日露戦争後、政府は維新以来抑えてきた外資導入へ転じた。桂太郎首相、大蔵大臣の阪谷芳郎氏、青木周蔵駐英公使ら政治家と、渋沢栄一氏、大倉喜八郎氏ら財界の有力者は、総額2億円の外資導入シンジケートの設立を進めていた。この構想そのものは意見の相違から実現しなかったが、交渉の過程で個別の外資導入と技術提携がいくつも生まれた。英国ダンロップ社の日本進出はその一つである。当初は大倉氏や阪谷氏、フランス人のルーネン氏、英国人のミルワード氏、グリア商会の間で、英国ダンロップ社の技術提供を受けた日英仏合弁のゴム会社が計画されていた。
合弁計画は日本とフランスの資本参加が得られず崩れた。残った英国資本だけで、資本金8万1千ポンドの The Dunlop Rubber Co. (Far East) Ltd. が香港に設立され、神戸市浪花町62番地への日本支店の設置が登記されたのは1909年10月4日である。取締役はH・グリア氏とW・グリア氏の兄弟、初代の日本支店長はJ・シャイヤレー氏が務めた。工場長には、のちに長く代表取締役を担うV・B・ウィルソン氏が就任した。工場設置の許可は前年12月28日にグリア商会の名義で兵庫県神戸市中央区知事から得ていた。工場を神戸の脇浜に置いたのは、当時の欧州航路の終着点がすべて神戸港であり、シンガポールで船積みされた天然ゴムを運ぶうえで有利だったためである。
30歳のウィルソン氏は、技師のボーン氏、ベアーズ氏、キーン氏ら3人の職長とともに来日し、工場の建設と操業を指導した。日本人でグリア商会の主要な地位にあったのは武藤健氏ひとりで、1912年まで東京支店長を務めたのちダンロップ護謨(極東)に移り、渋沢氏や大倉氏の代理人として総支配人に就任した。英国ダンロップ社は生産と技術の担当者を3年契約で送り込み、その選任は英国側に委ねられたが、再契約で任期を延ばすかどうかの主導権は昭和初年まで神戸の側が持っていた。神戸港への天然ゴムの陸揚げ量は1913年に横浜港を上回った。
本格的な設備と技術を備えたこの工場は、当時の日本のゴム工業に強い刺激を与えた。"日本ゴム工業史"は、幼稚な技術段階に低迷していた業界が同社を模範として技術の向上に努め、第一次世界大戦を契機とするゴム工業勃興の機運をつくったと記す。とくに自転車用タイヤの製造技術は、この工場から国内各社へ広まった。1912年ころには国産タイヤが供給できるようになった。明治末期から大正初期にかけて神戸を中心にタイヤ製造会社が相次いで設立され、1913年には河西善兵衛氏ら神戸財界の有力者が内外護謨を興した。ダンロップで働いた者のいないゴム会社はほとんどなかった。工場は"ラバースクール"とも呼ばれた。
1917年3月6日、日本商法の規定により資本金118万円の日本法人へ改組し、ダンロップ護謨(極東)株式会社となった。それまでは英語名の The Dunlop Rubber Co. (Far East) Ltd. を使っていた。英国からの新技術と新設備の導入は続き、ゴム工業界での指導的な地位は保たれた。自動車業界の発展に伴って設備の拡充が必要になり、1936年2月に資本金を800万円へ増やし、翌1937年2月には社名を日本ダンロップ護謨へ改めた。有価証券報告書が設立年月を1917年3月とするのは、この日本法人化を設立と数えるためである。
1929年に試みられた日英合弁は不調に終わった。英国ダンロップ社はこれに見切りをつけ、ダンロップ護謨(極東)の株式の過半を取得して独自の経営体制を構築した。1936年2月の増資は大倉組の資本参加を見込んだもので、総帥の門野重九郎氏が自らロンドンへ赴いて英国ダンロップ社と協議し、日英合弁契約を締結した。だが翌1937年に株式代金の送金が認可されず、合弁は頓挫した。社長は太平洋戦争中を除いて代々英国人が務め、初代は短期間で日本を去ったが、2代社長のウィルソン氏は開戦まで在任し、日本にゴム技術、とりわけ自動車タイヤ製造の技術を移植した。
太平洋戦争が始まると英国資本の会社としての立場は失われ、1942年6月には敵産管理法に基づいて商工省の管理下に置かれ、同年のうちに敵産処分で大倉商事ほか5社へ譲渡された。1944年4月に軍需会社の指定を受け、"神武第七一七六工場"という秘匿名が付いた。それより前、1943年1月には社名を中央ゴム工業に改めていた。防弾タンクの外張りの開発にも関わり、中央ゴムなど4社がその生産を担った。1945年6月の戦災では全工場の約8割が焼けた。それでも復旧を進め、終戦の直前には重要製品の一部で生産を再び始めていた。
終戦とともに民需生産へ戻り、占領軍軍政部の許可を得て、鉄鋼・石炭に次ぐ重要産業とされた自動車タイヤと、炭鉱資材のコンベアベルトを重点的に生産した。会社を英国へ返す交渉は日英両政府の間で進み、1949年8月、大蔵大臣の指示により中央ゴム工業は経営と資産の全部を英国ダンロップ社へ返還し、社名も日本ダンロップ護謨に戻った。返還後は英国の研究所と直結し、世界のダンロップ各社の組織網を使えることが強みとなった。帝国人絹の協力で強力人絹コードをいち早く採用し、自動車タイヤの品質を高めたのもその一例である。
1946年8月、閣議は自動車タイヤの不足が国内の陸上運送力の回復を妨げているとして、これを重点産業に指定し、商工省は直ちにタイヤメーカー各社へ増産を指令した。中央ゴム工業も、1947年第1四半期に新ゴム消費量140トンだった生産を、翌年第1四半期には363トンへ引き上げる計画を答申した。占領軍は天然ゴムの輸入資金に充てるためタイヤの輸出を必須の条件と考え、輸出する会社へ天然ゴムの割当枠を別に支給していた。ブリヂストンや横浜護謨はこの要請に応えて次々に生産設備を拡大したが、中央ゴム工業には英国ダンロップ社から、英国の許可なく輸出することは認めないという方針が伝えられていた。設備投資の遅れと販売組織の未整備は、のちに株式の上場を紹介する記事が業績不振の理由として挙げるまで尾を引いた。
設備の拡張には年150パーセントという上限があり、これを超える案は通らなかった。マネージング・ディレクターのA・G・サフェリー氏は、設備投資を借入金でまかなうべきではないと信じており、英国ダンロップ社も方針としてそれを基本に据えていた。同氏は1953年以降、日本経済と自動車工業の先行きを毎年ロンドンに報告したが、見通しはおおむね暗く、日本の道路事情では自動車工業は育たないと考えていた。1件100万円以上の設備支出を決めるのは日本ダンロップ護謨の神戸ではなくロンドンで、伝票から正規の報告書、会議に至るまで英語が使われ、英国人の上長を英語で納得させてから英国ダンロップ社の決裁を待たねばならなかった。
1956年、輸出と設備投資に支えられた好況のなかで、日本ダンロップ護謨は高い評価を得ていたトラック・バス用タイヤ「ロード・トラック・メジャー」を品不足に陥らせた。ブリヂストン、横浜護謨、東洋ゴムは数年来の設備投資で生産能力に余裕を持ち、増大する需要へ迅速に応じた。生産余力を失った日本ダンロップ護謨は、前年に始めたばかりの自動車会社への拡販を取りやめ、すでに取引のある会社にだけ納める方針へ戻した。輸出も英国ダンロップ社の方針で積極的に行わず、他社が生産量の30パーセント前後を振り向けるのに対し数パーセントに止まった。1958年の売上高は前年比81.1パーセントの53億円へ落ち、下期は採算が悪化してタイヤ6社中の収益で最下位に転落した。
1955年に入れた加硫機も同じ形で決まった。旧型のマックニール・プレスは厚いエアバッグを用いるので加熱と冷却のどちらにも長い時間を要し、ナイロンコードを使ったタイヤを適切な条件で加硫しにくかった。日本人技術者はすでにあった新型のバッグ・オ・マチック・プレスを入れるよう強く求めたが、英国ダンロップ社は旧型を選び、8台のうち英国から届いた1号機は中古だった。当の英国ダンロップ社にはほどなく新型が据えられ、神戸製鋼所もマックニール社から技術を導入して新型を量産し、1958年にはブリヂストンに納め始めていた。ナイロンコードタイヤを十分に量産できたのは、初めから新型を備えた名古屋工場が主力になって以降のことである。
東京、大阪をはじめ各地の営業所からは、第二工場を建てて設備を急速に拡張しなければ他社との競争に耐えられないという報告が上がっていた。英国ダンロップ社が新工場の建設を認めたのは1959年春である。工場の建設には当時の金額で50億円から60億円が必要で、英国ダンロップ社にはその資金を調える余裕がなかった。また同社は販売予測の確度を保証するよう求め、宮坂三郎常務が自分の責任で販売を完遂すると記した念書に署名した。同社は1949年に10年間の技術援助契約を結び、高い率のロイヤリティを得ていた。ところが外貨不足に苦しむ日本政府は、契約が更改される1960年以降、100パーセント子会社がロイヤリティを払う形は認めない旨を伝えていた。
住友電工が住友商事と組んで日本ダンロップ護謨の株式の30パーセントを引き受け、役員を送り込んで経営に加わると答えたのは、1959年8月にサフェリー社長から譲渡の申し入れを受けてのことである。この返答の背後には北川一栄社長の構想があった。戦時中に陸海軍から頼まれて防振ゴムや防弾タンクの開発を取りまとめた北川氏は、ゴムを手がけるなら中核製品であるタイヤに進まねばならないとみて、以前からタイヤへの参入を思い描いていた。日英の合弁は1929年から何度も試みられてきたが、実現したのは1960年2月5日、同社社長室で資本提携契約が調印されたときが初めてである。新工場の用地は豊田市に決まり、同年8月に地鎮祭が行われた。翌1961年、英国ダンロップ社はイングランド銀行が見返りのない海外投資を禁じていることを理由に持株の一部売却を申し入れ、日本長期信用銀行が10パーセントを引き受けて持株比率は日英五分五分となった。
1962年は上期・下期ともに赤字で、年間の欠損は1億4000万円に達した。これまでで最も悪い決算である。売上高そのものは96億2400万円で、前年の102パーセントとかろうじて伸びたものの、タイヤは前年の水準に届かず、増収分はゴルフボールの好調によるものだった。この年の9月、英国ダンロップ社は住友電工に副社長を出すよう求めるとともに、しかるべき時期に株式の過半数と経営権を日本側へ移す考えを示した。1963年9月25日に交わされた取り決めは、経営権と社長を指名する権利が日本側に属すると確かめたうえで、住友ブランドのタイヤ輸出を容認し、ダンロップの名は販売会社の社名に残すという内容を柱とし、10月1日には社名が住友ゴム工業に変わった。
社内で使う言葉が英語から日本語に切り替わったのは1963年10月1日である。この日、住友電気工業で専務・副社長を歴任して社長に就いた井上文左衛門氏が、食堂ホールに全従業員を集め、五つの基本方針を打ち出した。中身は、信用を重んじて確実を旨とする、原価低減を徹底する、技術と経営の自主性を尊重する、営業活動を積極的に進める、人材を育てる、の5項だった。外国人が経営していた頃には、社長が社員全員に向けてじかに方針を語った前例はない。起案の手続きも改まった。新しい規程は、関係部門との合議を経て上長に出す流れを定めた。それまでは役員や部長が必要とみた相手に写しを回せば済み、それ以上の連絡や打ち合わせは求められなかった。
1964年秋に置かれたCR調整委員会は、5年後にあたる1969年の復配を目指し、毎年の原価を5パーセント以上ずつ切り下げることを基本の方針に定めた。出発点には、同業他社よりおよそ10パーセント高いとみられた当時の製造コストがあった。英国人が経営していた頃は原価はおろか売上高すら従業員に伏せられていたが、以前なら想像もできなかった原価資料の公開が進み、会社の損益と原価の関係を従業員が理解するようになって、活動は根づいた。作業の改善も、生産技術者に任せず作業者が自ら手がける形へ変わり、同年2月に発足したQC中央委員会がこの方式を採った。神戸工場のQCサークルは1966年末に23だったものが、一時は100にまで増えた。
井上社長は社名変更の直後、古い設備の合理化と近代化には一流品を使い、増設する機械は世界第一級のものを使えと宣言した。だが会社は大きな赤字を抱え、国内の銀行は累積赤字を持つ住友ゴム工業への融資に消極的だった。経理を預かる下川常雄専務は英国ダンロップ社に融資の斡旋を頼んで断られ、1964年末、西ドイツのコメルツバンクとドイチェバンクから100万ドルずつ、当時の金額で約7億円を調達した。神戸工場の近代化は1967年中に一通りを終え、名古屋工場では1967年に3億8000万円だった設備投資額が1969年には28億5000万円まで増えた。1968年11月に完成した第二期工事で、日本で初めて乗用車用ラジアルタイヤの量産態勢が整った。1967年上期には、前期から繰り越した1億5000万円の赤字を一掃した。
1972年に加古川工場、1974年に白河工場が操業を始め、神戸と名古屋を含む四つの工場が揃った。1975年1月14日、住友ゴム工業は東京・大阪・名古屋の三証券取引所の第二部へ株式を上場した。売出しに応じたのは住友電気工業340万株、日本長期信用銀行89万株、住友商事71万株で、上場後もダンロップ・インタナショナルが43.75パーセント、住友電工が38.25パーセントを握る資本構成は変わらなかった。売上高の70.0パーセントはタイヤ、23.1パーセントはスポーツ用品が占め、従業員は4440名、自動車タイヤ業界では第4位だった。1979年12月期の売上高は1197億円と初めて1000億円台に乗り、経常利益は74億円を計上した。1981年にはオーツタイヤの株式48パーセントを取得して全面提携に入った。
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|---|---|---|---|---|
| 1909〜1949年英国資本の会社として神戸に生まれ、日本のゴム工業の教師となった四十年(1909〜1949) | ダンロップ護謨(極東)を設立 | ★★★ | ||
| 日本ダンロップ護謨に商号変更 | ★★ | |||
| 中央ゴム工業に商号変更 | ★★ | |||
| 日本ダンロップ護謨に商号を復帰 | ★★ | |||
| 1950〜1982年外資支配からの資本再編 | 住友電気工業・住友商事と資本提携 | ★★ | ||
| 名古屋工場の操業開始 | ★ | |||
| 日本長期信用銀行と資本提携 | ★★ | |||
| 住友電気工業を中心とする日本側への経営権の移行と、住友ゴム工業への商号変更 1963年、日本ダンロップ護謨は英国ダンロップ社との合意により経営権を住友電気工業を中心とする日本側へ移し、10月1日に商号を住友ゴム工業へ改めた。ダンロップの社名は、同時に設立した販売会社へ移した。 詳細を読む | ★★★ | |||
| 住友ゴム工業に商号変更と日本ダンロップ護謨の設立 | ★★ | |||
| 加古川工場の操業開始 | ★ | |||
| 白河工場の操業開始 | ★ | |||
| 東京・大阪・名古屋の3証券取引所第二部に上場 | ★ | |||
| オーツタイヤ株式48%の取得と全面提携 | ★★ | |||
| 1983〜2002年英国ダンロップの株式取得と欧米工場の買収、阪神大震災とグッドイヤーとの提携 | 保有株の買い取りによる欧州3社・米国のタイヤ事業の取り込み 1983年12月、住友ゴム工業の発行済株式総数の40パーセントを保有していた英国ダンロップ社から、日本側の株主がその全株式を取得した。続く1984年から1986年にかけて、フランス、イギリス、西ドイツ、アメリカのダンロップのタイヤ事業を相次いで買い取り、日米欧に製造と販売の拠点を持つ体制へ移った経営判断である。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 日本・台湾・韓国のダンロップ商標権の譲受 | ★★ | |||
| フランスにおけるダンロップ事業の経営開始 | ★★ | |||
| 英国・西独のダンロップ社タイヤ工場の買収 | ★★ | |||
| 米国の自動車タイヤメーカーの買収 | ★★ | |||
| 3証券取引所の第一部銘柄に指定 | ★ | |||
| 神戸市中央区における本社新社屋の竣工 | ★ | |||
| 阪神大震災による神戸工場の被災と閉鎖 | ★★★ | |||
| インドネシアに生産子会社を設立 | ★ | |||
| 市島工場の操業開始 | ★ | |||
| 米国グッドイヤーとの世界的提携契約の締結 | ★★ | |||
| オーツタイヤの第三者割当増資の全額引受 | ★★ | |||
| 中国江蘇省常熟市に生産子会社を設立 | ★ | |||
| 2003〜2026年オーツタイヤの合併と新興国工場、グッドイヤー提携解消とダンロップ商標の取得 | オーツタイヤと日本ダンロップの吸収合併 | ★★ | ||
| 名古屋証券取引所第一部の上場廃止 | ★ | |||
| 三野哲治 | タイに生産子会社を設立 | ★ | ||
| 三野哲治 | SRIスポーツの東京証券取引所第一部への上場 | ★ | ||
| 三野哲治 | SRIスポーツによるクリーブランドゴルフの買収 | ★ | ||
| 三野哲治 | 中国湖南省長沙市に生産子会社を設立 | ★ | ||
| 池田育嗣 | ブラジルに子会社を設立 | ★ | ||
| 池田育嗣 | SRIスポーツがダンロップスポーツに商号変更 | ★ | ||
| 池田育嗣 | トルコに生産子会社を設立 | ★ | ||
| 池田育嗣 | 南アフリカのアポロタイヤ子会社の買収 | ★★ | ||
| 池田育嗣 | スイスのロンストロフの買収 | ★ | ||
| 池田育嗣 | グッドイヤーとの提携解消と北米子会社の完全子会社化 | ★★★ | ||
| 池田育嗣 | 英国のミシェルデバーグループの買収 | ★★ | ||
| 池田育嗣 | 海外のダンロップ商標権とスポーツ用品事業の譲受 | ★★ | ||
| 池田育嗣 | ダンロップスポーツの上場廃止 | ★ | ||
| 池田育嗣 | ダンロップスポーツの吸収合併によるスポーツ事業の統合 | ★★ | ||
| 山本悟 | 東京証券取引所プライム市場への移行 | ★ | ||
| 山本悟 | 国内タイヤ販売機能のダンロップタイヤへの統合 | ★ | ||
| 山本悟 | スイスのロンストロフの売却 | ★ | ||
| 山本悟 | 米国生産子会社の生産終了と解散の決定 | ★★ | ||
| 山本悟 | グッドイヤーからの欧州・北米・オセアニアの権利の買い戻しと、基幹ブランドのFALKENからの入れ替え 2025年1月8日、住友ゴム工業が米国グッドイヤーとのあいだで、欧州・北米・オセアニアにおける四輪タイヤの DUNLOP 商標権等を5億2,600万米ドル(約826億円)で取得する譲渡契約を締結した。2015年の提携解消時に自ら手放した商標権を、10年後に買い戻す判断である。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 山本悟 | 米国のViaductの買収 | ★ |
免責事項およびポリシー
事実根拠:出所(住友ゴム工業)