東京エレクトロン の歴史

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創業 1963年
母体 TBS
創業地 東京都港区
創業 東京エレクトロン研究所の設立は1963年11月で、場所は東京都港区だった。日商(
東京エレクトロン研究所の設立は1963年11月で、場所は東京都港区だった。日商(後の日商岩井)を辞めた久保徳雄氏が、東京放送から資本金500万円の出資を得て興した会社である。最初は社員数名で、VTRとカーラジオを輸出し、電子機器を輸入する商いをしていた。翌1964年5月、日商時代に半導体製造装置を海外から仕入れて販売していた小高敏夫氏が加わる。同年10月には総合商社と競り合った末に、フェアチャイルド社の総代理店の座を得た。ICテスター第1号機は日本電気へ納め、その代金4,000万円は東京放送が債務を保証した銀行借入で支払っている。放送局の出資で独立したICを実用に移すこと自体が、当時の国内では否定的にとらえられていた。
決断 儲かる商品の条件を先に決め、それに合わない事業から降りてきた。1974年9月期は
儲かる商品の条件を先に決め、それに合わない事業から降りてきた。1974年9月期は売上の6割を占めた輸出部門が約3億円の赤字を計上し、同年12月に小高敏夫氏は扱う商品を選ぶ7つの条件を社内へ示した。市場が伸びること、大メーカーの主力製品でないこと、他社が容易に参入できないこと、代金回収の心配がない一流企業へ売れること、多額の資金が要らないこと、値崩れしないこと、付加価値と利益率が高いこと。カーラジオも電卓もこの条件から外れており、1978年までに消費財の輸出販売を打ち切った。輸出高は1977年9月期の90億円から翌期28億円へ落ち、1979年9月期にゼロとなった。売上の過半を手放したことが、IC製造装置へ資源を集中する余地を作った。
現況 単一セグメントの装置メーカーとして、売上の9割を日本の外で稼いでいる。2026年
単一セグメントの装置メーカーとして、売上の9割を日本の外で稼いでいる。2026年3月期の売上高2兆4,435億円の地域別内訳は中国8,326億円・韓国5,439億円・台湾4,999億円で、日本は2,394億円にとどまる。この顧客地図は1994年に代理店経由の海外販売を直販へ全面転換したことから始まった。米国シェアは1995年末の8%から1999年末に34%へ上がり、売上高に占める自社製品の比率も1994年3月期の55.8%から2000年3月期の94.9%へ上昇して、商社から装置メーカーへの移行が完了する。生成AI向けの先端ロジックとHBM用DRAMの需要が2025年3月期以降の伸びを支え、営業利益6,249億円・営業利益率25.6%を残した。
競合 首位企業と一つになる道が閉じたあと、単独で製品の幅を広げてきた。2013年に世界
首位企業と一つになる道が閉じたあと、単独で製品の幅を広げてきた。2013年に世界首位のアプライドマテリアルズとの経営統合で合意したものの、米司法省は両社共通の是正提案では統合で失われる競争を代替できないと判断し、2015年に統合は解消された。規模で並ぶ選択肢が消えた後は工程ごとの地位を積み上げ、絶縁膜エッチングの世界シェアはCY2024に60%へ達した。露光装置を持たない点でASMLとも後工程へ回ったニコンとも競合せず、前工程の周辺を面で押さえている。後工程でもHBM向けテンポラリーボンダー/デボンダーの売上が2025年3月期に300億円と2年前の約3倍になり、装置の種類を増やすことが規模の代わりを果たした。
長期業績の推移 1970〜2026年
東京エレクトロン:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円純利益率(%)
1997年3月期2026年3月期

第1章 1963年〜 IC産業の仕掛人として商社からメーカーへの転換期

筆者考察y.sugiura, author

東京エレクトロンが商社から装置メーカーへ移った過程は、扱う商品を選び直す作業の連続だった。1974年に小高敏夫氏が社報へ並べた7つの条件は、市場の成長性、競争相手の少なさ、参入の難しさ、代金回収、所要資金、値崩れのしにくさ、利益率を問うもので、当時の主力だったカーステレオと電卓はそのどれにも当てはまらなかった。大手が量産で押してくる消費財は、東京放送の出資で始まった小さな会社が抱えきれる商品ではない。輸出高は1977年9月期の90億円から2年でゼロになり、残ったのは1台数千万円のICテスターと拡散炉という、顧客が数えるほどしかいない市場だった。

その市場を選んだことが、次の縛りを生んだ。ICの装置は保守に高度な技術者を要し、能力開発への投資が利益率を商社型からメーカー型へ押し上げる一方、半導体メーカーの設備投資が止まれば売上は半分になる。1985年9月期に1501億円だった売上高は翌期843億円へ減り、営業利益は創業以来初の赤字に転じた。久保徳雄氏が20周年の社報で無制限成長路線と呼んだものは、少数精鋭のユートピアという創業の理想と、拡大を求める株主や人材の要請とのあいだで折り合った結果である。営業所を7カ所から17カ所へ増やし大卒を352人採ったところへ循環が来たとき、会社は前進の旗を振った経営陣を入れ替えることで帳尻を合わせた。

売上高(単体) 1980年9月期〜1990年9月期(億円)

445 1980 551 1981 690 1982 828 1983 1,221 1984 1,501 1985 843 1986 763 1987 1,259 1988 1,733 1989 1,903 1990
  • 単体(9月期)。1991年3月期の決算期変更より前の期。
  • 出所は会社年鑑(1986年版)・証券調査(241)・Japanese investor 3(1)(5)。

1963年〜東京放送の500万円と、IC製造装置の代理権

理想の会社をつくりたいという夢を抱いた日商(現・日商岩井)の久保徳雄氏は、同社を退き、1963年11月に東京放送の出資500万円を元手として東京エレクトロン研究所を東京都港区に立ち上げた。商社でありながら"研究所"を名乗ったのは、単なる売り買いを超え、製造の現場に寄り添う技術のサービスが求められると久保氏が考えたためである。出発時の社員は数名で、手がけたのはVTRとカーラジオの輸出、電子機器関係の輸入だった日商時代に半導体の製造装置を海外から仕入れて売っていた小高敏夫氏が新会社に加わったのは、翌1964年5月である。小高氏はこの商売が総合商社の気質とかみ合わないと痛感し、新しい会社で自分の理想とするやり方を試そうとしていた。

  • 日経ビジネス 1991年3月18日号
    • [1]久保徳雄氏「理想的な会社をつくりたい。こんな夢を抱いて商社から独立、3〜4人の仲間と東京エレクトロンを設立したのが1963年の11月です」
  • 異端の男とその一族 火の玉集団・東京エレクトロンの奇跡(1982年4月)
    • [2]久保は必死に金ヅルを探し、遂に東京放送という絶好の金ヅルをさがし当て、500万円の資金を引き出すことに成功した
    • [6]小高敏夫が正式に東京エレクトロンに入社したのは、創立から半年後の1964年5月であった
    • [7]小高は日商において主として半導体製造装置の輸入販売を担当し、その仕事が総合商社の体質に合わないビジネスであることを痛感していた
  • 東京エレクトロン 有価証券報告書【沿革】
    • [3]1963年11月 ㈱東京放送の関係会社として東京都港区に㈱東京エレクトロン研究所を設立(資本金5百万円)
    • [5]1963年11月 VTR、カーラジオ等の輸出及び電子機器関係の輸入業務を開始
  • 証券アナリストジャーナル 1980年7月号
    • [4]久保徳雄社長「『研究所』としたのは、ただの商社ではなく製造に近寄った形の技術サービスが必要になるのではないかと考えたからである」

小高氏は入社の1週間後に渡米し、1964年5月末にサームコ社の拡散炉の輸入販売を開始した。創立1年目の同社は東京放送本館内に10坪ほどの事務所を借りるにすぎなかったが、同年10月、総合商社との競り合いに勝ってフェアチャイルド社の総代理店となった。ICテスターの第1号機は代金4000万円を東京放送の債務保証による銀行借入で支払い、日本電気に納入した。1963年から1964年にかけての日本では、ICの実用化について否定的な見方が圧倒的に多かった。小高氏は日本電気日立製作所東芝富士通を回ってICの将来性を説き、各社の開発責任者に同行してフェアチャイルド社のIC工場を案内した。1974年9月の社報で小高氏は、大型テスターを日本で約180台納入し、日本市場のシェアは1位だと報告した。

  • 異端の男とその一族 火の玉集団・東京エレクトロンの奇跡(1982年4月)
    • [8]小高敏夫は入社1週間後に渡米し、1964年5月末にサームコ社の拡散炉の輸入販売を開始した
    • [10]努力が実を結び、10月に入って代理店契約に関する合意が成立した。すぐに久保がシリコンバレーのフェアチャイルド社へ飛び、サインを終えた
    • [12]一年後、待望のICテスター第一号機が入荷した。代金4,000万円も、東京放送の債務保証による銀行借入で無事に支払いを済ませた
    • [13]38年から39年にかけての日本では、まだICの実用化については否定的な見方が圧倒的に多かった
    • [14]各社ごとに、その都度小高自身が同行してフェアチャイルド社を訪ねた
    • [15]四九年九月の社報で、大型テスターを日本で約180台納入し、日本市場のシェアは1位であると報告した
  • 日経ビジネス 1984年4月26日号
    • [9]創立1年目、まだTBS本館内に10坪程の事務所を借りていた当時
    • [11]TELは総合商社との競り合いに勝ち、米国フェアチャイルド(FC)の総代理店となった

代理店として装置を輸入し売る会社でありながら、東京エレクトロンは出発の時点から社員のほとんどを顧客支援の要員に充てていた。毎年多数の技術者を米国へ送り、提携先の工場で1か月から3か月のあいだ働かせ、機械の操作と保守を習得させた。派遣の費用はかさんだが、効果は大きかった。提携先はICテスターのフェアチャイルド・システム・テクノロジー、マイクロコンピュータのインテル、イオン注入装置のバリアンなど40社を超えた。次の段階では、顧客の主要な工場の近くに自社のサービスセンターを設けて支援する方式を採った。良い製品を供給して補修の面まで支援し、製品を信頼されて初めて顧客から中身の濃い情報が得られるという順序で、情報の流れを設計していた。

  • 日経ビジネス 1997年12月1日号
    • [16]東哲郎社長「当社は半導体検査装置の商社として出発したのですが、初めからほとんどの社員がサポート要員という格好でした」
    • [20]東哲郎社長「その次の段階では、お客さんの主要な工場の近くにうちのサービスセンターを設けて、サポートするというやり方をとってきました」
    • [21]東哲郎社長「やはり良い製品を供給し、その補修などの面でお客さんをサポートすることが大切ですね。そうやって当社の製品を信頼してもらえるようになって初めて、むこうから良い情報もとれるというものです」
  • 証券アナリストジャーナル 1980年7月号
    • [17]久保徳雄社長「毎年多数の技術者をアメリカへ送り、現地の工場で1〜3カ月間働かせて、機械の動かし方、保守、サービスなどを習わせている」
    • [18]久保徳雄社長「カネはかかるが効果は大きい」
    • [19]ICテスターはフェアチャイルド・システム・テクノロジー社、マイコンはインテル社、プリント基板テスターはジェンラッド社、デジタル測定機はジョン・フルーク社、半導体関係装置はイオン・インプランテーションのバリアン社など。全部で40社以上になる
参考文献[1]-[21]
  • 日経ビジネス 1991年3月18日号
    • [1]久保徳雄氏「理想的な会社をつくりたい。こんな夢を抱いて商社から独立、3〜4人の仲間と東京エレクトロンを設立したのが1963年の11月です」
  • 異端の男とその一族 火の玉集団・東京エレクトロンの奇跡(1982年4月)
    • [2]久保は必死に金ヅルを探し、遂に東京放送という絶好の金ヅルをさがし当て、500万円の資金を引き出すことに成功した
    • [6]小高敏夫が正式に東京エレクトロンに入社したのは、創立から半年後の1964年5月であった
    • [7]小高は日商において主として半導体製造装置の輸入販売を担当し、その仕事が総合商社の体質に合わないビジネスであることを痛感していた
    • [8]小高敏夫は入社1週間後に渡米し、1964年5月末にサームコ社の拡散炉の輸入販売を開始した
    • [10]努力が実を結び、10月に入って代理店契約に関する合意が成立した。すぐに久保がシリコンバレーのフェアチャイルド社へ飛び、サインを終えた
    • [12]一年後、待望のICテスター第一号機が入荷した。代金4,000万円も、東京放送の債務保証による銀行借入で無事に支払いを済ませた
    • [13]38年から39年にかけての日本では、まだICの実用化については否定的な見方が圧倒的に多かった
    • [14]各社ごとに、その都度小高自身が同行してフェアチャイルド社を訪ねた
    • [15]四九年九月の社報で、大型テスターを日本で約180台納入し、日本市場のシェアは1位であると報告した
  • 東京エレクトロン 有価証券報告書【沿革】
    • [3]1963年11月 ㈱東京放送の関係会社として東京都港区に㈱東京エレクトロン研究所を設立(資本金5百万円)
    • [5]1963年11月 VTR、カーラジオ等の輸出及び電子機器関係の輸入業務を開始
  • 証券アナリストジャーナル 1980年7月号
    • [4]久保徳雄社長「『研究所』としたのは、ただの商社ではなく製造に近寄った形の技術サービスが必要になるのではないかと考えたからである」
    • [17]久保徳雄社長「毎年多数の技術者をアメリカへ送り、現地の工場で1〜3カ月間働かせて、機械の動かし方、保守、サービスなどを習わせている」
    • [18]久保徳雄社長「カネはかかるが効果は大きい」
    • [19]ICテスターはフェアチャイルド・システム・テクノロジー社、マイコンはインテル社、プリント基板テスターはジェンラッド社、デジタル測定機はジョン・フルーク社、半導体関係装置はイオン・インプランテーションのバリアン社など。全部で40社以上になる
  • 日経ビジネス 1984年4月26日号
    • [9]創立1年目、まだTBS本館内に10坪程の事務所を借りていた当時
    • [11]TELは総合商社との競り合いに勝ち、米国フェアチャイルド(FC)の総代理店となった
  • 日経ビジネス 1997年12月1日号
    • [16]東哲郎社長「当社は半導体検査装置の商社として出発したのですが、初めからほとんどの社員がサポート要員という格好でした」
    • [20]東哲郎社長「その次の段階では、お客さんの主要な工場の近くにうちのサービスセンターを設けて、サポートするというやり方をとってきました」
    • [21]東哲郎社長「やはり良い製品を供給し、その補修などの面でお客さんをサポートすることが大切ですね。そうやって当社の製品を信頼してもらえるようになって初めて、むこうから良い情報もとれるというものです」

1971年〜消費財輸出からの全面撤退と、7条件による商品選別

1971年8月のニクソン・ショックに続く変動相場制への移行で、同社は利益が半減した。利益を稼いでいたのは輸入部門で、その額は約5億円だった。一方、売上の6割を担った輸出部門は、1973年の石油ショックも重なって1974年9月期に約3億円の赤字を出し、同年12月の社報で小高氏は、経常利益が前期の3億3000万円から2億円に落ち込んだ主因はこの赤字だと社内に伝えた。輸出品はどれも欧米企業のブランドを付けるOEMで、最終消費者の動きが見えず、米国からの注文が急に止まると在庫が積み上がった。小高氏の回想によれば、カーステレオには松下通信工業が本格生産に乗り出すなど大手の参入が相次ぎ、技術でも商品でも差がつかず、中小企業に勝ち目はなかった。完全撤退に最も強く異を唱えた常務1人が辞め、さらに2人が独立など別の事情で離れたのち、1974年11月に久保徳雄社長と小高専務の体制が始まった

  • 異端の男とその一族 火の玉集団・東京エレクトロンの奇跡(1982年4月)
    • [22]1971年8月のニクソン・ショックから12月のスミソニアン会議を経て国際通貨は変動相場制へ移行し、東京エレクトロンもドル・ショックで利益半減に見舞われた
    • [23]利益では、輸入部門がなんと約5億円もかせいでいた
    • [24]約200億円の売上げのうち、6割を輸出部門が占め…輸出部門で約3億円の赤字が出ていたことになる
    • [25]1974年12月の社報で小高は、1974年9月期に経常利益が前年の3億3000万円から2億円に減少した事実と、その減益の原因が輸出部門の赤字にあったことを報告した
    • [28]最も強く完全撤退に反対していた常務一人が辞任し、ほかに二人が独立などの別の理由で去って行った
    • [29]1974年11月、久保社長・小高専務体制がスタートした
  • 日経ビジネス 1982年5月31日号(小高敏夫社長インタビュー)
    • [26]小高敏夫社長「当社の輸出商品はすべて欧米企業のブランドで売るOEMでした。だから、最終消費者の動向が我々にはよくわからんのです。で、突然米国から注文の打ち切りがくると、在庫の山ができる」
    • [27]小高敏夫社長「カーステレオでは松下通信工業が生産を本格化させるなど、大手がこぞって進出して来た。技術、商品面の差はほとんどない。これじゃ、ウチのような中小企業は太刀打ちできない」

カーラジオ・カーステレオ・電卓の輸出は、7条件に照らせば明らかに当てはまらない事業だった。その7つの条件は、1974年12月の社報で示された。小高氏はそこで不採算部門の大胆な縮小と廃止を打ち出し、商品を選ぶ物差しとして次を並べた。伸びしろのある市場であること、競合が少なく大メーカーが主力に据えていない製品であること、他社が簡単には入り込めないこと、取引先が一流企業で代金の取りはぐれがないこと、多額の資金を必要としないこと、抱えている間に値が崩れないこと、付加価値と利益率が高いこと。撤退は一度には行わず、1976年9月に電卓、1978年9月にカーステレオとトランシーバーの輸出販売をやめた。輸出高は1977年9月期の90億円から翌期は28億円に減り、1979年9月期にゼロとなった。これらの市場が急拡大するなかで大きな販売網と資金がなければ競争で優位に立てないと判断しての撤退だった。

  • 異端の男とその一族 火の玉集団・東京エレクトロンの奇跡(1982年4月)
    • [30]カーラジオ、カーステレオ、電卓などの耐久消費財の輸出は、社報に書かれた七条件からは明らかに外れていた
    • [31]小高が社報で示した、なにを扱うかを判断するための7項目
    • [32]1974年12月の社報に「明日の飛躍のために」と題する小高の文章が掲載され、不採算部門については思い切った縮小なり廃止を考えたいと打ち出した
    • [33](1)マーケットが今から大きくなる分野の製品(2)その製品について競争相手が少ないこと。とくに大メーカーの主力製品でないこと(3)他社が容易に参入できない製品(4)販売先が一流会社であり、代金回収についての心配がない製品であること
    • [34](5)取り扱うのにあまり金がかからぬ製品であること(6)製品が在庫している間に値崩れしないこと(7)付加価値の高い、利益率の高い製品であること
  • 証券 1980年6月号 32(6)(375)
    • [35]電卓の輸出販売については国内大手メーカーのマスプロ製品におされ1976年9月に撤退し、カーステレオ、トランシーバーの輸出販売についても1978年9月に至り全面的に撤退している
  • 証券アナリストジャーナル 1980年7月号
    • [36]久保徳雄社長「1977年9月期に90億円あった輸出が、1978年9月期には28億円に減り、1979年9月期にはなくなった」
    • [37]久保徳雄社長「当社は電卓、CB、カー・ステレオなどの輸出をかなりの期間手がけたが、これらの市場が急拡大するに及び、大きな販売網と資金がないと競争に勝てないことを知って、撤退したのである」

1979年9月期の部門別売上高構成は、半導体製造機器が40.2%、半導体を主力とする電子部品が35.6%を占めた。大きな市場を追わず、特定の分野に深く入り込んで特殊なシステムを売る会社を目指した。国内市場は装置ごとにみると最大でも100億円ほどで、細かな仕事を寄せ集めて積み上げる商いであり、製品に個性が出るほど大メーカーとぶつからずに済み、業界が小さいぶん高いシェアも取れる。半導体工場向けのICテスターは計測・分析機器に含まれ、これを足すと売上高の約7割が半導体に関わっていた。エンジニアを軸にした技術商社は、日本企業の通例とはひと味違うベンチャービジネスに育ったと、のちに評された

  • 証券アナリストジャーナル 1980年7月号
    • [38]1979年9月期の部門別売上高構成は、半導体製造機器40.2%、半導体を主力とする電子部品35.6%、計測・分析機器12.9%、コンピュータ関連機器10.9%、車載電装品(輸出)0.4%
    • [39]久保徳雄社長「当社は大きなマーケットはねらわず、非常に専門的に深く入り、特殊システムを売れるような会社になっていきたいと考えている」
    • [40]久保徳雄社長「各装置毎に見れば国内マーケットは最大のものでも100億円ぐらいのものだ。それらの細かい仕事を集めて積み上げ」ている
    • [41]久保徳雄社長「こうして個性化するほど大メーカーとの競合は少なくてすむ。また特殊なシステムをやっていると、その業界自身はあまり大きくないので、非常に高いシェアを占められる」
    • [42]計測・分析機器の中には、半導体の製造工場に納めているICテスターが含まれているので、これを加えると、当社の売上高の約7割が半導体に関連しているといえる
  • 日経ビジネス 1987年2月2日号
    • [43]エンジニア中心の技術商社は、スポンサーが東京放送という特殊な世界の企業であったこともあり、一般の日本の企業とはひと味違うベンチャービジネスとして成長した
参考文献[22]-[43]
  • 異端の男とその一族 火の玉集団・東京エレクトロンの奇跡(1982年4月)
    • [22]1971年8月のニクソン・ショックから12月のスミソニアン会議を経て国際通貨は変動相場制へ移行し、東京エレクトロンもドル・ショックで利益半減に見舞われた
    • [23]利益では、輸入部門がなんと約5億円もかせいでいた
    • [24]約200億円の売上げのうち、6割を輸出部門が占め…輸出部門で約3億円の赤字が出ていたことになる
    • [25]1974年12月の社報で小高は、1974年9月期に経常利益が前年の3億3000万円から2億円に減少した事実と、その減益の原因が輸出部門の赤字にあったことを報告した
    • [28]最も強く完全撤退に反対していた常務一人が辞任し、ほかに二人が独立などの別の理由で去って行った
    • [29]1974年11月、久保社長・小高専務体制がスタートした
    • [30]カーラジオ、カーステレオ、電卓などの耐久消費財の輸出は、社報に書かれた七条件からは明らかに外れていた
    • [31]小高が社報で示した、なにを扱うかを判断するための7項目
    • [32]1974年12月の社報に「明日の飛躍のために」と題する小高の文章が掲載され、不採算部門については思い切った縮小なり廃止を考えたいと打ち出した
    • [33](1)マーケットが今から大きくなる分野の製品(2)その製品について競争相手が少ないこと。とくに大メーカーの主力製品でないこと(3)他社が容易に参入できない製品(4)販売先が一流会社であり、代金回収についての心配がない製品であること
    • [34](5)取り扱うのにあまり金がかからぬ製品であること(6)製品が在庫している間に値崩れしないこと(7)付加価値の高い、利益率の高い製品であること
  • 日経ビジネス 1982年5月31日号(小高敏夫社長インタビュー)
    • [26]小高敏夫社長「当社の輸出商品はすべて欧米企業のブランドで売るOEMでした。だから、最終消費者の動向が我々にはよくわからんのです。で、突然米国から注文の打ち切りがくると、在庫の山ができる」
    • [27]小高敏夫社長「カーステレオでは松下通信工業が生産を本格化させるなど、大手がこぞって進出して来た。技術、商品面の差はほとんどない。これじゃ、ウチのような中小企業は太刀打ちできない」
  • 証券 1980年6月号 32(6)(375)
    • [35]電卓の輸出販売については国内大手メーカーのマスプロ製品におされ1976年9月に撤退し、カーステレオ、トランシーバーの輸出販売についても1978年9月に至り全面的に撤退している
  • 証券アナリストジャーナル 1980年7月号
    • [36]久保徳雄社長「1977年9月期に90億円あった輸出が、1978年9月期には28億円に減り、1979年9月期にはなくなった」
    • [37]久保徳雄社長「当社は電卓、CB、カー・ステレオなどの輸出をかなりの期間手がけたが、これらの市場が急拡大するに及び、大きな販売網と資金がないと競争に勝てないことを知って、撤退したのである」
    • [38]1979年9月期の部門別売上高構成は、半導体製造機器40.2%、半導体を主力とする電子部品35.6%、計測・分析機器12.9%、コンピュータ関連機器10.9%、車載電装品(輸出)0.4%
    • [39]久保徳雄社長「当社は大きなマーケットはねらわず、非常に専門的に深く入り、特殊システムを売れるような会社になっていきたいと考えている」
    • [40]久保徳雄社長「各装置毎に見れば国内マーケットは最大のものでも100億円ぐらいのものだ。それらの細かい仕事を集めて積み上げ」ている
    • [41]久保徳雄社長「こうして個性化するほど大メーカーとの競合は少なくてすむ。また特殊なシステムをやっていると、その業界自身はあまり大きくないので、非常に高いシェアを占められる」
    • [42]計測・分析機器の中には、半導体の製造工場に納めているICテスターが含まれているので、これを加えると、当社の売上高の約7割が半導体に関連しているといえる
  • 日経ビジネス 1987年2月2日号
    • [43]エンジニア中心の技術商社は、スポンサーが東京放送という特殊な世界の企業であったこともあり、一般の日本の企業とはひと味違うベンチャービジネスとして成長した

1979年〜商社とメーカーを兼ねた業態からメーカーへの移行

1979年9月期の取扱製品は輸入品が約75%を占め、子会社テルメックのプローバーと、サームコ社との合弁テル・サームコの拡散炉が全体の20%強を占めた。テル・サームコを1968年に横浜へ設立して以来、拡散炉は国産。売上高の25%を関連会社が自社生産した製品が占め、輸入したシステムについても顧客の要望に応じた手直しやソフトウェアの開発という、製造メーカーの領域の仕事を担った。これらの製品はアフターサービスに高度な技術力を要して能力開発への投資も大きく、経常利益率は商社型よりメーカー型に近くなる久保徳雄社長は説明した。1978年10月に社名を東京エレクトロン株式会社へ改め、1980年6月に東京証券取引所市場第二部へ上場した。1980年度の半導体製造機器の国内市場約1000億円のうち同社は約25%を占めて首位に立ち、拡散炉・高圧酸化炉・減圧CVD炉の3品目は国内シェアがそれぞれ70%に達した。

  • 証券 1980年6月号 32(6)(375)
    • [44]1979年9月期の取扱製品は輸入品が約75%を占めた
    • [45]子会社テルメックのプローバーと合弁テル・サームコの拡散炉が全体の20%強を占めた
  • 異端の男とその一族 火の玉集団・東京エレクトロンの奇跡(1982年4月)
    • [46]1968年、サームコ社との合弁でテル・サームコを横浜に設立し、拡散炉の国産化に踏み切った
    • [52]1980年度の半導体製造機器の国内市場は約1000億円で、東京エレクトロンは約25%を占めて首位に立った
    • [53]拡散炉・高圧酸化炉・減圧CVD炉の3品目は国内シェアがそれぞれ約70%に達した(1980年度)
  • 証券アナリストジャーナル 1980年7月号
    • [47]久保徳雄社長「売上高の25%は関連会社が自社生産した製品である」
    • [48]久保徳雄社長「輸入販売しているシステム製品についても顧客の要望に応じて手直しをしたり、ソフト・ウエアの開発を行うなど、本来製造メーカーの領域に属する仕事を行う能力を持っている」
    • [49]久保徳雄社長「これらのシステム製品群はアフター・サービスについても高度の技術力が必要である。このため能力開発のための投資も大きく、経常利益率は従来の『商社型』よりむしろ『メーカー型』に近くなる」
    • [50]1978年10月に社名を東京エレクトロン株式会社へ改めた
  • 東京エレクトロン 有価証券報告書【沿革】
    • [51]1980年6月 東京証券取引所市場第二部上場

1983年に熊本へ初の自社工場を建て、1984年2月にIC製造装置メーカーのテルメックを吸収合併し、同年3月に東証第一部へ指定替えとなった。小高敏夫社長は一部昇格と同時に業種区分を商社から電機へ変えるよう求めたが、認められなかった。いずれも商社と呼ばれたくないための行動であり、自社工場も吸収合併も一部上場も技術者を集めるためのものだと小高氏は述べた。1985年9月期に1501億円まで伸びた売上高は、半導体不況で翌1986年9月期に843億円へ落ち、営業利益は創業以来初の赤字となった。1986年10月に吉田稔社長が辞任し、2年前に会長へ就任していた小高氏が社長に復帰した。吉田氏が業績悪化の責任をとって辞任を申し出たと小高氏は説明したが、解任動議が出されたという証言も流れた。内製化はその後も続き、1988年2月にテル・サームコの全株式を取得し、1993年4月には東京エレクトロン相模と東京エレクトロン東北を合併した。

  • 日経ビジネス 1984年4月26日号
    • [54]1983年、熊本に初の自社工場を建設した
    • [55]1984年2月、IC製造装置メーカーのテルメックを吸収合併した
    • [57]小高敏夫社長は一部昇格と同時に業種区分を商社から電機へ変えるよう求めたが、認められなかった
    • [58]小高敏夫社長「これらはすべて商社と呼ばれたくないための行動である」
  • 東京エレクトロン 有価証券報告書【沿革】
    • [56]1984年3月 東京証券取引所市場第一部へ指定替え
    • [67]1993年4月 東京エレクトロン相模㈱(1968年2月設立、旧テル・サームコ㈱)と東京エレクトロン東北㈱を合併
  • 日経ビジネス 1984年4月26日号(小高敏夫社長の発言)
    • [59]小高敏夫社長「自社工場も吸収合併も一部上場も、すべて技術者を集めるためのものだ」
  • 証券調査(241)
    • [60]1985年9月期 売上高1501億円
    • [61]1986年9月期 売上高843億円
  • 日経ビジネス 1987年2月2日号
    • [62]1986年9月期に営業利益で創業以来初の赤字を計上した
    • [63]1986年10月、吉田稔社長が辞任し、小高敏夫が社長に復帰した
    • [64]小高社長によれば、「吉田君が業績悪化の責任をとって辞任したいと申し出てきた」
    • [65]「8月に緊急役員会が開かれ、吉田社長の解任動議が出された」(東エレクに近い関係者)という証言もある。直接の当事者が沈黙を守っているため、真相は藪の中
  • 東京エレクトロン 有価証券報告書(過年度)
    • [66]1988/2 テル・サームコ株式会社(1968年2月設立)の全株式を取得し、テル相模株式会社とする

1983年の設立20周年記念社報に、久保徳雄会長は創業の理想を綴った。それは少数精鋭で自由に意見を言えるガラス張りのユートピアを築くことだったという。だが同じ文章は、資金や人材を集めるうえで業績の成長を抑えるわけにはいかないと気づき、若干の方向修正として無制限成長路線に挑んだとも続けている。この路線は営業体制の拡張にも波及し、1986年1月にはメーカー別だった営業をユーザー別に切り替え、全国7カ所だった営業所を一気に17カ所へ増やした。1988年までに40カ所とする計画も掲げ、1986年の大卒採用は352人に達した。半導体不況が長引くと翌1987年の採用は75人に絞られ、社長へ復帰した小高敏夫氏はまず半導体の営業体制を元へ戻した。1993年3月期は大幅な減収減益に陥り、翌期に回復基調へ戻っても経常利益はピーク時の半分に達しなかった

  • 日経ビジネス 1987年2月2日号
    • [68]久保会長は58年の設立20周年記念社報で「私達の理想はノビノビと働けるガラス張りのユートピア建設であった。社員は少数精鋭。自由な意見。公正な成果配分、出勤簿はなし」と語っている
    • [69]久保徳雄会長「金や人を集めるにも業績成長を制限できないことが分かったし、成長してこそ若い人のやり甲斐を満たせられることも分かった。株主の期待も業績拡大にあること。TELは若干方向修正して無制限成長路線へ挑戦した」
    • [70]東エレクは昨年1月、従来のメーカー別営業体制をユーザー別に切り替え、全国7カ所の営業所を一気に17カ所に増やした
    • [71]63年までに40カ所とする拡大策に打って出ていた。61年の新卒採用は大卒352人
    • [72]62年の採用はさすがに75人に絞った
    • [73]復帰した小高社長がまず手をつけたのは半導体営業体制を元に戻すことだった
  • 日経ビジネス 1995年1月2日号
    • [74]93年は大幅な減収減益、94年は回復基調に乗ったものの、経常利益はピーク時の半分にも満たなかった
参考文献[44]-[74]
  • 証券 1980年6月号 32(6)(375)
    • [44]1979年9月期の取扱製品は輸入品が約75%を占めた
    • [45]子会社テルメックのプローバーと合弁テル・サームコの拡散炉が全体の20%強を占めた
  • 異端の男とその一族 火の玉集団・東京エレクトロンの奇跡(1982年4月)
    • [46]1968年、サームコ社との合弁でテル・サームコを横浜に設立し、拡散炉の国産化に踏み切った
    • [52]1980年度の半導体製造機器の国内市場は約1000億円で、東京エレクトロンは約25%を占めて首位に立った
    • [53]拡散炉・高圧酸化炉・減圧CVD炉の3品目は国内シェアがそれぞれ約70%に達した(1980年度)
  • 証券アナリストジャーナル 1980年7月号
    • [47]久保徳雄社長「売上高の25%は関連会社が自社生産した製品である」
    • [48]久保徳雄社長「輸入販売しているシステム製品についても顧客の要望に応じて手直しをしたり、ソフト・ウエアの開発を行うなど、本来製造メーカーの領域に属する仕事を行う能力を持っている」
    • [49]久保徳雄社長「これらのシステム製品群はアフター・サービスについても高度の技術力が必要である。このため能力開発のための投資も大きく、経常利益率は従来の『商社型』よりむしろ『メーカー型』に近くなる」
    • [50]1978年10月に社名を東京エレクトロン株式会社へ改めた
  • 東京エレクトロン 有価証券報告書【沿革】
    • [51]1980年6月 東京証券取引所市場第二部上場
    • [56]1984年3月 東京証券取引所市場第一部へ指定替え
    • [67]1993年4月 東京エレクトロン相模㈱(1968年2月設立、旧テル・サームコ㈱)と東京エレクトロン東北㈱を合併
  • 日経ビジネス 1984年4月26日号
    • [54]1983年、熊本に初の自社工場を建設した
    • [55]1984年2月、IC製造装置メーカーのテルメックを吸収合併した
    • [57]小高敏夫社長は一部昇格と同時に業種区分を商社から電機へ変えるよう求めたが、認められなかった
    • [58]小高敏夫社長「これらはすべて商社と呼ばれたくないための行動である」
  • 日経ビジネス 1984年4月26日号(小高敏夫社長の発言)
    • [59]小高敏夫社長「自社工場も吸収合併も一部上場も、すべて技術者を集めるためのものだ」
  • 証券調査(241)
    • [60]1985年9月期 売上高1501億円
    • [61]1986年9月期 売上高843億円
  • 日経ビジネス 1987年2月2日号
    • [62]1986年9月期に営業利益で創業以来初の赤字を計上した
    • [63]1986年10月、吉田稔社長が辞任し、小高敏夫が社長に復帰した
    • [64]小高社長によれば、「吉田君が業績悪化の責任をとって辞任したいと申し出てきた」
    • [65]「8月に緊急役員会が開かれ、吉田社長の解任動議が出された」(東エレクに近い関係者)という証言もある。直接の当事者が沈黙を守っているため、真相は藪の中
    • [68]久保会長は58年の設立20周年記念社報で「私達の理想はノビノビと働けるガラス張りのユートピア建設であった。社員は少数精鋭。自由な意見。公正な成果配分、出勤簿はなし」と語っている
    • [69]久保徳雄会長「金や人を集めるにも業績成長を制限できないことが分かったし、成長してこそ若い人のやり甲斐を満たせられることも分かった。株主の期待も業績拡大にあること。TELは若干方向修正して無制限成長路線へ挑戦した」
    • [70]東エレクは昨年1月、従来のメーカー別営業体制をユーザー別に切り替え、全国7カ所の営業所を一気に17カ所に増やした
    • [71]63年までに40カ所とする拡大策に打って出ていた。61年の新卒採用は大卒352人
    • [72]62年の採用はさすがに75人に絞った
    • [73]復帰した小高社長がまず手をつけたのは半導体営業体制を元に戻すことだった
  • 東京エレクトロン 有価証券報告書(過年度)
    • [66]1988/2 テル・サームコ株式会社(1968年2月設立)の全株式を取得し、テル相模株式会社とする
  • 日経ビジネス 1995年1月2日号
    • [74]93年は大幅な減収減益、94年は回復基調に乗ったものの、経常利益はピーク時の半分にも満たなかった

第2章 1994年〜 海外販売の直販体制への全面転換と欧米拠点の自前化

筆者考察y.sugiura, author

1994年10月の直販への全面転換は、海外へ売りに出るための決定ではなく、国内でうまくいっていた仕組みを海外へ移すための決定だった。東京エレクトロンは国内に22カ所のフィールド・エンジニアリング・ステーションを置き、500人の技術者を顧客の主力工場の隣に張り付けていた。最先端の工場を保守すれば、顧客が次に何を作りたいのかが装置の仕様として見えてくる。その情報の流れが開発を支えていたのに、欧米では代理店が間に立ち、要求もクレームも遅れて届いた。主力4製品のシェアが日本とアジアで60%、欧米で14%という差は、技術の差というより接点の差だった。

移したのは組織ではなく、顧客の内側へ入るための条件のほうである。オースティンに20万平方メートルの敷地と海外初のクリーンルームを構え、装置を前にして現地の技術者と評価を重ねる場を作った。米国法人の社長にバリー・ラポーゾ氏を据え、日本人を支援に充てたのも同じ理屈で、信頼が先に立たなければ情報は流れない。転換の効き目は好況ではなく不況で現れた。1999年3月期に売上高が前期の3分の2の3138億円まで減少しても最終損益は黒字で残り、1995年3月期に66%だった国内向けの比率は2000年3月期に海外7割へ反転した。米国市場のシェアは4年で8%から34%になった。

連結売上高 1994年3月期〜1999年3月期(億円)

1,897 1994 2,516 1995 4,017 1996 4,327 1997 4,555 1998 3,138 1999
  • 連結(3月期)。直販へ全面転換したのは1994年10月。
  • 出所は会社年鑑。

1994年〜代理店経由では届かなくなった欧米の顧客

メモリーICの量産は1980年代に日米が競った分野で、DRAMを筆頭に高い技術を要するこの領域では日本勢が米国勢に大差をつけた。その最も技術の進んだ顧客のそばで装置を磨けたことが東京エレクトロンの強みとなり、世界でも屈指の大きさの装置メーカーへ押し上げた。米国ではインテルがパソコン向けCPUで世界市場の7割を握り、モトローラやテキサス・インスツルメンツも控えていた。そのうえ1990年代前半には、先端の製造技術はまずメモリーから生まれるという従来の通念が揺らいでいると受け止められ始め、DRAMでも1990年代半ばに韓国のサムスンと現代が台頭したため、国外の顧客と深く結びつくことが避けられなくなった。米メーカーの声を聞かなければ、次世代の需要に適応できなくなる恐れがあった

  • 日経ビジネス 1995年1月2日号
    • [75]80年代日本は米国とDRAMを中心としたメモリーICで生産競争を繰り広げた。ICの中では最先端の技術が必要とされたDRAMで日本勢が米国勢を圧倒した
    • [76]東京エレクトロンは、「最も優れたユーザーのもとで開発をするのが一番」(風間善副社長)という地の利を生かし、世界最大規模の装置メーカーに成長した
    • [77]米国にはパソコンの心臓部であるCPUで世界シェアの7割を握るインテルをはじめ、モトローラ、テキサス・インスツルメンツなど、MPU業界の雄がひしめく
    • [78]最先端の製造技術は、メモリーが先行するという従来の法則はもはや通用しないとの見方が強くなってきた
    • [80]東哲郎常務「米メーカーの声を聞かないと、次世代需要に適応できなくなる」
  • 日経ビジネス 2000年10月9日号
    • [79]90年代半ばにDRAMで韓国サムスン・現代が台頭し、米インテルのMPUやTIのDSPが急成長。日本以外の顧客と密接な関係を持つ必要が生じた

国内で東京エレクトロンの優位を支えたのは、顧客の主力工場の近くに置いたフィールド・エンジニアリング・ステーションであった。欧米では代理店経由の販売にとどまっていたため、顧客が何を望み何に不満を抱えているかを正しくつかめず、情報も遅れて届いた。それに対して国内では22カ所に計500人の技術者を置き、トラブルが起きれば1時間以内に駆けつけて手を打てるようにしていた。先端工場の保守を受け持てば、顧客の次の製品や、それに要る装置の仕様が見えてくる。主力4製品のシェアが日本とアジアで60%、世界全体で42%だったのに欧米では14%にとどまり、1995年3月期は国内向けが66%を占めて、収益が国内の設備投資次第という構造だった

  • 日経ビジネス 1995年1月2日号
    • [81]同社は本社や事業所、営業所以外に「フィールド・エンジニアリング・ステーション」と呼ぶサービスセンターを全国に22カ所持つ。半導体各社の主力工場の近くに立地
    • [82]東哲郎常務「代理店方式では、必ずしも顧客の要求やクレームを的確につかめず、情報伝達も遅かった」
    • [83]合計500人の技術者を張り付けている。「何かトラブルが発生すれば1時間以内に駆け付け、対策を講じる」
    • [84]最先端工場のメンテナンスに携われば、メーカーが次にどんな製品を作ろうとしているのか、どんな仕様の装置が必要なのかが見えてくる
    • [85]主力4製品のシェアは、日本とアジアで60%、世界全体で42%を占めるのに対し、欧米は14%にすぎない
  • 日経ビジネス 2000年10月9日号
    • [86]国内向け比率は95年3月期の66%から2000年3月期に海外7割へ反転した

1994年10月、東京エレクトロンは欧米向け半導体製造装置の販売を代理店経由から直販へ全面的に切り替えた。現地に販売と保守を受け持つ全額出資子会社を設け、すべて直接販売とした。米国では輸出入業務の窓口だったテル・アメリカを改組し、東京エレクトロン・アメリカとした。本社はカリフォルニア州からテキサス州オースティンへ移し、工場用地並みの20万平方メートルの敷地を確保した。欧州は1994年4月にロンドン郊外へ東京エレクトロン・ヨーロッパを設立して統括拠点とし、ドイツにも現地法人を置いた。1995年中にイタリア・スコットランド・フランス・オランダへ広げる計画で、1年のうちに合計200人を超える海外拠点ができた

  • 日経ビジネス 1995年1月2日号
    • [87]同社は1994年10月、欧米向け半導体製造装置の販売体制を大幅に変えた。それまでは代理店経由だった
    • [88]現地に販売とメンテナンスを受け持つ全額出資子会社を設立。すべて直接販売に切り替えた
    • [89]米国に設立したのが東京エレクトロン・アメリカ。これまで輸出入業務の窓口として置いていた子会社、テル・アメリカを改組した
    • [90]本社はカリフォルニア州からテキサス州オースチンに移し、20万平方メートルという工場用地並みの敷地を確保した
    • [92]95年中にはイタリアとスコットランド、フランス、オランダにも開設する予定だ。わずか1年で合計200人を超える規模の海外拠点を展開
  • 東京エレクトロン 有価証券報告書【沿革】
    • [91]1994年4月 Tokyo Electron Europe Ltd. を設立
参考文献[75]-[92]
  • 日経ビジネス 1995年1月2日号
    • [75]80年代日本は米国とDRAMを中心としたメモリーICで生産競争を繰り広げた。ICの中では最先端の技術が必要とされたDRAMで日本勢が米国勢を圧倒した
    • [76]東京エレクトロンは、「最も優れたユーザーのもとで開発をするのが一番」(風間善副社長)という地の利を生かし、世界最大規模の装置メーカーに成長した
    • [77]米国にはパソコンの心臓部であるCPUで世界シェアの7割を握るインテルをはじめ、モトローラ、テキサス・インスツルメンツなど、MPU業界の雄がひしめく
    • [78]最先端の製造技術は、メモリーが先行するという従来の法則はもはや通用しないとの見方が強くなってきた
    • [80]東哲郎常務「米メーカーの声を聞かないと、次世代需要に適応できなくなる」
    • [81]同社は本社や事業所、営業所以外に「フィールド・エンジニアリング・ステーション」と呼ぶサービスセンターを全国に22カ所持つ。半導体各社の主力工場の近くに立地
    • [82]東哲郎常務「代理店方式では、必ずしも顧客の要求やクレームを的確につかめず、情報伝達も遅かった」
    • [83]合計500人の技術者を張り付けている。「何かトラブルが発生すれば1時間以内に駆け付け、対策を講じる」
    • [84]最先端工場のメンテナンスに携われば、メーカーが次にどんな製品を作ろうとしているのか、どんな仕様の装置が必要なのかが見えてくる
    • [85]主力4製品のシェアは、日本とアジアで60%、世界全体で42%を占めるのに対し、欧米は14%にすぎない
    • [87]同社は1994年10月、欧米向け半導体製造装置の販売体制を大幅に変えた。それまでは代理店経由だった
    • [88]現地に販売とメンテナンスを受け持つ全額出資子会社を設立。すべて直接販売に切り替えた
    • [89]米国に設立したのが東京エレクトロン・アメリカ。これまで輸出入業務の窓口として置いていた子会社、テル・アメリカを改組した
    • [90]本社はカリフォルニア州からテキサス州オースチンに移し、20万平方メートルという工場用地並みの敷地を確保した
    • [92]95年中にはイタリアとスコットランド、フランス、オランダにも開設する予定だ。わずか1年で合計200人を超える規模の海外拠点を展開
  • 日経ビジネス 2000年10月9日号
    • [79]90年代半ばにDRAMで韓国サムスン・現代が台頭し、米インテルのMPUやTIのDSPが急成長。日本以外の顧客と密接な関係を持つ必要が生じた
    • [86]国内向け比率は95年3月期の66%から2000年3月期に海外7割へ反転した
  • 東京エレクトロン 有価証券報告書【沿革】
    • [91]1994年4月 Tokyo Electron Europe Ltd. を設立

1995年〜オースティンのクリーンルームと現地人トップ

半導体製造装置は受注製品であり、標準モデルがあっても顧客によって求める加工が違うため、仕様は細部で異なる。オースティンに設けたクリーンルームは本物の半導体工場と変わらない環境を作り出すもので、海外では初の設備だった。そこでは顧客とともに装置の機能を評価し、顧客側の作業員を呼んで操作を訓練することもでき、訓練を納品前に済ませておけば据え付け後すぐ本格的に動かせる。狙いは目先の商売の拡大より、数年先をにらんだ戦略拠点としての役割にあった。東京エレクトロン・アメリカの社員はこの時点で200人、欧州は各国を合わせて約40人に上り、保守と据え付けを受け持つ技術者がその半分を占めていた。立ち上げの担い手だった小野里充氏は、1996年に過労から心筋梗塞で倒れ、帰国した

  • 日経ビジネス 1995年1月2日号
    • [93]半導体製造装置は受注製品。標準モデルはあるが、各半導体メーカーによって求める加工内容が異なるため、ユーザーが違えば仕様は細かく異なる
    • [94]オースチンには海外で初めて実際の半導体工場と同じ環境を再現するクリーンルームを備える
    • [95]ここではユーザーを交えて装置機能の評価をするほか、メーカーの作業員を招いて操作のトレーニングもできるようにする
    • [96]納品前にトレーニングを済ませておけば、納品後、速やかに本格稼働に入ることができる
    • [97]こうした目先の商売を拡大するというより、数年後を見据えた戦略拠点という意味合いが強い
    • [98]東京エレクトロン・アメリカの社員数はすでに200人、欧州は各国合計で約40人に上る。そのうち、アフターサービスや設備の据え付けなどを担当し、同時に情報収集にも携わる技術者が半分を占める
  • 日経ビジネス 2000年10月9日号
    • [99]立ち上げを担った小野里充が過労で心筋梗塞に倒れて帰国した

1994年11月、東京エレクトロンは国際テレビ会議システムを導入した。トラブルが起きた際に研究所・工場・サービス拠点の担当者が同時に手立てを練れるよう、国内の工場や事業所に海外拠点もつないだ。海外の顧客へは代理店を介し電話やファクスで部品を取り寄せていたため時間がかかっていたが、同年10月に部品検索システムを入れ、世界の拠点が持つ在庫をコンピュータでまとめて管理する形に改めた。これで米国で要る部品が日米ともに品切れでも、欧州にある在庫を探して回せるようになった東哲郎社長は、米国の3カ所に工場を置き、現地の外注先と組んで開発と製造を進めるとして、営業だけにとどまらないグローバル化を打ち出した

  • 日経ビジネス 1995年1月2日号
    • [100]その1つが94年11月に導入した国際テレビ会議システム
    • [101]国内工場や各事業所はもちろん、海外拠点を交えて会議ができる。トラブル発生など一刻を争う事態になっても、研究所から工場、フィールド・エンジニアリング・ステーションなどの各担当者を交えて対応策を練ることができる
    • [102]海外ユーザーに対する部品供給は、代理店経由で電話やファクスで手配しており時間がかかっていた
    • [103]10月には、メンテナンス体制の強化策として、部品検索システムを導入した。世界中の拠点にある部品在庫をコンピューターシステムで一括管理する
    • [104]このシステムなら、米国で必要な部品が日米で在庫切れの場合、欧州の在庫を検索して手配することも容易になった
  • 日経ビジネス 1997年12月1日号
    • [105]東哲郎社長「米国の3カ所に工場を持っていますが、ここでも米国内でアウトソーシングするところと一緒になって、製品の開発・製造をやっていくつもりです。営業だけでなく、そういう方面でのグローバル化も進めていく」

1997年4月、米国法人の社長にバリー・ラポーゾ氏が就任した。日本人がトップでは現地企業との意思疎通が難しく、顧客の信頼を得るには現地の人間を据えるのが最善だと判断した結果である。陣容づくりでは、かつて米国の販売代理店だったバリアン社などで同社製品を扱った技術者を迎え入れた。海外法人の長には現地の人材を就け、日本人は後ろから支える側に回るのが方針で、顧客とのやり取りの中心も現地の社員が担い、日本人社員はその支え役とされた。ラポーゾ氏が率いた米国法人は現地化を突き詰め、社員は300人から1200人に増えた

  • 日経ビジネス 2000年10月9日号
    • [106]1997年4月、バリー・ラポーゾが米国法人社長に就任した
    • [107]日本人がトップでは現地企業とのコミュニケーションが難しい。顧客からの信頼を勝ち得るためにはベストの方法だと考えた
    • [109]海外法人の社長にはすべて現地の人間を据え日本人はサポート役に回る戦略を採った
    • [111]後任の米国人社長バリー・ラポーゾが徹底した現地化で米国法人を300人から1200人へ拡大した
  • 日経ビジネス 1995年1月2日号
    • [108]かつて、米国における販売代理店だった装置メーカー、バリアン社(カリフォルニア州)などから、東京エレクトロンの製品を担当していた技術者に移籍してもらうなどで陣容を固めた
  • 日経ビジネス 1997年12月1日号
    • [110]東哲郎社長「海外では、お客さんに合わせて、こうしたサポートもほとんどは現地の人が中心になり、日本人の社員もそのなかに入るという格好でやっています」
参考文献[93]-[111]
  • 日経ビジネス 1995年1月2日号
    • [93]半導体製造装置は受注製品。標準モデルはあるが、各半導体メーカーによって求める加工内容が異なるため、ユーザーが違えば仕様は細かく異なる
    • [94]オースチンには海外で初めて実際の半導体工場と同じ環境を再現するクリーンルームを備える
    • [95]ここではユーザーを交えて装置機能の評価をするほか、メーカーの作業員を招いて操作のトレーニングもできるようにする
    • [96]納品前にトレーニングを済ませておけば、納品後、速やかに本格稼働に入ることができる
    • [97]こうした目先の商売を拡大するというより、数年後を見据えた戦略拠点という意味合いが強い
    • [98]東京エレクトロン・アメリカの社員数はすでに200人、欧州は各国合計で約40人に上る。そのうち、アフターサービスや設備の据え付けなどを担当し、同時に情報収集にも携わる技術者が半分を占める
    • [100]その1つが94年11月に導入した国際テレビ会議システム
    • [101]国内工場や各事業所はもちろん、海外拠点を交えて会議ができる。トラブル発生など一刻を争う事態になっても、研究所から工場、フィールド・エンジニアリング・ステーションなどの各担当者を交えて対応策を練ることができる
    • [102]海外ユーザーに対する部品供給は、代理店経由で電話やファクスで手配しており時間がかかっていた
    • [103]10月には、メンテナンス体制の強化策として、部品検索システムを導入した。世界中の拠点にある部品在庫をコンピューターシステムで一括管理する
    • [104]このシステムなら、米国で必要な部品が日米で在庫切れの場合、欧州の在庫を検索して手配することも容易になった
    • [108]かつて、米国における販売代理店だった装置メーカー、バリアン社(カリフォルニア州)などから、東京エレクトロンの製品を担当していた技術者に移籍してもらうなどで陣容を固めた
  • 日経ビジネス 2000年10月9日号
    • [99]立ち上げを担った小野里充が過労で心筋梗塞に倒れて帰国した
    • [106]1997年4月、バリー・ラポーゾが米国法人社長に就任した
    • [107]日本人がトップでは現地企業とのコミュニケーションが難しい。顧客からの信頼を勝ち得るためにはベストの方法だと考えた
    • [109]海外法人の社長にはすべて現地の人間を据え日本人はサポート役に回る戦略を採った
    • [111]後任の米国人社長バリー・ラポーゾが徹底した現地化で米国法人を300人から1200人へ拡大した
  • 日経ビジネス 1997年12月1日号
    • [105]東哲郎社長「米国の3カ所に工場を持っていますが、ここでも米国内でアウトソーシングするところと一緒になって、製品の開発・製造をやっていくつもりです。営業だけでなく、そういう方面でのグローバル化も進めていく」
    • [110]東哲郎社長「海外では、お客さんに合わせて、こうしたサポートもほとんどは現地の人が中心になり、日本人の社員もそのなかに入るという格好でやっています」

1997年〜国際競争力ランキング1位と空前の半導体不況

1997年10月に公表された国際競争力ランキングで、東京エレクトロンが首位に立った。連結財務データを開示する上場・店頭公開企業2102社のうち、条件を満たす375社が対象だった。海外売上高比率や在外売上高営業利益率など6つの指標で評点し、総合点83.2で2位の任天堂を上回った。連結売上高は4327億8400万円、海外売上高比率は28.34%、前年に対する海外売上高の伸び率は40.66%であった。1997年3月期のROEは14.2%で、海外の顧客からきちんとした経営をしていると見られることが重要だった。海外にはこの比率が30%や40%の企業もあり、競争する以上は少なくとも20%を早く達成することが目標となった

  • 日経ビジネス 1997年10月6日号
    • [112]トップの東京エレクトロンは、半導体関連の商社として創業したが、現在は半導体製造装置メーカーに変身
    • [113]対象は、最新決算期が96年4月以降で、連結財務データを開示している上場・店頭公開企業2102社。この結果、最終的に対象企業は375社になった
    • [114]1 東京エレクトロン 総合点83.2 / 2 任天堂 総合点81.7。海外売上高比率、海外売上高伸び率、在外売上高営業利益率、ROE、売上高、流動比率の6つの指標の評点の平均値を「総合点」として順位を出した
    • [115]東京エレクトロン 海外売上高伸び率40.66% 海外売上高比率28.34% 売上高432,784百万円
  • 日経ビジネス 1997年12月1日号
    • [116]東哲郎社長「半導体製造装置ビジネスの60%ぐらいは海外ですので、海外のお客さんから『ああ、ちゃんとした経営をしているんだな』と思われることが重要です」(97年3月期のROEは14.2%)
    • [117]東哲郎社長「海外ではこの比率が30%、40%という会社もあります。そういう企業と競争するわけだから、少なくとも20%は早く達成したいですね」

技術を中核と周辺に分け、中核は徹底して自社で手がけるのが東京エレクトロンのやり方で、半導体製造装置なら生産工程、機械、熱の技術がそれに当たる。ウエハーを化学反応室まで移すロボットのような周辺は外に任せた。移り変わりの速い技術分野で他社を丸ごと取り込めば、かえって身動きが鈍るとみて、アプライド・マテリアルズのように周辺技術に長けた会社を買い取って規模を広げる道は取らなかった。製造装置は400種類あるともいわれる中で、同社はプラズマエッチング装置やウエハープローバーなど前工程の4機種に絞り込み、主力製品の国内シェアは6割、装置全体でも4割近くを握っている

  • 日経ビジネス 1997年12月1日号
    • [118]東哲郎社長「コア(核)になる技術と周辺の技術に分けると、コアになる技術に関しては徹底して自分たちでやらなくちゃいけないと思っています」
    • [119]東哲郎社長「半導体製造装置でいうと、プロセス(生産工程)技術とか、機械関係の技術、あるいは熱に関する技術ですね」
    • [120]東哲郎社長「ウエハーをその化学反応室に運ぶロボットなどは自社で開発せず、ほかの会社につくってもらいます」
    • [121]東哲郎社長「技術の変化があまりに速い分野なので、そうした企業を抱え込むと、かえって動きがとれなくなるということがありうるからです」
    • [122]東哲郎社長「ええ、米国のアプライド・マテリアルズ社などがそうですね。私たちはそういうやり方をとりません」(周辺技術に優れた企業を買収して大きくなる手法について)
  • 日経ビジネス 1995年1月2日号
    • [123]400種類ともいわれる製造装置のうち、東京エレクトロンは前工程の重要装置4機種で強さを誇る。シリコンウエハーの表面を加工するプラズマエッチング装置や、チップの動作を検査するウエハープローバーなどだ
    • [124]これら主力製品の国内シェアは6割で、装置全体でも4割近くを握る国内トップメーカーだ

1998年1月、東京エレクトロンは米国アリゾナ州に現地法人を設け、直販体制の拠点をさらに広げた。1999年3月期は空前の半導体不況に見舞われ、連結売上高は前期の3分の2にあたる3138億円へ減った。当期純利益は18億円にとどまったが、最終損益は黒字を保った。国内向けの比率は1995年3月期の66%から反転し、2000年3月期には海外が7割を占めた。米国市場のシェアは1995年末の8%から1999年末には34%へ伸びた売上が3分の2まで減少しても最終損益が黒字で残ったのは、収益を国内の設備投資の波だけに委ねる構造から抜け出していたためだろう。

  • 東京エレクトロン 有価証券報告書【沿革】
    • [125]1998年1月 Tokyo Electron Arizona, LLC を設立
  • 会社年鑑
    • [126]1999年3月期 連結売上高3138億円(前期の3分の2)
    • [127]1999年3月期 当期純利益18億円(連結)
  • 日経ビジネス 2000年10月9日号
    • [128]国内向け比率は95年3月期の66%から2000年3月期に海外7割へ反転した
    • [129]米国市場シェアは95年末の8%から99年末に34%へ伸びた
参考文献[112]-[129]
  • 日経ビジネス 1997年10月6日号
    • [112]トップの東京エレクトロンは、半導体関連の商社として創業したが、現在は半導体製造装置メーカーに変身
    • [113]対象は、最新決算期が96年4月以降で、連結財務データを開示している上場・店頭公開企業2102社。この結果、最終的に対象企業は375社になった
    • [114]1 東京エレクトロン 総合点83.2 / 2 任天堂 総合点81.7。海外売上高比率、海外売上高伸び率、在外売上高営業利益率、ROE、売上高、流動比率の6つの指標の評点の平均値を「総合点」として順位を出した
    • [115]東京エレクトロン 海外売上高伸び率40.66% 海外売上高比率28.34% 売上高432,784百万円
  • 日経ビジネス 1997年12月1日号
    • [116]東哲郎社長「半導体製造装置ビジネスの60%ぐらいは海外ですので、海外のお客さんから『ああ、ちゃんとした経営をしているんだな』と思われることが重要です」(97年3月期のROEは14.2%)
    • [117]東哲郎社長「海外ではこの比率が30%、40%という会社もあります。そういう企業と競争するわけだから、少なくとも20%は早く達成したいですね」
    • [118]東哲郎社長「コア(核)になる技術と周辺の技術に分けると、コアになる技術に関しては徹底して自分たちでやらなくちゃいけないと思っています」
    • [119]東哲郎社長「半導体製造装置でいうと、プロセス(生産工程)技術とか、機械関係の技術、あるいは熱に関する技術ですね」
    • [120]東哲郎社長「ウエハーをその化学反応室に運ぶロボットなどは自社で開発せず、ほかの会社につくってもらいます」
    • [121]東哲郎社長「技術の変化があまりに速い分野なので、そうした企業を抱え込むと、かえって動きがとれなくなるということがありうるからです」
    • [122]東哲郎社長「ええ、米国のアプライド・マテリアルズ社などがそうですね。私たちはそういうやり方をとりません」(周辺技術に優れた企業を買収して大きくなる手法について)
  • 日経ビジネス 1995年1月2日号
    • [123]400種類ともいわれる製造装置のうち、東京エレクトロンは前工程の重要装置4機種で強さを誇る。シリコンウエハーの表面を加工するプラズマエッチング装置や、チップの動作を検査するウエハープローバーなどだ
    • [124]これら主力製品の国内シェアは6割で、装置全体でも4割近くを握る国内トップメーカーだ
  • 東京エレクトロン 有価証券報告書【沿革】
    • [125]1998年1月 Tokyo Electron Arizona, LLC を設立
  • 会社年鑑
    • [126]1999年3月期 連結売上高3138億円(前期の3分の2)
    • [127]1999年3月期 当期純利益18億円(連結)
  • 日経ビジネス 2000年10月9日号
    • [128]国内向け比率は95年3月期の66%から2000年3月期に海外7割へ反転した
    • [129]米国市場シェアは95年末の8%から99年末に34%へ伸びた

第3章 2000-2012 (気が向いたら執筆します!) Supercritical・Timbreの買収と東京エレクトロンデバイス上場、上海・米国拠点、赤字と太陽光パネル装置への参入

第4章 2013-2021 (気が向いたら執筆します!) Applied Materialsとの経営統合の合意と破談、太陽光パネル装置からの撤退

第5章 2022-2026 (気が向いたら執筆します!) FY2027目標の中期経営計画と合志・宮城の開発・生産新棟

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歴史年表 1963〜2025年

東京エレクトロンの沿革1963〜2025年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1963〜1993年IC産業の仕掛人として商社からメーカーへの転換期放送局の資本を後ろ盾として踏み出した事業の立ち上げ

1963年11月、日商(現・双日)を辞めた久保徳雄氏が東京エレクトロン研究所を設立した経営判断。まとまった資金を持たない久保氏は、東京放送(TBS)から資本金500万円の出資を引き出し、当時まだ実用化に懐疑的だったIC(集積回路)の製造装置という最先端領域を事業ドメインに選んだ。

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★★★
サームコ社と代理店契約を締結し拡散炉の輸入販売を開始★★
フェアチャイルド社と代理店契約を締結しICテスターの輸入販売を開始
大阪支社を開設
Tokyo Electron America, Inc. を設立
久保徳雄消費財輸出からの全面撤退

1974年、石油ショック下で社長に就任した久保徳雄氏と専務の小高敏夫氏が、売上の約6割を稼いでいた電卓・カーステレオなど消費財の輸出事業からの全面撤退を決め、半導体製造装置の輸入・国産化に経営資源を集中させた経営判断。撤退は電卓(1976年9月)、カーステレオ・トランシーバー(1978年9月)と段階的に完了した。

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★★★
久保徳雄消費財輸出事業から全面撤退★★
久保徳雄桜洋行に合併
久保徳雄東京証券取引所市場第二部に上場
小高敏夫山梨事業所を開設
小高敏夫テルメックを合併
小高敏夫テル・ラムの全株式を取得しテル山梨に
小高敏夫テル・サームコの全株式を取得しテル相模に
小高敏夫東京エレクトロンデバイスが電子部品販売を開始
井上皓東京エレクトロンデバイスの全株式を取得
1994〜1999年海外販売の直販体制への全面転換と欧米拠点の自前化井上皓Tokyo Electron Europe Ltd. を設立
井上皓海外販売の直販体制への全面転換

1994年10月、東京エレクトロンが欧米向け半導体製造装置の販売を代理店経由から直販へ全面転換した経営判断。米テキサス州オースティンに戦略拠点を開設し、海外法人のトップにはすべて現地の人間を据えて日本人はサポート役に回るという戦略を採り、6年間で国内依存の収益構造をグローバル型へ組み替えた。

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★★★
東哲郎Tokyo Electron Arizona, LLC を設立
2000〜2012年Supercritical・Timbreの買収と東京エレクトロンデバイス上場、上海・米国拠点、赤字と太陽光パネル装置への参入東哲郎Supercritical Systems, Inc.の全株式を取得
東哲郎Timbre Technologies, Inc.の全株式を取得
東哲郎東京エレクトロンデバイスを東京証券取引所市場第二部に上場
東哲郎Tokyo Electron (Shanghai) Ltd. を設立
佐藤潔TEL Technology Center, America, LLCを設立
竹中博司営業赤字・純損失を計上★★
竹中博司太陽光パネル製造装置事業に参入★★
2013〜2021年Applied Materialsとの経営統合の合意と破談、太陽光パネル装置からの撤退東哲郎2013年の合意から2015年の破談に至った経営統合の頓挫

2013年9月24日、米アプライドマテリアルズと対等な経営統合の契約を締結した。両社はオランダに設立する統合持株会社の完全子会社となり、東京エレクトロンの株主は1株につき同社の普通株式3.25株を受け取る。交付される株式は582,406,373株にのぼり、東京証券取引所では上場廃止となる予定であった。 統合は両社の株主総会の承認と、日本・米国その他の国における適用ある競争法に基づく関係当局の承認等を条件としていた。この条件が満たされないまま、2015年4月27日に契約は解約された。

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★★★
東哲郎太陽光パネル製造装置(PVE)事業からの撤退を決定★★
東哲郎Applied Materials, Inc.との経営統合契約を解約★★
2022〜2026年FY2027目標の中期経営計画と合志・宮城の開発・生産新棟河合利樹他社との統合による規模拡大を捨て、国内の自社開発拠点への投資で伸びる道を選んだ判断

2022年3月末時点で、東京エレクトロンは連結子会社の東京エレクトロン九州が本社を置く熊本県合志市に、投資予定金額300億円の研究開発施設を建てる計画を持っていた。同じ計画表には、東京エレクトロン宮城の本社がある宮城県黒川郡大和町の研究開発施設470億円も並ぶ。 続く2022年6月8日には新しい中期経営計画を発表し、2023年3月期からの5年間で2027年3月期までに売上高3兆円以上、営業利益率35%以上、ROE30%以上という財務目標を掲げた。装置の開発能力そのものを国内の自社拠点で厚くする道を選んだ判断である。

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河合利樹東京エレクトロン九州 合志事業所に新開発棟の建設を決定
河合利樹新中期経営計画を発表(FY2027目標)
河合利樹東京エレクトロン宮城 生産新棟の建設を発表
河合利樹東京エレクトロン九州 合志事業所の新開発棟(プロセス開発棟)が竣工
出典・参考 16件
出典・参考
  • 東京エレクトロン 有価証券報告書【沿革】
  • 東京エレクトロン 有価証券報告書(過年度)
  • 会社年鑑
  • 証券アナリストジャーナル 1980年7月号
  • 証券 1980年6月号 32(6)(375)
  • 日経ビジネス 1982年5月31日号(小高敏夫社長インタビュー)
  • 日経ビジネス 1984年4月26日号
  • 日経ビジネス 1984年4月26日号(小高敏夫社長の発言)
  • 日経ビジネス 1987年2月2日号
  • 日経ビジネス 1991年3月18日号
  • 日経ビジネス 1995年1月2日号
  • 日経ビジネス 1997年12月1日号
  • 日経ビジネス 1997年10月6日号
  • 日経ビジネス 2000年10月9日号
  • 異端の男とその一族 火の玉集団・東京エレクトロンの奇跡(1982年4月)
  • 証券調査(241)

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