1909年〜 英国資本の会社として神戸に生まれ、日本のゴム工業の教師となった四十年(1909〜1949)
- 1917年 ダンロップ護謨(極東)を設立
- 1937年 日本ダンロップ護謨に商号変更
- 1943年 中央ゴム工業に商号変更
- 1949年 日本ダンロップ護謨に商号を復帰
日英仏合弁の挫折と、英国資本だけで始まった創業
日露戦争後、政府は維新以来抑えてきた外資導入へ転じた[1]。桂太郎首相、大蔵大臣の阪谷芳郎氏、青木周蔵駐英公使[2]ら政治家と、渋沢栄一氏、大倉喜八郎氏ら財界の有力者は、総額2億円の外資導入シンジケート[3]の設立を進めていた。この構想そのものは意見の相違から実現しなかったが、交渉の過程で個別の外資導入と技術提携がいくつも生まれた[4]。英国ダンロップ社の日本進出はその一つ[5]である。当初は大倉氏や阪谷氏、フランス人のルーネン氏、英国人のミルワード氏、グリア商会の間で、英国ダンロップ社の技術提供を受けた日英仏合弁のゴム会社が計画されていた[6]。
- 住友ゴム八十年史(1989年)「第一章 日本におけるゴム工業の勃興」
- [1]日露戦争後、政府は外資導入抑制から積極策へ転換した
- [2]外資導入シンジケート構想の関係者は桂太郎(首相)・阪谷芳郎(蔵相)・青木周蔵(駐英公使)
- [3]シンジケートの構想規模は総額2億円
- [4]シンジケート構想は意見の相違で実現せず、交渉過程で個別の外資導入・技術提携が生まれた
- [5]個別に実現した外資導入・技術提携の一例が英国ダンロップ社の日本進出だった
- [6]当初計画は英国ダンロップ社の技術提供を受けた日英仏合弁だった
合弁計画は日本とフランスの資本参加が得られず崩れた[7]。残った英国資本だけで、資本金8万1千ポンド[8]の The Dunlop Rubber Co. (Far East) Ltd. が香港に設立され、神戸市浪花町62番地への日本支店の設置が登記されたのは1909年10月4日[9]である。取締役はH・グリア氏とW・グリア氏の兄弟、初代の日本支店長はJ・シャイヤレー氏[10]が務めた。工場長には、のちに長く代表取締役を担うV・B・ウィルソン氏[11]が就いた。工場設置の許可は前年12月28日にグリア商会の名義で兵庫県知事から[12]得ていた。工場を神戸の脇浜に置いたのは、当時の欧州航路の終着点がすべて神戸港であり[13]、シンガポールで船積みされた天然ゴムを運ぶうえで有利だったためである。
- 住友ゴム八十年史(1989年)「第一章 日本におけるゴム工業の勃興」
- [7]日仏の資本参加が得られず英国資本のみで設立された
- [8]設立時の資本金は8万1千ポンド
- [9]1909年10月4日に神戸市浪花町62番地への日本支店設置が登記された
- [10]取締役はH・グリアとW・グリアの兄弟、初代日本支店長はJ・シャイヤレー
- [12]工場設置許可はグリア商会名義で1908年12月28日に兵庫県知事から得た
- [13]神戸に工場を置いた理由は欧州航路の終着点であり天然ゴムの輸送に有利だったこと
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「日本ダンロップ護謨」の項
- [11]工場長V・B・ウィルソンは後年に代表取締役となった
- 住友ゴム八十年史(1989年)「第一章 日本におけるゴム工業の勃興」
- [1]日露戦争後、政府は外資導入抑制から積極策へ転換した
- [2]外資導入シンジケート構想の関係者は桂太郎(首相)・阪谷芳郎(蔵相)・青木周蔵(駐英公使)
- [3]シンジケートの構想規模は総額2億円
- [4]シンジケート構想は意見の相違で実現せず、交渉過程で個別の外資導入・技術提携が生まれた
- [5]個別に実現した外資導入・技術提携の一例が英国ダンロップ社の日本進出だった
- [6]当初計画は英国ダンロップ社の技術提供を受けた日英仏合弁だった
- [7]日仏の資本参加が得られず英国資本のみで設立された
- [8]設立時の資本金は8万1千ポンド
- [9]1909年10月4日に神戸市浪花町62番地への日本支店設置が登記された
- [10]取締役はH・グリアとW・グリアの兄弟、初代日本支店長はJ・シャイヤレー
- [12]工場設置許可はグリア商会名義で1908年12月28日に兵庫県知事から得た
- [13]神戸に工場を置いた理由は欧州航路の終着点であり天然ゴムの輸送に有利だったこと
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「日本ダンロップ護謨」の項
- [11]工場長V・B・ウィルソンは後年に代表取締役となった
「ラバースクール」と呼ばれた工場と、日本法人への改組
30歳のウィルソン氏[14]は、技師のボーン氏、ベアーズ氏、キーン氏ら3人の職長とともに来日し、工場の建設と操業を指導した。日本人でグリア商会の主要な地位にあったのは武藤健氏ひとりで、1912年まで東京支店長を務めたのち[15]ダンロップ護謨(極東)に移り、渋沢氏や大倉氏の代理人として総支配人に就いた[16]。英国ダンロップ社は生産と技術の担当者を3年契約で送り込み、その選任は英国側に委ねられたが、再契約で任期を延ばすかどうかの主導権は昭和初年まで神戸の側が持っていた[17]。神戸港への天然ゴムの陸揚げ量は1913年に横浜港を上回った[18]。
- 住友ゴム八十年史(1989年)「第一章 日本におけるゴム工業の勃興」
- [14]V・B・ウィルソンは来日時30歳で、技師・職長3人とともに工場建設と操業を指導した
- [15]武藤健は1912年まで東京支店長を務めた後ダンロップ護謨(極東)に移った
- [17]英国から派遣される技術者は3年契約で、再契約の主導権は昭和初年までダンロップ(極東)側にあった
- [18]1913年に神戸港の天然ゴム陸揚げ量が横浜港を超えた
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「日本ダンロップ護謨」の項
- [16]武藤健は渋沢栄一・大倉喜八郎の代理人として総支配人に就任した
本格的な設備と技術を備えたこの工場は、当時の日本のゴム工業に強い刺激を与えた[19]。『日本ゴム工業史』は、幼稚な技術段階に低迷していた業界が同社を模範として技術の向上に努め[20]、第一次世界大戦を契機とするゴム工業勃興の機運をつくったと記す。とくに自転車用タイヤの製造技術は、この工場から国内各社へ広まった[21]。1912年ころには国産タイヤ[22]が供給できるようになった。明治末期から大正初期にかけて神戸を中心にタイヤ製造会社が相次いで設立され[23]、1913年には河西善兵衛氏ら神戸財界の有力者が内外護謨を興した[24]。武藤氏は後年、ダンロップで働いた者のいないゴム会社はほとんどない[25]と述べた。工場は「ラバースクール」とも呼ばれた[26]。
- 住友ゴム八十年史(1989年)「第一章 日本におけるゴム工業の勃興」所載『日本ゴム工業史』
- [19]本格的な設備と技術を持つ同社の出現が当時の日本のゴム工業に大きな刺激を与えた
- [20]『日本ゴム工業史』はダンロップ(極東)が業界の模範となり技術向上を促したと評価している
- [21]自転車用タイヤの製造技術を助長促進させた功績が大きいと評価された
- [22]1912年ころには国産タイヤが供給できるようになった
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社、1968年)「ゴム」の項
- [23]明治末期から大正初期に神戸を中心にタイヤ製造会社が相次いで設立された
- 住友ゴム八十年史(1989年)「第一章 日本におけるゴム工業の勃興」
- [24]1913年に河西善兵衛ら神戸財界の有力者が内外護謨を設立した
- [26]ダンロップの工場は別名ラバースクールと呼ばれた
- 日本護謨協会誌 武藤健「日本に於けるゴム工業の過去、現在及将来」
- [25]武藤健は日本護謨協会誌でダンロップ出身者が各社に散ったことを述べた
1917年3月6日、日本商法の規定により資本金118万円の日本法人へ改組[27]し、ダンロップ護謨(極東)株式会社となった。それまでは英語名の The Dunlop Rubber Co. (Far East) Ltd.[28] を使っていた。英国からの新技術と新設備の導入は続き、ゴム工業界での指導的な地位は保たれた[29]。自動車業界の発展に伴って設備の拡充が必要になり、1936年2月に資本金を800万円へ増やし[30]、翌1937年2月には社名を日本ダンロップ護謨へ改めた[31]。有価証券報告書が設立年月を1917年3月とするのは[32]、この日本法人化を設立と数えるためである。
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「日本ダンロップ護謨」の項
- [27]1917年3月6日に資本金118万円の日本法人へ改組した
- [29]英国から絶えず新技術と新設備を導入しゴム工業界の指導的立場を維持した
- [30]1936年2月に資本金を800万円へ増資した
- 住友ゴム八十年史(1989年)「第一章 日本におけるゴム工業の勃興」
- [28]日本法人化以前は英語名 The Dunlop Rubber Co. (Far East) Ltd. を使用していた
- 住友ゴム工業 有価証券報告書【沿革】
- [31]1937年2月に社名を日本ダンロップ護謨へ改称した
- [32]有価証券報告書の設立年月1917年3月は日本法人化を起点としている
- 住友ゴム八十年史(1989年)「第一章 日本におけるゴム工業の勃興」
- [14]V・B・ウィルソンは来日時30歳で、技師・職長3人とともに工場建設と操業を指導した
- [15]武藤健は1912年まで東京支店長を務めた後ダンロップ護謨(極東)に移った
- [17]英国から派遣される技術者は3年契約で、再契約の主導権は昭和初年までダンロップ(極東)側にあった
- [18]1913年に神戸港の天然ゴム陸揚げ量が横浜港を超えた
- [24]1913年に河西善兵衛ら神戸財界の有力者が内外護謨を設立した
- [26]ダンロップの工場は別名ラバースクールと呼ばれた
- [28]日本法人化以前は英語名 The Dunlop Rubber Co. (Far East) Ltd. を使用していた
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「日本ダンロップ護謨」の項
- [16]武藤健は渋沢栄一・大倉喜八郎の代理人として総支配人に就任した
- [27]1917年3月6日に資本金118万円の日本法人へ改組した
- [29]英国から絶えず新技術と新設備を導入しゴム工業界の指導的立場を維持した
- [30]1936年2月に資本金を800万円へ増資した
- 住友ゴム八十年史(1989年)「第一章 日本におけるゴム工業の勃興」所載『日本ゴム工業史』
- [19]本格的な設備と技術を持つ同社の出現が当時の日本のゴム工業に大きな刺激を与えた
- [20]『日本ゴム工業史』はダンロップ(極東)が業界の模範となり技術向上を促したと評価している
- [21]自転車用タイヤの製造技術を助長促進させた功績が大きいと評価された
- [22]1912年ころには国産タイヤが供給できるようになった
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社、1968年)「ゴム」の項
- [23]明治末期から大正初期に神戸を中心にタイヤ製造会社が相次いで設立された
- 日本護謨協会誌 武藤健「日本に於けるゴム工業の過去、現在及将来」
- [25]武藤健は日本護謨協会誌でダンロップ出身者が各社に散ったことを述べた
- 住友ゴム工業 有価証券報告書【沿革】
- [31]1937年2月に社名を日本ダンロップ護謨へ改称した
- [32]有価証券報告書の設立年月1917年3月は日本法人化を起点としている
敵産処分による中央ゴム工業への改称と、英国への返還
1929年に試みられた日英合弁[33]は不調に終わった。英国ダンロップ社はこれに見切りをつけ、ダンロップ護謨(極東)の株式の過半を取得して独自の経営体制を敷いた[34]。1936年2月の増資は大倉組の資本参加を見込んだもので、総帥の門野重九郎氏が自らロンドンへ赴いて[35]英国ダンロップ社と協議し、日英合弁契約を結んだ。だが翌1937年に株式代金の送金が認可されず、合弁は頓挫した[36]。社長は太平洋戦争中を除いて代々英国人が務め[37]、初代は短期間で日本を去ったが、2代社長のウィルソン氏は開戦まで在任し[38]、日本にゴム技術、とりわけ自動車タイヤ製造の技術を移植した[39]。
- 住友ゴム八十年史(1989年)「第三章 戦時体制下のダンロップ(極東)」
- [33]1929年の日英合弁は不調に終わり、英国ダンロップ社が株式の過半を取得した
- [34]英国ダンロップ社は過半数株式を取得して独自の経営体制を敷いた
- [35]1936年2月の増資は大倉組の資本参加を予定したもので、門野重九郎が自らロンドンへ赴き日英合弁契約を結んだ
- [36]1937年に株式代金のロンドン送金が認可されず日英合弁は実現しなかった
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「日本ダンロップ護謨」の項
- [37]社長は太平洋戦争中を除き代々英国人が就任した
- [38]2代社長V・B・ウィルソンは創業当初から技術面を担当し開戦まで在任した
- [39]日本にゴム技術とりわけ自動車タイヤ製造技術を移植した功績が大きいと評価された
太平洋戦争が始まると英国資本の会社としての立場は失わ[40]れ、1942年6月には敵産管理法に基づいて商工省の管理下に置かれ[41]、同年のうちに敵産処分で大倉商事ほか5社へ譲渡された[42]。1943年1月に社名は中央ゴム工業へ変わり[43]、1944年4月には軍需会社に指定されて「神武第七一七六工場」という秘匿名[44]を与えられた。防弾タンクの外張りの開発にも加わり、中央ゴムを含む4社が生産にあたった[45]。1945年6月の戦災で全工場の約8割を焼失した[46]が、復旧に努めた結果、終戦直前には一部の重要製品の生産を再開した。
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「日本ダンロップ護謨」の項
- [40]太平洋戦争の勃発により敵産管理法の対象となった
- [41]1942年6月に敵産管理法により商工省の管理下に置かれた
- [42]1942年の敵産処分で大倉商事ほか5社へ譲渡された
- [46]1945年6月の戦災で全工場の約8割を焼失した
- 住友ゴム工業 有価証券報告書【沿革】
- [43]1943年1月に中央ゴム工業へ改称した
- 住友ゴム八十年史(1989年)「第四章 戦時統制経済から戦後復興へ」
- [44]1944年4月に軍需会社へ指定され「神武第七一七六工場」の秘匿名が付された
- [45]防弾タンク外張りの生産は中央ゴムを含む4社が担当した
終戦とともに民需生産へ戻り、占領軍軍政部の許可を得て、鉄鋼・石炭に次ぐ重要産業とされた自動車タイヤと、炭鉱資材のコンベアベルトを重点的に生産した[47]。会社を英国へ返す交渉は日英両政府の間で進み[48]、1949年8月、大蔵大臣の指示により[49]中央ゴム工業は経営と資産の全部を英国ダンロップ社へ返還し、社名も日本ダンロップ護謨に戻った[50]。返還後は英国の研究所と直結し、世界のダンロップ各社の組織網を使えることが強みとなった[51]。帝国人絹の協力で強力人絹コードをいち早く採用し[52]、自動車タイヤの品質を高めたのもその一例である。
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「日本ダンロップ護謨」の項
- [47]終戦後は自動車タイヤと炭鉱用コンベアベルトを重点生産した
- [49]1949年8月に大蔵大臣の指示で経営と資産の全部を英国ダンロップ社へ返還した
- [51]英国の研究所と直結し世界のダンロップ各社の組織網を活用できることが強みだった
- [52]帝国人絹の協力で強力人絹コードを採用し自動車タイヤの品質を高めた
- 住友ゴム八十年史(1989年)「第五章 戦後「復興」の軌跡」
- [48]会社返還の交渉は日英政府間で進められた
- 住友ゴム工業 有価証券報告書【沿革】
- [50]返還により社名は日本ダンロップ護謨へ復した
- 住友ゴム八十年史(1989年)「第三章 戦時体制下のダンロップ(極東)」
- [33]1929年の日英合弁は不調に終わり、英国ダンロップ社が株式の過半を取得した
- [34]英国ダンロップ社は過半数株式を取得して独自の経営体制を敷いた
- [35]1936年2月の増資は大倉組の資本参加を予定したもので、門野重九郎が自らロンドンへ赴き日英合弁契約を結んだ
- [36]1937年に株式代金のロンドン送金が認可されず日英合弁は実現しなかった
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「日本ダンロップ護謨」の項
- [37]社長は太平洋戦争中を除き代々英国人が就任した
- [38]2代社長V・B・ウィルソンは創業当初から技術面を担当し開戦まで在任した
- [39]日本にゴム技術とりわけ自動車タイヤ製造技術を移植した功績が大きいと評価された
- [40]太平洋戦争の勃発により敵産管理法の対象となった
- [41]1942年6月に敵産管理法により商工省の管理下に置かれた
- [42]1942年の敵産処分で大倉商事ほか5社へ譲渡された
- [46]1945年6月の戦災で全工場の約8割を焼失した
- [47]終戦後は自動車タイヤと炭鉱用コンベアベルトを重点生産した
- [49]1949年8月に大蔵大臣の指示で経営と資産の全部を英国ダンロップ社へ返還した
- [51]英国の研究所と直結し世界のダンロップ各社の組織網を活用できることが強みだった
- [52]帝国人絹の協力で強力人絹コードを採用し自動車タイヤの品質を高めた
- 住友ゴム工業 有価証券報告書【沿革】
- [43]1943年1月に中央ゴム工業へ改称した
- [50]返還により社名は日本ダンロップ護謨へ復した
- 住友ゴム八十年史(1989年)「第四章 戦時統制経済から戦後復興へ」
- [44]1944年4月に軍需会社へ指定され「神武第七一七六工場」の秘匿名が付された
- [45]防弾タンク外張りの生産は中央ゴムを含む4社が担当した
- 住友ゴム八十年史(1989年)「第五章 戦後「復興」の軌跡」
- [48]会社返還の交渉は日英政府間で進められた