トヨタとの業務提携(1967年・ダイハツ工業の決断)更新:2026/08/03ダイハツ工業:業績の推移売上高(億円)計上利益金率(%)データ出所業務提携の受け入れと、自前の販売部門の切り出し1967年11月、ダイハツ工業がトヨタ自動車工業およびトヨタ自動車販売と業務提携を締結した経営判断。提携の第一段階として販売部門を分離し、1968年6月にトヨタ両社の協力を得てダイハツ自動車販売を設立した。何をなぜ決めたか:業務提携の受け入れと、自前の販売部門の切り出し概要1967年11月、ダイハツ工業がトヨタ自動車工業およびトヨタ自動車販売と業務提携を締結した経営判断。提携の第一段階として販売部門を分離し、1968年6月にトヨタ両社の協力を得てダイハツ自動車販売を設立した。背景1966年5月に大阪事業部を分離してダイハツディーゼルを設立し、同社は自動車専業のメーカーになっていた。一方で日本の自動車産業は資本の自由化を控え、第一次業界再編と呼ばれる提携・合併が相次いでいた。内容話を持ち込んだのは三和銀行であった。トヨタ自動車工業の豊田英二氏は後年、日野との提携直後にダイハツとの話が出てきたこと、それが三和銀行の渡辺忠雄氏から持ち込まれたことを記している。ダイハツの財務は健全で、経営危機による提携ではなかった。含意提携後も両社の車種は競合した。トヨタは軽自動車に力を入れるよう求めたが、同社は大衆車を維持し、その状態が長く続いた。トヨタの持株比率が過半に達するのは31年後の1998年である。いつ何が起きたか7件筆者考察考察考察:危機ではなく、見通しで結んだ提携この提携は経営危機によるものではなかった。それでも小石雄治社長が三和銀行に仲介を頼んだとみられているのは、資本自由化後の競争を年産十数万台の規模で戦えるかという見通しの問題であったからだろう。危機ではなく見通しによって系列に入った点に、第一次業界再編の性格がよく出ている。ただし、提携は同社の進む方向を一つに定めなかった。トヨタは軽自動車に寄るよう求めたが、同社は大衆車を維持し、その状態が31年続く。販売会社を分けて売る側をトヨタと共有しながら、作る側では競合を残したことになる。1998年の子会社化のあとに登録車の整理が進んだことを思えば、1967年の提携は決着ではなく、決着を31年先送りにした形であっただろう。Yutaka Sugiura, 2026年8月参考文献参考文献参考豊田英二「私の履歴書」(日本経済新聞社『昭和の経営者群像8』1992年)神谷正太郎「私の履歴書」(日本経済新聞社『経済人15』1981年)企業の歴史 : 明治百年(1968年)「ダイハツ工業」ダイハツ工業 有価証券報告書【沿革】次に読む決断同じ問い:技術優位での選択と集中1977年藤沢薬品工業藤沢薬品工業セファメジンへ集中投資主力薬効を抗生物質と神経系へ集中する事業構成の組み替え1977年1957年ペンタックスペンタックスアサヒペンタックスの開発距離計連動式を採らない一眼レフカメラへの集中と、専業メーカーへの転換1957年1981年久光製薬久光製薬サロンパス軸へ資源集中赤字決算を受けた経皮吸収型製剤への経営資源集中1981年1952年ゴールドウインゴールドウイン野球用品中心へ全面転換一般メリヤス雑貨の生産をやめてのスポーツウエア専業への集中1952年1984年東京応化工業東京応化工業フォトレジストへ資源集中塩化ビニールなど大型市場への不参入と、狭い分野への資源の集中1984年ダイハツ工業の意思決定1930年ダイハツ工業ダイハツ工業ダイハツ1号車HA型の完成エンジンの供給から三輪自動車の完成車製造への進出1930年2016年ダイハツ工業ダイハツ工業トヨタの完全子会社化株式交換による上場廃止と、独立した資本の放棄2016年×出所