東京エレクトロンが商社から装置メーカーへ移った過程は、扱う商品を選び直す作業の連続だった。1974年に小高敏夫氏が社報へ並べた7つの条件は、市場の成長性、競争相手の少なさ、参入の難しさ、代金回収、所要資金、値崩れのしにくさ、利益率を問うもので、当時の主力だったカーステレオと電卓はそのどれにも当てはまらなかった。大手が量産で押してくる消費財は、東京放送の出資で始まった小さな会社が抱えきれる商品ではない。輸出高は1977年9月期の90億円から2年でゼロになり、残ったのは1台数千万円のICテスターと拡散炉という、顧客が数えるほどしかいない市場だった。
その市場を選んだことが、次の縛りを生んだ。ICの装置は保守に高度な技術者を要し、能力開発への投資が利益率を商社型からメーカー型へ押し上げる一方、半導体メーカーの設備投資が止まれば売上は半分になる。1985年9月期に1501億円だった売上高は翌期843億円へ減り、営業利益は創業以来初の赤字に転じた。久保徳雄氏が20周年の社報で無制限成長路線と呼んだものは、少数精鋭のユートピアという創業の理想と、拡大を求める株主や人材の要請とのあいだで折り合った結果である。営業所を7カ所から17カ所へ増やし大卒を352人採ったところへ循環が来たとき、会社は前進の旗を振った経営陣を入れ替えることで帳尻を合わせた。
理想の会社をつくりたいという夢を抱いた日商(現・日商岩井)の久保徳雄氏は、同社を退き、1963年11月に東京放送の出資500万円を元手として東京エレクトロン研究所を東京都港区に立ち上げた。商社でありながら"研究所"を名乗ったのは、単なる売り買いを超え、製造の現場に寄り添う技術のサービスが求められると久保氏が考えたためである。出発時の社員は数名で、手がけたのはVTRとカーラジオの輸出、電子機器関係の輸入だった。日商時代に半導体の製造装置を海外から仕入れて売っていた小高敏夫氏が新会社に加わったのは、翌1964年5月である。小高氏はこの商売が総合商社の気質とかみ合わないと痛感し、新しい会社で自分の理想とするやり方を試そうとしていた。
小高氏は入社の1週間後に渡米し、1964年5月末にサームコ社の拡散炉の輸入販売を開始した。創立1年目の同社は東京放送本館内に10坪ほどの事務所を借りるにすぎなかったが、同年10月、総合商社との競り合いに勝ってフェアチャイルド社の総代理店となった。ICテスターの第1号機は代金4000万円を東京放送の債務保証による銀行借入で支払い、日本電気に納入した。1963年から1964年にかけての日本では、ICの実用化について否定的な見方が圧倒的に多かった。小高氏は日本電気・日立製作所・東芝・富士通を回ってICの将来性を説き、各社の開発責任者に同行してフェアチャイルド社のIC工場を案内した。1974年9月の社報で小高氏は、大型テスターを日本で約180台納入し、日本市場のシェアは1位だと報告した。
代理店として装置を輸入し売る会社でありながら、東京エレクトロンは出発の時点から社員のほとんどを顧客支援の要員に充てていた。毎年多数の技術者を米国へ送り、提携先の工場で1か月から3か月のあいだ働かせ、機械の操作と保守を習得させた。派遣の費用はかさんだが、効果は大きかった。提携先はICテスターのフェアチャイルド・システム・テクノロジー、マイクロコンピュータのインテル、イオン注入装置のバリアンなど40社を超えた。次の段階では、顧客の主要な工場の近くに自社のサービスセンターを設けて支援する方式を採った。良い製品を供給して補修の面まで支援し、製品を信頼されて初めて顧客から中身の濃い情報が得られるという順序で、情報の流れを設計していた。
1971年8月のニクソン・ショックに続く変動相場制への移行で、同社は利益が半減した。利益を稼いでいたのは輸入部門で、その額は約5億円だった。一方、売上の6割を担った輸出部門は、1973年の石油ショックも重なって1974年9月期に約3億円の赤字を出し、同年12月の社報で小高氏は、経常利益が前期の3億3000万円から2億円に落ち込んだ主因はこの赤字だと社内に伝えた。輸出品はどれも欧米企業のブランドを付けるOEMで、最終消費者の動きが見えず、米国からの注文が急に止まると在庫が積み上がった。小高氏の回想によれば、カーステレオには松下通信工業が本格生産に乗り出すなど大手の参入が相次ぎ、技術でも商品でも差がつかず、中小企業に勝ち目はなかった。完全撤退に最も強く異を唱えた常務1人が辞め、さらに2人が独立など別の事情で離れたのち、1974年11月に久保徳雄社長と小高専務の体制が始まった。
カーラジオ・カーステレオ・電卓の輸出は、7条件に照らせば明らかに当てはまらない事業だった。その7つの条件は、1974年12月の社報で示された。小高氏はそこで不採算部門の大胆な縮小と廃止を打ち出し、商品を選ぶ物差しとして次を並べた。伸びしろのある市場であること、競合が少なく大メーカーが主力に据えていない製品であること、他社が簡単には入り込めないこと、取引先が一流企業で代金の取りはぐれがないこと、多額の資金を必要としないこと、抱えている間に値が崩れないこと、付加価値と利益率が高いこと。撤退は一度には行わず、1976年9月に電卓、1978年9月にカーステレオとトランシーバーの輸出販売をやめた。輸出高は1977年9月期の90億円から翌期は28億円に減り、1979年9月期にゼロとなった。これらの市場が急拡大するなかで大きな販売網と資金がなければ競争で優位に立てないと判断しての撤退だった。
1979年9月期の部門別売上高構成は、半導体製造機器が40.2%、半導体を主力とする電子部品が35.6%を占めた。大きな市場を追わず、特定の分野に深く入り込んで特殊なシステムを売る会社を目指した。国内市場は装置ごとにみると最大でも100億円ほどで、細かな仕事を寄せ集めて積み上げる商いであり、製品に個性が出るほど大メーカーとぶつからずに済み、業界が小さいぶん高いシェアも取れる。半導体工場向けのICテスターは計測・分析機器に含まれ、これを足すと売上高の約7割が半導体に関わっていた。エンジニアを軸にした技術商社は、日本企業の通例とはひと味違うベンチャービジネスに育ったと、のちに評された。
1979年9月期の取扱製品は輸入品が約75%を占め、子会社テルメックのプローバーと、サームコ社との合弁テル・サームコの拡散炉が全体の20%強を占めた。テル・サームコを1968年に横浜へ設立して以来、拡散炉は国産。売上高の25%を関連会社が自社生産した製品が占め、輸入したシステムについても顧客の要望に応じた手直しやソフトウェアの開発という、製造メーカーの領域の仕事を担った。これらの製品はアフターサービスに高度な技術力を要して能力開発への投資も大きく、経常利益率は商社型よりメーカー型に近くなると久保徳雄社長は説明した。1978年10月に社名を東京エレクトロン株式会社へ改め、1980年6月に東京証券取引所市場第二部へ上場した。1980年度の半導体製造機器の国内市場約1000億円のうち同社は約25%を占めて首位に立ち、拡散炉・高圧酸化炉・減圧CVD炉の3品目は国内シェアがそれぞれ70%に達した。
1983年に熊本へ初の自社工場を建て、1984年2月にIC製造装置メーカーのテルメックを吸収合併し、同年3月に東証第一部へ指定替えとなった。小高敏夫社長は一部昇格と同時に業種区分を商社から電機へ変えるよう求めたが、認められなかった。いずれも商社と呼ばれたくないための行動であり、自社工場も吸収合併も一部上場も技術者を集めるためのものだと小高氏は述べた。1985年9月期に1501億円まで伸びた売上高は、半導体不況で翌1986年9月期に843億円へ落ち、営業利益は創業以来初の赤字となった。1986年10月に吉田稔社長が辞任し、2年前に会長へ就任していた小高氏が社長に復帰した。吉田氏が業績悪化の責任をとって辞任を申し出たと小高氏は説明したが、解任動議が出されたという証言も流れた。内製化はその後も続き、1988年2月にテル・サームコの全株式を取得し、1993年4月には東京エレクトロン相模と東京エレクトロン東北を合併した。
1983年の設立20周年記念社報に、久保徳雄会長は創業の理想を綴った。それは少数精鋭で自由に意見を言えるガラス張りのユートピアを築くことだったという。だが同じ文章は、資金や人材を集めるうえで業績の成長を抑えるわけにはいかないと気づき、若干の方向修正として無制限成長路線に挑んだとも続けている。この路線は営業体制の拡張にも波及し、1986年1月にはメーカー別だった営業をユーザー別に切り替え、全国7カ所だった営業所を一気に17カ所へ増やした。1988年までに40カ所とする計画も掲げ、1986年の大卒採用は352人に達した。半導体不況が長引くと翌1987年の採用は75人に絞られ、社長へ復帰した小高敏夫氏はまず半導体の営業体制を元へ戻した。1993年3月期は大幅な減収減益に陥り、翌期に回復基調へ戻っても経常利益はピーク時の半分に達しなかった。
1994年10月の直販への全面転換は、海外へ売りに出るための決定ではなく、国内でうまくいっていた仕組みを海外へ移すための決定だった。東京エレクトロンは国内に22カ所のフィールド・エンジニアリング・ステーションを置き、500人の技術者を顧客の主力工場の隣に張り付けていた。最先端の工場を保守すれば、顧客が次に何を作りたいのかが装置の仕様として見えてくる。その情報の流れが開発を支えていたのに、欧米では代理店が間に立ち、要求もクレームも遅れて届いた。主力4製品のシェアが日本とアジアで60%、欧米で14%という差は、技術の差というより接点の差だった。
移したのは組織ではなく、顧客の内側へ入るための条件のほうである。オースティンに20万平方メートルの敷地と海外初のクリーンルームを構え、装置を前にして現地の技術者と評価を重ねる場を作った。米国法人の社長にバリー・ラポーゾ氏を据え、日本人を支援に充てたのも同じ理屈で、信頼が先に立たなければ情報は流れない。転換の効き目は好況ではなく不況で現れた。1999年3月期に売上高が前期の3分の2の3138億円まで減少しても最終損益は黒字で残り、1995年3月期に66%だった国内向けの比率は2000年3月期に海外7割へ反転した。米国市場のシェアは4年で8%から34%になった。
メモリーICの量産は1980年代に日米が競った分野で、DRAMを筆頭に高い技術を要するこの領域では日本勢が米国勢に大差をつけた。その最も技術の進んだ顧客のそばで装置を磨けたことが東京エレクトロンの強みとなり、世界でも屈指の大きさの装置メーカーへ押し上げた。米国ではインテルがパソコン向けCPUで世界市場の7割を握り、モトローラやテキサス・インスツルメンツも控えていた。そのうえ1990年代前半には、先端の製造技術はまずメモリーから生まれるという従来の通念が揺らいでいると受け止められ始め、DRAMでも1990年代半ばに韓国のサムスンと現代が台頭したため、国外の顧客と深く結びつくことが避けられなくなった。米メーカーの声を聞かなければ、次世代の需要に適応できなくなる恐れがあった。
国内で東京エレクトロンの優位を支えたのは、顧客の主力工場の近くに置いたフィールド・エンジニアリング・ステーションであった。欧米では代理店経由の販売にとどまっていたため、顧客が何を望み何に不満を抱えているかを正しくつかめず、情報も遅れて届いた。それに対して国内では22カ所に計500人の技術者を置き、トラブルが起きれば1時間以内に駆けつけて手を打てるようにしていた。先端工場の保守を受け持てば、顧客の次の製品や、それに要る装置の仕様が見えてくる。主力4製品のシェアが日本とアジアで60%、世界全体で42%だったのに欧米では14%にとどまり、1995年3月期は国内向けが66%を占めて、収益が国内の設備投資次第という構造だった。
1994年10月、東京エレクトロンは欧米向け半導体製造装置の販売を代理店経由から直販へ全面的に切り替えた。現地に販売と保守を受け持つ全額出資子会社を設け、すべて直接販売とした。米国では輸出入業務の窓口だったテル・アメリカを改組し、東京エレクトロン・アメリカとした。本社はカリフォルニア州からテキサス州オースティンへ移し、工場用地並みの20万平方メートルの敷地を確保した。欧州は1994年4月にロンドン郊外へ東京エレクトロン・ヨーロッパを設立して統括拠点とし、ドイツにも現地法人を置いた。1995年中にイタリア・スコットランド・フランス・オランダへ広げる計画で、1年のうちに合計200人を超える海外拠点ができた。
半導体製造装置は受注製品であり、標準モデルがあっても顧客によって求める加工が違うため、仕様は細部で異なる。オースティンに設けたクリーンルームは本物の半導体工場と変わらない環境を作り出すもので、海外では初の設備だった。そこでは顧客とともに装置の機能を評価し、顧客側の作業員を呼んで操作を訓練することもでき、訓練を納品前に済ませておけば据え付け後すぐ本格的に動かせる。狙いは目先の商売の拡大より、数年先をにらんだ戦略拠点としての役割にあった。東京エレクトロン・アメリカの社員はこの時点で200人、欧州は各国を合わせて約40人に上り、保守と据え付けを受け持つ技術者がその半分を占めていた。立ち上げの担い手だった小野里充氏は、1996年に過労から心筋梗塞で倒れ、帰国した。
1994年11月、東京エレクトロンは国際テレビ会議システムを導入した。トラブルが起きた際に研究所・工場・サービス拠点の担当者が同時に手立てを練れるよう、国内の工場や事業所に海外拠点もつないだ。海外の顧客へは代理店を介し電話やファクスで部品を取り寄せていたため時間がかかっていたが、同年10月に部品検索システムを入れ、世界の拠点が持つ在庫をコンピュータでまとめて管理する形に改めた。これで米国で要る部品が日米ともに品切れでも、欧州にある在庫を探して回せるようになった。東哲郎社長は、米国の3カ所に工場を置き、現地の外注先と組んで開発と製造を進めるとして、営業だけにとどまらないグローバル化を打ち出した。
1997年4月、米国法人の社長にバリー・ラポーゾ氏が就任した。日本人がトップでは現地企業との意思疎通が難しく、顧客の信頼を得るには現地の人間を据えるのが最善だと判断した結果である。陣容づくりでは、かつて米国の販売代理店だったバリアン社などで同社製品を扱った技術者を迎え入れた。海外法人の長には現地の人材を就け、日本人は後ろから支える側に回るのが方針で、顧客とのやり取りの中心も現地の社員が担い、日本人社員はその支え役とされた。ラポーゾ氏が率いた米国法人は現地化を突き詰め、社員は300人から1200人に増えた。
1997年10月に公表された国際競争力ランキングで、東京エレクトロンが首位に立った。連結財務データを開示する上場・店頭公開企業2102社のうち、条件を満たす375社が対象だった。海外売上高比率や在外売上高営業利益率など6つの指標で評点し、総合点83.2で2位の任天堂を上回った。連結売上高は4327億8400万円、海外売上高比率は28.34%、前年に対する海外売上高の伸び率は40.66%であった。1997年3月期のROEは14.2%で、海外の顧客からきちんとした経営をしていると見られることが重要だった。海外にはこの比率が30%や40%の企業もあり、競争する以上は少なくとも20%を早く達成することが目標となった。
技術を中核と周辺に分け、中核は徹底して自社で手がけるのが東京エレクトロンのやり方で、半導体製造装置なら生産工程、機械、熱の技術がそれに当たる。ウエハーを化学反応室まで移すロボットのような周辺は外に任せた。移り変わりの速い技術分野で他社を丸ごと取り込めば、かえって身動きが鈍るとみて、アプライド・マテリアルズのように周辺技術に長けた会社を買い取って規模を広げる道は取らなかった。製造装置は400種類あるともいわれる中で、同社はプラズマエッチング装置やウエハープローバーなど前工程の4機種に絞り込み、主力製品の国内シェアは6割、装置全体でも4割近くを握っている。
1998年1月、東京エレクトロンは米国アリゾナ州に現地法人を設け、直販体制の拠点をさらに広げた。1999年3月期は空前の半導体不況に見舞われ、連結売上高は前期の3分の2にあたる3138億円へ減った。当期純利益は18億円にとどまったが、最終損益は黒字を保った。国内向けの比率は1995年3月期の66%から反転し、2000年3月期には海外が7割を占めた。米国市場のシェアは1995年末の8%から1999年末には34%へ伸びた。売上が3分の2まで減少しても最終損益が黒字で残ったのは、収益を国内の設備投資の波だけに委ねる構造から抜け出していたためだろう。
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|---|---|---|---|---|
| 1963〜1993年IC産業の仕掛人として商社からメーカーへの転換期 | 放送局の資本を後ろ盾として踏み出した事業の立ち上げ 1963年11月、日商(現・双日)を辞めた久保徳雄氏が東京エレクトロン研究所を設立した経営判断。まとまった資金を持たない久保氏は、東京放送(TBS)から資本金500万円の出資を引き出し、当時まだ実用化に懐疑的だったIC(集積回路)の製造装置という最先端領域を事業ドメインに選んだ。 詳細を読む | ★★★ | ||
| サームコ社と代理店契約を締結し拡散炉の輸入販売を開始 | ★★ | |||
| フェアチャイルド社と代理店契約を締結しICテスターの輸入販売を開始 | ★ | |||
| 大阪支社を開設 | ★ | |||
| Tokyo Electron America, Inc. を設立 | ★ | |||
| 久保徳雄 | 消費財輸出からの全面撤退 1974年、石油ショック下で社長に就任した久保徳雄氏と専務の小高敏夫氏が、売上の約6割を稼いでいた電卓・カーステレオなど消費財の輸出事業からの全面撤退を決め、半導体製造装置の輸入・国産化に経営資源を集中させた経営判断。撤退は電卓(1976年9月)、カーステレオ・トランシーバー(1978年9月)と段階的に完了した。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 久保徳雄 | 消費財輸出事業から全面撤退 | ★★ | ||
| 久保徳雄 | 桜洋行に合併 | ★ | ||
| 久保徳雄 | 東京証券取引所市場第二部に上場 | ★ | ||
| 小高敏夫 | 山梨事業所を開設 | ★ | ||
| 小高敏夫 | テルメックを合併 | ★ | ||
| 小高敏夫 | テル・ラムの全株式を取得しテル山梨に | ★ | ||
| 小高敏夫 | テル・サームコの全株式を取得しテル相模に | ★ | ||
| 小高敏夫 | 東京エレクトロンデバイスが電子部品販売を開始 | ★ | ||
| 井上皓 | 東京エレクトロンデバイスの全株式を取得 | ★ | ||
| 1994〜1999年海外販売の直販体制への全面転換と欧米拠点の自前化 | 井上皓 | Tokyo Electron Europe Ltd. を設立 | ★ | |
| 井上皓 | 海外販売の直販体制への全面転換 1994年10月、東京エレクトロンが欧米向け半導体製造装置の販売を代理店経由から直販へ全面転換した経営判断。米テキサス州オースティンに戦略拠点を開設し、海外法人のトップにはすべて現地の人間を据えて日本人はサポート役に回るという戦略を採り、6年間で国内依存の収益構造をグローバル型へ組み替えた。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 東哲郎 | Tokyo Electron Arizona, LLC を設立 | ★ | ||
| 2000〜2012年Supercritical・Timbreの買収と東京エレクトロンデバイス上場、上海・米国拠点、赤字と太陽光パネル装置への参入 | 東哲郎 | Supercritical Systems, Inc.の全株式を取得 | ★ | |
| 東哲郎 | Timbre Technologies, Inc.の全株式を取得 | ★ | ||
| 東哲郎 | 東京エレクトロンデバイスを東京証券取引所市場第二部に上場 | ★ | ||
| 東哲郎 | Tokyo Electron (Shanghai) Ltd. を設立 | ★ | ||
| 佐藤潔 | TEL Technology Center, America, LLCを設立 | ★ | ||
| 竹中博司 | 営業赤字・純損失を計上 | ★★ | ||
| 竹中博司 | 太陽光パネル製造装置事業に参入 | ★★ | ||
| 2013〜2021年Applied Materialsとの経営統合の合意と破談、太陽光パネル装置からの撤退 | 東哲郎 | 2013年の合意から2015年の破談に至った経営統合の頓挫 2013年9月24日、米アプライドマテリアルズと対等な経営統合の契約を締結した。両社はオランダに設立する統合持株会社の完全子会社となり、東京エレクトロンの株主は1株につき同社の普通株式3.25株を受け取る。交付される株式は582,406,373株にのぼり、東京証券取引所では上場廃止となる予定であった。 統合は両社の株主総会の承認と、日本・米国その他の国における適用ある競争法に基づく関係当局の承認等を条件としていた。この条件が満たされないまま、2015年4月27日に契約は解約された。 詳細を読む | ★★★ | |
| 東哲郎 | 太陽光パネル製造装置(PVE)事業からの撤退を決定 | ★★ | ||
| 東哲郎 | Applied Materials, Inc.との経営統合契約を解約 | ★★ | ||
| 2022〜2026年FY2027目標の中期経営計画と合志・宮城の開発・生産新棟 | 河合利樹 | 他社との統合による規模拡大を捨て、国内の自社開発拠点への投資で伸びる道を選んだ判断 2022年3月末時点で、東京エレクトロンは連結子会社の東京エレクトロン九州が本社を置く熊本県合志市に、投資予定金額300億円の研究開発施設を建てる計画を持っていた。同じ計画表には、東京エレクトロン宮城の本社がある宮城県黒川郡大和町の研究開発施設470億円も並ぶ。 続く2022年6月8日には新しい中期経営計画を発表し、2023年3月期からの5年間で2027年3月期までに売上高3兆円以上、営業利益率35%以上、ROE30%以上という財務目標を掲げた。装置の開発能力そのものを国内の自社拠点で厚くする道を選んだ判断である。 詳細を読む | ||
| 河合利樹 | 東京エレクトロン九州 合志事業所に新開発棟の建設を決定 | ★ | ||
| 河合利樹 | 新中期経営計画を発表(FY2027目標) | ★ | ||
| 河合利樹 | 東京エレクトロン宮城 生産新棟の建設を発表 | ★ | ||
| 河合利樹 | 東京エレクトロン九州 合志事業所の新開発棟(プロセス開発棟)が竣工 | ★ |
免責事項およびポリシー
事実根拠:出所(東京エレクトロン)