1930年に和田良平が『八百半』から[1]暖簾分けする形で八百半熱海支店を創業した[2]。熱海の旅館向けに野菜を販売する卸売業だったが[3]、旅館への掛売が常態化して現金収入は乏しく、収益性は低かった。売掛金の回収が滞ると仕入資金が圧迫され、経営は不安定な状態にあった。観光地である熱海は旅館が主要な取引先であり、季節変動や旅館側の資金繰りに左右されやすい構造だった。1955年に八百半食品デパートに商号を変更し[4]、翌1956年に商業界の倉本長治から指導を受けて現金正札廉価販売を導入した[5]。すべての商品に価格を明示し、値引き交渉を廃して現金決済を原則とする方式への転換だった。
現金正札廉価販売への転換は旅館向け掛売の廃止を意味し、取引先の離反リスクを伴う判断だった。しかし現金回収の徹底により仕入資金の回転が加速し、廉価販売を持続できる収益構造が形成された。値札を付けて定価で販売する方式は、顧客にとっても価格交渉の手間を省き、商品選択の透明性を高めるものだった。この転換により熱海の青果卸は近代的な小売業へと生まれ変わり、以後の多店舗展開を支える経営基盤が整った。
1962年に創業家の和田一夫が33歳で社長に就任[6]した[7]。熱海の1店舗から出発し、1960年代を通じて三島・沼津など伊豆半島[8]にスーパーを新設して地域密着型の店舗展開を行った。伊豆半島は観光地と住宅地が混在する商圏であり、旅館客と地元住民の双方を顧客とすることで売上の季節変動を抑える狙いがあった。1965年には小田原に出店して神奈川県に進出し[9]、商圏を伊豆半島の外へと広げた。出店のたびに現金正札廉価販売の方式を持ち込み、地域ごとに顧客基盤を築いた。1972年にグループ年商100億円を突破し[10]、地方発のスーパーマーケットとしては有数の規模に成長した。
和田一夫は熱心な生長の家の信仰者であり[11]、その信仰心が経営判断にも反映されたとされる。和田は社内に対して繰り返しこの目標を語り、組織の求心力として活用した。国内の地方スーパーにとどまらず、海外市場に打って出るという方向性は1970年代以降の経営戦略を規定するものとなった。流通業が製造業と同様に国際展開できるという発想は、当時の日本の小売業界においては異例のものだった。
1971年9月にブラジルのサンパウロで1号店[12]ピニエーロス店を開店した。日本の小売企業が南米に出店することは当時異例だったが、サンパウロには日系人社会があり、日本食材や日用品への需要が見込めた。加えてブラジル経済は『経済の奇跡』と呼ばれた高成長期にあり、消費市場としての将来性を見込んだ判断でもあった。1号店は翌年に年間売上目標20億円を達成し、初動の成功が2号店・3号店への連続出店を後押しした。和田一夫は後年、規制の多い国内ではチェーン展開に出遅れて後発の不利はいかんともしがたく、海外ならばナンバーワンになる機会があると考えたと、海外志向の動機を語っている[13]。現地での仕入先開拓、従業員の採用と教育、資金管理といった海外店舗運営の実務知見が蓄積され、後の東南アジア展開に向けた組織的な学習の場となった。
1975年のブラジル政府による金融引き締めで経営環境が一変し、1977年にブラジルヤオハンは破綻した[14]。当時の業界誌も、最初に進出したブラジルでは大型投資が裏目に出て倒産寸前まで追い込まれた経緯を記録している[15]。南米での失敗は、進出先の政治・経済リスクが現地事業を根底から覆しうることを示したが、ヤオハンは海外戦略そのものを撤回せず、進出先を東南アジアに切り替えた。1974年にシンガポールに出店し[16]、1980年代を通じてマレーシアなど東南アジアを中心[17]に店舗網を広げた。シンガポールの店舗は現地で広く知られる存在に育ち、同じく現地へ出店していた伊勢丹の関係者からも店づくりの水準を高く評価された[18]。1989年時点で海外22店舗を運営し[19]、国内の大手に先んじて海外へ出た小売企業として広く知られるようになった。
戦後の小売業の海外進出は1960年の高島屋によるニューヨーク出店に始まり、その後も大手百貨店や有力スーパーが散発的に続いたが、そのなかで最も意欲的に海外プロジェクトを進めていたのは熱海の八百半デパートだった[20]。もっとも国内の店舗はきわめて地味な構えで、何も知らずに訪れれば海外へ積極的に出店している会社とは思えない、という指摘も同時代に残されている[21]。海外進出の華やかなイメージと国内の実像との落差は、それだけ大きかった。大手スーパーにもできなかった異色の海外戦略によって、ヤオハンは1975年から1985年にかけての注目小売業の一つに数えられる存在になっていた[22]。
1990年にヤオハンはグループ本社を香港[23]に移した。中国の改革開放政策が進む中、香港を前線基地として中国市場への本格展開を構想した判断だった。人口10億人を超える中国市場で流通網を押さえれば、グループの成長は長期にわたって続くという読みがあった。和田は自ら香港に定住し、長江実業の李嘉誠ら華僑人脈を築きながら、ソニーが中小企業から出発して米国で花開いたように、香港・台湾・中国のグレーターチャイナで成功して流通業のソニーになりたいと語った[24]。本社移転は日本国内の小売業の枠を超えた国際流通グループへの転換を社内外に示すもので、意思決定の中心を成長市場の近くに置く選択だった。
資金調達のため1990年代前半に総額約600億円の社債を発行した。規模は当時の年間経常利益を上回り、中国消費市場の将来的な成長を前提とした調達だった。社債は株式の希薄化を避けられる反面、償還期限までに元本を返済する義務を伴う。中国事業が計画どおりに収益を上げなければ、償還資金の確保が困難になるリスクを抱えていた。1994年時点で有利子負債は1200億円に膨張し、社債の償還負担がグループ全体の財務を圧迫し始めた。流通業界は中国で1000店を展開するという構想を、チェーンストアで40年の歴史を持つ日本の大手でさえ300店程度にとどまるなかでは夢のような話だと受け止めたが[25]、ヤオハンは構想を前提に借入と出店を重ねた。国内では1993年から経営指導料の架空計上が始まり[26]、海外展開への注目が集まる裏側で財務の実態と表示の乖離が進んだ。
香港へ最初に進出したのは天安門事件の直後で、外資がどこも二の足を踏んでいた時期にあたる。和田一夫は後年、こうしたときこそビジネスチャンスがあると判断したと振り返り、実際に予想以上の手厚い歓迎を受けて長江実業の李嘉誠ら華僑の人脈が一気に広がり、香港では次々に上場企業をつくることができたと述べている[27]。中国1000店構想が伝えられた時点の受け止めも、国内で後発という弱点を逆手にとっていち早くアジアにフロンティアを求めた以上、ヤオハンの中国での優位は動きそうにないというものだった[28]。和田は当面は北京と上海の事業が中心になるとしており、自らの不利を攻めに転じる戦略こそが新市場を開く鍵だとみられていた[29]。
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|---|---|---|---|---|
| 1930〜1972年旅館向け青果卸から現金正札廉価販売への転換 | 八百半熱海支店を創業 | ★★ | ||
| 八百半商店を設立 | ★ | |||
| 八百半食品デパートに商号変更 | ★ | |||
| 現金正札廉価販売を導入 | ★★ | |||
| 和田商事を設立 | ★ | |||
| 和田一夫 | 和田一夫氏が社長に就任 | ★★ | ||
| 和田一夫 | 八百半デパートに商号変更 | ★ | ||
| 和田一夫 | 小田原店を新設 | ★ | ||
| 和田一夫 | 伊東店を新設 | ★ | ||
| 和田一夫 | ピニエーロス店を開店 | ★★ | ||
| 和田一夫 | グループ年商が100億円を突破 | ★ | ||
| 1973〜1994年「流通のソニー」を掲げた海外進出と国際流通グループの構想 | 和田一夫 | 清水店を新設 | ★ | |
| 和田一夫 | 1号店を開店 | ★★ | ||
| 和田一夫 | 和田商事を吸収合併 | ★ | ||
| 和田一夫 | ブラジルヤオハンが破綻 | ★★ | ||
| 和田一夫 | 蒲郡店を新設 | ★ | ||
| 和田一夫 | 名古屋証券取引所市場第二部に上場 | ★ | ||
| 和田一夫 | グループ年商が1000億円を突破 | ★ | ||
| 和田一夫 | 沙田店を開店 | ★★ | ||
| 和田一夫 | 名古屋証券取引所市場第一部に指定替え | ★ | ||
| 和田一夫 | 東京証券取引所市場第一部に上場 | ★ | ||
| 和田一夫 | ワラント債・転換社債による資金調達を開始 | ★★ | ||
| 和田一夫 | 杉山商事を吸収合併 | ★ | ||
| 和田晃昌 | 海外店舗が22店に到達 | ★★ | ||
| 和田晃昌 | グループ本社を移転 | ★★★ | ||
| 和田晃昌 | 百貨店「ネクステージ半田」を開店 | ★ | ||
| 和田晃昌 | 1号店を開店 | ★ | ||
| 和田晃昌 | ヤオハンジャパンに商号変更 | ★ | ||
| 和田晃昌 | 中国での食品スーパー1000店構想を公表 | ★★ | ||
| 和田晃昌 | 1号店を開店 | ★ | ||
| 和田晃昌 | 経営指導料の架空計上を開始 | ★★ | ||
| 和田晃昌 | 百貨店「ネクステージ知立」を開店 | ★ | ||
| 和田晃昌 | 有利子負債が1200億円に膨張 | ★★★ | ||
| 和田晃昌 | 本社を移転 | ★ | ||
| 1995〜2026年粉飾決算の発覚と会社更生法の適用に至る過剰投資の帰結 | 和田晃昌 | 上海第一八佰伴の出店と食品スーパー1060店構想——資金繰り悪化下も崩さなかった中国拡大 1995年12月、上海・浦東にアジアで最大級の百貨店『上海第一八佰伴』(売場約10万平方メートル)を開き、2005年までに中国沿岸部へ食品スーパー1060店を出す構想を掲げた中国拡大の判断。資金繰りが悪化しても和田一夫会長は中国を『聖域』として拡大を続け、銀行が最も警戒する中国リスクへの執着が主力3行の支援離脱を招いた。 詳細を読む | ★★★ | |
| 和田晃昌 | ヤマナカの全株式を売却 | ★ | ||
| 和田晃昌 | 中国沿岸部への食品スーパー1060店構想を公表 | ★★ | ||
| 和田晃昌 | 株価が二度のストップ安 | ★★ | ||
| 和田晃昌 | 主力3行から各10億円の融資を受け入れ | ★ | ||
| 和田光正 | 有利子負債の圧縮計画を主力3行に提出 | ★ | ||
| 和田光正 | 資金繰り危機下で主力16店をダイエーへ売却——熱海の高収益店を含む稼ぎ頭の手放し 1997年、資金繰り危機に陥ったヤオハンジャパンが、和田一夫会長の打診でダイエー傘下の食品スーパー・セイフーへ主力16店を約330億円で一括売却した経営判断。熱海の高収益店を含む年商674億円・営業利益23億円の稼ぎ頭を競合へ渡し、得た代金の大半を有利子負債の返済に充てた。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 和田光正 | 370億円の特別損失を計上 | ★★ | ||
| 和田光正 | 直営15店舗をセイフーに営業譲渡 | ★ | ||
| 和田光正 | 転換社債の自力償還が行き詰まり、1997年9月の会社更生法申請へ——上場大手小売の破綻 1997年9月18日、静岡を地盤とする中堅スーパーのヤオハンジャパンが会社更生法の適用を東京地裁へ申請した経営破綻。転換社債の自力償還が行き詰まり、かつての主力取引銀行だった東海・住友信託・長銀の三行の支援も途絶えた末の申請で、倒産後の修正バランスシートでは900億円を超える債務超過に陥っていた。上場する大手小売の更生法申請は当時としては異例であった。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 会社更生下の再建スポンサーにジャスコを迎えた選択——競合へ主力店を手放した末の存続策 1997年9月に会社更生法の適用を申請したヤオハンジャパンは、再建のスポンサーを探すなかで、同年10月にジャスコの支援を受け入れた。10月6日にジャスコの岡田卓也会長がヤオハン支援を表明し、当面は資金を投入せず、離反した納入業者への取引再開の呼びかけや商品供給で自力再建を介添えする枠組みとなった。競合ダイエーに主力店を売却した後の更生会社が、本業を存続させるために縋った選択であった。 詳細を読む | ★★★ | |||
| 会社更生手続の開始が決定 | ★ | |||
| 東京証券取引所の上場を廃止 | ★ | |||
| 元社長らが粉飾決算で逮捕 | ★★ | |||
| 中国事業から撤退 | ★ | |||
| 和田晃昌氏に有罪判決 | ★★ | |||
| 転換社債の買い取り条件を公表 | ★ | |||
| 更生計画案を提出 | ★ | |||
| ヤオハンに商号変更 | ★★ | |||
| イオンによる完全子会社化 | ★★ | |||
| 会社更生手続が終結 | ★ | |||
| マックスバリュ東海に商号変更 | ★★ | |||
| 創業家の和田一夫氏が逝去 | ★ |
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事実根拠:出所(ヤオハン)