ホンダ の歴史

更新:

1946年、本田宗一郎氏が浜松で本田技術研究所を創業。藤沢武夫氏との二人三脚、シビックとCVCC、北米現地生産、日産との経営統合協議までの沿革と経緯を執筆。

創業

1946年

創業者

本田宗一郎

創業地

静岡県浜松市

直近売上高(2026/3)

217,966億円

長期業績と転換点(1997/3〜2026/3)
売上高(億円純利益率(%)
Q なぜ本田技研工業は、資本金を大きく上回る工作機械投資に踏み切ったのか
A 当時のホンダは数多い中小二輪メーカーの一つにすぎず、横並びを抜け出すには他社の追随を許さない量産能力を一気に握るしかなかった。本田宗一郎氏は、世界の進歩から取り残されて自滅するか危険を冒して新鋭機械を入れて勝負するかの二択で後者を選び、資本金6,000万円の会社でありながらストロームの自動旋盤をはじめとする工作機械をスイス・アメリカ・ドイツから4億円も輸入した。本田氏は社内月報で『国のドルを用いて買った機械で逆にドルを稼ごう』と説き、輸出で外貨を取り返す前提で投資を正当化した。輸入は1953年から1954年の不況とぶつかったが、藤沢武夫氏が考えた出荷後十数日で代金を全額回収する販売方式で乗り切り、この量産体制が1958年発売のC100型スーパーカブを支える土台となった
Q なぜ四輪後発のホンダが、1980年代に日本メーカーで初めて米国での現地生産に乗り出したのか
A 日本車の対米輸出が摩擦の最大の火種となり、輸出に頼り続ければ規制で頭打ちになる見込みだった。四輪で後発かつ小規模だったホンダにとって、米国で作ることは大手と同じ条件で勝負に並ぶ手段であり、本田宗一郎氏は規制の壁を『後発の我々が好敵手と同じスタートラインに並べる』機会と社内で語っていた。1980年1月に日本メーカー初の米国四輪生産を発表し、1982年11月にオハイオ州メアリズビルで量産を始めた。現地で築いた信用は、1989年にアコードが日本車として初めて米国乗用車販売首位に立つ成果へ結実した
Q なぜ自前主義のホンダが、2024年に日産との統合協議へ進みながら、わずか2カ月で決裂したのか
A EVとソフトウェア定義車両への移行で開発費が独力では支えきれない規模に膨らみ、CVCC以来の自前主義を貫いてきたホンダも、台数規模を分け合う相手を求める必要に迫られた。2024年12月、ホンダ・日産・三菱自動車は世界販売800万台超を掲げて経営統合の協議入りを公表した。しかし持株会社方式の統合比率で折り合わず、業績が悪化した日産にホンダが子会社化を打診すると社内の反発を招いた。2025年2月、協議は事実上の白紙となり、規模を束ねて競争に立ち向かう構想はいったん潰えた。

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1946年〜 良品に国境なし——町工場から世界の二輪へ

ホンダの業績推移:単体

売上高(億円)純利益率(%)
  1. 1946年 旧軍払下げエンジンから起こした本田技術研究所の創業と、完成車への転身 資金も部材も欠く戦後の浜松で、本田宗一郎氏はなぜ有り合わせから始め、部品でなく完成車へ賭けたか
  2. 1948年 本田技研工業創業——旧軍払下げの補助エンジンから始めた戦後二輪国産化 浜松の町工場は、いかにして世界一の二輪車メーカーへ向かう最初の一歩を刻んだか
  3. 1949年 藤沢武夫氏が参画
  4. 1949年 二輪車の製造を開始
  5. 1952年 二輪車の増産投資
  6. 1959年 二輪車の北米輸出を積極化
  7. 1960年 本田技術研究所を分社化

払下げエンジンから二輪の完成車メーカーへ

1946年10月、本田宗一郎氏は静岡県浜松市に本田技術研究所を開設し[1]、内燃機関および各種工作機械の製造と研究に取り組んだ。当初は幅の広い織物を織るロータリー式の織機を考えたが資金が足りず、戦争中に軍が使っていた通信機の小型エンジンが近辺に安く転がっていたのを買い集め[2]、自転車に取り付けて売ることへ切り替えた。1948年9月、研究所を継承して資本金100万円で本田技研工業株式会社を設立し[3]、浜松市山下町に本社と工場を置いてバイクモーターの生産に入った。同年のバイクモーター『カブ号』の生産台数は、全国のバイクモーター生産の5割以上を占めた[4]。1949年8月には2サイクルエンジンを積むドリーム号D型を完成させ[5]、エンジンを卸す供給者から完成車メーカーへ移った。同月には藤沢武夫氏が入社して常務に就き[6]、技術の宗一郎氏と経営の藤沢氏という分業が固まった。

  • 本田技研工業 有価証券報告書 第101期(2025年3月期)【沿革】
    • [1]1946年10月 本田宗一郎氏が静岡県浜松市に本田技術研究所を開設
  • 本田宗一郎「私の履歴書」(日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人6』日本経済新聞社, 1980 所収)
    • [2]織機を断念し、軍の通信機用小型エンジンを買い集めて自転車に取り付けた
    • [3]1948年9月 本田技研工業株式会社へ改組(資本金100万円)
    • [4]1948年のバイクモーター「カブ号」生産台数が全国生産の50%以上
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [5]1949年8月 ドリーム号D型(2サイクル)完成、完成車メーカーへ転じる
    • [6]1949年 藤沢武夫氏が入社し常務に就任、本田・藤沢の分業が固まる

1951年、ドリーム号のエンジンを小型軽量の4サイクル型へ改めて発売した[7]。当時は利用者の一部に外車の輸入を望む声が高まり、国産メーカーの大多数がこれに反対していた[8]が、同社は良品をもって正面から立ち向かった。1952年には自転車用の超小型エンジン『カブ号』を仕上げ、翌1953年6月から、これを基にした原動機付き自転車『ベンリイ号』の本格生産に入った[9]。同じ1952年4月には本社を東京都へ移し[10]、同年には汎用エンジンの生産も始めた[11]。資本金は1952年6月に600万円、同年11月に1,500万円、1953年12月に6,000万円[12]へと短期間で積み増され、1953年5月には埼玉の大和工場が稼働した[13]。1954年1月に株式を公開した時点で[14]、資本金は6,000万円に達していた。

  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [7]1951年 ドリーム号を小型軽量の4サイクル型へ転換して発売
    • [8]外車輸入を望む声に国産メーカーの大多数が反対するなか良品で対抗した
    • [14]1954年1月 株式を公開(当時の資本金6,000万円)
    • [9]1953年6月 原動機付自転車「ベンリイ号」の本格生産を開始
    • [12]資本金の推移 1952年6月600万円・同年11月1,500万円・1953年12月6,000万円
  • 本田技研工業 有価証券報告書 第101期(2025年3月期)【沿革】
    • [10]1952年4月 本社を東京都へ移転
    • [11]1952年 パワープロダクツ(汎用エンジン)の生産を開始
    • [13]1953年5月 大和工場が稼動開始
  • 本田技研工業 有価証券報告書 第101期(2025年3月期)【沿革】
    • [1]1946年10月 本田宗一郎氏が静岡県浜松市に本田技術研究所を開設
    • [10]1952年4月 本社を東京都へ移転
    • [11]1952年 パワープロダクツ(汎用エンジン)の生産を開始
    • [13]1953年5月 大和工場が稼動開始
  • 本田宗一郎「私の履歴書」(日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人6』日本経済新聞社, 1980 所収)
    • [2]織機を断念し、軍の通信機用小型エンジンを買い集めて自転車に取り付けた
    • [3]1948年9月 本田技研工業株式会社へ改組(資本金100万円)
    • [4]1948年のバイクモーター「カブ号」生産台数が全国生産の50%以上
    • [9]1953年6月 原動機付自転車「ベンリイ号」の本格生産を開始
    • [12]資本金の推移 1952年6月600万円・同年11月1,500万円・1953年12月6,000万円
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [5]1949年8月 ドリーム号D型(2サイクル)完成、完成車メーカーへ転じる
    • [6]1949年 藤沢武夫氏が入社し常務に就任、本田・藤沢の分業が固まる
    • [7]1951年 ドリーム号を小型軽量の4サイクル型へ転換して発売
    • [8]外車輸入を望む声に国産メーカーの大多数が反対するなか良品で対抗した
    • [14]1954年1月 株式を公開(当時の資本金6,000万円)

資本金を上回る工作機械の輸入と、それを支えた回収の仕組み

1951年ごろ、輸出振興とあわせて輸入防止を政府に求める民間業者の会合[15]が持たれたが、本田宗一郎氏は加わらなかった。輸出を政府に頼み、そのうえ輸入防止まで依頼する安易な道に強く反発した[16]ためである。日本の技術が優れて製品が良質であれば誰も外国品を輸入せず、黙っていても輸出は増えるという読みに立ち、『良品に国境なし』を身をもって実現しよう[17]と決めた。ただし、優れた技術は道具なしには形にならない[18]。量産化となればなおさら良い機械が要るとして、外国製の工作機械の輸入に踏み切った[19]。当時の米国の援助資金は高級外車やウイスキー、化粧品といった非生産的な消費財[20]にばかり振り向けられ、生産に寄与するものはほとんど輸入されていなかった。

  • 本田宗一郎「私の履歴書」(日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人6』日本経済新聞社, 1980 所収)
    • [15]1951年ごろ 輸入防止を政府に求める民間業者の会合に本田宗一郎氏は参加せず
    • [16]輸出を政府に頼みさらに輸入防止まで依頼する安易な道への反発
    • [17]「良品に国境なし」を掲げ、技術で輸入を防ぎ輸出を図る方針
    • [18]技術を形にする道具が要り、量産化ではなおさら必要という判断
    • [19]外国製の工作機械の輸入に踏み切った
    • [20]米国の援助資金は非生産的な消費財に振り向けられ生産設備はほとんど輸入されず

同社は資本金6,000万円に対し[21]、ストロームという自動旋盤をはじめとする工作機械を、スイス・アメリカ・ドイツから4億円も輸入した[22]。世界の進歩から取り残されて自滅するか、危険を冒して新鋭機械を入れて勝負するか[23]。ともに危険であるならば少しでも前進の可能性がある方を選ぶのが経営者の責務[24]だという判断による。本田宗一郎氏は1952年10月の社内月報で『私の会社では機械を買うドルは国のドルであります。国のドルを用いて買った機械で逆にドルを稼ごうというのが私の願いであります』と説き、輸出で外貨を取り返す前提を示した。輸入は1953年から1954年の不況とぶつかり[25]、誰の目にも冒険と映る買い物に銀行が資金を貸すはずもなかった。

  • 本田宗一郎「私の履歴書」(日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人6』日本経済新聞社, 1980 所収)
    • [21]工作機械輸入時の資本金 6,000万円
    • [22]ストロームの自動旋盤ほか工作機械をスイス・アメリカ・ドイツから4億円輸入
    • [23]自滅か新鋭機械での勝負かの二択で後者を選んだ
    • [24]前進の可能性がある方を選ぶのが経営者の責務という判断
    • [25]1953年から1954年の不況と重なり銀行融資を得られなかった

苦境は、藤沢武夫専務が考えた販売方式[26]で乗り切った。製品の出荷後十数日で代金を全額回収し[27]、そのうち75%を現金、残りは問屋・代理店が裏書きした使用者自身の手形[28]で受け取る方式である。輸入した機械は、据付工場の地盤をあらかじめ整え、入ったその日からスイッチを入れて動かせる状態[29]にしておいた。説明書と首っ引きで扱いを覚える通例では、借金で買った機械の償却が遅れるため[30]である。扱ったことのない精密機械を無理にでも習得させた結果は、その後の生産技術の水準を押し上げた[31]。1955年には本田宗一郎氏が『とても、自分には、金融の方途が立たない。投げ出す以外にない』と漏らすほど追い込まれた時期もあった。

  • 本田宗一郎「私の履歴書」(日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人6』日本経済新聞社, 1980 所収)
    • [26]藤沢武夫氏が考案した販売方式で資金繰りの苦境を乗り切った
    • [27]製品出荷後十数日で代金を全額回収する方式
    • [28]回収額の75%は現金、残りは問屋・代理店が裏書きした使用者手形
    • [29]据付地盤を先に整え機械到着当日から稼働させる段取り
    • [30]説明書で覚える通例では借入で買った機械の償却が遅れる
    • [31]精密機械の習得が生産技術の水準向上につながった
  • 本田宗一郎「私の履歴書」(日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人6』日本経済新聞社, 1980 所収)
    • [15]1951年ごろ 輸入防止を政府に求める民間業者の会合に本田宗一郎氏は参加せず
    • [16]輸出を政府に頼みさらに輸入防止まで依頼する安易な道への反発
    • [17]「良品に国境なし」を掲げ、技術で輸入を防ぎ輸出を図る方針
    • [18]技術を形にする道具が要り、量産化ではなおさら必要という判断
    • [19]外国製の工作機械の輸入に踏み切った
    • [20]米国の援助資金は非生産的な消費財に振り向けられ生産設備はほとんど輸入されず
    • [21]工作機械輸入時の資本金 6,000万円
    • [22]ストロームの自動旋盤ほか工作機械をスイス・アメリカ・ドイツから4億円輸入
    • [23]自滅か新鋭機械での勝負かの二択で後者を選んだ
    • [24]前進の可能性がある方を選ぶのが経営者の責務という判断
    • [25]1953年から1954年の不況と重なり銀行融資を得られなかった
    • [26]藤沢武夫氏が考案した販売方式で資金繰りの苦境を乗り切った
    • [27]製品出荷後十数日で代金を全額回収する方式
    • [28]回収額の75%は現金、残りは問屋・代理店が裏書きした使用者手形
    • [29]据付地盤を先に整え機械到着当日から稼働させる段取り
    • [30]説明書で覚える通例では借入で買った機械の償却が遅れる
    • [31]精密機械の習得が生産技術の水準向上につながった

マン島TTの宣言と、世界一の二輪へ

1954年3月、本田宗一郎氏は英国マン島のTTレースへ参加すると代理店の人たちに宣言した[32]。狙いは二つあり、レースで優秀な成績を得なければイタリアやドイツから世界の二輪市場を奪えない[33]という計算と、技術による勝利がとくに若い層に希望を与える[34]という見立てであった。同年6月に現地でレースを見た本田宗一郎氏は、同じ気筒容量で自社の3倍もの馬力を出すドイツのNSUやイタリアのジレラ[35]の走りに驚き、帰国してすぐ研究部を設けた。1957年6月には技術研究所を白子工場内に設立し[36]、社長の陣頭指揮でエンジン性能の追求にあたらせた。

  • 本田宗一郎「私の履歴書」(日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人6』日本経済新聞社, 1980 所収)
    • [32]1954年3月 マン島TTレースへの参加を代理店へ宣言
    • [33]TT参加の狙い①世界の二輪市場をイタリア・ドイツから奪うため
    • [34]TT参加の狙い②技術による勝利が若い層へ希望を与えるとの見立て
    • [35]1954年6月 マン島視察でNSU・ジレラが同排気量で自社の3倍の馬力
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [36]1957年6月 技術研究所を白子工場内に設立

1957年12月2日[37]、同社は東京証券取引所に株式を上場した。資本金は3億6,000万円へ増え[38]、大株主には本田宗一郎氏の118万4千株、藤沢武夫氏の70万3千株、三菱銀行の40万株[39]が並んだ。翌1958年8月には、のちに原動機付き自転車の決定版とされたC100型スーパーカブが発売され[40]、社名は一躍高まった。この一台の累計生産は、60年余りを経て世界で1億台を超えている。1959年6月には米国にアメリカンホンダモーターカンパニーを設立し[41]、同じ月のマン島TTレースでは125cc級に初参加して団体優勝を収めた[42]。スーパーカブの量産工場として1959年末に着手した三重県の鈴鹿製作所[43]は、1960年5月に稼働した[44]。1961年には125ccと250ccの二種目を制し[45]、メーカーチャンピオンを獲得した。

    • [37]1957年12月2日 東京証券取引所に上場
    • [38]上場時の資本金 3億6,000万円
    • [39]1957年8月末の大株主(本田宗一郎 1,184千株・藤沢武夫 703千株・三菱銀行 400千株)
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [40]1958年8月 スーパーカブ発売で社名が一躍高まる
    • [42]1959年6月 マン島TT 125cc級に初参加ながら団体優勝
    • [43]1959年末 スーパーカブ量産工場として鈴鹿製作所の開設に着手
    • [45]1961年 マン島TT 125cc・250ccの二種目制覇でメーカーチャンピオン獲得
  • 本田技研工業 有価証券報告書 第101期(2025年3月期)【沿革】
    • [41]1959年6月 米国にアメリカンホンダモーターカンパニーを設立
    • [44]1960年5月 鈴鹿製作所が稼動開始
  • 本田宗一郎「私の履歴書」(日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人6』日本経済新聞社, 1980 所収)
    • [32]1954年3月 マン島TTレースへの参加を代理店へ宣言
    • [33]TT参加の狙い①世界の二輪市場をイタリア・ドイツから奪うため
    • [34]TT参加の狙い②技術による勝利が若い層へ希望を与えるとの見立て
    • [35]1954年6月 マン島視察でNSU・ジレラが同排気量で自社の3倍の馬力
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [36]1957年6月 技術研究所を白子工場内に設立
    • [40]1958年8月 スーパーカブ発売で社名が一躍高まる
    • [42]1959年6月 マン島TT 125cc級に初参加ながら団体優勝
    • [43]1959年末 スーパーカブ量産工場として鈴鹿製作所の開設に着手
    • [45]1961年 マン島TT 125cc・250ccの二種目制覇でメーカーチャンピオン獲得
    • [37]1957年12月2日 東京証券取引所に上場
    • [38]上場時の資本金 3億6,000万円
    • [39]1957年8月末の大株主(本田宗一郎 1,184千株・藤沢武夫 703千株・三菱銀行 400千株)
  • 本田技研工業 有価証券報告書 第101期(2025年3月期)【沿革】
    • [41]1959年6月 米国にアメリカンホンダモーターカンパニーを設立
    • [44]1960年5月 鈴鹿製作所が稼動開始

1963年〜 四輪への参入と、CVCCで越えた排出ガス規制

ホンダの業績推移:単体

売上高(億円)純利益率(%)
  1. 1963年 四輪車に本格参入
  2. 1964年 アジアホンダモーターを設立
  3. 1965年 二輪車の現地生産を開始
  4. 1972年 CVCCエンジンの独力開発と石油危機下の四輪シェア逆転 特振法の業界再編に乗らず、本田宗一郎はなぜ排出ガス規制を自前の技術で越えようとしたか
  5. 1972年 四輪車シビックを発売
  6. 1973年 創業者2人の同時引退と河島喜好氏への事業承継 「本田技研は本田家のものじゃない」——本田宗一郎氏と藤沢武夫氏はなぜ好調のさなかに揃って身を引き、創業一族でない45歳へ会社を託したのか
  7. 1978年 日本メーカー初の北米四輪現地生産(HAM設立) 日米貿易摩擦が強まるなか、河島喜好社長はなぜ完成車を「輸出」ではなく「現地で作る」道を選んだか

特振法の再編構想に乗らなかった後発参入

1963年6月、同社は四輪車の生産を始めた[46]。軽トラックT360と小型スポーツカーS500の二車種からの参入で、二輪で世界の頂点に立ってからの転身であった。同じ1963年3月、政府は国際競争力の強化を理由に特定産業振興臨時措置法案を決定し[47]、乗用車メーカーを少数へ集約する構想を掲げていたため、この枠に乗れば規模を得る代わりに独立性を手放す立場に置かれた。同社は再編の枠に加わらず、独立したメーカーとして四輪へ根を張る道を選んだ。1964年10月にはタイにアジアホンダモーターカンパニーを設立し[48]、同じ1964年には四輪の量産拠点として狭山製作所を稼働させた[49]

  • 本田技研工業 有価証券報告書 第101期(2025年3月期)【沿革】
    • [46]1963年6月 四輪車の生産を開始
    • [48]1964年10月 タイにアジアホンダモーターカンパニーを設立
    • [49]1964年 狭山製作所が稼動開始
    • [47]1963年3月 政府が特定産業振興臨時措置法案を決定(国際競争力強化のため)

1967年3月に発売した軽四輪乗用車N360は、Nシリーズとして乗用・ライトバン・トラックの三部門で短期間に国内販売の首位[50]を占めた。1968年6月の月間届出台数は3万4,400台に達し[51]、国産車で最高の量産車種へ育った。1967年2月期の大幅な減収減益決算を境に[52]二輪車メーカーから四輪車メーカーへの転身が進み、1967年8月期以降は軽四輪部門が加わって売上高が著しく増えた[53]。四輪の最新鋭の量産設備を備えた鈴鹿製作所の四輪工場も竣工して稼働した[54]。1970年9月には狭山製作所第2工場の工機部門を分離してホンダ工機を設立し[55]、生産設備を自前で作る体制も整えた。

  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [50]N360のNシリーズが軽の乗用・ライトバン・トラックで国内販売三冠
    • [53]1967年8月期以降 軽四輪部門が加わり売上高が著増
    • [54]鈴鹿製作所に最新鋭の量産設備を備えた四輪工場が竣工・稼動
  • ダイヤモンド(1968年8月12日)
    • [51]1968年6月 N360の月間届出台数3万4,400台(国産車最高の量産車種)
    • [52]1967年2月期の大幅な減収減益を境に二輪車メーカーから四輪車メーカーへ転身
  • 本田技研工業 有価証券報告書 第101期(2025年3月期)【沿革】
    • [55]1970年9月 狭山製作所第2工場の工機部門を分離しホンダ工機を設立
  • 本田技研工業 有価証券報告書 第101期(2025年3月期)【沿革】
    • [46]1963年6月 四輪車の生産を開始
    • [48]1964年10月 タイにアジアホンダモーターカンパニーを設立
    • [49]1964年 狭山製作所が稼動開始
    • [55]1970年9月 狭山製作所第2工場の工機部門を分離しホンダ工機を設立
    • [47]1963年3月 政府が特定産業振興臨時措置法案を決定(国際競争力強化のため)
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [50]N360のNシリーズが軽の乗用・ライトバン・トラックで国内販売三冠
    • [53]1967年8月期以降 軽四輪部門が加わり売上高が著増
    • [54]鈴鹿製作所に最新鋭の量産設備を備えた四輪工場が竣工・稼動
  • ダイヤモンド(1968年8月12日)
    • [51]1968年6月 N360の月間届出台数3万4,400台(国産車最高の量産車種)
    • [52]1967年2月期の大幅な減収減益を境に二輪車メーカーから四輪車メーカーへ転身

CVCCで米国と国内の排出ガス規制を越える

1970年12月、米議会でマスキー上院議員が主導した自動車の排出ガス規制法案が成立した[56]。日本でも1970年に東京・牛込柳町で光化学スモッグが発生[57]して大気汚染が社会問題となり、中央公害対策審議会がマスキー法案に準じた1975年度規制と1976年度規制を答申した[58]。窒素酸化物を走行1キロメートル当たり0.25グラムまで減らす[59]1976年度規制は、車の性能を落とさずに達成するのが想像以上に難しいとされ、業界は価格上昇を理由に猛反発した[60]。1973年夏には乗用車メーカー9社の首脳が環境庁へ呼び出され[61]、聴聞会が開かれた。このなかで本田技研工業は、独自に開発したCVCCエンジンで達成できるといち早く名乗りを上げた[62]

    • [56]1970年12月 米国でマスキー法案が成立
    • [57]1970年 東京牛込柳町の光化学スモッグで大気汚染が社会問題化
    • [58]中央公害対策審議会がマスキー法案に準じた1975年度規制・1976年度規制を答申
    • [59]1976年度規制はNOxを走行1kmあたり0.25グラムへ
    • [60]業界は排ガス対策で乗用車価格が上がると猛反発した
    • [61]1973年夏 乗用車メーカー9社首脳が環境庁の聴聞会に呼ばれた
    • [62]本田技研工業がCVCCエンジンで規制達成可能といち早く表明

CVCCは複合渦流調速燃焼の略[63]で、エンジンの外側に触媒装置を付けて浄化するのではなく、燃焼の仕組みそのものを組み替えて有害成分の発生を抑える方式[64]であった。1972年10月、同社はCVCCエンジン車を公開した[65]。中央公害対策審議会が米国のマスキー法に準じた自動車排出ガス規制措置を答申した[66]のと同じ月にあたる。同じ1972年には、このエンジンを載せる受け皿となる小型車シビックを発売している。1973年12月からは業界の先陣を切って低公害のCVCC搭載車を売り出した[67]。シビックは極力ムダを排した設計と、米国でも燃費最高の折り紙がつけられた経済性[68]を備えた小型車であった。

1973年10月に第4次中東戦争が起きて石油ショックが発生する[69]と、自動車業界の売れ行きは前年の暮れから前年比3〜5割も減った[70]。そのなかで本田技研工業1社だけが小型車の売上を伸ばし、1974年3月には東洋工業と三菱自動車を抜いて業界第3位のシェアを確保した[71]。商品企画と技術力が当たった結果[72]であった。1973年12月に売り出した低公害のCVCC搭載車は、値段が安く商品に魅力があるという二点で、石油危機後の消費性向と噛み合っていた[73]。四輪車の半期売上は1964年2月期に初めて計上された10億円から1975年2月期には1,113億円[74]へ伸び、同期の二輪車1,332億円に迫る規模[75]となった。

    • [69]1973年10月6日 第4次中東戦争の勃発で石油ショックが発生
  • 日経ビジネス 1974年4月29日号
    • [70]石油危機で自動車各社の売れ行きが前年比3〜5割減
    • [71]1974年3月 東洋工業・三菱自動車を抜いて業界第3位のシェアを確保
    • [72]商品企画と技術力が当たった点が石油危機下の伸びの要因
    • [73]値段が安く商品に魅力がある点が石油危機後の消費性向と合致した
  • ホンダの歩み : 1948〜1975
    • [74]四輪車の半期売上 1964年2月期10億円→1975年2月期1,113億円
    • [75]1975年2月期の二輪車半期売上 1,332億円
    • [56]1970年12月 米国でマスキー法案が成立
    • [57]1970年 東京牛込柳町の光化学スモッグで大気汚染が社会問題化
    • [58]中央公害対策審議会がマスキー法案に準じた1975年度規制・1976年度規制を答申
    • [59]1976年度規制はNOxを走行1kmあたり0.25グラムへ
    • [60]業界は排ガス対策で乗用車価格が上がると猛反発した
    • [61]1973年夏 乗用車メーカー9社首脳が環境庁の聴聞会に呼ばれた
    • [62]本田技研工業がCVCCエンジンで規制達成可能といち早く表明
    • [63]CVCC=複合渦流調速燃焼
    • [64]触媒によらず燃焼方式で排出ガスを抑えるCVCCの仕組み
    • [69]1973年10月6日 第4次中東戦争の勃発で石油ショックが発生
    • [65]1972年10月 本田技研工業がCVCCエンジン車を公開
    • [66]1972年10月 中央公害対策審議会がマスキー法に準じた排出ガス規制措置を答申
  • 日経ビジネス 1974年4月29日号
    • [67]1973年12月 業界の先陣を切って低公害のCVCC搭載車を発売
    • [68]シビックは極力ムダを排した設計と米国で燃費最高とされた経済性を備えた
    • [70]石油危機で自動車各社の売れ行きが前年比3〜5割減
    • [71]1974年3月 東洋工業・三菱自動車を抜いて業界第3位のシェアを確保
    • [72]商品企画と技術力が当たった点が石油危機下の伸びの要因
    • [73]値段が安く商品に魅力がある点が石油危機後の消費性向と合致した
  • ホンダの歩み : 1948〜1975
    • [74]四輪車の半期売上 1964年2月期10億円→1975年2月期1,113億円
    • [75]1975年2月期の二輪車半期売上 1,332億円

創業者2人の同時引退と、組織による経営への移行

1973年10月、66歳の本田宗一郎社長と62歳の藤沢武夫副社長がそろって経営の第一線を退き[76]、創業一族に属さない45歳の河島喜好氏が社長を継いだ[77]本田宗一郎氏は本田技研は本田家のものではなく株主のもの、世間のものだ[78]として世襲を退け、業績が好調なさなかに身を引いた。二人は20年ほど前から一番良い時期に家の者へ渡さずに辞めると公言し[79]、1970年ごろには4人の専務へ代表権を分けていた[80]。宗一郎氏自身が企業という垢がたまっている[81]と語り、環境技術のCVCCも実際の開発は若い技術陣が担っていた。

  • 日経ビジネス 1973年9月3日号
    • [76]1973年10月 本田宗一郎社長(66歳)と藤沢武夫副社長(62歳)が同時に第一線を退く
    • [78]本田宗一郎氏は世襲を退け「本田技研は本田家のものじゃない」と語った
    • [81]本田宗一郎氏が「企業という垢がたまっている」と語った
  • 日経ビジネス 1977年6月6日号
    • [77]1973年10月 河島喜好氏が45歳で社長に就任
  • 日経ビジネス 1976年1月5日号
    • [79]20年ほど前から一番良い時期に家の者へ渡さず辞めると公言していた
    • [80]1970年ごろ4人の専務へ代表権を分けて承継の布石を打った

以後の経営は、大部屋の重役室とトロイカ方式[82]による全員参加の組織運営へ移った。河島喜好氏はニーズへの感受性が決め手だ[83]としてホンダ哲学を語り、10年後の1983年には55歳で社長を退いて久米是志氏へ引き継いだ[84]。後年、河島喜好氏は世襲を否定した創業者の決断が成長の源泉だった[85]と総括している。1975年7月にはブラジルにモトホンダ・ダ・アマゾニアを設け[86]、1976年3月には熊本製作所を稼働させ[87]、1977年2月には米国預託証券をニューヨーク証券取引所へ上場した[88]。次の大きな判断となる北米での四輪現地生産は、この体制のもとで下された[89]

  • 日経ビジネス 1977年6月6日号
    • [82]大部屋重役室とトロイカ方式による全員参加・納得ずくの組織経営へ移行
  • 日経ビジネス 1975年3月17日号
    • [83]河島喜好氏はニーズへの感受性が決め手だとホンダ哲学を語った
  • 日経ビジネス 1990年7月2日号
    • [84]河島喜好氏は1983年に55歳で社長を退き、久米是志氏が本田技研工業社長に就任
  • 日経ビジネス 1996年7月22日号
    • [85]河島喜好氏は世襲の否定が成長の源泉だったと後年総括した
  • 本田技研工業 有価証券報告書 第101期(2025年3月期)【沿革】
    • [86]1975年7月 ブラジルにモトホンダ・ダ・アマゾニアを設立
    • [87]1976年3月 熊本製作所が稼動開始
    • [88]1977年2月 米国預託証券をニューヨーク証券取引所に上場
    • [89]1978年3月 米国にホンダオブアメリカマニュファクチュアリングを設立
  • 日経ビジネス 1973年9月3日号
    • [76]1973年10月 本田宗一郎社長(66歳)と藤沢武夫副社長(62歳)が同時に第一線を退く
    • [78]本田宗一郎氏は世襲を退け「本田技研は本田家のものじゃない」と語った
    • [81]本田宗一郎氏が「企業という垢がたまっている」と語った
  • 日経ビジネス 1977年6月6日号
    • [77]1973年10月 河島喜好氏が45歳で社長に就任
    • [82]大部屋重役室とトロイカ方式による全員参加・納得ずくの組織経営へ移行
  • 日経ビジネス 1976年1月5日号
    • [79]20年ほど前から一番良い時期に家の者へ渡さず辞めると公言していた
    • [80]1970年ごろ4人の専務へ代表権を分けて承継の布石を打った
  • 日経ビジネス 1975年3月17日号
    • [83]河島喜好氏はニーズへの感受性が決め手だとホンダ哲学を語った
  • 日経ビジネス 1990年7月2日号
    • [84]河島喜好氏は1983年に55歳で社長を退き、久米是志氏が本田技研工業社長に就任
  • 日経ビジネス 1996年7月22日号
    • [85]河島喜好氏は世襲の否定が成長の源泉だったと後年総括した
  • 本田技研工業 有価証券報告書 第101期(2025年3月期)【沿革】
    • [86]1975年7月 ブラジルにモトホンダ・ダ・アマゾニアを設立
    • [87]1976年3月 熊本製作所が稼動開始
    • [88]1977年2月 米国預託証券をニューヨーク証券取引所に上場
    • [89]1978年3月 米国にホンダオブアメリカマニュファクチュアリングを設立

1978年〜 北米現地生産と、規模に背を向けた単独路線

ホンダの業績推移

売上高(億円)純利益率(%)
  1. 1978年 日本メーカー初の北米四輪現地生産(HAM設立) 日米貿易摩擦が強まるなか、河島喜好社長はなぜ完成車を「輸出」ではなく「現地で作る」道を選んだか
  2. 1981年 株式をロンドン証券取引所に上場
  3. 1983年 本田宗一郎氏・藤沢武夫氏が退任
  4. 1985年 HUMを設立・英国での現地生産を開始
  5. 1987年 北米統轄会社ホンダノースアメリカを設立
  6. 1995年 「規模の論理」に背を向けた単独路線と川本改革 世界的な合併・資本提携の波のなか、ホンダ(本田技研工業)はなぜ規模の拡大を拒み、単独で生き残る道を選んだのか
  7. 2002年 埼玉製作所・和光工場を閉鎖

日本メーカー初の北米四輪現地生産

1977年、日本製乗用車の対米輸出は前年の史上最高を更新し[90]、2月末までの販売台数ではトヨタ・日産・本田技研の3社が輸入車のベストスリーを占めた[91]。5位・6位にも三菱自工と富士重工が続き、米国の輸入乗用車市場は日本製一色の勢いとなった[92]。このままでは鉄鋼に続いて輸入規制の圧力が高まることは必至とみられ、各社は米国内での現地生産を真剣に考えざるを得ない立場に追い込まれた[93]。この圧力に最初に応えたのが同社で、1977年9月には米オハイオでの現地生産の計画が明らかになった[94]。1978年3月、日本の自動車メーカーとして初めて米国にホンダオブアメリカマニュファクチュアリング(HAM)を設立した[95]

  • 読売新聞(1977年3月5日)
    • [90]1977年 日本製乗用車の対米輸出が前年の史上最高を更新
    • [91]1977年2月末までの販売台数でトヨタ・日産・本田技研が輸入車ベストスリーを独占
    • [92]5位・6位に三菱自工・富士重工が続き米国の輸入乗用車市場は日本製一色
    • [93]輸入規制の圧力が必至とみられ各社は米国内での現地生産を迫られた
  • 日本経済新聞(1977年9月27日)
    • [94]1977年9月 本田技研の米オハイオでの現地生産計画が明らかに
  • 本田技研工業 有価証券報告書 第101期(2025年3月期)【沿革】
    • [95]1978年3月 米国にホンダオブアメリカマニュファクチュアリングを設立

1980年1月、米国での乗用車生産の決定が伝わり、現地の日本車批判を和らげて日米貿易摩擦の回避につながる[96]と期待された。翌1980年2月には米国にアメリカンホンダファイナンス・コーポレーションを設け[97]、現地で車を売るための販売金融の受け皿も用意した。オハイオ州メアリズビルでは1979年に年産6万台の二輪工場が、1982年に年産36万台のアコード工場が稼働し[98]、投資額は四輪だけで13億ドル、従業員は5,300名[99]に達した。1985年にはアンナに年産50万基のエンジン工場、1989年にはイーストリバティに年産15万台のシビック工場[100]が加わり、米国で売る車を米国で作る体制が厚くなった。

  • 日本経済新聞(1980年1月11日)
    • [96]1980年1月 米国進出が日本車批判を和らげ日米貿易摩擦の回避につながると期待された
  • 本田技研工業 有価証券報告書 第101期(2025年3月期)【沿革】
    • [97]1980年2月 米国にアメリカンホンダファイナンス・コーポレーションを設立
    • [98]メアリズビル二輪工場1979年稼働・年産6万台/四輪工場1982年稼働・年産36万台・投資13億ドル・従業員5,300名
    • [99]四輪工場の投資額13億ドル・従業員5,300名
    • [100]1985年 アンナのエンジン工場(年産50万基)、1989年 イーストリバティのシビック工場(年産15万台)が稼働

アコードの現地生産台数は1984年3月期の5万台から1991年3月期には33万台へ伸び[101]、1986年には高級ブランドのアキュラを北米で立ち上げている。1987年12月の時点で、戦後に一介の町工場として出発した同社は40年を経て米国でGM・フォード・クライスラーに次ぐ第4位の座を不動のものとし、さらに年販100万台を狙う[102]位置にあった。1989年8月には英国に欧州子会社を統轄するホンダモーターヨーロッパを設立した[103]。1992年7月にはタイに四輪の生産会社を設け[104]、1996年5月にはアジアホンダモーターへアセアン子会社の統轄機能を持たせて[105]、北米・欧州・アセアンの三極に地域の束ね役を置いた。

  • そしてHondaは翔んだ : ホンダ国際戦略の秘密 本格ドキュメント
    • [101]アコードの米国現地生産台数 1984年3月期5万台→1991年3月期33万台
  • 日経ビジネス 1987年12月21日号
    • [102]1987年12月 米国でGM・フォード・クライスラーに次ぐ第4位、年販100万台を狙う位置
  • 本田技研工業 有価証券報告書 第101期(2025年3月期)【沿革】
    • [103]1989年8月 英国にホンダモーターヨーロッパを設立
    • [104]1992年7月 タイにホンダカーズマニュファクチュアリング(タイランド)を設立
    • [105]1996年5月 アジアホンダモーターにアセアン子会社事業の統轄機能を設置
  • 読売新聞(1977年3月5日)
    • [90]1977年 日本製乗用車の対米輸出が前年の史上最高を更新
    • [91]1977年2月末までの販売台数でトヨタ・日産・本田技研が輸入車ベストスリーを独占
    • [92]5位・6位に三菱自工・富士重工が続き米国の輸入乗用車市場は日本製一色
    • [93]輸入規制の圧力が必至とみられ各社は米国内での現地生産を迫られた
  • 日本経済新聞(1977年9月27日)
    • [94]1977年9月 本田技研の米オハイオでの現地生産計画が明らかに
  • 本田技研工業 有価証券報告書 第101期(2025年3月期)【沿革】
    • [95]1978年3月 米国にホンダオブアメリカマニュファクチュアリングを設立
    • [97]1980年2月 米国にアメリカンホンダファイナンス・コーポレーションを設立
    • [103]1989年8月 英国にホンダモーターヨーロッパを設立
    • [104]1992年7月 タイにホンダカーズマニュファクチュアリング(タイランド)を設立
    • [105]1996年5月 アジアホンダモーターにアセアン子会社事業の統轄機能を設置
  • 日本経済新聞(1980年1月11日)
    • [96]1980年1月 米国進出が日本車批判を和らげ日米貿易摩擦の回避につながると期待された
    • [98]メアリズビル二輪工場1979年稼働・年産6万台/四輪工場1982年稼働・年産36万台・投資13億ドル・従業員5,300名
    • [99]四輪工場の投資額13億ドル・従業員5,300名
    • [100]1985年 アンナのエンジン工場(年産50万基)、1989年 イーストリバティのシビック工場(年産15万台)が稼働
  • そしてHondaは翔んだ : ホンダ国際戦略の秘密 本格ドキュメント
    • [101]アコードの米国現地生産台数 1984年3月期5万台→1991年3月期33万台
  • 日経ビジネス 1987年12月21日号
    • [102]1987年12月 米国でGM・フォード・クライスラーに次ぐ第4位、年販100万台を狙う位置

「規模の論理」に背を向けた川本改革

1983年に社長へ就いた久米是志[106]のあと、1990年6月に川本信彦氏が社長となった[107]。就任前の1990年3月期に905億円あった単独の経常利益[108]は、バブル崩壊と円高が重なった1994年3月期には227億円と4分の1へ落ち込んだ[109]。1995年の元旦、本田技研工業と三菱自動車工業が合併するという観測記事が新聞の1面トップに出た[110]川本信彦氏には身に覚えのない内容だったが、RVで勢いのある三菱自工と乗用車に固執するホンダが補完し合う[111]という銀行筋の計算が発端にあった。世界では1998年の独ダイムラー・ベンツと米クライスラーの合併[112]、1999年のルノーによる日産自動車への資本参加[113]と、規模の論理を掲げた再編が加速した。

  • 日経ビジネス 1990年7月2日号
    • [106]久米是志氏 1983年 本田技研工業社長に就任、1990年6月に退任
  • 日経ビジネス 1997年3月17日号
    • [107]1990年6月 川本信彦氏が社長に就任
    • [108]単独経常利益 1990年3月期905億円
    • [109]単独経常利益 1994年3月期227億円(4年で4分の1へ)
    • [110]1995年元旦 本田技研工業と三菱自動車工業の合併という観測記事が新聞1面トップに
    • [111]合併説はRVで勢いのある三菱自工と乗用車に固執するホンダの補完という銀行筋の計算が発端
  • 日経ビジネス 2001年1月1日号
    • [112]1998年 ダイムラー・ベンツとクライスラーが合併
    • [113]1999年 ルノーが日産自動車へ資本参加するなど自動車の国際再編が加速

合併説を問われた川本信彦氏は、時代対応のできない企業が大きくなって何が良いことがあるだろうか[114]と退けた。危機を乗り越えようと努力しているときに合併を持ち出すのは人間の尊厳を否定する[115]のではないかとも語り、資本だけで企業は動かない[116]と突き放した。目指したのは規模ではなく、変化に素早く対応するソリッドな企業[117]であった。1993年には国内の雇用を守るため、当時60万台強だった国内販売を1998年までに80万台へ引き上げる目標[118]を掲げ、RVの波状攻撃を決めた。1994年秋のオデッセイを皮切りに、1995年秋のCR-V、1996年のステップワゴンとS-MX[119]が続けてヒットした。

  • 日経ビジネス 1995年12月25日号
    • [114]川本信彦氏は時代対応のできない企業が大きくなる意味を疑って合併説を退けた
    • [115]合併を持ち出すのは人間の尊厳の否定であり資本だけで企業は動かないとした
    • [116]資本だけで企業を動かそうとしても動かないという川本信彦氏の見方
  • 日経ビジネス 1995年1月30日号
    • [117]規模の効果よりも変化に素早く対応する「ソリッドな企業」を目指した
  • 日経ビジネス 1997年3月17日号
    • [118]1993年 国内販売を60万台強から1998年までに80万台へ引き上げる目標とRVの波状攻撃
    • [119]1994年秋オデッセイ、1995年秋CR-V、1996年ステップワゴン・S-MXが相次いでヒット

RV攻勢を支えたのは、開発資源を国内へ振り向ける判断[120]であった。1993年当時、開発投資のうち国内専用モデルは5%にすぎず、65%をシビックやアコードなど世界共通モデルに、30%を東南アジアや米国向けの乗用車へ[121]振り向けていた。川本信彦氏はこの配分を改め、米国の好みに引かれる世界共通車ではなく日本市場を見た国内専用車の開発へ切り替えた[122]。品質・コスト・開発速度を両立させるTQMの導入が、それまで採算に合わず断念してきたRVの量産を可能にした[123]。組織では社長を支える有力な副社長を置かず判断を社長へ集め[124]、開発総責任者に営業・生産・購買の各畑から人を抜擢して技研貴族と呼ばれた技術者の唯我独尊の体質を崩した[125]。円安も追い風に1997年3月期の経常利益は1,550億円と前年の3.3倍、過去最高益の1.88倍[126]へ跳ね上がった。

  • 日経ビジネス 1997年3月17日号
    • [120]RV攻勢を支えたのは開発資源を国内へ振り向ける判断
    • [121]1993年当時の開発投資配分 国内専用5%・世界共通65%・東南アジアと米国向け30%
    • [122]川本信彦氏は日本市場を見た国内専用車の開発へ切り替えた
    • [123]TQMの導入が採算に合わず断念していたRVの量産を可能にした
    • [124]女房役の副社長を置かず判断を社長へ集約した
    • [125]開発総責任者を営業・生産・購買畑から抜擢し「技研貴族」の体質を崩した
    • [126]1997年3月期の経常利益1,550億円(前年の3.3倍・過去最高益の1.88倍)
  • 日経ビジネス 1990年7月2日号
    • [106]久米是志氏 1983年 本田技研工業社長に就任、1990年6月に退任
  • 日経ビジネス 1997年3月17日号
    • [107]1990年6月 川本信彦氏が社長に就任
    • [108]単独経常利益 1990年3月期905億円
    • [109]単独経常利益 1994年3月期227億円(4年で4分の1へ)
    • [110]1995年元旦 本田技研工業と三菱自動車工業の合併という観測記事が新聞1面トップに
    • [111]合併説はRVで勢いのある三菱自工と乗用車に固執するホンダの補完という銀行筋の計算が発端
    • [118]1993年 国内販売を60万台強から1998年までに80万台へ引き上げる目標とRVの波状攻撃
    • [119]1994年秋オデッセイ、1995年秋CR-V、1996年ステップワゴン・S-MXが相次いでヒット
    • [120]RV攻勢を支えたのは開発資源を国内へ振り向ける判断
    • [121]1993年当時の開発投資配分 国内専用5%・世界共通65%・東南アジアと米国向け30%
    • [122]川本信彦氏は日本市場を見た国内専用車の開発へ切り替えた
    • [123]TQMの導入が採算に合わず断念していたRVの量産を可能にした
    • [124]女房役の副社長を置かず判断を社長へ集約した
    • [125]開発総責任者を営業・生産・購買畑から抜擢し「技研貴族」の体質を崩した
    • [126]1997年3月期の経常利益1,550億円(前年の3.3倍・過去最高益の1.88倍)
  • 日経ビジネス 2001年1月1日号
    • [112]1998年 ダイムラー・ベンツとクライスラーが合併
    • [113]1999年 ルノーが日産自動車へ資本参加するなど自動車の国際再編が加速
  • 日経ビジネス 1995年12月25日号
    • [114]川本信彦氏は時代対応のできない企業が大きくなる意味を疑って合併説を退けた
    • [115]合併を持ち出すのは人間の尊厳の否定であり資本だけで企業は動かないとした
    • [116]資本だけで企業を動かそうとしても動かないという川本信彦氏の見方
  • 日経ビジネス 1995年1月30日号
    • [117]規模の効果よりも変化に素早く対応する「ソリッドな企業」を目指した

自主独立の確立と、そこに付された留保

1998年6月、川本信彦氏は吉野浩行氏へ社長を譲った[127]吉野浩行氏も単独路線を引き継ぎ、米フォード・モーターによるホンダ買収の構想が伝えられても再編の波に乗る考えはない[128]と一蹴し、規模ではなく売れる車を持てるかどうかが問題だ[129]と述べた。2001年にはあくまで自主独立路線を貫き、合併・提携による規模の拡大は必ずしも効率化につながらない[130]と語った。市場もこれを評価し、キャッシュフローは米ゼネラル・モーターズの数分の1でありながら、株式時価総額ではGMを上回った[131]。鈴鹿製作所では小型車から大型ワンボックスまで生産設備を替えずに造る生産体質改革ライン[132]を稼働させ、規模に頼らない生産改革が独立路線を支えた。

  • 週刊東洋経済 1998年8月8日号
    • [127]1998年6月 吉野浩行氏が社長に就任
  • 日経ビジネス 1999年1月18日号
    • [128]吉野浩行氏はフォードによる買収構想が伝えられても再編に乗る考えはないとした
    • [129]規模ではなく売れる車を持てるかどうかが問題だと吉野浩行氏は述べた
  • 日経ビジネス 2001年1月1日号
    • [130]2001年 吉野浩行氏は自主独立路線を貫き規模の拡大は効率化につながらないとした
    • [131]キャッシュフローはGMの数分の1ながら株式時価総額ではGMを上回った
    • [132]鈴鹿製作所で生産設備を替えずに多車種を造る「生産体質改革ライン」を稼働

1999年、乗用車の世界生産台数で日産自動車を抜いた[133]一方で、単独走行への不安も残った。創業者という英雄を失ったのちのホンダが、合従連衡のうねりに背を向けて独力の生き残りをどこまで貫けるのか[134]という問いが突きつけられ、米国頼みの収益構造や国内組織の老化も指摘された[135]。同じ1999年4月には東京にホンダクレジットを設け[136]、同年12月には米国にホンダマニュファクチュアリングオブアラバマを設立して[137]、金融と生産の両面で足場を足した。2002年6月には埼玉製作所和光工場の四輪車用エンジン生産を終えて狭山工場へ移し[138]、国内の生産配置も組み替えた。

  • 日経ビジネス 1999年8月23日号
    • [133]1999年 乗用車の世界生産台数で日産自動車を抜いた
    • [134]英雄なき単独走行がどこまで通用するのかという問いが提起された
    • [135]米国頼みの収益構造や国内組織の老化が指摘された
  • 本田技研工業 有価証券報告書 第101期(2025年3月期)【沿革】
    • [136]1999年4月 東京都に株式会社ホンダクレジットを設立
    • [137]1999年 米国にホンダマニュファクチュアリングオブアラバマを設立
    • [138]2002年6月 埼玉製作所和光工場の四輪車用エンジン生産を終了し狭山工場へ移管
  • 週刊東洋経済 1998年8月8日号
    • [127]1998年6月 吉野浩行氏が社長に就任
  • 日経ビジネス 1999年1月18日号
    • [128]吉野浩行氏はフォードによる買収構想が伝えられても再編に乗る考えはないとした
    • [129]規模ではなく売れる車を持てるかどうかが問題だと吉野浩行氏は述べた
  • 日経ビジネス 2001年1月1日号
    • [130]2001年 吉野浩行氏は自主独立路線を貫き規模の拡大は効率化につながらないとした
    • [131]キャッシュフローはGMの数分の1ながら株式時価総額ではGMを上回った
    • [132]鈴鹿製作所で生産設備を替えずに多車種を造る「生産体質改革ライン」を稼働
  • 日経ビジネス 1999年8月23日号
    • [133]1999年 乗用車の世界生産台数で日産自動車を抜いた
    • [134]英雄なき単独走行がどこまで通用するのかという問いが提起された
    • [135]米国頼みの収益構造や国内組織の老化が指摘された
  • 本田技研工業 有価証券報告書 第101期(2025年3月期)【沿革】
    • [136]1999年4月 東京都に株式会社ホンダクレジットを設立
    • [137]1999年 米国にホンダマニュファクチュアリングオブアラバマを設立
    • [138]2002年6月 埼玉製作所和光工場の四輪車用エンジン生産を終了し狭山工場へ移管

2003年〜 北米依存の頂点から、脱エンジンの宣言と撤回へ

ホンダの業績推移:連結

売上高(億円)純利益率(%)
  1. 2004年 中国事業統轄会社を設立
  2. 2017年 狭山工場の閉鎖と寄居工場への国内四輪生産の集約 国内市場の縮小と電動化を前に、八郷隆弘社長は1964年以来の四輪拠点をどう畳もうとしたか
  3. 2021年 「2040年 四輪EV・FCV100%」宣言による脱エンジンへの転換 エンジンで名を成したホンダは、なぜ期限を切って内燃機関からの退場を世界に約束したのか
  4. 2021年 英国スウィンドン工場の閉鎖と欧州完成車生産からの全面撤退 慢性的な赤字を抱えた欧州の完成車工場を、八郷隆弘社長はなぜ進出から36年で畳んだか
  5. 2021年 早期退職優遇制度「ライフシフト・プログラム」と想定の2倍を超えた応募 電動化への転換と生産再編を前に、なぜホンダは定年を65歳へ延ばした先で55歳以上に退職を促し、想定の2倍が応じたのか
  6. 2024年 日産との経営統合構想への踏み込みと、二カ月弱での協議打ち切り 自主独立を貫いてきたホンダは、なぜ規模を求めて日産との統合に動き、なぜ短期間で退いたか
  7. 2026年 「2040年脱エンジン」の事実上撤回と上場来初の最終赤字 EV全振りを掲げたホンダは、なぜ次世代EVを止め、HVと中国減産へ舵を切り直したのか

米国が利益の7割を稼ぐ構造と、中国合弁への技術移転

2004年4月、前期の連結純利益が4,600億円と過去最高になった[139]。北米の好調が収益を押し上げた[140]結果である。2004年1月には中国事業を統轄する本田技研工業(中国)投資有限公司を設立し[141]、現地生産を広汽ホンダと東風ホンダの二つの合弁で広げた[142]。2007年には全社利益のおよそ7割を米国が稼ぎ[143]、米国で売るホンダ車の4分の1を占める看板車種シビック[144]がその中心にあった。現行シビックは2005年秋に米国で発売されるや、ガソリン高騰で省燃費の日本車に人気が集中するなかで売れに売れ、店頭では逆にプレミアム価格がつくほどであった[145]。ところが2006年8月、発売から1年を経ないうちにシビックの販売台数は前年同月比で減り始めた[146]

  • 日本経済新聞(2004年4月28日)
    • [139]2004年3月期 連結純利益4,600億円で過去最高
    • [140]最高益の要因は北米の好調
  • 本田技研工業 有価証券報告書 第101期(2025年3月期)【沿革】
    • [141]2004年1月 中国に事業統轄の本田技研工業(中国)投資有限公司を設立
  • 週刊東洋経済 2026年5月2日号
    • [142]中国では広汽ホンダと東風ホンダの2つの合弁でガソリン車を生産
  • 週刊東洋経済 2007年4月28日号
    • [143]2007年 全社利益の約7割を米国が稼いだ
    • [144]シビックは米国で売るホンダ車の4分の1を占める看板車種
    • [145]2005年秋発売の現行シビックはガソリン高で人気が集中し店頭でプレミアム価格がついた
    • [146]2006年8月 現行シビックの販売が前年同月比マイナスへ転じた

販売のてこ入れに、同社は2007年3月からシビック1台あたり約300ドルの販売奨励金[147]を付けた。値引きとは無縁だった人気小型車の変調で、奨励金は4月には約500ドルへ上がった[148]。この水準が続くだけで年200億円近い支出増[149]となり、営業利益8,000億円台[150]の同社でも影響は小さくない規模であった。中期計画で掲げた年間販売400万台の目標[151]も、日本市場の不振に米国のつまずきが加わって危ぶまれた。価格は新型への切り替えのたびに上がり、現行モデルは前モデルより平均2,000ドル高くなっていた[152]

  • 週刊東洋経済 2007年4月28日号
    • [147]2007年3月 シビックに1台あたり約300ドルの販売奨励金を付与
    • [148]2007年4月 奨励金が約500ドルへ上昇
    • [149]奨励金の継続で年200億円近い支出増
    • [150]当時の営業利益は8,000億円台
    • [151]中期計画の年間販売400万台目標(2006年度は366万台計画)
    • [152]現行シビックの価格は前モデルより平均2,000ドル上昇

中国では、合弁相手への技術移転にも踏み込んだ[153]。2007年7月18日、同社は広州本田汽車が2010年を目標にホンダのブランドを使わない中国専用の独自ブランド車[154]を投入すると発表し、あわせて300億円を投じて高速テストコースを備える研究開発センター[155]を設けると公表した。中国政府は1990年代から参入する外資へ国有企業との合弁を強制し、出資上限を50%として国有企業への技術移転をねらってきた[156]が、外資はその移転を渋ってきた。福井威夫氏は中国政府の圧力に屈したのではないと前置きしたうえで[157]、広州本田側に強い必要があるためだと語った。設立式には自動車産業政策を策定してきた国家発展改革委員会の幹部が来賓に名を連ね[158]、他の外資も独自ブランドの開発を重視するだろうと述べた。

  • 週刊東洋経済 2007年8月4日号
    • [153]中国合弁で技術移転に踏み込む判断
    • [154]2007年7月18日 広州本田が2010年目標でホンダブランドを使わない独自ブランド車を投入すると発表
    • [155]300億円を投じ高速テストコースを併設する広州本田の研究開発センターを設立
    • [156]中国政府は1990年代から外資へ国有企業との合弁を強制し出資上限を50%とした
    • [157]福井威夫氏は中国政府の圧力に屈したのではないと述べ広州本田側の必要を挙げた
    • [158]設立式に国家発展改革委員会の幹部が来賓として出席し他の外資への波及を述べた
  • 日本経済新聞(2004年4月28日)
    • [139]2004年3月期 連結純利益4,600億円で過去最高
    • [140]最高益の要因は北米の好調
  • 本田技研工業 有価証券報告書 第101期(2025年3月期)【沿革】
    • [141]2004年1月 中国に事業統轄の本田技研工業(中国)投資有限公司を設立
  • 週刊東洋経済 2026年5月2日号
    • [142]中国では広汽ホンダと東風ホンダの2つの合弁でガソリン車を生産
  • 週刊東洋経済 2007年4月28日号
    • [143]2007年 全社利益の約7割を米国が稼いだ
    • [144]シビックは米国で売るホンダ車の4分の1を占める看板車種
    • [145]2005年秋発売の現行シビックはガソリン高で人気が集中し店頭でプレミアム価格がついた
    • [146]2006年8月 現行シビックの販売が前年同月比マイナスへ転じた
    • [147]2007年3月 シビックに1台あたり約300ドルの販売奨励金を付与
    • [148]2007年4月 奨励金が約500ドルへ上昇
    • [149]奨励金の継続で年200億円近い支出増
    • [150]当時の営業利益は8,000億円台
    • [151]中期計画の年間販売400万台目標(2006年度は366万台計画)
    • [152]現行シビックの価格は前モデルより平均2,000ドル上昇
  • 週刊東洋経済 2007年8月4日号
    • [153]中国合弁で技術移転に踏み込む判断
    • [154]2007年7月18日 広州本田が2010年目標でホンダブランドを使わない独自ブランド車を投入すると発表
    • [155]300億円を投じ高速テストコースを併設する広州本田の研究開発センターを設立
    • [156]中国政府は1990年代から外資へ国有企業との合弁を強制し出資上限を50%とした
    • [157]福井威夫氏は中国政府の圧力に屈したのではないと述べ広州本田側の必要を挙げた
    • [158]設立式に国家発展改革委員会の幹部が来賓として出席し他の外資への波及を述べた

拡大の巻き戻し——狭山閉鎖・欧州撤退・早期退職

2008年9月のリーマン・ショックで業績は急落し、2009年3月期の営業利益は前年の9,531億円から1,896億円へ8割減った[159]。2013年7月には埼玉製作所の寄居工場が稼働し[160]、狭山との二拠点を並べて抱える非効率が重荷になった。2017年10月、同社は狭山工場の四輪車生産を寄居工場へ集約する方針を示し[161]、2018年7月に2023年度までの閉鎖として具体化した[162]。2021年には狭山での四輪完成車の生産を終え[163]、オデッセイ・レジェンド・クラリティの生産もこの年に終えた[164]。狭山は当面部品工場として残されたのち、2024年6月末に閉鎖された[165]

  • 本田技研工業 有価証券報告書(2009年3月期・連結)
    • [159]2009年3月期 営業利益1,896億円(前期9,531億円から約8割減)
  • 本田技研工業 有価証券報告書 第101期(2025年3月期)【沿革】
    • [160]2013年7月 埼玉製作所寄居工場が稼働開始
    • [163]2021年 埼玉製作所狭山完成車工場の四輪車生産を終了
  • 日本経済新聞(2018年7月31日)
    • [161]2017年10月 狭山工場の四輪車生産を寄居工場へ集約する方針を提示
    • [162]2018年7月 2023年度までの狭山工場閉鎖として具体化
  • Car Watch(2021年6月16日)
    • [164]2021年内にオデッセイ・レジェンド・クラリティの生産を終了
  • 日刊工業新聞(2024年12月20日)
    • [165]2024年6月末 狭山工場が部品を含めて生産を終え閉鎖

2019年2月19日、同社は2021年中に英国スウィンドン工場とトルコ工場での四輪車生産を終える[166]と発表し、欧州における完成車の現地生産から全面的に退く方針を示した。八郷隆弘氏は英国のEU離脱との関係を否定し[167]、電動化を軸とする生産再編だと説明した。スウィンドン工場は2021年7月30日に生産を終え[168]、跡地は欧州最大級の不動産・物流開発会社パナトーニへ売却された[169]。1985年の進出から36年、約370万台を生産した拠点[170]を、欧州での販売が育たないまま手放した。2020年4月にはホンダエンジニアリングを合併し[171]、同年7月にはアメリカンホンダモーターカンパニーが北米子会社を統轄するホンダノースアメリカを合併[172]して、国内外の組織も整理した。

  • ニューズウィーク日本版(2019年2月19日)
    • [166]2019年2月19日 英スウィンドン工場とトルコ工場の四輪車生産終了を発表
    • [167]八郷隆弘氏はBrexitとの関係を否定し電動化を軸とする生産再編と説明
  • 日経クロステック(2021年3月26日)
    • [168]2021年7月30日 スウィンドン工場の生産終了
  • レスポンス(2021年3月29日)
    • [169]跡地を欧州最大級の不動産・物流開発会社パナトーニへ売却
  • 東京新聞(2021年7月31日)
    • [170]1985年の進出から36年間、約370万台を生産した拠点
  • 本田技研工業 有価証券報告書 第101期(2025年3月期)【沿革】
    • [171]2020年4月 ホンダエンジニアリング株式会社を合併
    • [172]2020年7月 アメリカンホンダモーターカンパニーがホンダノースアメリカを合併

2020年12月、同社は2021年度から55歳以上の正社員を対象に、早期に退けば割増退職金を払う優遇制度[173]を設けると発表した。社内ではライフシフト・プログラムと呼ばれ、基本の対象は55歳以上59歳未満だが、初年度は60歳から64歳まで枠を広げた[174]。2017年に定年を60歳から65歳へ延ばした[175]直後に、その手前の年代へ退職を促す段取りであった。当初見込んだ利用者はおよそ1,000人[176]だったが、応募は2021年夏に2,000人を超え[177]、最終的な利用者は約2,500人と見込みの2.5倍に達した[178]。退職特別加算金は2022年3月期に360億円、2023年3月期に68億円、あわせて428億円[179]を計上し、制度は2023年9月に2024年度からの廃止が決まった[180]

  • 日本経済新聞(2020年12月2日)
    • [173]2020年12月 2021年度から55歳以上を対象とする早期退職優遇制度を発表
    • [175]2017年 定年を60歳から65歳へ延長
  • レスポンス(2023年9月14日)
    • [174]対象は55歳以上59歳未満、初年度は60〜64歳まで拡充
    • [177]2021年夏に応募が2,000人を超えた(国内正社員約4万人の約5%)
    • [180]2023年9月 早期退職優遇制度を2024年度から廃止すると決定
  • ダイヤモンド・オンライン(2022年4月19日)
    • [176]当初見込んだ利用者は約1,000人
    • [178]最終的な利用者は約2,500人(当初見込みの2.5倍)
  • 本田技研工業 有価証券報告書(単体決算・特別損失)
    • [179]退職特別加算金 2022年3月期360億円・2023年3月期68億円・累計428億円
  • 本田技研工業 有価証券報告書(2009年3月期・連結)
    • [159]2009年3月期 営業利益1,896億円(前期9,531億円から約8割減)
  • 本田技研工業 有価証券報告書 第101期(2025年3月期)【沿革】
    • [160]2013年7月 埼玉製作所寄居工場が稼働開始
    • [163]2021年 埼玉製作所狭山完成車工場の四輪車生産を終了
    • [171]2020年4月 ホンダエンジニアリング株式会社を合併
    • [172]2020年7月 アメリカンホンダモーターカンパニーがホンダノースアメリカを合併
  • 日本経済新聞(2018年7月31日)
    • [161]2017年10月 狭山工場の四輪車生産を寄居工場へ集約する方針を提示
    • [162]2018年7月 2023年度までの狭山工場閉鎖として具体化
  • Car Watch(2021年6月16日)
    • [164]2021年内にオデッセイ・レジェンド・クラリティの生産を終了
  • 日刊工業新聞(2024年12月20日)
    • [165]2024年6月末 狭山工場が部品を含めて生産を終え閉鎖
  • ニューズウィーク日本版(2019年2月19日)
    • [166]2019年2月19日 英スウィンドン工場とトルコ工場の四輪車生産終了を発表
    • [167]八郷隆弘氏はBrexitとの関係を否定し電動化を軸とする生産再編と説明
  • 日経クロステック(2021年3月26日)
    • [168]2021年7月30日 スウィンドン工場の生産終了
  • レスポンス(2021年3月29日)
    • [169]跡地を欧州最大級の不動産・物流開発会社パナトーニへ売却
  • 東京新聞(2021年7月31日)
    • [170]1985年の進出から36年間、約370万台を生産した拠点
  • 日本経済新聞(2020年12月2日)
    • [173]2020年12月 2021年度から55歳以上を対象とする早期退職優遇制度を発表
    • [175]2017年 定年を60歳から65歳へ延長
  • レスポンス(2023年9月14日)
    • [174]対象は55歳以上59歳未満、初年度は60〜64歳まで拡充
    • [177]2021年夏に応募が2,000人を超えた(国内正社員約4万人の約5%)
    • [180]2023年9月 早期退職優遇制度を2024年度から廃止すると決定
  • ダイヤモンド・オンライン(2022年4月19日)
    • [176]当初見込んだ利用者は約1,000人
    • [178]最終的な利用者は約2,500人(当初見込みの2.5倍)
  • 本田技研工業 有価証券報告書(単体決算・特別損失)
    • [179]退職特別加算金 2022年3月期360億円・2023年3月期68億円・累計428億円

脱エンジンの宣言と、その事実上の撤回

2021年4月、社長に就いたばかりの三部敏宏氏は、2040年に世界で販売する四輪車をすべてEVとFCVへ切り替える[181]と宣言した。途中の節目として2030年に40%、2035年には先進国で80%へ高める[182]方針を示し、これをホンダの第2の創業と呼んだ[183]。ハイブリッド車を最終形の選択肢に含めない点で[184]、全方位を並走させるトヨタ自動車とは路線が分かれた。同じ2021年4月には米国の生産子会社6社超を統合して[185]ホンダディベロップメントアンドマニュファクチュアリングオブアメリカへ改称し、北米の生産体制も組み替えた。

  • MONOist(2021年4月26日)
    • [181]2021年4月 三部敏宏氏が2040年に四輪をすべてEV・FCVへ切り替えると宣言
    • [182]途中目標は2030年40%・2035年に先進国80%
    • [184]ハイブリッド車を最終形に含めない点で全方位のトヨタと路線が分かれた
    • [183]三部敏宏氏は電動化をホンダの「第2の創業」と呼んだ
  • 本田技研工業 有価証券報告書 第101期(2025年3月期)【沿革】
    • [185]2021年4月 米国子会社を統合しホンダディベロップメントアンドマニュファクチュアリングオブアメリカへ改称

2024年12月23日、同社は日産自動車との経営統合に向けた協議開始で基本合意し[186]、2026年8月の共同持株会社設立を目指すと発表した。三菱自動車を含めれば世界販売800万台を超える規模の構想であった。共同持株会社の傘下に両社を置き、ホンダが社長と取締役の過半を指名する[187]事実上ホンダ主導の枠組みで、統合は日産が構造改革をやり遂げることを大前提[188]とした。協議の途上でホンダは意思決定を速めるため、株式交換による日産の完全子会社化案を打診した[189]。開発費を分担するための規模拡大という論理と、日産の自主性を重んじる対等統合という建前は、この子会社化案をめぐって正面から衝突した[190]。2025年2月13日、両社は基本合意書を解約して協議を終えた[191]

  • 週刊東洋経済 2025年2月1日号
    • [186]2024年12月23日 日産自動車との経営統合協議の開始で基本合意
    • [187]ホンダが社長と取締役の過半を指名する事実上ホンダ主導の枠組み
    • [188]統合は日産の構造改革(ターンアラウンド)の着実な実行を大前提とした
  • 日本経済新聞(2025年2月13日)
    • [189]協議途上でホンダは株式交換による日産の完全子会社化案を打診
    • [190]規模拡大の論理と対等統合の建前が子会社化案をめぐって衝突した
  • Honda「日産自動車とHondaとの経営統合に向けた検討に関する基本合意書の解約について」(2025年2月13日)
    • [191]2025年2月13日 基本合意書を解約して協議を終了

2026年2月の決算説明会で貝原典也氏は、EV市場が大幅に後退しており、いま舵取りが必要な段階だ[192]と述べた。2026年3月12日、同社は2026年3月期の連結最終損益が最大6,900億円の赤字になる見通し[193]を発表した。前期の8,358億円の黒字から一転し、最終赤字は1957年の上場以来初であった[194]。EV関連資産の除却・減損や販売中止に伴う費用として1.3兆円を計上し[195]、独自開発のホンダ0サルーン、ホンダゼロSUV、アキュラRSXの3車種は開発中止となった。三部敏宏氏は2021年に掲げた2040年の全面EV・FCV化についても達成が困難だと述べ[196]、複数シナリオでの戦略修正ができなかったと振り返った[197]。収益の柱はハイブリッド車へ戻し、中国では生産拠点4つのうち2つを休止して年産能力を173万台から72万台へ削り[198]、2026〜27年3月期で最大3.2兆円のEV関連損失を計上する見通し[199]となった。

  • 本田技研工業 決算説明会(2026年3月期第3四半期)
    • [192]貝原典也氏(副社長)がEV市場の大幅な後退と舵取りの必要を述べた(2026年3月期第3四半期決算説明会)
  • 週刊東洋経済 2026年3月28日号
    • [193]2026年3月12日 2026年3月期の連結最終損益が最大6,900億円の赤字になる見通しを発表
    • [194]前期は8,358億円の黒字。最終赤字は1957年の上場以来初
    • [195]EV関連資産の除却・減損や販売中止関連費用として1.3兆円を計上し3車種を開発中止
    • [196]三部敏宏氏は2040年の全面EV・FCV化を達成が困難として事実上修正した
    • [197]三部敏宏氏が複数シナリオでの戦略修正ができなかったと振り返った
  • 週刊東洋経済 2026年5月2日号
    • [198]中国のガソリン車生産拠点4つのうち2つを休止し年産能力を173万台から72万台へ削減
    • [199]2026年3月期から2027年3月期にかけて最大3.2兆円のEV関連損失を計上する見通し
  • MONOist(2021年4月26日)
    • [181]2021年4月 三部敏宏氏が2040年に四輪をすべてEV・FCVへ切り替えると宣言
    • [182]途中目標は2030年40%・2035年に先進国80%
    • [184]ハイブリッド車を最終形に含めない点で全方位のトヨタと路線が分かれた
    • [183]三部敏宏氏は電動化をホンダの「第2の創業」と呼んだ
  • 本田技研工業 有価証券報告書 第101期(2025年3月期)【沿革】
    • [185]2021年4月 米国子会社を統合しホンダディベロップメントアンドマニュファクチュアリングオブアメリカへ改称
  • 週刊東洋経済 2025年2月1日号
    • [186]2024年12月23日 日産自動車との経営統合協議の開始で基本合意
    • [187]ホンダが社長と取締役の過半を指名する事実上ホンダ主導の枠組み
    • [188]統合は日産の構造改革(ターンアラウンド)の着実な実行を大前提とした
  • 日本経済新聞(2025年2月13日)
    • [189]協議途上でホンダは株式交換による日産の完全子会社化案を打診
    • [190]規模拡大の論理と対等統合の建前が子会社化案をめぐって衝突した
  • Honda「日産自動車とHondaとの経営統合に向けた検討に関する基本合意書の解約について」(2025年2月13日)
    • [191]2025年2月13日 基本合意書を解約して協議を終了
  • 本田技研工業 決算説明会(2026年3月期第3四半期)
    • [192]貝原典也氏(副社長)がEV市場の大幅な後退と舵取りの必要を述べた(2026年3月期第3四半期決算説明会)
  • 週刊東洋経済 2026年3月28日号
    • [193]2026年3月12日 2026年3月期の連結最終損益が最大6,900億円の赤字になる見通しを発表
    • [194]前期は8,358億円の黒字。最終赤字は1957年の上場以来初
    • [195]EV関連資産の除却・減損や販売中止関連費用として1.3兆円を計上し3車種を開発中止
    • [196]三部敏宏氏は2040年の全面EV・FCV化を達成が困難として事実上修正した
    • [197]三部敏宏氏が複数シナリオでの戦略修正ができなかったと振り返った
  • 週刊東洋経済 2026年5月2日号
    • [198]中国のガソリン車生産拠点4つのうち2つを休止し年産能力を173万台から72万台へ削減
    • [199]2026年3月期から2027年3月期にかけて最大3.2兆円のEV関連損失を計上する見通し

ホンダの沿革1946〜2026年における主な出来事を抜粋

年月社長・CEO出来事重要度
旧軍払下げエンジンから起こした本田技術研究所の創業と、完成車への転身資金も部材も欠く戦後の浜松で、本田宗一郎氏はなぜ有り合わせから始め、部品でなく完成車へ賭けたか 詳細を読む★★★
本田宗一郎本田技研工業創業——旧軍払下げの補助エンジンから始めた戦後二輪国産化浜松の町工場は、いかにして世界一の二輪車メーカーへ向かう最初の一歩を刻んだか 詳細を読む★★★
本田宗一郎藤沢武夫氏が参画★★
本田宗一郎二輪車の製造を開始★★
本田宗一郎二輪車の増産投資★★
本田宗一郎本社を移転
本田宗一郎東京証券取引所に株式上場
本田宗一郎二輪車の北米輸出を積極化★★
本田宗一郎本田技術研究所を分社化★★
本田宗一郎四輪車に本格参入
本田宗一郎アジアホンダモーターを設立
本田宗一郎二輪車の現地生産を開始
本田宗一郎四輪車シビックを発売
本田宗一郎CVCCエンジンの独力開発と石油危機下の四輪シェア逆転特振法の業界再編に乗らず、本田宗一郎はなぜ排出ガス規制を自前の技術で越えようとしたか 詳細を読む★★★
河島喜好創業者2人の同時引退と河島喜好氏への事業承継「本田技研は本田家のものじゃない」——本田宗一郎氏と藤沢武夫氏はなぜ好調のさなかに揃って身を引き、創業一族でない45歳へ会社を託したのか 詳細を読む★★★
河島喜好河島喜好氏が社長に就任
河島喜好日本メーカー初の北米四輪現地生産(HAM設立)日米貿易摩擦が強まるなか、河島喜好社長はなぜ完成車を「輸出」ではなく「現地で作る」道を選んだか 詳細を読む★★★
河島喜好株式をロンドン証券取引所に上場
久米是志本田宗一郎氏・藤沢武夫氏が退任
久米是志HUMを設立・英国での現地生産を開始
久米是志北米統轄会社ホンダノースアメリカを設立
久米是志欧州統轄会社ホンダモーターヨーロッパを設立
川本信彦二輪車・四輪車の現地生産を本格化
川本信彦「規模の論理」に背を向けた単独路線と川本改革世界的な合併・資本提携の波のなか、ホンダ(本田技研工業)はなぜ規模の拡大を拒み、単独で生き残る道を選んだのか 詳細を読む★★★
吉野浩行現地生産を本格化
吉野浩行アラバマに四輪車工場を設立
吉野浩行埼玉製作所・和光工場を閉鎖★★
福井威夫中国事業統轄会社を設立
伊東孝紳国内工場の再編
伊東孝紳埼玉製作所寄居工場が稼働
八郷隆弘タカタ製エアバッグでリコール問題
八郷隆弘狭山工場の閉鎖と寄居工場への国内四輪生産の集約国内市場の縮小と電動化を前に、八郷隆弘社長は1964年以来の四輪拠点をどう畳もうとしたか 詳細を読む★★★
三部敏宏三部敏宏氏が社長に就任
三部敏宏「2040年 四輪EV・FCV100%」宣言による脱エンジンへの転換エンジンで名を成したホンダは、なぜ期限を切って内燃機関からの退場を世界に約束したのか 詳細を読む★★★
三部敏宏英国スウィンドン工場の閉鎖と欧州完成車生産からの全面撤退慢性的な赤字を抱えた欧州の完成車工場を、八郷隆弘社長はなぜ進出から36年で畳んだか 詳細を読む★★★
三部敏宏早期退職優遇制度「ライフシフト・プログラム」と想定の2倍を超えた応募電動化への転換と生産再編を前に、なぜホンダは定年を65歳へ延ばした先で55歳以上に退職を促し、想定の2倍が応じたのか 詳細を読む★★★
三部敏宏日産との経営統合構想への踏み込みと、二カ月弱での協議打ち切り自主独立を貫いてきたホンダは、なぜ規模を求めて日産との統合に動き、なぜ短期間で退いたか 詳細を読む★★★
三部敏宏「2040年脱エンジン」の事実上撤回と上場来初の最終赤字EV全振りを掲げたホンダは、なぜ次世代EVを止め、HVと中国減産へ舵を切り直したのか 詳細を読む★★★
出典・参考
  • 本田技研工業 有価証券報告書 第101期(2025年3月期)【沿革】
  • 本田宗一郎「私の履歴書」(日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人6』日本経済新聞社, 1980 所収)
  • 証券 1957年12月号
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
  • 日本産業史 4(高村寿一・小山博之 編、日経文庫、1994年)年表
  • ダイヤモンド(1968年8月12日)
  • 日本産業史 3(高村寿一・小山博之 編、日経文庫、1994年)
  • 日経ビジネス 1974年4月29日号
  • ホンダの歩み : 1948〜1975
  • 日経ビジネス 1973年9月3日号
  • 日経ビジネス 1977年6月6日号
  • 日経ビジネス 1976年1月5日号
  • 日経ビジネス 1975年3月17日号
  • 日経ビジネス 1990年7月2日号
  • 日経ビジネス 1996年7月22日号
  • 読売新聞(1977年3月5日)
  • 日本経済新聞(1977年9月27日)
  • 日本経済新聞(1980年1月11日)
  • 本田技研・本田技術研究所グループの実態 1993年版(特別調査資料、1993年8月)
  • そしてHondaは翔んだ : ホンダ国際戦略の秘密 本格ドキュメント
  • 日経ビジネス 1987年12月21日号
  • 日経ビジネス 1997年3月17日号
  • 日経ビジネス 2001年1月1日号
  • 日経ビジネス 1995年12月25日号
  • 日経ビジネス 1995年1月30日号
  • 週刊東洋経済 1998年8月8日号
  • 日経ビジネス 1999年1月18日号
  • 日経ビジネス 1999年8月23日号
  • 日本経済新聞(2004年4月28日)
  • 週刊東洋経済 2026年5月2日号
  • 週刊東洋経済 2007年4月28日号
  • 週刊東洋経済 2007年8月4日号
  • 本田技研工業 有価証券報告書(2009年3月期・連結)
  • 日本経済新聞(2018年7月31日)
  • Car Watch(2021年6月16日)
  • 日刊工業新聞(2024年12月20日)
  • ニューズウィーク日本版(2019年2月19日)
  • 日経クロステック(2021年3月26日)
  • レスポンス(2021年3月29日)
  • 東京新聞(2021年7月31日)
  • 日本経済新聞(2020年12月2日)
  • レスポンス(2023年9月14日)
  • ダイヤモンド・オンライン(2022年4月19日)
  • 本田技研工業 有価証券報告書(単体決算・特別損失)
  • MONOist(2021年4月26日)
  • 東洋経済オンライン(2021年7月30日)
  • 週刊東洋経済 2025年2月1日号
  • 日本経済新聞(2025年2月13日)
  • Honda「日産自動車とHondaとの経営統合に向けた検討に関する基本合意書の解約について」(2025年2月13日)
  • 本田技研工業 決算説明会(2026年3月期第3四半期)
  • 週刊東洋経済 2026年3月28日号
  • 日本経済新聞(2026年3月12日)

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