ホンダ(本田技研工業)の歴史

Updated
結果

ホンダ(本田技研工業)の長期業績

1952年〜2024年
売上高
■単体 | ■連結 (単位:億円)
204,288億円
売上収益:2024/3
売上高_当期純利益率
○単体 | ○連結
5.4%
利益率:2024/3
PL

売上高の長期推移

売上高・売上収益ベース(連結優先)| 単位:億円
セグメント売上高
2024/3 | 連結
二輪事業
東南アジアで高シェア
32201億円
四輪事業
日本・北米に注力
135675億円
金融サービス事業
-
32488億円
その他
-
3922億円
PL

税引後利益の長期推移

税引後利益・当期純利益・当期利益ベース(連結優先)| 単位:億円
営業利益
2024/3 | 連結
二輪事業
コスト競争力で高収益
5562億円
四輪事業
-
5606億円
金融サービス事業
-
2739億円
その他
-
-88億円
1946
10月

本田技術研究所を個人創業

本田宗一郎氏について:自動車修理工として技術習得
自動車修理工業を経営・25歳で相当な利益を確保
競合問題に配慮・修理工場から部品製造に業態転換
終戦で撤退・東海精機の株式売却で利益を確保
本田技術研究所を設立(ホンダ創業)

本田宗一郎氏について:自動車修理工として技術習得

ホンダ創業者である本田宗一郎(ほんだ・そういちろう)氏は、明治39年に静岡県磐田にて生まれた。生家は鍛冶屋を営んでおり、本田宗一郎氏は幼少期から機械を見て育ち、地元の精米屋に取り付けられた発動機(エンジン)に興味を抱いたという。小学2年生の時には浜松連隊に飛来した飛行機を見て感激するなど、機械好きな人物であった。このため、将来は機械に関する職業を希望し、自動車修理工場で働くことを考えていたという。

1922年には東京の自動車修理工場であるアート商会(本郷湯島5丁目)に丁稚奉公し、奉公先である家族の子供の子守りといった下働きをしつつ、自動車修理に関する知見を獲得。翌年に関東大震災が発生したことで東京では自動車が急速に普及し、これらの自動車を修理することでエンジンに関する修理ノウハウを習得した。

自動車修理工業を経営・25歳で相当な利益を確保

1928年にはアート商会からの「のれんわけ」によって、本田宗一郎氏(当時22歳)は「アート商会浜松支店」を設立して独立した。浜松では自動車の修理店は珍しく、修理の評判が高まるにつれて業績を拡大。本田宗一郎氏が25歳の頃には、工員50名を抱えつつ、毎月1000円の利益(現在換算約1,000万円)を確保したという。

このため、この頃の本田宗一郎氏は、芸者遊びなどの浪費を重ねて、浜松では若くして豪遊する人物として知られた。

競合問題に配慮・修理工場から部品製造に業態転換

ところが、アート商会浜松支店では、工員による独立の問題に直面した。浜松市内に自動車修理工場が増えて競合することを快く思わず、本田宗一郎氏は修理業から撤退を決定。代わりに、エンジン部品のピストンリングを製造する会社の設立を決め、1938年に東海精機を設立した。

ところが、ピストンリングの製造には鋳物(ダイガスト)に関する技術が必要であったが、本田宗一郎氏は機械職人であり鋳物に関する知識に不足していた。そこで、本田宗一郎氏は遊びを全て辞め、浜松高等工業学校に通って技術を習得しつつ東海精機の経営に従事した。この結果、約9ヶ月間の開発期間を経て、1937年11月にピストンリングの製造に成功した。

ピストンリングの主な販売先はトヨタ自動車であり、この縁から、1942年にはトヨタ自動車の親会社だった豊田自動織機が東海精機の株式40%を取得。戦時中を通じて、トヨタ系の部品メーカーとして、東海精機は自動車向けをはじめ、船舶、航空機向けのピストンリングの製造に従事した。

終戦で撤退・東海精機の株式売却で利益を確保

しかし、戦時中に発生した三河地震で東海精機の工場が被災たことや、終戦によって軍需を喪失したことを受け、1945年に本田宗一郎氏は東海精機の株式を豊田自動織機に売却。トヨタ系列ではなく、独立した事業を創ることを意図した。

株式の売却によって本田宗一郎氏は45万円の現金を確保した。しかし、終戦後は物資の調達が「ヤミ」が中心であり、露呈すれば逮捕される可能性もあった。このため、すぐに次の事業展開をすることはせず「休業」を宣言。自家用合成酒などを作って過ごしたという。

本田技術研究所を設立(ホンダ創業)

終戦直後の1946年10月に本田宗一郎氏が浜松市内にて「本田技術研究所」を創業。終戦によって不要になった軍需用途のエンジン(通信機用エンジン)を仕入れて、自転車向けの付属エンジンとして製造販売をを開始した。

創業の時点では、二輪車の製造には取り掛からずエンジンの生産に特化。終戦後の貴重な移動手段として重宝され、エンジンの販売台数は好調に推移した。

1946年
10月
本田宗一郎氏が本田技術研究所を創業
本田宗一郎氏の経歴
日時 経歴 備考
1906年 生まれ(静岡県磐田郡) 地元鍛冶屋の長男
1922年 アート商会・丁稚奉公 自動車修理工場に勤務(東京)
1928年 アート商会浜松支店・創業 のれん分けで独立
1938年 東海精機重工業・社長 ピストンリング生産
1939年 アート商会浜松支店を譲渡 -
1942年 東海精機重工業・専務 豊田自動織機から出資
1945年 東海精機重工業・退任 豊田自動織機へ株式売却
1948年 本田技術研究所・創業 個人創業
1948年 本田技研工業・社長 法人化により社長就任
1973年 本田技研工業・取締役最高顧問 社長退任
1983年 本田技研・終身最高顧問 取締役を退任
1991年 逝去 84歳にて逝去
証言
本田宗一郎(ホンダ創業者)

オートバイを始めたのは戦後です。戦時中はずっとピストンリングの工場をやっておったんだが、終戦になったので、その会社、東海精機という資本金250万くらいの会社だけれども、その会社の株を全部トヨタへ売った。で、僕は社長を辞めて、その売った金で1年間遊んで暮らしたんですよ。というのは、あの当時のことだから、何をやっていいかわからんし、何か仕事をやると言っても、それが直接ヤミにつながるようになる。そんなことでは、しょうがないからね。だから、思い切って遊んだわけですよ。で、昭和21年に本田技術研究所を設立し、さらに23年に、それを今の本田技研工業株式会社と改めて社長になったんです。(略)

最初は他のものを研究しようと思ったんだけれども、なかなか適当な物がないんだよ。結局、小さい時に自動車の修理工場に奉公した関係もあって、軍で使っていた通信機の小型エンジンがあったので、そのエンジンを自転車に取り付けたわけだ。

出所
参考文献
私の履歴書 経済人 6, 1980/8
経営者の顔, 1963
1948年9月
本田技研工業株式会社を設立

自転車向けエンジンおよび二輪車への本格参入のため、株式会社として「本田技研工業」を設立。本田宗一郎氏が社長に就任

1949年8月
二輪車の製造を開始

ドリーム号の生産を開始。自転車据付型のエンジンメーカーから、オートバイの完成品メーカーに転身

1949年
8月
ドリーム号の製造開始(二輪車完成品)
1952年
5月
カブの製造を開始(自転車据付エンジン)
1958年
スーパーカブの製造開始(二輪車完成品)
1949年8月
藤沢武夫氏が参画

ホンダではモーターバイクの販売が好調に推移していたが、終戦直後の混乱の中で、販売代金の回収業務に苦戦。この時に、当時常務であった竹島氏の紹介により、本田宗一郎氏が藤沢武夫氏と接触した。この邂逅によって、藤沢武夫氏がホンダの経営陣として参画。本田宗一郎氏が「開発・生産」といった技術周りを担当し、藤沢武夫氏が「販売・財務」を担当する分業体制を敷いた。

藤沢武夫氏の参画を機に、ホンダは東京進出を決定。1950年に東京営業所を新設するとともに、東京都北区(十条)に組立工場を設置。消費地である首都圏向けに生産および販売の体制を整えた。また、この頃にメインバンクである三菱銀行(京橋支店)との取引を開始したと推定される。

1949年
藤沢武夫氏が財務担当に就任
1950年
営業所を東京に新設
1950年
十条に組立工場を新設(東京都北区)
証言
本田宗一郎(ホンダ創業者)

実際、本田技研が今みたいに大きくなるなんて、ボクも藤沢もまるで考えてみたこともなかった。せいぜい「いずれは1億くらいの会社にしよう」などと2人で言っていたくらいだから・・・(笑い)。結局、夢なんてものは、あんまりデカすぎると潰れちゃいますよ。やっぱり身分相応のやり方でコツコツやってきて、だんだんと石段を登りつめていくというのが大事なことだと思う。

出所
参考文献
経済知識 (64), 1954/2
1952

二輪車の増産投資

方針
世界一を目指すことを公言
1952年の時点で本田宗一郎氏は「ホンダを世界一にする」目標を設定。経営上の焦点となったのが、高性能な工作機械の導入であった。 従来の日...
投資
資本金6000万円に対して、工作機械4.5億円を発注
【輸入工作機械に設備投資】 1952年に本田宗一郎氏は大規模な設備投資を決定。埼玉県和光および静岡県浜松に二輪車の生産工場を新設するとと...
生産
大和工場を新設(和光製作所)
1952年3月に埼玉県和光市に遊休工場(敷地面積3600坪)を取得。1953年に二輪車の量産拠点として「大和工場(埼玉製作所・和光工場)...
人員
従業員1891名の体制を構築
1953年8月時点でホンダ技研の従業員数は1891名(男性1284名・女性607名)に達した。1949年時点の従業員数は約40名であり、...
財務
借入金の増大で財務体質が悪化
ホンダの方針は、銀行からの借入によって資金調達を行い、その大半を工作機械の購入に充てる(有形固定資産)ものであった。本田の創業期を支援し...
詳細をよむ
1952年
工作機械4.5億円を発注
1953年
2月
自己資本比率が低下
1953年
5月
大和工場を新設(埼玉製作所和光工場)
1954年
5月
浜松製作所葵工場を新設(浜松製作所)
1957年
12月
東京証券取引所に株式上場
1957年12月
東京証券取引所に株式上場

1955年の経済不況期を乗り切ると、ホンダは再び増収増益基調に回帰した。主に農村における好景気が需要の牽引役となり、ホンダの二輪車の販売を押し上げた。

この結果、1957年にホンダは東京証券取引所に株式上場を実施。資金調達によって懸案だった自己資本比率を改善した。

1957年
12月
東京証券取引所に株式上場
1977年
2月
ニューヨーク証券取引所に上場(ADR)
業績
ホンダ(本田技研工業) | 1958年2月期(単体)
売上高
98
億円
当期純利益
5.06
億円
従業員数
2438
1959年6月
二輪車の北米輸出を積極化

二輪車の北米輸出を本格化

1959年6月にホンダは北米に販売現地法人を設立し、二輪車の北米輸出を本格化した。量産によるコストダウンを志向するために、1960年に鈴鹿製作所を新設した。

国内シェアトップを確保

鈴鹿製作所の稼働によって二輪車の量産体制を確立。ホンダは二輪車において国内シェアトップを確保した。

1958年
スーパーカブの製造開始
1959年
6月
北米現地法人を設立(二輪車輸出)
1960年
5月
鈴鹿製作所を新設
1962年
2月
売上高500億円を突破。利益率10%を確保
1963年6月
四輪車に本格参入
1963年
6月
四輪車軽トラックT360を発売
1963年
6月
四輪車スポーツカーS500を発売
1964年
11月
狭山製作所を新設(四輪車製造)
1967年
3月
ホンダN360の製造開始
1970年
9月
真岡工場を新設(四輪車部品)
1990年
6月
栃木工場を新設
ホンダ生産拠点(1975年2月末時点)
工場名 従業員数 投下資本 生産品目 稼働年
埼玉製作所和光工場 1717名 126億円 エンジン 1953年
埼玉製作所狭山工場 3116名 179億円 四輪車専門 1964年
浜松製作所 3050名 65億円 二輪車・汎用機 1954年
鈴鹿製作所 7330名 265億円 二輪車・四輪車 1961年
1965年
東南アジアで二輪車の現地生産を開始
1965年
タイに現地生産法人を設立
1975年
ブラジルに現地生産法人を設立
1984年
インドに現地生産法人を設立
1972年7月
低公害エンジン「CVCC」の開発を発表

燃費性能の良いCVCCを搭載したシビックが、国内および北米市場でヒット。四輪車では最後発だったが、1977年までに国内3位メーカーに浮上(1位トヨタ・2位日産・3位ホンダ)

1972年
低公害エンジン「CVCC」の開発を発表
1973年
12月
シビックにCVCCエンジンを搭載
1975年
シビックにCVCCの北米輸出を開始
1975年
米国でマスキー法が施行
業績
ホンダ(本田技研工業) | 1973年2月期(単体)
売上高
3276
億円
当期純利益
125
億円
従業員数
18297
1972年7月
四輪車シビックを発売
1972年
7月
四輪車シビックを発売
1972年
7月
シビックシリーズの生産累計100万台を突破
1976年
四輪車アコードを発売
1976年
四輪車アコードを発売
1980年
アコードの生産累計100万台を突破
1976年
熊本製作所を新設

二輪車の海外輸出拠点として熊本製作所を新設

業績
ホンダ(本田技研工業) | 1977年2月期(単体)
売上高
6686
億円
当期純利益
155
億円
1978
3月

HAMを設立・米国での現地生産を開始

日米貿易摩擦の深刻化
二輪車の現地生産を決断・オハイオ州にHAMを設立
四輪車の現地生産を決断
四輪車の生産を拡大・巨額投資で米国事業を拡大

日米貿易摩擦の深刻化

1970年代を通じて日米貿易摩擦が深刻化し、二輪車および四輪車においても日本車の北米輸出が政治問題に発展しつつあった。

そこでホンダの社内で若手の有志が集まって、1974年から「生産拠点の世界戦略」に関する勉強会を開始。現地生産の検討を本格化していた。

二輪車の現地生産を決断・オハイオ州にHAMを設立

1977年にホンダは北米における二輪車の現地生産を決定。進出予定地である米国オハイオ州と誘致協定に調印し、二輪車生産のための工場の建設に着手。1978年3月に現地生産法人としてHonda Of America Manufacturing(HAM)を設立。約1年間の工場建設を経て、1979年9月にオハイオ工場(Marysville Plant)において二輪車の現地生産を開始した。

稼働当初の生産車種はオフロードタイプ「CR250」であった。

四輪車の現地生産を決断

1980年1月にホンダは日本の乗用車メーカーとしては初となる米国における現地生産を決定。すでに二輪車の生産拠点だったオハイオ工場(Marysville Plant)を拡張し、1982年11月から四輪車の現地生産を開始した。稼働当初の生産車種は「アコード(4ドアセダン)」であり、1986年からはシビックの現地生産を開始して合計2車種を主力した。

現地生産の開始にあたって、エンジンおよびトランスミッションなどの基幹部品は日本から輸入しつつ、現地工場ではボディやプレスなどを内製。協力工場として日系の自動車部品メーカーの現地工場から部品を調達するなど、ホンダのサプライヤーの海外進出による支援を受けつつ、現地生産の調達体制を整えた。1986年9月にはエンジン工場(Annna Engine Plant)を増設し、現地生産体制を徐々に拡充した。

四輪車の生産を拡大・巨額投資で米国事業を拡大

1980年代を通じてホンダはオハイオ州において四輪車の増産投資を実施。最初の進出拠点(Marysville Plant)では1989年までにラインを増設し、年産36万台の生産体制をとった。

1989年12月にはオハイオ州に新工場(East Liberty Auto Plant)の稼働を開始し、四輪車の増産を実現。シビックセダンおよびクーぺの生産を行い、1993年までに年産15万台の生産体制を確立した。この結果、ホンダはオハイオ州の2工場において完成車生産の量産に従事し、アコードおよびシビックの生産に注力。1992年度における北米の現地生産台数は累計45万台(うちアコード35万台 + シビック10万台)に達した。

1978年の現地法人設立から、1992年ごろまでの累計投資額は約25.7億ドル(推定)であり、ホンダとしては社運を賭けた現地生産であった。

1974年
生産拠点の世界戦略を社内で検討
1977年
10月
オハイオ州への工場進出を決定
1978年
3月
Honda Of America Manufacturing(HAM)を設立
1979年
9月
オハイオ(Marysville)で二輪車の生産を開始
1980年
1月
四輪車の現地生産を決定
1982年
11月
オハイオ(Marysville)で四輪車の第1ラインを稼働
1985年
7月
二輪車エンジンの製造開始(Annna Engine Plant)
1986年
オハイオ(Marysville)で四輪車の第2ラインを稼働
1986年
9月
四輪車エンジンの製造開始(Annna Engine Plant)
HAMの生産概況(1993年時点・オハイオ州)
工場名称 稼働年 年産台数 投資額 従業員数 生産品目
Marysville Auto Plant 1982年 36万台 13億ドル 5,300名 四輪車(アコード等)
Marysville Motocycle Plant 1979年 6万台 0.9億ドル 400名 二輪車
East Liberty Auto Plant 1989年 15万台 5.1億ドル 1,800名 四輪車(シビック等)
Annna Engine Plant 1985年 50万基 6.7億ドル 2,000名 エンジン等部品
出所:本田技研・本田技術研究所グループの実態 1993年版 (特別調査資料) | 1993/8
業績
ホンダ(本田技研工業) | 1979年2月期(単体)
売上高
9222
億円
当期純利益
160
億円
出所
参考文献
そしてHondaは翔んだ : ホンダ国際戦略の秘密 本格ドキュメント, 1986
本田技研・本田技術研究所グループの実態 1993年版 (特別調査資料), 1983/8
1979年
HY戦争(二輪車の国内価格競争)

ホンダの北米進出を見たヤマハ発動機が、競合の手薄になると判断して価格競争を開始。だが、ホンダは競合のヤマハと国内で熾烈な価格競争を展開して対抗。BCGからコンサルティグを受けつつ、ヤマハ発動機を殲滅(同社を赤字転落)した

業績
ホンダ(本田技研工業) | 1980年2月期(単体)
売上高
10694
億円
当期純利益
236
億円
1983年
本田宗一郎氏・藤沢武夫氏が退任

創業者の本田宗一郎氏(当時78歳)と、財務を支えてきた藤沢武夫氏(当時75歳)が、ともに同じタイミングでホンダの取締役を退任。経営は後任に任せて、ホンダの経営から退いた

業績
ホンダ(本田技研工業) | 1984年2月期(単体)
売上高
18460
億円
当期純利益
245
億円
1985年2月
HUMを設立・英国での現地生産を開始

ホンダは貿易摩擦の深刻化を考慮して、欧州での乗用車の現地生産を決定。1985年に英国にHonda of the U.K. Manufacturing(HUM)を設立し、現地生産の準備を開始した。工場用地について、熟練工が多い地域として知られたスウィンドンに決定して敷地を確保した。

1989年にスウィンドン工場を竣工し、英国における現地生産を開始した。まずはエンジンの生産を開始し、1992年から完成車として「アコード」の生産を開始した。

1985年
2月
Honda of the U.K. Manufacturingを設立(HUM)
1989年
8月
英スウィンドン工場でエンジン生産を開始
1992年
英スウィンドン工場で完成車の生産を開始
2006年
英スウィンドン工場で増産決定
増産後の年産台数 25 万台
2021年
7月
英スウィンドン工場を閉鎖
解雇予定数 3500
業績
ホンダ(本田技研工業) | 1985年2月期(単体)
売上高
19295
億円
当期純利益
326
億円
1992年3月
東南アジアで二輪車および四輪車の現地生産を本格化

アジアでの現地生産を本格化。日本・北米・欧州・アジアのグローバル生産体制へ

1992年
3月
タイに現地生産法人を新設(四輪車)
1997年
ベトナムに現地生産法人を設立(二輪車)
2001年
中国に現地生産法人を設立(二輪車)
2001年
インドネシアに現地生産法人を設立(二輪車)
業績
ホンダ(本田技研工業) | 1992年3月期(連結)
売上高
43918
億円
当期純利益
648
億円
1998年5月
中国での現地生産を本格化
1998年
5月
中国で現地生産の合弁会社「広汽本田汽車」を新設
2003年
7月
中国で現地生産の合弁会社「東風本田汽車」を新設
2006年
9月
広汽本田第2工場を稼働
24 万台/年
2012年
7月
東風本田第2工場を稼働
24 万台/年
2015年
9月
広汽本田第3工場を稼働
12 万台/年
2015年
中国で年産100万台体制
101 万台/年
2002年6月
埼玉製作所・和光工場を閉鎖

旧大和工場(1953年新設)の閉鎖を決定。周辺地域の宅地化が進行して拡張が困難であった。工場跡地は「Honda和光ビル」として活用

業績
ホンダ(本田技研工業) | 2003年3月期(連結)
売上高
79714
億円
当期純利益
4266
億円
2009年9月
国内工場の再編
2009年
9月
埼玉製作所・小川工場を新設(エンジン)
2013年
7月
埼玉製作所・寄居工場を新設(完成車)
25 万台/年
2016年3月
タカタ製エアバッグでリコール問題
2015年
3月
品質保証引当金を繰入
繰入額 1200 億円
2016年
3月
品質保証引当金を繰入
繰入額 4360 億円
2017
10月

狭山工場の閉鎖発表

国内での販売台数低下を受けて狭山工場を閉鎖
狭山工場の段階的な閉鎖

国内での販売台数低下を受けて狭山工場を閉鎖

2017年10月にホンダは四輪車の製造拠点である埼玉製作所狭山工場(年産25万台)について、2021年度内に四輪車の生産を中止する方針を発表。狭山工場は1964年に新設された拠点であり、ホンダが四輪車の量産拠点として初めて設置した工場であった。操業時における主力生産車種は「アコード」「シビック」であり、ホンダの四輪事業の参入期を支えた主力工場であった。閉鎖発表時点では「オデッセイ」を中心に多様な車種を生産していた。

ホンダの狙いは国内における乗用車の生産台数を「年産約106万台」から「年産約81万台」に下方修正することにあった。日本国内での四輪車の販売台数が伸び悩んでいることから、各工場における稼働率を維持するため、国内における生産拠点の再編を決定。このうち、四輪車生産拠点としては最も歴史が長い狭山工場の閉鎖を決定し、年産ベースで約25万台を減産した。

なお、狭山工場における完成車の生産については、2013年に新設した寄居工場に集約する形をとった。このため、狭山工場における社員は、寄居工場などに配置転換されたと推定されるが、減産を伴う移管であり余剰人員が発生したと推定される。

狭山工場の段階的な閉鎖

2021年度にホンダは狭山工場における四輪車の生産を停止し、寄居工場に生産を移管。狭山工場ではエンジン・プレス部品などの生産に従事したのち、2023年度までにこれらの部品生産についても寄居工場への移管を実施した。

狭山工場では完成車および部品の全ての生産活動を終了し、2024年6月に工場を閉鎖した。狭山工場の新設稼働から、約60年に及ぶ歴史に終止符を打った。

1964年
11月
狭山製作所を新設
2018年
7月
狭山工場の閉鎖を発表
2021年
狭山工場で完成車の生産を停止(部品生産のみ存続)
2024年
6月
狭山工場の閉鎖
業績
ホンダ(本田技研工業) | 2018年3月期(連結)
売上収益
153611
億円
当期利益
10593
億円
出所
参考文献
ニュースイッチ:ホンダ社長が1年半あまりで前言撤回、「過去にない大転換期」, 2017/10/5
2021年6月
真岡工場の閉鎖発表(2025年閉鎖予定)
2021
7月

欧州での現地生産から撤退(英国工場を閉鎖)

欧州による四輪車の販売低迷で工場稼働率が低下
イギリスによるEU離脱
英国の現地生産から撤退・スウィンドン工場を閉鎖

欧州による四輪車の販売低迷で工場稼働率が低下

1985年の英国における現地生産の開始(スウィンドン工場の稼働)から約30年が経過した2010年代の時点で、欧州における四輪車の販売シェアでホンダは1%未満という厳しい状況にあった。

英国工場における生産台数のキャパシティは年間25万台であったが、フル稼働には至らず、実際の稼働ベースでは16万台(シビックを生産)に低迷。加えて生産台数のうち約60%を北米・日本に輸出する状況であり、欧州での販売拡大を意図した英国の現地生産は厳しい状況にあった。

イギリスによるEU離脱

英スウィンドン工場は北米および日本への完成車の輸出によって稼働率を維持していたが、2016年ごろからイギリス政府がEUの離脱を検討。輸出面における採算が悪化することが予想された。

ただし、ホンダとしては、英国のEU離脱という政治決定と、英国での生産縮小(英スウィンドン工場閉鎖)は無関係としている。

英国の現地生産から撤退・スウィンドン工場を閉鎖

このため、欧州における四輪車の販売不振を受けて、2010年代から2021年にかけてホンダは英国の生産拠点である「スウィンドン工場」の段階的な閉鎖を実施した。

スウィンドン工場はホンダにおける欧州(英国)における四輪車の現地生産工場であり、1985年に欧州での現地生産を開始した最初の工場であった。このため、スウィンドン工場の閉鎖は、ホンダによる欧州での現地生産からの撤退を意味した。

2014年に工場の生産ライン1本を休止し、2019年には工場閉鎖の方針を決定。2021年7月30日にスウィンドン工場を閉鎖し、約3500名の従業員を解雇した。

2014年
英スウィンドン工場のラインを1本休止
2019年
2月
英スウィンドン工場の閉鎖を決定
解雇予定数 3500
2021年
7月
英スウィンドン工場を閉鎖
業績
ホンダ(本田技研工業) | 2022年3月期(連結)
売上収益
145526
億円
当期利益
7070
億円
従業員数
204035
営業CF
16796
億円
投資CF
16796
億円
財務CF
-3760
億円
出所
参考文献
DIAMOND Online:ホンダの英国工場閉鎖は歴代経営者による「人災」だ, 2019/2/27
日経新聞:ホンダ、英工場閉鎖へ 2022年までに, 2019/2/19
日経新聞:ホンダ、「鬼門」の欧州 シェア1%の壁厚く
日経新聞:ホンダ、英国工場を閉鎖 過剰生産解消へ, 2021/7/30
2021
8月

早期退職優遇制度を実施

55歳以上の正社員に対してライフシフトプログラムを提示
退職特別加算金として428億円を計上へ

55歳以上の正社員に対してライフシフトプログラムを提示

2021年7月にホンダは一時的な早期退職の措置として「ライフシフトプログラム」を制定し、55歳以上の社員に対して退職時の割増退職金を提示。国内のホンダ本社を含む退職優遇措置であった。

当初は1000名の募集予定であったが、最終的に約2000名〜約3000名が早期退職優遇制度に応募してホンダを退職したと言われている。退職パッケージの内容は、55歳でLSPを利用した場合は「年収3年分」が退職金に加えてさらに加算される手厚いものであった。

早期退職優遇制度は約2年間にわたって実施され、退職者の募集が一巡したことを受けて、2023年9月に廃止された。

退職特別加算金として428億円を計上へ

早期退職優遇制度の実施を受けて、ホンダ(単体決算)は特別損失として退職特別加算金を計上。2022年3月期に360億円、2023年3月期に68億円をそれぞれ計上し、退職特別加算金として累計428億円を計上した。

2021年
7月
ライフシフトプログラムを制定(早期退職優遇制度)
2022年
3月
退職特別加算金を損失計上
退職特別加算金 360 億円
2023年
3月
退職特別加算金を損失計上
退職特別加算金 68 億円
2023年
9月
ライフシフトプログラムの廃止
業績
ホンダ(本田技研工業) | 2022年3月期(連結)
売上収益
145526
億円
当期利益
7070
億円
従業員数
204035
営業CF
16796
億円
投資CF
16796
億円
財務CF
-3760
億円
出所
参考文献
東洋経済ONLINE, 2023/2/24
2023年3月
四輪車事業で営業赤字

北米におけるリコール損失(リアビューモニター用ケーブルに関する品質問題)の計上で、FY2022における四輪車事業について166億円の営業損失を計上した

業績
ホンダ(本田技研工業) | 2023年3月期(連結)
売上収益
169077
億円
当期利益
6514
億円
従業員数
197039
営業CF
21290
億円
投資CF
21290
億円
財務CF
-6780
億円
2024
12月

ホンダ・日産自動車・三菱自動車の3社が経営統合を協議

経営統合の協議を開始
ホンダが1.1兆円の自社株買いへ

経営統合の協議を開始

2024年12月23日にホンダ・日産自動車・三菱自動車の3社は、経営統合を目指す協議を開始したことを発表。共同持株会社を設立し、ホンダが経営の統括会社の主導権を握る構想した。すでに12月18日に経営統合に関する動きがメディアにリークされていたこともあり正式発表に至った。

経営統合に至る背景は、国内における四輪車の販売台数の低迷の一方で、EV/HEV/PHEVに対応するための研究開発コストの増大を、単独の完成車メーカー1社で対応することが難しいことが理由であった。このため、3社を統合することで、競争力を維持することを目的とした。

ホンダが1.1兆円の自社株買いへ

協議の公表とともに、ホンダは1.1兆円(発行済み株式数の23%に相当)の自社株買いの実施を公表。ホンダとしては現在の株価水準を割安と判断し、経営統合によって「企業価値が向上すること」を意図したと推定される。

出所
参考文献
本田技研:適時開示, 2024/12/23
東洋経済ONLINE:ホンダの「救済統合」否定で日産が問われる覚悟, 2024/12/25
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