上海第一八佰伴の出店と食品スーパー1060店構想——資金繰り悪化下も崩さなかった中国拡大
成長市場への先手か、破綻を早めた執着か——銀行が最も嫌う中国リスクにどこまで賭けたか
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- 概要
- 1995年12月、上海・浦東にアジアで最大級の百貨店「上海第一八佰伴」(売場約10万平方メートル)を開き、2005年までに中国沿岸部へ食品スーパー1060店を出す構想を掲げた中国拡大の判断。資金繰りが悪化しても和田一夫会長は中国を「聖域」として拡大を続け、銀行が最も警戒する中国リスクへの執着が主力3行の支援離脱を招いた。
- 背景
- 大店法の規制で国内の大型出店に後発の不利を抱えたヤオハンは、1990年にグループ本社を香港へ移し、改革開放が進む中国を最大の成長機会と見込んだ。1990年からの5年間に市場から約623億円を調達し、人口10億人を超える中国で流通網を先取りする構想に賭けた。
- 内容
- 1996年11月の創業40周年の席上、和田会長は1時間を超えて中国事業の将来を語り、1060店構想と中国製PB商品の日本逆輸入まで描いた。株価が二度のストップ安に見舞われた同年12月の会見でも、一店あたりの出店経費は3000万円ほどで負担は軽いとして中国拡大を崩さなかった。
- 含意
- 銀行が最後まで嫌ったのは追いきれない中国とのカネの流れであり、関係修復を優先すべきときに中国への執着を露わにしたことが東海・住友信託・長銀の支援を遠ざけた。和田会長は後年、倒産の原因は国内事業の低迷であり中国事業は黒字だったと述べ、上海第一八佰伴は中国側が引き継いで存続した。
早すぎた賭けか、支え方の誤りか
上海第一八佰伴の出店と1060店構想には、上海の一人当たりGDPが1000ドルに届く前に大型店を据えた先見と、資金繰りの立て直しを迫られながら聖域を手放さなかった執着とが同居していた。中国という市場を先取りした判断そのものは、後年の日系流通各社の進出を先んじるものであった。ただ、社債の償還原資も定まらないなかで拡大を崩さなかったことは、銀行が最も警戒する海外リスクをかえって際立たせ、支援の途絶を早める側に働いたとみることができる。
成功しかけた海外戦略が国内の破綻に巻き込まれて頓挫したのか、本業を細らせてまで抱えた海外投資が破綻そのものを招いたのか。上海第一八佰伴が中国企業のもとで生き延び、いまなお中国有数の百貨店として存続している事実は、和田会長の中国観が的を外していなかったことをうかがわせる。それでも、賭けが早すぎたのか、支え方を誤ったのか、拡大の時機をどこで止めるべきだったのかという問いは、成長市場へ先んじて出ようとする企業に今もつきまとうものといえる。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
香港移転と中国市場への賭け
ヤオハンは大店法の規制で国内の大型出店に後発の不利を抱え、和田一夫会長は早くから海外へ活路を求めた。1990年にはグループ本社を香港へ移し、改革開放が進む中国を最大の成長機会と見込んだ。日本が高度成長期にたどった所得の増加から消費の拡大へという流れが、人口10億人を超える中国でも時間差で起こると読み、流通網を先んじて押さえる構想を描いた。この本社の海外移転は主力銀行の反対を押し切って断行され、和田会長の中国志向の強さを示していた[1][2]。
香港移転を支えたのは市場からの巨額調達であった。1990年からの5年間にヤオハンジャパンが社債などで集めた資金は約623億円に達し、うち240億円は国内の百貨店ネクステージ知立・半田へ投じられた。中国での前線基地を固めた1995年12月、和田会長は上海・浦東に上海第一八佰伴を開いた。売場面積は高島屋新宿店の二倍にあたる約10万平方メートルで、当時のアジアで最大級の百貨店であった。流通業の外資が出資比率51%を握り、ゼネコンに清水建設を指名できたのは、浦東の開発を国益とみた中国当局の柔軟な対応があってのことであった[3][4]。
決断
資金繰り悪化下も崩さなかった「聖域」の中国拡大
1996年11月、東京の帝国ホテルで開いた創業40周年の席上で、和田会長は中国事業の将来を1時間以上にわたって語った。上海第一八佰伴の成長性に始まり、2005年までに中国沿岸部へ食品スーパー1060店を開き、中国銀行や中国工商銀行などがメインバンクとして支えるという構想を並べた。一店あたりの出店経費は3000万円ほどで負担は軽いとし、中国で作らせたPB商品を日本へ逆輸入する計画までヤオハンジャパンの戦略事業として描いた。国内やタイ・英国の事業には財務の立て直しが要ると認めつつ、中国だけは別格として扱っていた[5][6]。
この楽観は、目前の信用不安と釣り合っていなかった。1996年12月、ヤオハンジャパン株は二度のストップ安に見舞われ、和田会長は役員7人の削減や新卒採用の凍結を柱とするリストラ計画づくりに追われた。それでも会見では「今回の事態が一年前に起きていたら、日本も中国もパアだった」と述べ、中国事業はすでに軌道に乗ったとの見方を崩さなかった。2001年までに総額500億円近い転換社債を償還せねばならない一方、1997年3月期のキャッシュフローは33億円にすぎず、償還原資の当ては立っていなかった。主力銀行団への恭順を繰り返しながらも、中国での拡大にだけは譲らなかった[7][8]。
結果
中国リスクへの執着と、黒字だった中国事業の頓挫
銀行が最後まで嫌ったのは、追いきれない中国とのカネの流れであった。ある取引銀行の幹部は「中国事業を含めた海外の関係会社とのカネの流れが追いきれなかった」と打ち明けている。1997年4月、ヤオハンジャパンは東京相和銀行から25億円を借り、自己資金5億円を加えた30億円を、中国事業を統括するヤオハン・インターナショナル・ホールディングスへ貸し付けた。両者に資本関係はなく別個の事業だという説明は、この貸付で綻んだ。関係修復を最優先とすべきときに中国への執着を露わにしたことが、東海・住友信託・長銀の主力3行の支援を遠ざけた[9]。
1997年9月18日、ヤオハンジャパンは会社更生法の適用を申請した。負債総額は約1600億円に上り、当時の流通業として過去最大の倒産であった。倒産後に実態へ引き直した修正貸借対照表では、資産の多くを占めた関係会社向けの投融資がほとんど回収の見込みを欠き、900億円を超える債務超過に転落していた。中国事業は別法人が統括していたため破綻の対象から外れ、上海第一八佰伴は合弁先の中国企業が経営を引き継いで店名のまま存続した。和田会長は後年、倒産の原因は国内事業の低迷であり中国事業は黒字であったと述べ、食品スーパーを含む投資額約300億円に対し上海第一八佰伴の不動産価格は約1000億円に達したと振り返っている[10][11][12]。
- 週刊東洋経済 1997年1月4日号「フラッシュ ヤオハン 和田一族経営の正念場」
- 週刊東洋経済 1997年10月4日号「特別レポート ヤオハン倒産 再建不能の深傷?」
- 週刊東洋経済 2004年4月10日号「Interview 和田一夫 私なら百貨店を毎年100店出店する」
- ヤオハンジャパン 有価証券報告書(単体・1996年3月期)
- ヤオハン 有価証券報告書【沿革】