国内の出店規制に見切りをつけた海外雄飛とグループ本部の香港移転

規制に縛られた国内で守るか、規制の外の海外で先頭に立つか——地方スーパーが国際流通グループを志した原点

更新:

時期 1990年
意思決定者 和田一夫 会長
論点 成長基盤を国内に置くか海外に求めるか
概要
大規模小売店舗法の下で国内出店が伸び悩む後発の不利を早くに見切り、和田一夫会長は1971年のブラジル進出を皮切りにシンガポール・タイ・イギリスへ展開し、1990年にはグループ本部を香港へ移した海外戦略。「世界市民企業グループ 八佰伴」を掲げ、静岡の中堅スーパーから国際流通グループへの転換を志向した、ヤオハンの原点を成す一連の判断であった。
背景
ダイエーやイトーヨーカ堂が国内の一等地を先に押さえるなか、後発のヤオハンは大規模小売店舗法の下で出店が思うように進まなかった。和田会長は海外ならば首位に立つ機会があるとみて、後発の弱みを攻めへ転じる道を早くから探った。1990年以降の大店法緩和で大手が静岡へ進出し、牙城が脅かされる危機感も拡大を急がせた。
内容
1971年のブラジル進出は1977年に破綻したが、和田会長は海外戦略を退けず東南アジアへ主力を移し、1989年には海外22店舗を数えた。到達点が1990年の香港本部移転で、和田会長は自ら定住し華僑人脈を築いて中国1000店構想を描いた。本社機能を国外へ置く移転は、主力銀行の反対を押し切って断行された。
含意
海外雄飛はヤオハンのアイデンティティを決めた原点でありながら、国内外の二正面作戦を約600億円の社債で賄う拡大を通じて、1997年の会社更生法申請の遠因ともなった。後発が不利を攻めに転じる発想は際立っていたが、拡大の速度に管理体制が追いつかなかったとみることができる。
筆者の見解

原点であり遠因でもあった海外雄飛

ヤオハンの海外進出は、後発と規制という不利を攻めへ転じる発想から生まれ、静岡の一中堅が国際流通グループを志したという点で、日本の小売業のなかでも際立った選択であった。本社機能を香港へ移すという異例の判断は、成長市場の近くで意思決定を下そうとする一貫した志向の帰結でもあった。ただし本業の国内が細っていくなかで海外と国内を同時に広げ、その多くを社債で賄った拡大は、これまで何とかなってきたという成功体験への依存と表裏であったとみることができる。

「リスクのないところにチャンスはない」という和田会長の言葉は、周到な準備を欠いた拡張と紙一重でもあった。海外雄飛はヤオハンのアイデンティティを決めた原点でありながら、内外二正面の資金負担を通じて破綻の遠因にもなった。規制が早くに緩んでいれば国内で地歩を固められたのか、それとも拡大に管理体制が追いつかなかったことこそが本質だったのか。攻めの戦略が事業の輪郭を作りもし、足元を崩しもするという両義性は、後発企業がフロンティアを求める判断を考えるうえで、なお問い直す値打ちを残しているとみられる。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

国内後発の弱点と海外への活路

ヤオハンは熱海の青果卸を出自とする静岡地盤の中堅スーパーであり、ダイエーやイトーヨーカ堂といった大手が国内の一等地を先に押さえるなかで、後発の不利を抱えていた。大規模小売店舗法の下では出店計画が思うように進まず、地方の中堅が国内で先頭に立つ道は狭かった。和田一夫会長は、規制の多い国内でチェーン展開に遅れた後発の不利はいかんともしがたく、海外ならば首位に立つ機会があると考えたと後年に振り返っている。国内で守勢に回るより、規制の外の海外で先行者となる道を早くから探っていた[1]

和田会長は「流通のソニーになる」という目標を掲げ、製造業のソニーが技術で世界に広がったように、流通業も仕組みと展開力で国境を越えられるとみていた。生長の家の熱心な信仰者でもあった和田会長は、この目標を社内で繰り返し語り、組織の求心力に据えた。国内の地方スーパーにとどまらず、はじめから海外市場を志向したことは、当時の日本の小売業界では異例であった。地方発の一企業が国際流通グループを志し、その方向が以後の経営を貫く軸となっていった[2]

牙城を脅かした規制緩和

もっとも、大規模小売店舗法は同社を守る側面も持っていた。熱海の石清ストアは売り場面積が400平方メートルに満たないながら年商12億円、経常利益1.6億円を稼ぐ高収益店であったが、近隣に大型店ができれば持ちこたえられない性質の店であった。1990年以降の大店法緩和でイトーヨーカ堂やユニーといった大手が静岡へ続々と進出し、ヤオハンの牙城を脅かした。規制が緩むほど足元の地盤が崩れるという危機感が、海外と国内の両面で拡大を急がせる背景となっていた[3]

決断

ブラジルから東南アジアへ——海外雄飛の始動

海外への一歩は1971年9月、ブラジルのサンパウロに開いた1号店であった。日系人社会と、「経済の奇跡」と呼ばれた高成長に消費市場の将来性を見込んだ判断であったが、1975年の金融引き締めで環境は一変し、1977年にブラジルヤオハンは破綻した。それでも和田会長は海外戦略そのものを退けず、進出先を東南アジアへ切り替えた。1974年に出店したシンガポールの店は好調で、同地に百貨店を構える伊勢丹の関係者からも店づくりを評価されるほどに認知を広げていった[4][5]

東南アジアを軸にした店舗網は年を追って広がり、1989年時点で海外22店舗を数えるに至った。国内の店舗が地味な印象にとどまる一方、海外進出は華やかなイメージをまとい、ヤオハンは流通業界で国際派として知られた。地方の中堅が大手に先んじてアジアへ出たという事実は、後発の弱みを攻めへ転じる和田会長の発想を体現していた。海外での実務経験の蓄積が、次の中国市場への本格展開を支える組織的な土台にもなっていった[6][7]

本部の香港移転——銀行の反対を押し切った断行

海外志向の到達点が、1990年のグループ本部の香港移転であった。改革開放が進む中国市場への前線基地として香港を選び、和田会長は自ら現地に定住して、長江実業の李嘉誠氏をはじめとする華僑人脈を築いた。人口10億人を超える市場で流通網を押さえれば長期の成長が続くという読みのもと、中国で1000店規模のスーパーを展開する構想まで描いた。本社機能を国外へ移すという判断は、国内小売業の枠を超えて国際流通グループへ転じる意思を、社内外へ明確に示すものであった[8]

本社を海外へ置く選択は、資金の出し手である銀行との距離を広げる面もあった。1990年の香港本部移転をはじめ、ヤオハンが国内外で連発した大型プロジェクトは、いずれも銀行の反対を押し切って進めたものであった。主力取引銀行であった東海・住友信託・長銀の三行との関係は次第に冷え込み、後の資金繰りで支援を得にくくする遠因となった。成長市場の近くへ意思決定の中心を移した判断は、攻めに出る一方で財務上の孤立を同時に抱え込む選択でもあった[9]

結果

内外二正面作戦の代償

1990年代のヤオハンは、国内で3000平方メートル級の食品スーパーを2000年までに100店開く計画を掲げ、総額200億円を投じた百貨店ネクステージを半田(1990年)・知立(1994年)に構えた。同時に海外でも1991年にタイ、1993年にイギリスへ進出し、1995年には上海にアジア最大級の百貨店を開いた。この内外二正面の拡大をワラント債や転換社債による約600億円の市場調達で賄い、有利子負債は1000億円を超えて膨らんだ。人材の供給も追いつかず、拡大の速度に体制が置き去りにされていった[10]

調達した資金の多くは、リターンを生まない投融資へ流れた。1990年からの5年間で市場から集めた623億円のうち240億円がネクステージ2店に注がれ、タイに100億円、イギリスに80億円をかけた海外店もなお赤字を抱えた。関係会社向けの貸付金は回収の見込みが薄く、資産としての評価に耐えなかった。転換社債の償還を自力でまかなえなくなったヤオハンジャパンは、1997年9月に会社更生法の適用を申請し、負債総額約1600億円は当時の流通業として過去最大の倒産となった[11][12]

出典・参考
  • 週刊東洋経済 1997年2月8日号「海外雄飛に賭けたヤオハンの落日 裏目に出た内外二正面作戦」
  • 週刊東洋経済 1997年10月4日号「ヤオハン倒産 再建不能の深傷? 華やかな中国事業の裏 迷走した最後の300日」
  • 日本経済新聞 1993年1月10日「国内後発の弱点逆手に」
  • 実業往来 1978年11月号「多国籍小売業をめざす八百半デパート」
  • ヤオハン 有価証券報告書【沿革】
  • ヤオハン烈烈 国境のない企業・世界制覇の野望(1991年)