1931年3月、石橋正二郎氏は日本足袋のタイヤ部を分離[1]し、石橋家が全額を出資する同族企業としてブリッヂストンタイヤ株式会社を福岡県久留米市に設立[2]した。社名は『石橋』を英訳した Stone-Bridge を逆に組み替えたもの[3]で、アーチの要石を指すキーストーンの語義も重ねている。資本金は100万円[4]で、1929年12月に日本足袋の構内へ設けた仮工場での試作[5]を経て生産に入っていたが、外国製が1本100円台で売られるなか50円という半値[6]で市場へ参入したため、走行中の破裂をはじめとする初期不良が続いた[7]。不良品を新品と引き換える責任保証制で臨んだので故意に破損させて返品する者も現れ、創業から3年間の生産44万本に対し返品は10万本[8]に達した。それでも引き換えに応じ、返品分は荷車用に補修するか再生ゴムの原料へ回して損失を薄めたが、3年間の損失は資本金を上回る100万円を超えた[9]。
石橋正二郎氏は返品されたタイヤを補修販売と再生ゴム原料へ振り向けて損失を抑え[10]ながら、原料配合と加硫工程の改良に数年を費やした。地下足袋の量産で蓄えたゴム加硫の技術を自動車タイヤへ転用する試みであり、1907年に家業を足袋の専業へ転換[11]し、1918年に日本足袋を設立[12]して1921年の『アサヒ地下足袋』で加硫技術を社内に固めた[13]蓄積が土台にあった。品質が安定した1932年には優良国産品の認定を受け[14]、日本フォードをはじめ自動車メーカーの採用が始まる[15]。1934年には久留米市に鉄筋コンクリート造の本格工場を建て[16]、トヨタや日産といった黎明期の国内メーカーへの納入を増やした。1938年7月には日本ゴムの横浜工場を取得[17]し、東日本の量産拠点も手に入れている。
タイヤで固めたゴム加工の技術は周辺の商品へ広がり、1935年10月にゴルフボールの生産を開始[18]し、1937年5月には本社を東京へ移し[19]、同年9月にホースの生産にも入っている[20]。戦時下の1942年2月には英語の社名を避けて日本タイヤ株式会社へ改称[21]し、軍用トラック用タイヤや航空機関連部品の生産にも従事[22]した。終戦後の1949年10月には自転車事業をブリヂストン自転車として分離[23]し、タイヤへ経営資源を絞る。1951年2月にブリヂストンタイヤ株式会社へ社名を戻し[24]、同年には米グッドイヤーと技術提携を結んだ[25]。米国メーカーに対し生産性が5分の1程度[26]という自己認識のもとで最新の生産技術を導入し、生産性の引き上げに着手している。
国産化と並行して輸出にも臨み、1932年に中国・東南アジア・インドなどへの輸出を始め[27]、同年4万本、翌1933年には10万本[28]へと数量を伸ばした。安価な日本製の進出に脅威を感じた欧米のタイヤ会社は値下げで対抗し[29]、1932年のオタワ会議の後には、それぞれの属領国で30%から60%という高率の特別関税[30]をかけて締め出しを図った。それでも製品は各国で受け入れられ、1934年にはアフリカ・トルコ・ベルギー・ドイツへも輸出している[31]。石橋正二郎氏は1912年に自動車へ試乗して1台を買い入れており[32]、当時の自動車は東京で約300台、九州には1台もない時代[33]だった。
1937年から1941年にかけては、青島・吉林・京城・台湾と相次いで海外に工場を建て[34]、自動車タイヤや自転車タイヤ、コンベアーベルトを生産[35]した。吉林の工場では合成ゴムの生産にも着手している[36]。もっとも原料の生ゴムは輸入に頼っており、1937年7月の為替管理法強化を受けて同年12月には民需用生ゴムの輸入が許可制となり[37]、太平洋戦争の末期には南方のゴム園を失って原料難が深刻になった[38]。しかしこれらの海外工場は終戦によってすべて失われ[39]、戦前に築いた輸出網と大陸の生産拠点は消滅した。戦後の再建は、戦禍を免れた久留米工場の生産再開から始まる[40]。海外拠点と輸出網を一挙に失ったため、1988年に米ファイアストンを買収するまで、成長の場は国内市場に限られた[41]。
石橋正二郎氏のもとで、同社は1961年10月の上場まで30年にわたり非上場を通した[42]。1952年1月には東京・京橋にブリヂストンビルを竣工[43]し、石橋家が長年収集した西洋美術品を展示するブリヂストン美術館を併設[44]した。関東大震災で空き地となっていた京橋の土地を1938年に取得[45]しており、戦時中は木造事務所として暫定的に使っていた。同年3月には石橋家が富裕税の納付申告で日本一となり[46]、創業から20年あまりで同族企業としての蓄財力を示している。石橋正二郎氏は1906年に久留米商業学校を出て兄とともに家業の仕立物業『志まや』を継ぎ[47]、徒弟制を廃して給料制を敷くところから経営を立て直した[48]人物だった。
生産の内製化も同じ時期に進み、1955年には久留米工場内に国内唯一のコード工場を完成[49]させ、コードからタイヤまでを社内で賄う一貫生産[50]に踏み切る。1958年には久留米第2工場を設けてナイロンコードのタイヤ量産[51]に入った。1958年に建設計画へ着手した東京工場は1960年3月に第1期工事を終えて操業を開始[52]し、1965年時点で敷地60万平方メートル・従業員2,100名・年産能力410万本[53]を擁する規模に達した。全長430メートルの建屋の一端から原料が入り、逆行することなく他端から製品が出る完全流れ方式[54]を採り、全高34メートルのH.Tマシンや自動成型機を備えた[55]。着工前の報道は{q1}と伝えている。
1961年10月、東京・大阪両証券取引所に株式を上場[56]し、創業30年目にして外部資金による設備投資の道を開いた。1962年には栃木県に小型タイヤ専門の那須工場を建て[57]、品種別の生産分業も進める。1964年度の売上高は685億円で、内訳はタイヤ483億円・生活用品83億円・工業用品61億円・サイクル58億円[58]、うち輸出が109億円を占め、前年度の78億円から40%伸びた[59]。同年度の税引前利益は58億円、税引後利益は35億円で、総資本利益率は8.9%[60]だった。工場数の少なさは同業比較でも際立ち、『自動車タイヤは1960年まで久留米工場のみで生産していた。それでも、横浜ゴムや東洋ゴム、住友ゴムの全工場の生産高を上回っていたのである』[引用元]と評された。
石橋家による直接経営は1970年代に専門経営者へ引き継がれ、1978年時点では柴本重理氏が社長を務めていた[61]。1976年9月には創業者の石橋正二郎氏が逝去し、戦前以来同社を率いた一族経営の象徴が失われる。国内では他社を大きく引き離していた一方で成長の余地は乏しく、当時の業界評は国内タイヤ業界の勢力図を『1強、3弱、2死に体』[引用元]と要約したうえで、『ブリヂストンの憂鬱は、国内での多角化に石橋を叩いても渡ろうとしない超堅実経営がもたらした発展の限界がある以上、米国内へ一歩踏み入れるまで晴れることはあるまい』[引用元]と記している。国内シェア5割を握った企業[62]にとって、次の成長は海外に求めるほかなかった。
海外への足がかりは段階を踏んで作られ、1967年6月にはタイで合弁のThai Japan Tyreを設立[63]し、1973年9月にはインドネシアにも合弁を置いている[64]。1980年12月には豪ユニロイヤル・ホールディングスの株式を買収[65]して海外生産の拠点を得た。1982年11月には米国にブリヂストン・タイヤ・マニュファクチャリングを設立[66]し、北米での自前生産に踏み出す。1984年4月にはブリヂストンタイヤから株式会社ブリヂストンへ商号を変更[67]し、タイヤ専業としての世界展開を社名にも掲げた。1972年9月に設立した合弁のブリヂストン・スポルディング[68]は、1993年1月にスポーツ事業を統合するブリヂストンスポーツ[69]へ発展している。
1985年にはオーナーの石橋幹一郎氏の意向で家入昭氏が社長に就いた[70]。石橋家以外から起用された生え抜きの経営者であり、脱同族化の旗手[71]と目されている。家入氏が見ていたのは米国の補修用タイヤ市場で、年間1〜2億本という規模[72]に対し、輸出は250万本でシェアは2%弱にとどまり、これを4%へ引き上げる[73]ことを当面の目標に据えていた。国内で5割を握りながら海外に自前の生産拠点をほとんど持たず、円高と国内市場の成熟、世界的な業界再編が重なるなかで、世界のビッグ3の一角を確保するには米欧に生産と販売の網が要る[74]というのが家入氏の判断だった。
1988年2月、ファイアストンのタイヤ部門を分離した合弁会社の株式75%を7.5億ドルで取得することで合意[75]した。ところが3月に伊ピレリが全株の買い取りを表明したため対抗TOBに踏み切り[76]、4月に96.4%を取得する[77]。買収総額は26億ドルで、円換算では約3300億円、年間売上高の6割に相当[78]した。欧米11工場と約1500の販売店網を一挙に手に入れ[79]、沿革には1988年5月の買収として記録されている[80]。銀行関係者のなかには、この資金負担が今後の展開次第で経営を揺るがしかねないと見る向きもあった[81]。家入氏はこの買収を『鯨が鯨を飲み込んだ』[引用元]と表現している。
統合は当初から難航し、TOBを急いだため設備を十分に調べられておらず[82]、老朽化は予想を超えていた。ファイアストンは1970年代後半の欠陥タイヤ問題で9工場を閉鎖して5万人を削減[83]し、その後の新規投資を止めていたため、生産性はブリヂストンの3分の1以下[84]にとどまっていた。買収から1年もたたないうちに15億ドルの追加投資を迫られる[85]。大口取引先の米GMは買収直後にファイアストンブランドの打ち切りを通告[86]し、ビッグスリー向けの納入シェアは1987年の21.5%から1989年に9%へ落ちた[87]。1989年度の連結純利益は支払利息と為替差損が重なって96億円と前年度の4分の1に減った[88]。ファイアストン事業が期間黒字へ転じたのは1992年下期以降[89]である。
海崎氏には売上や利益は届いていたが訴訟や事故の情報は伝わっておらず[90]、子会社にリスク管理を委ねた体制が裏目に出た。製品自主回収関連損失は2000年12月期に814億円を計上[91]し、2001年12月期と合わせて2期で1617億円に達した[92]。2001年5月には100年近く続いたフォードとの北米・中南米での供給契約を満了で終えている[93]。
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|---|---|---|---|---|
| 1931〜1967年石橋家による久留米タイヤ事業と国内基盤の確立 | 石橋正二郎 | ブリヂストン創業——久留米の足袋商から国産自動車タイヤメーカーへ 1931年3月、日本足袋のタイヤ部を分離独立させ、42歳の石橋正二郎氏が福岡県久留米市に資本金100万円でブリッヂストンタイヤ株式会社を設立した。地下足袋の量産で蓄えたゴム加硫技術を自動車タイヤへ転用する国産化への挑戦であり、外国製100円台に対し50円という低価格で市場へ参入した。創業直後は初期不良による10万本の返品と資本金を上回る損失に苦しんだが、1932年の優良国産品認定を経て国産タイヤ専業メーカーの足場を築いた。 詳細を読む | ★★★ | |
| 石橋正二郎 | タイヤの初期不良が続出 | ★★ | ||
| 石橋正二郎 | 久留米工場を新設 | ★ | ||
| 石橋正二郎 | ゴルフボールの生産開始 | ★ | ||
| 石橋正二郎 | 本社を移転 | ★ | ||
| 石橋正二郎 | 日本タイヤに商号変更 | ★ | ||
| 石橋正二郎 | 自転車事業を「ブリヂストン自転車」に分離 | ★ | ||
| 石橋正二郎 | ブリヂストンタイヤに商号変更 | ★ | ||
| 石橋正二郎 | グッドイヤー社と提携 | ★★ | ||
| 石橋正二郎 | 本社にブリヂストンビルを竣工・ブリヂストン美術館を併設 | ★ | ||
| 石橋正二郎 | 石橋家が富裕税納付申告で日本1位 | ★ | ||
| 石橋正二郎 | 久留米第2工場を新設 | ★ | ||
| 石橋正二郎 | 東京工場を新設(第1期・第2期) | ★ | ||
| 石橋正二郎 | 東京証券取引所に株式上場 | ★ | ||
| 石橋幹一郎 | 乗用車向けラジアルタイヤを開発 | ★ | ||
| 石橋幹一郎 | ブリヂストンタイヤショップ制度を開始 | ★ | ||
| 1968〜2000年創業者退場とファイアストン買収によるグローバル化 | 柴本重理 | 柴本重理氏が社長就任 | ★ | |
| 柴本重理 | 創業者・石橋正二郎氏が逝去 | ★ | ||
| 柴本重理 | UNIROYAL社を買収 | ★ | ||
| 服部邦雄 | ファイアストンのナッシュビル工場を取得 | ★★ | ||
| 服部邦雄 | ブリヂストンに商号変更 | ★ | ||
| 家入昭 | 米ファイアストンの買収と世界一への跳躍 1988年、ブリヂストンは米ファイアストンを総額26億ドルで買収した。当初の75%・7.5億ドルの合弁計画が伊ピレリの参入で対抗TOBに転じ、96.4%取得・26億ドルへ膨らんだ。家入昭社長が主導した、当時日本企業として最大級の対米買収である。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 家入昭 | 子会社BFSで大規模な人員削減 | ★★ | ||
| 海崎洋一郎 | 統括会社を設立(組織再編) | ★ | ||
| 海崎洋一郎 | 南アフリカのFedstoneを買収 | ★★ | ||
| 海崎洋一郎 | 現地生産子会社を設立 | ★ | ||
| 海崎洋一郎 | 米ファイアストンの欠陥タイヤ問題と大規模自主回収 2000年、ブリヂストンの米国子会社ブリヂストン・ファイアストンで、フォードのSUV『エクスプローラー』に装着したタイヤの表面剥離による死傷事故が社会問題となり、大規模な自主回収に発展した。海崎洋一郎社長は主要役員を米国へ送って再建に当たらせたが、対応の遅れの責任を残し2001年に退任した経営判断。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 2001〜2026年グローバル再編とソリューション事業の創出 | 渡邉惠夫 | 統括会社を設立(組織再編) | ★ | |
| 渡邉惠夫 | 統括会社を設立 | ★ | ||
| 荒川詔四 | BADAG社を買収(リトレッド) | ★ | ||
| 津谷正明 | 仏ETS PAUL AYME社を買収(タイヤ販売) | ★ | ||
| 江藤彰洋 | TOM TOM TELEMATICS社を買収(運行管理システム) | ★ | ||
| 石橋秀一 | 最終赤字に転落 | ★ | ||
| 石橋秀一 | 非タイヤ・非中核事業の一斉売却とタイヤ×ソリューションへの資源集中 2020年3月に就任したGlobal CEOの石橋秀一氏が『ブリヂストン3.0』を掲げ、米ファイアストン ビルディング プロダクツをはじめ化工品・防振ゴム・スポーツ等の非中核事業を相次いで売却し、タイヤとソリューションへ資源を集中させた面的な構造改革。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 石橋秀一 | AZUGA HDを買収 | ★ | ||
| 石橋秀一 | OTRACO社を買収 | ★ |
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事実根拠:出所(ブリヂストン)