1917年〜 中島飛行機から富士重工業への再編、大衆車参入
SUBARUの業績推移:単体
- 1917年 飛行機研究所を創業
- 1931年 中島飛行機を設立
- 1945年 富士産業に商号変更・軍需から民需転換
- 1953年 SUBARU創業——中島飛行機の戦後解体と旧5社の再結集による富士重工業 航空機製造を禁じられ12社に分割された中島飛行機系の企業は、1953年にどのように富士重工業として再結集したか
- 1958年 乗用車「スバル360」を発表
- 1979年 4WD「レオーネ」を発売
- 1987年 系列を超えたいすゞとの北米合弁SIAの設立 単独では埋まらない現地生産の採算ラインを、規模で劣る中堅同士はどう埋めたか
航空機メーカー解体が生んだ自動車転身
1917年5月、中島知久平氏は日本海軍の予備役中尉を退役した後、群馬県太田町で民間の飛行機研究所を創設した。中島氏は「経済的に貧しいわが国の国防は、航空機を中心にするべきであり、世界の航空情勢に追いつくには、民間航空機産業を起こさなければならない」と考え、民営の飛行機研究所から事業を立ち上げた。1931年に株式会社中島飛行機製作所へ組織改組して事業規模を拡大し、陸軍の九七式戦闘機や海軍の零式艦上戦闘機のエンジンなど主力機種の設計と量産を担った。最盛期の1941〜1945年には、日本航空機生産に占めるシェアは機体28%(2位三菱17.9%)、発動機31.3%(1位三菱35.6%)であり、三菱重工業(株)とともに最大の生産量を占め、文字通り業界を二分した。 [1][2][3]
- 株式会社SUBARU 有価証券報告書 第94期(2025年3月期)【沿革】
- [1]中島知久平が群馬県太田で航空機の研究所を創設(有報沿革=1917年12月、本文は退役を1917年5月とする)
- [2]創業者は中島知久平
- [3]1931年に株式会社へ改組し中島飛行機株式会社と改称
1945年8月の敗戦と同時に連合国軍最高司令官総司令部の指令で中島飛行機は富士産業株式会社へ改組され、航空機製造の全面禁止という占領政策の厳しい制約の下で事業転換を迫られた。1950年の企業再建整備法により富士産業は12社に解体され、日本最大級を誇った航空機メーカーは組織として一度解体された。分割された12社のうち富士工業、富士自動車工業、大宮富士工業、宇都宮車輌、東京富士産業の5社が払込資本金5000万円を共同出資して1953年7月に再結集する形で富士重工業株式会社が発足し、1955年4月にはこれら5社を吸収合併して資本金8億3050万円へと規模を固めた。中島飛行機時代の技術者集団が戦後の自動車産業で再び結集する出発点である。航空機メーカーの解体という占領政策の現実が、逆に自動車メーカーへの転身を促した皮肉な帰結が、後のSUBARUのアイデンティティを規定した。 [4][5][6][7][8][9]
- 株式会社SUBARU 有価証券報告書 第94期(2025年3月期)【沿革】
- [4]1945年8月の終戦にともない富士産業株式会社へ改称
- [5]富士産業の12社解体は企業再建整備法による第二会社化
- [6]1953年7月に旧富士産業系5社の共同出資で富士重工業を設立
- [7]再結集5社は富士工業・富士自動車工業・大宮富士工業・宇都宮車輌・東京富士産業(有報沿革と一致)
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
- [8]富士重工業の設立時払込資本金は5000万円(1953年)
- [9]1955年4月に五社を吸収合併し資本金8億3050万円となった
- 株式会社SUBARU 有価証券報告書 第94期(2025年3月期)【沿革】
- [1]中島知久平が群馬県太田で航空機の研究所を創設(有報沿革=1917年12月、本文は退役を1917年5月とする)
- [2]創業者は中島知久平
- [3]1931年に株式会社へ改組し中島飛行機株式会社と改称
- [4]1945年8月の終戦にともない富士産業株式会社へ改称
- [5]富士産業の12社解体は企業再建整備法による第二会社化
- [6]1953年7月に旧富士産業系5社の共同出資で富士重工業を設立
- [7]再結集5社は富士工業・富士自動車工業・大宮富士工業・宇都宮車輌・東京富士産業(有報沿革と一致)
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
- [8]富士重工業の設立時払込資本金は5000万円(1953年)
- [9]1955年4月に五社を吸収合併し資本金8億3050万円となった
「国民車」スバル360と水平対向AWDの確立
1958年5月、富士重工業は軽自動車「スバル360」を市場投入した。航空機設計者出身の百瀬晋六氏が中心となり、独自のモノコックボディ構造と後部エンジン駆動方式という当時先進的な技術パッケージを開発した。同時期、業界誌は「カメラも造船も世界水準に達したというのに、乗用車だけがまだ一本立ちできない」「ダットサンはエンジン、シャシー共に、20年前の骨董品ボディーを若干お茶を濁したという代物」(ダイヤモンド 1955/3/21)と既存乗用車への不満を表明し、国民車待望論が高まっていた。「てんとう虫」の愛称で親しまれたスバル360は10年以上にわたって生産が続き、1961年には「当社は1958年に系四輪乗用車へ進出、スバル360を発売した。これが、最近急速に売上げを増大して、当社の業績向上に寄与している」(経済展望 1961/3/1)と評価された。量産の受け皿となった群馬製作所は、戦後に接収され米軍キャンプとして使われていた旧中島飛行機の太田製作所の払い下げを1960年10月に受け、設備を改装して開設したものである。航空機時代の生産基盤が、そのままスバルの増産設備として再利用された。 [10][11][12]
- 株式会社SUBARU 有価証券報告書【沿革】
- [10]1958年に富士重工業が軽自動車スバル360を発売
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
- [11]1960年10月に旧中島飛行機太田製作所(戦後接収・米軍キャンプとして使用)の払い下げを受け群馬製作所を開設
- [12]群馬製作所の前身は戦後接収され米軍キャンプとして使われた旧中島飛行機の太田製作所(群馬県太田市)
1960年代後半には自動車業界で過剰設備問題が深刻化し、1965年のダイヤモンドは「需要急増の予想された1959年〜1960年に、各社は大増設を計画、つぎつぎに新工場を建設した」「消滅する会社はどこなのか?」(ダイヤモンド 1965/4/26)と再編機運を伝えた。1968年には富士重工業が日産自動車との提携検討を経て撤回した件で、「F自身、とても単独では生き残れないメーカーである」「1対1の対等合併など夢物語になる」(ダイヤモンド 1968/5/27)と観測された。しかし1966年発売の初代スバル1000では水平対向エンジンと前輪駆動の組み合わせを採用し、1972年には世界に先駆けて乗用車へ四輪駆動方式を市販化した初代レオーネを投入した。「水平対向+AWD」の独自技術パッケージを確立し、1985年にはいすゞ自動車との合弁で米国インディアナ州に設立したSubaru of Indiana Automotive工場が1989年から稼働を開始した。 [13]
- 株式会社SUBARU 有価証券報告書【沿革】
- [13]1968年に富士重工業が日産自動車と業務提携を検討・締結
- 株式会社SUBARU 有価証券報告書【沿革】
- [10]1958年に富士重工業が軽自動車スバル360を発売
- [13]1968年に富士重工業が日産自動車と業務提携を検討・締結
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
- [11]1960年10月に旧中島飛行機太田製作所(戦後接収・米軍キャンプとして使用)の払い下げを受け群馬製作所を開設
- [12]群馬製作所の前身は戦後接収され米軍キャンプとして使われた旧中島飛行機の太田製作所(群馬県太田市)