ダイハツ工業 の歴史

創業

1907年

創業者

創業地

大阪市

直近売上高(2016/3)

16,903億円

長期業績と転換点(2002/3〜2016/3)
売上高(億円純利益率(%)
Q なぜ1930年に発動機製造は三輪自動車の完成車製作へ進んだのか
A 1907年に設立された発動機製造は吸入ガス機関を主力とする内燃機関メーカーで、昭和初期に流行していた三輪車向けにガソリンエンジンの国産化を進めていた。ところが当時の三輪車組立業者は輸入エンジンに慣れており、国産エンジンを採用しなかった。エンジンを供給する道が閉ざされたため、同社は自ら完成車を作る側へ回り、1930年12月に500型ダイハツ三輪一号車HA型を完成させた。初めて国産エンジンを積んだ三輪自動車であり、戦後には三輪貨物車で全国保有台数の32%を供給して業界第一位に立った
Q なぜ1967年にダイハツ工業はトヨタ自動車工業との業務提携を選んだのか
A 提携は経営危機によるものではなかった。トヨタ自動車工業の豊田英二氏は後年、話が三和銀行の渡辺忠雄氏から持ち込まれたこと、ダイハツはバランスシートを見ても健全経営そのもので、それほど困ってはいなかったことを記している。当時の小石雄治社長が先の見込みがつかないと判断して仲介を頼んだのだろう、というのが豊田氏の見方であった。資本の自由化を控え、年産十数万台の規模で本格的な開放経済に立ち向かえるかという見通しの問題であった
Q なぜ2016年にダイハツ工業はトヨタの完全子会社となり上場を廃止したのか
A トヨタは1998年に出資比率を51.2%へ引き上げて以降も、自動車事業に乗り出す20年以上前からエンジン製作に取り組んできた企業の自主性を重んじ、完全子会社化には踏み切らずにいた。判断が変わったのは、日本とインドネシアでは成果を上げた提携が中国とインドでは進まず、国内の軽自動車市場も頭打ちになったためである。新興国向け小型車の共同開発を速めるには両社の意思決定を単純にする必要があり、2016年1月に株式交換契約を結んで同年8月に上場を廃止した

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1907年〜 内燃機関の国産化と国産三輪自動車への進出

ダイハツ工業の業績推移:単体

売上高(億円)

出所:有価証券報告書等

  1. 1907年 内燃機関の製作と販売を目的に発動機製造を設立
  2. 1930年 国産エンジンを積んだ三輪自動車の完成車製作への進出 エンジンを売るか、車を作るか——国産エンジンが採用されなかった内燃機関メーカーの選択
  3. 1933年 東京出張所を開設
  4. 1937年 小型四輪自動車を発売
  5. 1939年 池田第一工場の操業開始
  6. 1951年 社名をダイハツ工業に商号変更

発動機製造として始まった内燃機関メーカー

1907年3月[1]、技術の国産化なくして産業の発展はないと考えた学者と実業家[2]が、公称資本金20万円・払込資本金5万円[3]で発動機製造を設立した。同年12月には国産吸入ガス発動機の第1号機[4]を完成させ、以後は発電・鉱山・船舶に用いる発動機のメーカー[5]として事業を広げた。設立当初の製品は自動車ではなく吸入ガス機関で[6]、1914年には南満州へ輸出して海外の販路を開き[7]、翌1915年には当時のわが国最大となる400馬力の吸入ガス機関[8]を製作した。1925年3月には空気制動機の製造販売を目的として日本エヤーブレーキを設立[9]した。

  • ダイハツ工業 有価証券報告書【沿革】
    • [1]1907年3月に内燃機関の製作と販売を目的として発動機製造を設立(資本金200千円)
  • 企業の歴史:明治百年(1968年)「ダイハツ工業」
    • [2]設立の趣意は技術の国産化なくして産業の発展はありえないというもので、学者・実業家が設立した
    • [3]設立時の公称資本金20万円・払込資本金5万円
    • [4]1907年12月に国産吸入ガス発動機の第一号機の製作に成功
    • [5]設立後は発電・鉱山・船舶用の発動機メーカーへ推移した
  • 会社銀行八十年史(1955年)「ダイハツ工業」
    • [6]当初は吸入ガス機関の製作を行った
    • [7]1914年(大正3年)に南満州方面へ輸出し海外への新販路を開拓
    • [8]1915年(大正4年)にわが国最大の400馬力吸入ガス機関を製作
    • [9]1925年(大正14年)3月に空気制動機の製造販売を目的として日本エヤーブレーキを設立

内燃機関で得た技術は、鉄道と自動車の双方へ広がった。1918年に鉄道省へバキュームシリンダーを納入[10]したのを機に鉄道車両用機器の製作を兼営し、空気制動装置の心臓部にあたる三動弁を国産化[11]した。同じ1918年6月には大阪砲兵工廠から民間自動車製作指導工場に指定され[12]、軍用自動車の試作品2両を受注し、翌年2月に完成させた。これが後の自動車製造の経験[13]となり、1922年には米国のR・M・ヴィット社と技術提携[14]し、超ディーゼルと名付けた特許内燃機関の製造販売権を取得した。資本金は1916年に50万円、1937年12月には1000万円[15]へ増えた。

  • 会社銀行八十年史(1955年)「ダイハツ工業」
    • [10]1918年(大正7年)に鉄道省へバキュームシリンダーを納入し鉄道車輌用機器の製作を兼営
    • [14]1922年(大正11年)に米国R・M・ヴィット社と技術提携契約を締結し超ディーゼル発動機の製造販売権を取得
    • [15]資本金は大正5年7月に50万円、昭和12年12月に1000万円へ増額
  • 企業の歴史:明治百年(1968年)「ダイハツ工業」
    • [11]空気制動装置の心臓部にあたる三動弁を国産化
    • [12]1918年6月に大阪砲兵工廠より民間自動車製作指導工場に指定され軍用自動車試作品2両を受注、翌年2月完成
    • [13]軍用自動車の試作は後の自動車製造に貴重な経験となった
  • ダイハツ工業 有価証券報告書【沿革】
    • [1]1907年3月に内燃機関の製作と販売を目的として発動機製造を設立(資本金200千円)
  • 企業の歴史:明治百年(1968年)「ダイハツ工業」
    • [2]設立の趣意は技術の国産化なくして産業の発展はありえないというもので、学者・実業家が設立した
    • [3]設立時の公称資本金20万円・払込資本金5万円
    • [4]1907年12月に国産吸入ガス発動機の第一号機の製作に成功
    • [5]設立後は発電・鉱山・船舶用の発動機メーカーへ推移した
    • [11]空気制動装置の心臓部にあたる三動弁を国産化
    • [12]1918年6月に大阪砲兵工廠より民間自動車製作指導工場に指定され軍用自動車試作品2両を受注、翌年2月完成
    • [13]軍用自動車の試作は後の自動車製造に貴重な経験となった
  • 会社銀行八十年史(1955年)「ダイハツ工業」
    • [6]当初は吸入ガス機関の製作を行った
    • [7]1914年(大正3年)に南満州方面へ輸出し海外への新販路を開拓
    • [8]1915年(大正4年)にわが国最大の400馬力吸入ガス機関を製作
    • [9]1925年(大正14年)3月に空気制動機の製造販売を目的として日本エヤーブレーキを設立
    • [10]1918年(大正7年)に鉄道省へバキュームシリンダーを納入し鉄道車輌用機器の製作を兼営
    • [14]1922年(大正11年)に米国R・M・ヴィット社と技術提携契約を締結し超ディーゼル発動機の製造販売権を取得
    • [15]資本金は大正5年7月に50万円、昭和12年12月に1000万円へ増額

国産エンジンを積んだ三輪自動車と戦後の首位

1930年12月、500型ダイハツ三輪一号車HA型が完成[16]した。昭和初期の三輪車は英国製をはじめとする外国製オートバイエンジンを架装したものが流行[17]しており、同社はそのガソリンエンジンの国産化に着目して試作研究[18]を続けていた。ところが当時の三輪車組立業者は輸入エンジンに慣れており、国産エンジンを採用しなかった[19]。そこで自ら三輪自動車の完成車製作に乗り出し[20]、初めて国産エンジンを搭載した三輪自動車として国産三輪自動車の嚆矢[21]となった。その後は小型自動車の法令改正もあって車種を広げ[22]、標準車のほかに大型車も製作した。

  • 企業の歴史:明治百年(1968年)「ダイハツ工業」
    • [16]1930年12月に500型ダイハツ三輪一号車HA型が完成(有報沿革は1930年12月 三輪自動車発売=ダイハツ1号車)
    • [17]昭和初期は外国製オートバイエンジンを三輪車に架装したものが流行していた
    • [18]同社はガソリンエンジンの国産化に着目し試作研究を続けた
    • [19]当時の三輪車組立業者は輸入エンジンに慣れ国産エンジンを採用しなかった
    • [20]採用されなかったため自ら三輪自動車の完成車製作を開始した
    • [22]小型自動車の法令改正もあって車種を拡大し、標準車のほか大型車も製作した
  • 会社銀行八十年史(1955年)「ダイハツ工業」
    • [21]初めて国産エンジンを搭載した三輪自動車を市場に供給し国産三輪自動車の嚆矢となった

三輪車の需要は年を追って増え、1937年12月に池田工場の建設へ着手し、1939年5月に竣工[23]した。しかし日中戦争から太平洋戦争へと戦時体制が進むと、三輪自動車は資材の制約から生産の抑制を迫られた[24]。同社はディーゼル機関のほかに軍需用トラクター・弾倉・機関銃部品の製作[25]も行い、1943年4月には資本金を2000万円に増やして生産設備を増強[26]した。1945年8月の終戦にともない各分工場を閉鎖したのち、同年11月にはいち早く三輪車の生産を再開[27]した。大阪本社工場にあった三輪自動車の製造設備は、組立工場が戦災で被災したのを機に池田工場へ集約[28]された。

  • 会社銀行八十年史(1955年)「ダイハツ工業」
    • [23]三輪自動車の需要増を受け1937年12月に池田工場の建設に着手、1939年5月竣工
    • [24]日華事変から太平洋戦争への移行で三輪自動車の製作は資材面の制約から生産抑制を余儀なくされた
    • [25]戦時中はディーゼル機関のほか軍需用トラクター・弾倉・機関銃部品を製作
    • [26]1943年(昭和18年)4月に資本金を2000万円へ増額して生産設備を増強
  • 企業の歴史:明治百年(1968年)「ダイハツ工業」
    • [27]1945年8月15日の終戦により各分工場を閉鎖し、同年11月にいち早く三輪車を生産した
    • [28]自動車組立工場の被災を契機に三輪自動車の生産を池田工場へ集中した

戦後の三輪自動車は、当時の道路と燃料の事情に合う輸送手段[29]として需要が伸びた。1948年12月に企業再建整備計画を完了して資本金を7000万円とし、1951年6月に1億5000万円へ増資[30]したうえで、同年12月に社名を発動機製造からダイハツ工業へ改めた[31]。1955年時点で三輪自動車は全生産高の約90%を占め[32]、三輪貨物車では全国保有台数の32%を供給して業界第一位にあった[33]。1953年8月には業界各社に先んじて延生産台数10万台を突破[34]し、1955年4月期の総売上高は49億2000万円に達した。

  • 会社銀行八十年史(1955年)「ダイハツ工業」
    • [29]三輪自動車はわが国の道路・燃料事情に最適なものとして需要が逐年累増した
    • [30]1948年12月に企業再建整備計画を完了し資本金7000万円、1951年6月に1億5000万円へ増資
    • [32]ダイハツ三輪自動車は全生産高の約90%を占めた
    • [33]三輪貨物車は全国保有台数の32%を供給して業界第一位を占めた
    • [34]1953年8月に業界各社に先んじて延生産台数10万台を突破、1955年4月期の総売上高は49億2000万円
  • ダイハツ工業 有価証券報告書【沿革】
    • [31]1951年12月に社名を発動機製造からダイハツ工業へ変更
  • 企業の歴史:明治百年(1968年)「ダイハツ工業」
    • [16]1930年12月に500型ダイハツ三輪一号車HA型が完成(有報沿革は1930年12月 三輪自動車発売=ダイハツ1号車)
    • [17]昭和初期は外国製オートバイエンジンを三輪車に架装したものが流行していた
    • [18]同社はガソリンエンジンの国産化に着目し試作研究を続けた
    • [19]当時の三輪車組立業者は輸入エンジンに慣れ国産エンジンを採用しなかった
    • [20]採用されなかったため自ら三輪自動車の完成車製作を開始した
    • [22]小型自動車の法令改正もあって車種を拡大し、標準車のほか大型車も製作した
    • [27]1945年8月15日の終戦により各分工場を閉鎖し、同年11月にいち早く三輪車を生産した
    • [28]自動車組立工場の被災を契機に三輪自動車の生産を池田工場へ集中した
  • 会社銀行八十年史(1955年)「ダイハツ工業」
    • [21]初めて国産エンジンを搭載した三輪自動車を市場に供給し国産三輪自動車の嚆矢となった
    • [23]三輪自動車の需要増を受け1937年12月に池田工場の建設に着手、1939年5月竣工
    • [24]日華事変から太平洋戦争への移行で三輪自動車の製作は資材面の制約から生産抑制を余儀なくされた
    • [25]戦時中はディーゼル機関のほか軍需用トラクター・弾倉・機関銃部品を製作
    • [26]1943年(昭和18年)4月に資本金を2000万円へ増額して生産設備を増強
    • [29]三輪自動車はわが国の道路・燃料事情に最適なものとして需要が逐年累増した
    • [30]1948年12月に企業再建整備計画を完了し資本金7000万円、1951年6月に1億5000万円へ増資
    • [32]ダイハツ三輪自動車は全生産高の約90%を占めた
    • [33]三輪貨物車は全国保有台数の32%を供給して業界第一位を占めた
    • [34]1953年8月に業界各社に先んじて延生産台数10万台を突破、1955年4月期の総売上高は49億2000万円
  • ダイハツ工業 有価証券報告書【沿革】
    • [31]1951年12月に社名を発動機製造からダイハツ工業へ変更

1957年〜 四輪車への転換とトヨタとの業務提携の締結

ダイハツ工業の業績推移:単体

売上高(億円)

出所:有価証券報告書等

  1. 1957年 軽三輪自動車を発売
  2. 1958年 小型貨物車を発売
  3. 1960年 軽貨物車を発売
  4. 1964年 大衆乗用車を発売
  5. 1966年 ディーゼル機関部門を分離しダイハツディーゼルを設立
  6. 1966年 軽乗用車を発売
  7. 1967年 トヨタ自動車工業・トヨタ自動車販売との業務提携と販売部門の分離 単独で自由化に立ち向かうか、系列に入るか——三和銀行が持ち込んだ提携

ミゼットからハイゼットへ、四輪メーカーへの転換

1957年3月1日に創立50周年を迎えた同社は、この年に軽三輪ミゼットを発売[35]した。翌1958年10月には小型四輪トラックのベスタを発表し、三輪車メーカーから四輪車メーカーへ進みだした[36]。1960年10月には軽四輪のハイゼット[37]を、1963年4月には商用車のコンパーノバンを、同年10月には乗用車のコンパーノベルリーナ[38]を発売した。1957年には下関工場を開設して東京工場の新工場も完成[39]させ、1964年9月1日には自動車の総生産台数が100万台を超えた[40]。1965年3月には本社事務所を池田第二工場のある池田市へ移した[41]

  • 企業の歴史:明治百年(1968年)「ダイハツ工業」
    • [35]1957年3月1日に創立50周年を迎え、この年に軽三輪ミゼットを発売
    • [36]1958年10月に小型四輪車トラック「ベスタ」を発表し三輪車メーカーから四輪車メーカーへ進出
    • [37]1960年10月に軽四輪自動車「ハイゼット」を発売
    • [38]1963年4月に商用車コンパーノバン、同年10月に乗用車コンパーノベルリーナを発売
    • [39]1957年に下関工場を開設し東京工場も新工場が完成した
    • [40]1964年9月1日に自動車総生産台数が100万台を突破
    • [41]1965年3月に本社事務所が池田市に完成(池田第二工場の所在地)

1966年5月、船舶用・陸上用・車両用のディーゼル機関、車両用機器、建設機械、ドア金具などを担ってきた大阪事業部を分離し、ダイハツディーゼルを設立[42]した。創業以来の内燃機関事業を切り離したことで、同社は自動車専業のメーカー[43]になり、同年11月には軽乗用車を発売した[44]。1968年4月期の自動車販売台数は小型車と軽自動車を合わせて12万7529台で前期比11%増、売上高は約9%増の472億円[45]だった。設立時に20万円だった公称資本金は、1968年時点で180億円、従業員は8517名[46]を数えた。

  • 企業の歴史:明治百年(1968年)「ダイハツ工業」
    • [42]1966年5月にディーゼル機関の製造販売部門を分離しダイハツディーゼルを設立
    • [43]大阪事業部の分離により自動車専業メーカーとなった
    • [45]1968年4月期の販売台数は小型自動車・軽自動車あわせて12万7529台(11%増)、売上額は約9%増の472億円
    • [46]1968年時点の資本金180億円・従業員8517名
  • ダイハツ工業 有価証券報告書【沿革】
    • [44]1966年11月に軽乗用車を発売
  • 企業の歴史:明治百年(1968年)「ダイハツ工業」
    • [35]1957年3月1日に創立50周年を迎え、この年に軽三輪ミゼットを発売
    • [36]1958年10月に小型四輪車トラック「ベスタ」を発表し三輪車メーカーから四輪車メーカーへ進出
    • [37]1960年10月に軽四輪自動車「ハイゼット」を発売
    • [38]1963年4月に商用車コンパーノバン、同年10月に乗用車コンパーノベルリーナを発売
    • [39]1957年に下関工場を開設し東京工場も新工場が完成した
    • [40]1964年9月1日に自動車総生産台数が100万台を突破
    • [41]1965年3月に本社事務所が池田市に完成(池田第二工場の所在地)
    • [42]1966年5月にディーゼル機関の製造販売部門を分離しダイハツディーゼルを設立
    • [43]大阪事業部の分離により自動車専業メーカーとなった
    • [45]1968年4月期の販売台数は小型自動車・軽自動車あわせて12万7529台(11%増)、売上額は約9%増の472億円
    • [46]1968年時点の資本金180億円・従業員8517名
  • ダイハツ工業 有価証券報告書【沿革】
    • [44]1966年11月に軽乗用車を発売

三和銀行が仲介した1967年のトヨタとの提携

1967年11月、同社はトヨタ自動車工業およびトヨタ自動車販売と業務提携を結んだ[47]。資本の自由化を控え[48]、国内の自動車業界では再編が相次いでいた時期にあたる。提携は経営危機を受けたものではない[49]。トヨタは同じ時期に日野自動車工業とも提携しており、ダイハツの話が出てきたのはその直後[50]だった。トヨタ自動車工業の豊田英二氏は後年、この話が三和銀行の渡辺忠雄氏から持ち込まれた[51]と記し、ダイハツはバランスシートを見ても健全経営そのもの[52]で、それほど困ってはいなかったと述べた。当時の小石雄治社長が先の見込みがつかないと判断して仲介を頼んだ[53]のだろう、というのが豊田氏の見方である。

  • ダイハツ工業 有価証券報告書【沿革】
    • [47]1967年11月にトヨタ自動車工業およびトヨタ自動車販売と業務提携
  • 企業の歴史:明治百年(1968年)「ダイハツ工業」
    • [48]本格的開放経済に対処するため1967年11月にトヨタ両社と業務提携を結んだ
  • 豊田英二「私の履歴書」(日本経済新聞社『昭和の経営者群像8』1992年)
    • [49]トヨタ自動車工業の豊田英二氏による発言。ダイハツは健全経営そのもので、そんなに困ってはいなかった(提携は経営危機によるものではない)
    • [50]トヨタ自動車工業の豊田英二氏による発言。日野との提携直後にダイハツとの話が出てきた
    • [51]トヨタ自動車工業の豊田英二氏による発言。ダイハツとの話は三和銀行の渡辺忠雄氏から持ち込まれた
    • [52]トヨタ自動車工業の豊田英二氏による発言。ダイハツはバランスシートをみても健全経営そのもので、そんなに困ってはいなかった
    • [53]トヨタ自動車工業の豊田英二氏による発言。当時の小石雄治社長が先の見込みがつかないと判断して三和に仲介を頼んだのだろう

提携の第一段階として[54]、同社は販売部門を分離した。1968年6月にトヨタ両社の協力を得てダイハツ自動車販売を設立[55]し、1970年11月には旭工業を合併して資本金は183億円[56]となった。もっとも、両社の関係は最初から役割が定まっていたわけではなく、トヨタとダイハツでは車種が競合したため、トヨタ側は軽自動車に力を入れるよう求めたが、ダイハツには大衆車を手がける意欲があり[57]、その状態が長く続いたと豊田氏は書き残した。軽と登録車のどちらを主にするかという問いは、その後30年にわたって残った。

  • 企業の歴史:明治百年(1968年)「ダイハツ工業」
    • [54]トヨタとの提携の第一段階として販売部門を分離した
    • [55]提携の第一段階として販売部門を分離し、トヨタ両社の協力を得てダイハツ自動車販売を設立
  • ダイハツ工業 有価証券報告書【沿革】
    • [56]1970年11月に旭工業を合併し新資本金183億円
  • 豊田英二「私の履歴書」(日本経済新聞社『昭和の経営者群像8』1992年)
    • [57]トヨタ自動車工業の豊田英二氏による発言。トヨタとダイハツでは車種が競合し、軽自動車に力を入れるよう求めたがダイハツは大衆車もやる気があった
  • ダイハツ工業 有価証券報告書【沿革】
    • [47]1967年11月にトヨタ自動車工業およびトヨタ自動車販売と業務提携
    • [56]1970年11月に旭工業を合併し新資本金183億円
  • 企業の歴史:明治百年(1968年)「ダイハツ工業」
    • [48]本格的開放経済に対処するため1967年11月にトヨタ両社と業務提携を結んだ
    • [54]トヨタとの提携の第一段階として販売部門を分離した
    • [55]提携の第一段階として販売部門を分離し、トヨタ両社の協力を得てダイハツ自動車販売を設立
  • 豊田英二「私の履歴書」(日本経済新聞社『昭和の経営者群像8』1992年)
    • [49]トヨタ自動車工業の豊田英二氏による発言。ダイハツは健全経営そのもので、そんなに困ってはいなかった(提携は経営危機によるものではない)
    • [50]トヨタ自動車工業の豊田英二氏による発言。日野との提携直後にダイハツとの話が出てきた
    • [51]トヨタ自動車工業の豊田英二氏による発言。ダイハツとの話は三和銀行の渡辺忠雄氏から持ち込まれた
    • [52]トヨタ自動車工業の豊田英二氏による発言。ダイハツはバランスシートをみても健全経営そのもので、そんなに困ってはいなかった
    • [53]トヨタ自動車工業の豊田英二氏による発言。当時の小石雄治社長が先の見込みがつかないと判断して三和に仲介を頼んだのだろう
    • [57]トヨタ自動車工業の豊田英二氏による発言。トヨタとダイハツでは車種が競合し、軽自動車に力を入れるよう求めたがダイハツは大衆車もやる気があった

1971年〜 海外生産の開始と軽自動車への経営資源の集中

ダイハツ工業の業績推移:単体

売上高(億円)

出所:有価証券報告書等

  1. 1972年 多田工場を工機専門工場として操業開始
  2. 1979年 インドネシアで海外生産工場の操業開始
  3. 1981年 ダイハツ自動車販売を合併
  4. 1992年 インドネシアの現地3社を統合しアストラ・ダイハツ・モーターへ
  5. 1994年 マレーシア第二国民車カンチルの生産・販売を開始
  6. 1995年 トヨタ自動車が338億円を出資し持株比率を引き上げ
  7. 1998年 トヨタ自動車が株式取得により子会社化

インドネシア・マレーシアでの現地生産

生産拠点の整備は1970年代を通じて進んだ。1972年3月に多田工場を工機専門工場として[58]、1973年4月に京都工場を大衆乗用車の専門工場として操業を始め[59]、1974年4月には滋賀(竜王)工場が稼働[60]した。海外生産は1979年10月のP.T.ダイハツ・インドネシアの操業で始まり、1985年5月には同国にエンジン工場[61]を設けた。1992年1月、インドネシアの現地3社を統合してアストラ・ダイハツ・モーター[62]とした。1988年12月には欧州向けにダイハツ・ドイツを設け、1989年1月には滋賀新工場が稼働[63]した。1994年8月にはマレーシアの第二国民車カンチルの生産と販売[64]を始めた。

  • ダイハツ工業 有価証券報告書【沿革】
    • [58]1972年3月に多田工場を工機専門工場として操業開始
    • [59]1973年4月に京都工場を大衆乗用車専門工場として操業開始
    • [60]1974年4月に滋賀(竜王)工場が操業開始
    • [61]1979年10月に海外生産工場P.T.ダイハツ・インドネシアが操業開始、1985年5月にエンジン製造工場
    • [62]1992年1月にインドネシアの現地法人を統合しアストラ・ダイハツ・モーターとした
    • [63]1988年12月にダイハツ・ドイツを設立、1989年1月に滋賀新工場が操業開始
    • [64]1994年8月にマレーシア第二国民車カンチルの生産・販売を開始

国内では1990年代前半に業績が落ち込んだ[65]。バブル期に各社が設備を増強した結果、大半の工場が完成したのはバブル崩壊後の1992年から1993年にかけてであり、重い償却負担が残った[66]。1994年3月期は日産自動車・マツダ・富士重工業・日産ディーゼル工業とともに同社も赤字が見込まれ、自動車メーカー11社の半分以上が赤字[67]という状況にあった。1ドル100円台の円高が定着し[68]、各社はリストラに取り組みながらも円高の速さに追いつけずにいた。1995年10月にはトヨタ自動車が338億円を出資[69]して持株比率を引き上げた。当時のトヨタの出資比率は34.4%[70]だった。

  • 日本産業史 第4巻(日本経済新聞社、1994年)「自動車-バブルが崩壊して苦難の道」
    • [65]1994年3月期にダイハツを含む5社の赤字が予想されるなど国内メーカーの業績が落ち込んだ
    • [66]バブル期に増強した設備の大半が竣工したのは平成4〜5年で、重い償却負担が残った
    • [67]平成6年3月期決算では日産・マツダ・ダイハツ・富士重工業・日産ディーゼル工業の赤字が予想され、自動車メーカー11社の半分以上が赤字
    • [68]1ドル100円強の円高が定着し、各社ともリストラに取り組むも円高のスピードに追い付けなかった
  • 日経ビジネス 1995年10月2日号「トヨタがダイハツに338億円投じた「価値」」
    • [69]1995年10月にトヨタがダイハツへ338億円を投じた
  • 週刊東洋経済 1998年9月12日号「トヨタ ダイハツ工業を子会社化」
    • [70]1998年の子会社化前のトヨタの出資比率は34.4%
  • ダイハツ工業 有価証券報告書【沿革】
    • [58]1972年3月に多田工場を工機専門工場として操業開始
    • [59]1973年4月に京都工場を大衆乗用車専門工場として操業開始
    • [60]1974年4月に滋賀(竜王)工場が操業開始
    • [61]1979年10月に海外生産工場P.T.ダイハツ・インドネシアが操業開始、1985年5月にエンジン製造工場
    • [62]1992年1月にインドネシアの現地法人を統合しアストラ・ダイハツ・モーターとした
    • [63]1988年12月にダイハツ・ドイツを設立、1989年1月に滋賀新工場が操業開始
    • [64]1994年8月にマレーシア第二国民車カンチルの生産・販売を開始
  • 日本産業史 第4巻(日本経済新聞社、1994年)「自動車-バブルが崩壊して苦難の道」
    • [65]1994年3月期にダイハツを含む5社の赤字が予想されるなど国内メーカーの業績が落ち込んだ
    • [66]バブル期に増強した設備の大半が竣工したのは平成4〜5年で、重い償却負担が残った
    • [67]平成6年3月期決算では日産・マツダ・ダイハツ・富士重工業・日産ディーゼル工業の赤字が予想され、自動車メーカー11社の半分以上が赤字
    • [68]1ドル100円強の円高が定着し、各社ともリストラに取り組むも円高のスピードに追い付けなかった
  • 日経ビジネス 1995年10月2日号「トヨタがダイハツに338億円投じた「価値」」
    • [69]1995年10月にトヨタがダイハツへ338億円を投じた
  • 週刊東洋経済 1998年9月12日号「トヨタ ダイハツ工業を子会社化」
    • [70]1998年の子会社化前のトヨタの出資比率は34.4%

1998年の子会社化と登録車の整理

1998年9月、トヨタ自動車はダイハツへの出資比率を34.4%から51.2%へ引き上げ[71]、子会社とした。トヨタ側の狙いは2つあった[72]。1つは小型車開発でダイハツの技術を取り込むこと[73]で、トヨタが開発中だったNBCでは製造原価の30%削減を目指しながら15%程度[74]にとどまっていた。もう1つはグループ内の重複投資を避けて役割分担を定める[75]ことにあり、ダイハツは軽と貨物車のほかに1.0〜2.2リットルの登録車を6車種持ち[76]、開発・生産・販売のいずれでもトヨタと競合していた。しかも量販車種が少なく、トヨタから見ればグループの投資効率は高くなかった[77]

  • 週刊東洋経済 1998年9月12日号「トヨタ ダイハツ工業を子会社化」
    • [71]1998年9月にトヨタがダイハツへの出資比率を34.4%から51.2%へ引き上げ子会社化
    • [72]トヨタの狙いは小型車技術の活用と、グループ内の重複投資回避・役割分担の明確化の2つだった
    • [73]子会社化の狙いはトヨタが小型車開発でダイハツの技術・ノウハウを活用することにあった
    • [74]トヨタがNBC開発で狙った製造原価30%のコストダウンは15%程度にとどまっていた
    • [75]もう一つの狙いはグループ内での重複投資を避け役割分担を明確にすることだった
    • [76]ダイハツは軽・貨物車以外に1.0〜2.2リットルクラスの登録車を6車種持ち、開発・生産・販売でトヨタと競合していた
    • [77]量販車種が少なく、トヨタから見ればグループの投資効率はよくなかった

当時のダイハツの軽自動車シェアは25%で、首位のスズキの32%[78]に水をあけられていた。トヨタはすでに会長・社長を含む役員7人を送り込んで[79]おり、社内には登録車に充てている経営資源を軽自動車へ振り向けるべき[80]だという声があった。日野自動車工業がトラック、ダイハツが軽自動車という棲み分け[81]がトヨタの描いた構えである。ダイハツ側は、環境対応などの研究開発は自社だけでは負担が重く[82]、子会社化によってトヨタの技術を利用できると説明した。以後の同社は、これまで以上に軽自動車を重んじざるをえなくなった[83]

  • 週刊東洋経済 1998年9月12日号「トヨタ ダイハツ工業を子会社化」
    • [78]ダイハツの軽自動車市場シェアは25%でトップのスズキ32%に水をあけられていた
    • [79]トヨタはダイハツに会長・社長など役員7人を送り込んでいた
    • [80]トヨタ社内にはダイハツが登録車に充てている経営資源を軽自動車に振り向けるべきという意見があった
    • [81]日野自動車工業がトラック分野、ダイハツが軽自動車という棲み分けがトヨタの戦略だった
    • [82]ダイハツ副社長の登能暉氏による発言。環境対応などの研究開発は当社だけでは負担が重く、子会社化でトヨタが開発した技術を利用できる
    • [83]小型登録車の共同開発の道は残しつつ、今後ダイハツはこれまで以上に「軽」重視にならざるをえないと報じられた

子会社となった翌1999年、同社は登録車の整理に入った[84]。1998年度の販売実績が2394台と前年比で半減したシャレードと、488台にとどまったアプローズ[85]の生産中止にめどをつけた。1999年1〜6月の軽自動車販売は前年同期比31.8%増と、スズキの23.6%増[86]を上回り、上半期の軽シェアは27.9%[87]へ上がってスズキとの差を2.9ポイントに縮めた。新宮威一社長は「2002年ごろには軽自動車でシェア33%を目指したい」(週刊東洋経済 1999/7/17)[88]と述べ、万年二位からの脱却を掲げた。

  • 週刊東洋経済 1999年7月17日号「ダイハツが不振 小型車の生産中止を検討」
    • [84]子会社化の翌1999年に小型車戦列の見直しによる軽自動車への重心シフトが加速した
    • [85]1998年度の販売実績はシャレードが2394台(前年比半減)、アプローズが488台で、ともに生産中止にほぼめどをつけた
    • [86]1999年1〜6月の軽自動車販売はスズキ23.6%増に対しダイハツ31.8%増
    • [87]1999年上半期の軽市場シェアは27.9%へ上昇しスズキとの差は2.9ポイント
    • [88]ダイハツ工業社長の新宮威一氏による発言
  • 週刊東洋経済 1998年9月12日号「トヨタ ダイハツ工業を子会社化」
    • [71]1998年9月にトヨタがダイハツへの出資比率を34.4%から51.2%へ引き上げ子会社化
    • [72]トヨタの狙いは小型車技術の活用と、グループ内の重複投資回避・役割分担の明確化の2つだった
    • [73]子会社化の狙いはトヨタが小型車開発でダイハツの技術・ノウハウを活用することにあった
    • [74]トヨタがNBC開発で狙った製造原価30%のコストダウンは15%程度にとどまっていた
    • [75]もう一つの狙いはグループ内での重複投資を避け役割分担を明確にすることだった
    • [76]ダイハツは軽・貨物車以外に1.0〜2.2リットルクラスの登録車を6車種持ち、開発・生産・販売でトヨタと競合していた
    • [77]量販車種が少なく、トヨタから見ればグループの投資効率はよくなかった
    • [78]ダイハツの軽自動車市場シェアは25%でトップのスズキ32%に水をあけられていた
    • [79]トヨタはダイハツに会長・社長など役員7人を送り込んでいた
    • [80]トヨタ社内にはダイハツが登録車に充てている経営資源を軽自動車に振り向けるべきという意見があった
    • [81]日野自動車工業がトラック分野、ダイハツが軽自動車という棲み分けがトヨタの戦略だった
    • [82]ダイハツ副社長の登能暉氏による発言。環境対応などの研究開発は当社だけでは負担が重く、子会社化でトヨタが開発した技術を利用できる
    • [83]小型登録車の共同開発の道は残しつつ、今後ダイハツはこれまで以上に「軽」重視にならざるをえないと報じられた
  • 週刊東洋経済 1999年7月17日号「ダイハツが不振 小型車の生産中止を検討」
    • [84]子会社化の翌1999年に小型車戦列の見直しによる軽自動車への重心シフトが加速した
    • [85]1998年度の販売実績はシャレードが2394台(前年比半減)、アプローズが488台で、ともに生産中止にほぼめどをつけた
    • [86]1999年1〜6月の軽自動車販売はスズキ23.6%増に対しダイハツ31.8%増
    • [87]1999年上半期の軽市場シェアは27.9%へ上昇しスズキとの差は2.9ポイント
    • [88]ダイハツ工業社長の新宮威一氏による発言

2000年〜 軽首位争いと完全子会社化、そして認証不正

ダイハツ工業の業績推移:単体

売上高(億円)純利益率(%)

出所:有価証券報告書等

  1. 2002年 マレーシアの持株会社プロドゥアが業務開始
  2. 2003年 インドネシアでトヨタとの共同開発車セニア・アバンザの生産を開始
  3. 2013年 インドネシアのLCGC政策に対応したアイラ・アギアの生産を開始
  4. 2016年 トヨタ自動車との株式交換契約を締結
  5. 2016年 トヨタ自動車との株式交換による完全子会社化と上場廃止 51%のまま独立を保つか、意思決定を一本化するか——提携から半世紀の帰結
  6. 2023年 認証試験で174件の不正が判明し64車種が出荷停止
  7. 2024年 新たな認証不正の判明による生産再開の延期

スズキとの首位争いと新興国での生産

2000年代に入ると軽自動車での差は詰まった[89]。2003年11月の月間販売台数はスズキの4万2245台に対して4万1199台[90]と、その差は1000台余りにとどまった。1〜11月の累計でもシェアはスズキの31.4%に対し29.6%で、1.8ポイント差[91]まで迫った。同年11月にはタントを投入した[92]。30年間シェアの首位を守ってきたスズキに対し、2005年には2月と5月の月間販売台数で2度これを抜いた[93]。トヨタ専務からダイハツ副社長を経て2005年6月に社長へ就いた箕浦輝幸氏[94]は、それでも「スズキに追いついた、なんてとても言えない」(週刊東洋経済 2005/8/6)[95]と語った。

  • 週刊東洋経済 2003年12月13日号「万年2位ついに返上? ダイハツ絶好調の理由」
    • [89]2003年にダイハツがスズキを猛烈に追い上げ、シェア差が1.8ポイントまで縮まった
    • [90]2003年11月の月間販売台数はスズキ4万2245台に対しダイハツ4万1199台で差は1000台余り
    • [91]2003年1〜11月累計のシェアはスズキ31.4%に対しダイハツ29.6%で1.8ポイント差
    • [92]2003年11月に新モデル「タント」を投入した
  • 週刊東洋経済 2005年8月6日号「この人に聞く ダイハツ工業社長 箕浦輝幸」
    • [93]スズキは軽乗用車市場で30年間シェアトップを守り、2005年2月と5月にダイハツが販売台数で上回った
    • [94]ダイハツ工業社長の箕浦輝幸氏の経歴(1967年トヨタ自動車工業入社、2003年トヨタ専務、2004年ダイハツ副社長、2005年6月から社長)
    • [95]ダイハツ工業社長の箕浦輝幸氏による発言

海外では東南アジアが伸びた。2002年1月にマレーシアの持株会社プロドゥアが業務を始め[96]、2003年12月にはインドネシアでトヨタとの共同開発車セニアとアバンザの生産[97]に入った。2013年9月にはインドネシア政府の低価格環境車政策に対応したアイラとアギア[98]を、2014年8月にはマレーシアの省エネ車政策に対応したアジアを立ち上げた。連結売上高は2002年3月期の9439億円から2014年3月期の1兆9133億円[99]へ伸び、営業利益も同期に1467億円のピークをつけた。ただし2016年3月期は売上高1兆6903億円・営業利益834億円[100]へ戻した。

  • ダイハツ工業 有価証券報告書【沿革】
    • [96]2002年1月にマレーシアで持株会社プロドゥア・オート・コーポレーションが業務開始
    • [97]2003年12月にインドネシアでトヨタとの共同開発車セニア・アバンザの生産を開始
    • [98]2013年9月にインドネシアのLCGC政策に対応したアイラ・アギア、2014年8月にマレーシアのEEV政策に対応したアジアの生産を開始
  • ダイハツ工業 有価証券報告書【主要な経営指標等の推移】
    • [99]連結売上高は2002年3月期9439億円→2014年3月期1兆9133億円、営業利益は2014年3月期に1467億円
    • [100]2016年3月期の連結売上高1兆6903億円・営業利益834億円
  • 週刊東洋経済 2003年12月13日号「万年2位ついに返上? ダイハツ絶好調の理由」
    • [89]2003年にダイハツがスズキを猛烈に追い上げ、シェア差が1.8ポイントまで縮まった
    • [90]2003年11月の月間販売台数はスズキ4万2245台に対しダイハツ4万1199台で差は1000台余り
    • [91]2003年1〜11月累計のシェアはスズキ31.4%に対しダイハツ29.6%で1.8ポイント差
    • [92]2003年11月に新モデル「タント」を投入した
  • 週刊東洋経済 2005年8月6日号「この人に聞く ダイハツ工業社長 箕浦輝幸」
    • [93]スズキは軽乗用車市場で30年間シェアトップを守り、2005年2月と5月にダイハツが販売台数で上回った
    • [94]ダイハツ工業社長の箕浦輝幸氏の経歴(1967年トヨタ自動車工業入社、2003年トヨタ専務、2004年ダイハツ副社長、2005年6月から社長)
    • [95]ダイハツ工業社長の箕浦輝幸氏による発言
  • ダイハツ工業 有価証券報告書【沿革】
    • [96]2002年1月にマレーシアで持株会社プロドゥア・オート・コーポレーションが業務開始
    • [97]2003年12月にインドネシアでトヨタとの共同開発車セニア・アバンザの生産を開始
    • [98]2013年9月にインドネシアのLCGC政策に対応したアイラ・アギア、2014年8月にマレーシアのEEV政策に対応したアジアの生産を開始
  • ダイハツ工業 有価証券報告書【主要な経営指標等の推移】
    • [99]連結売上高は2002年3月期9439億円→2014年3月期1兆9133億円、営業利益は2014年3月期に1467億円
    • [100]2016年3月期の連結売上高1兆6903億円・営業利益834億円

完全子会社化と30年以上続いた認証不正

2016年1月、トヨタ自動車を完全親会社とする株式交換契約を締結[101]し、同年8月に同社は上場を廃止[102]した。トヨタは1998年に株式の過半を握って以降も、自動車事業に乗り出す20年以上前からエンジンを作ってきた企業の自主性を重んじ[103]、完全子会社化には踏み切らずにいた。判断を変えたのは、日本とインドネシアでは一定の成果を上げた提携が、中国とインドでは進まなかった[104]ためである。新興国向け小型車の共同開発を速めるには両社の意思決定を単純にする必要があり[105]、国内の軽市場が頭打ちになるなかで足元の業績も落ちていた。

  • ダイハツ工業 有価証券報告書【沿革】
    • [101]2016年1月にトヨタ自動車を株式交換完全親会社とする株式交換契約を締結
  • 週刊東洋経済 2017年4月29日号「トヨタグループの人事を読み解く」
    • [102]2016年8月にトヨタの完全子会社となり上場廃止
  • 週刊東洋経済 2016年1月29日号「拡大するトヨタ帝国 スズキの参画はなるか」
    • [103]トヨタが自動車事業に乗り出す20年以上前からエンジン製作に取り組む名門の自主性を重んじ、トヨタは完全子会社化に踏み切れずにいた
    • [104]日本とインドネシアでは提携が一定の成功を収めたが中国やインドではうまくいっていなかった
    • [105]新興国向け小型車の共同開発を加速するため両社の意思決定をシンプルにする必要があり、国内の軽自動車市場が頭打ちになるなか足元の業績は悪化していた

2023年12月20日、新車の安全性能を確認する認証試験など25の試験項目で174件の不正が判明[106]した。衝突試験での不正発覚を受けて同年5月に設けた第三者委員会の調査は、国内で生産・開発する全28車種に不正が及ぶ[107]という結果になった。同社は全国4か所の完成車工場で2024年1月末までの生産停止[108]を決めた。確認された不正のうち最も古いものは1989年[109]にさかのぼり、30年以上にわたって断続的に続いていた。奥平総一郎社長は記者会見で「責任は経営陣にある」(週刊東洋経済 2024/1/6)[110]と述べた。

  • 週刊東洋経済 2024年1月6日号「ダイハツで大規模試験不正 全工場停止で広がる波紋」
    • [106]2023年12月20日に認証試験など25の試験項目で174個の不正行為が判明
    • [107]衝突試験での不正発覚をきっかけに2023年5月に第三者委員会を設置、国内で現在生産・開発する全28車種で不正が判明
    • [108]全国4つの完成車工場で2024年1月末まで生産を停止することを決めた
    • [109]認められた不正行為で最も古いものは1989年で、30年以上にわたり断続的に行われていた
    • [110]ダイハツ工業社長の奥平総一郎氏による発言

第三者委員会が不正の原因に挙げたのは、同社が強みとしてきた短期開発による圧力[111]だった。過度にタイトで硬直的な日程のもとで開発が進み、最後の工程である認証試験にしわ寄せが来ていた[112]と総括した。この傾向を強めたのが2011年に投入した軽トールワゴンのミライースで、通常は4〜5年かかる新車開発を体制の改編などによって17か月で実現[113]し、大きく売った。安全試験や認証に関わる部署の人員は、ピークだった2010年から2022年までに3分の1へ減っていた[114]。取引先は国内で約8136社、派生する売上高は約2.2兆円[115]に達する。

  • 週刊東洋経済 2024年1月6日号「ダイハツで大規模試験不正 全工場停止で広がる波紋」
    • [111]第三者委員会は不正の原因としてダイハツが強みとしてきた短期開発によるプレッシャーを指摘した
    • [112]過度にタイトで硬直的なスケジュールのもとで開発が進み、最後の工程である認証試験にしわ寄せがくる実情があったと総括
    • [113]2011年投入の軽トールワゴン「ミライース」は通常4〜5年の新車開発を17カ月で実現し大ヒットにつなげた
    • [114]安全試験や認証に関連する部署の人員はピークの2010年から2022年には3分の1に削減されていた
    • [115]帝国データバンクによるとダイハツと取引のある企業は国内で約8136社、派生する売上高は約2.2兆円
  • ダイハツ工業 有価証券報告書【沿革】
    • [101]2016年1月にトヨタ自動車を株式交換完全親会社とする株式交換契約を締結
  • 週刊東洋経済 2017年4月29日号「トヨタグループの人事を読み解く」
    • [102]2016年8月にトヨタの完全子会社となり上場廃止
  • 週刊東洋経済 2016年1月29日号「拡大するトヨタ帝国 スズキの参画はなるか」
    • [103]トヨタが自動車事業に乗り出す20年以上前からエンジン製作に取り組む名門の自主性を重んじ、トヨタは完全子会社化に踏み切れずにいた
    • [104]日本とインドネシアでは提携が一定の成功を収めたが中国やインドではうまくいっていなかった
    • [105]新興国向け小型車の共同開発を加速するため両社の意思決定をシンプルにする必要があり、国内の軽自動車市場が頭打ちになるなか足元の業績は悪化していた
  • 週刊東洋経済 2024年1月6日号「ダイハツで大規模試験不正 全工場停止で広がる波紋」
    • [106]2023年12月20日に認証試験など25の試験項目で174個の不正行為が判明
    • [107]衝突試験での不正発覚をきっかけに2023年5月に第三者委員会を設置、国内で現在生産・開発する全28車種で不正が判明
    • [108]全国4つの完成車工場で2024年1月末まで生産を停止することを決めた
    • [109]認められた不正行為で最も古いものは1989年で、30年以上にわたり断続的に行われていた
    • [110]ダイハツ工業社長の奥平総一郎氏による発言
    • [111]第三者委員会は不正の原因としてダイハツが強みとしてきた短期開発によるプレッシャーを指摘した
    • [112]過度にタイトで硬直的なスケジュールのもとで開発が進み、最後の工程である認証試験にしわ寄せがくる実情があったと総括
    • [113]2011年投入の軽トールワゴン「ミライース」は通常4〜5年の新車開発を17カ月で実現し大ヒットにつなげた
    • [114]安全試験や認証に関連する部署の人員はピークの2010年から2022年には3分の1に削減されていた
    • [115]帝国データバンクによるとダイハツと取引のある企業は国内で約8136社、派生する売上高は約2.2兆円

ダイハツ工業の沿革1907〜2024年における主な出来事を抜粋

年月社長・CEO出来事重要度
内燃機関の製作と販売を目的に発動機製造を設立★★★
国産エンジンを積んだ三輪自動車の完成車製作への進出エンジンを売るか、車を作るか——国産エンジンが採用されなかった内燃機関メーカーの選択 詳細を読む★★★
東京出張所を開設
小型四輪自動車を発売★★
池田第一工場の操業開始
社名をダイハツ工業に商号変更★★
軽三輪自動車を発売★★
小型貨物車を発売★★
ダイハツ前橋製作所を設立
軽貨物車を発売★★
池田第二工場の操業開始
大衆乗用車を発売★★
本社事務所を池田市に新築
ディーゼル機関部門を分離しダイハツディーゼルを設立★★
軽乗用車を発売★★
トヨタ自動車工業・トヨタ自動車販売との業務提携と販売部門の分離単独で自由化に立ち向かうか、系列に入るか——三和銀行が持ち込んだ提携 詳細を読む★★★
電気自動車を発売
販売・サービス部門を分離しダイハツ自動車販売を設立
旭工業を合併し資本金183億円へ★★
多田工場を工機専門工場として操業開始
京都工場を大衆乗用車専門工場として操業開始
滋賀(竜王)工場の操業開始
インドネシアで海外生産工場の操業開始★★
ダイハツ信販を設立
ダイハツ自動車販売を合併★★
インドネシアでエンジン工場の操業開始
ダイハツ・ドイツを設立
滋賀新工場の操業開始
インドネシアの現地3社を統合しアストラ・ダイハツ・モーターへ★★
マレーシア第二国民車カンチルの生産・販売を開始★★
トヨタ自動車が338億円を出資し持株比率を引き上げ★★
京都工場のISO14001認証を取得
トヨタ自動車が株式取得により子会社化★★★
本社(池田)工場のISO14001認証を取得
滋賀(竜王)工場のISO14001認証を取得
パキスタンでクオーレの生産・販売を開始
ベネズエラでテリオスの生産を開始
マレーシアの持株会社プロドゥアが業務開始★★
中国の一汽華利汽車でテリオスの生産を開始
インドネシアでトヨタとの共同開発車セニア・アバンザの生産を開始★★
ダイハツ車体の大分(中津)工場が操業開始
箕浦輝幸ダイハツ九州の久留米工場が操業開始
三井正則アストラ・ダイハツ・モーターのカラワン工場が操業開始
三井正則プロドゥア・グローバル・マニュファクチャリングを設立
三井正則インドネシアのLCGC政策に対応したアイラ・アギアの生産を開始★★
三井正則マレーシアのEEV政策に対応したアジアの生産を開始
トヨタ自動車との株式交換契約を締結★★
トヨタ自動車との株式交換による完全子会社化と上場廃止51%のまま独立を保つか、意思決定を一本化するか——提携から半世紀の帰結 詳細を読む★★★
認証試験で174件の不正が判明し64車種が出荷停止★★★
新たな認証不正の判明による生産再開の延期★★
出典・参考
  • ダイハツ工業 有価証券報告書【沿革】
  • 企業の歴史:明治百年(1968年)「ダイハツ工業」
  • 会社銀行八十年史(1955年)「ダイハツ工業」
  • 豊田英二「私の履歴書」(日本経済新聞社『昭和の経営者群像8』1992年)
  • 日本産業史 第4巻(日本経済新聞社、1994年)「自動車-バブルが崩壊して苦難の道」
  • 日経ビジネス 1995年10月2日号「トヨタがダイハツに338億円投じた「価値」」
  • 週刊東洋経済 1998年9月12日号「トヨタ ダイハツ工業を子会社化」
  • 週刊東洋経済 1999年7月17日号「ダイハツが不振 小型車の生産中止を検討」
  • 週刊東洋経済 2003年12月13日号「万年2位ついに返上? ダイハツ絶好調の理由」
  • 週刊東洋経済 2005年8月6日号「この人に聞く ダイハツ工業社長 箕浦輝幸」
  • ダイハツ工業 有価証券報告書【主要な経営指標等の推移】
  • 週刊東洋経済 2017年4月29日号「トヨタグループの人事を読み解く」
  • 週刊東洋経済 2016年1月29日号「拡大するトヨタ帝国 スズキの参画はなるか」
  • 週刊東洋経済 2024年1月6日号「ダイハツで大規模試験不正 全工場停止で広がる波紋」

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