1909年、静岡県浜松市で鈴木道雄氏が個人経営の鈴木式織機製作所を創業[1]し、足踏織機と木鉄混製動力織機の製作[2]から事業を起こした。1920年3月には資本金50万円の株式会社へ改組[3]し、鈴木道雄氏が社長に就任[4]している。1922年6月には不式機械を合併して資本金を100万円へ[5]積み増した。その後も多くの特異な発明特許を得て、綿織機・サロン織機・毛織機その他各種準備機まで繊維機械を一貫生産[6]し、業界三大メーカーの一つに数えられている[7]。なかでもサロン織機は東南アジア方面へ盛んに輸出した[8]。
1939年9月、静岡県浜名郡可美村高塚に高塚工場を建設[9]して生産拠点を広げた。しかし戦争の激化にともない、平和産業から軍需産業への移行を余儀なくされている[10]。本社工場は戦災を受け、1945年10月に高塚へ移って繊維機械の生産販売を再開[11]した。戦後は紡績会社の復興需要に東南アジア向けの輸出が重なって織機の注文が旺盛をきわめ[12]、1949年5月には東京・大阪・名古屋の各証券取引所第一部へ株式を上場[13]している。1954年5月には福岡証券取引所へも上場[14]した。
1950年の朝鮮動乱以来つづいた好況は1951年半ばから逆転し、繊維機械産業も不況へ沈んだ[15]。同社は企業合理化の必要から人員整理を発表したが、これに端を発した労働争議は数カ月におよび、経営は苦境に立たされている[16]。この行き詰まりのなかで将来性のある自動車産業への転換を決意[17]し、まずバイクモーターと呼ばれた自転車補助エンジンの製作に着手[18]した。1952年6月にこれを発売して輸送用機器部門へ進出[19]し、翌1953年には60ccへ大型化したダイヤモンドフリー号を生産[20]している。
ダイヤモンドフリー号は大好評となり、エンジンに対する自信が自動車産業への傾斜を決定づけた[21]。もっとも織機屋の転業には強い反対がついて回り、社史は『当社がモーター・バイクの製作に転換したことが知れると、各界の名士および銀行団から好意的な翻意の忠告、ないしは反対を受けた』[引用元]と書きとめている。それでも1954年6月に社名を鈴木自動車工業株式会社へ変更[22]し、各種オートバイの生産へ踏み込んで、名実ともに自動車産業へ転換した[23]。1955年時点の資本金は2億5000万円[24]である。
当時は国民車の構想が世間の話題を呼んでおり、同社も研究を進めていた[25]。その成果として1955年10月、2ストローク360ccの国産初の軽四輪スズライトを開発して発売[26]し、わが国の軽自動車に先鞭をつけた[27]。これが日本の軽四輪のパイオニア[28]となる。1957年2月には鈴木道雄氏が隠退し、後任の社長へ鈴木俊三氏が就いている[29]。1958年5月には50ccの新製品スズモベットを発表し、本格的なモペットの先陣[30]を切った。
輸出用オートバイの増進をはかるため海外レースへの出場を決め、高速エンジンの研究製作[31]に取り組んだ。1962年10月、GPレースの50cc部門でメーカー選手権を獲得[32]している。翌1963年には50ccと125ccの両部門で選手権を獲り、スズキのブランドを世界的なもの[33]にした。1963年8月には米国カリフォルニア州ロサンゼルス市に直営販売会社U.S. Suzuki Motor Corp.を設立[34]し、1964年にも50cc部門で3年連続の選手権を獲得[35]している。オートバイの輸出先は世界80数カ国[36]へ広がった。
事業の裾野も広がり、1961年4月には繊維機械部門を分離して鈴木式織機株式会社を設立[37]し、創業事業と正式に袂を分かっている。同年9月には愛知県豊川市に豊川工場を建設して軽四輪トラックの生産を始めた[38]。1965年4月には船外機部門へ進出[39]し、同年11月に鈴木俊三氏が2サイクルエンジンの開発とオートバイ産業への寄与により藍綬褒章[40]を受けている。同年12月にはクランクシリンダー給油方式であるCCI方式を開発し、二輪・四輪の全車種へ採り入れた[41]。1967年3月にはタイに合弁会社Thai Suzuki Motor Co.,Ltd.を設立[42]している。
四輪では後発の本田技研が重くのしかかり、当時の観測は『鈴木の四輪社部門は、1964年度に10%の減産となった』[引用元]『先行きは後進の本田が鈴木を追い越すだろう』[引用元]と、追い越しの予兆を書いている。反攻の拠点となったのが磐田工場で、『四輪専用工場建設のため、静岡県磐田市岩井原に33万㎡の用地を確保、造成工事を進めていたが、このほど完了』[引用元]と報じられた用地に、1967年、四輪専門の磐田新工場を建設して近代的設備による量産体制を確立[43]した。
1968年時点の生産は軽四輪が月産2万台、オートバイが月産3万5000台[44]に達し、過去14年余にわたって1割5分の配当を継続[45]している。事業の間口はさらに広がり、1970年1月に大須賀工場、同年10月に湖西工場、1971年10月に豊川の二輪車工場を建設[46]し、1970年4月には四輪駆動軽四輪車を発売[47]した。1974年4月には電動車いすで医療機器部門へ、同年8月には住宅部門へ進出[48]している。1975年5月にはパキスタンで四輪車初の海外生産を始めた[49]。1973年の石油危機では、社内から排気量を上げて小型車へ再進出する案が出た[50]。これに対し鈴木修氏は『石油枯渇が将来の大きな問題になろうとしているときに、なぜそんなことをいいだすのか』[引用元]と反駁し、小型車への傾斜を退けている。
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|---|---|---|---|---|
| 1909〜1954年織機の45年と、繊維不況が決めた二輪への転身 | 鈴木式織機製作所を創業 | ★ | ||
| 鈴木式織機として改組設立 | ★ | |||
| 高塚工場を新設 | ★ | |||
| 東京証券取引所に株式上場 | ★ | |||
| 労働争議が発生・生産停止へ | ★ | |||
| 二輪車に参入・パワーフリー号を発売 | ★★ | |||
| 商号を鈴木自動車工業に変更 | ★ | |||
| 1955〜1977年国産初の軽四輪と、世界選手権が作った二輪の名 | 軽四輪乗用車を発売(国内軽自動車の先鞭) | ★★ | ||
| 創業者の鈴木道雄氏が社長退任 | ★ | |||
| 繊維機械部門を子会社に分離 | ★ | |||
| 国内生産拠点を増設 | ★ | |||
| 米国直営販売会社U.S. Suzuki Motor Corp.を設立 | ★ | |||
| 船外機部門に参入 | ★ | |||
| 排ガス規制により販売不振へ | ★ | |||
| 四輪車初の海外生産を開始(パキスタン) | ★ | |||
| 1978〜2008年47万円のアルトと、GM・インドという二つの賭け | 鈴木修 | 鈴木修氏が社長就任 | ★ | |
| 鈴木修 | 軽自動車「アルト」を発売 | ★★ | ||
| 鈴木修 | GM・いすゞとの3社業務提携と、「中小企業」規模の維持 1981年8月、鈴木自動車工業(現スズキ)が米ゼネラルモーターズ(GM)と資本・業務提携を結び、GMの資本参加を受け入れてGM向け小型乗用車の開発・供給を担う関係を築いた経営判断。GMが資本参加するいすゞ自動車を含む3社の協力枠組みとして報じられた。規模拡大を競う大手を追わず、軽四輪と二輪に特化した『中小企業』として独立と機動力を保つ道を選んだ。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 鈴木修 | インド国営企業マルチに出資 | ★★ | ||
| 鈴木修 | スズキに商号変更 | ★ | ||
| 鈴木修 | ハンガリーにMagyar Suzuki Corporationを設立 | ★ | ||
| 鈴木修 | 現地生産を開始 | ★ | ||
| 鈴木修 | 相良エンジン工場を稼働 | ★ | ||
| 鈴木修 | マルチ・ウドヨグの社長人事を巡るインド政府との対立と国際仲裁 1997年、スズキとインド政府が50%ずつ出資する合弁会社マルチ・ウドヨグで、社長(マネージング・ディレクター)人事を巡り両者が対立した経営判断。政府側が握る取締役会が独自候補R.S.S.L.N.バスカルドゥの社長任命を決議し、スズキは合弁契約違反として国際仲裁に持ち込んだ。1998年に和解し、社長人事にはスズキの承認を要することを政府が認めた。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 鈴木修 | GMがスズキへ追加出資 | ★★ | ||
| 鈴木修 | マルチ社を子会社化・増産投資 | ★★ | ||
| 鈴木修 | 小型車「スイフト」を発売 | ★ | ||
| 鈴木修 | GMとの提携を解消 | ★ | ||
| 2009〜2026年VWとの一年九カ月、二度の不正、そして承継 | 鈴木修 | フォルクスワーゲンとの資本提携と、一年九カ月での解消 2009年12月、スズキが独フォルクスワーゲン(VW)と資本提携および業務提携についての包括契約に調印した経営判断。2006年にGMから買い戻していた金庫株19.9%を第三者割当でVWへ譲渡し、環境技術の供与を期待した。しかし経営の自主独立をめぐる齟齬が埋まらず、2011年9月に解消を表明、同年11月に契約を解除した。提携期間は1年9カ月にとどまる。 詳細を読む | ★★ | |
| 鈴木修 | 米国四輪車市場から撤退 | ★ | ||
| 鈴木修 | Suzuki Motor Gujarat Private Ltd.を設立 | ★ | ||
| 鈴木俊宏 | フォルクスワーゲンから株式を買い戻し | ★ | ||
| 鈴木俊宏 | 燃費測定と完成検査をめぐる二度の不正と、再発防止への一七〇〇億円 2016年の燃費測定不正と2018年の完成検査不正という二度の法令違反を受け、スズキが約200万台のリコールと5年間で1700億円の設備投資に踏み切った経営判断。2019年4月公表の外部調査報告書は、検査人員や時間の不足に加え、無駄を排する『小少軽短美』の方針が現場で誤解されたことを原因に挙げた。鈴木修会長は2016年に責任を取ってCEO職を辞している。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 鈴木俊宏 | 浜松工場を新設 | ★ | ||
| 鈴木俊宏 | トヨタ自動車と資本提携 | ★★ | ||
| 鈴木俊宏 | 東京証券取引所プライム市場へ移行 | ★ | ||
| 鈴木俊宏 | 新工場を計画 | ★ | ||
| 鈴木俊宏 | 鈴木修相談役が逝去 | ★ |
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事実根拠:出所(スズキ)