1930年のダイハツ1号車で得た三輪自動車の首位は、戦後に航空機の技術を持つ大手が参入しても崩れなかった。池田工場への生産集中と設備の合理化を受け、新三菱重工や三井精機工業などが三輪自動車の製造に相次いで着手した[1]。それでも1955年には三輪貨物車の全国保有台数の32%を供給していた[2]。先行の利は、技術より量産と販売網を先に固めた順番から生まれている。首位が三輪の枠内にとどまったことは、四輪への移行で優位を築き直す負担になった。
ミゼットの狙いは、新車の利益よりも、三輪車の商売に根付いた取引条件を改めることにあった。小石雄治社長はミゼットで利潤を第一とせず、代金回収の改善を目的に据えた[7]。定価22万円と月賦の条件を定め、下取り査定の熟練を要しない販売方式にした[7]。値引きと査定の駆け引きを定価で封じれば、販売店の与信の質がそろう。この方式は軽の貨物で効いたが、乗用車の後れを埋める手段にはならず、1967年のトヨタとの業務提携に至った。
1990年代前半の赤字は、販売の失速より、バブル期の設備の竣工が景気の反転と重なった時期のずれから生じた。増強した設備の大半は1992〜93年に竣工して重い償却負担を残し、1994年3月期にはダイハツを含む5社の赤字が予想された[10]。需要の山に合わせて能力を積む投資は、円高の局面で固定費の重さに転じる。1995年10月、トヨタはダイハツへ338億円を投じた[11]。設備の負担をトヨタの資本で補う構図が、1998年の子会社化の下地になった。
2016年のトヨタの完全子会社化は、救済ではなく、新興国の小型車でダイハツが積んだ開発力をトヨタが取り込む判断だった。2003年12月にはインドネシアでトヨタとの共同開発車セニア・アバンザの生産を開始している[3]。2013年9月には同国のLCGC政策に対応したアイラ・アギアの生産を開始した[3]。政策が定める価格と仕様に車を合わせる力は、軽自動車の規格で磨いた設計の延長にある。上場子会社の関係では、両社の意思決定を一本化する余地が限られていた。
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