1931年 ブリッヂストンタイヤ株式会社を創業
足袋商「志まや」を兄と継いだ17歳の石橋正二郎が、地下足袋で蓄えたゴム加硫技術をタイヤへ転用、1931年3月に福岡県久留米市でブリッヂストンタイヤを設立。創業3年で初期不良10万本の返品と100万円超の損失を吸収しつつ、1932年に優良国産品認定で再起した。
創業〜設立から上場前後までどのようにして経営を軌道に乗せたのか?
- 石橋正二郎は1889年に福岡県久留米で生まれ、1906年に久留米商業学校を卒業して17歳で家業の仕立物業「志まや」を兄重太郎とともに引き継ぎ、1907年に足袋専業へ転換、徒弟制廃止と給料制導入で経営改革を実行した。1914年「20銭均一アサヒ足袋」、1918年6月の日本足袋株式会社設立、1921年「アサヒ地下足袋」と段階的にゴム加硫技術を蓄積した。
- 1931年3月、日本足袋のタイヤ部を分離独立させ、福岡県久留米市に資本金100万円でブリッヂストンタイヤ株式会社が設立された。社名は「石橋」を英訳した Stone-Bridge を逆に組み合わせたもので、要石(キーストーン)の意味も重ねている。外国製1本100円台に対し50円という低価格で参入したが品質が追いつかず、ゴム破裂など初期不良が3年間で約10万本の返品を生み、100万円超の損失を計上する局面に陥った。
- 1932年に優良国産品認定を受け日本フォードほか自動車メーカーの採用が始まり、1934年3月の久留米工場新設で量産体制を整備、1935年にゴルフボール・自転車タイヤ、1937年5月に本社を東京・麹町区内幸町へ移転、1938年7月に横浜工場を取得して東日本拠点を確保した。1942年2月に戦時下の英語名忌避から日本タイヤへ改称、1949年10月に自転車事業を分離、1951年2月に旧社名へ復してタイヤ専業メーカーの体制を整えた。
地下足袋で蓄積したゴム加硫技術を自動車タイヤへ転用するため、日本足袋のタイヤ部を分離独立させて専業メーカーを発足、欧米のゴム工業中心が自動車タイヤであるとの判断で国産化に踏み切り、初期不良の損失を吸収しつつ品質改良で1932年の優良国産品認定に到達した。
石橋家100%出資の同族企業として資本金100万円で発足、創業直後の3年間で100万円超の損失を計上したが返品分の補修販売・再生原料転用で全損を回避、外部資本に頼らず1961年10月の上場まで30年間にわたって非上場経営を維持する起点となった。
外国製1本100円台に対し50円の低価格で自動車用タイヤを発売、初期不良10万本を3年で吸収しつつ品質改良を進め、1932年に優良国産品認定、1935年にゴルフボール・自転車タイヤ、1937年に工業用ホース、1938年以降は軍用トラック・航空機用タイヤへ製品系列を拡大した。
創業初期は無償交換を謳う一般販売で販路を確保、1932年の優良国産品認定後は日本フォードを起点にトヨタ・日産など黎明期の国内自動車メーカーが採用、1939年以降は陸海軍向け軍用トラック・航空機用タイヤが主力顧客に加わり、最盛期には学徒動員含む5000名規模の軍需生産体制を組んだ。
1906年の家業継承時は徒弟8〜9人の仕立物業から出発し、1918年の日本足袋設立で本格的な工場労務体制へ移行、1931年のタイヤ独立時は日本足袋からの分離発足、1934年の久留米工場新設で量産工員を抱える体制となり、戦時最盛期には軍需向けに学徒動員を含む5000名規模に拡大した。
1929年12月に日本足袋構内のタイヤ仮工場で試作を開始、1931年の独立を経て1934年3月に久留米第1工場を新設、1937年5月の本社東京移転と1938年7月の日本ゴム横浜工場取得で久留米・東京・横浜の3拠点体制を構築、軍需生産期には敷地10万坪規模の久留米工場が主力量産拠点となった。
ブリヂストン 創業地の主な拠点全国 の地理(ブリッヂストンタイヤ本社・久留米工場 → 横浜工場)
創業時のエピソード人物・ブランド・資金調達の細部
| 1928〜1931年 なぜ久留米の足袋商が自動車タイヤに進出したのか? | 地下足袋の量産で蓄えたゴム加硫技術が自動車タイヤの工程と重なり、石橋正二郎が欧米のゴム工業の主軸は自動車タイヤであり日本もそうなると確信して国産化を決意した。 石橋正二郎は1906年に久留米商業学校を卒業すると、家業の徒弟8〜9人の仕立物業「志まや」を兄重太郎とともに引き継ぎ、1907年に足袋専業へ転換した。徒弟制を廃して給料制とし、勤務時間の短縮と月1度の定休日を導入したのは18歳の年であった。1914年に「20銭均一アサヒ足袋」を発売して販売を伸ばし、1918年6月に日本足袋株式会社を設立、1921年に「アサヒ地下足袋」でゴム加硫技術を確立している。 地下足袋・ゴム靴の量産体制が固まった1928年ころ、石橋は欧米のゴム工業の中心が自動車タイヤであり将来の日本も同様になると判断し、タイヤの国産化を決意した。1929年12月に日本足袋の構内にタイヤ仮工場を開設して試作を重ね、1931年3月にタイヤ部を分離独立させてブリッヂストンタイヤ株式会社を発足させる。足袋商の家業が30年弱で自動車タイヤ専業メーカーへ橋渡しされた経過であった。 |
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| 1931年3月 なぜ社名は「ブリッヂストン」になったのか? | 創業者の姓「石橋」を英訳した Stone-Bridge を逆に組み合わせて Bridge-Stone とし、「キーストーン(要石)」の意味も重ねて命名した。 1931年3月、福岡県久留米市に資本金100万円で設立されたブリッヂストンタイヤ株式会社の社名は、創業者の姓「石橋」を英訳した Stone-Bridge を逆に組み合わせたものであった。日本会社史総覧は「石(ストーン)と橋(ブリッジ)を逆に組み合わせて社名とした(ブリッジストーンにはキーストーン=要石の意味もある)」(日本会社史総覧 1995)と記録している。 欧米市場での発音と語感を意識した英語社名は、創業時点から輸出と外国メーカーとの競合を視野に入れていた経営判断の現れであった。当初は外国製1本100円台に対し50円という低価格で参入し販売は拡大したが、品質が安定せずゴム破裂など初期不良が続出し、3年間で約10万本が返品される事態となる。社名に込めた要石の意味とは裏腹に、創業直後は数百万円の損失を計上して破産に瀕する局面を経験した。 |
| 1931〜1933年 なぜ創業3年で10万本の返品を受け入れたのか? | 無償交換を謳って販路を拡大したが品質が追いつかず初期不良が多発し、わざと破損させて交換を要求する購入者も誘発したため、返品を吸収しつつ補修販売と再生原料への転用で全損を回避した。 1930年から日本足袋の仮工場でタイヤ生産を開始し、1931年の独立後も外国製1本100円台に対し50円という低価格で市場へ参入した。地下足袋で確立したゴム加硫技術を自動車タイヤへ転用する難事業は技術的に容易ではなく、ゴム破裂など初期不良が続出する。無償交換を約束した結果、わざと破損させて交換を要求する購入者も誘発し、3年間で約10万本が返品された。 返品されたタイヤは廃棄せず荷馬車用に補修して販売、もしくは再生ゴム原料へ転用することで全損を回避したが、それでも3年間で100万円を超える損失を計上した。設立時資本金100万円を上回る規模の損失であり、外国会社の販売圧迫も加わって破産に瀕する局面となる。原料配合と加硫工程の見直しを重ね、1932年に優良国産品の認定を受けて日本フォードほか自動車メーカーの採用が始まったことで、ようやく国産タイヤメーカーとしての足場を確保した。 |
| 1937年5月 なぜ1937年に本社を東京へ移したのか? | 自動車メーカー・官需・販売市場の中心が東京に集中しており、国産タイヤ専業メーカーとして取引と情報の中枢に拠点を置く必要があった。久留米工場は量産拠点として残し、本社機能を分離した。 1935年10月にゴルフボールの本格生産を開始し、同年には自転車タイヤにも進出してゴム加工技術の応用範囲を周辺商品へ広げた。1937年5月、ブリッヂストンタイヤは本社を福岡県久留米市から東京・麹町区内幸町(現 千代田区内幸町)へ移転する。日本フォードや日産といった自動車メーカー、軍部からの需要、販売店網の中枢が首都圏に集中しており、本社機能を需要地に置く判断であった。 同年9月には工業用ホースの生産を開始、1938年7月には横浜の日本ゴム横浜工場を取得して東日本の量産拠点を確保している。1942年2月には戦時下の英語社名忌避を背景に「日本タイヤ株式会社」へ社名を一時変更したが、終戦後の1951年2月に「ブリヂストンタイヤ株式会社」へ復名した。久留米と横浜の両工場は戦災を免れ、戦後復興期にいち早く生産を再開する基盤となった。 |
歴史的証言当事者が何を考えていたか。その思想について
1931年3月の社名命名の由来。創業者の姓「石橋」を英訳した Stone-Bridge を逆に組み合わせた経緯の記録
「石(ストーン)と橋(ブリッジ)を逆に組み合わせて社名とした(ブリッジストーンにはキーストーン=要石の意味もある)」
創業の事実関係(場所・資本金・創業者)の社史記述
「ブリッヂストンタイヤ(株)は1931年(昭6)3月、石橋正二郎により、ブリッヂストンタイヤ(株)(資本金100万円)として福岡県久留米市に創立された」
創業直後の初期不良と優良国産品認定までの経緯
「当初は、予想以上に技術上の問題が多く、外国会社の販売圧迫などもあって、数百万円の損失を計上して破産に瀕したが、32年には優良国産品の認定を受け、日本フォード社ほか自動車メーカーが採用するまでに至った」
1906〜1907年、創業者が家業を継承し足袋専業へ改革を実行した時期の社史記述
「(石橋正二郎は)1906年(明39)3月、久留米商業学校を卒業すると、家業の徒弟8〜9人の仕立物業「志まや」を引き継いだが、1907年に足袋専業に改め、徒弟制を廃して給料制に、勤務時間の短縮と月1度の定休日を設けるなどの改革を実行した。このとき18歳であった」
1928年のタイヤ国産化決意から1929年12月の仮工場開設に至る経緯
「地下足袋、ゴム靴の量産量販体制が確立した28年ころ、石橋は欧米のゴム工業の中心は自動車タイヤであり、将来の日本もそうなると確信してタイヤの国産化を決意し、29年12月には日本足袋のタイヤ仮工場を開設した」
1958年、久留米工場の規模感と東京工場新設の意義を伝える業界紙報道
「年々ふえる自動車タイヤの需要に対処するため、同社の久留米工場(工場敷地10万坪・月産能力2500トン)に劣らぬ規模の生産設備を新設することになった」
参考文献
- 日本会社史総覧 1995
- 有価証券報告書
- 日経新聞 1958/2