住友ゴム工業 の歴史

創業

1909年

創業者

ダンロップ・ラバー・カンパニー

創業地

兵庫県神戸市

直近売上高(2025/12)

12,071億円

長期業績と転換点(1996/12〜2025/12)
売上高(億円純利益率(%)
Q なぜ1909年に英国資本のゴム会社が神戸で創業したのか
A 日露戦争後に外資導入へ転じた日本で、英国ダンロップ社の技術と資本を招く動きが個別に実を結んだためである。桂太郎首相や渋沢栄一氏らが進めた総額2億円の外資導入シンジケート構想そのものは実現しなかったが、その交渉の過程から技術提携がいくつも生まれた。当初は日英仏合弁のゴム会社が計画され、日本とフランスの資本参加が得られずに英国資本だけで1909年10月4日に設立された。工場を神戸の脇浜に置いたのも、シンガポール積みの天然ゴムを最短で受けられる港が神戸だったからである
Q なぜ1963年に英国ダンロップ社は経営権を住友側へ渡したのか
A 英国の外貨規制によって、親会社が日本の工場拡充に必要な資金を出せなくなった。1961年2月、英国ダンロップ社は住友電気工業へ増資を申し入れ、バンク・オブ・イングランドが国際収支の悪化を理由に見返りのない海外投資を禁じているため日本への投資は許可されないと説明した。日本側は持株を買い増し、1963年9月25日の合意で経営権と社長の指名権が日本側にあることを確認した。同年10月1日に商号は住友ゴム工業へ変わり、サフェリー社長は会長へ退いて井上文左衛門氏が社長に就いた
Q なぜ2025年に自ら手放したDUNLOP ブランドを買い戻したのか
A 2015年の提携解消で欧米豪の商標権を失い、以後10年、乗用車用の上位ブランドを持てずにいた。住友ゴム工業は2025年1月8日、グッドイヤーから欧州・北米・オセアニアにおける四輪 DUNLOP の商標権などを5億2,600万米ドル、日本円で約826億円で取得する契約を結んだ山本悟社長は同じ日に、いつか DUNLOP を取り戻すという思いで FALKEN を育ててきたと語っている。ただし製造拠点は引き継がず、グッドイヤーから供給を受けられる期間は5年に限られる

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1909年〜 英国資本の会社として神戸に生まれ、日本のゴム工業の教師となった四十年(1909〜1949)

  1. 1917年 ダンロップ護謨(極東)を設立
  2. 1937年 日本ダンロップ護謨に商号変更
  3. 1943年 中央ゴム工業に商号変更
  4. 1949年 日本ダンロップ護謨に商号を復帰

日英仏合弁の挫折と、英国資本だけで始まった創業

日露戦争後、政府は維新以来抑えてきた外資導入へ転じた[1]。桂太郎首相、大蔵大臣の阪谷芳郎氏、青木周蔵駐英公使[2]ら政治家と、渋沢栄一氏、大倉喜八郎氏ら財界の有力者は、総額2億円の外資導入シンジケート[3]の設立を進めていた。この構想そのものは意見の相違から実現しなかったが、交渉の過程で個別の外資導入と技術提携がいくつも生まれた[4]。英国ダンロップ社の日本進出はその一つ[5]である。当初は大倉氏や阪谷氏、フランス人のルーネン氏、英国人のミルワード氏、グリア商会の間で、英国ダンロップ社の技術提供を受けた日英仏合弁のゴム会社が計画されていた[6]

  • 住友ゴム八十年史(1989年)「第一章 日本におけるゴム工業の勃興」
    • [1]日露戦争後、政府は外資導入抑制から積極策へ転換した
    • [2]外資導入シンジケート構想の関係者は桂太郎(首相)・阪谷芳郎(蔵相)・青木周蔵(駐英公使)
    • [3]シンジケートの構想規模は総額2億円
    • [4]シンジケート構想は意見の相違で実現せず、交渉過程で個別の外資導入・技術提携が生まれた
    • [5]個別に実現した外資導入・技術提携の一例が英国ダンロップ社の日本進出だった
    • [6]当初計画は英国ダンロップ社の技術提供を受けた日英仏合弁だった

合弁計画は日本とフランスの資本参加が得られず崩れた[7]。残った英国資本だけで、資本金8万1千ポンド[8]の The Dunlop Rubber Co. (Far East) Ltd. が香港に設立され、神戸市浪花町62番地への日本支店の設置が登記されたのは1909年10月4日[9]である。取締役はH・グリア氏とW・グリア氏の兄弟、初代の日本支店長はJ・シャイヤレー氏[10]が務めた。工場長には、のちに長く代表取締役を担うV・B・ウィルソン氏[11]が就いた。工場設置の許可は前年12月28日にグリア商会の名義で兵庫県知事から[12]得ていた。工場を神戸の脇浜に置いたのは、当時の欧州航路の終着点がすべて神戸港であり[13]、シンガポールで船積みされた天然ゴムを運ぶうえで有利だったためである。

  • 住友ゴム八十年史(1989年)「第一章 日本におけるゴム工業の勃興」
    • [7]日仏の資本参加が得られず英国資本のみで設立された
    • [8]設立時の資本金は8万1千ポンド
    • [9]1909年10月4日に神戸市浪花町62番地への日本支店設置が登記された
    • [10]取締役はH・グリアとW・グリアの兄弟、初代日本支店長はJ・シャイヤレー
    • [12]工場設置許可はグリア商会名義で1908年12月28日に兵庫県知事から得た
    • [13]神戸に工場を置いた理由は欧州航路の終着点であり天然ゴムの輸送に有利だったこと
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「日本ダンロップ護謨」の項
    • [11]工場長V・B・ウィルソンは後年に代表取締役となった
  • 住友ゴム八十年史(1989年)「第一章 日本におけるゴム工業の勃興」
    • [1]日露戦争後、政府は外資導入抑制から積極策へ転換した
    • [2]外資導入シンジケート構想の関係者は桂太郎(首相)・阪谷芳郎(蔵相)・青木周蔵(駐英公使)
    • [3]シンジケートの構想規模は総額2億円
    • [4]シンジケート構想は意見の相違で実現せず、交渉過程で個別の外資導入・技術提携が生まれた
    • [5]個別に実現した外資導入・技術提携の一例が英国ダンロップ社の日本進出だった
    • [6]当初計画は英国ダンロップ社の技術提供を受けた日英仏合弁だった
    • [7]日仏の資本参加が得られず英国資本のみで設立された
    • [8]設立時の資本金は8万1千ポンド
    • [9]1909年10月4日に神戸市浪花町62番地への日本支店設置が登記された
    • [10]取締役はH・グリアとW・グリアの兄弟、初代日本支店長はJ・シャイヤレー
    • [12]工場設置許可はグリア商会名義で1908年12月28日に兵庫県知事から得た
    • [13]神戸に工場を置いた理由は欧州航路の終着点であり天然ゴムの輸送に有利だったこと
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「日本ダンロップ護謨」の項
    • [11]工場長V・B・ウィルソンは後年に代表取締役となった

「ラバースクール」と呼ばれた工場と、日本法人への改組

30歳のウィルソン氏[14]は、技師のボーン氏、ベアーズ氏、キーン氏ら3人の職長とともに来日し、工場の建設と操業を指導した。日本人でグリア商会の主要な地位にあったのは武藤健氏ひとりで、1912年まで東京支店長を務めたのち[15]ダンロップ護謨(極東)に移り、渋沢氏や大倉氏の代理人として総支配人に就いた[16]。英国ダンロップ社は生産と技術の担当者を3年契約で送り込み、その選任は英国側に委ねられたが、再契約で任期を延ばすかどうかの主導権は昭和初年まで神戸の側が持っていた[17]。神戸港への天然ゴムの陸揚げ量は1913年に横浜港を上回った[18]

  • 住友ゴム八十年史(1989年)「第一章 日本におけるゴム工業の勃興」
    • [14]V・B・ウィルソンは来日時30歳で、技師・職長3人とともに工場建設と操業を指導した
    • [15]武藤健は1912年まで東京支店長を務めた後ダンロップ護謨(極東)に移った
    • [17]英国から派遣される技術者は3年契約で、再契約の主導権は昭和初年までダンロップ(極東)側にあった
    • [18]1913年に神戸港の天然ゴム陸揚げ量が横浜港を超えた
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「日本ダンロップ護謨」の項
    • [16]武藤健は渋沢栄一・大倉喜八郎の代理人として総支配人に就任した

本格的な設備と技術を備えたこの工場は、当時の日本のゴム工業に強い刺激を与えた[19]。『日本ゴム工業史』は、幼稚な技術段階に低迷していた業界が同社を模範として技術の向上に努め[20]、第一次世界大戦を契機とするゴム工業勃興の機運をつくったと記す。とくに自転車用タイヤの製造技術は、この工場から国内各社へ広まった[21]。1912年ころには国産タイヤ[22]が供給できるようになった。明治末期から大正初期にかけて神戸を中心にタイヤ製造会社が相次いで設立され[23]、1913年には河西善兵衛氏ら神戸財界の有力者が内外護謨を興した[24]。武藤氏は後年、ダンロップで働いた者のいないゴム会社はほとんどない[25]と述べた。工場は「ラバースクール」とも呼ばれた[26]

  • 住友ゴム八十年史(1989年)「第一章 日本におけるゴム工業の勃興」所載『日本ゴム工業史』
    • [19]本格的な設備と技術を持つ同社の出現が当時の日本のゴム工業に大きな刺激を与えた
    • [20]『日本ゴム工業史』はダンロップ(極東)が業界の模範となり技術向上を促したと評価している
    • [21]自転車用タイヤの製造技術を助長促進させた功績が大きいと評価された
    • [22]1912年ころには国産タイヤが供給できるようになった
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社、1968年)「ゴム」の項
    • [23]明治末期から大正初期に神戸を中心にタイヤ製造会社が相次いで設立された
  • 住友ゴム八十年史(1989年)「第一章 日本におけるゴム工業の勃興」
    • [24]1913年に河西善兵衛ら神戸財界の有力者が内外護謨を設立した
    • [26]ダンロップの工場は別名ラバースクールと呼ばれた
  • 日本護謨協会誌 武藤健「日本に於けるゴム工業の過去、現在及将来」
    • [25]武藤健は日本護謨協会誌でダンロップ出身者が各社に散ったことを述べた

1917年3月6日、日本商法の規定により資本金118万円の日本法人へ改組[27]し、ダンロップ護謨(極東)株式会社となった。それまでは英語名の The Dunlop Rubber Co. (Far East) Ltd.[28] を使っていた。英国からの新技術と新設備の導入は続き、ゴム工業界での指導的な地位は保たれた[29]。自動車業界の発展に伴って設備の拡充が必要になり、1936年2月に資本金を800万円へ増やし[30]、翌1937年2月には社名を日本ダンロップ護謨へ改めた[31]。有価証券報告書が設立年月を1917年3月とするのは[32]、この日本法人化を設立と数えるためである。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「日本ダンロップ護謨」の項
    • [27]1917年3月6日に資本金118万円の日本法人へ改組した
    • [29]英国から絶えず新技術と新設備を導入しゴム工業界の指導的立場を維持した
    • [30]1936年2月に資本金を800万円へ増資した
  • 住友ゴム八十年史(1989年)「第一章 日本におけるゴム工業の勃興」
    • [28]日本法人化以前は英語名 The Dunlop Rubber Co. (Far East) Ltd. を使用していた
  • 住友ゴム工業 有価証券報告書【沿革】
    • [31]1937年2月に社名を日本ダンロップ護謨へ改称した
    • [32]有価証券報告書の設立年月1917年3月は日本法人化を起点としている
  • 住友ゴム八十年史(1989年)「第一章 日本におけるゴム工業の勃興」
    • [14]V・B・ウィルソンは来日時30歳で、技師・職長3人とともに工場建設と操業を指導した
    • [15]武藤健は1912年まで東京支店長を務めた後ダンロップ護謨(極東)に移った
    • [17]英国から派遣される技術者は3年契約で、再契約の主導権は昭和初年までダンロップ(極東)側にあった
    • [18]1913年に神戸港の天然ゴム陸揚げ量が横浜港を超えた
    • [24]1913年に河西善兵衛ら神戸財界の有力者が内外護謨を設立した
    • [26]ダンロップの工場は別名ラバースクールと呼ばれた
    • [28]日本法人化以前は英語名 The Dunlop Rubber Co. (Far East) Ltd. を使用していた
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「日本ダンロップ護謨」の項
    • [16]武藤健は渋沢栄一・大倉喜八郎の代理人として総支配人に就任した
    • [27]1917年3月6日に資本金118万円の日本法人へ改組した
    • [29]英国から絶えず新技術と新設備を導入しゴム工業界の指導的立場を維持した
    • [30]1936年2月に資本金を800万円へ増資した
  • 住友ゴム八十年史(1989年)「第一章 日本におけるゴム工業の勃興」所載『日本ゴム工業史』
    • [19]本格的な設備と技術を持つ同社の出現が当時の日本のゴム工業に大きな刺激を与えた
    • [20]『日本ゴム工業史』はダンロップ(極東)が業界の模範となり技術向上を促したと評価している
    • [21]自転車用タイヤの製造技術を助長促進させた功績が大きいと評価された
    • [22]1912年ころには国産タイヤが供給できるようになった
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社、1968年)「ゴム」の項
    • [23]明治末期から大正初期に神戸を中心にタイヤ製造会社が相次いで設立された
  • 日本護謨協会誌 武藤健「日本に於けるゴム工業の過去、現在及将来」
    • [25]武藤健は日本護謨協会誌でダンロップ出身者が各社に散ったことを述べた
  • 住友ゴム工業 有価証券報告書【沿革】
    • [31]1937年2月に社名を日本ダンロップ護謨へ改称した
    • [32]有価証券報告書の設立年月1917年3月は日本法人化を起点としている

敵産処分による中央ゴム工業への改称と、英国への返還

1929年に試みられた日英合弁[33]は不調に終わった。英国ダンロップ社はこれに見切りをつけ、ダンロップ護謨(極東)の株式の過半を取得して独自の経営体制を敷いた[34]。1936年2月の増資は大倉組の資本参加を見込んだもので、総帥の門野重九郎氏が自らロンドンへ赴いて[35]英国ダンロップ社と協議し、日英合弁契約を結んだ。だが翌1937年に株式代金の送金が認可されず、合弁は頓挫した[36]。社長は太平洋戦争中を除いて代々英国人が務め[37]、初代は短期間で日本を去ったが、2代社長のウィルソン氏は開戦まで在任し[38]、日本にゴム技術、とりわけ自動車タイヤ製造の技術を移植した[39]

  • 住友ゴム八十年史(1989年)「第三章 戦時体制下のダンロップ(極東)」
    • [33]1929年の日英合弁は不調に終わり、英国ダンロップ社が株式の過半を取得した
    • [34]英国ダンロップ社は過半数株式を取得して独自の経営体制を敷いた
    • [35]1936年2月の増資は大倉組の資本参加を予定したもので、門野重九郎が自らロンドンへ赴き日英合弁契約を結んだ
    • [36]1937年に株式代金のロンドン送金が認可されず日英合弁は実現しなかった
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「日本ダンロップ護謨」の項
    • [37]社長は太平洋戦争中を除き代々英国人が就任した
    • [38]2代社長V・B・ウィルソンは創業当初から技術面を担当し開戦まで在任した
    • [39]日本にゴム技術とりわけ自動車タイヤ製造技術を移植した功績が大きいと評価された

太平洋戦争が始まると英国資本の会社としての立場は失わ[40]れ、1942年6月には敵産管理法に基づいて商工省の管理下に置かれ[41]、同年のうちに敵産処分で大倉商事ほか5社へ譲渡された[42]。1943年1月に社名は中央ゴム工業へ変わり[43]、1944年4月には軍需会社に指定されて「神武第七一七六工場」という秘匿名[44]を与えられた。防弾タンクの外張りの開発にも加わり、中央ゴムを含む4社が生産にあたった[45]。1945年6月の戦災で全工場の約8割を焼失した[46]が、復旧に努めた結果、終戦直前には一部の重要製品の生産を再開した。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「日本ダンロップ護謨」の項
    • [40]太平洋戦争の勃発により敵産管理法の対象となった
    • [41]1942年6月に敵産管理法により商工省の管理下に置かれた
    • [42]1942年の敵産処分で大倉商事ほか5社へ譲渡された
    • [46]1945年6月の戦災で全工場の約8割を焼失した
  • 住友ゴム工業 有価証券報告書【沿革】
    • [43]1943年1月に中央ゴム工業へ改称した
  • 住友ゴム八十年史(1989年)「第四章 戦時統制経済から戦後復興へ」
    • [44]1944年4月に軍需会社へ指定され「神武第七一七六工場」の秘匿名が付された
    • [45]防弾タンク外張りの生産は中央ゴムを含む4社が担当した

終戦とともに民需生産へ戻り、占領軍軍政部の許可を得て、鉄鋼・石炭に次ぐ重要産業とされた自動車タイヤと、炭鉱資材のコンベアベルトを重点的に生産した[47]。会社を英国へ返す交渉は日英両政府の間で進み[48]、1949年8月、大蔵大臣の指示により[49]中央ゴム工業は経営と資産の全部を英国ダンロップ社へ返還し、社名も日本ダンロップ護謨に戻った[50]。返還後は英国の研究所と直結し、世界のダンロップ各社の組織網を使えることが強みとなった[51]。帝国人絹の協力で強力人絹コードをいち早く採用し[52]、自動車タイヤの品質を高めたのもその一例である。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「日本ダンロップ護謨」の項
    • [47]終戦後は自動車タイヤと炭鉱用コンベアベルトを重点生産した
    • [49]1949年8月に大蔵大臣の指示で経営と資産の全部を英国ダンロップ社へ返還した
    • [51]英国の研究所と直結し世界のダンロップ各社の組織網を活用できることが強みだった
    • [52]帝国人絹の協力で強力人絹コードを採用し自動車タイヤの品質を高めた
  • 住友ゴム八十年史(1989年)「第五章 戦後「復興」の軌跡」
    • [48]会社返還の交渉は日英政府間で進められた
  • 住友ゴム工業 有価証券報告書【沿革】
    • [50]返還により社名は日本ダンロップ護謨へ復した
  • 住友ゴム八十年史(1989年)「第三章 戦時体制下のダンロップ(極東)」
    • [33]1929年の日英合弁は不調に終わり、英国ダンロップ社が株式の過半を取得した
    • [34]英国ダンロップ社は過半数株式を取得して独自の経営体制を敷いた
    • [35]1936年2月の増資は大倉組の資本参加を予定したもので、門野重九郎が自らロンドンへ赴き日英合弁契約を結んだ
    • [36]1937年に株式代金のロンドン送金が認可されず日英合弁は実現しなかった
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「日本ダンロップ護謨」の項
    • [37]社長は太平洋戦争中を除き代々英国人が就任した
    • [38]2代社長V・B・ウィルソンは創業当初から技術面を担当し開戦まで在任した
    • [39]日本にゴム技術とりわけ自動車タイヤ製造技術を移植した功績が大きいと評価された
    • [40]太平洋戦争の勃発により敵産管理法の対象となった
    • [41]1942年6月に敵産管理法により商工省の管理下に置かれた
    • [42]1942年の敵産処分で大倉商事ほか5社へ譲渡された
    • [46]1945年6月の戦災で全工場の約8割を焼失した
    • [47]終戦後は自動車タイヤと炭鉱用コンベアベルトを重点生産した
    • [49]1949年8月に大蔵大臣の指示で経営と資産の全部を英国ダンロップ社へ返還した
    • [51]英国の研究所と直結し世界のダンロップ各社の組織網を活用できることが強みだった
    • [52]帝国人絹の協力で強力人絹コードを採用し自動車タイヤの品質を高めた
  • 住友ゴム工業 有価証券報告書【沿革】
    • [43]1943年1月に中央ゴム工業へ改称した
    • [50]返還により社名は日本ダンロップ護謨へ復した
  • 住友ゴム八十年史(1989年)「第四章 戦時統制経済から戦後復興へ」
    • [44]1944年4月に軍需会社へ指定され「神武第七一七六工場」の秘匿名が付された
    • [45]防弾タンク外張りの生産は中央ゴムを含む4社が担当した
  • 住友ゴム八十年史(1989年)「第五章 戦後「復興」の軌跡」
    • [48]会社返還の交渉は日英政府間で進められた

1950年〜 設備投資に慎重な英国人経営を経て、住友へ経営権が移った三十年(1950〜1980)

住友ゴム工業の業績推移:単体

売上高(億円)純利益率(%)
  1. 1960年 住友電気工業・住友商事と資本提携
  2. 1961年 名古屋工場の操業開始
  3. 1961年 日本長期信用銀行と資本提携
  4. 1963年 英国ダンロップ社から住友電気工業を中心とする日本側への経営権の移行と、住友ゴム工業への商号変更 増資も輸出先も本国の許可を待つ会社のままでいるか、経営権ごと引き取るか——1961年から1963年の日英交渉
  5. 1963年 住友ゴム工業に商号変更と日本ダンロップ護謨の設立
  6. 1972年 加古川工場の操業開始
  7. 1974年 白河工場の操業開始

他社に追い越された設備投資と、日本側資本の導入

朝鮮特需が終わるとタイヤ業界は不況に入り[53]、各社は生産能力の拡大で競い合った。日本ダンロップ護謨の1955年の売上高は50億円[54]で、先に設備投資へ踏み切っていた他社と比べると伸び率で見劣りした。好況が訪れても生産能力が足りず、そのことが代理店の戦力を落とす遠因[55]にもなった。英国人の経営陣は設備の増強に慎重で[56]あり、日本人スタッフが求める第二工場の建設はなかなか認められなかった。英国ダンロップ社が新工場の建設を認めたのは1959年春[57]で、日本人スタッフが長く待ち望んでいた第二工場[58]である。

  • 住友ゴム八十年史(1989年)「第五章 戦後「復興」の軌跡」
    • [53]特需の終了後にタイヤ業界は不況へ突入した
  • 住友ゴム八十年史(1989年)「第六章 「戦後」終わり高度成長期へ」
    • [54]1955年の売上高は50億円で、設備投資を先行させた他社に伸び率で劣った
    • [55]生産能力不足が好況期に代理店の戦力低下を招いた
    • [56]英国人経営陣は設備増強に慎重で、日本人スタッフの第二工場建設要請は長く認められなかった
    • [57]新工場の建設が認められたのは1959年春
    • [58]第二工場の建設は日本人スタッフの間で待望久しかった

建設費をまかなうため日本側の資本[59]が入り、1960年4月の増資で住友電気工業と住友商事が資本提携し[60]、日本側株主の持分は約30パーセントとなった。1961年10月には日本長期信用銀行が加わり[61]、日本側は約50パーセントに達した。この間の業績は低迷が続[62]き、工場建設が決まった1959年の売上高は前年比130パーセントの69億円だったが期間利益は5,000万円[63]にとどまり、1960年は売上高85億円に対して経常利益8,200万円[64]で、英国人経営陣は無配を決めざるをえなかった。1961年も当期利益は2,000万円[65]である。

  • 住友ゴム八十年史(1989年)「第六章 「戦後」終わり高度成長期へ」
    • [59]新工場の建設決定に伴い日本側資本が導入された
    • [62]この時期の日本ダンロップの業績は低迷が続いた
    • [63]1959年の売上高は前年比130%の69億円、期間利益は5,000万円
    • [64]1960年は売上高85億円・経常利益8,200万円で無配となった
    • [65]1961年の当期利益は2,000万円
  • 住友ゴム工業 有価証券報告書【沿革】
    • [60]1960年4月の増資で住友電気工業・住友商事と資本提携し日本側持分は約30%となった
    • [61]1961年10月に日本長期信用銀行が資本参加し日本側持分は約50%になった

名古屋工場は1961年6月に操業を始め[66]、開所披露は1962年4月25日に行われた[67]。敷地は17万6,000平方メートル[68]、工場は付属建物を含めて2万2,000平方メートルで、月あたりの新ゴム消費量500トン、タイヤ生産本数6万2,500本[69]の能力を備えた。世界第一級のレイアウトで設計され[70]、新鋭機械が並んだ。しかし先に投資へ踏み切っていた他社はさらに能力を引き上げており、第二次、第三次の拡充が直ちに必要だった[71]。1952年に着任したサフェリー社長は、タイヤが計画どおり販売できていないことを理由に、この年に予定していた11億円の設備投資を延期した[72]

  • 住友ゴム工業 有価証券報告書【沿革】
    • [66]名古屋工場は1961年6月に操業を開始した
  • 住友ゴム八十年史(1989年)「第六章 「戦後」終わり高度成長期へ」
    • [67]名古屋工場の開所披露は1962年4月25日
    • [68]敷地17万6,000平方メートル、工場2万2,000平方メートル
    • [69]月間新ゴム消費量500トン・タイヤ生産6万2,500本の能力
    • [70]名古屋工場は世界第一級のレイアウトで設計され新鋭機械が並んだ
    • [71]他社はさらに生産能力を引き上げており第二次・第三次の拡充が必要だった
    • [72]サフェリー社長は販売不振を理由に11億円の設備投資を延期した
  • 住友ゴム八十年史(1989年)「第五章 戦後「復興」の軌跡」
    • [53]特需の終了後にタイヤ業界は不況へ突入した
  • 住友ゴム八十年史(1989年)「第六章 「戦後」終わり高度成長期へ」
    • [54]1955年の売上高は50億円で、設備投資を先行させた他社に伸び率で劣った
    • [55]生産能力不足が好況期に代理店の戦力低下を招いた
    • [56]英国人経営陣は設備増強に慎重で、日本人スタッフの第二工場建設要請は長く認められなかった
    • [57]新工場の建設が認められたのは1959年春
    • [58]第二工場の建設は日本人スタッフの間で待望久しかった
    • [59]新工場の建設決定に伴い日本側資本が導入された
    • [62]この時期の日本ダンロップの業績は低迷が続いた
    • [63]1959年の売上高は前年比130%の69億円、期間利益は5,000万円
    • [64]1960年は売上高85億円・経常利益8,200万円で無配となった
    • [65]1961年の当期利益は2,000万円
    • [67]名古屋工場の開所披露は1962年4月25日
    • [68]敷地17万6,000平方メートル、工場2万2,000平方メートル
    • [69]月間新ゴム消費量500トン・タイヤ生産6万2,500本の能力
    • [70]名古屋工場は世界第一級のレイアウトで設計され新鋭機械が並んだ
    • [71]他社はさらに生産能力を引き上げており第二次・第三次の拡充が必要だった
    • [72]サフェリー社長は販売不振を理由に11億円の設備投資を延期した
  • 住友ゴム工業 有価証券報告書【沿革】
    • [60]1960年4月の増資で住友電気工業・住友商事と資本提携し日本側持分は約30%となった
    • [61]1961年10月に日本長期信用銀行が資本参加し日本側持分は約50%になった
    • [66]名古屋工場は1961年6月に操業を開始した

バンク・オブ・イングランドの規制が動かした経営権

1961年2月、英国ダンロップ社はペッパコーン常務とホルト取締役を日本へ送り[73]、資本構成の変更を主とした増資計画を住友電気工業へ申し入れた。名古屋新工場の拡充には当初の計画をはるかに超える資金[74]が要る。ところがバンク・オブ・イングランドは、英国の国際収支の悪化を理由に見返りのない海外投資を禁じており[75]、1956年以降の多額の海外投資からの収入が少ない[76]英国ダンロップ社に対しては、日本への投資を許可しない方針である。そこで持株の一部を日本側へ売却し、増資資金に充てたいという申し出[77]であった。

  • 住友ゴム八十年史(1989年)「第六章 「戦後」終わり高度成長期へ」
    • [73]1961年2月に英国ダンロップ社がペッパコーン常務とホルト取締役を派遣し増資計画を申し入れた
    • [74]名古屋新工場の拡充には当初計画をはるかに超える資金を要すると説明された
    • [75]バンク・オブ・イングランドが英国の国際収支悪化を理由に見返りのない海外投資を禁じていた
    • [76]1956年以降の海外投資からの収入が少ないため日本への投資は許可されない方針だった
    • [77]英国ダンロップ社は持株の一部を日本側へ売却して増資資金に充てることを申し出た

住友電気工業の北川社長は、かねて資本参加を希望していた日本長期信用銀行に10パーセントを持たせ、住友側が40パーセントを持つ[78]ことで日英を50対50にする案を示した。1961年3月に英国側から50対50を前提とする増資の申し入れがあり、持株比率は英国ダンロップ社50パーセント、住友電気工業32パーセント、日本長期信用銀行10パーセント、住友商事8パーセント[79]と決まった。1962年4月、再来日したペッパコーン常務は、翌年の工場拡充にさらに20億円が要る[80]としたうえで、英国側の持株が50パーセントを割っても35パーセントか40パーセントで両社等分の共同経営とする案[81]を示した。

  • 住友ゴム八十年史(1989年)「第六章 「戦後」終わり高度成長期へ」
    • [78]住友電気工業の北川社長が長銀10%・住友側40%で日英50対50とする案を提示した
    • [79]持株比率は英国ダンロップ50%・住友電工32%・長銀10%・住友商事8%と決まった
    • [80]1962年4月にペッパコーン常務は翌年の工場拡充に20億円が必要と述べた
    • [81]英国側は持株50%割れでも両社等分の共同経営とする案を示した

交渉の焦点の一つは輸出[82]であり、英国ダンロップ社は世界を地域に分けてダンロップブランドを展開しており、日本のテリトリーは極東に限られていた[83]。輸出量を伸ばせなければ日本の企業として成り立たないと考えた住友側は地域の拡大を再三求めたが、世界的な原則が崩れることを恐れた英国側は固く拒んだ[84]。そこで住友側は、独自の技術で開発する住友ブランドのタイヤを新たに設けるという案を逆に提示した[85]。技術の蓄積も見込めるとしてこの方針は積極的に進められ、住友タイヤは1964年に世に出て、1966年には社長の井上文左衛門氏の交渉によって北米への輸出が始まった[86]

  • 住友ゴム八十年史(1989年)「第六章 「戦後」終わり高度成長期へ」
    • [82]輸出地域の制限が住友電工と英国ダンロップ社の交渉の焦点となった
    • [83]英国ダンロップ社は世界をテリトリーに分け、日本の輸出先は極東に限られていた
    • [84]住友側の地域拡大要求を英国側は固く拒んだ
    • [85]住友側は住友ブランドのタイヤ創出を逆提案した
    • [86]住友タイヤは1964年に誕生し、1966年に北米への輸出が始まった
  • 住友ゴム八十年史(1989年)「第六章 「戦後」終わり高度成長期へ」
    • [73]1961年2月に英国ダンロップ社がペッパコーン常務とホルト取締役を派遣し増資計画を申し入れた
    • [74]名古屋新工場の拡充には当初計画をはるかに超える資金を要すると説明された
    • [75]バンク・オブ・イングランドが英国の国際収支悪化を理由に見返りのない海外投資を禁じていた
    • [76]1956年以降の海外投資からの収入が少ないため日本への投資は許可されない方針だった
    • [77]英国ダンロップ社は持株の一部を日本側へ売却して増資資金に充てることを申し出た
    • [78]住友電気工業の北川社長が長銀10%・住友側40%で日英50対50とする案を提示した
    • [79]持株比率は英国ダンロップ50%・住友電工32%・長銀10%・住友商事8%と決まった
    • [80]1962年4月にペッパコーン常務は翌年の工場拡充に20億円が必要と述べた
    • [81]英国側は持株50%割れでも両社等分の共同経営とする案を示した
    • [82]輸出地域の制限が住友電工と英国ダンロップ社の交渉の焦点となった
    • [83]英国ダンロップ社は世界をテリトリーに分け、日本の輸出先は極東に限られていた
    • [84]住友側の地域拡大要求を英国側は固く拒んだ
    • [85]住友側は住友ブランドのタイヤ創出を逆提案した
    • [86]住友タイヤは1964年に誕生し、1966年に北米への輸出が始まった

住友ゴム工業の発足と、上場までの立て直し

1962年の決算は過去最悪[87]となった。売上高は前年比102パーセントの96億2,400万円[88]とわずかに前年を上回ったものの、タイヤの売上は前年を割り、増収はゴルフボールの伸びに支えられたものだった。上期・下期とも赤字で、年間1億4,000万円の欠損[89]である。欠損の要因を事務・技術スタッフの過剰と考えたサフェリー社長は合理化案の提出を命じた[90]。日本人スタッフは、社内公用語がいまだ英語であることが非効率の原因であり、日本語が公用語になれば事態は相当変わると答申したが、日本語使用の提案は否認された[91]

  • 住友ゴム八十年史(1989年)「第六章 「戦後」終わり高度成長期へ」
    • [87]1962年の決算は過去最悪となった
    • [88]1962年の売上高は前年比102%の96億2,400万円だがタイヤは前年割れだった
    • [89]1962年は年間1億4,000万円の欠損となった
    • [90]サフェリー社長は欠損の要因を事務・技術スタッフの過剰と考え合理化案を命じた
    • [91]日本人スタッフは社内公用語が英語であることを非効率の原因として日本語化を答申したが否認された

1963年9月25日[92]、英国ダンロップ社と住友電気工業の間で新たな取り決めが合意に達した。技術援助契約の期間を20年とし、一定の利率でロイヤリティーを支払うこと、住友タイヤの輸出を認めること、経営権すなわち社長の指名権が日本側にあることを確認すること[93]、販売会社としてダンロップの社名を残すこと。同年10月1日、商号を住友ゴム工業へ改める[94]とともに、資本金1億円の販売会社として日本ダンロップ護謨株式会社を全額出資で設立した[95]。サフェリー氏は会長へ退き、社長には住友電気工業の専務だった井上文左衛門氏が就いた[96]

  • 住友ゴム八十年史(1989年)「第六章 「戦後」終わり高度成長期へ」
    • [92]1963年9月25日に英国ダンロップ社と住友電気工業の取り決めが合意に達した
    • [93]取り決めは技術援助契約20年・住友タイヤ輸出の容認・経営権の日本側確認・販売会社へのダンロップ社名存続の4項目
  • 住友ゴム工業 有価証券報告書【沿革】
    • [94]1963年10月1日に商号を住友ゴム工業へ変更した
  • 住友ゴム八十年史(1989年)「第七章 住友ゴム工業株式会社の誕生」
    • [95]販売会社として資本金1億円の日本ダンロップ護謨を全額出資で設立した
    • [96]サフェリーが会長、井上文左衛門が社長に就任した

発足直後の経営[97]は厳しく、社名変更初年度である1963年の売上高は前年比102パーセントの98億6,200万円で、2億6,000万円の純損[98]を計上した。井上社長は経営の五方針を掲げ[99]、原価低減の徹底と良質品の効率的生産を進めた。住友電気工業から来た下川常雄専務が総務・人事・経理・営業を束ね[100]、のちに社長として立て直しを担った。工場は名古屋に続き、1972年に兵庫県加古川市の加古川工場、1974年に福島県白河市の白河工場が操業を始めた[101]。1975年1月14日[102]には東京・大阪・名古屋の3証券取引所の第二部へ株式を上場した。このときの大株主はダンロップ・インタナショナルが43.75パーセント、住友電気工業が38.25パーセント[103]、日本長期信用銀行が10.00パーセント、住友商事が8.00パーセントで、上場を申請した時点の年間売上高600億円は、自動車タイヤ業界の第4位にあたった[104]

  • 住友ゴム八十年史(1989年)「第七章 住友ゴム工業株式会社の誕生」
    • [97]住友ゴム工業の発足直後は赤字が続いた
    • [98]1963年(社名変更初年度)の売上高は98億6,200万円、純損は2億6,000万円
    • [99]井上社長は経営五方針を掲げ原価低減と良質品の効率的生産を進めた
    • [100]下川常雄は住友電気工業から専務として着任し、のちに社長となった
  • 住友ゴム工業 有価証券報告書【沿革】
    • [101]1972年に加古川工場、1974年に白河工場が操業を開始した
  • 証券 1975年 第27巻第2号「新規上場会社紹介 住友ゴム工業株式会社」
    • [102]1975年1月14日に東京・大阪・名古屋の3証券取引所第二部へ上場した
    • [103]上場時の大株主はダンロップ・インタナショナル43.75%・住友電工38.25%・長銀10.00%・住友商事8.00%
    • [104]年間売上高600億円で自動車タイヤ業界第4位だった
  • 住友ゴム八十年史(1989年)「第六章 「戦後」終わり高度成長期へ」
    • [87]1962年の決算は過去最悪となった
    • [88]1962年の売上高は前年比102%の96億2,400万円だがタイヤは前年割れだった
    • [89]1962年は年間1億4,000万円の欠損となった
    • [90]サフェリー社長は欠損の要因を事務・技術スタッフの過剰と考え合理化案を命じた
    • [91]日本人スタッフは社内公用語が英語であることを非効率の原因として日本語化を答申したが否認された
    • [92]1963年9月25日に英国ダンロップ社と住友電気工業の取り決めが合意に達した
    • [93]取り決めは技術援助契約20年・住友タイヤ輸出の容認・経営権の日本側確認・販売会社へのダンロップ社名存続の4項目
  • 住友ゴム工業 有価証券報告書【沿革】
    • [94]1963年10月1日に商号を住友ゴム工業へ変更した
    • [101]1972年に加古川工場、1974年に白河工場が操業を開始した
  • 住友ゴム八十年史(1989年)「第七章 住友ゴム工業株式会社の誕生」
    • [95]販売会社として資本金1億円の日本ダンロップ護謨を全額出資で設立した
    • [96]サフェリーが会長、井上文左衛門が社長に就任した
    • [97]住友ゴム工業の発足直後は赤字が続いた
    • [98]1963年(社名変更初年度)の売上高は98億6,200万円、純損は2億6,000万円
    • [99]井上社長は経営五方針を掲げ原価低減と良質品の効率的生産を進めた
    • [100]下川常雄は住友電気工業から専務として着任し、のちに社長となった
  • 証券 1975年 第27巻第2号「新規上場会社紹介 住友ゴム工業株式会社」
    • [102]1975年1月14日に東京・大阪・名古屋の3証券取引所第二部へ上場した
    • [103]上場時の大株主はダンロップ・インタナショナル43.75%・住友電工38.25%・長銀10.00%・住友商事8.00%
    • [104]年間売上高600億円で自動車タイヤ業界第4位だった

1981年〜 親会社のタイヤ事業を買い取り、日米欧の三極に生産拠点を築いた(1981〜1998)

住友ゴム工業の業績推移:単体

売上高(億円)純利益率(%)
  1. 1981年 オーツタイヤ株式48%の取得と全面提携
  2. 1983年 英国ダンロップ社保有株の買い取りと、欧州3社・米国ダンロップのタイヤ事業の取得 英国ダンロップ社が持っていた40パーセントの株式を買い取り、続けて赤字の欧州3社と米国ダンロップ社まで引き受けた3年間
  3. 1984年 日本・台湾・韓国のダンロップ商標権の譲受
  4. 1984年 フランスにおけるダンロップ事業の経営開始
  5. 1985年 英国・西独のダンロップ社タイヤ工場の買収
  6. 1986年 米国の自動車タイヤメーカーの買収
  7. 1995年 阪神大震災による神戸工場の被災と閉鎖

オーツタイヤとの提携と、英国ダンロップ株の取得

1980年代に入るとタイヤ業界は再編[105]へ動いた。ラジアル構造のタイヤが広まり、量から質への移行が進む[106]一方、生産量の3分の1を占めていた輸出は円高で打撃を受けた。1979年に日東タイヤが東洋ゴム工業と技術提携し[107]、1981年5月には経営が困難になったオーツタイヤが住友ゴム工業の資本参加を仰いだ[108]。取得比率は発行済株式総数の48パーセント[109]で、両社は全面提携に入る。戦後のタイヤ業界はブリヂストン、横浜ゴム、住友ゴム工業、東洋ゴム工業、日東タイヤ、オーツタイヤの6社体制[110]が続いてきたが、この時期に寡占化が進んだ。住友ゴム工業の1980年の売上高は1,521億円で、上場した1975年の776億円から5年で倍増していた[111]

  • 日本産業史(日本経済新聞社、1994年)第3巻「繊維-繊維不況からDCブームへ」
    • [105]昭和50年代半ば(1980年前後)にタイヤ業界は本格的な再編成と国際化の時代を迎えた
    • [106]ラジアルタイヤの普及と円高で業界は量から質への移行と国際再編に入った
    • [107]1979年に日東タイヤが東洋ゴム工業と技術提携した
    • [108]1981年5月にオーツタイヤ株式の48%を取得し全面提携した
    • [110]戦後のタイヤ業界はブリヂストン・横浜ゴム・住友ゴム・東洋ゴム・日東タイヤ・オーツタイヤの6社体制だった
  • 住友ゴム工業 有価証券報告書【沿革】
    • [109]取得比率は発行済株式総数の48%
  • 住友ゴム八十年史(1989年)巻末「住友ゴム業績推移表」
    • [111]1980年の売上高1,521億円は上場した1975年の776億円から5年で倍増した

資本の関係が反転したのは1983年12月である[112]。横瀬恭平社長が2年をかけてまとめた契約[113]により、英国ダンロップ社が保有していた発行済株式総数の40パーセントにあたる全株式[114]を日本側が取得し、創業以来74年にわたって続いた英国資本との関係は、ここで終わった。翌1984年1月には日本、台湾、韓国における DUNLOP の商標権[115]を譲り受けた。1984年7月にフランスの現地法人が仏ダンロップ社の暖簾借りで経営を始め[116]、同年12月31日付で資産を正式に買収した。1985年1月には英国と西ドイツの現地法人が英国ダンロップ社からタイヤ工場[117]を買い取った。

  • 住友ゴム工業 有価証券報告書【沿革】
    • [112]1983年12月に英国ダンロップ社保有の全株式(発行済株式総数の40%)を日本側が取得した
    • [114]取得した株式は発行済株式総数の40%にあたる
    • [115]1984年1月に日本・台湾・韓国の DUNLOP 商標権を譲り受けた
    • [116]1984年7月にフランス現地法人が仏ダンロップ社の暖簾借りで経営を開始し同年12月31日付で資産を買収した
    • [117]1985年1月に英国・西ドイツの現地法人が英国ダンロップ社からタイヤ工場を買収した
  • 日本経済新聞 2018年1月5日「(追想録)横瀬恭平さん 元住友ゴム工業社長」
    • [113]1983年当時の社長は横瀬恭平で、2年の交渉を経て英国ダンロップ社保有株の取得をまとめた

1986年12月には米国の自動車タイヤメーカー[118]である米国ダンロップ社を買収し、日本、ヨーロッパ、アメリカの三大市場に生産と販売の拠点が揃[119]い、三極の体制ができあがった。日本産業史は、英国ダンロップが1909年に設立した日本ダンロップに戦後に住友電気工業などが資本参加してできた住友ゴム工業が、英国ダンロップから持株の大半を買い取って民族資本として新たに出発し[120]、英国と西ドイツの4工場、さらにフランスと米国のダンロップの工場も買収して、事実上消滅したダンロップに代わって世界的な大企業になった[121]と記している。

  • 住友ゴム工業 有価証券報告書【沿革】
    • [118]1986年12月に米国の自動車タイヤメーカーを買収した
  • 住友ゴム八十年史(1989年)「第一一章 国際戦略の推進と企業体質の強化」
    • [119]日本・ヨーロッパ・アメリカの三大市場に生産販売拠点が揃った
  • 日本産業史(日本経済新聞社、1994年)第3巻「繊維-繊維不況からDCブームへ」
    • [120]日本産業史は住友ゴムが民族資本として新たに出発したと記している
    • [121]事実上消滅したダンロップに代わって世界的大企業になったと評価された
  • 日本産業史(日本経済新聞社、1994年)第3巻「繊維-繊維不況からDCブームへ」
    • [105]昭和50年代半ば(1980年前後)にタイヤ業界は本格的な再編成と国際化の時代を迎えた
    • [106]ラジアルタイヤの普及と円高で業界は量から質への移行と国際再編に入った
    • [107]1979年に日東タイヤが東洋ゴム工業と技術提携した
    • [108]1981年5月にオーツタイヤ株式の48%を取得し全面提携した
    • [110]戦後のタイヤ業界はブリヂストン・横浜ゴム・住友ゴム・東洋ゴム・日東タイヤ・オーツタイヤの6社体制だった
    • [120]日本産業史は住友ゴムが民族資本として新たに出発したと記している
    • [121]事実上消滅したダンロップに代わって世界的大企業になったと評価された
  • 住友ゴム工業 有価証券報告書【沿革】
    • [109]取得比率は発行済株式総数の48%
    • [112]1983年12月に英国ダンロップ社保有の全株式(発行済株式総数の40%)を日本側が取得した
    • [114]取得した株式は発行済株式総数の40%にあたる
    • [115]1984年1月に日本・台湾・韓国の DUNLOP 商標権を譲り受けた
    • [116]1984年7月にフランス現地法人が仏ダンロップ社の暖簾借りで経営を開始し同年12月31日付で資産を買収した
    • [117]1985年1月に英国・西ドイツの現地法人が英国ダンロップ社からタイヤ工場を買収した
    • [118]1986年12月に米国の自動車タイヤメーカーを買収した
  • 住友ゴム八十年史(1989年)巻末「住友ゴム業績推移表」
    • [111]1980年の売上高1,521億円は上場した1975年の776億円から5年で倍増した
  • 日本経済新聞 2018年1月5日「(追想録)横瀬恭平さん 元住友ゴム工業社長」
    • [113]1983年当時の社長は横瀬恭平で、2年の交渉を経て英国ダンロップ社保有株の取得をまとめた
  • 住友ゴム八十年史(1989年)「第一一章 国際戦略の推進と企業体質の強化」
    • [119]日本・ヨーロッパ・アメリカの三大市場に生産販売拠点が揃った

欧州三社と米国ダンロップの立て直し

買収した各社は、いずれも赤字か低収益の状態[122]にあった。経営資料を分析した住友ゴム工業は、西ドイツのSPライフェンベルケ社は初年度から黒字経営が可能[123]、SPタイヤーズUK社とダンロップフランス社は2、3年後に実力で黒字を達成できるという見通しを立てた。再建はダンロップフランス社が1984年7月、SPタイヤーズUK社とSPライフェンベルケ社が1985年1月から[124]始まる。1984年と1985年の2年間で、イギリスに42億円、西ドイツに57億円、フランスに78億円、合わせて177億円[125]の設備投資を行った。

  • 住友ゴム八十年史(1989年)「第一一章 国際戦略の推進と企業体質の強化」
    • [122]買収した欧州各社は再建を要する状態にあった
    • [123]西ドイツのSPライフェンベルケ社は初年度から黒字可能、英仏2社は2〜3年後に黒字という見通しを立てた
    • [124]再建はダンロップフランス社が1984年7月、UK・西独2社が1985年1月から始まった
    • [125]1984〜85年の2年でイギリス42億円・西ドイツ57億円・フランス78億円の計177億円を投資した

1986年、SPライフェンベルケ社は黒字となって株主へ配当し[126]、ダンロップフランス社もわずかながら黒字へ転じ、SPタイヤーズUK社の赤字は前年より縮んだ。この年もイギリスに20億円、西ドイツに65億円、フランスに27億円の計112億円[127]を投じた。1987年には欧州3社が予定より1年早く揃って黒字[128]となった。教育と訓練で従業員の士気が上がり、合理化投資で品質と生産性が向上し[129]、販売も伸びたことが要因である。同年、米国ダンロップ社の経営が始まり[130]、自動車会社へ納入できる体質づくりを最大の課題として工場の近代化に着手した。

  • 住友ゴム八十年史(1989年)「第一一章 国際戦略の推進と企業体質の強化」
    • [126]1986年にSPライフェンベルケ社が黒字配当、ダンロップフランス社も黒字転換、UK社の赤字は大幅改善した
    • [127]1986年の設備投資はイギリス20億円・西ドイツ65億円・フランス27億円の計112億円
    • [128]1987年に欧州3社が予定より1年早く全社黒字となった
    • [129]黒字化の要因は教育訓練による士気向上・合理化投資による品質と生産性の向上・販売増
    • [130]1987年に米国ダンロップ社の経営が始まり工場の近代化に着手した

1988年の欧州3社は前年に続いて全社が黒字[131]を確保した。再建が最も遅れたSPタイヤーズUK社が、イギリスの自動車業界の活況にも恵まれて利益を改善[132]した。3社の売上高は4年で伸び、イギリスは1億3,600万ポンド、西ドイツは6億7,100万マルク、フランスは21億600万フラン[133]に達し、労働生産性はいずれも30数パーセント改善した。米国ダンロップ社の売上高も前年比120パーセントの5億3,900万ドル[134]となり、労働生産性はこの1年で20パーセント高まった。1988年9月、フランス政府は日仏の経済関係に尽くした功績として桂田社長にレジオン・ドヌール勲章オフィシエ章[135]を贈った。

  • 住友ゴム八十年史(1989年)「第一一章 国際戦略の推進と企業体質の強化」
    • [131]1988年も欧州3社は全社黒字を達成した
    • [132]1988年も欧州3社は全社黒字を確保し、UK社が大きく利益を改善した
    • [133]1988年の売上高はイギリス1億3,600万ポンド・西ドイツ6億7,100万マルク・フランス21億600万フラン
    • [134]米国ダンロップ社の売上高は前年比120%の5億3,900万ドル、労働生産性は20%改善した
    • [135]1988年9月にフランス政府が桂田社長へレジオン・ドヌール勲章オフィシエ章を贈った
  • 住友ゴム八十年史(1989年)「第一一章 国際戦略の推進と企業体質の強化」
    • [122]買収した欧州各社は再建を要する状態にあった
    • [123]西ドイツのSPライフェンベルケ社は初年度から黒字可能、英仏2社は2〜3年後に黒字という見通しを立てた
    • [124]再建はダンロップフランス社が1984年7月、UK・西独2社が1985年1月から始まった
    • [125]1984〜85年の2年でイギリス42億円・西ドイツ57億円・フランス78億円の計177億円を投資した
    • [126]1986年にSPライフェンベルケ社が黒字配当、ダンロップフランス社も黒字転換、UK社の赤字は大幅改善した
    • [127]1986年の設備投資はイギリス20億円・西ドイツ65億円・フランス27億円の計112億円
    • [128]1987年に欧州3社が予定より1年早く全社黒字となった
    • [129]黒字化の要因は教育訓練による士気向上・合理化投資による品質と生産性の向上・販売増
    • [130]1987年に米国ダンロップ社の経営が始まり工場の近代化に着手した
    • [131]1988年も欧州3社は全社黒字を達成した
    • [132]1988年も欧州3社は全社黒字を確保し、UK社が大きく利益を改善した
    • [133]1988年の売上高はイギリス1億3,600万ポンド・西ドイツ6億7,100万マルク・フランス21億600万フラン
    • [134]米国ダンロップ社の売上高は前年比120%の5億3,900万ドル、労働生産性は20%改善した
    • [135]1988年9月にフランス政府が桂田社長へレジオン・ドヌール勲章オフィシエ章を贈った

円高不況と、阪神大震災による神戸工場の閉鎖

海外への投資が進む一方、国内は円高に苦しんだ[136]。1985年9月のG5合意で年末に向けて円高が急激に進み[137]、対米ドルの円レートは1984年からの3年余りで1.6倍[138]になった。1985年の売上高は前年比98パーセントの2,007億円と社名変更以来初めての減収[139]となったが、経費の抑制と生産性の向上で円高の影響を吸収し、経常利益は前年比133パーセントの37億4,000万円を確保した。翌1986年はタイヤ部門が前年比91パーセントと落ち込み、売上高1,905億円、経常利益34億6,000万円の減収減益[140]となった。1987年6月には3証券取引所の第一部銘柄に指定[141]された。

  • 住友ゴム八十年史(1989年)「第一一章 国際戦略の推進と企業体質の強化」
    • [136]G5合意後の円高不況が業績を圧迫した
    • [137]1985年9月のG5合意により円高が急激に進んだ
    • [138]対米ドル円レートは1984年からの3年余りで1.6倍になった
    • [139]1985年は売上高2,007億円で社名変更以来初の減収、経常利益は37億4,000万円
    • [140]1986年は売上高1,905億円・経常利益34億6,000万円の減収減益
  • 住友ゴム工業 有価証券報告書【沿革】
    • [141]1987年6月に3証券取引所の第一部銘柄へ指定された

1994年8月、住友ゴム工業は神戸市中央区に本社の新社屋[142]を構えた。その5か月後の1995年1月17日、阪神大震災で神戸が被災した[143]。神戸工場と技術研究センターの建屋が被災し、住友ゴム工業は神戸工場を閉鎖して生産設備を名古屋工場や白河工場などへ移した[144]。1996年5月には兵庫県市島町に市島工場[145]が操業を始めた。生産設備の移管によって、創業の地である神戸からタイヤの生産はなくなった[146]。1995年7月にはインドネシアで生産子会社[147]を設けており、住友ゴム工業のアジアでの生産はここから広がった。

  • 住友ゴム工業 有価証券報告書【沿革】
    • [142]1994年8月に神戸市中央区で本社新社屋が竣工した
    • [143]1995年1月の阪神大震災で神戸工場と技術研究センターの建屋が被災した
    • [144]神戸工場を閉鎖し生産設備を名古屋工場・白河工場などへ移管した
    • [145]1996年5月に兵庫県市島町で市島工場が操業を開始した
    • [146]神戸工場の閉鎖と設備移管により神戸でのタイヤ生産は終了した
    • [147]1995年7月にインドネシアへ生産子会社を設立した
  • 住友ゴム八十年史(1989年)「第一一章 国際戦略の推進と企業体質の強化」
    • [136]G5合意後の円高不況が業績を圧迫した
    • [137]1985年9月のG5合意により円高が急激に進んだ
    • [138]対米ドル円レートは1984年からの3年余りで1.6倍になった
    • [139]1985年は売上高2,007億円で社名変更以来初の減収、経常利益は37億4,000万円
    • [140]1986年は売上高1,905億円・経常利益34億6,000万円の減収減益
  • 住友ゴム工業 有価証券報告書【沿革】
    • [141]1987年6月に3証券取引所の第一部銘柄へ指定された
    • [142]1994年8月に神戸市中央区で本社新社屋が竣工した
    • [143]1995年1月の阪神大震災で神戸工場と技術研究センターの建屋が被災した
    • [144]神戸工場を閉鎖し生産設備を名古屋工場・白河工場などへ移管した
    • [145]1996年5月に兵庫県市島町で市島工場が操業を開始した
    • [146]神戸工場の閉鎖と設備移管により神戸でのタイヤ生産は終了した
    • [147]1995年7月にインドネシアへ生産子会社を設立した

1999年〜 グッドイヤーとの十六年の提携を解き、手放したブランドを買い戻した二十七年(1999〜2025)

住友ゴム工業の業績推移:連結

売上高(億円)純利益率(%)
  1. 1999年 米国グッドイヤーとの世界的提携契約の締結
  2. 2000年 オーツタイヤの第三者割当増資の全額引受
  3. 2003年 オーツタイヤと日本ダンロップの吸収合併
  4. 2013年 南アフリカのアポロタイヤ子会社の買収
  5. 2015年 グッドイヤーとの提携解消と北米子会社の完全子会社化
  6. 2017年 英国のミシェルデバーグループの買収
  7. 2025年 グッドイヤーからの欧州・北米・オセアニアにおける四輪 DUNLOP 商標権の取得と、基幹ブランドの FALKEN からの入れ替え 2015年にグッドイヤーへ渡した欧米豪の四輪 DUNLOP 商標権を、10年後に826億円で買い直した判断

世界的提携の締結と、十六年後の解消

1999年2月、世界3位の米国グッドイヤーと5位の住友ゴム工業[148]が、日米欧にまたがる規模の資本・業務提携で合意した。両社を合わせるとタイヤ業界で首位に立つ規模となり[149]、業界の再編機運が高まった。週刊東洋経済は、欧米拠点の獲得によって世界首位を奪い返したいグッドイヤーの思惑と、事業リストラを進めたい住友ゴム工業の思惑が一致した[150]ものと報じている。同年6月に諸契約を締結し、9月から日本、北米、欧州で合弁事業[151]を始めた。住友ゴム工業はこの案件のアドバイザーに欧州系のウォーバーグ・ディロン・リード証券[152]を選んでいる。

  • 週刊東洋経済 1999年2月13日号「米グッドイヤーと住友ゴムが大連合」
    • [148]1999年2月に世界3位のグッドイヤーと5位の住友ゴム工業が資本・業務提携に合意した
    • [149]両社の合計はタイヤ業界首位の規模となり再編機運が高まった
  • 週刊東洋経済 1999年3月6日号「奔流 M&A時代 住友ゴム工業」
    • [150]グッドイヤーの世界首位奪回と住友ゴムの事業リストラの思惑が一致したと報じられた
  • 住友ゴム工業 有価証券報告書【沿革】
    • [151]1999年6月に諸契約を締結し9月から日本・北米・欧州で合弁事業を開始した
  • 週刊東洋経済 2000年3月4日号「投資銀行(インベストバンク)の内幕」
    • [152]住友ゴム工業はアドバイザーに欧州系のウォーバーグ・ディロン・リード証券を選んだ

2000年11月にオーツタイヤの第三者割当増資を全額引き受けて持分比率を51.0パーセントに高め[153]、2003年7月にはオーツタイヤと日本ダンロップを吸収合併[154]したうえで、スポーツ事業を会社分割によりSRIスポーツとして切り出した。SRIスポーツは2006年10月に東京証券取引所第一部へ上場[155]し、2007年12月には米国のクリーブランドゴルフを買収した。2012年5月にはダンロップスポーツへ商号[156]を変えた。分けた事業を再び戻したのは2018年1月で、上場を廃止したダンロップスポーツを吸収合併してスポーツ事業を統合[157]した。

  • 住友ゴム工業 有価証券報告書【沿革】
    • [153]2000年11月にオーツタイヤの第三者割当増資を全額引き受け持分比率51.0%とした
    • [154]2003年7月にオーツタイヤと日本ダンロップを吸収合併しスポーツ事業をSRIスポーツへ分割した
    • [155]SRIスポーツは2006年10月に東証一部へ上場し2012年5月にダンロップスポーツへ商号変更した
    • [156]2012年5月にSRIスポーツはダンロップスポーツへ商号変更した
    • [157]2018年1月にダンロップスポーツを吸収合併しスポーツ事業を統合した

2014年、グッドイヤーが住友ゴム工業へ提携の解消を申し入れ、国際的な仲裁機関へ申し立てた[158]。交渉を経て2015年6月4日に資本提携の解消が発表され[159]、同年10月にアライアンス契約と合弁事業を解消して、北米の合弁会社を100パーセント子会社とした[160]。世界6位と3位の提携が16年で終わった[161]ことになる。この清算にあたり、欧州・北米・オセアニアにおける四輪用 DUNLOP の商標権はグッドイヤー側へ渡った[162]。住友ゴム工業に残ったのは、日本を含むアジアなどのダンロップと、自社ブランドの FALKEN[163] である。

  • 週刊東洋経済 2014年2月21日号「グッドイヤーと提携解消に応じる住友ゴム工業の本音」
    • [158]2014年にグッドイヤーが提携解消を申し入れ仲裁を申し立てた
  • 週刊東洋経済 2015年6月12日号「核心リポート02 グッドイヤーと別れ 住友ゴム「単身」の打算」
    • [159]2015年6月4日に資本提携の解消が発表された
    • [161]解消時点で住友ゴム工業はタイヤ世界6位、グッドイヤーは同3位だった
  • 住友ゴム工業 有価証券報告書【沿革】
    • [160]2015年10月にアライアンス契約と合弁事業を解消し北米合弁会社を100%子会社化した
  • 住友ゴム工業 臨時説明会 質疑応答(2025年1月8日)
    • [162]解消にあたり欧州・北米・オセアニアの四輪用ダンロップ商標権はグッドイヤー側へ渡った
    • [163]解消後の住友ゴム工業はアジア等のダンロップとファルケンを持つ体制となった
  • 週刊東洋経済 1999年2月13日号「米グッドイヤーと住友ゴムが大連合」
    • [148]1999年2月に世界3位のグッドイヤーと5位の住友ゴム工業が資本・業務提携に合意した
    • [149]両社の合計はタイヤ業界首位の規模となり再編機運が高まった
  • 週刊東洋経済 1999年3月6日号「奔流 M&A時代 住友ゴム工業」
    • [150]グッドイヤーの世界首位奪回と住友ゴムの事業リストラの思惑が一致したと報じられた
  • 住友ゴム工業 有価証券報告書【沿革】
    • [151]1999年6月に諸契約を締結し9月から日本・北米・欧州で合弁事業を開始した
    • [153]2000年11月にオーツタイヤの第三者割当増資を全額引き受け持分比率51.0%とした
    • [154]2003年7月にオーツタイヤと日本ダンロップを吸収合併しスポーツ事業をSRIスポーツへ分割した
    • [155]SRIスポーツは2006年10月に東証一部へ上場し2012年5月にダンロップスポーツへ商号変更した
    • [156]2012年5月にSRIスポーツはダンロップスポーツへ商号変更した
    • [157]2018年1月にダンロップスポーツを吸収合併しスポーツ事業を統合した
    • [160]2015年10月にアライアンス契約と合弁事業を解消し北米合弁会社を100%子会社化した
  • 週刊東洋経済 2000年3月4日号「投資銀行(インベストバンク)の内幕」
    • [152]住友ゴム工業はアドバイザーに欧州系のウォーバーグ・ディロン・リード証券を選んだ
  • 週刊東洋経済 2014年2月21日号「グッドイヤーと提携解消に応じる住友ゴム工業の本音」
    • [158]2014年にグッドイヤーが提携解消を申し入れ仲裁を申し立てた
  • 週刊東洋経済 2015年6月12日号「核心リポート02 グッドイヤーと別れ 住友ゴム「単身」の打算」
    • [159]2015年6月4日に資本提携の解消が発表された
    • [161]解消時点で住友ゴム工業はタイヤ世界6位、グッドイヤーは同3位だった
  • 住友ゴム工業 臨時説明会 質疑応答(2025年1月8日)
    • [162]解消にあたり欧州・北米・オセアニアの四輪用ダンロップ商標権はグッドイヤー側へ渡った
    • [163]解消後の住友ゴム工業はアジア等のダンロップとファルケンを持つ体制となった

北米生産の終了と、手放したブランドの買い戻し

提携相手を持たなくなった住友ゴム工業は、2023年から構造改革に入った[164]。その最優先の課題が北米のタイヤ製造子会社で、2024年11月に生産の終了と解散を決めた[165]。バッファロー工場の自動化設備や成形機はタイの第3工場へ移し[166]、北米向けの供給はタイ、インドネシア、日本からの輸出でまかなう体制へ切り替えた。米国内の生産をゼロにしたことで、2025年に始まった関税の引き上げをそのまま受ける立場になったが、山本悟社長は同年1月の説明会で、関税が10パーセント追加されても十分な利益を上げられる[167]と述べた。

  • 住友ゴム工業 臨時説明会 質疑応答(2025年1月8日)
    • [164]2023年に構造改革を開始し、その最優先課題が北米タイヤ製造子会社だった
    • [166]バッファロー工場の設備はタイ第3工場へ移設し、北米向けはタイ・インドネシア・日本からの輸出でまかなう
    • [167]山本社長は関税が10%追加されても十分な利益を上げられると述べた
  • 住友ゴム工業 有価証券報告書【沿革】
    • [165]2024年11月に北米タイヤ製造子会社の生産終了と解散を決定した

2025年1月8日[168]、住友ゴム工業はグッドイヤーとの間で、欧州・北米・オセアニア地域における四輪用 DUNLOP の商標権などを取得する譲渡契約を結んだ。取得価格は5億2,600万米ドル、日本円で約826億円[169]である。移行支援の費用として1億500万米ドルと初期在庫の買取代金[170]をクロージング時に支払い、グッドイヤーからは5年間の供給を受ける。10年前に自ら手放したブランドを買い戻した[171]ことになる。山本社長はこの日、「いつか DUNLOP をわれわれが取り戻して[172]」(住友ゴム工業 臨時説明会 2025/1/8)という思いで FALKEN を育ててきたと語った。

  • 住友ゴム工業 有価証券報告書【沿革】
    • [168]2025年1月8日にグッドイヤーと欧州・北米・オセアニアの四輪用ダンロップ商標権等の譲渡契約を締結した
  • 住友ゴム工業 臨時説明会 質疑応答(2025年1月8日)
    • [169]取得価格は5億2,600万米ドル・約826億円
    • [170]移行支援費用1億500万米ドルと初期在庫買取代金をクロージング時に支払い、5年間の供給を受ける
    • [171]欧米豪のダンロップ商標権は2015年のアライアンス解消時にグッドイヤーへ渡したもので今回は買い戻しにあたる
    • [172]山本社長はDUNLOPを取り戻す前提でファルケンを育ててきたと述べた

2025年3月7日[173]、住友ゴム工業は長期経営戦略を公表した。2027年に事業利益率10パーセントとROE10パーセント、2030年に事業利益率15パーセントとROIC10パーセント[174]を掲げ、2035年には事業利益の30パーセントをタイヤ以外で稼ぐ[175]という構想である。西口豪一専務は同日、「数量を追い上げて売上と利益を稼ぐ時代は終わった[176]」(住友ゴム工業 長期経営戦略説明会 2025/3/7)と述べ、販売本数の拡大から利益率と株主還元を重んじる経営へ移すと説明した。2025年12月期の売上収益は1兆2,071億円、事業利益は908億円[177]である。

  • 住友ゴム工業 長期経営戦略説明会 質疑応答(2025年3月7日)
    • [173]2025年3月7日に長期経営戦略を公表した
    • [174]2027年に事業利益率10%・ROE10%、2030年に事業利益率15%・ROIC10%を目標とした
    • [175]2035年に事業利益の30%をタイヤ以外で稼ぐ計画を掲げた
    • [176]西口専務は販売本数拡大型の経営が終わったと述べた
  • 住友ゴム工業 2025年12月期決算説明会 質疑応答(2026年2月12日)
    • [177]2025年12月期の売上収益は1兆2,071億円、事業利益は908億円
  • 住友ゴム工業 臨時説明会 質疑応答(2025年1月8日)
    • [164]2023年に構造改革を開始し、その最優先課題が北米タイヤ製造子会社だった
    • [166]バッファロー工場の設備はタイ第3工場へ移設し、北米向けはタイ・インドネシア・日本からの輸出でまかなう
    • [167]山本社長は関税が10%追加されても十分な利益を上げられると述べた
    • [169]取得価格は5億2,600万米ドル・約826億円
    • [170]移行支援費用1億500万米ドルと初期在庫買取代金をクロージング時に支払い、5年間の供給を受ける
    • [171]欧米豪のダンロップ商標権は2015年のアライアンス解消時にグッドイヤーへ渡したもので今回は買い戻しにあたる
    • [172]山本社長はDUNLOPを取り戻す前提でファルケンを育ててきたと述べた
  • 住友ゴム工業 有価証券報告書【沿革】
    • [165]2024年11月に北米タイヤ製造子会社の生産終了と解散を決定した
    • [168]2025年1月8日にグッドイヤーと欧州・北米・オセアニアの四輪用ダンロップ商標権等の譲渡契約を締結した
  • 住友ゴム工業 長期経営戦略説明会 質疑応答(2025年3月7日)
    • [173]2025年3月7日に長期経営戦略を公表した
    • [174]2027年に事業利益率10%・ROE10%、2030年に事業利益率15%・ROIC10%を目標とした
    • [175]2035年に事業利益の30%をタイヤ以外で稼ぐ計画を掲げた
    • [176]西口専務は販売本数拡大型の経営が終わったと述べた
  • 住友ゴム工業 2025年12月期決算説明会 質疑応答(2026年2月12日)
    • [177]2025年12月期の売上収益は1兆2,071億円、事業利益は908億円

住友ゴム工業の沿革1917〜2025年における主な出来事を抜粋

年月社長・CEO出来事重要度
ダンロップ護謨(極東)を設立★★★
日本ダンロップ護謨に商号変更★★
中央ゴム工業に商号変更★★
日本ダンロップ護謨に商号を復帰★★
住友電気工業・住友商事と資本提携★★
名古屋工場の操業開始
日本長期信用銀行と資本提携★★
英国ダンロップ社から住友電気工業を中心とする日本側への経営権の移行と、住友ゴム工業への商号変更増資も輸出先も本国の許可を待つ会社のままでいるか、経営権ごと引き取るか——1961年から1963年の日英交渉 詳細を読む★★★
住友ゴム工業に商号変更と日本ダンロップ護謨の設立★★
加古川工場の操業開始
白河工場の操業開始
東京・大阪・名古屋の3証券取引所第二部に上場
オーツタイヤ株式48%の取得と全面提携★★
英国ダンロップ社保有株の買い取りと、欧州3社・米国ダンロップのタイヤ事業の取得英国ダンロップ社が持っていた40パーセントの株式を買い取り、続けて赤字の欧州3社と米国ダンロップ社まで引き受けた3年間 詳細を読む★★★
日本・台湾・韓国のダンロップ商標権の譲受★★
フランスにおけるダンロップ事業の経営開始★★
英国・西独のダンロップ社タイヤ工場の買収★★
米国の自動車タイヤメーカーの買収★★
3証券取引所の第一部銘柄に指定
神戸市中央区における本社新社屋の竣工
阪神大震災による神戸工場の被災と閉鎖★★★
インドネシアに生産子会社を設立
市島工場の操業開始
米国グッドイヤーとの世界的提携契約の締結★★
オーツタイヤの第三者割当増資の全額引受★★
中国江蘇省常熟市に生産子会社を設立
オーツタイヤと日本ダンロップの吸収合併★★
三野哲治名古屋証券取引所第一部の上場廃止
三野哲治タイに生産子会社を設立
三野哲治SRIスポーツの東京証券取引所第一部への上場
三野哲治SRIスポーツによるクリーブランドゴルフの買収
池田育嗣中国湖南省長沙市に生産子会社を設立
池田育嗣ブラジルに子会社を設立
池田育嗣SRIスポーツがダンロップスポーツに商号変更
池田育嗣トルコに生産子会社を設立
池田育嗣南アフリカのアポロタイヤ子会社の買収★★
池田育嗣スイスのロンストロフの買収
池田育嗣グッドイヤーとの提携解消と北米子会社の完全子会社化★★★
池田育嗣英国のミシェルデバーグループの買収★★
池田育嗣海外のダンロップ商標権とスポーツ用品事業の譲受★★
池田育嗣ダンロップスポーツの上場廃止
山本悟ダンロップスポーツの吸収合併によるスポーツ事業の統合★★
山本悟東京証券取引所プライム市場への移行
山本悟国内タイヤ販売機能のダンロップタイヤへの統合
山本悟スイスのロンストロフの売却
山本悟米国生産子会社の生産終了と解散の決定★★
山本悟グッドイヤーからの欧州・北米・オセアニアにおける四輪 DUNLOP 商標権の取得と、基幹ブランドの FALKEN からの入れ替え2015年にグッドイヤーへ渡した欧米豪の四輪 DUNLOP 商標権を、10年後に826億円で買い直した判断 詳細を読む★★★
山本悟米国のViaductの買収
出典・参考
  • 住友ゴム八十年史(1989年)「第一章 日本におけるゴム工業の勃興」
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「日本ダンロップ護謨」の項
  • 住友ゴム八十年史(1989年)「第一章 日本におけるゴム工業の勃興」所載『日本ゴム工業史』
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社、1968年)「ゴム」の項
  • 日本護謨協会誌 武藤健「日本に於けるゴム工業の過去、現在及将来」
  • 住友ゴム工業 有価証券報告書【沿革】
  • 住友ゴム八十年史(1989年)「第三章 戦時体制下のダンロップ(極東)」
  • 住友ゴム八十年史(1989年)「第四章 戦時統制経済から戦後復興へ」
  • 住友ゴム八十年史(1989年)「第五章 戦後「復興」の軌跡」
  • 住友ゴム八十年史(1989年)「第六章 「戦後」終わり高度成長期へ」
  • 住友ゴム八十年史(1989年)「第七章 住友ゴム工業株式会社の誕生」
  • 証券 1975年 第27巻第2号「新規上場会社紹介 住友ゴム工業株式会社」
  • 日本産業史(日本経済新聞社、1994年)第3巻「繊維-繊維不況からDCブームへ」
  • 住友ゴム八十年史(1989年)巻末「住友ゴム業績推移表」
  • 日本経済新聞 2018年1月5日「(追想録)横瀬恭平さん 元住友ゴム工業社長」
  • 住友ゴム八十年史(1989年)「第一一章 国際戦略の推進と企業体質の強化」
  • 週刊東洋経済 1999年2月13日号「米グッドイヤーと住友ゴムが大連合」
  • 週刊東洋経済 1999年3月6日号「奔流 M&A時代 住友ゴム工業」
  • 週刊東洋経済 2000年3月4日号「投資銀行(インベストバンク)の内幕」
  • 週刊東洋経済 2014年2月21日号「グッドイヤーと提携解消に応じる住友ゴム工業の本音」
  • 週刊東洋経済 2015年6月12日号「核心リポート02 グッドイヤーと別れ 住友ゴム「単身」の打算」
  • 住友ゴム工業 臨時説明会 質疑応答(2025年1月8日)
  • 住友ゴム工業 長期経営戦略説明会 質疑応答(2025年3月7日)
  • 住友ゴム工業 2025年12月期決算説明会 質疑応答(2026年2月12日)

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