ヤオハン の歴史

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創業 1930年
創業者 和田良平
創業地 静岡県熱海市
創業
1930年、和田良平氏が静岡県熱海市で青果商『八百半商店』を創業した。商いは旅館向けの青果卸で、掛売が常態化していた。1955年7月に八百半食品デパートへ改称し、翌1956年、商業界の倉本長治氏の指導で現金正札廉価販売を導入して、大口取引先である旅館への掛売を全廃した。値札を付けて現金決済を原則にしたことで仕入の回転が速まり、この収益構造が1960年代の伊豆半島での多店舗展開を支えた。ただし大店法のもとで国内のチェーン展開は大手に先行され、静岡の一地方スーパーという位置にとどまった。
決断
順位を争う場所を、規制の多い国内から前例のない海外へ移した。1971年9月のブラジル出店を皮切りに、1974年のシンガポール出店から東南アジアへ店舗網を広げ、1989年には海外22店舗を運営している。1990年にはグループ本部を香港へ移した。1994年からは国内の大型食品スーパー100店構想と中国・タイ・英国への展開を同時に進め、その原資を市場調達約600億円で賄って有利子負債を1000億円超へ膨らませた。1995年12月には上海・浦東にアジア最大級の百貨店を開設し、中国沿岸部に食品スーパー1060店を出す構想を掲げて、資金繰りが悪化した後も中国の拡大を崩さなかった。国内で埋められない順位の差を海外の店舗数で埋める設計は、店が増えるほど社債の償還期限の集中を早めた。
現況
1997年の会社更生で、ヤオハンは店を残して社名を失った。同年2月、資金繰りの逼迫から熱海の高収益店を含む主力16店を約330億円で競合ダイエー傘下のセイフーへ一括で売却し、代金の大半を有利子負債の返済に充てている。1997年3月期は売上高1,568億円に対し359億円の当期純損失を計上し、同年9月18日に会社更生法の適用を申請した。12月に東京証券取引所の上場は廃止された。再建のスポンサーにはジャスコが入り、2000年3月にヤオハンへ商号を戻し、2002年2月に更生手続が終結、翌3月にマックスバリュ東海へ商号を改めた。海外へ振り向けた投資が国内の現金を細らせ、店を買う力のある競合へ本業を委ねる結末を招いた。
競合
同じ後発でも、規模を合併で作った社と出店で作った社に道が分かれた。1970年、地方の中堅スーパー5社が対等合併でジャスコを発足させ、仕入と資金を持ち合って全国化する。ダイエーは1972年に価格破壊で三越を抜き、多店舗チェーンで小売業首位に立った。ヤオハンは自前の出店で規模を積み、その延長で国内の出店規制を避けて海外へ延ばした。合併で仕入と資金を持ち合った各社に対し、ヤオハンは借入と社債で自前の出店を続け、資金繰りの余力だけが先に尽きた。

創業ストーリー 旅館向け青果卸から現金正札廉価販売への転換 (1930年〜)

旅館向け青果卸から現金正札廉価販売への転換

旅館向け掛売からの決別と現金正札廉価販売

1930年に和田良平が『八百半』から[1]暖簾分けする形で八百半熱海支店を創業した[2]。熱海の旅館向けに野菜を販売する卸売業だったが[3]、旅館への掛売が常態化して現金収入は乏しく、収益性は低かった。売掛金の回収が滞ると仕入資金が圧迫され、経営は不安定な状態にあった。観光地である熱海は旅館が主要な取引先であり、季節変動や旅館側の資金繰りに左右されやすい構造だった。1955年に八百半食品デパートに商号を変更し[4]、翌1956年に商業界の倉本長治から指導を受けて現金正札廉価販売を導入した[5]。すべての商品に価格を明示し、値引き交渉を廃して現金決済を原則とする方式への転換だった。

  • ヤオハン 有価証券報告書【沿革】
    • [1]創業者は和田良平
    • [2]1930年 和田良平が「八百半」から暖簾分けで八百半熱海支店を創業
    • [3]創業時は熱海の旅館向け野菜卸
    • [4]1955年 商号を八百半食品デパートに変更
    • [5]1956年 現金正札廉価販売を導入

現金正札廉価販売への転換は旅館向け掛売の廃止を意味し、取引先の離反リスクを伴う判断だった。しかし現金回収の徹底により仕入資金の回転が加速し、廉価販売を持続できる収益構造が形成された。値札を付けて定価で販売する方式は、顧客にとっても価格交渉の手間を省き、商品選択の透明性を高めるものだった。この転換により熱海の青果卸は近代的な小売業へと生まれ変わり、以後の多店舗展開を支える経営基盤が整った。

  • ヤオハン 有価証券報告書【沿革】
    • [1]創業者は和田良平
    • [2]1930年 和田良平が「八百半」から暖簾分けで八百半熱海支店を創業
    • [3]創業時は熱海の旅館向け野菜卸
    • [4]1955年 商号を八百半食品デパートに変更
    • [5]1956年 現金正札廉価販売を導入

33歳社長と「流通のソニー」構想の始動

1962年に創業家の和田一夫が33歳で社長に就任[6]した[7]。熱海の1店舗から出発し、1960年代を通じて三島・沼津など伊豆半島[8]にスーパーを新設して地域密着型の店舗展開を行った。伊豆半島は観光地と住宅地が混在する商圏であり、旅館客と地元住民の双方を顧客とすることで売上の季節変動を抑える狙いがあった。1965年には小田原に出店して神奈川県に進出し[9]、商圏を伊豆半島の外へと広げた。出店のたびに現金正札廉価販売の方式を持ち込み、地域ごとに顧客基盤を築いた。1972年にグループ年商100億円を突破し[10]、地方発のスーパーマーケットとしては有数の規模に成長した。

  • ヤオハン 有価証券報告書【沿革】
    • [6]1962年 和田一夫が33歳で社長に就任
    • [7]社長就任者は創業家の和田一夫氏(就任時33歳)
    • [8]1960年代に三島・沼津など伊豆半島へ店舗展開
    • [9]1965年 小田原に出店し神奈川県へ進出
    • [10]1972年 グループ年商100億円を突破

和田一夫は熱心な生長の家の信仰者であり[11]、その信仰心が経営判断にも反映されたとされる。和田は社内に対して繰り返しこの目標を語り、組織の求心力として活用した。国内の地方スーパーにとどまらず、海外市場に打って出るという方向性は1970年代以降の経営戦略を規定するものとなった。流通業が製造業と同様に国際展開できるという発想は、当時の日本の小売業界においては異例のものだった。

  • ヤオハン 有価証券報告書【沿革】
    • [11]和田一夫氏は生長の家の熱心な信仰者
  • ヤオハン 有価証券報告書【沿革】
    • [6]1962年 和田一夫が33歳で社長に就任
    • [7]社長就任者は創業家の和田一夫氏(就任時33歳)
    • [8]1960年代に三島・沼津など伊豆半島へ店舗展開
    • [9]1965年 小田原に出店し神奈川県へ進出
    • [10]1972年 グループ年商100億円を突破
    • [11]和田一夫氏は生長の家の熱心な信仰者

「流通のソニー」を掲げた海外進出と国際流通グループの構想

国内後発の弱点を逆手にとった南米・東南アジア進出

1971年9月にブラジルのサンパウロで1号店[12]ピニエーロス店を開店した。日本の小売企業が南米に出店することは当時異例だったが、サンパウロには日系人社会があり、日本食材や日用品への需要が見込めた。加えてブラジル経済は『経済の奇跡』と呼ばれた高成長期にあり、消費市場としての将来性を見込んだ判断でもあった。1号店は翌年に年間売上目標20億円を達成し、初動の成功が2号店・3号店への連続出店を後押しした。和田一夫は後年、規制の多い国内ではチェーン展開に出遅れて後発の不利はいかんともしがたく、海外ならばナンバーワンになる機会があると考えたと、海外志向の動機を語っている[13]。現地での仕入先開拓、従業員の採用と教育、資金管理といった海外店舗運営の実務知見が蓄積され、後の東南アジア展開に向けた組織的な学習の場となった。

  • ヤオハン 有価証券報告書【沿革】
    • [12]1971年9月 ブラジル・サンパウロでブラジル1号店を開店
  • 日経新聞(1993年1月10日)
    • [13]和田一夫は「規制の多い国内でチェーン展開に遅れ、後発の不利はいかんともしがたかった。海外ならばナンバーワンになるチャンスがあると思った」と海外志向の動機を語った

1975年のブラジル政府による金融引き締めで経営環境が一変し、1977年にブラジルヤオハンは破綻した[14]。当時の業界誌も、最初に進出したブラジルでは大型投資が裏目に出て倒産寸前まで追い込まれた経緯を記録している[15]。南米での失敗は、進出先の政治・経済リスクが現地事業を根底から覆しうることを示したが、ヤオハンは海外戦略そのものを撤回せず、進出先を東南アジアに切り替えた。1974年にシンガポールに出店し[16]、1980年代を通じてマレーシアなど東南アジアを中心[17]に店舗網を広げた。シンガポールの店舗は現地で広く知られる存在に育ち、同じく現地へ出店していた伊勢丹の関係者からも店づくりの水準を高く評価された[18]。1989年時点で海外22店舗を運営し[19]、国内の大手に先んじて海外へ出た小売企業として広く知られるようになった。

  • ヤオハン 有価証券報告書【沿革】
    • [14]1977年 ブラジルヤオハンが破綻
    • [16]1974年 シンガポールに出店
    • [17]1980年代にマレーシアなど東南アジアを中心に店舗網を拡大
    • [19]1989年時点で海外22店舗を運営
  • 実業往来 1978年11月号
    • [15]最初に進出したブラジルでは大型投資が裏目に出て倒産寸前まで追い込まれた
    • [18]シンガポール店は現地で広く知られる存在に育ち、同じく出店していた伊勢丹の関係者も店づくりの水準を高く評価した

戦後の小売業の海外進出は1960年の高島屋によるニューヨーク出店に始まり、その後も大手百貨店や有力スーパーが散発的に続いたが、そのなかで最も意欲的に海外プロジェクトを進めていたのは熱海の八百半デパートだった[20]。もっとも国内の店舗はきわめて地味な構えで、何も知らずに訪れれば海外へ積極的に出店している会社とは思えない、という指摘も同時代に残されている[21]。海外進出の華やかなイメージと国内の実像との落差は、それだけ大きかった。大手スーパーにもできなかった異色の海外戦略によって、ヤオハンは1975年から1985年にかけての注目小売業の一つに数えられる存在になっていた[22]

  • 実業往来 1978年11月号
    • [20]戦後の小売業の海外進出は1960年の高島屋のニューヨーク出店に始まり、最も意欲的に海外プロジェクトを進めたのは熱海の八百半デパートだった
    • [21]国内の店舗はきわめて地味で、海外へ積極的に出店している会社とは思えない印象だった
    • [22]大手スーパーにもできなかった異色の海外戦略により、1975〜1985年の注目小売業の一つに挙げられた
  • ヤオハン 有価証券報告書【沿革】
    • [12]1971年9月 ブラジル・サンパウロでブラジル1号店を開店
    • [14]1977年 ブラジルヤオハンが破綻
    • [16]1974年 シンガポールに出店
    • [17]1980年代にマレーシアなど東南アジアを中心に店舗網を拡大
    • [19]1989年時点で海外22店舗を運営
  • 日経新聞(1993年1月10日)
    • [13]和田一夫は「規制の多い国内でチェーン展開に遅れ、後発の不利はいかんともしがたかった。海外ならばナンバーワンになるチャンスがあると思った」と海外志向の動機を語った
  • 実業往来 1978年11月号
    • [15]最初に進出したブラジルでは大型投資が裏目に出て倒産寸前まで追い込まれた
    • [18]シンガポール店は現地で広く知られる存在に育ち、同じく出店していた伊勢丹の関係者も店づくりの水準を高く評価した
    • [20]戦後の小売業の海外進出は1960年の高島屋のニューヨーク出店に始まり、最も意欲的に海外プロジェクトを進めたのは熱海の八百半デパートだった
    • [21]国内の店舗はきわめて地味で、海外へ積極的に出店している会社とは思えない印象だった
    • [22]大手スーパーにもできなかった異色の海外戦略により、1975〜1985年の注目小売業の一つに挙げられた

香港移転と600億円社債、「流通のソニー」への賭け

1990年にヤオハンはグループ本社を香港[23]に移した。中国の改革開放政策が進む中、香港を前線基地として中国市場への本格展開を構想した判断だった。人口10億人を超える中国市場で流通網を押さえれば、グループの成長は長期にわたって続くという読みがあった。和田は自ら香港に定住し、長江実業の李嘉誠ら華僑人脈を築きながら、ソニーが中小企業から出発して米国で花開いたように、香港・台湾・中国のグレーターチャイナで成功して流通業のソニーになりたいと語った[24]。本社移転は日本国内の小売業の枠を超えた国際流通グループへの転換を社内外に示すもので、意思決定の中心を成長市場の近くに置く選択だった。

  • ヤオハン 有価証券報告書【沿革】
    • [23]1990年 グループ本社を香港に移転
  • 日経新聞(1993年1月10日)
    • [24]和田一夫は、ソニーが中小企業から出発して米国で花開いたように、香港・台湾・中国のグレーターチャイナで成功して流通業のソニーになりたいと語った

資金調達のため1990年代前半に総額約600億円の社債を発行した。規模は当時の年間経常利益を上回り、中国消費市場の将来的な成長を前提とした調達だった。社債は株式の希薄化を避けられる反面、償還期限までに元本を返済する義務を伴う。中国事業が計画どおりに収益を上げなければ、償還資金の確保が困難になるリスクを抱えていた。1994年時点で有利子負債は1200億円に膨張し、社債の償還負担がグループ全体の財務を圧迫し始めた。流通業界は中国で1000店を展開するという構想を、チェーンストアで40年の歴史を持つ日本の大手でさえ300店程度にとどまるなかでは夢のような話だと受け止めたが[25]、ヤオハンは構想を前提に借入と出店を重ねた。国内では1993年から経営指導料の架空計上が始まり[26]、海外展開への注目が集まる裏側で財務の実態と表示の乖離が進んだ。

  • 日経新聞(1993年1月10日)
    • [25]流通業界は中国1000店構想を「チェーンストアで40年の歴史のある日本の大手でさえせいぜい300店」の規模感から夢のような話と受け止めた
  • ヤオハン 有価証券報告書【沿革】
    • [26]1993年から経営指導料の架空計上を開始

香港へ最初に進出したのは天安門事件の直後で、外資がどこも二の足を踏んでいた時期にあたる。和田一夫は後年、こうしたときこそビジネスチャンスがあると判断したと振り返り、実際に予想以上の手厚い歓迎を受けて長江実業の李嘉誠ら華僑の人脈が一気に広がり、香港では次々に上場企業をつくることができたと述べている[27]。中国1000店構想が伝えられた時点の受け止めも、国内で後発という弱点を逆手にとっていち早くアジアにフロンティアを求めた以上、ヤオハンの中国での優位は動きそうにないというものだった[28]。和田は当面は北京と上海の事業が中心になるとしており、自らの不利を攻めに転じる戦略こそが新市場を開く鍵だとみられていた[29]

  • 日経流通新聞(1997年10月16日)
    • [27]香港進出は天安門事件後で外資が二の足を踏んでいた時期にあたり、和田一夫はこの時こそ商機と判断した。予想以上の歓迎を受け李嘉誠ら華僑人脈が広がり、香港で複数の上場企業をつくった
  • 日経新聞(1993年1月10日)
    • [28]国内で後発という弱点を逆手にとっていち早くアジアにフロンティアを求めたヤオハンの中国での優位は動きそうにないとみられていた
    • [29]和田代表は当面は北京・上海の事業が中心になるとし、自らの不利を攻めに転化した戦略が新たな市場を開く鍵とされた
  • ヤオハン 有価証券報告書【沿革】
    • [23]1990年 グループ本社を香港に移転
    • [26]1993年から経営指導料の架空計上を開始
  • 日経新聞(1993年1月10日)
    • [24]和田一夫は、ソニーが中小企業から出発して米国で花開いたように、香港・台湾・中国のグレーターチャイナで成功して流通業のソニーになりたいと語った
    • [25]流通業界は中国1000店構想を「チェーンストアで40年の歴史のある日本の大手でさえせいぜい300店」の規模感から夢のような話と受け止めた
    • [28]国内で後発という弱点を逆手にとっていち早くアジアにフロンティアを求めたヤオハンの中国での優位は動きそうにないとみられていた
    • [29]和田代表は当面は北京・上海の事業が中心になるとし、自らの不利を攻めに転化した戦略が新たな市場を開く鍵とされた
  • 日経流通新聞(1997年10月16日)
    • [27]香港進出は天安門事件後で外資が二の足を踏んでいた時期にあたり、和田一夫はこの時こそ商機と判断した。予想以上の歓迎を受け李嘉誠ら華僑人脈が広がり、香港で複数の上場企業をつくった

粉飾決算の発覚と会社更生法の適用に至る過剰投資の帰結

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ヤオハンの沿革1930〜2019年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1930〜1972年旅館向け青果卸から現金正札廉価販売への転換八百半熱海支店を創業★★
八百半商店を設立
八百半食品デパートに商号変更
現金正札廉価販売を導入★★
和田商事を設立
和田一夫和田一夫氏が社長に就任★★
和田一夫八百半デパートに商号変更
和田一夫小田原店を新設
和田一夫伊東店を新設
和田一夫ピニエーロス店を開店★★
和田一夫グループ年商が100億円を突破
1973〜1994年「流通のソニー」を掲げた海外進出と国際流通グループの構想和田一夫清水店を新設
和田一夫1号店を開店★★
和田一夫和田商事を吸収合併
和田一夫ブラジルヤオハンが破綻★★
和田一夫蒲郡店を新設
和田一夫名古屋証券取引所市場第二部に上場
和田一夫グループ年商が1000億円を突破
和田一夫沙田店を開店★★
和田一夫名古屋証券取引所市場第一部に指定替え
和田一夫東京証券取引所市場第一部に上場
和田一夫ワラント債・転換社債による資金調達を開始★★
和田一夫杉山商事を吸収合併
和田晃昌海外店舗が22店に到達★★
和田晃昌百貨店「ネクステージ半田」を開店
和田晃昌1号店を開店
和田晃昌ヤオハンジャパンに商号変更
和田晃昌中国での食品スーパー1000店構想を公表★★
和田晃昌1号店を開店
和田晃昌経営指導料の架空計上を開始★★
和田晃昌百貨店「ネクステージ知立」を開店
和田晃昌本社を移転
1995〜2026年粉飾決算の発覚と会社更生法の適用に至る過剰投資の帰結和田晃昌上海第一八佰伴の出店と食品スーパー1060店構想——資金繰り悪化下も崩さなかった中国拡大

1995年12月、上海・浦東にアジアで最大級の百貨店『上海第一八佰伴』(売場約10万平方メートル)を開き、2005年までに中国沿岸部へ食品スーパー1060店を出す構想を掲げた中国拡大の判断。資金繰りが悪化しても和田一夫会長は中国を『聖域』として拡大を続け、銀行が最も警戒する中国リスクへの執着が主力3行の支援離脱を招いた。

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★★★
和田晃昌ヤマナカの全株式を売却
和田晃昌中国沿岸部への食品スーパー1060店構想を公表★★
和田晃昌株価が二度のストップ安★★
和田晃昌主力3行から各10億円の融資を受け入れ
和田光正有利子負債の圧縮計画を主力3行に提出
和田光正資金繰り危機下で主力16店をダイエーへ売却——熱海の高収益店を含む稼ぎ頭の手放し

1997年、資金繰り危機に陥ったヤオハンジャパンが、和田一夫会長の打診でダイエー傘下の食品スーパー・セイフーへ主力16店を約330億円で一括売却した経営判断。熱海の高収益店を含む年商674億円・営業利益23億円の稼ぎ頭を競合へ渡し、得た代金の大半を有利子負債の返済に充てた。

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★★★
和田光正370億円の特別損失を計上★★
和田光正直営15店舗をセイフーに営業譲渡
和田光正転換社債の自力償還が行き詰まり、1997年9月の会社更生法申請へ——上場大手小売の破綻

1997年9月18日、静岡を地盤とする中堅スーパーのヤオハンジャパンが会社更生法の適用を東京地裁へ申請した経営破綻。転換社債の自力償還が行き詰まり、かつての主力取引銀行だった東海・住友信託・長銀の三行の支援も途絶えた末の申請で、倒産後の修正バランスシートでは900億円を超える債務超過に陥っていた。上場する大手小売の更生法申請は当時としては異例であった。

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★★★
会社更生下の再建スポンサーにジャスコを迎えた選択——競合へ主力店を手放した末の存続策

1997年9月に会社更生法の適用を申請したヤオハンジャパンは、再建のスポンサーを探すなかで、同年10月にジャスコの支援を受け入れた。10月6日にジャスコの岡田卓也会長がヤオハン支援を表明し、当面は資金を投入せず、離反した納入業者への取引再開の呼びかけや商品供給で自力再建を介添えする枠組みとなった。競合ダイエーに主力店を売却した後の更生会社が、本業を存続させるために縋った選択であった。

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★★★
会社更生手続の開始が決定
東京証券取引所の上場を廃止
元社長らが粉飾決算で逮捕★★
中国事業から撤退
和田晃昌氏に有罪判決★★
転換社債の買い取り条件を公表
更生計画案を提出
ヤオハンに商号変更★★
イオンによる完全子会社化★★
会社更生手続が終結
マックスバリュ東海に商号変更★★
創業家の和田一夫氏が逝去
出典・参考
  • ヤオハン 有価証券報告書【沿革】
  • 実業往来 1978年11月号
  • 日経新聞(1993年1月10日)
  • 日経流通新聞(1997年10月16日)

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