富士重工業は、自動車をやりたくて始まった会社ではない。中島知久平氏が1917年に群馬県太田で興したのは飛行機の研究所であり、最盛期には日本の航空機生産の機体で28%、発動機で31.3%を占めるまでに育っていた。それを解いたのは占領政策で、航空機の製造は全面的に禁じられ、1950年の企業再建整備法によって富士産業は12社に分かれた。1953年に富士重工業を作ったのは、その12社のうちの5社である。事業を選んだのではなく、事業を奪われた技術者の集団が、残った工場と人で何を作るかを探すところから始まった会社だった。
その答えが軽自動車になったのは、国産乗用車への不満が誰の目にも見えていたからである。1955年の業界誌は、カメラも造船も世界水準に達したのに乗用車だけが一本立ちできないと書き、当時の代表車を20年前の設計の手直しだと切り捨てた。1958年のスバル360は、その空席へ飛行機の設計者が入って埋めた製品だった。量産の受け皿になった群馬製作所も、米軍に接収されていた旧中島飛行機太田製作所の払い下げである。工場も人も技術も航空機のもので、変わったのは作る対象だけだった。進出から5年で、主力はスクーターから軽四輪へ移っている。
中島知久平氏は『経済的に貧しいわが国の国防は、航空機中心にするべきであり、世界の航空情勢に追いつくには、民間航空機産業を興さなければならない』との考えから、民間による飛行機研究所として事業を興した。1917年5月、日本海軍の予備役中尉から退いた後、群馬県太田町に設けたのがその研究所である。1931年には株式会社中島飛行機製作所へ改組して規模を広げ、資本金も1937年3月に2000万円、1938年11月には5000万円へ増やした。1940年からは小泉製作所、三鷹研究所、大宮と宇都宮の両製作所を次々に建て、技術の水準でも生産の規模でも国内で屈指の航空機会社となり、終戦までに隼や疾風などの各種航空機2万4843機、発動機4万4695基を送り出した。
1945年8月の敗戦と同時に連合国軍最高司令官総司令部の指令で中島飛行機は富士産業株式会社へ改組され、航空機製造の全面禁止という占領政策の厳しい制約の下で事業転換を迫られた。1950年の企業再建整備法により富士産業は12社に解体され、日本最大級を誇った航空機メーカーは組織として一度解体された。分割された12社のうち富士工業、富士自動車工業、大宮富士工業、宇都宮車輌、東京富士産業の5社が払込資本金5000万円を共同出資して1953年7月に再結集する形で富士重工業株式会社が発足し、1955年4月にはこれら5社を吸収合併して資本金8億3050万円へと規模を固めた。中島飛行機時代の技術者集団が戦後の自動車産業で再び結集する出発点である。航空機メーカーの解体という占領政策の現実が、逆に自動車メーカーへの転身を促した皮肉な帰結が、後のSUBARUのアイデンティティを規定した。
五社が合同した1953年から1955年にかけての日本では、乗用車の国産化がなお課題として残っていた。1955年3月のダイヤモンドは、カメラや造船が世界水準に達したのに乗用車だけが一本立ちできず、国民が4割の保護関税を負担し続けていると論じ、当時の代表的な国産乗用車についても、旧来の設計を手直ししただけのもの、あるいは貨物車の車体に覆いをかぶせただけのものにすぎないと酷評した。国産乗用車への不満が誰の目にも見える形で語られていた時期である。富士重工業の側も、日本の経済基調と産業構造が大きく変わるという見通しのもとで五社合同の機運が醸成されたと後年に整理しており、五社を吸収合併した後は航空機の生産と修理の再開だけでなく、民需生産への進出をあわせて掲げていた。
1958年5月、富士重工業は軽自動車"スバル360"を市場投入した。開発を率いたのは、中島飛行機で偵察機「彩雲」を設計した百瀬晋六氏であり、独自のモノコックボディ構造と後部エンジン駆動方式という当時先進的な技術パッケージを開発した。同時期、業界誌は『カメラも造船も世界水準に達したというのに、乗用車だけがまだ一本立ちできない』『ダットサンはエンジン、シャシー共に、20年前の骨董品ボディーを若干お茶を濁したという代物』と既存乗用車への不満を表明し、国民車待望論が高まっていた。"てんとう虫"の愛称で親しまれたスバル360は10年以上にわたって生産が続き、1961年には『当社は1958年に系四輪乗用車へ進出、スバル360を発売した。これが、最近急速に売上げを増大して、当社の業績向上に寄与している』と評価された。量産の受け皿となった群馬製作所は、戦後に接収され米軍キャンプとして使われていた旧中島飛行機の太田製作所の払い下げを1960年10月に受け、設備を改装して開設したものである。航空機時代の生産基盤が、そのままスバルの増産設備として再利用された。
1960年代後半には自動車業界の過剰設備問題が深刻化し、1965年のダイヤモンドは『需要急増の予想された1959年〜1960年に、各社は大増設を計画、つぎつぎに新工場を建設した』『消滅する会社はどこなのか?』と再編の機運を伝えた。富士重工業は1966年発売の初代スバル1000で、水平対向エンジンと前輪駆動を組み合わせた。ただし販売網では新しい系列を起こさず、スバル360の特約店へ上級車を供給するワンチャネル政策を採った。新チャネル増設の資金を負担する実力が、当時はまだ備わっていなかったためである。資本自由化を前にした1968年10月、富士重工業は日産自動車との業務提携を締結した。仲介したのは日本興業銀行で、興銀の中山素平会長、日産の川又克二社長、富士重工業の横田信夫社長の三者が、日産グループの一員として生きる方針で合意している。当時のダイヤモンドは『F自身、とても単独では生き残れないメーカーである』『1対1の対等合併など夢物語になる』と観測していた。
スバル360は発売から数年で会社の形を変えた。社内の主力が、もともとのスクーター部門から軽四輪部門へ移り始めたのはこの時期である。1961年初めには、軽四輪乗用車に乗り出したことで売上が急に伸び、それが業績を押し上げるようになっていた。群馬製作所の新たな量産設備が完成し、プレス工場の増強も含めて増産が可能になったため、1961年のうちに月産4000台へ届く見込みも立った。1963年末の同社は旧中島飛行機時代の飛行機技術を軸に機械の総合メーカーを目指し、飛行機、スバル、スクーター、バス、車両、農業機械と製品を多角化していたが、そのなかで参入してからわずか5年で主力製品となったのが軽四輪のスバルだった。
軽四輪の量産が軌道に乗る一方で、自動車業界の全体は過剰な生産能力を抱え込んでいた。1965年に本格化した乱売戦の原因はすべてメーカーの側にあり、需要の急増が見込まれた1959年から1960年にかけて各社がいっせいに大増設を計画した結果であった。トヨタの元町、日産の追浜、いすゞの藤沢、プリンスの村山、東洋工業の組立工場、ダイハツの池田第二といった当時の新工場は、いずれもこの時期の産物だった。設備が先に立ち上がり、需要が追いつかないまま値引き競争へなだれ込んだ。富士重工業の増産もまた、この過剰能力の時代のただ中で進んだ。
プリンスは1964年に8万5104台を生産し、その52%を乗用車が占めていた。生産の半分超が乗用車という会社は、当時この1社に限られていた。同じ記事は、それならどこが消えるのかという問いにも真っ向から答えている。見立てによれば、プリンスは乗用車の行方が会社の行方にそのままつながるが、他社は他の車種も兼ねて手がけ、他業界と比べて蓄えも厚いので、短い間に姿を消すことはないという。航空機、鉄道車両、バス車体、産業機械を抱える富士重工業は、この見方に照らせば守りの利く側に立っていた。もっとも1968年5月のダイヤモンドは、前年に軽四輪でトップに立った同社が早くも5位へ後退したと伝えており、多角経営の厚みが自動車そのものの競争を免除するわけではなかった。
四輪駆動という商品は、富士重工業の技術者が机の上で構想したものではなく、雪のなかで電力設備を保守する現場からの注文で始まった。東北電力の配電部が宮城スバル自動車を通じて求めたのは、スバル1000バンを四輪駆動にできないかという一点であり、富士重工業はミッションに穴をあけ、プロペラシャフトを床上へ通すという乱暴な改造で試作車を組んだ。ここで効いたのが、小型車のために選んでいた水平対向エンジンの縦置きという配置である。前輪を駆動するために据えた機構が、そのまま後輪へ動力を伸ばすのに最も都合のよい形をしていた。差別化のために買い足した技術ではなく、すでに持っていた構造が別の用途で価値を持ち直した。
だからこの会社の強みは、市場を選ぶ力ではなく、選ばれた用途に応え続ける粘りにあった。レオーネ4WDは発売から3年近く月販100台に達せず、地方新聞社へ寄贈して走らせ、各地で小さな試乗会を重ねて買い手を一人ずつ増やすほかなかった。それが数として返ってきたのは国内ではなく、ネバダ州警察の救難隊が採用したアメリカで、1978年には輸出車の約半数を四輪駆動が占めるまでになる。ところが1980年代には反対の方向へ進んだ。日本興業銀行から来た経営陣が量産型の「ミニトヨタ」を掲げ、部品の共有比率が20%のまま車種を増やした。特定の用途で強い会社と、規模で競う会社とは、原価の作り方が違う。
1969年3月、富士重工業はスバル1000のエンジンの排気量を1100ccへ引き上げた。このとき車名もスバルFF-1に変わった。FFはフロントエンジン・フロントドライブ方式の略で、1という数字には国産の量産FF乗用車として先陣を切った自負を込めている。この頃の小型大衆車は、1000ccを主流として競争が始まった市場だった。カローラは発売当初から1100ccを載せ、「プラス100cc」の宣伝で勢力を伸ばしていた。サニー1000も1200ccへ移り、排気量の上乗せを競い合う様相が強まった。翌1970年7月には、1300ccで80馬力のスバルFF-1 1300Gを投入した。売上高は1970年3月期に976億円、1971年3月期に1168億円と伸びたが、水平対向エンジンと前輪駆動という構造の独自性は、排気量という一本の物差しで測られる市場では買い手に届きにくかった。
北米の販売は、1968年に設立した現地法人SOA(Subaru of America, Inc.)が受け持った。SOAは前年から輸入販売を始めたスバル360が振るわず、その不振をFF-1で挽回すべく小型車へ力を注いだ。小型車の輸出そのものは1967年、スバル1000を136台沖縄へ送ったのが幕開けだった。3年間で約40カ国に達した輸出先のうち、最大の実績はアメリカ向けで、1969年にはFF-1を5310台出荷している。東南アジアへの出荷も、翌年にはタイ462台、香港386台を数えていた。1970年は自動車専用船「明高丸」を優先使用契約で確保して輸送の手当てをし、同年の対米小型車輸出は倍の9047台に増えて、小型車の輸出全体のうち70%近くを占めた。台数の伸びを支えたのは、1969年2月から稼働していた群馬製作所矢島工場だった。
1971年8月、アメリカの新経済政策が発表され、富士重工業の輸出環境は悪化した。対米輸出は前年に小型車総輸出の70%弱を占めており、輸出の比重が高まったところへ制度の変更が当たった。売上高は1971年3月期の1168億円から1972年3月期には1103億円へ減り、経常利益も29億円から17億円へ低下した。国内では軽自動車の競争が続き、1972年7月には軽乗用車スバルレックスを発売している。規模で先行する各社と同じ物差しで測られる限り、輸出でも国内でも上位との差は縮まらなかった。
四輪駆動車の開発は1968年、ディーラーの宮城スバル自動車と共同で始まった。きっかけは、宮城スバルの大口需要先である東北電力配電部から寄せられた、スバル1000バンを四輪駆動にできないかという試作依頼だった。富士重工業は急きょ試作へ着手し、スバル1000バンのミッションに穴をあけ、プロペラシャフトを車内の床上へ通して1台の試作車をつくった。性能は上々で、技術本部に4WDプロジェクトチームが置かれた。1970年には本格的な開発へ入り、スバル1300Gバンをもとに20台を試作している。前輪駆動車の車体中央に縦置きされた水平対向エンジンは、四輪駆動化に最適の動力機構だった。この構造と四輪駆動の組み合わせは、のちに富士重工業の独特の技術として知られるようになる。
1972年9月、スバルレオーネ4WDバンを79万8000円で発売した。当面は月販200台の計画だったが、買い手は積雪地や山間地の業務用と特殊用途が中心で、1975年ごろまで月販100台に満たない状態が続いた。それでも1975年1月には、115万円のスバルレオーネ4WDセダンを追加する。レバー操作だけで前輪駆動から四輪駆動へ切り替わる全天候型で、四輪駆動の乗用車は日本で初めて、世界でも唯一だった。1976年1月からは地方新聞社と提携し、新聞社が地元へレオーネ4WDを寄贈する販売促進を始め、各地で小規模な試乗会を繰り返した。この時期に売上高は1975年3月期の1700億円から1976年3月期の2004億円へ伸びている。
四輪駆動車の輸出は1974年5月に始まった。スバル4WDステーションワゴンはアメリカで好評を博し、ネバダ州警察の救難隊が専用車に採用するなど、機能が多目的に使われて輸出台数は急速に伸びた。1977年10月には対米輸出用の多用途車ブラット(BRAT)を発売し、経済的なレジャービークルとしてアメリカに独自の市場を開いた。翌1978年にはオーストラリアで同じ四輪駆動車がブランビーの名で売り出され、同年には輸出車の約半数を四輪駆動が占めた。群馬製作所矢島工場の生産は1978年9月に月産6000台から8000台へ、1979年には月産1万台へ拡大する。売上高は1978年3月期に3079億円、経常利益は95億円へ伸びた。
1980年、富士重工業はリッターカー市場への参入を決めた。排気量1000ccクラスの乗用車では日本のメーカーのなかで最後発であり、他社との差別化を第一に考えざるを得なかった。出した結論は、得意とする四輪駆動と、電子制御電磁クラッチ式の自動無段変速機ECVTを載せることだった。無段変速機の要はオランダの変速機メーカー、バン・ドールネス・トランスミッシ(VDT)の特許にあり、1981年に共同開発を始めた。同じころVDTと組んでいたフォードとフィアットを措いて最も早く実用化できたのは、電磁クラッチの技術蓄積があり、変速機部門の設計者を1か月VDTへ送り込んだからだった。売上高は1980年3月期に4089億円へ達していた。
1984年1月の段階で同社は同年半ばの発売を公表し、運輸省の型式承認も取得していた。それでもジャスティECVTの発売が予告より3年遅れたのは、量産体制が安定を欠くことを理由に、VDTが計画の見直しを求めてきたからである。研究開発を本業とするVDTには、量産の経験も、品質を管理する技術もなかった。富士重工業側はベルトの内製も考えたが、VDTが自社での生産を譲らず実現しなかった。同社にできたのは、生産技術と品質管理を担う人員を送り込み、その知見を移すことにとどまった。当面、VDTの生産能力は月産500本で、ジャスティECVTも月産500台が上限だった。1985年6月に社長に就いた田島敏弘氏は、1987年1月19日の発表会で『本当に、永い春でした』と何度も口にした。
田島敏弘氏は日本興業銀行の副頭取から1983年に富士重工業の副社長へ入り、1985年6月に社長へ就任した。興銀との関係は1968年の日産グループ入りの合意にさかのぼり、日産との関係が疎遠になるにつれて、事実上は興銀が経営の主導権を握っていた。その下で進んだのは、自らの体力を忘れて量産型の「ミニトヨタ」を目指す路線である。車種の拡充はコスト増を招き、部品の共有比率はトヨタ自動車の60〜70%に対して20%程度にとどまった。1987年3月にはいすゞ自動車との合弁で北米の現地生産会社を設立し、1989年9月から生産を始めた。四輪駆動で開いた特定用途の市場と、規模で追う経営とは、この時期には別の方向を向いていた。
https://the-shashi.com/api/companies.json https://the-shashi.com/api/decisions.json https://the-shashi.com/api/api-manifest.json https://the-shashi.com/api/7270/company.json https://the-shashi.com/api/7270/history.json https://the-shashi.com/api/7270/ceo.json https://the-shashi.com/api/7270/financials.json https://the-shashi.com/api/7270/financials/segment.json https://the-shashi.com/api/7270/financials/pl.json https://the-shashi.com/api/7270/financials/cf.json https://the-shashi.com/api/7270/financials/bs.json https://the-shashi.com/api/7270/financials/employee.json https://the-shashi.com/api/7270/financials/stock.json https://the-shashi.com/api/7270/financials.csv https://the-shashi.com/api/7270/financials_history.csv | 時代 | 年月 | 社長・CEO | 出来事 | 重要度 |
|---|---|---|---|---|
| 1917〜1968年中島飛行機から富士重工業への再編、大衆車参入 | 飛行機研究所を創業 | ★ | ||
| 中島飛行機を設立 | ★ | |||
| 富士産業に商号変更・軍需から民需転換 | ★ | |||
| 企業再建整備法により富士産業を12社に解体 | ★ | |||
| 北謙治 | 占領政策で解体された旧5社の再統合による富士重工業の誕生 1953年7月15日、旧中島飛行機系の5社(富士工業・富士自動車工業・大宮富士工業・宇都宮車輌・東京富士産業)が出資する持株会社として、富士重工業株式会社が東京都新宿区に資本金1億円で設立された。初代社長には旧中島飛行機の常務で富士工業の社長を務めた北謙治氏が就任した。1955年4月に5社を吸収合併して旧中島系の工場群を1つの事業会社へ統合し、1958年のスバル360で乗用車メーカーへ転じた。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 北謙治 | 旧富士産業5社を吸収合併 | ★ | ||
| 吉田孝雄 | 乗用車「スバル360」を発表 | ★★ | ||
| 吉田孝雄 | 群馬製作所を新設 | ★ | ||
| 横田信夫 | 日産自動車と業務提携を締結 | ★ | ||
| 1969〜1989年四輪駆動への選択と集中 | 横田信夫 | 群馬製作所・矢島工場を稼働 | ★ | |
| 佐々木定道 | 4WD「レオーネ」を発売 | ★★ | ||
| 田島敏弘 | ベスパ社と合弁の大慶汽車工業を設立 | ★ | ||
| 田島敏弘 | 系列の垣根を越えた他社との組み合わせによる現地生産拠点の確保 1987年3月、富士重工業(現SUBARU)が、系列の異なる中堅いすゞ自動車と51対49の共同出資で米インディアナ州に合弁会社スバル・いすゞオートモーティブ(SIA)を設立し、北米での現地生産に踏み切った経営判断。田島敏弘社長の下で富士重工業が北米に構えた最初の生産拠点であった。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 田島敏弘 | 乗用車「レガシィ」を発売 | ★ | ||
| 1990〜1998年営業赤字からの経営再建とSUBARU Of America買収、埼玉製作所新設 | 田島敏弘 | 独自の流儀を貫いた指揮による本体黒字化への立て直し 1990年、北米事業の重い固定費と量産志向の誤算で営業赤字に転落した富士重工業が、日産から迎えた川合勇社長のもとで米国販売会社の立て直しと現場重視の経営に取り組み、5年かけて本体を黒字化させた再建。 詳細を読む | ★★★ | |
| 川合勇 | 販売会社SUBARU Of America Inc.を買収 | ★ | ||
| 川合勇 | 埼玉製作所を新設 | ★ | ||
| 1999〜2005年GMとの資本提携と鉄道車両・バス撤退、B9トライベッカと提携解消 | 田中毅 | 20%の出資受け入れと、主体性を保ったままのグループ入り 1999年12月、富士重工業は米ゼネラル・モーターズ(GM)から20%の出資を受け入れ、主体性を保ったままGMグループに入る資本提携を締結した。田中毅社長が主導し、水平対向エンジンと四輪駆動の技術を中心にGMとの相乗効果を狙った経営判断。 詳細を読む | ★★★ | |
| 竹中恭二 | 鉄道車両・バス車体製造から撤退 | ★ | ||
| 竹中恭二 | 北米市場への集中とクロスオーバーSUVの本格投入 2005年、富士重工業(スバル)は米国デトロイトの自動車ショーで7人乗りクロスオーバーSUV"B9トライベッカ"を発表し、北米を主戦場とする製品戦略を対外的に明確にした。2003年に単独化した米インディアナ工場(SIA)を生産基盤に、レガシィ・アウトバックに続くSUVで北米市場の深耕を進めた経営判断。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 竹中恭二 | GMと提携解消 | ★ | ||
| 2006〜2016年トヨタとの業務提携と出資比率引き上げ、アイサイトと風力発電事業の売却 | 竹中恭二 | トヨタ自動車と業務提携 | ★ | |
| 森郁夫 | 出資比率16.5%の受け入れと、実質的なグループ入りの選択 2008年4月10日、トヨタ自動車は富士重工業への出資比率を8.7%から16.5%へ引き上げ、富士重工業が2005年にGMから買い取って抱えていた金庫株を約311億円で取得した。あわせて小型・軽自動車のOEM供給とスポーツ車の共同開発で提携を拡大し、富士重工業は実質的なトヨタグループ入りを選んだ経営判断である。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 森郁夫 | 運転支援システム「アイサイト」を開発 | ★ | ||
| 吉永泰之 | 風力発電システム事業を日立に売却 | ★ | ||
| 2017〜2026年SUBARUへの改称と汎用エンジン撤退、トヨタとの資本業務提携 | 吉永泰之 | SUBARUに商号変更 | ★ | |
| 吉永泰之 | 汎用エンジン・発電機事業から撤退 | ★★ | ||
| 中村知美 | トヨタ自動車と資本業務提携で合意 | ★ | ||
| 大崎篤 | 重要な業務執行の決定を取締役へ委ね、取締役会の過半数を社外取締役とする選択 2026年6月24日開催の第95期定時株主総会で第2号議案「定款一部変更の件」が承認可決され、監査役会設置会社から監査等委員会設置会社へ移行した。取締役会の構成員は8名から11名となり、うち4名が監査等委員である取締役である。 社外取締役は3名から6名へ増え、取締役会の過半数を占めた。監査等委員4名のうち3名が社外取締役で、常勤の監査等委員を1名置いている。定款の員数枠は取締役15名以内で、うち監査等委員である取締役は5名以内とした。 詳細を読む |
免責事項およびポリシー
事実根拠:出所(SUBARU)