ダイハツ工業トヨタ自動車工業・トヨタ自動車販売との業務提携と販売部門の分離
単独で自由化に立ち向かうか、系列に入るか——三和銀行が持ち込んだ提携
- 概要
- 1967年11月、ダイハツ工業がトヨタ自動車工業およびトヨタ自動車販売と業務提携を結んだ経営判断。提携の第一段階として販売部門を分離し、1968年6月にトヨタ両社の協力を得てダイハツ自動車販売を設立した。
- 背景
- 1966年5月に大阪事業部を分離してダイハツディーゼルを設立し、同社は自動車専業のメーカーになっていた。一方で日本の自動車産業は資本の自由化を控え、第一次業界再編と呼ばれる提携・合併が相次いでいた。
- 内容
- 話を持ち込んだのは三和銀行であった。トヨタ自動車工業の豊田英二氏は後年、日野との提携直後にダイハツとの話が出てきたこと、それが三和銀行の渡辺忠雄氏から持ち込まれたことを記している。ダイハツの財務は健全で、経営危機による提携ではなかった。
- 含意
- 提携後も両社の車種は競合した。トヨタは軽自動車に力を入れるよう求めたが、同社は大衆車を手放さず、その状態が長く続いた。トヨタの持株比率が過半に達するのは31年後の1998年である。
危機ではなく、見通しで結んだ提携
この提携は経営危機によるものではなかった。豊田英二氏はダイハツが健全経営そのもので、それほど困ってはいなかったと振り返っている。それでも小石雄治社長が三和銀行に仲介を頼んだとみられているのは、資本自由化後の競争を年産十数万台の規模で戦えるかという見通しの問題であったからだろう。危機ではなく見通しによって系列に入った点に、第一次業界再編の性格がよく出ている。
ただし、提携は同社の進む道を一つに定めなかった。トヨタは軽自動車に寄るよう求めたが、同社は大衆車を手放さず、その状態が31年続く。販売会社を分けて売る側をトヨタと共有しながら、作る側では競合を残したことになる。1998年の子会社化のあとに登録車の整理が進んだことを思えば、1967年の提携は決着ではなく、決着を31年先送りにした形であったとみることができる。
Yutaka Sugiura, 2026年8月
背景
自動車専業への収斂と、目前に迫った資本自由化
1966年5月、同社は船舶用・陸上用・車両用のディーゼル機関や車両用機器、建設機械、ドア金具などを担ってきた大阪事業部を分離し、ダイハツディーゼルを設立した。創業以来の内燃機関事業を切り離したことで、同社は自動車専業のメーカーになる。同年11月には軽乗用車を発売し、1964年9月にはすでに自動車の総生産台数が100万台を超えていた。同社が作る製品は、これで自動車だけになった[1][2]。
一方、日本の自動車産業は資本の自由化を目前に控えていた。トヨタ自動車販売の神谷正太郎氏は後年、第一次業界再編において、トヨタ自動車工業とともに日野自動車工業および同社の販売会社、そしてダイハツ工業と業務提携に踏み切ったのは、そうした考えにもとづいていたと記している。年産十数万台の規模で本格的な開放経済にどう対処するかが、同社にとっても目前の課題であった[3][4]。
決断
三和銀行が持ち込んだ話
1967年11月、同社はトヨタ自動車工業およびトヨタ自動車販売と業務提携を結んだ。話を持ち込んだのは三和銀行である。トヨタ自動車工業の豊田英二氏は後年、日野との提携の直後にダイハツとの話が出てきたこと、それが三和銀行の渡辺忠雄氏から持ち込まれたものであったことを記している。豊田氏はあわせて、ダイハツはバランスシートを見ても健全経営そのもので、それほど困ってはいなかったとも述べた[5]。
では、なぜ提携したのか。豊田氏は、当時の小石雄治社長が先の見込みがつかないと判断して三和銀行に仲介を頼んだのだろうと見ている。財務の逼迫ではなく、自由化後の競争を単独で戦い抜けるかという見通しの問題であった。提携の第一段階として同社は販売部門を分離し、1968年6月にトヨタ両社の協力を得てダイハツ自動車販売を設立している。1968年4月期の販売台数は12万7529台で前期比11%増、売上高は約9%増の472億円であった[6][7]。
結果
決まらなかった役割分担
提携によって両社の役割が定まったわけではなかった。豊田氏は、トヨタとダイハツでは車種が競合したため軽自動車に力を入れるよう求めたものの、ダイハツには大衆車を手がける意欲があり、その状態が長く続いたと書き残している。同社は1970年11月に旭工業を合併して資本金を183億円とし、軽自動車と登録車の二本立てを保った。トヨタの持株比率は過半に届かず、同社は独立した上場会社であり続けた[8][9]。
二本立ての帰結は、31年後に表れた。1998年9月、トヨタは出資比率を34.4%から51.2%へ引き上げて同社を子会社とする。当時のダイハツは軽と貨物車のほかに1.0〜2.2リットルの登録車を6車種持ち、開発・生産・販売のいずれでもトヨタと競合していた。1967年に軽へ寄れと求められながら大衆車を続けた選択は、資本の関係が変わることで決着した[10][11]。
- 豊田英二「私の履歴書」(日本経済新聞社『昭和の経営者群像8』1992年)
- 神谷正太郎「私の履歴書」(日本経済新聞社『経済人15』1981年)
- 企業の歴史 : 明治百年(1968年)「ダイハツ工業」
- ダイハツ工業 有価証券報告書【沿革】
- 週刊東洋経済 1998年9月12日号「トヨタ ダイハツ工業を子会社化」