{"spec_version":"3","endpoint":"history","stock_code":"5110","company_name":"住友ゴム工業","content_lang":"ja","meta_lang":"en","canonical_url":"https://the-shashi.com/tse/5110/","api_url":"/api/5110/history.json","updated":"2026-08-09","license":"© 2026 Yutaka Sugiura. All rights reserved.","attribution":"The社史 (the-shashi.com) — https://the-shashi.com/tse/5110/","title":"住友ゴム工業の歴史概略","sections":[{"start_year":1909,"end_year":1949,"main_title":"英国資本の会社として神戸に生まれ、日本のゴム工業の教師となった四十年（1909〜1949）","subsections":[{"title":"日英仏合弁の挫折と、英国資本だけで始まった創業","text":"日露戦争後、政府は維新以来抑えてきた外資導入へ転じた。桂太郎首相、大蔵大臣の阪谷芳郎氏、青木周蔵駐英公使ら政治家と、渋沢栄一氏、大倉喜八郎氏ら財界の有力者は、総額2億円の外資導入シンジケートの設立を進めていた。この構想そのものは意見の相違から実現しなかったが、交渉の過程で個別の外資導入と技術提携がいくつも生まれた。英国ダンロップ社の日本進出はその一つである。当初は大倉氏や阪谷氏、フランス人のルーネン氏、英国人のミルワード氏、グリア商会の間で、英国ダンロップ社の技術提供を受けた日英仏合弁のゴム会社が計画されていた。\n\n合弁計画は日本とフランスの資本参加が得られず崩れた。残った英国資本だけで、資本金8万1千ポンドの The Dunlop Rubber Co. (Far East) Ltd. が香港に設立され、神戸市浪花町62番地への日本支店の設置が登記されたのは1909年10月4日である。取締役はH・グリア氏とW・グリア氏の兄弟、初代の日本支店長はJ・シャイヤレー氏が務めた。工場長には、のちに長く代表取締役を担うV・B・ウィルソン氏が就いた。工場設置の許可は前年12月28日にグリア商会の名義で兵庫県知事から得ていた。工場を神戸の脇浜に置いたのは、当時の欧州航路の終着点がすべて神戸港であり、シンガポールで船積みされた天然ゴムを運ぶうえで有利だったためである。","references":[{"title":"住友ゴム八十年史（1989年）「第一章 日本におけるゴム工業の勃興」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"住友ゴム八十年史（1989年）「第二章 法人格取得しダンロップ(極東)の発足」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"住友ゴム八十年史（1989年）「第三章 戦時体制下のダンロップ(極東)」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"住友ゴム八十年史（1989年）「第四章 戦時統制経済から戦後復興へ」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"会社銀行八十年史（東洋経済新報社、1955年）「日本ダンロップ護謨」の項","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"企業の歴史 : 明治百年（経済春秋社、1968年）「ゴム」の項","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本産業史（日本経済新聞社、1994年）第1巻「二重構造の芽ばえ」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"住友ゴム工業 有価証券報告書【沿革】","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"住友ゴム八十年史（1989年）「第五章 戦後「復興」の軌跡」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"「ラバースクール」と呼ばれた工場と、日本法人への改組","text":"30歳のウィルソン氏は、技師のボーン氏、ベアーズ氏、キーン氏ら3人の職長とともに来日し、工場の建設と操業を指導した。日本人でグリア商会の主要な地位にあったのは武藤健氏ひとりで、1912年まで東京支店長を務めたのちダンロップ護謨（極東）に移り、渋沢氏や大倉氏の代理人として総支配人に就いた。英国ダンロップ社は生産と技術の担当者を3年契約で送り込み、その選任は英国側に委ねられたが、再契約で任期を延ばすかどうかの主導権は昭和初年まで神戸の側が持っていた。神戸港への天然ゴムの陸揚げ量は1913年に横浜港を上回った。\n\n本格的な設備と技術を備えたこの工場は、当時の日本のゴム工業に強い刺激を与えた。『日本ゴム工業史』は、幼稚な技術段階に低迷していた業界が同社を模範として技術の向上に努め、第一次世界大戦を契機とするゴム工業勃興の機運をつくったと記す。とくに自転車用タイヤの製造技術は、この工場から国内各社へ広まった。1912年ころには国産タイヤが供給できるようになった。明治末期から大正初期にかけて神戸を中心にタイヤ製造会社が相次いで設立され、1913年には河西善兵衛氏ら神戸財界の有力者が内外護謨を興した。武藤氏は後年、ダンロップで働いた者のいないゴム会社はほとんどないと述べた。工場は「ラバースクール」とも呼ばれた。\n\n1917年3月6日、日本商法の規定により資本金118万円の日本法人へ改組し、ダンロップ護謨（極東）株式会社となった。それまでは英語名の The Dunlop Rubber Co. (Far East) Ltd. を使っていた。英国からの新技術と新設備の導入は続き、ゴム工業界での指導的な地位は保たれた。自動車業界の発展に伴って設備の拡充が必要になり、1936年2月に資本金を800万円へ増やし、翌1937年2月には社名を日本ダンロップ護謨へ改めた。有価証券報告書が設立年月を1917年3月とするのは、この日本法人化を設立と数えるためである。","references":[{"title":"住友ゴム八十年史（1989年）「第一章 日本におけるゴム工業の勃興」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"住友ゴム八十年史（1989年）「第二章 法人格取得しダンロップ(極東)の発足」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"住友ゴム八十年史（1989年）「第三章 戦時体制下のダンロップ(極東)」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"住友ゴム八十年史（1989年）「第四章 戦時統制経済から戦後復興へ」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"会社銀行八十年史（東洋経済新報社、1955年）「日本ダンロップ護謨」の項","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"企業の歴史 : 明治百年（経済春秋社、1968年）「ゴム」の項","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本産業史（日本経済新聞社、1994年）第1巻「二重構造の芽ばえ」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"住友ゴム工業 有価証券報告書【沿革】","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"住友ゴム八十年史（1989年）「第五章 戦後「復興」の軌跡」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"敵産処分による中央ゴム工業への改称と、英国への返還","text":"1929年に試みられた日英合弁は不調に終わった。英国ダンロップ社はこれに見切りをつけ、ダンロップ護謨（極東）の株式の過半を取得して独自の経営体制を敷いた。1936年2月の増資は大倉組の資本参加を見込んだもので、総帥の門野重九郎氏が自らロンドンへ赴いて英国ダンロップ社と協議し、日英合弁契約を結んだ。だが翌1937年に株式代金の送金が認可されず、合弁は頓挫した。社長は太平洋戦争中を除いて代々英国人が務め、初代は短期間で日本を去ったが、2代社長のウィルソン氏は開戦まで在任し、日本にゴム技術、とりわけ自動車タイヤ製造の技術を移植した。\n\n太平洋戦争が始まると英国資本の会社としての立場は失われ、1942年6月には敵産管理法に基づいて商工省の管理下に置かれ、同年のうちに敵産処分で大倉商事ほか5社へ譲渡された。1943年1月に社名は中央ゴム工業へ変わり、1944年4月には軍需会社に指定されて「神武第七一七六工場」という秘匿名を与えられた。防弾タンクの外張りの開発にも加わり、中央ゴムを含む4社が生産にあたった。1945年6月の戦災で全工場の約8割を焼失したが、復旧に努めた結果、終戦直前には一部の重要製品の生産を再開した。\n\n終戦とともに民需生産へ戻り、占領軍軍政部の許可を得て、鉄鋼・石炭に次ぐ重要産業とされた自動車タイヤと、炭鉱資材のコンベアベルトを重点的に生産した。会社を英国へ返す交渉は日英両政府の間で進み、1949年8月、大蔵大臣の指示により中央ゴム工業は経営と資産の全部を英国ダンロップ社へ返還し、社名も日本ダンロップ護謨に戻った。返還後は英国の研究所と直結し、世界のダンロップ各社の組織網を使えることが強みとなった。帝国人絹の協力で強力人絹コードをいち早く採用し、自動車タイヤの品質を高めたのもその一例である。","references":[{"title":"住友ゴム八十年史（1989年）「第一章 日本におけるゴム工業の勃興」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"住友ゴム八十年史（1989年）「第二章 法人格取得しダンロップ(極東)の発足」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"住友ゴム八十年史（1989年）「第三章 戦時体制下のダンロップ(極東)」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"住友ゴム八十年史（1989年）「第四章 戦時統制経済から戦後復興へ」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"会社銀行八十年史（東洋経済新報社、1955年）「日本ダンロップ護謨」の項","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"企業の歴史 : 明治百年（経済春秋社、1968年）「ゴム」の項","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本産業史（日本経済新聞社、1994年）第1巻「二重構造の芽ばえ」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"住友ゴム工業 有価証券報告書【沿革】","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"住友ゴム八十年史（1989年）「第五章 戦後「復興」の軌跡」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]}]},{"start_year":1950,"end_year":1980,"main_title":"設備投資に慎重な英国人経営を経て、住友へ経営権が移った三十年（1950〜1980）","subsections":[{"title":"他社に追い越された設備投資と、日本側資本の導入","text":"朝鮮特需が終わるとタイヤ業界は不況に入り、各社は生産能力の拡大で競い合った。日本ダンロップ護謨の1955年の売上高は50億円で、先に設備投資へ踏み切っていた他社と比べると伸び率で見劣りした。好況が訪れても生産能力が足りず、そのことが代理店の戦力を落とす遠因にもなった。英国人の経営陣は設備の増強に慎重であり、日本人スタッフが求める第二工場の建設はなかなか認められなかった。英国ダンロップ社が新工場の建設を認めたのは1959年春で、日本人スタッフが長く待ち望んでいた第二工場である。\n\n建設費をまかなうため日本側の資本が入り、1960年4月の増資で住友電気工業と住友商事が資本提携し、日本側株主の持分は約30パーセントとなった。1961年10月には日本長期信用銀行が加わり、日本側は約50パーセントに達した。この間の業績は低迷が続き、工場建設が決まった1959年の売上高は前年比130パーセントの69億円だったが期間利益は5,000万円にとどまり、1960年は売上高85億円に対して経常利益8,200万円で、英国人経営陣は無配を決めざるをえなかった。1961年も当期利益は2,000万円である。\n\n名古屋工場は1961年6月に操業を始め、開所披露は1962年4月25日に行われた。敷地は17万6,000平方メートル、工場は付属建物を含めて2万2,000平方メートルで、月あたりの新ゴム消費量500トン、タイヤ生産本数6万2,500本の能力を備えた。世界第一級のレイアウトで設計され、新鋭機械が並んだ。しかし先に投資へ踏み切っていた他社はさらに能力を引き上げており、第二次、第三次の拡充が直ちに必要だった。1952年に着任したサフェリー社長は、タイヤが計画どおり販売できていないことを理由に、この年に予定していた11億円の設備投資を延期した。","references":[{"title":"住友ゴム八十年史（1989年）「第六章 「戦後」終わり高度成長期へ」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"住友ゴム八十年史（1989年）「第七章 住友ゴム工業株式会社の誕生」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"証券 1975年 第27巻第2号「新規上場会社紹介 住友ゴム工業株式会社」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"住友ゴム工業 有価証券報告書【沿革】","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"住友ゴム八十年史（1989年）「第五章 戦後「復興」の軌跡」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"バンク・オブ・イングランドの規制が動かした経営権","text":"1961年2月、英国ダンロップ社はペッパコーン常務とホルト取締役を日本へ送り、資本構成の変更を主とした増資計画を住友電気工業へ申し入れた。名古屋新工場の拡充には当初の計画をはるかに超える資金が要る。ところがバンク・オブ・イングランドは、英国の国際収支の悪化を理由に見返りのない海外投資を禁じており、1956年以降の多額の海外投資からの収入が少ない英国ダンロップ社に対しては、日本への投資を許可しない方針である。そこで持株の一部を日本側へ売却し、増資資金に充てたいという申し出であった。\n\n住友電気工業の北川社長は、かねて資本参加を希望していた日本長期信用銀行に10パーセントを持たせ、住友側が40パーセントを持つことで日英を50対50にする案を示した。1961年3月に英国側から50対50を前提とする増資の申し入れがあり、持株比率は英国ダンロップ社50パーセント、住友電気工業32パーセント、日本長期信用銀行10パーセント、住友商事8パーセントと決まった。1962年4月、再来日したペッパコーン常務は、翌年の工場拡充にさらに20億円が要るとしたうえで、英国側の持株が50パーセントを割っても35パーセントか40パーセントで両社等分の共同経営とする案を示した。\n\n交渉の焦点の一つは輸出であり、英国ダンロップ社は世界を地域に分けてダンロップブランドを展開しており、日本のテリトリーは極東に限られていた。輸出量を伸ばせなければ日本の企業として成り立たないと考えた住友側は地域の拡大を再三求めたが、世界的な原則が崩れることを恐れた英国側は固く拒んだ。そこで住友側は、独自の技術で開発する住友ブランドのタイヤを新たに設けるという案を逆に提示した。技術の蓄積も見込めるとしてこの方針は積極的に進められ、住友タイヤは1964年に世に出て、1966年には社長の井上文左衛門氏の交渉によって北米への輸出が始まった。","references":[{"title":"住友ゴム八十年史（1989年）「第六章 「戦後」終わり高度成長期へ」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"住友ゴム八十年史（1989年）「第七章 住友ゴム工業株式会社の誕生」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"証券 1975年 第27巻第2号「新規上場会社紹介 住友ゴム工業株式会社」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"住友ゴム工業 有価証券報告書【沿革】","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"住友ゴム八十年史（1989年）「第五章 戦後「復興」の軌跡」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"住友ゴム工業の発足と、上場までの立て直し","text":"1962年の決算は過去最悪となった。売上高は前年比102パーセントの96億2,400万円とわずかに前年を上回ったものの、タイヤの売上は前年を割り、増収はゴルフボールの伸びに支えられたものだった。上期・下期とも赤字で、年間1億4,000万円の欠損である。欠損の要因を事務・技術スタッフの過剰と考えたサフェリー社長は合理化案の提出を命じた。日本人スタッフは、社内公用語がいまだ英語であることが非効率の原因であり、日本語が公用語になれば事態は相当変わると答申したが、日本語使用の提案は否認された。\n\n1963年9月25日、英国ダンロップ社と住友電気工業の間で新たな取り決めが合意に達した。技術援助契約の期間を20年とし、一定の利率でロイヤリティーを支払うこと、住友タイヤの輸出を認めること、経営権すなわち社長の指名権が日本側にあることを確認すること、販売会社としてダンロップの社名を残すこと。同年10月1日、商号を住友ゴム工業へ改めるとともに、資本金1億円の販売会社として日本ダンロップ護謨株式会社を全額出資で設立した。サフェリー氏は会長へ退き、社長には住友電気工業の専務だった井上文左衛門氏が就いた。\n\n発足直後の経営は厳しく、社名変更初年度である1963年の売上高は前年比102パーセントの98億6,200万円で、2億6,000万円の純損を計上した。井上社長は経営の五方針を掲げ、原価低減の徹底と良質品の効率的生産を進めた。住友電気工業から来た下川常雄専務が総務・人事・経理・営業を束ね、のちに社長として立て直しを担った。工場は名古屋に続き、1972年に兵庫県加古川市の加古川工場、1974年に福島県白河市の白河工場が操業を始めた。1975年1月14日には東京・大阪・名古屋の3証券取引所の第二部へ株式を上場した。このときの大株主はダンロップ・インタナショナルが43.75パーセント、住友電気工業が38.25パーセント、日本長期信用銀行が10.00パーセント、住友商事が8.00パーセントで、上場を申請した時点の年間売上高600億円は、自動車タイヤ業界の第4位にあたった。","references":[{"title":"住友ゴム八十年史（1989年）「第六章 「戦後」終わり高度成長期へ」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"住友ゴム八十年史（1989年）「第七章 住友ゴム工業株式会社の誕生」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"証券 1975年 第27巻第2号「新規上場会社紹介 住友ゴム工業株式会社」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"住友ゴム工業 有価証券報告書【沿革】","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"住友ゴム八十年史（1989年）「第五章 戦後「復興」の軌跡」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]}]},{"start_year":1981,"end_year":1998,"main_title":"親会社のタイヤ事業を買い取り、日米欧の三極に生産拠点を築いた（1981〜1998）","subsections":[{"title":"オーツタイヤとの提携と、英国ダンロップ株の取得","text":"1980年代に入るとタイヤ業界は再編へ動いた。ラジアル構造のタイヤが広まり、量から質への移行が進む一方、生産量の3分の1を占めていた輸出は円高で打撃を受けた。1979年に日東タイヤが東洋ゴム工業と技術提携し、1981年5月には経営が困難になったオーツタイヤが住友ゴム工業の資本参加を仰いだ。取得比率は発行済株式総数の48パーセントで、両社は全面提携に入る。戦後のタイヤ業界はブリヂストン、横浜ゴム、住友ゴム工業、東洋ゴム工業、日東タイヤ、オーツタイヤの6社体制が続いてきたが、この時期に寡占化が進んだ。住友ゴム工業の1980年の売上高は1,521億円で、上場した1975年の776億円から5年で倍増していた。\n\n資本の関係が反転したのは1983年12月である。横瀬恭平社長が2年をかけてまとめた契約により、英国ダンロップ社が保有していた発行済株式総数の40パーセントにあたる全株式を日本側が取得し、創業以来74年にわたって続いた英国資本との関係は、ここで終わった。翌1984年1月には日本、台湾、韓国における DUNLOP の商標権を譲り受けた。1984年7月にフランスの現地法人が仏ダンロップ社の暖簾借りで経営を始め、同年12月31日付で資産を正式に買収した。1985年1月には英国と西ドイツの現地法人が英国ダンロップ社からタイヤ工場を買い取った。\n\n1986年12月には米国の自動車タイヤメーカーである米国ダンロップ社を買収し、日本、ヨーロッパ、アメリカの三大市場に生産と販売の拠点が揃い、三極の体制ができあがった。日本産業史は、英国ダンロップが1909年に設立した日本ダンロップに戦後に住友電気工業などが資本参加してできた住友ゴム工業が、英国ダンロップから持株の大半を買い取って民族資本として新たに出発し、英国と西ドイツの4工場、さらにフランスと米国のダンロップの工場も買収して、事実上消滅したダンロップに代わって世界的な大企業になったと記している。","references":[{"title":"住友ゴム八十年史（1989年）「第一〇章 国際化の進展と国内基盤の確立」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"住友ゴム八十年史（1989年）「第一一章 国際戦略の推進と企業体質の強化」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本産業史（日本経済新聞社、1994年）第3巻「繊維－繊維不況からDCブームへ」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"住友ゴム工業 有価証券報告書【沿革】","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"住友ゴム八十年史（1989年）巻末「住友ゴム業績推移表」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本経済新聞 2018年1月5日「（追想録）横瀬恭平さん 元住友ゴム工業社長」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"欧州三社と米国ダンロップの立て直し","text":"買収した各社は、いずれも赤字か低収益の状態にあった。経営資料を分析した住友ゴム工業は、西ドイツのSPライフェンベルケ社は初年度から黒字経営が可能、SPタイヤーズUK社とダンロップフランス社は2、3年後に実力で黒字を達成できるという見通しを立てた。再建はダンロップフランス社が1984年7月、SPタイヤーズUK社とSPライフェンベルケ社が1985年1月から始まる。1984年と1985年の2年間で、イギリスに42億円、西ドイツに57億円、フランスに78億円、合わせて177億円の設備投資を行った。\n\n1986年、SPライフェンベルケ社は黒字となって株主へ配当し、ダンロップフランス社もわずかながら黒字へ転じ、SPタイヤーズUK社の赤字は前年より縮んだ。この年もイギリスに20億円、西ドイツに65億円、フランスに27億円の計112億円を投じた。1987年には欧州3社が予定より1年早く揃って黒字となった。教育と訓練で従業員の士気が上がり、合理化投資で品質と生産性が向上し、販売も伸びたことが要因である。同年、米国ダンロップ社の経営が始まり、自動車会社へ納入できる体質づくりを最大の課題として工場の近代化に着手した。\n\n1988年の欧州3社は前年に続いて全社が黒字を確保した。再建が最も遅れたSPタイヤーズUK社が、イギリスの自動車業界の活況にも恵まれて利益を改善した。3社の売上高は4年で伸び、イギリスは1億3,600万ポンド、西ドイツは6億7,100万マルク、フランスは21億600万フランに達し、労働生産性はいずれも30数パーセント改善した。米国ダンロップ社の売上高も前年比120パーセントの5億3,900万ドルとなり、労働生産性はこの1年で20パーセント高まった。1988年9月、フランス政府は日仏の経済関係に尽くした功績として桂田社長にレジオン・ドヌール勲章オフィシエ章を贈った。","references":[{"title":"住友ゴム八十年史（1989年）「第一〇章 国際化の進展と国内基盤の確立」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"住友ゴム八十年史（1989年）「第一一章 国際戦略の推進と企業体質の強化」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本産業史（日本経済新聞社、1994年）第3巻「繊維－繊維不況からDCブームへ」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"住友ゴム工業 有価証券報告書【沿革】","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"住友ゴム八十年史（1989年）巻末「住友ゴム業績推移表」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本経済新聞 2018年1月5日「（追想録）横瀬恭平さん 元住友ゴム工業社長」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"円高不況と、阪神大震災による神戸工場の閉鎖","text":"海外への投資が進む一方、国内は円高に苦しんだ。1985年9月のG5合意で年末に向けて円高が急激に進み、対米ドルの円レートは1984年からの3年余りで1.6倍になった。1985年の売上高は前年比98パーセントの2,007億円と社名変更以来初めての減収となったが、経費の抑制と生産性の向上で円高の影響を吸収し、経常利益は前年比133パーセントの37億4,000万円を確保した。翌1986年はタイヤ部門が前年比91パーセントと落ち込み、売上高1,905億円、経常利益34億6,000万円の減収減益となった。1987年6月には3証券取引所の第一部銘柄に指定された。\n\n1994年8月、住友ゴム工業は神戸市中央区に本社の新社屋を構えた。その5か月後の1995年1月17日、阪神大震災で神戸が被災した。神戸工場と技術研究センターの建屋が被災し、住友ゴム工業は神戸工場を閉鎖して生産設備を名古屋工場や白河工場などへ移した。1996年5月には兵庫県市島町に市島工場が操業を始めた。生産設備の移管によって、創業の地である神戸からタイヤの生産はなくなった。1995年7月にはインドネシアで生産子会社を設けており、住友ゴム工業のアジアでの生産はここから広がった。","references":[{"title":"住友ゴム八十年史（1989年）「第一〇章 国際化の進展と国内基盤の確立」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"住友ゴム八十年史（1989年）「第一一章 国際戦略の推進と企業体質の強化」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本産業史（日本経済新聞社、1994年）第3巻「繊維－繊維不況からDCブームへ」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"住友ゴム工業 有価証券報告書【沿革】","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"住友ゴム八十年史（1989年）巻末「住友ゴム業績推移表」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本経済新聞 2018年1月5日「（追想録）横瀬恭平さん 元住友ゴム工業社長」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]}]},{"start_year":1999,"end_year":2025,"main_title":"グッドイヤーとの十六年の提携を解き、手放したブランドを買い戻した二十七年（1999〜2025）","subsections":[{"title":"世界的提携の締結と、十六年後の解消","text":"1999年2月、世界3位の米国グッドイヤーと5位の住友ゴム工業が、日米欧にまたがる規模の資本・業務提携で合意した。両社を合わせるとタイヤ業界で首位に立つ規模となり、業界の再編機運が高まった。週刊東洋経済は、欧米拠点の獲得によって世界首位を奪い返したいグッドイヤーの思惑と、事業リストラを進めたい住友ゴム工業の思惑が一致したものと報じている。同年6月に諸契約を締結し、9月から日本、北米、欧州で合弁事業を始めた。住友ゴム工業はこの案件のアドバイザーに欧州系のウォーバーグ・ディロン・リード証券を選んでいる。\n\n2000年11月にオーツタイヤの第三者割当増資を全額引き受けて持分比率を51.0パーセントに高め、2003年7月にはオーツタイヤと日本ダンロップを吸収合併したうえで、スポーツ事業を会社分割によりSRIスポーツとして切り出した。SRIスポーツは2006年10月に東京証券取引所第一部へ上場し、2007年12月には米国のクリーブランドゴルフを買収した。2012年5月にはダンロップスポーツへ商号を変えた。分けた事業を再び戻したのは2018年1月で、上場を廃止したダンロップスポーツを吸収合併してスポーツ事業を統合した。\n\n2014年、グッドイヤーが住友ゴム工業へ提携の解消を申し入れ、国際的な仲裁機関へ申し立てた。交渉を経て2015年6月4日に資本提携の解消が発表され、同年10月にアライアンス契約と合弁事業を解消して、北米の合弁会社を100パーセント子会社とした。世界6位と3位の提携が16年で終わったことになる。この清算にあたり、欧州・北米・オセアニアにおける四輪用 DUNLOP の商標権はグッドイヤー側へ渡った。住友ゴム工業に残ったのは、日本を含むアジアなどのダンロップと、自社ブランドの FALKEN である。","references":[{"title":"住友ゴム工業 有価証券報告書【沿革】","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 1999年2月13日号「米グッドイヤーと住友ゴムが大連合」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 1999年3月6日号「奔流 M＆A時代 住友ゴム工業」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2014年2月21日号「グッドイヤーと提携解消に応じる住友ゴム工業の本音」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2015年6月12日号「核心リポート02 グッドイヤーと別れ 住友ゴム「単身」の打算」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"住友ゴム工業 臨時説明会 質疑応答（2025年1月8日）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"住友ゴム工業 長期経営戦略説明会 質疑応答（2025年3月7日）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"住友ゴム工業 2025年12月期決算説明会 質疑応答（2026年2月12日）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2000年3月4日号「投資銀行（インベストバンク）の内幕」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"北米生産の終了と、手放したブランドの買い戻し","text":"提携相手を持たなくなった住友ゴム工業は、2023年から構造改革に入った。その最優先の課題が北米のタイヤ製造子会社で、2024年11月に生産の終了と解散を決めた。バッファロー工場の自動化設備や成形機はタイの第3工場へ移し、北米向けの供給はタイ、インドネシア、日本からの輸出でまかなう体制へ切り替えた。米国内の生産をゼロにしたことで、2025年に始まった関税の引き上げをそのまま受ける立場になったが、山本悟社長は同年1月の説明会で、関税が10パーセント追加されても十分な利益を上げられると述べた。\n\n2025年1月8日、住友ゴム工業はグッドイヤーとの間で、欧州・北米・オセアニア地域における四輪用 DUNLOP の商標権などを取得する譲渡契約を結んだ。取得価格は5億2,600万米ドル、日本円で約826億円である。移行支援の費用として1億500万米ドルと初期在庫の買取代金をクロージング時に支払い、グッドイヤーからは5年間の供給を受ける。10年前に自ら手放したブランドを買い戻したことになる。山本社長はこの日、「いつか DUNLOP をわれわれが取り戻して」（住友ゴム工業 臨時説明会 2025/1/8）という思いで FALKEN を育ててきたと語った。\n\n2025年3月7日、住友ゴム工業は長期経営戦略を公表した。2027年に事業利益率10パーセントとROE10パーセント、2030年に事業利益率15パーセントとROIC10パーセントを掲げ、2035年には事業利益の30パーセントをタイヤ以外で稼ぐという構想である。西口豪一専務は同日、「数量を追い上げて売上と利益を稼ぐ時代は終わった」（住友ゴム工業 長期経営戦略説明会 2025/3/7）と述べ、販売本数の拡大から利益率と株主還元を重んじる経営へ移すと説明した。2025年12月期の売上収益は1兆2,071億円、事業利益は908億円である。","references":[{"title":"住友ゴム工業 有価証券報告書【沿革】","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 1999年2月13日号「米グッドイヤーと住友ゴムが大連合」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 1999年3月6日号「奔流 M＆A時代 住友ゴム工業」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2014年2月21日号「グッドイヤーと提携解消に応じる住友ゴム工業の本音」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2015年6月12日号「核心リポート02 グッドイヤーと別れ 住友ゴム「単身」の打算」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"住友ゴム工業 臨時説明会 質疑応答（2025年1月8日）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"住友ゴム工業 長期経営戦略説明会 質疑応答（2025年3月7日）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"住友ゴム工業 2025年12月期決算説明会 質疑応答（2026年2月12日）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 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