自転車向けの発電ランプの量産を本格化(生産合理化によりコスト競争力を確保。競合17社を圧倒したと推定)

自転車向けの発電ランプの量産を本格化(生産合理化によりコスト競争力を確保。競合17社を圧倒したと推定)
資本金2000万円で設立
大阪府大東市に住道工場を新設(旧松下飛行機の拠点)。当初はラジオを製造
洗濯機の製造拠点として新設。洗濯機専門工場として稼働することで生産効率の向上を目指す
「プラスチックラジオ52型」の製造を開始。住道工場にて生産
ラジオ受信機及びテレビ受像機に関する特許実施権契約を締結。1953年から住道工場で白黒テレビの製造を開始。ただしブラウン管は内製化できず、テレビの組み立てに特化
滋賀工場にて生産。競合メーカーが手掛けていない「噴流式」の技術を選択。当時主流だった「丸型攪拌式の洗濯機」と比較して、噴流式のメリットとして「生地が痛まないこと」「内部構造が単純であること」「角型で置き場所を有効活用できること」「強い水流で汚れが落ちること」があった。
業績好調により株式上場を達成。1953年11期における半期売上高は24億円。売上構成比率は発電ランプ43%及びラジオ38%。家電事業はまだ発展途上にあった。
1954年度の納税において、井植歳男氏は1.1億円(当時換算)の所得を申告し、国内で所得1位となった。収益源は三洋電機の株式上場にあたって、株式の一部を売却したことによる利益であった。創業数年のベンチャー企業の経営者が所得トップなったことで、国内で話題になる
ウェスタンエレクトリック社との技術提携で、ソニーが独占していたトランジスタラジオの市場に参入(※ソニーもWEと技術提携していたが、三洋電機よりも早く技術提携を行っていた)。米国向けのOEMでトランジスタの輸出を拡大
冷蔵庫・コタツ・電気釜・アイロンの生産拠点として稼働
1950年代を通じて三洋電機は洗濯機の販売好調によって売上高を拡大した。
1959年の時点で三洋電機は国内における洗濯機の生産量でシェア1位を確保した(1961年時点でシェア約20%・生産量・生産額かは不明。出所:1961/12野田経済)。販売面では「サンヨー夫人」による広告宣伝への積極投資がシェア確保に貢献
関西における各工場で給与待遇の改善を求めるストライキが発生し、労働組合と経営陣の関係が悪化。そこで、労使関係のリセットを兼ねて、家電メーカーの生産拠点が手薄であった関東に進出すべく、群馬県(旧中島飛行機の工場跡地)に生産子会社を設立した。生産品目はテレビ・トランジスタを計画した
先発のソニーを差し押さえて、1961年に三洋電機はトランジスタラジオの輸出量でトップとなった。ただし、三洋電機はOEMによる北米輸出が主体であった。(つまり、利益率はソニーよりも低かったと推察される)
井植歳男氏の実家が淡路島であったという縁で、地元に工場を新設。ニッケルカドミウム電池の製造を開始
三種の神器としての家電(白黒テレビ・洗濯機・冷蔵庫)の需要が一巡したことに加えて、1965年の証券不況によって三洋電機の売上成長がストップした。そこで、三洋電機は次の成長商品として「カラーテレビ」に注力する方向を決め、北米輸出に活路を見出した。
三洋電機はカラーテレビの量産工場として岐阜工場を新設。稼働時は月産2万台体制。北米向け輸出の製造拠点として稼働した
ヨーロッパにおける家電の販売統轄会社と推察
カラーテレビの輸出好調により、半期売上高ベースで1965年11月期(半期売上高354億円)から1969年11月期(半期売上高1126億円)にかけて連続増収を達成。
三洋電機をはじめ、松下電器・東芝・ソニー・日立・シャープの各社は、カラーテレビの北米輸出を積極化した。これに対して、米国の政治家は「米国内の雇用を奪う」として反発し、日米のダンピング問題(カラーテレビの貿易摩擦)に発展した。三洋電機はダンピング問題に対処するためカラーテレビの30%減産を決定した
1970年12月のニクソンショックにより円高ドル安が進行。カラーテレビの輸出に頼っていた三洋電機の業績を直撃した。
前年に買収したテレビ工場を母体に、北米に現地法人を設立。井植敏氏は、当時アンカーソン州の政治家だったクリントン氏(のちの合衆国大統領)と知遇を得た。この関係性により、のちに三洋電機はクリントン氏から「ウォルマート」を顧客として紹介された。
1975年頃に三洋電機は米国の大手小売業のシアーズ向けに、カラーテレビの大量納入を実施した。この取引を契機に、三洋電機は「現地生産・現地販売」という円高ドル安の為替リスクに左右されない企業体質を確保
米ウォーイック社のテレビ工場(アンカーソン州)を買収。北米におけるテレビの現地生産を開始し、貿易摩擦の回避を目論んだ
井植敏氏は創業者である井植歳男氏の長男。井植家は既に三洋電機の株式を数%保有するのみと推察され、株主資本の裏づけなき同族敬意を持続した。なお、井植敏氏は1992年に社長を退任して会長に就任するが、引き続きCEOとして影響力保持。三洋電機の経営が行き詰まる2007年ごろまで経営に関与した
1985年のプラザ合意による円高ドル安の進行で業績が低迷。特に、国内に点在する音響機器の工場の国際競争力が低下し、全社ベースで営業赤字に転落
1980年代後半に三洋電機はシアーズからの取引停止を受けて北米工場の閉鎖の危機に陥ったが、なんとかウォルマートとの取引に成功。仲介者はクリントン合衆国大統領であった。以後、ウォルマートの業容拡大とともにカラーテレビの販売を拡大。2002年には北米におけるカラーテレビの台数でシェアNo.1を達成
液晶パネルに本格参入
1990年ごろから三洋電機は二次電池(ソフトエナジー事業本部)に対する設備投資を積極化し、拠点である淡路島の洲本工場への投資を実施した。投資は数年にわたって実施され、累計660億円を投じた。この結果、電池事業は三洋電機の収益源となった。1991年度の電池事業は利益ベースで80〜100億円を確保しており、三洋電機の全社利益の80%を占めていたと言われる
家電に変調した事業構成を見直し、新事業開発のために社内分社制を導入(※実際に分社するわけではなく事業部制の延長)。全社研究プロジェクトを事業部横断で組成する体制をとった。また付加価値が高くてシェアを確保できる「トップステージ商品」に投資を集中する方針を示した
TFT液晶工場を新設。液晶パネルへの集中投資を開始し、2003年までに総額2000億円を投資
普及しつつあったコンパクトデジタルカメラに参入。三洋ブランドとOEMの両輪で展開。2001年に生産シェアで世界1位(40%)を確保
900億円の投資計画を発表して液晶パネルの量産を目指した。だが、国内ではシャープ、海外では韓国メーカーによる液晶パネルの量産競争に巻き込まれ、三洋電機は競争劣位へ
液晶パネルの設備投資競争で劣勢に陥ったため、有機ELへの投資を決定
ハイアール製品を国内で売り、三洋製品を中国でハイアールを通じて売る狙いを表明
2000年前後にソニーやパナソニックが巨額赤字を計上する一方、携帯電話・リチウムイオン二次電池・半導体・デジタルカメラ(OEM生産)が好調な三洋電機の健闘に注目が集まった。2002年10月14日号の日経ビジネスは「日本の製造業が目指すべきお手本がここにある」と言及し、三洋電機を「三洋電機の箱舟経営」と題して特集した
業績不振に陥った鳥取三洋電機の液晶パネル工場を、セイコーエプソンとの合弁会社に移行
半導体事業について、ITバブル崩壊による業績悪化に加えて、新潟県中越地震の発生で半導体工場が被災。特別損失を計上して全社業績で最終赤字に転落
元NHKキャスターの野中ともよ氏が三洋電機の社長に就任(2002年に三洋電機の社外取締役に就任)。謎の社長人事として、金融機関を中心に、経営経験に乏しい野中氏に対する批判が沸き起こった。また、週刊誌の報道によれば、野中氏の夫が経営するコンサルティング会社が三洋電機と契約を締結したとされ、利益相反として問題視された。このため、2007年に野中氏は代表取締役を辞任した
FY2005において特別損失を計上する方針が濃厚となり財務体質が悪化。ゴールドマンサックス、大和証券SMBC、三井住友銀行が三洋電機の増資を引き受け。三洋電機は3000億円を調達し、財務体質の改善を急いだ。なお、優先株を普通株に転換すると、発行済み株式の70%が金融機関3社が握る形になる
ゴールドマンサックスなどの増資を引き受けた金融機関は三洋電機の経営を問題視。井植敏雅氏を社長から解任。井植一族を経営から追放し、三洋電機の解体に進んだ。後任に佐野精一郎氏が三洋電機の社長に就任。
パナソニックはゴールドマンサックスなどと交渉し、三洋電機の買収を画策。競争力のある電池事業の取り込みが狙いであった
三洋電機を救済する形で、パナソニックが吸収合併。その後、三洋電機は事業の解体や、拠点売却に進む