牽制不在
1998
1-12月
元社長および取締役が逮捕(粉飾)
2019
1-12月
創業家の和田一夫氏が逝去
  1. 八百半熱海支店を創業

    熱海の旅館向けに野菜を販売していた「八百半」から暖簾分けする形で、1930年に和田良平が「八百半熱海支店」(現在のヤオハン)を創業した。創業当初は熱海に点在する温泉旅館向けの「野菜卸」の事業を主軸としたが、収益性は低かったという。

  2. 八百半食品デパートに商号変更
  3. 現金正札廉価販売を導入
    旅館向け掛売の廃止が生んだ「仕入回転の加速」という収益構造
  4. 和田一夫(33歳)が社長就任

    ヤオハンの社長に創業家の和田一夫が就任。熱海の1店舗だけであったが、1960年代を通じて伊豆半島(熱海・三島・沼津)にスーパーを新設することで、地域密着型の店舗展開によって業容を拡大する。なお、和田一夫は熱心な信仰家(生長の家)でもあり、ヤオハンの経営にも信仰心が生かされたという。

  5. 小田原店を新設(神奈川県へ進出)
  6. 伊東店を新設
  7. ブラジル店を開店
    初動の成功体験が撤退判断を遅らせた南米進出の構図
  8. グループ年商100億円を突破
  9. 熱海店を新設
  10. 清水店を新設
  11. シンガポール店を開店

    「流通業のソニーになる」という目標を達成するために、ヤオハンはシンガポールに進出した。

  12. ブラジルヤオハンの破綻

    1973年のオイルショックによって世界経済が不況に陥ると、ブラジルヤオハンの業績が悪化。経営支援のための送金がブラジル政府によって制限されたこともあり、ヤオハンはブラジルヤオハンを破綻を決めた。

  13. 蒲郡店を新設(愛知県へ進出)
  14. 名古屋証券取引所に株式上場

    ブラジル事業では失敗を被ったものの、ヤオハンはシンガポール事業と、国内事業によって堅調に業容を拡大。1982年に株式上場を果たす。

  15. 袋井プラザ店を新設
  16. グループ年商1000億円を突破
  17. ワラント債および転換社債の発行開始
  18. 海外22店舗体制

    1980年代を通じてヤオハンはシンガポールやマレーシアなどの東南アジアを中心に店舗網を拡大し、日本小売業界では異例とも言える海外店舗を22店(1989年時点)を運営した。このため、ヤオハンは経済メディアから「流通界の国際派No.1」(1989/2/13日経ビジネス)として賞賛され、和田一夫の経営に注目が集まる。

  19. 香港にグループ本社を設置
    経常利益を大幅に超える社債発行が前提とした「将来の中国内需」
  20. 富士宮プラザ店を新設
  21. 経営指導料の架空計上を開始(粉飾)
  22. 有利子負債が増加
  23. 櫛形店を新設
  24. 沼津南プラザ店を新設
  25. 国内16店舗をダイエーに売却
  26. 会社更生法の適用申請により倒産

    ヤオハングループは、現金正札廉価販売を起点として成長し、国内外で店舗網を拡大していった。1960年代以降のチェーン展開に加え、1970年代以降は海外進出を本格化させ、アジア、南米、中国へと事業領域を広げていった。小売業としては異例の速度と規模での拡大であった。 とくに1980年代後半から1990年代にかけては、海外展開と国内事業の並行拡大が進み、グループ全体の規模は急速に膨らんでいった。ピーク時には世界16ヵ国に約450店舗を展開し、年商は約5,000億円、従業員数は約1万8,000人に達していた。ヤオハンは名実ともに国際流通グループとして認知される存在となっていた。 一方で、急拡大の裏側では、国内事業の競争環境が厳しさを増していた。スーパーマーケット業界では価格競争が激化し、収益構造は徐々に圧迫されていた。海外事業の成長が注目される中で、国内事業の収益力低下は相対的に見えにくくなっていた。 1997年9月18日、ヤオハングループは経営破綻に至った。負債総額は約1,600億円に上り、当時の流通業としては過去最大規模の倒産であった。グループ各社は整理・売却され、展開していた世界各地の店舗網も解体されることとなった。 倒産の直接的な引き金は資金繰りの行き詰まりであったが、背景には複合的な要因が存在していた。海外事業そのものが失敗したというよりも、拡大路線が続く中で、国内事業の不振に十分な手当てができなくなっていた点が大きかった。収益基盤である国内事業の弱体化が、全体の財務バランスを崩していた。 また、グループ全体を統括する財務管理やリスク管理の機能が十分に機能していなかったことも影響した。資金調達の複雑化、同族経営による牽制機能の弱さ、危機の兆候に対する対応の遅れが重なり、経営判断の修正が後手に回っていた。結果として、巨大化した組織を支える統制力が追いつかなくなっていた。 倒産後、グループ会長であった和田一夫氏は、すべての役職を辞任し、経営の第一線から退いた。銀行融資に対する個人保証もあり、和田氏は私財を失い、事実上無一文の状態となった。68歳での再出発であった。 しかし、和田氏は経営者としての活動を終えたわけではなかった。翌年には経営コンサルティング業務を開始し、自身の成功と失敗の経験をもとに企業支援に関わるようになった。その後、中国企業の経営戦略顧問に就任するなど、活動の場を再び海外へと広げていった。 晩年に至るまで、和田氏は国際経営コンサルタントとして日中両国で活動を続けていた。ヤオハンの倒産は経営人生における大きな挫折であったが、その経験は、経営の危機管理や成長の限界を語る実例として、次世代の経営者に共有されるものとなっていった。x

    「流通界の国際派No.1」を支えた粉飾と同族経営の牽制不在
  27. 元社長および取締役が逮捕(粉飾)
  28. 創業家の和田一夫氏が逝去

参考文献・出所

有価証券報告書
有価証券報告書 沿革
私の経営第6集(1975年)
日経ビジネス 1989/2/13