自転車ランプの創業からパナソニック買収まで
井植歳男氏は松下幸之助氏の妻の弟にあたり[1]、1917年から松下電器に約29年在籍して専務を務めた。戦後の連合国軍総司令部による財閥解体で公職追放の対象となり[2]、松下電器からの独立を決めた。1947年1月、大阪府守口で三洋電機製作所を個人経営で創業[3]し、松下から譲り受けた兵庫県の北条工場で自転車用発電ランプと携帯ランプの製造に着手[4]した。社名の"三洋"は太平洋・大西洋・印度洋の三つの大洋になぞらえ[5]、海外市場を視野に置いた命名である。『終戦後、今の仕事が将来、有望であることはわかっていましたが、さらに大事なことは陸海軍というものがなくなって、日本の国力を回復充実するには、産業を復興する以外にない』(ダイヤモンド 1956/09/04)——井植氏が挙げた独立の動機である。掲げた経営理念は『情勢の変化に備えて経営の危険を分散し、事業をより安定させる』("企業の歴史 明治百年"経済春秋社, 1968)だった。
国内17社目のランプメーカーとしての後発参入ながら、松下電器で培った量産の手法を移し、1950年に自転車ランプの国内シェア約70%[6]を握った。同年4月に資本金2000万円で法人化[7]し、1954年4月に大阪証券取引所へ株式を上場、同年12月には東京証券取引所にも上場[8]した。国内では義兄の松下電器との正面競合を避け、輸出に活路を求める[9]方針を早期に打ち出している。1949年から東南アジアへ発電ランプの輸出を始め[10]、その後数年で輸出先は世界各地へ広がった。身内の会社と競わない方針[11]が、逆説的に海外志向を育てる土壌になった。『家庭婦人を家事の重労働から解放するため、電気洗濯機を1台2.5万円程度で売ってあげるような時代の到来』という井植氏の言葉には、松下とは異なる製品哲学の輪郭が現れている。
1951年にラジオの生産を開始[12]し、積水化学工業と組んで翌1952年に国内初のプラスチック製ラジオ"SF-52"を発売[13]した。当時のラジオには30%の物品税が課され、税の分だけ安いアマチュアの組立品が市場に出回っていた[14]。量産による品質と価格でこれに対抗し、1952年に1万円を割ったプラスチック・キャビネットのラジオ[15]を送り出している。1953年に洗濯機事業への参入を決め[16]、約1年の開発期間と数千万円を投じて攪拌式の試作に成功したが、英国フーバー社の噴流式のほうが日本の手狭な住環境に適すると判断[17]して方針を転換した。競合各社が特許リスクを恐れて参入を躊躇するなか、国内で噴流式の特許が成立しない点を見切り[18]、量産化に踏み切っている。
1953年8月、国内初の噴流式洗濯機を競合の約半額にあたる2万8000円で発売[19]した。月産30台という立ち上がりから1年余りで月産1万台へ拡大[20]し、1961年には洗濯機の国内生産量で首位を確保している。井植氏の評伝は『この噴流式洗濯機の登場が、桃太郎の昔から代表的な主婦労働だった洗濯から女性を解放した』と記し、自社製品が戦後日本の家事のあり方を変えたと位置づけている。1958年の時点でも『家庭電化はまだ緒についたばかりで開花期はこれからですよ』と述べ、家電普及の伸びしろを強気に見積もっている。創業6年で主力製品を市場の標準仕様へ押し上げた経験[21]が、以後の新分野への投資意欲を支えた。
ラジオと洗濯機の成功を足がかりに、同社は家電の品目を広げた[22]。1953年にはテレビとミキサーの生産にも着手し、後年この年は"電化元年"と呼ばれている[23]。量産を支える拠点も相次いで立ち上げ、1950年9月に住道工場、同年12月に滋賀工場[24]、1957年4月に淀川工場を新設した。守口の本社工場に加えて関西一円へ生産拠点を配置し、量産の効果を製品価格へ反映させた。いずれの製品も松下電器との直接競合を避け、価格と販路の工夫で独自の顧客層を掴んだ[25]。義兄の会社との棲み分けを前提に自社の強みが生きる領域を選ぶ姿[26]は、後続のテレビ・空調の展開にも引き継がれた。
1950年代半ばに洗濯機や冷蔵庫の国産化が一段落し、いわゆる三種の神器が一般家庭にも普及し始めた[27]。需要のピークが近づくなかで、同社は次の成長領域として映像機器へ主力を移す準備[28]に入っている。井植歳男氏は1958年に『わが社がテレビ、ラジオ、扇風機など増産に次ぐ増産をしているのに、全部が品切れという有様です』と述べ、増産が受注に追いつかない状況を明かした。大阪での創業から約15年、家電メーカーとしての一応の完成形を手にした段階で次の柱を仕込む二段構え[29]が、この時期に表れている。洗濯機での成功体験が次の挑戦を誘発し、映像機器への本格参入を前にした地ならしが進んだ[30]。
1960年代初頭には三種の神器の需要が一巡し、1965年の証券不況も重なって国内売上の伸びが止まった[31]。同社はカラーテレビの北米輸出に活路を求め、半期売上高は1965年の350億円規模から1969年に1100億円規模へと4年で約3倍に伸ばしている。1969年4月にカラーテレビの量産拠点として岐阜工場を新設し、月産2万台の体制を敷く計画[32]だったが、立ち上がりは遅れた。井植薫氏は『新鋭岐阜工場の完成が用地買収のゴタゴタで約1年遅れてしまった。このため大型カラーブームに乗り切れなかった』と振り返っている。日本の家電各社が一斉に北米市場へ殺到した結果、貿易摩擦はダンピング問題へ発展し、同社は米政府当局の介入で約3割の減産を受け入れた。輸出偏重のモデルと国内設備投資の遅れ[33]が、同時に表へ出た。
1958年にはストライキが起き[34]、販売の機会損失30億円・直接損害約10億円という創業以来最大の打撃を受けた。急成長の裏で工場の従業員管理が手薄になっていた反省から、1959年7月に東京三洋電機を別法人として設立[35]している。群馬県大泉町の旧中島飛行機跡地を選んだのは、関西よりも約3割安い人件費[36]を見込めたためだった。1969年7月に創業者の井植歳男氏が逝去[37]し、以後は井植家による同族経営の体制が引き継がれた。1977年の時点で『株価でも松下電器やソニーには遠く及ばないのはもちろん、シャープなどをもはるかに下回る。これは売り上げは伸びているものの、決め手になるヒット商品がないからだ』と評され、売上規模の拡大とブランド力の弱さが並行していた。
貿易摩擦の深刻化で輸出だけに頼るモデルの限界が表に出るなか、最大顧客の米シアーズから合弁子会社ウォーイック社の経営再建を打診された[38]。再建を断れば最大の販路を失いかねず、技術支援のつもりの関与は資産の買収へ発展する[39]。1976年9月にサンヨー・マニュファクチャリング・コーポレーションを設立[40]し、ウォーイック社を31億円余で取得[41]して、アーカンソー州でカラーテレビの現地生産を開始した。1980年には年産96万台に達し、松下電器やソニーを上回って日本企業では最大規模[42]の北米現地生産となった。1981年の時点で井植薫氏は『今年度の海外生産予定を前年度比ほぼ20%増の17億ドルとするが、円高が進行するなら海外生産をさらに強化し採算の維持、向上を図る』と述べ、為替に応じて海外生産比率を引き上げる構えを示している。
買収時に400名だった従業員はやがて1800名まで増え[43]、アーカンソー州知事からの表彰も受けた。シアーズブランドのOEM供給を軸に黒字化を果たし[44]、破綻寸前だったウォーイック社の再建に成功している。1982年2月には英フィリップス社の英国テレビ工場を取得[45]し、北米に続いて欧州でも現地生産に着手した。中国へも早くから入った。1984年には上海市との冷蔵庫のプラント輸出・技術援助契約に加え、広東省でのエアコン・カラーテレビ合弁2社を含む計17件の対中事業[46]を抱えるに至った。
北米での現地生産を足がかりに、国内では1970年代後半から1980年代前半にかけて空調機器、厨房家電、オーディオ機器、情報機器へと品目を広げた[47]。中国展開は長期の現地根付きを前提に置いていた。『広い土地を貸してくれたら借り賃出して、耕して、そして種を植えて、肥料をやって育てて、それから収穫するのはいいんですよ』(日経ビジネス 1985/05/27)——井植薫氏の構えである。
同じ時期、後年の主力となる技術が研究所で育っていた[48]。1963年に熊本大学理学部を出て入社した桑野幸徳氏は、同年設立の中央研究所[49]でアモルファス半導体の研究に就いたが、10年を超えて事業化に届かなかった[50]。1975年12月、研究の中止を申し出た桑野氏に中研所長の山野大氏は『やめへんで、桑野君』と告げ、アモルファスを電子部品ではなくエネルギー材料として見直すよう促している。総勢5人の小集団[51]は、太陽電池の各片を絶縁体上で一体化してワイヤなしで直列につなぐ"集積型"を考案し、三洋電機がその特許を取得[52]した。1979年2月に世界初の実用化を発表[53]したのち、P型・I型・N型を別々の反応室で作る連続分離方式で歩留まりの壁を破り、1980年5月に量産へ入っている[54]。
1986年12月に東京三洋電機を吸収合併[55]し、国内の体制を一本化した。創業家が郷里の淡路島に育てた電池事業は、1964年の国内初のニッカド電池量産化[56]から四半世紀を経て、全社の柱に据えられる段階へ入る。ラップトップパソコンや携帯電話のコードレス化で二次電池の市場が広がるなか、1990年前後に井植敏氏のもとで最有望の成長分野と見定め、傾斜投資へ踏み切った[57]。主力のニッカド電池に続き、次世代のニッケル水素電池でも量産に入り、1992年には電池が全社営業利益の大半を稼いだ[58]。後発ゆえの身軽さと、同族経営ならではの速い意思決定[59]が、この集中を可能にした。
投資の規模は中期計画に表れており、1991〜95年度の5カ年計画で電池事業へ660億円を投じる方針を掲げ、年間100億円強という額は全社設備投資の約2割[60]にあたった。事業本部の売上高は95年度に1500億円へ引き上げる目標[61]を置いている。1992年4月には徳島県松茂に約90億円を投じて業界最大規模のニッケル水素電池専用工場を稼働させ、月産300万個の体制で業界首位[62]に立った。乾電池を含む総合メーカー化を避けてニッカドに絞り込み、先行者の利益を握る戦略[63]の延長線上に、この傾斜投資があった。
1992年に社内分社制度を導入して新規事業の立案を各部門へ委ね[64]、1996年7月に新潟三洋電機で半導体、同年12月に鳥取三洋電機で液晶パネルの量産を相次いで開始[65]している。1998年6月にはデジタルカメラへ本格参入[66]し、家電に留まらないデジタル事業へ手を広げた。
稼働からわずか2年半後の2004年10月、単独での液晶事業の継続を断念してセイコーエプソンとの合弁へ移した[67]。2001年12月には米イーストマン・コダックとの合弁で有機EL事業へ入り320億円を投じたが、量産技術が固まらないまま同規模の損失に終わった。
2005年3月期に1715億円の最終損失を計上し、創業以来初の通期無配[68]へ追い込まれる。
2005年12月には三井住友銀行・ゴールドマン・サックス・大和証券SMBCの3社を引受先に総額3000億円の第三者割当増資[69]を実施した。それでも2006年3月期に特別損失3039億円・純損失2056億円を計上し、継続企業の前提に疑義がある旨の注記[70]が付されるまで財務は追い込まれた。
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|---|---|---|---|---|
| 1947〜1961年松下の分家から戦後家電メーカーへと立ち上がる創業期 | 松下を退いての独立と、北条工場を拠点とする総合家電への出発 1947年2月、GHQ公職追放で松下電器を退いた井植歳男氏が、大阪府守口に三洋電機製作所を個人経営で創業し、松下から譲り受けた兵庫・北条工場で自転車用発電ランプの製造を始めた。国内17社目の後発参入ながら、松下で約29年培った量産・販売ノウハウを移植して3年で国内シェア約7割を握り、1953年に英フーバー方式の噴流式洗濯機を競合の約半額で発売して総合家電メーカーへ転じた。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 北條工場を新設 | ★ | |||
| 井植歳男 | 三洋電機を設立 | ★ | ||
| 井植歳男 | ラジオの生産開始(国内初のプラスチックラジオ) | ★ | ||
| 井植歳男 | 噴流式洗濯機の製造を開始 | ★★ | ||
| 井植歳男 | 大阪証券取引所に株式上場 | ★ | ||
| 井植歳男 | ストライキが発生・労使関係が悪化 | ★ | ||
| 井植歳男 | 三洋電機を設立 | ★ | ||
| 1962〜1982年カラーテレビ北米輸出と海外展開で築いた拡大期 | 井植歳男 | 国内の地方に生産拠点 | ★ | |
| 井植歳男 | カラーテレビへの量産投資 | ★★ | ||
| 井植祐郎 | 三洋丸紅を設立 | ★ | ||
| 井植祐郎 | 創業者の井植歳男氏が逝去・井植家による同族経営を持続 | ★ | ||
| 井植薫 | 円高ドル安で業績悪化 | ★ | ||
| 井植薫 | 三洋電子を設立 | ★ | ||
| 井植薫 | 買収した拠点を足がかりとする、輸出から北米現地生産への切り替え 1976年、三洋電機が米ウォーイック社の経営再建を最大顧客シアーズから打診されたのを機に、サンヨー・マニュファクチャリング・コーポレーション(SMC)を設立してウォーイック社を約31億円で買収し、アーカンソー州でカラーテレビの現地生産を始めた経営判断である。日本の家電企業による本格的な北米現地生産の先駆となった。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 井植薫 | フィリップス社の英国テレビ工場を取得 | ★ | ||
| 1983〜2026年二次電池への傾斜投資と、創業家の退場を経て吸収合併に至る終焉期 | 井植薫 | 東京三洋電機を吸収合併 | ★★ | |
| 井植薫 | 二次電池に資源を寄せる傾斜投資という、次の主力事業への賭け 1990年前後、三洋電機が井植敏社長のもとで、充電して繰り返し使える二次電池(蓄電池)を最有望の成長分野と見定め、全社の設備投資の約2割を電池事業へ集中させる傾斜投資に踏み切った経営判断。主力のニッカド電池に続き次世代のニッケル水素電池でも量産体制を整え、1992年には電池が全社営業利益の大半を支える大黒柱に育った。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 井植薫 | 社内分社制度を導入(新規事業の立案) | ★ | ||
| 井植薫 | 新潟三洋電機で半導体量産 | ★ | ||
| 井植薫 | 鳥取三洋電機で液晶パネル量産 | ★ | ||
| 井植薫 | デジタルカメラに本格参入 | ★★ | ||
| 井植薫 | 「箱舟経営」を掲げ、普及品市場を相手に譲り渡す選択 2002年1月、三洋電機が中国最大手のハイアールと資本・業務提携を結んだ経営判断である。低価格の家電で消耗戦を続けるのではなく、中国大手と手を組んで部品供給やOEMという"大市場"を取りに行き、自ら普及品市場を譲り渡す賭けであった。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 井植薫 | 最終赤字に転落 | ★★ | ||
| 井植敏雅 | 転換可能優先株式3,000億円の第三者割当増資と、議決権のほぼ半分の譲り渡し 2006年1月25日に大和証券エスエムビーシープリンシパル・インベストメンツ、ゴールドマン・サックス・グループ、三井住友銀行の3社と株式引受契約を結び、2月24日の臨時株主総会の承認を経て、3月14日に第1回A種優先株式182,542,200株と第1回B種優先株式246,029,300株を1株700円で発行した。総額3,000億円。 払込のうち半分は資本金へ、半分は資本準備金へ組み入れられ、資本金は1,722億円から3,222億円になった。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 井植敏雅 | 財務状況が悪化・疑義注記を記載 | ★★★ | ||
| 佐野精一郎 | 携帯電話事業を京セラに譲渡 | ★★ | ||
| 佐野精一郎 | 二度の公開買付けと株式交換を受け入れ、64年の独立を手放す選択 2008年12月19日、両社取締役会の承認に基づきパナソニックとの資本・業務提携契約に調印した。2009年11月5日から12月9日までの公開買付けでA種・B種優先株式の全てが取得され、12月21日にそれが普通株式へ転換された結果、パナソニックの持つ議決権は総株主の議決権の過半数となり、同社が親会社となった。2010年3月末時点の持株比率は50.05%である。 二度目の公開買付けは2010年8月23日から10月6日まで実施され、保有割合は80.77%に達した。2011年3月4日の臨時株主総会が株式交換契約を承認し、3月29日に上場廃止、4月1日に完全子会社となった。 詳細を読む | ★★★ |
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事実根拠:出所(三洋電機)